Bohemian Rhapsody
放課後の音楽準備室で妹尾彩音は泣いていた。
合唱部の部長になったのは去年度の終わり、卒業してそれぞれの大学に進学する先輩達に校歌と蛍の光を披露するのが最初の仕事だった。同学年の子は彩音が部長になるのを歓迎したが、当時一年生(つまり現在進級し二年生)の多くは、彩音が実力や人望で部長になったのではなく、ただただ彩音と同学年の子に押し付けられているのだ、と思っていた。
そう思われるに足る理由はいくらでもあった。お世辞にも活発とは言えず、引っ込み思案で常におどおどし、ピアノはできるが特別歌唱力があるわけでもない。遠巻きに人を観察して、アドバイスする能力に長けていても、それを大勢の前で指摘し指導したり、あるいは褒めたりするなどのリーダーシップは発揮できない。人一倍努力はする。しかしその努力もどこか空振りで、どこか独りよがりで、つまり彩音は暗かったのだ。
それは彩音も自覚していた。だから何度も変わろうと努力した。その度に周りの同学年の子は口調こそ普通であったが、風船に針を仕込むかのような雰囲気で彩音に接した。敏感な彼女はそれを鋭く意識してしまい、それ以上の事ができなくなる。それでは下級生に示しがつかず、ますます部内の雰囲気は悪くなる。部内の雰囲気が悪くなると、必然コーラスの質も落ちる。合唱の大会で、例年それなりの成績を残していた高校とはとても思えないほどだった。
四月に入って新入生が十数人、合唱部の扉を叩いた。懸命に部の説明をする彩音を尻目に、反目はしないまでも彩音によい感情を持っていない下級生が新入生を篭絡し、グループを作り始めた。そればかりか、そちらの方が面白そうだと思った同学年の女子の一部もまた、そのグループの輪に参加し始めた。
五月の頭、突風と雷雨のゴールデンウィークが終わった。定期テストの関係で部活動は、大会の近い部を除いて一週間休みだった。とはいえ、彩音は部長として何かもっと出来る事があるはずだ、と思い、その日は顧問の先生に相談する予定であった。顧問の先生は、放課後すぐは職員室で会議があるのでそれまで音楽準備室で待っているように、と言った。音楽準備室に入るには準備室の鍵を持っていなければ音楽室を一度経由する必要がある。放課後は帰宅するか図書室で勉強するかのどちらかのはずで、だから彩音は音楽室の扉が若干開いているのも、そこから笑い声が漏れてくるのもおかしい、と思った。
勇気を出して音楽室の扉を押し開けると、彩音はそれまで見たことのない状況に出くわした。それは、ピアノの上に散らばるお菓子と、下に転がるペットボトル。重石を失ったメトロノームが動悸のように脈拍し、譜面台でチャンバラをし、指揮棒でピアノを叩く光景だった。彩音の中で何かが切れた。
それからの彩音は決壊したダムの様であった。目尻から一滴また一滴と涙が零れると、それはやがて堰をきったように止め処なく流れ、嗚咽とも叫びとも判別できない音を発し、ピアノの上のお菓子をピアノにかけられたカバー布ごとひきおろし、中身の残ったペットボトルを蹴り上げて、音楽室はミルクティーの匂いが充満した。それからやって来た彩音に与する普通の部員たちがやってくるまで、彩音は狂ったように暴れまわった。最初にいたのは五人であったが、首謀格は真っ先に彩音に引叩かれて逃げ出した。残り四人は彩音を止めようとしたが、譜面台を持って近づく者に殴りかかろうとする彼女に対して身を呈して止められるだけの度胸のある者はいなかった。
彩音を止めたのは、同じクラスで特別仲の良い小林佳奈だった。たまたま別の友達と話が弾んで、本来一緒に部活にいくはずだった彩音を先に行かせてしまったことを、その夜、佳奈は後悔した。音楽室から発せられた奇声で異変を察知し、音楽室の入り口に集まっている野次馬を掻き分けて、ようやく自体を把握すると、譜面台を振り回す彩音に臆することなく飛び込んで、抱きしめた。
「彩音ッ!」
耳元で自分の名前を叫ばれて、彩音は正気に戻った。そうして自分が今まで何をしていたかを理解し、なぜ自分が佳奈に両手を不自由にされているかを理解すると、その手に握っていた譜面台を離し、目尻からは再び大粒の涙が零れ落ちた。
「佳奈ちゃぁん……私、私ぃうあぁぁぁ……」
それからやって来た顧問の先生と、一緒に来た新任の若い数学の先生とで、一件はそこに散らばるお菓子とペットボトルが動かぬ証拠となって、最初にいた五人への厳重注意と、譜面台、メトロノーム、ピアノの一部を壊したとして彩音への一週間の停学とで決着した。佳奈はその裁決に不服を申し立てたが、彩音は一言「ありがとう、でも、私がやったことだから……」と言った。目の下は赤く腫れていて、笑顔は不自然だった。それでも食い下がるのは彩音の負担を増やすだけだと悟り、それから佳奈は渋々身を引いた。
