大霊界3 死んだら生まれ変わる (私の死者の書3)
映画、「大霊界3 死んだら生まれ変わる 」 (私の死者の書3)
私の見解を交えつつ、死後の世界の探訪を
さあご一緒にどうぞ。
丹波哲郎氏の見解をそのまま祖述しただけではありません。私の見解も交えての死後の世界の探訪です、というか「すべて私の見解です」といったほうが良いかもしれませんね。
さてそれでは、、、
生まれかわるとは、いわば衣装を着替えるようなものです。
私たちは生まれ代わりを繰り返すのです。魂が本当に人生を学びそこから魂の進歩が向上するまでは。
生まれかわりのたびのそのまとう肉体は変わりますが
其の衣服(肉体)を着てるのは同じ魂です。
魂は幾度もまるで衣服を着替えるように、この現世に生まれ変わり
この世で魂の修行を繰り返すのです。
ある時は王侯貴族として、、
またある時は貧民の孤児として、、
私たちはそうしてこの世で修行を積んでゆくのです。
例えば
日本でも平田篤胤『勝五郎再生記聞』というものがありますね。
これを明治になってから小泉八雲が「勝五郎の事件」という記録として英文で発表しています。
そのおはなしとは、、
ときは江戸時代。勝五郎という少年がいた。なんと、彼は前世の記憶を覚えていたのだ、
「おらの前のおとうの名は藤五郎っていうんだ。」このことはやがて広まって、、尊ききやんごとなきところまで届いたそうである。
その調書をとる役人と同行して記録したのが平田篤胤だったのである。
そもそも生まれ変わりというのはあるのだろうか?
つまりは輪廻転生である。
私たちは誰だって人生の真実を知りたいと思っている。
人生の真相を知りたい
人生の意味を知りたい、
誰だってそう思っている。
平田篤胤、、日本霊学の偉大な宗匠です。彼は死の真相、生の真相を探求したのだ。
死とは怖い、、なぜ怖いのか
知らないからだ。死を知らないからだ。死とはいったい何なのか?わからないから怖いのである。
実は
死の瞬間とは痛くもかゆくもないのだ。
死んであの世に行くと、この世での障害も病気もすべて消え去り五体満足になる、というかより一層感覚が研ぎ澄まされる。誰にしても、幽体は完全だからである。それがこの世で生を受けて肉体の衣をまとうと、それぞれの肉体船のカルマに合わせて不完全になってしまうのだ。
ところであの世とこの世はまるで双子のように裏表だということをご存じだろうか?
あの世では、このよ、人間界での生きざまが影響するのである。
この世で
明るく生き、奉仕に生きた人には死後、精霊界での明るい生活が待っている。
ただし人間界で暗くじめじめと生きた人は地獄へ行く、それも強制されてゆくのではなく自分から進んでゆくという真相である。自ら望んで地獄へ行くというのが真相である。
あの世では類は友を呼ぶというそのままに、似たような霊体が集まって暮らすことになるのである。
人間界での所業で類によってそれぞれが集まって生活するのである。
ところで、
この世で悪事をするのは、あの世なんかないと思ってるからだ。
もしも、あの世があるとわかってる人はこの世で悪事をできるわけがない。
向こう(あの世)に行ったらどんなことが待ってるか。それがわかったら悪事など決してできないのである。
さて、、
あの世に行くと先に死んだ親しい人と再会できるのである。
あなたの来るのを彼らは今か今かと見守りつつ待ってるのである、
だから、
死は別離ではない、死は実は再会なのである。
ただしこの世であなたの修業を放棄して自殺してしまったらどうだろうか?
これは一番いけないパターンであり、あくまでも自然の死が来るまではこの世での修行放棄はだめです。
修行放棄したものにはあの世でも苦しいループ地獄が待ってるばかりです。
さてところで死は旅行にたとえられますね。そうです。、死は大旅行です
でも旅行といっても例えば、
ロンドンに行きたくなければ別に行かなくてもいい。
だが、死にたくないといって死の旅行を拒否することはだれにも、できないのである。
死という旅行ははすべての人間が行かなければならないのである。
あなたが死ぬとあの世ではまた再会できるといってお祝いするのです。
だがあなたが死ぬとこの世では死んでしまったと言ってこの世の友人親族は悲しむのです、
あの世から見たら死はお祝いなのです
この世から見たら死は悲嘆です。このように正反対なのです。、
「生まれたときにはあなたが泣き、周りは喜びに包まれる。
あなたが死んだときにはあなたは喜びに包まれて、周りが泣き悲しむ」
(知恵の書より。)
あの世があると知ればあなたは誠実に生きることができるのです。
この世の恨みも挫折もすべてカゲロウにすぎません。
明るく清く生きることこそが人生の唯一の目的なのです、
お金もこの世では多少は必要ですが、、大財産を、人を蹴散らして、蹴落として、見殺しにしてまで、作るのは無意味です。
なぜって、いくら巨万の富を築いてたとしても、あなたが、いざ死ぬときには、たった一枚の金貨すらあなたは死ぬときあの世に持ってはいけないからです。
生きてる時だけの「お金」の価値なのです。
死ねば札束も金貨もなんの意味もありません。
死体の上に札束載せてみてもなんの意味もないでしょう。
同様に、この世での名声も、財産も、人気も、権力も、お金も、この世だけでの価値でしかありません。
そんなもの死ねば、あの世に行けば、無意味・無価値でしかないのです。
では、、この世で(あの世でも)本当に価値があるものってなんでしょうか?
それは、、、
どんなときも、明るく
清く、まじめに事態に対応して
愛をもって生きるということだけです。
ほかに生きる意味も価値も実はありえないというのが、人生の真相だったのです。
そのようにまじめに送られた人生の先にはやがて
自然の死の時が来るでしょう。
そうしてあなたは幽体となってあの世に赴くのです。
それは今までの
どんな冒険よりも
どんな大旅行よりも
遥かに凌駕するような
死出の旅であることでしょうね。
あら楽し 虚空を家と 住みなして 心にかかる 家具調度もなし
道歌
あの人も お前自身も もろともに ただひとときの 夢の幻
道歌
誰死んだ、彼が死んだと言ううちに、お前が死んだと人に言われる
道歌