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出会い

 藤崎は電車の窓から、流れる夜を眺めていた。

 このところ、戸建ての顧客ばかりが重なり、帰宅が遅くなっている。戸建ての場合、どうしても打ち合わせが、施主の在宅時間に合わせての訪問になるため、終業が遅くなるのだ。

「今日の施主の要望は、ちょっと厳しいな。積算、もう少し検討し直してみるか」

などと考えながら、ふと視線をずらした。

「……!」


 そこに、泣いている女性の姿があった。


 電車の外ではない。乗客がガラスに映りこんでいる。その1人が、立ったまま、つり革を握って、ポロポロと泣いているのだ。

 びっくりして、思わず後ろを振り向いた。そして、もう一度驚くことになった。


 実際の彼女は、泣いていなかったのだ。


 普通に立って、つり革に掴まりながら、電車の揺れに踏ん張っているだけだった。

 瞬時に、もう一度ガラスの方を見直すと、もうそこに映っているのは、「泣いていない」彼女だった。

「俺、よっぽど疲れてるな……」

 と独りごち、今日は早めに寝ようと、ため息をついた。


 2日後、同じ時間帯の帰宅になったとき、ホームで彼女を見かけた。あぁ、この駅から乗っていたのかと、さすがに先日の印象が深く、一目見て気が付いた。同じ車両に乗ろうかどうしようか迷ったが、好奇心のほうが勝ってしまい、乗ってしまった。

「ストーカーかよ、俺は」

と自嘲しつつ、何となく全身を確認してしまう。

 髪はセミロングで、ほんのり薄く色が入れてある。スーツでもビジネスパンプスでもないけれど、通勤着にこなれ感があるから、OLであることは間違いなさそうである。身長は160cmくらいかな。痩せてもいないし、太ってもいない。何より、整った顔をしていた。

「やっぱり、ストーカーだな」

手が、ネイルもしていない指が、とても綺麗だった。好みのタイプだと確認してしまった。


 ずっと、ガラス越しに彼女を見つめてしまう。目が合うんじゃないかとドキドキしたが、何事もなく時間が過ぎた。

「やっぱり、気のせいだったんだよな……」

 と思い直して、もう見るのは止めようと思ったその時、彼女がドアのそばに移動した。

 そして……、やはりその頬には、涙がこぼれだしたのだ。


 藤崎は、心臓がえぐられる思いがした。別に自分が何か悪いことをして泣かせたわけではないのに、動揺がハンパない。近づいていって、何とかしてあげたくなる。

 男は女の涙に弱いというが、藤崎だって29歳にもなるのだから、今まで目の前で女性に泣かれた経験が、ないわけではなかった。その度毎に、申し訳なかったり、愛おしいと思ってきたりしたのだ。

 だが、彼女の涙は、それとは違う気がする。思いを説明できない……。


 電車が駅に入った。

「あぁ、確かここで彼女は降りるんだった」

 と、一旦ガラス越しの彼女から目を離す。案の定、彼女はこの駅で降りた。そのために、ドアの近くに移動したらしい。

 そして、電車を降りた実際の彼女は、やっぱり泣いていなかった。

 目の前のホームを移動していく彼女は、涙の後もなく、パスケースを取りだすべく、カバンを探っているだけで、悲しそうな様子も、ひどく疲れた様子もなかった。


「何なんだ……」

 今日は見間違いではない。彼女はドアのまん前にいた。そして、瞬きをする度に、その頬には新たな涙が流れ続けた……。断じて、見間違いではない。

「どうしたんだ、俺は……」

 怪奇現象には、縁がないんだ。確か誰かが、20歳までにそういったものを見なければ、その人は一生見ないといってなかったか。参った……。


 そこで藤崎は、考えるのを一旦止めてしまった。

 まず、出会わないように電車の時間を変えたし、万が一見つけても、同じ車両に乗らないようにした。我ながら、肝が小さい男なのかもしれないと、情けない気持ちにまでなっていた。

 言い訳がましいが、一度だけ試したことはある。もしかしたら、彼女自身がこの世に存在しないのかもしれないと考え、触れてみようと思ったのだ。ホームで追い越すふりをして、軽くぶつかってみた。

