第三話 誘惑と罠
頭がぼんやりとして、顔が熱い。視界がゆらゆら揺れて、周りの音が遠くに聞こえる。
そこで初めて、ウィルは自分が酔っていることに気づいた。あれから黒髪美女に勧められるままに二、三杯飲んだ気がするが、ここまで酔うとは思わなかった。隊員達に半ば無理矢理飲まされたことはあるが、あの時もこんなにぼーっとなるほど飲んでいない。この果実酒は相当強いようだ。
「大丈夫?」
黒髪美女が言う。飲ませた本人が何をと言いたいところだが、強くもないのに飲んだウィルにも非はある。
「大丈夫です。問題ありません」
もう自分の声すら遠く聞こえる。これは本格的に不味いかもしれない。右からは相変わらずアルバンの豪快な笑い声、まだまだアルバンは元気なようだ。それもそのはず、アルバンは酒飲みの多い隊の中でも一番酒に強かった。そんじょそこらの酒じゃアルバンは酔わせられない。
よかった。ここでウィルが倒れてもアルバンが何とかしてくれるだろう。いや、待て。アルバンのことだ、面白がって放置する可能性もある。
苦笑していると、そっと肩に手を添えられた。見ると前のめりに倒れかかっているウィルを黒髪美女が支えている。
「すみま、せん」
「謝ることない。少し、飲ませすぎたわ」
黒髪美女が少しだけ申し訳なさそうに言う。初めは美しく冷淡な印象を受けたが、案外優しいのかもしれない。
「お部屋を用意してあります。ウィルさん、そこで休まれては?」
クーデルの申し出にどう答えたものかと悩む。至れり尽くせりで申し訳ないのが半分、これ以上醜態をさらしたくないのが半分。
「ああ、行ってこい行ってこい!ここは任せとけ!」
アルバンはゲラゲラ笑いながらそう言うと、手に持ったフォークで食器をカンカンと叩いた。行儀が悪いことこの上ないが、両隣の美女に呆れる様子はない。むしろ好意的に捉えられてるようにすら見える。そこで思い出す。アルバンは昔から不思議とよくモテるのだ。天性のものだろうか。
「私が、連れていくわ」
アルバンに言い返さないことで了承と受け取ったのか、黒髪美女はウィルの左腕をとると自分の首に回させた。一気に距離が縮まり、ウィルはドギマギしてしまう。
「だ、大丈夫です。自分で立てますから」
「ダメ、怪我したら危ないわ」
そう言って黒髪美女はウィルを伴ってゆっくり立ち上がる。すぐに倒れてしまうと思ったが、その細い体のどこに力があるのか黒髪美女は全くふらつかなかった。
ウィルと歩調を合わせ、廊下に歩いていく。少し汗ばんだ首筋と吐息が近くに感じられて、ウィルの頭は痺れそうだった。
廊下に出ると外は少しひんやりとしていて、火照った体には気持ち良かった。酔いも少しさめた気がする。
「あの、自分で歩けますから」
「ダメ。飲ませた私が悪い。最後までさせて」
そう言われては何も言えない。
薄暗い廊下を二人並んでゆっくり歩く。二人の間に会話はなく互いの呼吸が聞こえるだけである。何か話さなければと思うのだが、女性と接した経験がほとんどないウィルにこの沈黙を破れるわけもない。一方、黒髪美女は余り喋る方でもないので話し掛けてくれるのを待つのは望み薄だ。
しかし、沈黙を破ったのは黒髪美女だった。
「名前」
「へ?」
話し掛けてくれたのが予想外で素っ頓狂な声を出してしまう。確か、名前はもう言った筈だが。
「私の名前、聞かないのね」
「え、いやその、聞くのは失礼かなとか思ってしまいまして」
嘘だ。ただ舞い上がって、聞きそびれただけである。
「セリーナ」
「え?」
「私の名前」
「セリーナ、さん」
「そう」
ゆっくり口に出して言うと、こちらを向いた黒髪美女、セリーナと目が合った。セリーナの口角が少し上がる。それを見て、ウィルはセリーナが笑ったのだと思った。
それに対して何か言おうかと迷っている間に、セリーナは立ち止まった。
「ここよ。布団は用意されてるはず」
セリーナが空いた方の手で扉を開けると、そこは一組の布団が敷かれた部屋だった。先程いた部屋より広くないが、宿屋の部屋などに比べると広い。十人くらい雑魚寝してもありあまる広さであった。そこに布団がポツンとあるのだからどことなく寂しい印象を与える。
セリーナはウィルを布団の前に連れていくと、膝をつき掛け布団をはいだ。
「入って、少し寝れば楽になるはずよ」
「すみません、ここまでしてもらうなんて」
促されるままに布団に入ってそう言うと、セリーナは首を振った。
「気にしなくていい。そんなの、全然」
掛け布団の端を持つセリーナ、ウィルは布団を掛けてくれると思ったのだが、セリーナは驚きの行動に出た。
掛け布団を持ち上げると、そのまま隣に入ってきたのだ。
ウィルの首に手を回して体を寄せるセリーナ、離れようとしたが脇腹に当たる温かく柔らかい感触に体が硬直してしまう。
「逃げちゃ、ダメ」
耳元でそう言うセリーナの声からは相変わらず感情は読み取れない。身体の感触と甘い香りで何も考えられなくなりそうだった。
「そう、いいコにしてて」
動けないウィルにそう言うと、セリーナはウィルの頬に桃色の唇をそっと触れた。
「っ!?」
動揺するが声も出ない。
そんなウィルを余所に、セリーナはそっと背中の後ろに手をやった。そこには短く、しかし人間一人の命を絶つには充分な刃物が握られていた。