赤い糸屑の導くままに!!
嫁き遅れまして幾歳月、この小指についている糸屑は何だと思いますか? うふふ、比喩でも何でもなく血の色した赤いこの糸ですよ、こん畜生。
幼女なら口にして許される運命の糸屑も、ええ、良い年した私では痛々しいコレ。言っておきますが自分で結んだのではありませんから。
なんじゃこりゃ、と思っても縁起が悪くて除去出来ない糸屑。ある朝小指に結ばれていたわけです。誰の悪戯か凶悪な所業に泣きながら小指を突きつけて喚いた結果、腹を抱えて大爆笑を貰い、ええ、良い笑い者にされましたよ。どうやら他人には見えない類の悪質な物質らしいのです。
恐ろしさ倍増ではないですか。
だからって、ずっとつけてるわけにもいきませんでしょう、そうでしょう。ええ、目障りです。凄くイラッときます。糸屑と言っても5cm程度の規模でもなく何処か遠くまで続いているんです。ちょっと外に行ったくらいじゃ終わりの見えない何処かまで。ちょっと、いや、ほんのちょっとですが気になる乙女心もあるわけです。
ええ、まさか獄中に繋がってるなんてな。
脳内会議だ、私達諸君!! 赤い糸をちょっとトキメキながら辿っていた私になんたる仕打ちでしょうね! 何故よりによって分厚い塀の向こうの極悪非道な悪人共の中に私の運命を繋げてしまっているのか!? とんだ縁の無い世界ですよ。そりゃ、嫁き遅れもするわ、どんまい私!
ふ、しょせんは赤い染料に漬け込んだだけの糸屑。こんなものに繋がっているだけの相手がどうだって言いますか。どれだけ嫁き遅れた焦燥にかられているのです。こんな糸屑をたぐって運命の人を見つけようだなんて、更には罪人相手に希望へすがろうだなんて。
ジル(ピー)歳、獄中に潜伏中です。
他人に見えない小指の赤い糸屑。その異常現象ゆえに、除去して発生する予測不能な事態が恐ろしくて解くことも出来ずにいました。仮にこのまま永遠に結びっぱなしにするとしても、これ以上の視覚的テロがあるでしょうか?
極悪非道な犯罪者の顔さえ見てしまえば諦めもつくというもの。除去しても後悔しない相手かもしれないじゃないですか。あるいは……どちらにせよ、このままじゃ収まり悪いんで女は度胸です。そうでしょうとも。
仕事終わらせて潜入した夜の獄中は見回りの看守を抜かせば静寂そのものです。2人1組で動く武器携帯の厳つい男達が暗い廊下を通り過ぎます。ジリジリと姿が見えなくなるのを待っていたら、モブの一人が「ん?」と声を出して戻ってき、なんだと!?
「どうした、ジャン」
「いや、なんとなく女の匂いがした気がして。幽霊か?」
ヘラヘラと笑ったモブがフザケタ事を言っておきながら正確に私が隠れている隙間の暗闇に灯りを差し向けようとしているではありませんか。仕方ありませんね。
「ふん!」
「ぐほぉ!?」
モブの本名ジャンさんの胸に一発拳を入れると、脆くも床に崩れ落ちていきました。横を向けば目の合った看守が大きく身体を揺らしてジリと後ろに後退します。私もそれに合わせて両手を構えつつ間合いを寄せ、しかし次の瞬間にはなんと看守がダッシュで逃げだしておりました。
いえいえ、応援を呼ばれては不味いので無言で追い迫りますよな私、血の気を引かせて笛を手にしてますよな看守。
でも笛で呼ばれるまでもなく別のルートから近づいてくる見回りの声がしました。これはいけません。私は逃走する看守の足元に捨て身で滑り込みます。石畳でかなりのダメージを受けようとも手段は選べません!
「まっ!?」
私にとっては幸運、看守は喉が引きつって声が上げられなかったもようなので、トドメに馬乗りになって腕を回し口を塞ぎながら締め上げます。バンバンと響かない床を叩く看守。
叩く音は先方に届きませんでした。少し先の暗い通路に灯りが現れ、2つの人影は横切って真っ直ぐに消えて行きます。充分に離れたかしら? と自問していると、捕まえた看守の右手に呼び笛を発見。私は締め上げていた片手を離して激しい攻防の末に笛を抜き取り、そのまま叩き折りましたとも、ええ。
看守の彼は座り込んだまま剣先を私へ向け、刃渡りの長さだけ安全とでも言わんばかりに私の事情を静聴しました。しかも反対の手を常にポケットへINしながら。油断大敵ですね。面倒な展開になる前に彼もしばき倒してしまいましょうか?
