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気付き

 爽やかな風が香り、新緑が眩しい季節だ。

 璃帆と藤崎は「藤まつり」に来ていた。この辺りでは、1番有名な藤棚がある。全長275m。12種類もの藤があり、その中でも九尺藤は、その名の通り1房が2m以上のものもあり、下を通れば、芳醇な香りが漂う。

 白、紫、薄紅色に、八重と、色も形も意外と種類があるのを、来るたびに思い出して感動する。


 ここには大きな池があり、中島もある。中島の周りには、水面に蓮の花が咲き乱れ、「蜘蛛の糸」を彷彿とさせる。ここにも藤棚があるので、この季節はこちらも観光客が溢れていた。今では珍しくなった足漕ぎの白鳥ボートまであり、家族連れがけっこう乗っていた。

 この池は藤棚まで続いていて、この時期だけ遊覧ボートも運航している。水上から藤を眺めようという、風情あるイベントだ。


 夏になると、近くにある神社の神事である祭りが行われる。夜になると、500余りの提灯をつけた「まきわら船」が出され、信長や秀吉も愛でたといわれる、優美な情景を作り出す。600年続く伝統行事とのことだ。


 璃帆は、藤棚の下の人混みに、思わず藤崎の服の裾を握る。藤崎は背が高いので、こんな混雑の中でも、スイスイ歩いていけるらしい。

 服を引っ張られる形になり、気が付いた藤崎が、思わず足を止めて璃帆を見た。

 おもむろに璃帆の手首を掴んだと思ったら、そのまま自分の手に繋ぎ直して、

「これで、いい?」

 と微笑んで言う。璃帆は安堵して2度ほど頷いた。

 あとは、何事もなかったかのように、2人でゆっくり歩き出した。さっきまで、璃帆の少し前を歩いていた藤崎が、やっと璃帆と並ぶ位置に下がる。


 藤崎は不思議な気持ちで歩いていた。横目でチラッと璃帆の顔を盗み見たが、璃帆は手を繋いだところで、特段照れた様子もなく、まるでそれが当たり前のことように、歩き続けている。実際、自分もドキドキしているというよりは、安心感のほうが強いのだ。ずっと前からこのぬくもりを知っているかのような錯覚に陥る。何だろう……。初めての感覚だった……。


 璃帆は、藤の香りに包まれながら、藤崎の言葉を思い出していた。

 あの日、連絡先を交換したあと、最初に藤崎に謝られた。「君を傷つけたのではないか」と。

 璃帆が、泣いたのは藤崎のせいではないと何度言っても、彼は納得しなかった。

 実は、自分でもどうしてあんなに涙が溢れて止まらなかったのか、分からなかったのだ。


 ――どうして君は、いつもそんなに泣いてるんだ


 あの時、あの言葉を聞いて、夢が瞬時に甦った。あの、暗く冷たい所にいる夢だ。

そして、ひどく救われた気がしたのだ。その日、その夢は見ることもなく、本当に久し振りによく寝られたのだ。

「きっと、藤崎さんのお陰だと思います。夢も見なくて、よく、寝られたので……」

 と事実だけ話したが、

「夢?」

 と問われ、そのことは誰にも話していなかったことに気づく。

「あっ、いえ、なんでもありません……」

 思わずごまかしたが、藤崎は一瞬苦痛を滲ませる目をして、こう言ったのだ。

「まさか、ずっと泣いている夢ではないでしょうね……」


 驚くのを通り越して、唖然としていると、終電がホームに入ってきてしまって、藤崎とはそのまま分かれたのだ。

 その後、やはり藤崎の仕事が忙しく、会うことがかなわなかった。LINEや電話で連絡だけは取っていたのだが、あの会話については、お互いに触れなかった。


 結局あれから10日が過ぎ、今日、初めてのドライブデートということになったのだ。

 ここまでの道中も、言い出せずに終わってしまい、途中分かったことと言えば、2人が同い年だってことくらいで、だから「璃帆ちゃん」「藤崎君」となった。


 藤崎といると、心が楽でいられる。最初からだ。あの、電車から降ろしてもらった時から。

 今も、初めて手を繋いでもらったが、安堵感と一体感の方が強くて、昔、初恋の彼と初めて手を繋いだ時のような、ドキドキ感はない。

 むしろ、手を繋ぐことが、当たり前のように思えて、その手のぬくもりは、私の体の一部の様な錯覚さえ覚える。今、逆に手を離すと、きっとすごい焦燥感にかられるに違いない。身に着けていたものを、無理やり剥がされたような気持になるような気がした。

