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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

短編・中編

サイコパス

作者: こよる

 この世にはサイコパスと呼ばれる人種がいる。反社会的人格を意味するパーソナリティ障害の一類型であり、この世で最もタチの悪い人種のひとつである。彼らは時として社会と衝突し、世間の人々を震え上がらせる猟奇的な殺人事件を起こす。サイコパスの中でも、快楽殺人や猟奇殺人を繰り返す最悪の人種を、人々はサイコキラーと呼んで恐れた。

 その日、櫛神家に現れた殺人者もまた、そうした最悪の人種のうちの一人だった。



 櫛神家は周囲を山に囲まれた岐阜県の盆地に居を構えている。代々地主の一族であり、その家は比較的大きな木造の平屋建てだった。

 もっとも、今やそこに住んでいるのは父母とまだ幼い子供たちだけだ。祖父母は両方とも初孫が生まれるか生まれないかの頃に他界してしまった。立派な家ではあるが、これだけの少人数しか暮らしていないとなると、吹き通る風も寒々しく感じられることが多かった。

 十一月の某日、夕時。

 山の稜線の向こうに夕陽が沈み、あたりが夕闇の不気味な薄暗さに染まり始めた頃、それはやって来た。りんごーん、と来客を報せるチャイムの音が、広い家に響き渡る。

 その時、櫛神家ではちょうど親子が居間に集って夕飯を摂っていた。機嫌よく晩酌をしている夫の明宏に気を使ってか、妻の貴理子が席を立って玄関に出る。

 悲鳴が上がったのは、その時だった。

 玄関の方から。貴理子のおよそ尋常ではない絶叫が居間まで届き、その直後にドサッと、何か重いものが倒れるような音が聞こえてきた。ゴキブリが出たにしては少々度が過ぎる反応だ。晩酌をしていた明宏は怪訝に思ったのか席を立ち、妻の様子を見に玄関の方へと向かう。まだ小学生か中学生という年代の好奇心旺盛な子供たちも、食事を放り投げ父を追いかけて廊下に出た。

 そして、発見した。

 玄関端に、うずくまるように倒れている母の姿。そして、その身体から噴き出た赤い液体が水たまりとなり、徐々に直径を広げて廊下を侵食していく光景。

 貴理子の頭から、斧が生えていた。

 薪割りなどに用いられる、作業用のごく一般的な斧だ。それが母の頭から生えている。生えている、としか言いようがない。

 おかしな話だが、その光景が何故だか滑稽で、様子を見に来た明宏と子供たちはしばらくその場を動くことが出来なかった。あまりに非現実的すぎる状況だったからかも知れない。

 貴理子の脇には、黒い外套を纏った大きな人間が立っていた。

 体格からするに、恐らく男だろう。雨合羽のように外套のフードを目深に被り、やや俯いているせいで、その顔をはっきりと捉えることは出来ない。貴理子の頭から生えた斧の柄は、その男の腕が握っているようだった。

 ゆっくり、ゆっくりと、貴理子の頭から斧が引き抜かれる。

 ごぽり、と粘着質な音を立てて、斧の引き抜かれた頭から赤いものが泉のように湧き出す。斧から血液が滴って、土間を汚した。

「あ……ぁ」

 誰かが何かを言った。明宏と子供たちは射すくめられたように、その場を動くことが出来ない。

 殺人者が、ゆっくりとその顔をもたげる。

 外套のフードに隠された目には、ぎらぎらと異様な光が灯っていた。今しがたの自身の行為に快楽を覚えたように、男は口角を上げて卑屈に笑う。

 逃げろ、と明宏が叫んだ。



 ――手元も見えないほどの暗がり。淀んだ空気の埃っぽい臭い。まともに身体を動かすことも出来ない空間の中、ひたすら待つ。

 


 貴理子が殺されたのを見て、蜘蛛の子を散らすように廊下へと駆け出た人影は全部で三つだった。ひとつはこの家の主、明宏のもの。もうひとつは十四歳の長女、麻里のもの。そして最後のひとつは九歳の長男、祐介のものだ。