私の脳内会議で彼への行動選択肢が『しばく』一択に決定しかけているとも知らず、彼は投げやりに溜息をついております。地面に片膝を立てて壁に後頭部を預け、天井を見上げながら剣先なんてもう地面についちゃってますね。
「つまり好いた相手の脱獄幇助とか、犯罪的プロパガンダでもなく、そちらさんは未確認物体の赤い糸なんてものを信じて監獄に乗り込んできたと」
「殺しますよ、違います。私は赤い糸なんて信じておりませんとも。ですが、他人の目に映らない物質という不可思議な存在が何処に繋がっているのかという崇高な学術的探究心に則り」
「……自分で言ってて訳分からなくなってこない?」
「分かってますよ、分かってますともっ、他人からすれば何にも無い空間指して赤い糸とか掲げながら何を意味不明な事ほざいてやがんだ、この救いようの無い嫁き遅れのオールドミスがと罵りたい状況だと分かってますよ! 酷い!!」
「いや、言ってないのに」
「ええ! そうですね、嫁ぐ先なんて私にはこれぽっちも候補すらありませんよ。周りが段々結婚をしていく中で取り残されていく焦りに病んで赤い糸なんて痛々しい幻覚を見てしまう。それでも赤い糸にちょっとドキドキときめいた結果が監獄なんかに繋がっていたという哀しい<ピー>歳の気持ち、これ分かりますか!? 分からないでしょうね、男に分かるわけなかったわ!!」
「ちょっと待」
「笑いましょうよ、笑ってくれればいいんですよ。こうなりゃ極悪人の面を拝んで赤い運命に黒い絶望のトドメを刺し、結婚しなくてもいいじゃないかと前向きで灰色な生きていく心構えを作り上げれば、この赤い糸もすっぱり指ごと取り払ってゴミ箱にポイ出来るからと、自分と向き合い一人で生きてゆく覚悟を固めるために乗り込んできた女を、さあ笑えよ!?」
「ちょっと落ち着こうか」
「はぶしっ」
肉を叩く音で顎に衝撃を受けて後ろに首が折れる。あろうことか看守は剣先を持ち上げて、平らの部分で私の顎を叩き上げたんです。乙女の顔をぶちました。しかも物使ってぶちました。
このまま連行するつもりかと思いきや、看守は「それで未確認物体はどっちに続いてるってんだ」と話を続けてきました。もしや呼び笛を私が壊したから安全策をとって見回りの仲間が来るまで時間稼ぎをしているのでは?
ここで糸の先を確認できずに施設侵入罪で捕まる→すると私は結局相手の面を拝む事が出来ずに悶々とした人生を送る→死ぬ。
「あ!」
「は?」
あらぬ方を指差して釣られた看守の隙をつき、私は猛ダッシュで逃げだしました。と見せかけて壁を蹴って天井近くまで跳び上がり、目を大きく開いた看守へとこの両足で全力のドロップキックを「危ね」したのに避けられたあああああああ!?!?
石床に思いっきり着地。
「はぐああああ」
予定外の硬い衝撃であまりの痛さにしゃがんだまま悶える。後ろに立った看守から物凄い蔑みの視線を感じます。
「頼むからこれ以上アホな行動は慎めよ」
「く、ぐ、足結構痛い。う、私は、私はここでもしかしたら運命の相手が実は無罪のイケメンかもという可能性を確認せずに死ぬわけには、これ足折れたかも」
「いや……痛がる時間位やるからさぁ」
邪魔者排除の作戦は失敗です。どちらかというと痛い思いをした分だけ私の敗北です。敗者なので仕方なく尋問を受けるしかなかったのです。
「要するに、このままタダで帰るわけにはいかないし、このまま走って目的達成しても応援呼ばれると不利だと。それで僕をノしてしまえば良いと判断したと」
「貴方、人の話まとめるの好きですね。私の紆余曲解による経緯と選択についての詳しい説明をそんなに短くされると複雑です」
「翻訳しないと意味が分からないから確認してるわけで、同時にあんまりな動機に正気を問いたいって意味でな」
「要するに、正気かお前馬鹿じゃね? と言うわけですね」
「殴りかかりながら本意を問うのは止めようか。ちなみに要はその通りだ」
「スピード上げますね」
ぎりぎり掠ってるけど拳を避けてる看守のお名前はスルドさんとか言うそうです。その看守が現在何故に私の横で攻撃を受けながら歩いているのかと申しますと。