 そこに、実態はあった。「すみません」と言えば、「すみません」と返ってきた。

 その後も、彼女がよろけたお婆さんを、手助けしたのを見たことがあったし、満員電車で、小さな子供が彼女の前に来たときには、その子を庇う様に必死で空間を作ったりしていた。

「どんだけ、観察してるんだ、俺」

 

「もうやめよう。本当にストーカーだ」

 と心に言い聞かせ、彼女に会わないことだけを考え、毎晩家路についた。

 ところが、あの日、藤崎はミスをした。ここのところ、帰りが更に遅くなっており、ずっと彼女に会うことがなかったため、油断していたのだ。いつもの時間になってしまっていることも忘れ、しかも駆け込み乗車だった。


 乗り込んだ車両に、彼女がいた。


 彼女がいるとなれば、どんなに理性を働かせても、無視はできなかった。あの涙は、一度藤崎を捉えてしまっている。

 ありがたいことに、今日彼女は、ガラスに姿が映らない場所にいた。ドアのすぐ横の壁沿いだ。ホッとして、彼女の降りる駅まで平和に過ごしていたのだが……。


 駅に到着しても、彼女が降りないのだ。出口付近の乗客は、そろそろ皆降りてしまうのに、彼女が降りようとする気配がない。よく見ると、ぼぉっとしているように見える。

 ホームのベルが鳴る。まだ、降りようとしない。今日は、何か用事があって、この駅で降りないのかもしれない。でも……。


 考えるより先に、体が動いていた。

「ここで、降りませんか?」

 藤崎は彼女に声を掛けた。我に返った彼女の一瞬の焦りを見て取り、腕を掴んで一緒に降りていた。その途端に、扉が閉まる。


「……あの、ありがとうございました」

 ぼう然と藤崎を見つめて、璃帆はお礼を言った。

「本当に、ここで降りてよかったんですか? 今日は、もう少し先まで行かれる予定だったとか……」

「いえ、ちょっと、ぼぉっとしていて……。降りて正解です」

「正解」という言い方に、少し笑ってしまった藤崎を見て、璃帆は急に現実に戻った。

「あの、どうして、分かったんですか?」

 藤崎は、聞かれるだろうと準備していた言葉を返した。

「以前、何度か降りるところを見かけたことがあったので」

 いかにもベタないい訳だったが、本当のことを言うよりは、よっぽど信憑性があった。

 璃帆は不思議そうに少し顔を傾けたかと思ったら、ニッコリ笑って「出ましょうか」と、改札に向かおうとしている。


 初めて璃帆の笑顔を見た藤崎は、あらためて綺麗な人だと思った。そして、今、目の前にいる人は、あの涙の女性とは別人のようにも感じていた。


「俺、実はもう少し先の駅なんです」

「えっ!」

 さすがに璃帆の顔色が変わる。

「そんな、わざわざ私のために、途中下車させてしまったんですか……。本当に、すみません」

 と、深々と頭を下げる。


「かまいません。すぐ、次が来ますし、家に帰るだけですから」

 一瞬、困惑顔になったが、小さく決心したように璃帆は続ける。

「お詫びに、次が来るまで、一緒に待ちます。ご迷惑でなければ……」

 藤崎は思わず顔がほころびかけて、でもなんとか平静を装った。ここで断るほど、野暮ではない。

「座りませんか」

 きっと、今一番前に並んだところで、次の電車でも座れないだろう。この時間は、2度目の帰宅ラッシュ時間なのだ。会社帰りに一杯飲んだ会社員が、帰宅する時間。


「よく、この時間ですね。仕事、忙しいんですか? それとも、習い事か何かですか?」

ちょっと踏み込み過ぎかと思う質問だったが、案外素直に彼女は答えてくれた。

「いつもはもっと早い時間なんです。この1ヶ月だけ、新人教育があって。そこに、急な仕事が重なってしまったので。でも、それも明日で終わりです」

「そうですか。それは、大変でしたね」

 明日で終わりと聞いて、もうあの涙を見なくていいのだと、ホッとしている半面、もう会えないかもしれないのだと、不思議な焦りも感じていた。

「それにしても、ちょっとお疲れのようだ。」

 降り損なうところだったことを言っているのだろうと、璃帆は思う。

「少し、よく寝られない日が続いていて……。電車に乗ると、ぼぉっとしてしまって」

 この所、同じ夢を見ていた。暗く冷たい所に私はいて、動けない。なぜだかひどく悲しくて、涙がとめどなく流れ続ける……。

「そうですか……。今日は、寝られるといいですね」

 まっすぐこちらを見るわけではなく、ほんの少し顔だけこちらに向けて、静かに語りかけてくる。優しい人だなと、璃帆は感じていた。押し付けがましくなく、理性的な話し方だ。

