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1匹の猫と1人の少年

 冷たい雨が静かに降っていた。

 まるで銀の糸を流したような細かい雨だった。

 猫である僕は、濡れるがまま、ただ寒さに耐えていた。

 始めの頃は水を弾いていた毛は、いまではすっかり水を吸って重くなっていた。

 冷たかった。ヒゲから丸い水滴がぽたぽたと耐えることなく落ち続けた。

 雨なのだから、寒いのだから、どこかのひさしの下にでも入ってしまえばいいのに。僕はそこに留まり続けた。それは、意地だった。僕を捨てて行ったやつらへの意地だった。意地の上に、仕返しとか復讐とか、そういう類のものだった。

 兄弟の中で唯一貰い手のなかった僕。カラスに片目をつつかれて醜くなってしまった僕。捨てられたのも当然だけど、僕が恨みに思うのも当然で。だからあいつらが捨てて行った場所から一歩も離れずに、ここでみせつけてやろうと思っていた。僕の思考は常にマイナス方向に働いていて、立派な野良猫になって見返してやるといった思考はまるでなく、ただ、無惨な死体になった僕を見れば、彼らの良心の少しでも動かされるだろうという事しか考えられなかった。だから、このダンボール箱の中から一歩も出ない。



 幼い肌色の膝小僧が目の前ににょ、っと突き立った。

 そいつの正体を僕は知っていた。

 そいつは灰色の雨の中で妙に浮き立つ黄色い傘を差して(おまけにその柄のところには、名札さえついている!)、その下から無表情な瞳で僕を見下ろしていた。よれよれの半ズボンから突き出した二つのガリガリな足は、この細い氷のような雨に当てるには少々気の毒なほどに赤くなっていた。まだ幼いその手にも、その足にも、無数の傷がある。古いのも新しいのも火傷も切り傷も擦り傷も痣も。

 数日前から僕はここにいる。このボロいアパートの前に。そして、毎日こいつは家に入るために僕の前を通るのだけど、いつも僕に対して無反応だった。僕もコイツに対して無反応だった。だから、お相子。どっちもどっちだ。

 ところがこの雨の中、こいつは俺の前にこれ見よがしに傘を差して立ちすくんでいる。膝から出ている真新しい血の跡と、頬の痣が彼がこんな寒い日の雨の中、着の身着のまま外に出てきたワケを物語っていた。

 彼の父親は、また酒を飲んでいるのだ。

 そいつは無表情のまま、僕を見下ろしている。僕はつとめて相手にしないようにつんと顔を逸らした。 静かに雨の音がする。水が他の音を吸収しているかのように、僕らの周りには、その音しかない。

 今まで執拗に体に当っていた雨の感じがしないのに気がついたのはしばらくしてからだった。

 顔を上げれば遠くにそいつの背中があって。その姿は傘を差していなくて。僕のダンボールの上には余計な事この上ないけれど、黄色い傘がまるで場違いな太陽のように、灰色の雨の中でひときわ輝いていた。

 僕は知っている。そいつの持ち物が本当に少ない事を。彼の家が決して裕福とはいえない事を。遠ざかる背中は酒を買いに行くもの。彼は帰って来るまで僕に傘を間借りさせておくつもりだろうか?それとも帰ってきても気付かぬ振りをして雨が止むまで貸しておくつもりだろうか?

 冗談じゃない。余計なお節介。忌々しい同情。そんなものは欲した事もない。僕が望むのは、ここで死体となって、最後の力で捨てて行ったあいつらの、罪悪感で顔を歪ませるのを見ることだけだ。それなのに。

