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短編小説集

向日葵の季節

作者: 摂氏

苦く淡い初恋の思い出は、この季節になるとふっと音もなく表れて、僕の頭の一番大事なところに居座る。大切だけれども、苦い思い出。思い出すたびに先走る後悔と、自責の念が押し潰そうとする僕の心は、あの日から今までの十数年を失ってもいいから、時間を巻き戻したいという強い願いに逃避する。全てを知った僕ならば、道を見誤らなかったのにって思うたびに、小心者の心は形容しがたい虚無感に襲われるんだ。季節は巻き戻せないって……頭でわかっているつもりなのに、心では理解できない。理解したくない。苦いのに大切で、宝石のように輝いている思い出は、決して僕から消せやしないんだ。

「またお前、大学に行くのかよ。」

「んー。ちょっと野暮用でね。」

道を踏み間違えてしまったあの日から、綺麗な思い出だけが詰まった向日葵畑が、僕の唯一の心の拠り所だった。僕の通う大学が所有している土地で、炎天下の蒼穹の下、日の光を全身に浴びて育つ向日葵を、二人で見上げた夏のあの日。僕と彼女が共有する唯一の思い出は、十数年の時を超えてもなお、僕の心の拠り所になっていた。

そんなある日の帰路。友達と途中で別れ、拭えない痛みを背負ったまま、今日も僕は足を運び続ける。炎天下の夏の日の下でも、帽子は被らない。じりじりと照り付ける太陽が髪を焼き、サンダルを履きつぶし、コンビニで買った63円のアイスを咥えながら、広大な向日葵畑に向かって歩く足取りは重い。

真っ青な碧空に浮かぶ、真っ白な大入道雲。なだらかな勾配のある坂を下る涼風が、夏の若草の香りを運んでくる。暑い最中、夏の風情を届けてくれる風の便りが、僕は大好きだった。

あれから、季節は何度過ぎ去っただろう。小学生の夏に全てが始まって、やがて季節は巡り巡って、ここにいる僕は、いつの間にか大学3年の夏を迎えてしまっていた。数えると、あれからもう10年以上経つことを思い出すたびに、僕は無情な時の無常さを心で噛みしめた。

こんな時に思い出してしまう、僕の初恋の相手。

「……きみは、どこにいるのかな。」

半ば無意識のように口を突いて出た言葉は、もちろん彼女に届くことはない。真夏の涼しげな空に吸い込まれて、やがて誰の耳に届くこともなく、霧散して消える。誰にも……彼女にも、届かない。

僕は、僕が呟いた声の行方はわかっても、彼女の行方はわからない。彼女を傷つけてしまった僕には、それを知る権利はなくて……。だから、誰にも彼女の行方を聞くことができない僕が、彼女の行方を知る術は閉ざされてしまった。矮小な心が生んだ、負の連鎖だ。

逃げなければ……僕は、まだ救われたのかな?彼女は今、幸せに笑えてるのかな?僕のことを、忘れてくれているのなら……僕の最低な仕打ちを忘れられているのなら、僕はきっと嬉しい。彼女が、過去の忌々しい記憶に囚われ続けていないことの証になるのだから。

「……なんて。」

本心を覆い隠すように綺麗毎を並べる僕も、自分の行動だけは誤魔化せないみたいだ。懲りもせずに、毎週のように向日葵畑に足を運び続ける僕が、一体何を望んでいるのか。

そんなこと、自分自身が一番よくわかっているはずなのに……。

宙を仰ぐ僕は今、ただ一つだけ、わがままに願う。


彼女に、もう一度だけ会いたかった。


彼女が、僕の知らないような素敵な街に引っ越してしまっていたとしても、まだ彼女がここで生活している可能性があるとしたら、僕はずっと待つ。彼女に会えることを信じて、いつまでだってここに通い続ける。例え、また彼女を傷つけてしまう羽目になっても、最後に一度だけ、彼女に会って本心を伝えたいから。有耶無耶になってしまった彼女との関係を、お互いが納得のいく形で終わらせたいから。

交差路に差し掛かり、道行く人の数も増え始める。老若男女に外国人。活気づいた僕らの街。僕たちの思い出が散りばめられた向日葵畑は、もうすぐそこだった。

この時期、向日葵畑は見頃を迎えているということもあって、多くの家族連れや恋人たちで賑わっていた。ここは全国でも人気の行楽地としても知られる。広大な土地全面に向日葵が咲き誇る光景は確かに荘厳だけど、海外からも観光に来る人もいるらしい。地元民の僕からしたら驚きだ。

迷路構造の向日葵畑は、子供たちにも人気を博し、連日の賑わいを見せる。背の高い向日葵を利用したというだけの、月並みの迷路ではあるけれども、広大な敷地いっぱいを使った複雑な迷路は、踏破が難しいことでも知られ、子供から大人まで、家族揃って楽しめると、ネットの売り文句にもあった。

入り口は出口も兼ねていて、どこからでも入ることができるし、出ることもできる。その過程で、向日葵畑の随所に置かれたスタンプを10個全て集めることができたら踏破だ。僕も気が向いた時にはたまにチャレンジするけど、まだ一回もクリアできたためしがないから、やっぱり噂通りの難しさだと思う。

僕の方向感覚がずれてる可能性もあるけど……。

今日も今日とて僕は懲りもせず、向日葵畑の中で彼女を探す。踏み慣らされた畑の土を踏みしめ、僕の背丈よりも低い向日葵迷路を、ただ無心に当て所もなく彷徨う習慣。

伸びるところまで伸びてしまった僕の背丈では、あの頃みたいに向日葵を下から見上げることはもうできない。上から、子供たちが楽しそうに向日葵畑の中を走り回っている様子を、懐かしみながら眺めることしかできない自分に、僕は毎回のように淡い寂寥感を覚えた。

……こうしていると、彼女と出会った日のことを、今でも思い出す。ここで出会って、ここで『好き』を伝え合って……そして、ここで別れを告げたあの日。お互いの想いの齟齬が、僕たちを隔てたあの日を……僕は、一生忘れない。悔やんでも、悔やみきれるものじゃないから。