「いや、止まれよ。糸の切れ端を見届けたら帰るって約束で譲歩してやった寛大過ぎる不真面目な看守の僕に感謝して止まれよ」
そうなのですよ。このスルドさん、『見たら諦めて帰るんだな?』と言って監視付きで私の潜入を許容したんです。ちゃらららっちゃちゃーん、侵入者は看守を仲間にした。なわけです。どうやってこの人職場に言い訳するつもりでしょうか。同行の動機は途中で私を罠にはめて捕縛する路線が一番濃厚。ですが保身のため一回逃がしてから指名手配。実は切れ者で私の正体を深読みした結果泳がせているという考え方もありますけど、どうでしょうね。
でも振りかぶってパンチは中止して私の指から廊下の奥に続いている赤い糸に視線を戻しました。
「確かに悪者は私です。少しは謙虚にしましょうか。ありがとうございます」
「そこで素直になるのか」
暗い廊下の闇に吸い込まれる様に続く赤い道標は、私が歩けば伸びていたゴムが縮む要領で弛む様子は見られません。ますます未知の物質エックスです。質感は糸でゴムの感触など一切感じられませんし、引っ張られる気配もまったくないのですが。
「この先は特殊監房だ。厳重な檻が必要と判断された奴がぶち込まれてるな。現在は3人投獄されている」
「つまり袋小路ですか。私を捕まえるにはうってつけと……やはり罠」
「感謝からの路線変更早過ぎ。進む道を選んでるのはあくまでそっちだろ? 赤い糸が本当に見えてるなら、それを辿って、って事になるが」
「私の話を信じているとすればスルドさんかなり痛い人ですね。しかし信じていないとすると私を頭の病気になった可哀想な女だと思っている事に。もしくは演技をして脱獄幇助が真の目的だろうと睨んでいるとか」
「女のそういう話はいかなる内容にもノーコメントを通すのが家訓だ」
「それで投獄されている3人のプロフィールなんですが」
「だからそこで話戻すのか。話題転換が急なんだよ」
「ざっと罪状を教えていただけますか?」
「しかも普通そこは名前とか性格を聞くところだろうに」
「何を言っておられるのですか、スルドさん」
特殊監房に投獄されるような人格?
犯罪者なのですよ。
「罪状という夢の無い部分から確認していって、無駄な期待を持たないようドン引きの心構えを盾に精神衛生の防衛を図るんですよ」
「どれだけ追い詰められてるんだ、あんた」
「とりあえず視界にカップルが入ったら、道端で犬の糞とか踏んでテンション下がりますようにと呪いをかける程度に」
「凄くしょうもないが、病気なんだな」
ケツに強烈なやつを一撃入れてやりました。前のブツじゃないのはせめてもの情けですよ。
ではスルドさんが漏らした情報を整理していきましょう。
エントリーナンバー1号、連続婦女紳士暴行犯。最悪です、初っ端から最悪の罪状きました。婦女暴行とかドン引きですが、間に入ってる紳士って何ですか。そうですか。そちらも襲っちゃう系だから特殊監房で隔離しているんですね。同じ部屋に誰を入れても危ういわけですね。間違っても糸繋がってませんように。
問題外からは目を背けてエントリーナンバー2号、殺人鬼。そうですよね、特殊監房って言う位だから極悪はデフォルトですよね。女の内臓を集めて死んだ奥さんを復活させようとしていた。ああ例の事件ですか。知ってますよ、ニュースで聞きましたよ、冗談じゃありませんよ。
なんだか通路を爆破して埋め立てたくなってきましたがエントリーナンバー3号、強盗。繰り返し執拗に同じ豪邸を攻め続けるという謎の犯行を繰り返している監獄の有名人だそうです。捕まえても脱獄して屋敷に強襲するんだとか。意味は不明ですが、何か因縁とか怨恨の線が濃厚な犯罪者ですねぇ。既に通算11回目の脱獄をされたとかで、看守が無能なのか天才的な脱獄の名手と判断すべきか迷います。
「それで3号さんはどちらにおいでで?」
「分かりやすく前二人を脳内排除したな。ギロは一番手前の牢だ。動きを制限する拘束具に2畳の間取りで、鉄格子は奴のために特別に溶接して扉をなくしてあるから腕位しか行き来できない。飯も牢の外に置いてスプーンでなんとか部屋の中に持ってくる感じだ」