 

「今度の木曜日のことだけど、チケットがまだ手元に届いてないんだよね。ちょっと、焦ってる。大学の先輩の会社の福利厚生でさ、先輩が行けなくなったからって回ってきた、野球の特別シートなんだけど」

「木曜日って、藤崎君、彼女とデート? 私も、予定聞かれた気がするけど……」

「君とデート……」

「そうなの?」

「そう!」

「わぁ……。喜ぶところね」

 この子は、天然なのかと、藤崎は意外に思う。あんな風に泣いていた姿ばかりが脳裏に焼き付いていたので、璃帆本人の性格も、どこか暗いイメージを想像していたのかもしれない。もしかしたら、全然違うかもしれないと、楽しんでいた。

 璃帆はニコニコして、手を繋いだまま、藤崎の横で花と香りを堪能している。


 璃帆が藤の写真を待ち受けにしたいというので、背の高い藤崎に指名がかかる。なるべく花のアップ画像を撮ってあげたくて、璃帆の手を一旦放した。すると、璃帆が小さく「あっ」といって、離された手を宙に浮かせたまま、藤崎を下から見上げていた。その顔が、迷子かの様に不安そうで、藤崎の心臓を波打たせる。

 慌てて、手を握り直した。

「ごめん、怖かった?」

「ううん、もうこれで、大丈夫」

 といって、繋いだ藤崎の手を、大事そうに見ていた。

 思わず抱き締めたくなる。さっき初めて繋いだときは、あんなに普通にしていたのに、離した途端にあの顔は、ずるい。いちいち理性が吹っ飛ぶ。この子と付き合うのは、結構強い自制心がいるのではないかと、一瞬不安になった。


 ここの池には、フェンスがない。普通これだけ大きい水辺には、車が落ちないように車止めがあったり、人が落ちないように手すりやガードレールがあっても、不思議ではない。そのどれも、全くない。景観を重視してのことだろうが、よそ見しながら歩いたら、うっかり落ちそうな恐怖がある。

「ここ、少し怖いね」

「柵を設置しなくてはならないという、規定はないんだ。逆に高すぎてはいけないとか、そちらの規定があるだけ。まぁ、行政単位にもよるけど。多分、いつもはこんなに水位が高くないんじゃないかな。地面とすれすれだから、怖く感じるんだね」

 藤崎は設計士だから、つい何でも答えてくれそうで、色々聞いてしまう。都市開発とか、大学時代には、そちらをかなり勉強したらしいが、大手ゼネコンに就職する気は元々なく、デザインの方に気持ちは向いていったそうだ。今は、一級建築士を8人程抱えた、設計事務所に勤めている。いずれは、独立するのが夢だと言っていた。


 後ろで子供たちがはしゃいでいる声がする。ここは公園にもなっていて、遊具がたくさんあるから、家族連れも安心して来られるのだ。

 元気に兄妹が追いかけっこをしていた。お兄ちゃんは小学校に行っている年だろう。妹は、まだ3歳手前くらいだろうか。お兄ちゃんは加減しながら逃げていた。

 

 璃帆は、子供が苦手だった。怖いと感じてしまう。自分は近づいてはいけない気がするのだ。自分では守り切れないという、漠然とした不安が拭い切れない。将来、子供を持つことなどは、今はとても想像できない。

 

 それでも、かわいい兄妹の姿は、心を和ませる。目で追っていた。

 妹が全ての体重と勢いでもって、お兄ちゃんに追いつく。と、その抱き付かれた勢いのまま、お兄ちゃんがつんのめってしまった。ここで、転べばよかったのだが、なんとか体勢を持ち直そうと頑張ったのが、却って仇となった。

「あっ!」

璃帆が思わず叫んだ。

 そのまま、よろよろと池に落ちてしまったのだ! 悲鳴が上がる。ここの池は、深い。夏祭りのときは、「まきわら舟」を曳ける程深いのだ。

 水面で、子供がもがく。もがくほど、池の中央に行ってしまう。周りに大勢の大人たちがいたが、動けない。母親は近くにいるのだが、3人目がお腹にいるのは、すぐ分かった。父親が気が付いて走って来たのだが、アルコールで顔が真っ赤だった。それでも、池に入ろうとしていた。