あの頃のことは今でもまだ、鮮明に鮮烈に思い出せる。付き合っていたはずなのに……僕が、恋人というものをまだ理解できていなかったこと。付き合った次の日にはもう、彼女は僕にとって、ただの同級生でしかなかった。出会って付き合い始めたその日だけが、僕と彼女の接点だった。

早熟した心を持っていた彼女は、本気で僕を好きでいてくれていたのに……。僕と付き合っていると、信じて疑っていなかったのに……僕は本当に愚かだった。あの頃は、それがどんなに満ち足りたことで、どんなに尊い幸せか、考えたこともなかったんだ。

たぶんね。僕にとって、あの日の出来事は冗談でしかなかったんだよ。好きの感情を理解していない子供が、一緒にいて楽しいからって理由で捧げた『好き』って言葉。『好き』の区別がつかない子供の純粋さ故に選んだ、残酷な言葉。付き合うってことが何かも、まだよくわかっていなかったんだ。

それだけならばまだ、僕も彼女も救われていたかもしれない。話す機会がなくなって、マンネリ化した倦怠期の恋人同士が自然に離れていくように、僕たちも自然と離れていくだけで済むはずだった。そんな未来もあったはずなのに……。でも僕は、本気で僕のことを好きでいてくれた彼女の……自分の大切な思い出のアクセサリーまで捧げてくれた彼女を、付き合い始めた日から2年後の夏に、最悪な形で裏切ってしまったんだ。ずっと僕のことを想ってくれていた彼女の目の前で、別の女の子の心を受け入れてしまうことで……。

しばらくの間、不登校になった彼女の友達から事の詳細を聞いた時の、僕の焦燥感、絶望、罪悪感、虚無感。いろんな感情が交錯して生まれた複雑な感情を伝えるには、きっと言葉だけじゃ足りない。それが涙になって、叫びになって枕を濡らした夜は、いくつを数えるかわからない。それは、僕の流した涙が、全てを物語ってくれる。

なのに、僕はそれでも彼女に声をかけることはできなかった。勇気のない僕には、それができなかった。あの時に、全てを終わらせることができなかったんだ。

2年も放っておいて、彼女の目の前で別の女の子と付き合い始めたゴミみたいな僕が、もう一度やり直したいだなんて言えるわけがないじゃないか。あれだけ最低な仕打ちを加えておきながら、また彼女と一緒に隣を歩いて生きていくなんて……。

その結果、といっていいのかな。あの出来事は今、一つの理想になって僕の心に深く根を張った。あの頃の彼女が、僕の理想。全てが手遅れと知ったあの日から今日まで、僕の理想は須らく彼女に置き換わってしまった。

だから……僕の理想にまで昇華した彼女に、僕はもう一度だけ会って、全てを終わらせる。擦り切れた糸一つで繋ぎ留められた、この名のない関係を……今度こそ終わらせるんだ。

それが、僕が彼女に伝える、最初で最後の本心だった。

いつになるかわからないけど、それが現実になる日まで僕は……。


「あきらくん。」


僕は、待っている……そのつもりだった。彼女に、会える日までずっと。ここで一人……。

「……」

それなのに、こんなに早く……。

僕の鼓膜を震わせた、聞き覚えのある少女の声。忘れはしない懐かしい響きに、僕は顔を上げることができなかった。全身の筋肉が硬直してしまって、手汗もひどく、足は震えていた。僕の名を呼ぶその人と顔を合わせることが怖くて……正解を正解と知ることが怖くて。

10年間。人生の半分をかけて追い続けてきた、僕の理想。夏の希望の名を持つ少女。

遥かな向日葵の海を背に、夏の日差しに包まれた少女が、僕と向かい合わせ。優しく、可憐に微笑んでいた。大人びた姿になっても、懐かしい面影を残したままで……。


「夏希ちゃん……」


僕の思い出の中に眠っていた彼女は、僕が夏希を最後に見た小6の春の面影を残したまま、向日葵と並んで立っていた。白いリボンのついた麦わら帽子を夏の涼風にそよがせ、純白のワンピースに身を包んだ姿に僕は、名前以上の言葉が出てこなかった。

ここから逃げ出したいのに、このまま夏希の姿を目に焼き付けていたいとも思ってしまう。相反する二つの願いが、僕の頭を混乱させる。まともな思考ができない。

「久しぶりだね。」

長い黒髪を風に靡かせ、一歩一歩と僕との距離を詰める夏希。幻覚……とさえ、僕には思えた。記憶の中だけに鮮明に鮮烈に焼き付いていた声が、僕の鼓膜を震わせている事実がにわかには信じられなかった。会いたい一心で、脳が僕に幻覚を見せているのではないかとさえ疑ってしまう、夏希の姿、声。

でも、僕の目の前にいる少女は確かに夏希の様相をしていて、土を踏みしめる一歩一歩にも足音を伴って……。かつて、僕と夏希が一緒に過ごした短い夏の思い出。10年越しの再開は音もなく、影のように訪れた。広大な向日葵畑の中で、僕たちはまた巡り合ったんだ。

「……久しぶり。」

それなのに僕は、ありきたりの挨拶を交わすことくらいしかできなかった。言葉が、思い浮かばなかったんだ。何と話を切り出せばいいのか。そもそも、僕はなぜ夏希に会いたがっていたのか。そんな根本的なことさえも、混乱した頭ではまともに整理できずに、ただ僕の知らない夏希の姿に見惚れることだけが、僕に許された唯一の振る舞いだった。

そして気付く、僕は夏希のほんの数年の変化しか知らないってこと。僕よりも夏希の変化を知る人はたくさんいて、僕の知らない夏希がいるって考えると……何故だろう。僕の心は、理由もわからない痛みに絞めつけられた。