若い数学教師が来たのには理由があった。彼は大学の頃に合唱団に所属し、そこの学生指揮者をやっていたという。顧問の先生は音楽教師だったが、声楽よりも器楽の方がどちらかといえば専門で、合唱部とブラスバンド部との両方の部活の顧問であった。とはいえ運動部の応援やその他行事の関係上、ブラスバンド部の方に時間を割かざるを得なかった。それでも合唱部の大会での成績が良かったのは、偏に合唱部員の自主性と協調性の賜物と言えよう。数学教師は、現状あまり合唱部に手がかけられない音楽教師が四月の状況を見て、どうにか合唱部の顧問になってくれないかと相談した結果、ようやく連れて来られたのだった。定期テスト休み明けから正式に顧問になってもらうに当たって、先に彩音と話をさせておきたかったのだと音楽教師は説明した。
最も、今その話が彩音の耳に入っているかも怪しかったのだが。
「安藤先生、すいませんね。せっかく来てもらったのに何かよく分からない事態に巻き込んでしまって」
音楽教師は隣に座る数学教師に、生徒に聞かれないように囁いた。
「いえ、まあ、よくあることですよ」
安藤は額の生え際を小指で掻きながら言った。
「落ち着いたかい、妹尾彩音さん」
彩音は俯いたままではあったが、そこからさらに頭を縦にふった。隣で佳奈が彩音の背中をさすっている。時々鼻をすするのが聞こえて、落ち着いてはいるだろうが、少しのきっかけで再び泣き出すだろう事は火を見るよりも明らかだった。
「まあ、そのままで聞いてくれればいいよ。これからはブラスバンド部と合唱部との掛け持ちで顧問をしていた奈美先生に代わって、僕が合唱部の顧問になるんだ。正直言ってまだ教師生活に慣れてないから、奈美先生みたいにはまだできないかも知れない。でも部活の時間に顧問がほとんど来ない、という事はなくなるから、彩音さんの負担は減ると思う。ああ、こういう言い方をすると彩音さんは嫌な気分になるかな?」
タイミングがタイミングだけに、自分のせいで新任の数学教師が合唱部の顧問に担がれたのではないかと思われるかもしれない、と思わず言い訳じみたことを言ったと後悔したが、彩音は首を横に振った。それでも隣の奈美先生は安藤に対して肘撃ちと足を踏むのを同時に行った。
「っとりあえず、停学期間中は彩音さんは何もできないから、部員に対する説明とかその他、今回の事に対するあの四人……本当は五人だっけ?の事とかも、機会だから色々話しておくよ。そのときは佳奈さん、よろしくね」
「はい、分かりました」
そうしてその場が終いとなった頃には、空は薄暗くなっていた。「家、反対方向だからいいよ、大丈夫」という彩音を佳奈は無理やりに説得し、一緒に帰った。そうせずにはいられなかった。
停学中に定期テストが行われる関係上、彩音はそれを追試という形で受けなければならなかった。彩音にはどちらでもよいことだった。学校で勉強するのも家で勉強するのも三年になってからは大して変わらない。集中して勉強ができるのならば、場所は関係ない。彩音はそういう努力は苦手ではなかった。
佳奈とは停学中も相当な頻度でメールのやり取りをした。心配したのは佳奈だけではなかった。合唱部の半分くらいから「大丈夫?」「心配してるからね」等のメールが来て、それが普段から仲の良い友達からのものは励みになった。あまり喋ったことはないが、部活を真面目に取り組んでいる下級生からのメールは、自分が信用されているのだと安心した。その他の部員から来たメールには、仲良くない子が転校する時に厭々書かされる色紙のようなザラつきを覚えた。その全部に返信したが、やはり前者二例についてはその後も少し(あるいは佳奈からのメールと同じように)メールのやりとりが続いたが、ザラつきのあるメールを送った人からは、それ以上返ってこなかった。
定期テストが終わって部活動が始まると、やはり話題は安藤先生の事になった。優しそうな先生だったから、きっと初日からうまく馴染んでいるのだろう、と予想して彩音はメールを読み始めたから、メールをくれた全員から届いた言葉に驚きを隠せなかった。
「ねえ!これから数学の安藤先生が顧問になるっていう話だけど、なんなのあの人!?威張り散らして私たちのこと「ヘタクソ」とか「ブス」とか「色気が無い」とか、サイテー!!」
「数学の安藤先生って、大学で学生指揮者だったとかいう先生が顧問になったんだけど、何か怖いよー(涙の顔文字)、アヤちゃん早く帰ってきてー(涙の顔文字)(涙の顔文字)」
「安藤先生が顧問になるの知ってた!?新入生に聞いたら、凄く教えるのがうまい先生なんだけど、あんな性格の人じゃないのにって、何それ二重人格?怖い!」
「アヤ先輩、安藤先生に何か言われませんでした??あの人絶対ヘンですよ」
「先輩が帰ってきたら、奈美先生に相談して顧問になるって話取り消してもらいましょうよ!マジサイテー!!」
彩音が最初に出会ったときの印象とはかけ離れ過ぎていた。どういうことなのだろう、と考えていると佳奈からメールが来た。今まで来たメールのような強い怒りや嫌悪感は無かったが、それでも安藤先生に対して強い警戒を抱いているような文面だった。
「今日から部活再開したよー。安藤先生が顧問として来たんだけど、何かテスト前に会った時と別人みたいになってて、よく分からない感じ。安藤先生と話をしてもムスッとした顔をしてて、何かあったのかな?彩音のメールアドレスが知りたい、って強い口調で言ってきて、一応顧問と部長だし、と思って教えたんだけど、ヘンなメールとか来なかった?もし、嫌な事言われたりしたらゴメンね、いつでも相談してくれい!」