「建築関係のお仕事ですか?」

 話題を変えるように、璃帆が聞いてきた。逆に驚いて、藤崎は問い返してしまった。

「どうして、分かりました?」

「それ、製図入れですよね」

と、まさしく製図入れを示して確認している。

「以前、個人の設計事務所にお世話になっていたことがあるんです。短い間でしたから、詳細図までは描けませんが、平面図とかパースとか、日影図ぐらいまでなら描いてました」

 今度は、藤崎が唖然とする番だった。驚きよりも、嬉しさの方が先に立つ。

「同業者でしたか。何だか、うれしいな」

 その言葉を聞いて、彼女は少しはにかんだ。可愛い人だなと、思う。

「今、戸建ての仕事が重なっていて、今日は割と早く終わった方です」

「あぁ、戸建てだと訪問時間が遅くなりますものね」

 こんなに、楽に会話ができるのかと、じっと彼女を見つめてしまった。自然と笑顔になる。

「今は、何のお仕事なんですか?」と聞こうとしたら、

「せっかく早く帰れた日に、こんな余分な時間を取らせてしまって、すみませんでした。本当にありがとうございました。助かりました」

 と、急に2人の間に距離ができたかのように、最初の会話に戻ってしまった。

 璃帆は席を立った。次の電車が間もなくホームに入ると、アナウンスが流れていた。


 電車の扉が開き、降りる人たちを待つ。その間、藤崎は璃帆の顔をそっと確認して、安心する。彼女は微笑んでいて、見送ってくれるらしい。その姿が、外から電車の窓に映った。

 

 それを見た藤崎は、心臓を掴まれたように言葉を吐き出した。

「どうして君は、いつもそんなに泣いてるんだ……」

 聞こえていようがいまいが、構わなかった。ただ、苦しさを言葉にせずには、いられなかったのだ。そう、ガラス越しの彼女は、今も泣いていたのだ。

 そのまま、彼女の方を見ずに電車に乗り込んだ。見られなかった。離れたくなかったというのが、本当かもしれない。

 ドアが閉まる瞬間、やっと彼女を見ることができた。彼女は、ビックリしたかのように口に手を当てて、()()()泣いていた。

 電車がホームを離れても、衝撃で、彼女の顔を忘れることが、できなかった。


 次の日、藤崎は落胆していた。どうしても、彼女に会いたかった。昨日、あんな別れ方をして、傷つけたのではないか。もしそうなら、謝りたかったし、慰めたかった。彼女の「本当の涙」は、取り返しのつかない失敗のように思えて、一刻も早く拭い去ってあげたかった。

 なんとか昨日の電車に乗ろうと、昼間仕事を随分頑張ったのだが、結局間に合わなかった。終電も近い電車になっていた。

 よく考えたら、連絡先どころか、名前も知らないままだ。もう、2度と会えない確率の方が高い。たった10分話をしただけなのに、藤崎にとっては、彼女を見ていた時間が長かっただけに、得難いものを手放してしまったかのように、その喪失感は大きかった。


 諦めて、すっかり虚脱感に覆われたまま、電車は彼女の駅のホームに入る。ぼぉっとしていた藤崎は、目を疑った。


 昨日座ったベンチに、彼女がいたのだ

 

 人を掻き分けて、慌てて降りる。そのまま、まっすぐ彼女に向かって走った。

「会えて、よかった……。もう、会えないのかと」

「昨日の時間が、早い方だっておっしゃってたから、待ってみようと思って。ここしか、思いつかなくて……」

 昨日の時間から、2時間近くは経っている。思わず抱き締めそうになったが、グッと拳を握ってこらえた。

「名前、教えてください。連絡先も。俺は、藤崎龍一といいます。」

「今枝璃帆です。見つけてくれて、よかった……」

 と、彼女は微笑んで言った。


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