「そこまで厳重にしていて脱獄を繰り返されているのか、ジワジワと拘束を強めているのかは知りませんが、もはやコントですねぇ」
「次に脱獄されると流石に手足を落とされかねんがね。指の方は今回で結構重要な」
スルドさんは右手を胸の前に挙げて、親指と人差し指をニキニキと動かして見せてきました。
「2本を両方とも落とされちまったから小細工は難しくなっただろうがな」
「それは大変ですね。ご飯食べづらそうです」
「……せっかく選び出してやったドン引きネタを」
「指が無い一般人など巷に溢れかえっております。工場勤務のうっかりさんからチョメチョメさんまで理由は様々ですが、現時点で私にとっては小指さえ残っていれば糸は確認出来るので問題ありません。それより繰り返し襲われているご家庭が自業自得なのか、単に3号さんの意地で襲われている哀れな一般人なのかが微妙なポイントです」
「確かにギロは目的を吐かずに口を噤んでいる。襲われている被害者からも何故狙われているのか心当たりは提供されていないな」
「つまり問題さえ取り除けば善良な良い男である可能性は無きにしもあらずと。運命に抗えないトキメキで思わず脱獄させてしまいかねない展開もありえると」
「いや知らないけど余罪とか追求してる最中のアウトローに向かって楽観視し過ぎてるだろう。それにちょっと待った。あんた無駄な希望を持たないための心構えをするんじゃなかったのか」
「少しだけなら許容されるべきです。到着するまでの短い道のりで夢想する程度、これからの長い孤独と比べればほんの小さく害の無い時間でしょう。それに微々たる予定変更の未来が絶対に確率として無いわけではありませんので」
歩きながらスルドさんは訝しげに顔を歪めております。
「なあ、こんな無茶まで図らずとも高い理想さえ持たなければ男ぐらい見つけられるんじゃねえか?赤い糸が繋がってない相手とは結婚できないとか心惹かれないなんて事もないだろうし、大体こんな所にいる相手よりはよそで良い男がいくらでもいるだろ」
鼻で短く笑いました。
「私みたいな女に誰かの一番になれる要素がありますか?秀でた魅力や利点が壊滅している私に結婚は無理です。だからって私からも誰かを一番に想いたい相手は見つからない。心惹かれるきっかけが見当たらない。毎日仕事と家の往復でアタックする標的が思いつかない枯れた日々、そんな折にこんな赤い糸が」
左の小指を持ち上げても、スルドさんに見えないのは先刻承知です。誰も彼も皆が見えないと言うわけです。でも私には見えちゃっているわけです。ドッキリだったら殺すかもしれません。
「見えました。私にも運命の相手なんてものが存在するのではなんて考えたら、ちょっと確かめてみたくなっただけです。けして、別に、本気で、赤い糸屑がなんらかの希望を孕んでいるなどとは1㎜も思っていませんよ。ええマジで」
「いや、こんな所に法を犯してまで侵入した時点で……拳を収めろ、みなまで言うまい」
信じてるわけないでしょうに。そんな夢見がちな年齢はとうに過ぎたわけです。赤い糸だわとか言ってきゃっきゃ言ってたら、あいたたたですよ、こんちくしょうめ。だけど長い人生の中で少し不思議ですねという現象を、少しだけ、稀に位、ええ、追ってみてもいいかもしれないと頭に浮かんでしまっただけです。
血迷った的に。
「く、廊下えらく遠くないですか?」
変に突き詰めて考えていると胸にモヤモヤしたなんらかの物質が発生してくるので、とっとと目的果たしたいです。
「だから進む道を決めてるのはそっち。特殊監房の廊下だから確かに別の廊下よりは長い造りだが大した距離じゃなかっただろ。ほれ、そこがギロを拘束してる―――――」
床深くがズレて落ちる音が地の底から響き渡る。
牢じゃなくて地面に目を落としました。沈んでるじゃないですか。地盤沈下じゃないですか。これかなりヤバイんじゃないですか!
後ろ振り返ったら廊下が途中の所から歪んで潰れてました。体に浮遊感を感じたと同時に二の腕を掴まれて振り返ったらスルドさんがいたんですが、お互い真下に激しく落下しておりますね、これは……死んだ。
「「ぎゃあああああ!!」」
崩落の生存確率は一体、いかほどですか?
