此別村へ
「ねえ、松谷君。村まではあとどれくらいだい?」
木陰に座った初老の男が帽子で仰ぎつつ、乱れた呼吸を整えながら尋ねる。七月下旬の夏の暑い日差しは森の中とはいえ、容赦なく降り注いでくる。
「そうですね、教授。ちょっと待ってください、調べますから」
松谷と呼ばれた若い男は左手首につけている腕時計型の端末を操作して、宙にスクリーンを表示させる。そのスクリーンをタッチパネルの要領で操作する。
「分かりましたよ、中河原教授。GPSによると今の位置はここで、目的地の此別村がここなので、あと最低でも一時間は歩きますね」
松谷は淡々と中河原にスクリーンを見せながら説明する。中河原はうなだれ、疲労感をより一層感じているようだった。
「松谷君、車とかじゃあダメだったのかい? クーラーの効いた僕の研究室が恋しいよ」
「教授……だから、倒木や落石で車両が通れないから、歩きになると何度も言っているじゃないですか」
今日だけで何度目か分からないやり取りを繰り返す。二人は此別村の調査のため、昨日から最寄の街に入った。そして、持ち込んだ数日分の携帯食料や水、ガスコンロや簡易テントなどの装備一式、今回の調査に必要な機材などを大容量のザックに詰め込んだ。
今朝方、日に四本しか運行していない路線の始発のバスで一時間近く揺られ山中の今は周囲に何もないバス停で降車。そこからさらに徒歩で二時間以上微かに残る道を昔の地図を頼りに歩いてきた。
かつては簡単に整備されただけの未舗装の林道だったのだろう。しかし、長い年月、人も車両もほとんど通らず維持管理されていないと、こうも朽ち果てるものだと、時間の流れの残酷さと、自然の力というものをダイレクトに感じていた。
「それじゃあ、教授。休憩はこれくらいにして先を急ぎますよ」
「松谷君、もっと年寄りを労わりたまえよ」
中河原は文句を言いつつ立ち上がり、松谷を追うように歩き出した。
「教授、この先みたいですよ」
松谷は進入禁止の旨が書かれた看板が設置された所々錆びた鉄製のゲートの前で立ち止まり、少し後方にいる中河原に話しかける。少し遅れてゲート前に辿りついた中河原は整わない呼吸のまま、
「松谷君、ゲートは形だけで施錠もされていないはずだから、開けてもらえないかい?」
と、言う。松谷は指示に従いゲートのかんぬきに手をかける。
「教授。このかんぬき、錆びて固まったいるみたいで動かないです」
「仕方ない……ゲートを乗り越えよう」
松谷が先にゲートに登り跨ぐようにして、ゲートの上に座り、荷物をゲートの先に降ろす。
そして、バランスを取りながら教授がゲートを乗り越えるのを補助した。
「どうだい? 松谷君。僕もまだまだ若いだろう?」
中河原は目的地が近づいたこととゲートという小さな難関を突破したことで気分が高揚しているようだった。
「そういえば、教授って、今おいくつなんですか?」
「僕かい? 今は六十八だよ。君のとこの川野辺君も同い年だよ」
「本当ですか? 川野辺先生と同い年には見えませんね」
松谷の反応に中河原は笑い出す。
「川野辺君とは学生時代から親しくしているけど、そのころから彼は体は強くなかったからね。だから、君が彼の身代わりにここに来ることになったんだろう?」
「ええ、そうでしたね」
松谷は民族伝承を主に研究している民俗学の教授である川野辺に師事している大学院生で、此別村の調査を含め院生になる前から、病弱で遠出も現地調査も難しい川野辺の足代わりとなり調査に行くなど協力していた。今回の此別村の調査の許可申請を取り付けたのも、調査方法や概要、目的などを取りまとめたのも川野辺だった。
中河原は今回の調査の協力に呼ばれた同じ大学に勤務する物理学者で川野辺の同僚であり、親友でもある。