間もなく件の安藤先生からメールが届いた。
「彩音さんへ。その後様子はどうですか?こちらは自己紹介も済んで、合唱部の状態を大体把握できたかな、という感じです。彩音さんが危惧するほど音が悪かったり、仲が悪かったりということはなさそうで、その辺は安心できたかな、と。まあ、女性ばかりの部活ですから、裏でどのようないざこざがあるのかは、男の僕にはちょっと分からないのですが。」
友達と先生との文面の落差に眩暈がするようだった。
「来週の火曜日から復学でしたよね。その前に彩音さんを自分が指揮を振っていた大学の合唱部へ紹介したいと思います。恐らくそこに今後あの合唱部で部長を続けるにあたって必要な心構えを得られるだろうと考えてです。日帰りは難しいので土曜日の朝に出発して日曜日に帰ってくるという日程になると思います。(ご両親への説明を含めて)判断が難しいと思いますが、今日中に返信ください。」
安藤先生がどこの大学を卒業したかを彩音は知らなかった。だからそれが一泊を覚悟する距離だということも分からない。ふと時計を見ると午後9時を回っていた。決めるなら早く決めないと、親に説明をするのも面倒だ。
大学の合唱部には興味がある。ただし紹介してくれる安藤先生が、今までのメールの事を考えると信用できない。もしかしたら安藤先生が合唱部だったという話が嘘かもしれない……だとしたら何で?彩音の想像は悪い方向へと進んでいく。
どこかから「頭の中で考えてても仕方ないよ」という言葉が聞こえてきた。それが空耳なのはさすがに彩音でも分かったが、自分の空耳のタイミングの良さに驚かされた。
(そうだ、前に佳奈がそう言ってたんだっけ……相談してみよう)
メールでは心細かった。佳奈の声が聞きたかったのもある。時間は遅いけど、彩音は佳奈に電話をすることにした。
佳奈が言うには、安藤先生の指揮や合唱に対する知識は、今日の部活動での指導力を見る限り本物のようだという。ただし、必要以上に自分たちを威嚇するような、暴力的な発言や視線だった。出身大学は本当に結構遠いところで(これは安藤先生が自己紹介で言っていた)、車でも半日はかかるだろう。
「つまり、私たちが最初に会った時と比べて、性格だけが変わっていた感じなんだ」
これまでの話をまとめて、彩音はそう結論づけた。
「そうみたい。でも変なのはそのメールもそうだよ。先生から彩音に届いたメールの文面は、最初に会った時の先生のまんまな感じ。今日の様子と全然違う」
そのメールとは先ほど安藤先生から彩音に届いたメールのことだ。相談の電話だ、と最初に佳奈に言ったときに「やっぱりあの先生何か変なメール送ってきたの!?」と感情的になった佳奈をなだめるためには、安藤先生から送られてきたメールを最初に説明しなければならなかった。
「どうする?私はあんまり信用できないっていうか、彩音にこれ以上余計な負担がかかるのが見てられない」
それは偽らざる佳奈の本音だった。彩音としても佳奈にこれ以上心配をかけたくはなかったし、
「それに、先生とは言っても新任の若い男の先生とでしょ?何かあってからじゃ遅いと思うし……」
佳奈の心配が杞憂とも限らない。
「私もそう思う……」
だから、彩音が佳奈の言葉を素直に受け取るのは至極当然と言える。そこで彩音は安藤先生に断りのメールを送信した。それから五分と経たないうちに返信が返ってきた。短い文面だった。
「佳奈さんに、先生は信用できないとでも言われたかな?」
文末に電話番号がついていた。彩音は急に不安になった。良く分からない新任の先生に、自分と佳奈の今までの会話が全て筒抜けになっているようなメールに薄ら寒さを感じた。佳奈と先生とは今日の部活動と先日の彩音が引き起こした騒動でしか、彩音にいたっては、後者でしか安藤先生とは接触していないというのに、まるで二人の行動が手に取るように分かっている。それが例え先生という職業の矜持だと説明されてもにわかには信じがたいものだった。
不安の渦の中で、もう一度メールの着信音が鳴る。それはやはり(彩音が予想したように)安藤先生からだった。
「電話をする勇気は、これからの彩音さんを変えるだろう」
それまでの事がなければ、意味不明なメールだ。しかしこれまでの事があってのこの文面は、彩音にとって何かしらの意図を感じずにはいられなかった。もし窓の外に人が立っていたならば、彩音はその人を間違いなく安藤先生と見間違えるだろうと思った。
電話をする勇気が自分に必要なものなのだろうか、彩音は自問する。少なくとも、ここで電話をしないことは今までの自分の行動だった。佳奈に言われたからではない。たとえそれが誰であっても、自分以外の他の人が部長として安藤先生に「大学の合唱部に紹介する」と言われてそれについていくような人はいない、それが普通の反応だ。だから自分はそれに従ったほうがいいのだ。
(従ったほうがいいの?それで私は何かが変わるの?)