 その時、藤崎が動いた。飛び込むつもりなのだろう。上着を脱いで、靴も脱ごうと手を掛けた。


「ダメ!」

 璃帆が、すごい力で藤崎を止めていた。

「ちょっ、璃帆ちゃん、離して。大丈夫だから、俺、大学のとき、水泳部だったんだ!」

「あかん! 行っちゃあ、あかん!」

 全身で止める。藤崎の前に回りこんで、渾身の力で抑える。

 このままでは、璃帆まで一緒に飛び込むことになってしまう。

「璃帆ちゃん!」


「兄ちゃん、いい! ワシ等が行くから!」

 細い入り江から大きな声がしたかと思うと、遊覧ボートがすごいスピードで前を通過する。

 すぐに子供のところに到着して、浮き輪が投げ込まれた。上から大人が一斉に、子供の手を引っ張る。

 ゴボゴボと水を吐きながら、無事救助された。ほんの5分程の出来事である。


 ホッとして、藤崎は力を抜いた。が、璃帆の力がまだ抜けない。逆に、押されていってしまう。

「璃帆ちゃん、落ち着いて。もう、大丈夫だから、飛び込まないから」

 目が据わっているというのは、こういうのを言うのだろう。頭を振りながら、一心不乱に藤崎を抱え込む。


 藤崎は、混乱した頭で考えていた。璃帆は今、凄いアドレナリンが出ている。これは、まずい。このままでは、ぶっ倒れてしまう。落ち着かせるには、どうしたらいい……。

「璃帆! しっかり、聞いて。どうすれば、いいんだ!」

 と叫ぶ。

 璃帆は、とにかく水辺から離れろと、全身の力を込めて意思表示をする。そういうことか!

 藤崎は璃帆の腕を掴むと、どんどん水辺から璃帆を離していく。土手まで来たが、まだダメだろう。そのまま、そこに作られた階段を上る。土手の上まで来て、そこにあった石造りの東屋に璃帆を座らせた。


「ゆっくり、息を吐くんだ。そう。ゆっくり、吸って。続けて……」

 璃帆の目が、ゆっくりと焦点を戻していく。確か、璃帆のカバンにはペットボトルのお茶が入っていたはずだと思い出す。

「ごめん、カバン開けるから」

 璃帆が自分で動こうとするのを、藤崎は止める。

「動いちゃダメだ。動かないで。じっとしてて」

 アドレナリンを止めるためには、とにかく体の動きを止めるのが1番早い。本当は、体を横にしてやりたいが、ここでは無理だ。

 藤崎は璃帆の体を後ろから支えられる位置に座りなおし、璃帆の体を自分に預けさせる。後ろから抱えるようにして、ペットボトルを璃帆の口に当てて、一口飲ませた。


 璃帆の体から、やっと力が抜けた。意識も戻ってくる。いや、意識はあるのだが……。

「璃帆ちゃん、分かる?」

「……、わたしどうしちゃったの?」

 こっちが、聞きたい。藤崎は、さっきの状態を説明していいのか迷いながら、言葉を捜した。

「子供が池に落ちたの、覚えてる?」


 璃帆は、さっきの光景を思い出す。池の周りにあったボート乗り場や、小さな公園や駐車場はもちろん、そこに居た人々の姿まで無くなっていた。

 ただ、広い池……ではなく、あれは川だった。流れの激しい、川だけが目に映った。あれは、今の時代のものではない。川に浮かんでいたのは、猪牙舟というのではないか……。藤棚もないのに、その芳香だけが、辺り一面を包み込んでいた。

 あの轟音の中に、藤崎が入っていこうとしている。

「行っては、いけない。行けば、死んでしまう。良太の様に……」

 その後が、ほとんど思い出せない……。

「良太……、あぁ」


 また、意識がここから離れていく璃帆の顔を見ながら、藤崎は後悔する。

「璃帆!」

 璃帆がハッとして、ゆっくり藤崎を見た。

「ダメだよ。今は、他のことを考えちゃ。自分のことだけを考えて。じゃないと、体が、もたない……」

「藤崎君……、よかった。川に入らなかったのね?」

「君が、止めたんだ」

「……そう、だったね」

 答えながら、璃帆はやっといろんなことが繋がってきた。あれは、私が、止めたんじゃない。


 ――あかん! 行っちゃあ、あかん!