「何年ぶりかな。こうやって話すの。」

夏希は、昔を懐かしむように空を見上げて、左手で髪を梳く。その仕草を僕は、あの時、この場所で、一度だけ見たことがあった。それは、僕が最後に夏希と喋った日のこと。最初で最後の、夏希との思い出を作ったあの日。

僕と夏希が、向日葵畑で出会ったあの日が……僕と夏希が、最初で最後に喋った一日だった。

「私は、覚えてるよ。」

夏希は、寂しそうに笑う。慈愛に満ちた笑みなのに、心はどこか上の空で……。瞳が物語る、夏希の心を穿つ想いの存在。見え隠れする憂い。

そんなの……僕だって、覚えてるよ……。

でも、夏希のそんな瞳を見せられたばかりで、そんな話をされたら僕は、とても耐えきれないから。だから、今はその話を終わりにしてほしいのに……。

「最後に、私があきら君と喋った日のこと……ちゃんと覚えてる。」

その言葉が、皮きりだった……。

「……ッ!」

「あ、あきらくん!?」

気付けば僕は、一目散に走り出していた。夏希の言葉はまだ途中なのに、僕は走り出してしまっていた。

「待って!」

夏希の声を背中に、僕は立ち止まらない。立ち止まれない。これ以上、夏希の言葉を聞いていたら、心が壊れてしまいそうだったから。

土を蹴る感覚。久しぶりの感覚だった。いざ夏希に会ってみて気付いた、僕の心に蟠っていた夏希への罪悪感を大きさ。夏希に与えてしまった苦痛の大きさを改めて実感してしまった僕の足は、もう止まりそうになかった。

いやだ……もういやだ!死ね!死ねっ!!

なんだ、なんなんだよ!この気持ちはっ……!

自分の心を、何の脈絡もない言葉で叱責したくなる。今までの出来事の全てを、走馬灯が脳裏を駆け巡るように思い出しては、汚い言葉で自分を責めたてる。

さっきまで、こんな気持ちにはならなかったのに……。

僕は、一刻も早く、こんな気持ちにさせる夏希の傍から離れたかった。望んでいたはずなのに……。会いたいと切望していたはずの夏希が目の前にいたのに、僕は夏希と話すことを拒んだ。

つまり僕は、あんなにひどい仕打ちを与えてしまった夏希よりも、僕自身の心を守ることを優先してしまったんだ……。

結局、僕は小心者だったってことだ。臆病だったんだ。最低で下劣な卑怯者だったんだ……。

「くっそ野郎ッ!!」

人も疎らになった、街の小高い丘の道。悲痛な僕の叫びが、僕を嘲笑っているかのような太陽の下、陽炎に揺らぐ夏の天穹の下に響き渡った。


………

……


「はぁ……はぁ……」

どれくらい走っただろう。気が付けば僕は、坂道を外れ、向日葵畑の横に沿うように茂る雑木林の中に立っていた。肺が酸素を欲し、息が上がったまま、僕は膝に手を突いて息を整える。でも、久しぶりに切らした息は、いつまで経っても落ち着く気配がなかった。膝も、笑ったままだった。

……夏希。

走っている間も、今も脳裏に張り付いたまま剥がれそうにない夏希の姿、声。いくら振り払おうと躍起になっても、それは叶わない。瞼を閉じても、頭を振っても、こぶしを握り締めてみても、それは変わらなかった。

「くそったれ……」

呟く言葉は誰の耳にも届かず、雑木林を抜け、虚空へと消える。背後を振り返ってみても、夏希は追ってこない。

当たり前か……。

僕は、近くの木に寄りかかり、揺れる頭を垂れた。汗が額を伝って一滴、地面に落ちて、弾ける。暑さのせいでも、疲れのせいでもない視界の揺れが、僕の心の動揺を物語っていた。

なんで僕は……逃げ出したんだろう。待ちに待ったチャンスだったはずなのに。逃げてはいけない、僕の人生を賭してまでやり切らなくちゃいけない時だったのかもしれないのに……。

「なんで……僕は……」

木々の隙間から見上げた空に、伸ばした僕の手が届くことなかった。

さっきまで、自分を守ろうと行動していたはずの自分が、むしろ自分の首を絞めている。夏希の負った傷の深さを知ることが怖くて、僕は逃げた。

そして、ついさっき。僕はまた、夏希を裏切った。最後に与えられた、夏希との関係を断ち切る『和解』のチャンスを、僕は自ら棒に振ってしまったんだ。夏希の背中も、影さえも見失った今、僕は気づいてしまったんだ……。

「馬鹿だ……」

僕の醜い心には、さっきまで感じていた恐怖とは異種の種類の恐怖が沸き上がってきた。それは、10年以上前にも感じたことのある恐怖。一生、夏希に会うことができなくなるんじゃないかという、純粋な恐怖だった。

二度の裏切りは、もう赦されない。僕なら、赦さない。だからきっと、夏希も僕のことを赦さないだろう。

今更、あの夏には戻れない。今更、あの向日葵畑には戻れない。今更、夏希に顔を合わせたところで……僕にできることなんて、一つもなかった。

やり直しの効かない人生の上り坂。僕にとっては2つ目の、悔やんでも悔やみきれない後悔だった。

「……」

セミの鳴き声が、僕を嘲笑うかのように苛烈さを増し、炎天下の太陽は遠慮のない日差しを浴びせる。木に凭れながら僕は、自分の業の深さを嘆き、恨んだ。自分で、自分自身が赦せなかった。

僕のことを……10年以上も前に、たった一日だけ会話を交わしただけの僕のことを覚えてくれていた夏希を裏切った僕は、もう堕ちるべきところまで堕ちてしまった。

死んでも、償え切れるものじゃない。僕は、赦されざる存在だ……。

もし、今この世界から因果律ごと消えることが許されるのなら、僕は本心からそれを願う。生の束縛から見放され、今すぐにでも消えてしまえるのならば、それは業から逃れる唯一の救い。存在の根源すらも残さず。夏希との思い出も、夏希から僕の存在ごと消えてしまえばよかった。夏希の心に傷を負わせる刃物は、永久に消え去ってしまえばよかったんだ。