とりあえず現地では100%が実証されました。私は生きてます。スルドさんも生きてます、最初白目向いてましたけど私の方を下敷きにしたくせに。
「すまん、その、これしか無いんだが」
薄汚れたタオル差し出してきたスルドさんの手を叩き落します。鼻血はひとまず自分の袖で横殴りに拭きました。スルドさんは「あー」と今までの減らず口を失くして立ち上がりますが、こんな非常事態にまでポケットに手を突っ込んだままなのでよろけております。転げろ。出来るだけ強く顔面から転げろ。
「何がどうなったんだ? 周りが崩壊しまくってるんだが地震の揺れは感じなかった。まさか爆発」
「違います。爆音もなかったでしょう。足元の崩れる瞬間、地下にも関わらず空洞を感じました。更に廊下は上に向かって消えています」
もう一度拭って鼻の上を強く押さえて周囲の状況を把握しました。
「建物を建てる際に地盤を調べないわけがないので構造上おかしい話になりますが、廊下が隆起して上に行く事態の方が特異なので、当然私達が落ちたと考えるのが妥当でしょう。これは厄介ですよ、生還が困難です」
「確かに瓦礫に潰されるだけならともかく、穴の中に埋め立てられたとなると全方位で分厚く外界と隔絶されたってことになるからな」
「幸いこの周辺だけがごっそり地盤沈下したと仮定します。タイミングは私とスルドさんが足を踏み入れた瞬間でしたから、この領域はすでに2人分の体重でも耐え切れないレベルに達していたんでしょう」
建物自体は頑丈な石造りです。落下しといて歪む程度で済んでいますから建造物の劣化とは考えにくいのです。そんなに激しく直落下したわけではなく勢いよく沈み込んだお陰かもしれませんが。
「ヤバイな。特殊監房はここから一本道の袋小路だ。完全に孤立化した」
「早く対策を打たねば命にかかわりますね。この内側にいるのは残り3人ですか。犯罪者1号から3号の…………」
私は幸い消えていなかった灯りが照らしている廊下の一点を見ました。
「ん? なんだ、どうした」
ちょっと早歩きでソコに近づき足元に手を伸ばしました。触れたのは赤い糸の先端。赤い糸が続く床を進む度にどういう原理か私の小指から弛む事無く縮んでいた糸の反対側が結ばれていたのは壁のフック。
無機物。
瓦礫の下敷きを免れていた赤い糸の結び目を解くと、もはや私の小指からぶら下がっているだけの糸でした。無残な糸屑ですね。
「あー、その、ジル?」
生温い雫が頬を伝って落ちました。
「私の糸、誰にも繋がってなかった」
『ぶおおおおお』
割と近い場所から犯罪者でも絞め殺した様な声が聞こえてきました。唸り続けてどうも黙りそうにない不愉快な声、ああ本当に不愉快な声です。
イラッとした瞬間にどっかの糸と同じく即時プチリと切れました。
「ちょっと黙らせましょう」
「待て待て落ち着け」
ちょうどいいサイズの瓦礫を手に牢に向かって行く私を後ろから追いかけてくるスルドさん。あれほど長かった廊下がすぐに終わり鉄格子の前に着きました。中には拘束具をつけられた男が目を回して唸っていました。騒音の元はこいつか。
つまり。
「どこぞの看守さんみたいにまとめると、脱獄する際に穴掘り名人なギロさんは地面をコツコツとモグラの如く掘り返し、今回はその副効果で建造物の重みに耐えられず沈下。私を目的外の事態に陥れていると言うのですね」
ボコボコにした3号は口の拘束を解いて差し上げたのに黙ったまま頷きかけて「いや、別にお前を陥れるつもりだったわけでは」と反抗的な口を利こうとしたので腹パンで再度黙らせました。鉄格子を溶接されていた3号ですけど、それは私が3号をボコるために物理的に破壊しておきました。
「ありえねえわ、あんた」
スルドさんは鉄格子があった部分を眺めながら声を震わせています。が、スルーです。それよりこの3号、なんでも本職は鍵屋。最初は普通に解錠して脱出していて、拘束も時間はかかるものの解除していたんだそうな。
「その鍵屋がなんで穴掘りにまで精通してるんだよ」
3号、『何を当たり前な』の顔で顎をしゃくりました。
「馬鹿みたいに内鍵をつけてる屋敷で鍵を紛失して出られなくなっているという依頼の時に必要だろうが」
「窓から入れええええええ!!」