 本当に、余計なお世話だ。

 僕はのそりと冷えた体を起こすと、勢い良く身震いした。水滴が四方に跳び散り、いくつかはピンと張った傘の布に当ってぱちぱちと音を立てた。

 こんな傘の世話にはならない。誰かの同情の下になどいられない。

 ダンボールを踏みつけ、そこから這い出す。

 そう、まずはどこかの軒下を見つけることから始めよう……。



 僕とソイツとの接点など、それ以前にもそれ以後も、まるでなかった。

 生活しているナワバリが同じ以上、僕は時々ソイツを見かけたけれど、まるで何もなかったかのように振舞ったし、それは向こうも同じだった。

 僕は計らずして立派な野良猫になり、そいつはそいつで、ひょろ長く成長して行った。

 今でも時々見かけるそいつの姿は相変らず傷だらけだったけれど、それはもう父親につけられたものではなく、例えば僕がナワバリ争いで他の猫と戦うのと同じようなものでつけられた傷だった。

 そいつは僕と一緒でいつまでたってもひとりだった。ひとりでそうして戦っていた。いつも、いつも。まるで自分以外のヤツラみんな敵だとでも言うように。

 そいつは周りのもの全部に無関心だった。それでもいつも、あのアパートに帰って行った。その意味を、僕は何となく知っていた。アイツはいつまで経っても離れられない。僕でさえ、あのダンボールを出る事ができたのに、アイツはいつまでもあそこに留まっている。

 あの雨の日、僕はアイツの目にどう映ったのだろう……。


 アイツが他の人間と傷つけあおうが、どんなに傷を作ろうが、そんな事はどうでも良かった。アイツはいつもボロボロになるまでそれをやめなかったから。相手がどんな多人数でも、血を吐いても、気を失うまで向かって行き続けた。

 本人がそれで良いのなら、それを望むのなら、それでいいと思っていた。だけど。

 その日、僕が見たのはアイツと、随分年老いたアイツの親父だった。

 どういう経緯か僕にはわからない。だけど、アイツの親父はとてもぎらぎらとした目をしていた。アイツは気付かなかったのかもしれないけれど、野良猫の勘で、僕にはそれが分かった。

 だから、初めて後をつける気になった。そして、だから、間に合った。

 そいつの親父がそいつに向かって振り上げた包丁が、そいつに届く前に、僕の体を刺したんだ。

 あの時の場違いなほどに明るい色の傘は、僕の中でずっと燻っていた。嬉しくなんかなかったけれど、それは確かに僕に差し出されたもので、僕はだからこそあいつには借りがあった。借りの押し売りだ。いい迷惑だ。

 だからようやく、これで借りが返せたのだ。

 本当はまだ意識があったのに、僕は抱き上げたそいつの手の中でぐったりとしてもう死んでしまったフリをした。

 醜い猫なのだ。片目が潰れている。その上、腹からは血を流している。その血で、自慢の黒い毛はあちこちで束をつくって固まってしまっていて、最悪な見たくれだ。充分に、無惨な死体となる事だろう。

僕は薄目を開けてそいつの顔を盗み見る。あの時の僕のような顔をしているのだろうか?それとも……。

そいつの顔は、歪んでいた。とても酷く、戸惑って揺れていた。

 僕はなんだか心の底から笑い出したくなってしまった。それでいい。これで僕は、借りが返せる。僕を捨てていったヤツラの代わりに、その顔が見れたから充分だ。

 いつも無表情だった君の、その顔が。

 さてこれから君はどうするだろう?もういちど包丁を振り上げた父親に黙って殺されるのかい?それとも、やりすごすためにこの部屋を逃げ出す?それとも、今度こそそろそろ訣別して、この部屋から飛び出すかい?

 これから先の君のことは、僕は知らない。知る術もない。だけど、なんとなく想像できるんだ。

 猫の僕に良く似た人間の君。

 これは、あの時の傘のせいで死にぞこなった僕からの復讐なんだ。甘んじて受けてくれ。

 まだ自分を気遣ってくれる人がいるという、その居心地悪さを……。

…うん、ごめん。 狙いすぎ!!

狙いすぎだから随分前に没にしたの発見したからリサイクルしてしまった。


あの、ホーリーナイトさんとか割と大好物です。

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