「あああ……」

僕は、どうすることもできなかった。僕を支えてくれる人なんているはずもなくて……でも、僕は情けないくらいに人の優しさが恋しくて。今ならば、誰でも僕の心に触れてしまえるような気さえした。

それでも、僕は独り。僕の心に触れようとする人は、誰もいない。僕には……夏希しかいなかったのかもしれない。

そう思うと、ただ悲しくて……僕は、シイの木に背を預けて、涙を堪えることしかできなかった。


「あきら、くん……泣いてるの?」


独りの僕に、また声が届く。もう二度と、聞けないと思っていた声。

「な、夏希ちゃん……」

頭を擡げた先に立っている、見間違えようのない姿。麦わら帽子を手で押さえて、はためくリボンは手に絡んで、白いワンピースが風に揺れ動く。垢抜けた風姿の少女。

どうして、ここに夏希が……。

混乱する頭で必死に答えを探すけど、見つかるわけもない。そもそも僕は、夏希のことを何も知らないから……。僕の中で偶像化され、心の奥深くに居座り続けていた、僕の理想の少女。それが夏希だった。

その夏希が……向日葵畑に置き去りにしてきたはずの夏希が今、僕の目の前に立って、焦りの色を浮かべている。

「なんで……」

「後を追ってきたの。あきらくん、私のことおいて逃げちゃうから……」

拗ねたように眉を歪ませる夏希。嘘みたいに美しい風貌の少女。僕と同い年の女性に、少女と言ってはおかしいのかもしれないけど、僕の手の届く距離にいる、誰よりも美しい姿形の夏希は、僕の思い出の中にいる、幼い頃の面影を残したままだった。

だから……僕は余計に過去の罪悪感に蝕まれるんだ。僕は夏希の顔を直視することができずに、また下を向いてしまう。

君は、僕と出会うべきじゃなかった。そう伝えられたら、どれだけ楽になれるだろう。臆病者の僕が、もし夏希の目を見てそう言えるなら……この世界に、きっと臆病者はいない。

「僕は……」

「わかってる。」

「え……?」

わかってる。そう呟いた夏希の、その言葉の意味が、僕にはわからなかった。

一体、何を……?

僕は、顔を擡げた。そして僕はこの時に生まれて初めて、自分の心臓の声を聞いた。激しい、魂の慟哭のように脈打つ鼓動だった。

僕が手を伸ばせば届いてしまう距離で、夏希は俯いたまま、向日葵畑のときみたいに、寂しそうに表情を緩めていた。憂いを帯びた、心の影を映す表情。でも僕には、そんな夏希の整った容貌が、こんな時でさえも美しいと思えてしまったんだ。

「あきらくんは、私のためにいろいろと考えてくれていたんだよね?向日葵畑の時も、今も……」

確かに僕は、夏希のためにいろいろ考えていた。どうすれば、夏希が幸せになれるのか。夏希が、過去に僕から受けた仕打ちを忘れて生活できるようになるには、どうすればいいのか。そう考えていたはずなのに、現実はこうだ。僕は結局、2度も夏希を傷つけるような真似をしてしまった。もう、愛想を尽かされても何も文句は言えない僕なのに。それでも、夏希が僕に向ける表情は柔らかくて……。

夏希は……どうして僕に、そんな優しくできるんだろう。あんなにひどいことをされた相手なのに、むしろ庇うような真似をして……。僕がきみに与えられるものは、苦痛でしかないのに……。

「本当は、あきらくんの傷を広げるような真似はしたくなかったんだ。でも、どうしても……」

「違う……」

夏希のその言葉が心に触れたとき、僕は生まれて初めて、考えるよりも早く言葉飛び出した。人が僕の禁忌に触れた、生まれて初めての経験だった。

「違うんだよ。君は、僕を傷つけてなんていない……」

僕は、そんなつもりはないのに、夏希を睨みつけるように見据えてしまって……すぐに直視できなくなって、顔を俯けてしまう。夏希はそんな僕を、呆気にとられたように目を見開いたまま、じっと見ていた。

「僕が、君を傷つけたんだよ……」

夏希の表情から、微笑みは失せていた。代わりに、冷静でいて、どこか冷徹なように感じる表情が浮いていた。

「いつでも僕は、あんなに傷つけた君のことばかり考えてた。でも、こうしてまた君と出会えたのに……僕はまた、君を傷つけてる。」

結局僕は、君と一緒にいるから君を傷つける。僕は、君を傷つけることしかできない。収まる鞘のない刃物と同じだ。使えないものを、身近に置いておくべきじゃないんだよ。

僕は顔を伏せたままで、僕の想いを素直に吐き出す。お互いの心に、小さな棘のように刺さり続けていた二人の思い出。全て、なかったことにできれば、きっと……。

「だからもう、僕のことは……」

「違うよ。」

「え……?」

「違う。」

西日に傾き始めた昼下がりの雑木林。透き通った力強い声が、僕の脳を震わせた。夏希は首を左右に振って、心の底から僕の言葉を否定する。

なんで……。

なんでそんなに、僕のことを庇うの……。

「確かにあの時……あきらくんが、別の女の子と一緒になったときは、さすがに傷ついたよ。」

「だったら……」

「でもね。」

小さくて、細い右手を僕の目の前にかざして、夏希は一呼吸、間を置いた。息を大きく吸い込んで、僕を見つめる瞳は真っ直ぐで、吸い込まれそうな深い琥珀に、僕を宿して……。


「私はまだ、あきらくんと付き合ってると思ってるんだ。」


夏希の白い歯が光った。紺碧の夏空が見守る、僕たちの逢瀬。僕は、言葉を失った。

夏希……。

「あきらくんと付き合って、結局私たちは何もしてないけど……まだ二人とも、別れようなんて話はしてない。」

白い雲。白い、夏希の肌。白い、夏希の服。白い、夏希の歯。真っ白な……夏希の心。

僕は……夏希から、視線を逸らすことはできなかった。あらゆる感情が交錯していたはずの頭から、一切の思考力が欠け落ちて……ただ夏希の想いを、僕は必死になってくみ取ることだけしかできなかった。