「鍵を大量につけてる様な屋敷では大抵窓がはめ込み式の分厚い強化ガラスだ。ここの監獄だってそうだろう。とはいえ地面に穴を掘った跡が残ったりすると苦情が殺到する。俺は腕が良いから、その手の依頼主からの呼び出しが」
「どうでもいいギロさんの特技由来はなんとなく把握しました。案外地上までの脱出は容易にできそうですね」
私が壁や地面に視線を走らせると、3号が首を振る。
「いや、流石の俺もここまで地層が深くなると硬くて難しそうだし、数日で掘れる自信はないな」
「ギロさん」
私はまだ半分拘束したまま3号の肩に両手を優しく置きます。
「自信が無いじゃないんです。やらなきゃ1号の牢に放り込んで人生の終末を味わわせます」
「1号って、ああ、連続婦女紳士暴行犯の」
「人でなしか! てめえら!!」
「そういえばティンバレスとタンバリンの生存も確認しねえとな。瓦礫で潰されてなきゃいいけど。いや、連中だったら潰されててもいいのか? いやそれは人として」
「そうですね。1号及び2号の特技も確認してみましょう。目的も果たせなかったくせに生き埋め死亡とか冗談じゃありませんよ」
武器を瓦礫から落ちてる鉄格子にチェンジして暗闇の先を見据えました。
若さ溢れる10代が手を上げました。
「1号ティンバレス、特技は男でも女でも今からでも死ぬまでイかしてあげられる素敵技術。超絶倫」
「一人で逝け。2号」
「ふむ? 私は妻一筋の男でね。特技なんて呼べる物は何もなっかったな。あえて特筆するとすれば妻に必要な物を手に入れてあげるために生きているといったところかな。以前は指輪が欲しいと言われても中々プレゼントしてやれなかったからね。これからはなんだって手に入れてあげようと今は彼女に必要な内臓を」
「お大事に。まったく、ろくなのいませんね」
「ここ特殊監房だぞ」
1号と2号を拘束した状態で牢から出して差し上げたんですけど、ちょっと役に立ちそうにありません。一方、3号には壁を掘らせているわけですが、ちょくちょく視線を向けてきます。穴を掘ってる間に背後から下半身を掘られたり内蔵を掘られたりしないか気になって仕方無いみたいですねえ。
スルドさんは崩れている瓦礫の隙間を照らして、どうにか上に通じていそうな所を探してらっしゃいます。私? 私は1号2号の見張りを任されました。あー、楽でいいなとか思いましたね? 夢見る瞳で内臓抉り出して皮袋に詰めて妻作りに勤しむ過程を語りだした男と、息遣いも荒く性的興奮にギラギラして舌なめずりしてる男を目前にしているだけの仕事ですけど、楽な仕事ですか、そうですか、正気ですか、馬鹿ですか。
「提案があるんだけど」
「はい、ティンバレスさん」
「もう我慢出来ない。やらせて」
私は彼の隣に座らせている2号に目を向けましたが、曇りの無い瞳で微笑を浮かべて首を振られました。そうでしょうね、2号は妻ラブですものね。3号に向けて親指を向けました。
「ギロさんが脱出ルート製造を諦める瞬間まで我慢してください。限界突破してこそ燃え上がるものもあると思います」
「頑張ってんだから変なフラグ立てるなあああああ!?」
涙声で叫ぶ3号の動きが速度を上げて壁を削り始めました。その横を通ってスルドさんが何か片手に持って戻ってきました。
「駄目だ。瓦礫をどかしていくと、微妙に保ててるバランスが崩れて土が流れ込んでくる」
髪が土と石にまみれています。まともにかぶったみたいですね。膝を曲げてしゃがむスルドさんの髪を払ってあげました。でもま、洗髪しないと無駄っぽいですね。
「とはいえギロの脱獄ルートは以前も土の中で休みながら掘っていたというから、地層が深くなった分だけ更に時間がかかる。空気が無くなるのが先か、救助が見つけてくれるのが先か」
「スルドさん……」
鉄格子を両手で握り締めて強く見つめ上げます。
「諦め発言が鼻につきます。ギロさんより先に生け贄になりたいんですか?」
1号が興奮に息を切らせて「もう誰でもいいから早く」とか身を捩ってます。スルドさんは真顔で1号を横から踏みつけました。救助を待つにしても特殊監房の罪人と一緒に閉じ込められているだけでも身の危険を感じますねぇ。救助だって来るつもりがあれば良いですけど。