 殺人者は廊下の奥へと逃げていく三つの人影を、実に冷静に観察していた。先程貴理子を殺したのに、動揺している様子は微塵も窺えない。彼は指折りで人影を数えると、折られた三本の指をじっと見つめて、あと三つか、と息を吐くように呟いた。

 彼が手に持った斧には、既に貴理子の血と皮下脂肪がべっとりと付着していた。これでは滑ってしまって刃物としての切れ味は期待できないだろう。しかし重量のある斧は、頭蓋骨ごと頭部を粉砕する凶器としては充分に活躍できる。フィクションに描かれる殺人鬼が斧を持っているのにはそれなりの理由があるのだ。

 殺人者がゆっくりと――まるでゲームを楽しむように――櫛神家の廊下へと一歩を踏み出す。その頃、家の中に散った三つの人影はそれぞれの行動を開始していた。

 父・明宏は真っ先に居間に置かれている電話へと走った。恐らくこの事態を警察に伝え、すぐにでも来てもらおうとしたのだろう。常識ある大人として当然の行動だ。

 しかしその指が110番の「1」をプッシュしようとしたとき、居間の入口に黒外套が現れる。

 明宏は一瞬だけ動きを凍りつかせたが、次の瞬間には素早く身を翻していた。おかげで、黒外套が繰り出した斧の一撃をすんでのところで回避することが出来た。斧は電話を粉砕して畳に深々と突き刺さっていた。

 明宏はそこでようやく、自分がすべきことを悟ったようだった。

 武器が畳に取られて隙の出来た殺人者に対し、明宏はその場にあった卓袱台を思いっきり投げつけた。殺人者は奇襲を防ぎようもなく、卓袱台に押し潰されるように仰向けに倒れ込む。立ち直るにはしばらく時間を要するだろう。

 どうにか作り出した隙を利用して、明宏は居間から駆け出した。

 殺人者と戦おうにも、居間には斧に対抗できそうな武器などない。家の中に何かあるとすれば――なんだろう。物置にある金属バットくらいだろうか。

 そう。ともかく、戦うしかないのだ。

 殺人者が明確な殺意を持ってこちらを追いかけてくる以上、警察の到着など悠長に待っている余裕などない。そして家の外に逃げ出そうにも、明宏は父親だった。家の中に隠れた子供たちを残して、ひとりだけ逃げるわけにはいかないだろう。

 殺す、殺す、と明宏は繰り返し呟いていた。まるで恐怖に囚われた自分自身を奮い立たせるように。

 追ってくる殺人者を、殺す。そうでなければ自分たちが殺されるのだ。

 殺人者は自分を押し潰している卓袱台をどかすと、ようやく廊下へと出てくるところだった。倒れた際に脱臼した左肩の、その痛みさえも愉しむように嗤い、廊下の奥へと消えていく明宏の姿を追い始める。

 何も問題ない。右腕で斧が振るえれば、充分に人が殺せる。



 明宏が殺人者から命からがら逃げ出した頃。廊下に散った二人の子供のうち、長女の麻里は自分の部屋へと逃げ込んでいた。もうあたりが暗くなっている時間帯に、下手に家の外へ逃げようという気は起きなかったようだ。櫛神家は山間にぽつんと立つ屋敷であり、助けを求めようにも十分ほど走らなければ人里の集落に出ることはままならなかった。

 それに幸いというべきか、麻里の部屋はこの家では貴重な洋間だ。唯一の出入口であるドアに鍵をかけてしまえば、殺人者も入って来れないと踏んだのかも知れない。

 麻里は部屋に入ると、すぐに扉に鍵をかけた。殺人者の徘徊している廊下とは薄板一枚で分離されているだけなのだが、鍵をかけただけで部屋内が聖域と化したような、そんな印象がある。彼女はほっと一息つくと、そのままベッドに飛び込み頭から布団をかぶった。外部との接触を徹底的に遮断する構えだ。臆病な麻里は、ホラー映画を観るときも大抵、こうして布団をかぶっている。それだけで自分と外界を切り離せたように錯覚し、安心できるのかも知れない。

 でも、彼女はまだ気づいていなかった。

 黒衣の殺人者は一度、彼女の部屋の目前まで来ていたのだ。そして、彼女が内側から鍵をかける音を、ドアの前に立ったまま息をひそめて聞いていた。

 ドアが施錠された後、彼はどうしただろう。

 鍵をこじ開けようとした? 斧を使ってドアを破った?