なのに……。


「私は……まだ、あきらくんのことが好きだよ。」


それは、僕が望んだ想いとは相反する願いだった。僕は、夏希の記憶の一切から、僕の思い出が消え去ればいいと願っていた。夏希の苦しみが、少しでも軽くなればいいと想って……。

でも、夏希が望む願いは、僕との思い出の延長線上にあった。僕と夏希が付き合い始めた、全ての始まり。断ち切れずに残っていた糸を、いずれ断ち切らなければと思っていたのに……夏希はまだ、その糸を大事に守っていたんだ。

木々の間を縫うように広がる、坂の下の僕らの街。青い空と白い雲。そして、夏希。この刹那を切り取って、ずっと僕のものにできたら……それは、とても幸せなことなんだろうなって思う。

相変わらず、僕の頭はろくに働いていないみたいで、夏希の言葉の意味を何度噛みしめてみても、その味は染み出してこなかったけど、彼女が自分の胸中を綴った言葉だけは僕の胸の内に刻み込まれていった。

「あきらくんと付き合い始めたばかりの時も、あきらくんが他の女の子と付き合い始めた時も、あきらくんと離れ離れになっちゃったときも……ずっと、好きだった。」

胸に刻み込んでいく夏希の言葉が増えるたびに、僕の脳は言葉の意味を理解していく。夏希が、僕との邂逅から十数年の時を経た今でも、僕のことを好きだという事実も、僕の脳はようやくその意味を理解する。追従するように、僕の心も次第にその言葉の意味を理解し始める。

「あきらくんは、私以外に彼女……いるの?」

細い手を後ろで組んで、長い黒髪が流れる首をかしげて、夏希は寂しそうに問う。

「いないよ……」

思い出す、苦い記憶。かつての彼女とは、付き合って数か月で別れてしまったこと。夏希だけが気がかりで、その子のことを考えていられるような状態じゃなかったこと。そのまま愛想を尽かされて、結局あれから今まで、僕の彼女は……夏希だけ。

「君を見失ってから僕は、君だけを想い続けて今日まで生きてきたんだ。毎週のように、君との思い出の場所に通って。街中でも、君だけを探して……」

一度、堰を切った言葉の奔流はもう止まらなかった。封じ込めてきた想いの反動は、僕を饒舌にし、ただ一人の僕の恋人への想いは、届く。

「最初は、冗談のつもりで付き合ってたのに……いつしか、本当に君だけしか見れなくなってた。」

夏希と、見つめあう。夏希は、胸元で両手を重ね合わせて、まるでドールのように整った端正な顔立ちに、頬朱を滲ませる。

僕にも……きみの目を、よく見せて欲しい。今から僕の……自分にさえも隠していた想いを、きみに伝えるから。


「君が、好きだったんだ。」


一呼吸、間を空けてから僕は伝えた。僕の素直な想い。自分自身に言い聞かせるように。夏希の心に、届けるように。

「君に会ったとき、本当は全て終わらせるつもりだった。これ以上、君が傷つかなくてもいいようにって。」

自分の想いにもう、嘘はつかない。もう、嘘をつく必要もない。だから、僕の心は躊躇わない。

「なのに、僕はまた君を傷つけた。これからもまた、君を傷つけるかもしれない……」

だから……夏希の幸せが、僕の幸せたり得るならば、僕は……。

「これ以上、僕に傷つけられたくなかったら……君は僕を……」

「あきらくん。」

嘘偽りない僕の想いを伝えようと、息を吸った瞬間だった。

「……」

夏希の柔らかな指が僕の上唇に触れ、跳ねる鼓動と遮られる言葉。永遠のように感じられた刹那、やがて夏希の指は離れた。

間近で僕と見つめあう夏希。その距離はあまりにも近くて、僕の激しく波打つ心臓の鼓動が聞こえてしまいそうで……でも、シイの木に背を凭れてしまった僕は、後ろに身を引くことはできなかった。

「私はね。あきらくんと疎遠になってから、あきらくんが光。私が影なのかもしれないって思ってたんだ。あきらくんは私がいなくても大丈夫だけど、私は……あきらくんがいないとダメだったから。」

傾き始めた西日が、僕に降り注ぐ。生まれた僕の影が、夏希に重なる。夏希は、どこまでも純粋な心で、どこまでもまっすぐな瞳を僕に向け、どこまでも優しげに笑っていた。

「私は、きみの影。だから、きみのことならば、なんでも受け入れられる。例え、きみが私を傷つけるとしても、私はきみを好きでいられる。今まで、ずっと好きでいられたんだもん。」

僕の間近で揺れていた夏希の麦わら帽子が、疾風に舞った。夏希の髪を振り払い、宙から地に音もなく落ちても、夏希はそれを追おうとはしなかった。呼吸が止まりそうになる緊張感と、多幸感に支配された僕の心は、事の理解を拒む。僕とは異質の感触に……僕の心は跳ねる。

夏希は、僕の脳が全てを理解し終える前に、僕に寄り添っていた。初めて知る、夏希の温もりが胸を伝い、僕の心に触れる。反射的に夏希をそっと抱き留めた僕の腕が、華奢な身体を包み込んだ。

「だから、そんなこと言わないで。私を、あなたの隣にいさせてください。」

「夏希……」

「ずっと、待ってたんだよ……」

胸に感じる吐息は温かく、震える夏希の背と頭を包み込む僕の腕も、微かに震えていた。夏希の体温を肌で感じ、夏希の細い身体と上質な絹糸のような黒髪を指先で感じ、夏希の汗とシャンプーの香りが混ざった、独特の甘い匂いを鼻腔で感じる。脳が蕩けそうな匂い。もう、我慢することはできそうになかった。