握ったケータイのディスプレイに写る安藤先生からの短いメール。何で自分は変わらなければならないのだろう。
フラッシュバックする音楽室の光景。ピアノの上のお菓子と重石の外れたメトロノーム。徐々に脈拍がメトロノームのそれと合わさって、心の“たが”が外れていくような感覚。それを自分は再び受けるのだろうか。変わらなければ、もう一度、いやもう一度と言わずもう何度と。
そのときは安藤先生が何とかしてくれる、と結論づけようとして彩音は気づいた。今この時に何とかしてくれようとしている安藤先生を断って、いざという時に自分は安藤先生を頼るのか。
(そんなの……!)
それが何なのかは彩音には分からなかった。ただしそれは彩音から見ても卑怯としか言いようのないものに思えた。そこに至って、電話をする勇気は、勇気ではなく当り前になった。電話をするだけではなく、恐らくその後に自分が言う言葉も、彩音にとっては当り前になりつつあった。
メールにあった電話番号にかけると、安藤先生はすぐに出た。
「先生、私を先生がいた大学の合唱部に紹介してください」
やや沈黙のあと、安藤先生は答えた。
「そっか。じゃあ、ちゃんとご両親にも説明して、許可を得てくださいね。もしご両親が反対するようでしたら、その時は、電話で失礼することになりますが、僕も説得します。」
まるで断りのメールなどなかったかのようだった。
「さっきのメールと答えが違うことに疑問はないんですか?」
彩音は自分でも気づかないうちにそう口走っていた。受話器の向こうで微かに笑い声が聞こえた。喉を鳴らすような笑い声だった。
「まあ、彩音さんの事を信じていますから」
何とでもとれる回答に「ふざけないでください!」と憤ってみせたが、それ以上の答えは返ってこなかった。明日の朝一に高校の最寄の駅で待ち合わせる。そこから車で先生の通っていた大学に向かう。
「生徒と先生のデートに見られたらちょっと困りますね」
安藤先生の軽口だったのだろうけれども、あまり洒落になっていなかった。
薄く霧のかかったひんやりする朝だった。彩音は約束の時間ちょうどに到着し、駅前でそれらしい車を探してまわった。場所と時間は決めていたけれども、どうやって会うかを考えていなかった。結局10分ほど探し回った挙句「ごめん、少し遅れます」というメールが届いて、そこで最寄のコンビニで時間を潰すことにした。結局約束の時間から30分が過ぎてようやく合流し、出発した。
「休日の朝だと思うと油断しちゃってね」
安藤先生は運転しながら朝食代わりの野菜ジュースを飲んでいた。
「野菜ジュースだけだと元気出ませんよ?」
「一人暮らしだと朝ごはん食べるの面倒臭くなるんだよ」
「生活規範を教えるのも先生の仕事だと思いますけど」
「高校生にもなって先生に生活規範を教えてもらわないといけないのかい?」
「先生の心構えの問題だと思います」
「んー、考えておきます」
先生らしくない先生だと彩音は改めて思った。マンガにいるような破天荒な先生を演じているのか、あるいは本当にちゃらんぽらんな性格なのか、よく分からない。唯一分かったことは、車の運転が今まで自分が乗ってきた中で一番巧いということだけだった。
「安藤先生の車の運転は、すごい丁寧ですね」
素直にそういうと、安藤先生は複雑な表情をした。額の生え際を小指の爪で掻きながら(これは恐らく安藤先生の困ったときの癖なのだろう)、言いよどんだ。
「まあね。車の運転が上手だと女性にモテそうな気がするでしょう?」
その理由に失望し、彩音はそれ以上話を続けなかった。結局は何につけてもいい加減で、適当な性格なのだと分かったからだ。安藤先生も無理に話を続けようとはせず車を運転した。車内にはいつの間にかラジオが流れ、彩音は風景と共にそれを聞き流していた。
高速道路に入ったのは彩音にも分かった。途中で1回パーキングエリアに寄って、安藤先生はそこでおにぎりを一つ買った。一人暮らしってそんなに不摂生になるのだろうか、と彩音は思った。自分が一人暮らしをするときは、ちゃんと朝ごはんも自分で作って食べるし、先生としておかしな事は絶対にしないのに。
それから高速道路を下り、一般道を走るころには正午を回っていた。「そろそろ練習場に着くよ」と安藤先生は言った。朝食が早かったからだろう、彩音が返事をしようとした瞬間にお腹がなった。はっとして安藤先生のほうを見ると、先生も驚いたような表情でこっちを見て、それから信号が青になったのにも気づかずに笑った。後ろの車がクラクションを鳴らしてようやく気づいたが、それでも笑っていた。
「そっ、そんなに笑わなくてもいいじゃないですか!」
彩音は自分の顔が真っ赤になっているのが分かった。
「ごめんごめん、まあ朝早かったしね。じゃあどこかでご飯食べてから練習場に行こうか」
それから安藤先生は地区公民館の駐車場に車を止めると「近くには定食屋とファーストフードとファミレスがあるけど、どれがいい?」と彩音に質問した。公民館の駐車場に無断で駐車していいのだろうか、彩音が安藤先生に聞くと「ここが合唱部の今日の練習場だから大丈夫。ここの管理者とは顔馴染みみたいなもんだよ」と言った。