 違う。彼はそんな常識的な思考回路を持つ人間ではなかった。

 彼は、麻里の一連の作業が終わった後、慎重にその部屋のドアのつくりを確かめた。そして、そのドアが外開きであることを確かめると、近くの収納扉を開け、中にあったものを麻里の部屋の前に積み上げ始めたのだ。

 淡々と、機械的に。まるで河原の石を積んでいるかのようだった。

 五分ほどかけて、麻里の部屋の前には天井まで届く巨大なバリケードが完成した。

 彼は軽く息を吐く。

 彼女はこれで自分の部屋から出てくることが出来ないだろう。ドアを開けようとしても、部屋の前に積み上げられた巨大なバリケードが邪魔をしている。

 麻里はもう身動きが取れない。

 すなわち、ここは後回しでいい。彼女はいつでも殺せる。

 殺人者は壁に立てかけていた斧を手に取ると、先に逃げた二人を始末すべく、櫛神家の探索を再開する。



 ――薄暗さと狭さの中、気配を殺してじっと耐える。



 サイコパスという人種は、時として理解不能であると世間に烙印を押される。しかしその実、彼らを理解するのは一般人を理解するより遥かに簡単だった。

 彼らには、論理しかない。

 一般人の持ち合わせている感情や常識や倫理や、そういった余計なものを取り払って徹底的に合理化した人間。それがサイコパスだ。

 彼らは目的達成のために最も労力の少ない手段を選ぶ。

 たとえそれが、他人の犠牲の上に成り立つ手段であっても、だ。

 手段の選定基準があまりに単純化されすぎているために、彼らは時として道徳や倫理という人間の垣根をも平然と乗り越える。人々は彼らのそういった無情な振る舞いを見てサイコパスだと騒ぐが、サイコパスの本質はそこにはない。

 あくまでも彼らの本質は、徹底された自己本位の合理性にあるのだ。

 この櫛神家を襲撃している殺人者もまた、自分自身の論理にのみ基づいて行動を進めるサイコパスだった。彼の行動を見ていると、まるで規模の大きい詰将棋を愉しんでいるようにも見えた。

 ふと、殺人者の針路に人影が浮かぶ。櫛神家の長男、まだ九歳の祐介だ。祐介は家の中を必死に逃げ惑っていたが、身の隠し場所に困っていたらしい。風呂場に向かうところをちょうど殺人者に目撃されてしまった。

 殺人者は進行方向を変更すると、ゆっくりと――祐介の危なっかしい足取りに合わせるように――後を追い始めた。祐介は標的にされていることに気付かないのか、闇の散らばる櫛神家の中をおどおど歩いている。足音を立てないようにしているつもりらしいが、その努力はもはや無駄だった。

 そして、祐介がそっと風呂場に忍び込む。どうやらここを隠れ場所として選ぶことに決めたようだ。

 殺人者はその思考の幼さに思わず口角を上げてしまう。子供の瞳に絶望が宿る瞬間を想像すると、笑いを堪えるのが大変だった。

 しかし、殺人者が風呂場に一歩を踏み入れようとしたとき。

 物陰から、何かが風を裂いて彼の左腕を強烈に打ち砕いた。

「死ねえっ!」

 それは、さっき武器を探すために逃げて行った、父の明宏だった。

 彼がその手に握っているのは金属バット。やはり、斧に対抗するため物置から持ってきたらしい。バットの一撃は確実に殺人者の左腕を打ち据え、その骨までをも砕いたはずだ。冷酷無比の殺人者も、さすがに呻き声を上げて左腕を押さえてしまう。

 しかし明宏がさらに追撃を加えようとしたとき、殺人者は思わぬ行動に出た。

 あろうことか明宏に背を向けて、風呂場の中へ飛び込んだのだ。まるで交戦意思のない姿勢。明宏はそれでも容赦なくバットを振り下ろそうとするが、すんでのところで思いとどまる。