僕は、僕の本心に問う。夏希と、本当はどうなりたかったのか。僕はずっと、夏希の全てから僕の存在が消えて、夏希が僕のいない日々の幸せを知る日が訪れることに、僕の幸せはあると思っていたけど……でも、それはどうやら違ったみたいだ。

結局僕は、最後の最後まで自分に嘘をつき続けていたんだ。今の今まで。夏希に、僕さえも気付かなかった夏希への嘘を否定されるまで……。

本当は、最初から夏希と一緒にいたかったんだよ。夏希の絶望に染まった顔が脳に焼き付いて離れなくなったあの日から、今日までずっと。夏希を幸せにしたい想いに嘘偽りはなくても、本当の気持ちに嘘をつき続けていた僕だから、また夏希を傷つけた。

何よりも、夏希は僕のことを忘れなければ幸せになれないなんて、僕の勝手で自虐的な妄想に過ぎなかったんだ。

夏希は、僕がいてくれればいいと言ってくれた。もう、嘘をつく必要もなければ、夏希を追いかけてまで突き放そうとする必要もない。ただ、一緒にいればいいんだ。今みたいにこうして、強く夏希を抱きしめていればいい。そうすることで彼女が満たされるなら、僕も満たされる。夏希の幸せは、僕の幸せ。僕にとっての幸せが、夏希にとっての幸せになってくれるのなら……お互い、ただ一緒にいるだけで幸せになれるはずだから。

「夏希が失った10年……今日から取り戻せるかな。」

せめて、夏希が僕を想って過ごした十数年を満たせるくらいの思い出を、今からでも作れればいいなって思う。

僕は、夏希を抱きしめる腕を緩めた。でも、夏希は僕に寄り添ったまま、ちょっとも僕から離れようとはしなかった。

「夏希?」

「あきらくんがいる1日は、あきらくんがいない10年よりも大切だよ。」

微かな衣擦れの音。心地よい音色。僕から夏希の顔を窺い知ることはできないけれども、僕に頭を預ける夏希の細い指が僕の胸元に触れたことだけはわかった。

「ずっと夢見てたんだ。こうやって、あきらくんに触れることができる日がきっと来るって。」

触れる指先から流れ込んでくる、温かくて不可視の奔流。

「これが夢じゃなければいいな……」

蕩けるような、夏希の囁き声だった。今が永遠であればいいと、僕に思わせるには十分すぎる時間は過ぎていく。夢かもしれない時間は、待つことを知らない。

でも、僕はこうして夏希に触れている。夢の中じゃ感じられない匂いだって、こうして感じていられる。

だから、僕はこう答えるんだ。

「……夢じゃない。」

そう。これは夢じゃない。だって僕は、こうして夏希の身体に触れることができるから。

僕の身体で触れる夏希の身体。頼りないほどに哀れな彼女の肢体を、僕は強く抱いた。腰に回した手に掴む一握りほどの脂肪は、決して夏希が痩せ細っているわけではないことの証明。夏希の髪に遮られた視界は暗く、鼻腔に香る夏希の匂いと、触れる夏希の身体の優しさに脳が麻痺しながら、それでも僕は夏希の夢を砕く。夏希は夢を見ているわけじゃないよと、僕は身体で教える。

どれくらいの間、僕たちはそうしていただろう。名残惜しい気持ちを押さえながら、僕は夏希から腕を解いた。夏希はゆっくりと僕から一歩だけ離れて、朱を差した頬を覗かせた。

「夢は、覚めた?」

と、僕は問う。

「……やっぱり、夢みたい。」

そう、夏希は答えた。

帽子を拾い上げ、土を取り払ってから自分の頭に乗せる夏希。僕はその横に並び、未だに震える手で夏希の手を取る。西日を浴びて白く輝く夏希の手を掴んだまま、木漏れ日が眩しい雑木林を僕たちは歩き出した。

もしも、夢ってものが僕の思っていたものとは全く違って、僕と夏希が二人とも同じ夢を見ているのだとしたら、どうだろう。触覚も、嗅覚も、視覚も全てが機能する夢に、僕と夏希は二人で取り残されているって、そんな可能性。

……でも、例えそうだとしても僕は、ずっと夢から覚めなければいいと思う。一人で、夏希への想いを抱えたままで孤独な夢を見ているわけじゃない。僕の隣には夏希がいる。五感で感じられる夏希が、僕の隣にはいるんだ。なら、願うことは一つしかないじゃないか。

夏希と二人で生きていける夢ならば、覚めないで。僕たちを、夢を見続ける子供のままでいさせてくれますようにって……そう、願わずにはいられないんだ。

だってそうだろう?

僕たちの初恋は、いつまでも色褪せない夢の中に生きているんだから。僕たちが夢の中でしか一緒にいられなかったとしても、夢の中の僕たちだって色褪せないで生きていけるはずだから……。

例え、僕たちの逢瀬が夢の中だけの奇跡だったとしても、僕はそれでいい。

こうして、夏希と一緒にいられる時間が、何よりも大切だから……。


………

……


「ねぇ、あきらくん。」

「ん?」

雑木林を抜けた僕たちの眼前に広がる向日葵畑の主役たちは、西日に顔を揃えている。4時を回り、人も疎らになった向日葵畑の沿道を、僕たちは当て所もなく歩いていた。

その道中でのこと。夏希が急に立ち止まり、僕は手を引かれるようにして歩みを止めた。

「あの頃のこと……思い出してみない?」

そう指差す先は、確認するまでもなかった。あの向日葵畑だ。

「あの時、ここのスタンプ。全部集められなかったの、覚えてる?」

「もちろん。と言うか、今でも集めきれる自信ないけど……」

「うん、私も。」

なんて笑う夏希。

いや、私もって……。

「……ま、いっか。」

僕は夏希の手を握りしめたまま、伸びる二つの影を追うように歩き出した。

夏希の微笑みを見ていると、小さな悩みや戸惑いなんて、どうでもいいことのように思えてくる。これからすることの意味も、漠然とした不安も、全て。不思議な気持ちだけど、きっと本当にどうでもいいことなんだと思う。