「合唱の練習って、音楽室でやるんじゃないんですか?」
「合唱部が自由に使える音楽室なんて、大学にはないよ。場合によっては開いている教室を借りたり、教育学部の学部棟にある音楽室を借りたりすることはあるけど、ほとんどの練習はこうして、地域の公民館を借りてするかな」
この公民館は大学からも近く、音の響きがよく室内も綺麗だからよく利用しているのだという。練習後は大抵周りの定食屋やファミレスなどで仲間で食事をするので、自然と詳しくなる。何か食べたいものはと言われてもすぐには思い浮かばない。「どこでもいいですよ」と言うと、少し歩いた先にあるサイゼリヤで昼食をとった。二人で同じものを食べるのが恥ずかしくて、彩音は安藤先生とは別のものを注文した。
「話すことなくて、何か気まずいなぁって思ったりする?」
注文して間もなく、安藤先生が聞いてきた。彩音はもう少しで自分から話題をふるところだったのだけれども、それはまさに安藤先生の質問がそのまま動機になっていた。安藤先生のこの勘の鋭さというか、人を見透かしたような発言は、彩音にとってやはり不思議でしようがなかった。
「なんでそう思うんですか?」
「僕が気まずいから、かな」
何のことはない。自分が気まずいと思っているから彩音にそれを質問したのだ。同じ事を考えていたのだと思うと、その気まずさを他人になすりつけるような安藤先生の発言が卑怯に思えた。「だったら、自分がきまずい、って言えばいいじゃないですか」と詰ると、
「それじゃあコミュニケーションが閉じてるじゃない?」
と、頭を掻きながら言った。彩音にはそれがどういう意味なのかよく分からなかった。自分が気まずいことを他人に質問して、さも他人の心を読んでいるかのように質問することと、コミュニケーションとの間にどんな関連があるのだろう。
「お、間違い探しだ」
テーブルの端にメニューのようなものがあって、それはサイゼリヤの商品に関連する間違い探しだった。「これさ、難しいのと簡単なのとがあって、難しいのは本当に難しいんだよ」と、早速安藤先生は睨めっこをはじめた。それこそコミュニケーションが閉じてるじゃないか、と彩音は思った。
少しすると安藤先生は顔をあげて「ああ、これは難しいほうだわ。彩音さんも一緒に探さない?」と言って、横にしてみせた。間違い探しなんてそんなに難しいものじゃないだろう、と思って見始めると本当にどこが間違っているのかほとんど分からなかった。間違いは全部で7個あるらしいが、露骨に分かるのは3つほどで、残り4つはちょっと見たくらいでは全く分からなかった。二人して間違い探しに没頭してしまい、店員が気を利かせて少し大きめの声で料理が来たことを伝えてくれなければ二人とも間違い探しと睨めっこを続けていただろう。
食事中も答え合わせをするように二人で見つけたところを確認しながら、間違い探しを眺めた。結局6個まで見つけて諦め、しびれを切らした安藤先生はケータイで答えの載っているサイトを発見し、ようやく最後の間違いに気づいた。食事が終わってからも間違い探しの話で盛り上がり、最初の気まずさはいつの間にか消えていた。
会計を済ませて店を出ると丁度いい時間だった。それから練習場である公民館に向かうと、途中途中で自転車に乗った人が通りがかりに安藤先生に挨拶をしては追い抜いていく。それが合唱部の部員だということは彩音にもすぐに分かった。ある人は安藤先生と彩音とを見比べてよく分からない表情(驚きや笑顔や嫌悪や、本当に色々だった)をし、ある人は露骨に二度見をしてからかうようなしぐさをして過ぎ去った。
「彩音さんが制服じゃなくて良かったよ。制服だったらもっと酷い目に遭っていたかもしれないわ、こりゃあ」
安藤先生が生え際を小指で掻いていて、それが彩音には少し可笑しかった。
チェーン店の居酒屋は合唱部の一員によって占められていた。誰もが学生指揮者の隣にいる彩音を気にかけている。安藤先生は別のテーブルで仲の良かった後輩と話をしていた。練習中にすっかり仲良くなった学生指揮者と、もう片方にはこれも練習中に仲良くなったソプラノの四年生とに挟まれて、飲み物が来る前から話に花を咲かせていた。
学生指揮者は自分をガリレオと名乗った。入学当時は痩せ型で金髪のオールバックという格好だったから名づけられたあだ名だという。ソプラノの四年生は自分をビー子と名乗った。蜂須賀瑛子から蜂と、瑛子の「瑛」の音をアルファベットに見立ててビー子とつけられたあだ名だという。たまに彼女の事をビークイーンと名乗る人がいて、確かに彩音はビー子がどこか女王様のように思えた。「あなた、今ちょっと女王様っぽいって思ったでしょう?」と練習の休憩中に図星をつかれたとき、ガリレオが横から「ソプラノなんてみんな女王様でしょうに」と言ってソプラノを全て敵にまわしていたのを思い出す。彩音が何より笑ったのは、安藤先生のあだ名だ。練習が始まる前に色んな人が安藤先生を「トロワさん」と呼んでいて、疑問に思っていた彩音に説明したのはビー子だった。
「安藤先生なんて呼ばれてるの、あの人?ここではトロワさんって呼びなさいな」
「え?なんで安藤先生はトロワさんって呼ばれてるんですか?」