 その瞬間、バットの標的となる位置に、息子の祐介が現れたからだ。

 危ないところだった。一歩間違えれば、明宏は自分の息子の頭蓋を金属バットで砕いていたところだった。

 しかし、安心するのはまだ早い。

 自分の目の前に祐介が現れたことの意味を理解したとき、明宏は背筋を凍りつかせる。

 黒外套の殺人者が、祐介の、その背後に立っていた。

 まるで祐介を肉の楯として使い、自分の身を守るかのように。

 左腕を砕かれたはずの殺人者は、素早く風呂場へと侵入して、中にいた祐介の背後を取っていたのだ。祐介を楯として利用することを最初から考えていたかのような、機敏な動作だった。

 明宏は、愕然とした面持ちで顔を上げ、殺人者を見やる。

 その眼は、笑っていた。まるで至上の快楽に身を浸しているかのように。

 殺人者が斧を構える。やろうと思えば、彼は一瞬で祐介を殺すことが出来るだろう。

「ぁ……あ……」

 明宏の口から、声にならない言葉が洩れた。それは形勢が完全に逆転したことを悟った父親の、絶望の呻きだった。

 殺人者は、嗤った。

 論理でしか行動しない人間も、他人の感情を逆手にとって利用することはある。

 愛する息子を楯に取られた父は、殺人者の言いなりになることしか出来ない、赤子のように無力な人間だった。

 バットを捨てろ、と殺人者は低い声で命令する。

 明宏は唇を噛んだまま、何も言わずに命令に従った。

 ひざまずけ、と殺人者は明宏に再び命令する。

 明宏は黙って従った。その背中には、自分が狩られることを理解した羊の哀れさが漂っている。

 彼は最期に、少しだけ顔を持ち上げて、呆然と立ち尽くしている祐介の姿を捉えた。その姿を見て、明宏は少しだけ笑った。

 斧が振り下ろされる。

 一度だけじゃない。二度、別々の人間に向かって。



 血の海と化した風呂場の様子を、殺人者はしばらく黙って観察していた。足元には二つの死体が転がっている。父親と、その息子。二つの死体の頭には大きな傷があり、そこから赤い液体がこんこんと流れ出ていた。

 寄り添うように倒れている父子の死に姿に、別に感傷を覚えているわけではないだろう。恐らくは、何かの間違いで死体が動き出さないか観察しているだけ。

 そしてもちろん、二つの死体が蘇ることは有り得なかった。

 たっぷり五分間その場に留まって両者の死亡を確認すると、殺人犯はおもむろに風呂場を出た。袋のネズミと化した麻里を始末するために、彼女の部屋に向かって歩き始める。



 ――悲鳴も祈りも、全てが無意味。ただ獲物を待つ獣のように息をひそめて、その時が来るのを待つだけ。



 殺人者の最期の標的、長女の麻里は相変わらず自分の部屋に篭もって、布団をかぶっていた。殺人者は彼女が部屋から出てこられないようバリケードを作っていたが、その必要はなかったようだ。臆病な彼女には、そもそも部屋を出て外の様子を確かめるなんて発想は浮かばなかったらしい。

 殺人者はバリケードを片付けると、その扉に向かって斧を振り始めた。

 一回、二回……。木が派手に削れる音が、死んだように静まり返った櫛神家に木霊する。部屋の中にいる麻里は、一体どんな気持ちでこの音を聞いているだろうか。

 十回ほど斧を振り下ろしたところで、刃先がドアを貫通した。隙間から手を差し入れ、ドアの鍵を外す。

 殺人者はゆっくりと、慎重に部屋へ足を踏み入れた。狩りで一番危険なのは、獲物を捕らえる一番最後の瞬間だ。死を覚悟した獲物は、時として全てを投げ打って狩人に襲いかかってくる。

 殺人者は薄暗い部屋の中を、ベッドに向けて一歩ずつ進んだ。布団が小さな山となっており、その中に誰かがいるのは明らかだった。

 しかし布団のすぐそばまで来たとき、彼は気付く。

 布団の脇に音楽プレーヤーが置かれ、イヤフォンのコードが布団の中に伸びていたのだ。

 好きなポップミュージックを音量最大にして聞いている麻里は、殺人者に気付いていなかった。いや、気付きたくなかったのだろう。だから音楽で外界の音をシャットアウトし、恐怖を紛らわそうとした。