 

 あれは「しづ」さんだ。夢で、冷たくて暗い場所に居続ける、悲しみだけが全てを支配している、良太の母の、しづ。

 私は、かつて、しづとして生きていた……。どうして、こんなことが手に取るように分かるのだろう……。


 自分を落ち着かせるため大きく息をひとつして、璃帆は藤崎から体を離した。

「子供、大丈夫だったの?」

「ああ。遊覧ボートが、救助して。ちゃんと、その役目も果たしてるみたいだね。訓練された様子だったから。」

 さっきの、オヤジさんたちを思い出しながら、藤崎が説明する。

「よかった……」

 これを聞いた藤崎が、大きく息を吐く。

「よかったじゃ、ないだろ!」

 キョトンである。よく分からないが、藤崎が、怒っている。

「いい!? あれは、凄く危険な状態なんだよ。体、どこも、何ともない?」

 と聞かれ、璃帆は改めて気持ちを自分に向けた。

「痛い……かも」

 と藤崎を見つめる。右手をそっと、差し出した。

「ちゃんと、見せて」

 丁寧に、右手首の間接を動かしたり、「これは、痛い?」とか、聞いてくる。お医者さんみたいだ。

「捻挫してるね。骨は大丈夫そうだから、よかったよ。ちゃんと、手当てしよう。これは、腫れるよ」

 可愛そうに、とでも言うように、頭を撫でられる。心地よい。


「あれは、いわゆる「火事場の馬鹿力」だから。普段掛かってる体のリミッターが、全て外れた状態になってたんだよ。だから、筋肉や骨や、限界を簡単に超えちゃうんだ。凄く危ないんだよ!」

 一呼吸置いて、少し落ち着いた声で、藤崎は続けた。

「どうして、あんな風になっちゃったの?」

「……藤崎君を止めようとして……」

 しばらく考えていた璃帆が、諦めたようにつぶやいた。

「あとは、覚えてない……」

 しづのことを話して、藤崎は分かってくれるだろうか。伝えてみても、いいのだろうか。考えることを諦めた璃帆は、藤崎の胸に、ポフッと倒れこんでしまう。

「藤崎君といると安心する。何でだろう……。ダメだなぁ、私……」


 突然の璃帆の態度に、藤崎は、驚く。決してダメではないが、急だとやっぱり理性が……。

「ありがとう。迷惑掛けちゃった。でも、藤崎君がいてくれれば、何とかしてくれそうで安心かな……」

 と、言いながら、藤崎の胸に手を置き、体を離そうとしている。さっきの不安は当たったらしい。藤崎は、自分にはそこまでの自制心はないと自覚した。

 離れたかけた璃帆の体を引き寄せ、そのままそっとキスをした。唇が触れただけなのに、溶けそうになる。

 璃帆は少し驚いていたが、小さく微笑むと、恥ずかしそうに、藤崎の胸に体を預ける。

「やっぱり、何とかしてくれる。右手、もう痛くないかも……」

「治って、ないから……」

 藤崎は、璃帆をもう一度そっと抱きしめた。


 救急車が到着した。璃帆の手当てをしたいから、もう帰ろうという藤崎に、救急車が出るまで、見送らせてと頼む。しぶしぶ、承諾してくれた。

 

 堤防の上の東屋からは、救急隊の動きが、よく見えた。子供は、ちゃんと意識があった。

「落ちた本人は、びっくりはしただろうけど、きっとそんなに大変じゃなかったと思うよ」

 藤崎が、突然不思議なことを言い出す。

「俺さ、小さい頃に、川で溺れたことがあるんだよ。まだ、幼稚園の頃。小さい魚捕まえるのが好きで、よく1人で近くの小川に行ってたの。子供の足でもふくらはぎくらいの深さだったから、大人もそんなに心配してなくて。どうして溺れたのかは覚えてないんだけれど、あの光景だけは忘れなれないだ」

 一呼吸おいて、藤崎は続ける。

「笑わないって、約束できる?」

 そう言っている藤崎は、微笑んでいる。何度も、笑われてきたんだろうか……。璃帆は、無言でうなずいた。


「お釈迦さんが、見えたんだ……」

 そういうと、藤崎は更に遠くを見つめる目になった。

「金色の光に包まれててね、優しい顔をしていた。ついて行きたいって思ったよ。怖くもなんともなくて……。あの時の幸せな気持ち、今でも覚えてるよ」

 その時の事を思い出しているのか、藤崎は今まで見たこともないような優しい顔になっていた。

「まぁ、その後助けられたときは、苦しかったけどね」

小川にうつ伏せに浮かんでいた藤崎を、近所のおじさんが服の襟ぐりを掴んで、引き上げてくれたらしい。


「だから、大丈夫。そんなに苦しくなかったから」

 視線を璃帆に戻した藤崎が、笑っていた。

 ()()()()()()()……!?