見張りをスルドさんと交代しまして、崩れて瓦礫が埋まっている廊下を見にまいりました。牢屋のある区画と違って、単なる石壁で覆っただけの廊下は見事ぺしゃんこ。他がまるっと形を残しているので暢気に構えていますが、とりあえず誰も潰れずに済んだとは運の良い話です。
この特殊監房だけが落ちたのなら救助も期待できますけど、建造物が全体的に潰れてたらここの優先順位かなり低いでしょうねぇ。
……。
「スルドさん!」
早足に戻りましたら1号と何か言い争ってましたけど、鉄格子同士をぶつけて大音響で黙らせました。
「お、ま、急になんて聴覚テロを」
「スルドさん、特殊監房の真上には何がありますか!!」
剣を持ったまま片耳を押さえているスルドさんの手を無理やり引き剥がして耳元でリピート。
「同じ建造物なんですから、この真上も原型を留めている可能性が高いのです! 壁ではなく天井に穴を開けるんですよ!」
目が合いました。
何故でしょうね、人間は上に対する警戒心や意識が薄い。
「あー」
「ええ」
2号が感心した顔で私を見上げて輝く笑顔を向けてきました。
「貴女はとても良質な脳みそをお持ちのようだ。なんと素晴らしい」
特定の内臓限定で見初められてもまったく喜ばしくありませんよ。
スルドさんの記憶の地図を頼りに破壊する場所を決めると、そこに運べるだけ瓦礫を積み上げました。3号が鉄格子で天井を突くと、こっちに視線を向けてきます。
「もうちょっと高さが無いと作業し辛ぇ。上の状態も分からんし、下手にやっても天井が崩れそうじゃねえか?」
「ちっ、理知的な見解です。ではティンバレスさん、タンバリンさん、横に並んで四つん這いになって台座の役割をしてください」
「えー。瓦礫の上に膝をつくとなると超痛そうなんだけど。第一俺は四つん這いになってる人の上に乗るのが好きなわけで」
鉄格子を床に叩き付けて私のお願いを速やかに実行していただきました。
「よっ、と」
「痛い痛い痛い!」
「うわ、動くなって」
「これは!! …しかし妻の苦しみに比べれば」
まあ角の立ってる瓦礫の上で組み体操をして上に成人男性が乗ったら地獄なのぐらい想像つきますけど、どうせ確定犯罪者なので同情は必要もないでしょう。スルドさんが人間台座の後ろから不安定な3号の背中を支えます。
「ところで目の前の姉ちゃん、あんたは一体なんの役目をやるつもりのポーズだ」
あら、3号が青い顔で言及してきました。
「私は鉄格子でいつでもフルスイングできるようにしていますね。それはともかく他2人の耐久にも限界があるんですから速やかに職務をまっとうしてください。ちなみに役目を放棄した瞬間連帯責任ですので全員ぶちます」
「どこの奴隷監視員だ!? 鬼か、あんた!!」
3号が慌てて天井に手を当てながら鉄格子でガッガ、掘り始めました。ヒビが入った岩に指をかけて取り外しつつ、偉そうに言うだけあってスピード作業ですね。
「はいはいはいはい! 一つ提案が!」
1号が悲痛な声を上げる。
「鉄格子を握りしめるより俺の棒を後ろから優しく絞ってくれた方が頑張れる、割とマジで!!」
「ここを出たら君にまたプレゼントがあるんだ。良質なものだから君も気に入ってくれるはずさ。いつだって貧しい暮らしに文句なんてつけずにいてくれた君の綺麗な体を戻すには一番良い物をそろえなければいけなかったんだ。早く目を開けておくれ、ビブラ。ああ、早く抱きしめたい」
1号2号のスタートダッシュなクライマックスぶりに3号も焦りで真っ青です。壊している天井の土埃と瓦礫を振りまきながら鉄格子でガツガツ穴を掘っています。
さて、問題は天井に穴を開けた後ですよ。この台座が耐えられなくなってもスルドさんに肩車をしてもらって作業を続けることも可能です。むしろ今それをしないのは1号と2号に余計なことをさせないため体力を奪っておくためでもあります。拘束されていても凶悪犯ですから潰しておくにこしたことはないでしょう。想定より3号の作業はかなり早いので、上階が崩れていない限り脱出は成功したも同然ではないでしょうか。ぽっこり地上に程近くなっている窓からスムーズに出られるかもしれないし、上階が埋まっているとしても柔らかい地層であれば、それこそ3号がモグラの如く働けば良いわけです。では何が問題か?
私、ここに侵入してる不審者なんですよね。思い出しましたか?