彩音の質問にビー子はこぶしを口にあて、少し逡巡してから芝居がかった声を出す。
「アン、ドゥ?」そっとその言葉がビー子から手渡される。彩音は手の平を見て、それからビー子と目を合わせて我慢できなくなって笑った。
「アッハハハハハ!!」
それから練習が始まって、実に和やかに終わって、それから流れるように居酒屋で飲み会が始まった。トロワさんは「おい、俺の教え子に酒を飲ませたら承知しないからな」と釘を刺しつつ、ジョッキが来て乾杯を済ませると誰よりも先にそれを飲み干してすっかり出来上がった。ガリレオも最初は紳士的に彩音に酒を飲ませないようにしていたが、途中から「別に少しくらいなら大丈夫だよ」という風に絡みだす。ガリレオその他彩音に酒を飲ませようとする男どもをビー子が悉く駆逐する。面倒臭い状態になったガリレオをビー子が足蹴にして、ガリレオはすごすごと別のテーブルに移動した。そういったビー子の活躍のおかげで、彩音は酒と好奇の視線からその身を脅かされずにいた。
「あの、ありがとうございます」
「気にしなくて良いのよ。コイツらときたらそこにいるのが女子高生ってだけで興奮してそのくせ酒を飲ませようとするんだから、意味わかんない」
ビー子は目の前のカクテルを傾けた。
「メロちゃんはこういうバカな男に引っかかっちゃダメよ」
メロとは練習中に彩音につけられたあだ名だ。自己紹介で名前に使われる漢字を「彩りの音」と言った時に、ガリレオから「じゃああだ名はメロディからメロね」と言われたのだ。「お前がメロメロなんじゃねーの?」と方々からからかいの野次を飛ばされたのは言うまでもない。
「でも、練習終わって飲み会が始まって、凄いですね」
「何が?」
小皿に取り分けられたサラダを食べながらビー子が問う。
「練習中も思ったんですが、みんな楽しそうで。練習が終わってからもこうやって飲み会っていうんですか?皆で飲んで、楽しいです」
彩音の前に置かれていた小皿に、ビー子がテーブルにのっている卵焼きや軟骨のから揚げなどを取り分けて渡す。彩音の隣にはいつの間にかトロワさんが座っていた。
「だってよ、ビー子。楽しそうでなにより、だって」
「少なくともトロワが学指揮だったころよりは良いんじゃない?」
テーブルに肘をついて彩音越しにビー子を見るトロワさんに対して、ビー子は目を向けず、カクテルを一気にあおる。遠くで働いている下級生に「ねえ、ファジーネーブルお願い」と言うと、下級生はそれを店員に注文した。
「今年は去年みたいな事は起こらなさそうかい」
「さあ、それはガリレオ次第でしょ。まあ、ガリレオはトロワとは違って大人しいし引っ込み思案だから、むしろ彼が潰れないかどうかが心配だわ」
「その辺はビー子がうまくやってくれてるんだろ」
「知らないわよ、結局は全部彼の心得次第。他人が手助けできることなんて限られてるんだから」
ファジーネーブルと共にガリレオがやって来た。中腰でなお足元が覚束ないような感じだった。しかし、ガリレオの「何の話をしているのか」という問いにビー子が、
「去年の合唱部と、今年のアンタの話」
と答えるとまるで酔いが醒めたように目を大きく開けて、それから彩音の対面に座った。
「今日の練習を見た感想でメロちゃんは、楽しかったって言ったよね。アレは本当?」
その真剣な顔に、彩音は感じたことのない共感を覚えた。ガリレオの背後に突如として暗がりが現れたような、そしてそれはいつも自分がどこかで見ているようなものだった。と同時に、その場がさっきまでの陽気な酔いから何か別種の酔いの空気に変わったように感じて途端に緊張に包まれたように感じた。
「本当ですよ。何ていうか、高校の合唱部はギスギスしてるっていうか、楽しいっていうよりももっと部活しなきゃ、っていう感じで。真剣なんですけど、皆そろうと窮屈っていうか、ちゃんとしなきゃって思うんです」
「ちゃんとしなきゃ、ねぇ……。トロワさん、ちゃんとしなきゃって何ですか?」
ガリレオがトロワさんに話をふる。
「練習を組み立てる、部員のモチベを保つ、本番までの日程を立てる、指揮の練習をする、指揮に説得力をもたせる、部員から信頼を得る、練習を実りあるものにする、時間を無駄にしない、それから何だろうなぁ……」
「で、トロワもガリレオもちゃんとしてる訳?」
「「それはないわ」」
はぁ、とため息をひとつ吐いて、ビー子が彩音の頭を撫でる。「可哀想なメロちゃん、こういうバカな男の言う事を聞いちゃダメよ」
トロワさんのあげた項目は、確かに彩音にとってどれも「ちゃんとする」の中の一部だった。しかしそれを、ガリレオもトロワさんも否定する。否定する人たちが指揮する音楽の方が、楽しくて、そして練習する彼らの音楽の方が綺麗だった。少なくとも、今の自分がまとめている高校の合唱部よりも。それはまるで自分が否定されているように感じた。
「メロちゃんは間違ってないわよ」
「そそ、部活って大抵がそういうものだと思うし」
彩音の顔を見て、ビー子が微笑む。テーブルの上の鶏の唐揚げをつまみながらガリレオも同意する。トロワさんとガリレオはビールを注文して、彩音は烏龍茶を頼んだ。