「今の僕たちなら、迷子にはならないかもね。」

大人二人がぎりぎり並んで歩けるくらいの幅しかない向日葵畑の迷路道を、僕たちは並んで歩く。

「あきらくん、いつの間にか私より大きくなっちゃった。」

「夏希は、いつの間にか僕より小さくなっちゃったね。」

僕よりも頭一つ分くらい背の低い夏希。それでも、向日葵畑に咲く向日葵と同じくらいの背丈になってしまっていた。二人で向日葵を見上げていたあの頃の記憶が、少しづつ蘇り始める。

「あの頃は、いくつくらいスタンプを集めたんだっけ?」

「7個だよ。あと、3個でクリアだったんだ。」

7個。広い広いこの向日葵畑の中から、異なる種類のスタンプを7個集めた時の大変さを、僕は思い出した。あれだけ頑張っても7個しか集められなかった、あの頃の僕たち。

既に西日は傾き、腕時計に視線を落とせば、時刻は4時を過ぎている。ここにいる僕たちは、あの頃の僕たちとは違って門限はなく、ここは閉園もしないけれど……でも、無邪気な子供だった頃の僕たちが必死になっても集めきれなかった10個のスタンプを、大人になった僕たちが集められるのかな。

「なかなか難しそうだなぁ……」

ぽつりと声が漏れた。でも夏希は、小さく首を振った。

「集めきれなくてもいいんだよ。私は、ただあきらくんと一緒に、あの頃を思い出したいんだ。」

「そ、そうなの?」

繋ぐ夏希の手に力がこもる。夏希が言う『あの頃』は、きっと十数年前の僕たちの邂逅の日のこと。僕は、西日に帽子の影を落とす夏希の横顔を見据えた。

「私の10年……取り戻してね?」

そう言葉を紡ぎ、振り向いた夏希の表情は……破顔一笑。

……不意打ちだった。その全てを独り占めしてしまった僕の頬はきっと、真っ赤に染まっているに違いないのに、僕は夏希の笑顔から視線を逸らせなかった。

黄に緑に茶。彩りの豊かな向日葵を背に、夏希は笑う。私の10年を取り戻してねと、笑う。その笑顔はきっと、どんな宝石にも勝る価値がある。僕には、そう思えた。同時に、未だに実感の湧かない雑木林での夏希の一言を、僕は思い出していた。

夏希は、僕がいる1日は、僕のいなかった10年よりも大切だと言ってくれた。

だからなんだと思う。夏希は、僕がいる今日の一日で、あの日から昨日までの僕のいない10年間を取り戻そうとしているんだ。きっと……。

「焦る必要なんてないのに……」

「うん……わかってるんだけどね。」

夏希の表情が曇った。帽子の影が落ちる横顔に、憂いの色が覗く。

「もしもね。あきらくんがまたいなくなっても、また10年……一人で待てるようにって。」

「……」

「あきらくんとの思い出が、私を10年間も生かしてくれた。私、あきらくんがいないとダメだから……」

夏希は、その言葉を最後に口を噤んだ。僕たちの足も、ぴたりと止まっていた。

僕は夏希に、どう言葉を返せばいいんだろう。それが、本当にわからなかった。そこまで想ってくれていたのかって、焦りのような嬉しさがあったのかもしれない。ただ、どうしても言葉は浮かんでこなかった。

でも一つだけ、強い確信を持って言えることがあるとしたら僕は……これを告白すればいいのかもしれない。

夏希の想いを知って気付いた、僕の想い。僕にとって、好きの気持ちは与えるものだったってこと。夏希が好きだってことを僕自身が認めたから、もう迷わない。僕は夏希に、身も心も捧げようって決めたんだ。好きの気持ちは愚かで、一方的で、非効率的な、想いのドッジボールだって、僕は気付いたから。一方的な好きの気持ちが二つあって、初めて両想いになれるって思ってるから。

クズの深淵に堕ちた僕のことを、10年間も待ち続けていてくれる夏希の類稀な優しさはきっと、どんな僕でも受け入れてくれると思う。僕がまた離れてしまっても、きっと夏希は僕のことを好きでいてくれるって、彼女の想いを託した言葉が僕に教えてくれた。

でも……だからって僕も、それに甘んじてはいられないじゃないか。僕だって、夏希を幸せにすることができるのなら、誰よりも幸せにする義務がある。こんなに、僕のことで思い悩んでくれている夏希に、僕の好きの想いを夏希に与え続けることができるのなら……僕は、全てを捧げよう。そう、僕は誓ったんだ。

だから、僕は夏希の肩を掴む。びくっと震わせて、身を捩ろうとする夏希の肩を強く掴んで、慣れないことを前に弾ける心臓を感じながら、僕は夏希を正面に見据える。

ここまで来て引く男はいない。僕はそう、臆病な自分に何度も言い聞かせた。

「あきらくん……?」

「……僕は、いなくならない。」

言葉の最後。夏希の滲んだ瞳から想いが一筋、頬を伝って零れ落ちた刹那を、僕の瞳に映した。深い琥珀色の瞳の落とし物は、僕の瞳から意識へと広がる。陽光に煌めく想いの片鱗が、ここまで美しい色を見せてくれることを、僕は知ってしまった。

夏希のだから?