 布団が小刻みに震えている。

 そんなに、そんなに怖かったのか。

 せめてハサミでも持って決死の覚悟で襲いかかれば良かったのに。

 布団の中の麻里は丸くなって、この世の何ともかかわらないという姿勢を全力でアピールしていた。それでも限りない恐怖が、彼女の肩を震えさせて止まらない。

 殺人者は笑った。

 慈悲のつもりだろうか、彼は布団の中の麻里に気付かれないよう、ゆっくりと斧を振り上げる。プレーヤーから流れる音楽が、最高点に達してより派手に盛り上がる。

 斧が振り下ろされる。

 ポップミュージックの喧騒の中に、人間の肉を裂き骨を砕く、鈍い音が紛れ込んだ。

 音楽は途切れ、布団に赤黒い染みが広がっていく。



 全てを終えた殺人者は櫛神家の居間へと戻ってきた。虚脱したように、畳敷きの床に半ば倒れ込む形で腰を落とす。

 惨劇の櫛神家には四つの死体が転がっていた。

 玄関には母・櫛神貴理子が。風呂場には父・櫛神明宏と長男・櫛神祐介が。洋間には長女・櫛神麻里が。それぞれ斧で頭を割られ、物言わぬ姿となって転がっている。

 黒外套の殺人鬼は、深く息をついた。まるで一世一代の大仕事をやり遂げた後のように。

 そして、完璧に事を成し遂げたという達成感からか、口もとに僅かに笑みが浮かぶ。

 殺人者は斧を無造作に放り捨てると、畳の上に横になった。さすがに四つの殺人の後で疲弊しているのだろうか。そのままこの場で眠ってしまいそうな勢いだ。

 殺人者の肩から、すーっと力が抜けていく。

 ずっと強張っていた筋肉が弛緩し、ただひたすらに虚脱する。


 ――あぁ、この時をずっと待っていたんだ。


 殺人者が眠気に目を閉じたその瞬間、”わたし”は天井裏の羽目板を蹴破って彼に襲いかかった。



 わたし――十二歳の次女・櫛神藍――の足元にはひとつの死体。黒衣を纏った殺人鬼のものだ。その頭蓋には彼自身が愛用していた斧が突き刺さっている。その滑稽な光景を、わたしは漠然と眺めていた。

 ――あの時。わたしの母、櫛神貴理子が殺されたとき。

 慌てて廊下に飛び出し逃げ出そうとする三人を尻目に、わたしは脚立を使って天井裏に這入っていた。殺人者がわたしたちを殺そうとしているのは明らかだったから、下手に逃げ惑うよりも、姿を隠して反撃の機会を窺うべきだと考えたのだ。古い平屋建ての家だったから、天井裏を自由自在に動き回って、羽目板の隙間から殺人者の姿を追い続けるのは容易だった。わたしは一時たりとも彼から目を離さないよう追跡し、彼が斧を手放す瞬間をずっと待っていた。わたしの目の前で、何人もの家族が殺されていった。

 そして全てを終えたと勘違いした彼が、斧を手放し緊張を緩めたその瞬間、わたしは彼に襲いかかったのだ。

 斧で頭を叩き割られる直前、殺人者はフードの奥の目を細め、わたしを見て実に悔しそうに微笑んだ。まるで、ゲームに負けて残念だ、とでも言うように。

 そして、わたしも笑った。このゲームはわたしの勝ちだ、と。

 今回のことで結局、わたしは家族四人を一度に失ったことになる。しかし彼らを見殺しにしたという罪悪や後悔の念は、わたしの中には一切発生しない。

 今回、わたしが「目的」としたのは自分自身の生命の保全だった。

 そのために全力を尽くして、結果目的を果たしたのだから、これほど喜ばしいことはない。わたしは死体だらけの櫛神家にあって、実に晴れやかな思いだった。

 極度に合理化された、論理しかない人間。

 櫛神家を襲った殺人鬼と同じように、このわたし、櫛神藍もまた反社会的人格を持つ人間――サイコパスだったのだ。

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