「ちゃんとすることと、ちゃんとしないこととは違うんだよ」
近くに置いてあったカバンから煙草を取り出してガリレオは苦笑しつつ言う。その一本を口に銜えて火をつけようとしたところで、ビー子に煙草を没収された。
「煙草はやめなさいって言ったでしょう」
「吸わなきゃ落ち着かないんだよ」
「嘘、ただの格好つけたがりのクセに」
「最初はそうだよ。でも、たまに吸わないと落ち着かなくなるのは本当だって」
「なあ、メロさん。この二人って何か夫婦みたいだと思わないか?」
メロさんとトロワさんに言われるのはこそばゆかった。恐らくこの場にはこの場の呼び方のルールがあってそれに従うのか、それとも高校という普段の場で呼ぶ呼び方を優先すべきかで悩んでいるかのようだった。
「トロワさん、ここではさん付けしなくていいです」
だから彩音は安藤先生の事をトロワさんと呼ぶことにしたし、ここにいる時はここのルールに従うことにした。
「そう、それならこっちも気が楽だからそれがいいや。で、どう?夫婦っぽいだろう」
「そうですね、面白いくらい」
「やめてくれよ、メロちゃん」二本目の煙草もビー子に略奪されて、ガリレオは降参のポーズをとった。
「そうよメロちゃん、誰がこんなバカな男と付き合わなきゃならないのよ」
ガリレオから奪った煙草は灰皿へ横流しされていた。ビー子がファジーネーブルを頼んだときの下級生がビールと烏龍茶をこちらへ運ぶ。ついでにそろそろ店を出る時間だと告げた。
「おっと、もうそんな時間か。これから別のところに顔を出す予定だったんだけど、大丈夫かな」
トロワさんは腕時計を確認した。時刻は11時をまわっている。
「どこに行くんですか?」
「なに、アイツらのところにも顔を出さないと合唱部に紹介するって言えないだろう」
ガリレオの質問に何かを含んだような答えを返す。それでガリレオは納得したし、彩音には何のことか全く分からなかった。
「ああ、でも良いんですか?もう結構遅いし、教師が高校生を連れまわしていい時間でも場所でもないでしょうに」
「それはほら、保護者がいるから大丈夫なんだよ」トロワさんが胸を叩く。
「あら、それはそれは頼りにならない保護者だわ、ねぇメロちゃん」
「どこに行くんですか?」彩音が聞くと、
「ライブハウスだよ」とトロワさんは言った。
それからトロワさんと彩音の二人は飲み会が開くよりも前に席を離れることにした。彩音は自分が飲食した分くらいは払うと言ったが、それをそこにいる誰もが拒否した。
「良いのよ、ここにいる男の大半が生の女子高生を見れただけで眼福みたいな奴らばっかりなんだから」とビー子が言う。
「ここでメロちゃんにもお代を請求しようなんて人はいないから、大丈夫」と言ったのは、ビールを運びファジーネーブルをビー子の代わりに店員に頼むなど、飲み会で甲斐甲斐しく働いていた男の人だった。サンゴというあだ名だ。
彩音は最初は申し訳なく思っていたが、誰もが自分の払うことをあまりに拒否するので、今度は払うと言った事に申し訳なさを感じるほどだった。
「こういう時は、素直に好意を受け取るのが良いんだよ」トロワさんが彩音の肩をポンと叩いた。それでようやく観念して、彩音はその場に甘えることにする。
「……ありがとうございます」
うまく笑顔になったかどうか、彩音には分からなかった。彩音を見たガリレオは頬が引きつるまで口の端をあげて、親指を立てた。ビー子はやれやれといった様子で腕を組んだ。
トロワさんに先に外に出て待っているように言われて外に出ると、外はひんやりとしていた。春も中ごろとはいえ夜はまだ少し肌寒い。湿度があるのか、月はぼんやりとしている。周りの建物の蛍光が強いのか、星はほとんど確認できない。彩音は、突然巣から放り出されたような不安を感じた。今まで暖かいところにいたからだろう。
暖かいところ、というのは体感だけではないような気がした。
「おお、外は寒いな」店から出てきたトロワさんは開口一番に言う。
「さて、それじゃあライブハウスに行くか」
「ライブハウスにはなにがあるんですか?」彩音はずっと気になっていた質問をした。
「行けば分かるよ。宿泊の予約をしたホテルのすぐ側だから」
「あ、そうだ車はどうするんですか!?公民館に置いてきて……ってもう公民館閉まってるんじゃないですか?」
「ああ、練習中に管理者に言って無理して今夜一晩止めて置いてもらうことにした」
よくそんな無茶を、と彩音は思ったが口にはしなかった。きっと大体トロワさんの予定通りなのだ。
「ここから二駅くらいかな。寒いからさっさと駅まで行こう」
こっちだ、と言って歩きだす。飲み会ではさっさと出来上がったはずだが、既に足取りはしっかりしていた。
「もう酔ってないんですか」何かさっきから質問ばかりだ、と彩音は思った。
「そんな事はないよ。ただ、酔ってることと正気でいないことは別なんだよ」
同じようなレトリックを、彩音はさっきどこかで聞いた気がした。それは大人だから峻別できるものなのか、自分では別けられないものなのか、よく分からないまま足取り確かなトロワさんの後をついていくしかなかった。