スルドさんの真意はともかく見逃すと言ってくれてるわけですが、他の看守に見つかった時にまで庇う道理がないんですよ。こんな大事になってしまってはね。つまり助かった所で私は1号から3号の次にくる4番目の罪人としてお縄になるかもしれません。
「はあはあはあはあ、多分半分位いったぜ!」
「凄ぇな!? でももっと急げ!! フルスイングマジでくるぞ!!」
鉄格子を握る手から垂れる赤い糸に視線が吸い寄せられます。馬鹿馬鹿しい物に期待した結果、思っていたよりずっと虚しい気分です。
3号が鉄格子をどけて手の平で天井を押し上げるとメリメリと手が進んでいきました。
「いけるぜ、計算通り向こうは空洞の部屋だ! 多分感触からいって瓦礫で埋まったりもしてねえ。一気にぶち抜く!!」
硬い瓦礫が転がる音がして3号の肘まで腕が通りました。そこから両手で石天井を割ってはがしていけば、あっという間に脱走犯のお手並み拝見でしたよ。3号はその穴から上によじ登りました。そして歓喜してます。
「うおお! またギルが脱走してやがるぞ! 確保ぉ!」
「なん!?」
そして次の瞬間、捕縛されました。
天井の穴から看守が顔を出しました。
「無事だったのか。いきなり特殊監房が潰れたとかで来てみたはいいものの、どうしようかと思っていたが沈み込んでたとは」
明らかにスルドさんが安堵しています。
「ベースか! 助かった。ここに後4人いるんだ。順番に引き上げてくれないか!」
「おいおい、ティンバレスとタンバリンまで牢から出ちまってるじゃねえか。お前、スルドか?」
上階はにらんだ通り無事だったようですね。犯罪者を移送するにあたっての手筈を話し合ってます。上では騒がしい大勢のざわめきが聞こえます。そりゃ、監房が一部地盤沈下したら人も収集されるでしょうとも。
私はなんだか一気に気力がなくなって石床に座りこみました。
もはや逮捕も確定しました。しかも小指に結ばれている謎の物体Xは、糸の先は無機物というバカバカしい結果に終わったのです。
死にたい。
「じゃあ、とりあえずレディファーストであんたから引き上げさせるから僕の肩に」
横にスルドさんがしゃがみこんで声をかけてきます。
「私は最後でいいです」
「は?」
「しばらくココで過ごすのも悪くない気がしてきました」
「いやいやいや良くないだろう、どう考えても」
そうでもありませんよ。
「餓死しそうなくらい飢えた上に周囲が石壁という孤独で過酷な環境に身を置けば、外の世界で生きられるというだけで長い一生を幸せに感じられるようになるかもしれません」
「急にどうした」
小指を強くこすります。
糸の感触がコロコロと小指を囲んで回るが取れなくて顔を上げて結び目を解きにかかります。こんな糸屑はその辺に捨ててやります。なかなか細かく固い結び目で上手くいきません。
「当初から期待なんてしていませんでした。繋がっているのが監獄ですし、私に運命の相手なんてちゃんちゃらおかしいですからね。ええ、分かってましたとも。でもそうだからこそ非常識な物質が、もしかしたら、微々たる可能性が、万が一ということもなんて頭を過ったんです。本当に期待なんてしていませんでした。でも確かめなかったら、ずっと、このもしかしたらに後ろ髪を引かれて生きていくのは目に見えてました。でも確かめずにいた方が私には運命の相手がいたかもしれないなって夢は見れたのかもしれませんね」
とにかく馬鹿なんです。馬鹿馬鹿。こんなことをしでかした馬鹿。
「救出された後に取り調べで洗いざらいこの馬鹿らしい心情を述べさせられ、自分でも相当馬鹿だと思っているのに他人から馬鹿にされたら私は切腹します。だからちょっと持ち直すまでココで一人にしてください。もし周りが崩れて死んでも構いませんので」
「えーっと、要は」
「まとめなくて結構です。まとめたら死にます」
天井から「おい、何してんだ」と抗議の声が降ってきてます。とりあえず1号と2号を引き上げさせてスルドさんも脱出して事情の一つでも説明してきてもらいたいです。そして私の専用独房として、しばらく貸し切りにしてください。食事など一切の手間は必要ありません。私がココを出たくなったら改めて逮捕でもなんでもしてください。
侵入罪だけじゃなくて看守も殴ってますからね。色々つくことでしょう。
別にどうでもいいです。仕事も明日からしばらく休みですね。むしろ職を失う可能性もありありです。やはり死に時な気がしてきました。
スルドさんは至近距離で溜息をつきました。
溜息をついておもむろに手をポケットから出したスルドさんは、躍起になって小指から糸屑を取ろうとしている私の手をつかむと小指についた糸を摘まみました。そしてもう一本の赤い糸の切れ端を出しておもむろに玉結びに繋げました。
「多分一生馬鹿にはされるけど、一緒に怒られる程度ですむようにしてやるから一度外には出ようぜ」
大口を開けてスルドさんを凝視すると、頬を掻いて視線をそらせました。この人、他の誰も見えないと言った謎の物質を摘まんだ上に結びましたか?
赤い糸は監獄に繋がっていました。
元の持ち主が一度切って適当な場所に結んでいたのは明白ですが、糸屑は小指同士に結び直されて左手の小指に結ばれている赤い糸屑がずっとポケットに隠されていた手の小指に繋がってピンとまっすぐ張っていました。
私とスルドさんの小指の間で。
私は、左の小指を右手でソッと包み込んで笑顔で告げました。
「スルドさん」
「暴力は反対だ。こっちの言い分を聞いてから判決すべきだ。そのために後で時間をとるということで今は横に置こうじゃないか。最終的には自己申告しただろ」
天井の監視が声を張り上げる。
「早く出てこい!」
眼鏡なしで異世界!に登場するアーサー・カーペンターの妹、ジル・カーペンター