きっと、そう。

「何度でも言う。僕は、ずっと君の傍にいる。10年よりも長く、ずっと……」

彼女の失われた10年は、現実にはもう戻らない。僕との1日の方が大切だって夏希は言ってくれたけど、過ぎた時間は巻き戻せない。夏希が10年間を、本当に僕だけを想って過ごしてきたとしたら……。

「僕に残された人生は全て、君のための人生だ。」

これが、僕が言葉で示せる精一杯の『心』だった。陳腐だって言われても構わない。心が抱えた無形の想いを、言の葉に乗せて伝えることができる限界まで届けることができるならば、僕はそれだけでよかった。

夏希に、知ってもらいたかったんだ。想いだけじゃない、僕の決意を……。

濡れた瞳が僕を見つめ、決意の瞳が夏希を見つめ返す。二人だけの空間には、時間の感覚さえも必要なかった。

「後悔しても、しらないから……」

「10年後悔したから……もう、迷わない。」

僕は、夏希の手を握りしめた。歩みは真っ直ぐ。迷路を彷徨いながら、はっきりとした足取りで未来を見据えて、僕たちは歩き始める。明確な意思を持つ必要はないけど、ただぶっきらぼうに歩いているだけじゃ、先に光は見えてこない。迷路も、人生も同じだ。

僕たちの物語が、十数年前のあの日から始まっているのだとしたら、今までのストーリーの全てはきっとプロローグに過ぎなかったのだろう。今日、この時から始まる本編が、どんな物語を紡いでいくのか。僕と夏希の二人だけの物語。闇を綴った、長い長いプロローグが培った伏線が、僕たちの物語のスパイスになってくれればいいなって思う。

過去の経験が、幸せな物語を紡ぐ根幹になってくれるならば、いくら陳腐な物語でもいい。自己満足なストーリーでも全然かまわない。この物語に、観客はいらないから。僕と夏希の二人だけが楽しめれば、それで十分。僕たちの物語なのだから、僕たちは僕たちさえ楽しめれば幸せでいられるんだ。

僕たちの失われた10年を取り戻せるのは、他でもない僕たちだけにしかできないこと。だから、僕は夏希のために生きる。夏希の失われた10年は、僕が取り戻す。僕の、複雑に交錯した想いに囚われ続けた10年は、きっと夏希が取り戻してくれる。

それが、未来の光となるのなら……僕たちはきっと、幸せな人生を終えることができるって、僕は信じてる。最期に『ありがとう』で旅立つことができる人生を、きっと僕たちならば二人で創っていけるはずだ。

だから今は、こうして夏希と二人……お互いを共有できる時間さえあればいい。まだまだ時間はある。これから時間をかけて、いろいろなことを経験していけばいい。

「……あきらくん。」

「ん?」

僕の方を向いたまま、僕と歩調を合わせてくれる夏希。ふっとその顔に笑みが灯った。

「好きです。」

世界に色を灯す微笑みと、心を揺らす短い想い。照れたような素振りも見せずに、僕に『好き』を囁いた夏希。僕の知る狭い世界を隈なく照らす一筋の光は、僕の心さえも朱に染め上げていった。

「……僕もだけど、ちょっと恥ずかしい。」

「さっきまで、あんなに恥ずかしいこと言ってたのに。」

言われてみれば確かにそうだ。いや、言われなくても恥ずかしいことを言っていたことは認めよう。でも、さっきまでの僕は、必死になって夏希に想いを伝えようとしていたから、どんなに恥ずかしい想いでも言葉に乗せることができたわけで……。

少しは冷静さを取り戻した今の僕からすれば……。

「やっぱり、恥ずかしいよ。」

「うん。私もやっぱり恥ずかしい。」

夏希は顔を綻ばせて、頬を僅かに赤らめた。

でも、夏希が恥ずかしさを耐え忍びながら、僕に『好き』の気持ちを伝えてくれたのだとしたら?僕にとって、好きの気持ちは与えるもののはず。

ならば、僕だって……。

「……あー。」

「あきらくん?」

しかし、気持ちとは裏腹に、言葉は口を飛び出しては来ない。僕が恥ずかしがり屋ならば、僕の心だって恥ずかしがり屋に違いはないけど、悪く言って小心者も、ここまで来れば笑いものだ。

「……まぁ、いいか。」

「まぁいいの?」

「うん。まぁ、いいかな。」

小首を傾げて、不思議そうな表情の夏希を横目に、僕はまた歩き出す。

大丈夫。好きの気持ちくらい、いつでも伝えられるさ。伝えられるときに伝えなければ、後々になって後悔するって話はよく聞くけれども、運命だって今日くらいは許してくれるよ。一番大切な想いは、ちゃんと伝えたんだから。

……でも。

「やっぱ、僕も好きだわ。」

なんて。言わずにはいられない気持ちも心のどこかにはあって、僕は恥ずかしさを押し切るように言葉に絞り出すんだ。まるで鬼灯の実のように朱を散らせた頬の夏希だけど、それはきっと僕も同じ。

「……私もだけど、ちょっと恥ずかしいね。」

夏希は、自分の顔に手を当てて身を捩じらせた。そんな夏希を見ているだけで、恥ずかしさに押しつぶされそうな気持ちはどこへやら。言葉にできないような不思議な気持ちが、僕の心を満たした。

僕は、遥かなる蒼穹を見上げる。蒼、白、朱が織りなす、どこまでも遠く、どこまでも広大で、僕には手の届かない美しい世界。僕には大きすぎる世界。

でも……僕らには僕らだけの美しい世界がある。僕たち以外の誰も踏み込めない、二人だけの世界がある。この世界に囚われたまま、幸せな時が永遠に続けばいい。僕が願うことは、ただそれだけ。

「行こうか?」

「うん。」

時間はあっても、今日という日は待ってくれない。日はやがて沈み、ここもいずれは暗闇に包まれる。1日で10年を取り戻すための時間は、限られてる。

十数年前に恋人同士として、ここで道を交えたのに、交差してしまった過去。あの日から数えて十数年後の未来。その今、僕たちはまた恋人同士として、ここに辿り着いた。再び道を交えた僕たちの前にあるのは、どこまでも続く、先の見えない一本道。それだけだ。過去と同じような運命は、もう辿らない。一途に思ってくれる人の大切さに気付いた僕ならば、きっと未来に幸福を見つけられる。夏希という光を見つけた今、僕の未来は照らされたから。

僕はもう、間違えない。迷いもしない。

君とならば、幽世にさえ共に……。

向日葵の季節に、蒼穹の下。光を見つけた今の僕ならば、どこへでも行けるような気がした。

期待した内容と違う。ざこめ。など、どんなコメントでも構いません。一言でも残していただけると、次の作品を執筆する原動力になります。

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