映らない存在
翌日、松谷は蒸し暑さで目を覚ます。太陽の位置はすでに高く、意識がはっきりしてくると、うるさすぎる程のセミの鳴き声に夏という季節の煩わしさを感じる。
松谷は汗拭き用のウェットシートで顔と体を拭き、心身ともにすっきりした気分になる。すっきりしたところでコンロに火をつけ、お湯を沸かす。スティックタイプのインスタントコーヒーの粉末をコップにいれ、沸かしたばかりのお湯を入れた。
松谷はスクリーンを表示させ、今日はどう村を回ろうかと携行食を食べながら考えたり、此別村の資料など川野辺のまとめたファイルを開き、何か参考になるものはないか読み直したりする。
しばらくすると、中河原が起きてきて、松谷はコーヒーを作って渡す。
「ああ、ありがとう。松谷君」
中河原はPCを立ち上げながら、
「ねえ、松谷君。僕なりに昨日の君の調査映像を解析していたんだけれども、君は誰と話していたんだい?」
と、神妙な顔つきで尋ねる。
「十歳前後の女の子がいたんです。それも僕に気付いて話もできました。名前は加世でおそらく石神神社に関係している子なんだと思います」
「どうして、それを昨日言わなかったんだい?」
「昨日、それとなく話を聞いたときに言っても信じてもらえなさそうな気がしたんです。それに……僕自身もどう説明していいか分からなかったんです」
「なるほどね。確かに、映像と音声を見るまでは信じられなかったかもしれないね」
中河原は難しい表情のままコーヒーに口をつけ、PCを操作し、映像ファイルを再生させる。
「ちょっと、これを見てくれないかい?」
中河原が再生させたのは、松谷が神社で加世と最初に話した時の映像だった。
「お嬢ちゃん、大丈夫かい?」
と、松谷の声が聞こえ手が差し出される。右手首のミサンガが見えるので松谷の手に間違いがない。それを見て、松谷は今流れているのは自分の目線から見た映像の記録なのだと理解する。
少しの間の後、
「お嬢ちゃんは僕のこと見えているよね?」
と、松谷が何もないところに向かって質問を投げかける。さらに、
「お嬢ちゃんは一人でここで何をしていたのかな?」
と、質問を続ける。また、少しの間があり、
「あー……加世ちゃんね。加世ちゃんは今は何をしているのかな?」
と、話し出した。
そこで、中河原は映像を停止させる。映像を見ている時から松谷は異変に気付いていた。
「教授! 加世ちゃんが……女の子が映ってないです!」
「そうだね。僕もこれを初めて見たときは意味が分からなかったよ。でもね、このシーンを何度も見ているとね、そこに誰かがいるのかもしれないと思えてきたんだ」
「いったいどういうことなんでしょうか?」
「僕にも分からない。でもね、君が最後、加世と名前を呼び出す少し前あたりかな。誰かいると仮定して、会話の流れから考えると、そこで君に名前を言うなり、その誰かが喋っているのは予想がついたんだ。だからね、何か聞こえないか音量を上げたり、音声データを抽出して今できる範囲で簡単な解析したりしてみたんだ」
中河原は波形のようなデータを表示させながら説明する。しかし、松谷にはそのほとんどが何を表すかは理解できない。
「それで、教授。何か分かったんですか?」
「残念ながら……しかしね、わずかだけどノイズが混じっているのはわかったんだ。それが何を表すかは知らないけどね」
中河原はコーヒーをすする。
「ねえ、君はその女の子……加世ちゃんだっけ? 端的に聞くけれども、なんだと思う?」
「分かりません。最初はただのVR内の存在だと思いましたが、僕のことが見えて、会話もできて、触れることができるのだから、実在しているんじゃないでしょうか?」
「本当にそう思うかい?」
松谷は昨日の加世の言動を思い返す。
加世はVR内で見かけた男の子達を嫌っていて、此別村の中を迷うことなく案内できるほど土地勘があった。そして、当時の役場の職員の秘密まで知っていた。まるで、当時の此別村にいたかのように――。
中河原は松谷の沈黙を質問の答えとして受け取る。
「松谷君。僕はその女の子が今回の調査の鍵だと思うんだ」
松谷はなんと言っていいか分からず、上手く言葉にならない言葉を喉元まで出しては飲み込む。
「松谷君。僕は大学に戻ったら、今回の件は君達……特に君に協力は惜しまないつもりだよ。もちろん女の子がいるとした上で僕なりに解析なりすることを約束するよ」
「ありがとうございます」
「じゃあ、今日も張り切って調査に精を出したまえよ。それと女の子とは昨日と同じように自然に接するんだよ」
「分かりました」
中河原はPCに向かいHMDの調整を始める。中河原によると調整が終わるのはもう少し時間がかかるということだった。松谷はVR内に入るのは昨日と同じ時間くらいからにして、それまでの空いた時間で現在の此別村を昨日とほぼ同じルートを回ることにした。