「良太……!」

 璃帆がつぶやく。声になっていた。藤崎は、思わず動きを止めた。

 まっすぐ自分を見ている璃帆の目から、ホロホロ、ホロホロと涙がこぼれ落ちる。


 目の前に良太がいる。藤崎に重なって、良太がいる。体が透明で、透けているから、藤崎の表情も分かる。藤崎は、目を見開いていた。

 良太はにっこり笑っている。元気だったときの良太のままだ。7歳の良太のまま。

 足首より1尺は短い木綿の着物を着て、腰の帯はあっちの方向に曲がっている。

「母ちゃん、大丈夫。全然苦しくなかったよ」


「良太、良太」

 璃帆は、目の前の良太を抱きしめる。慟哭が璃帆の体を突き抜ける。

「ごめんよ、ごめんよ、母ちゃん、お前の手を離してしまった」

 声になっているのか、心の中だけで叫んでいるのか、もう分からない。


 場所は、この池、いや川だ。間違いない。何日も前から雨が降っていて、川面は暴れる龍のごとくになっていた。よく氾濫する川だったのだ。

 どうして良太がそんな川に近づいたのか、今ではもうすっかり分からない。気が付いた時には、良太は溺れていた。私は、躊躇なく川に入った。川は、すごい力だった。

 一度だけ手が届いたのに、すぐに離してしまった。その途端、私の頭に何かがぶつかった。あれは、流れてきた丸太だったのだろうか。そのまま、体が沈んでいく。そこで見たのは、遥か先でゆっくり沈んでいく良太の姿だった。

 あぁ、助けられなかった。その絶望が、私を支配してしまった。私は、今も川の底にいる。冷たくて、暗い、川の底にいる。体の上に大きな岩があって、浮き上がれない。涙が後から後から、流れ続ける。


 藤崎は、璃帆にいきなり抱きつかれて、身動きが取れない。

「良太って、誰だ……」と思いながら、さっきまでの璃帆とは別人かのような様子に、どうしたらいいのか分からない。

 この涙は、見た記憶がある……。そうだ! あの、電車のガラスに映って、いつまでも泣いていた、女性の涙だ。あれは、やはり、璃帆ではなかったのか……。


 その時、突然誰かの声が、頭の中で響いた。

「母ちゃん!」

 えっ!? 小さな男の子の声だ。藤崎は、心の叫ぶまま、急かされる様に、声にした。

「母……ちゃん……」

 思わず璃帆の体を、ゆっくり抱きしめる。自分の気持ちからではなく、心に突き動かされて。そして、頭の中に流れ込んでくる感情を言葉にした。

「一緒に、行こう」

 璃帆の体が、一瞬小さくビクついたかと思うと、そのままふわりと力が抜けた。


 璃帆は、良太の母しづが、川底から上に登っていくのが分かった。

 良太がしづの上にあった大きな岩を、取り除いてくれたのだ……。いや、もともと、とっくにそんな岩はなくなっていたのだが、しづが思念としてその岩を手放さなかったため、そこにあり続けたのだ。良太の手をやっとつかんで、一緒に登っていく。

 

 良太は、亡くなってすぐ、次の段階に行けたのに、母がこちらに心を残してしまったので、心配で行けずにいたのだ。

「今、やっと母ちゃんが俺の声に気づいてくれた」

 と笑っていた。藤崎の実態のある声だからこそ、届いたのだそうだ。それだけのことが、あっという間に頭に流れ込んできて、理解ができた。

 体の力が抜けていく……。


 璃帆は、やっと気持ちが、自分に戻ってきていた。

「璃帆ちゃん、どういうこと……」

 藤崎が、璃帆の肩に手をかけて、ゆっくりと聞いてきた。

「あの声は、誰? 男の子……」

「あれは、良太。」

「じゃ、泣いてた人は……」

「しづさん、良太のお母さん」

「最後に見た、すごい光は、何?」

「それは、私は、見てない……」

 きっと、ちゃんと行けたのだと、璃帆は思った。


 ぼう然とすることしかできない藤崎に、璃帆は目を見て声を掛ける。

「ねぇ、どうして今日、ここに連れてきてくれたの?」

「それは、君が藤を見たいって言ったから、ここしか思い浮かばなかった……」

 やはり、そうか。今日、ここに来たのは、良太に呼ばれたのだ。

「もう1つだけ、教えて」

 分けが分からないという顔の藤崎が、それでも応えようと璃帆の言葉を待つ。

「どうして、私が泣いている夢を見ていたと、分かったの?」

「それは……、初めて君を見たときから、君はずっと泣いていたから……」

 彼には、しづがずっと見えていた……。璃帆は、胸が一杯になる。

 藤崎の頬に両手を当てて、おでこをそっと合わせた。

 

「会えてよかった……」


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