ライブハウスは既に熱気に包まれていた。薄暗い小さな部屋に演奏者が浮かんでいる。最初に建物の階段を降りて、ドリンクを注文し(大抵のライブにチケットの他にワンドリンクの注文が必要だとか、そういった事を彩音は知らなかった)音楽室のそれに良く似た扉を開けて、彩音は手にしていたドリンクを危うく溢しそうになった。部屋に滞留していた音が扉の隙間から突風となって出て行くようだった。扉を閉めると突風は収まり、音楽は再び部屋を満たしていく。
最高潮に達して曲が終わった。彩音とトロワさんが会場に入ってから30秒も経っていない。そして手にしたプログラムの演奏曲にそれ以降の曲はないとトロワさんが説明する。
「じゃあ間に合わなかったんですね」と彩音が言うと、
「いや、ギリギリで間に合ったよ」手に持ったビール(彩音はここにきてまだビールを飲む姿に呆れることさえ忘れていた)をぐいと呷り、周りを見渡した。
「みんな知ってるから、誰も帰ろうとしないだろ?」
彩音も周りを見渡す。残響の中で誰一人その場を離れようとする人はいなかった。演奏者もまたその場を離れず、互いに顔を合わせて息とタイミングを整えている。観客は静まり返り、その後の事を全て知っているかのようだ。トロワさんが小声で告げる。
「このバンドはコピーバンドで、次にやる曲は彼らが一番得意としこの辺で一躍名をあげた曲なんだよ。みんなこの曲を最後に歌うのを知っているし、だからプログラムにも敢えて載せたりしない」
ほんの一分前までの喧騒が嘘のように静まり返り、誰かの生唾を飲む音さえ聞こえるかという状態になって、観客の中からハーモニーが聞こえた。
――Is this the real life- Is this just fantasy――
それがアドリブじゃないことは彩音にもすぐ分かった。観客の中に奏者が混ざっているのだ。正確にはバンドのメンバーではなく、コーラスとしてのメンバーが。
観客の中に潜むコーラスから始まり、ボーカルがピアノを引きながら歌う。流暢な、聞き取りやすい英語だった。それから曲はまるでクラシックかオペラのようにその表情を変えながら、彩音の身体を通り抜けていった。聞きながら彩音が感じていたのは、それがとても信じられない曲だ、ということだった。
バラードかと思えばオペラのシーンをそのまま抜き出したようなコーラスで圧倒し、その空気を破壊するようにギターがあらぶる。歌は悲痛な叫びとなり、誰かを糾弾し、激情に流され、そして再び落ち着いて、クラシックのようにテーマは復唱され収斂される。聴衆ももそれらを知っているから、曲に合わせた絶頂と沈静はその時々に部屋をくまなく満たした。
長いようで短い6分はそうして終わった。彩音はその場に釘付けになって動けなくなり、トロワさんに誘導されるままに部屋を出て、観客の動向を眺めつつ、彩音が正気に戻るのを待った。
「ボヘミアンラプソディっていう曲だよ。クイーンって、聞いたことないかな?」
彩音は返事をしなかった。耳元の残響で、トロワさんの声が聞こえなかったのだ。トロワさんはなおも話し続けた。
「あの曲をライブでやる時には必ずコーラスがつく。あの曲はバンドのメンバーだけで歌うのは難しいからね。コーラスをするのは」
「合唱部の人なんですね?」正気に戻った彩音がトロワさんの言葉を遮った。トロワさんは首を横にふる。
「正確には“合唱部だった人”だよ」
「だった……?」
「僕が学生指揮者だったときに、真面目だった一部の人たちが、僕の指揮下では歌えないと言って退部したんだよ。7人だったかな」
「ほら、よく似た人がいたと思ったら、やっぱりトロワさんだ」
観客の中から、数人の男女が現れて、そのなかの一人がトロワさんに声をかける。
「よう、やっぱりうめぇな、サダ」
声をかけた人のあだ名なのだろう。サダと呼ばれた男性は、苦笑いで答えた。
「まだママゴトみたいなもんです。サークルを立ち上げてみたものの、どうやってメンバーを増やすかとか、全然出来なくて、大体増やす必要があるのかとか、色々」
「そっか。まあ歌をやめてなくて良かったよ」
「そっちの女の子は彼女ですか?」言われて彩音は口に含んだオレンジジュースを噴出しそうになった。「バカ言え、教え子だ」トロワさんが苦虫を噛み潰したような顔をする。
「ああ。高校の先生になったんでしたっけ?」
「そういうことだ。縁あって合唱部の顧問になって、そしてこの子が部長」
サダに軽くお辞儀して自己紹介すると、サダは彩音を値定めするように見て、それから
「可哀想に、メロちゃんも僕やガリレオとよく似てる」と言った。
サダについてきた数人も、それぞれ彩音の顔を見る。それは昼間の合唱部の練習の時や、さっきまでいた飲み会の時に感じた目線とは違うものだった。興味の矛先が彩音にではなく、彩音の向こうに向けられているような、乾いた興味だ。
「それで、合唱部の方にはもう挨拶したんですか?」
「まあ、先にな」
「どうでした?ガリレオは潰れてなかったですか?」サダは彩音よりもむしろそっちの方に興味があるようだった。
「ビー子がうまくやってくれてるよ」
「さすがにビッチの女王様ね。ヤることはヤってるわけだ」サダの後ろにいた女性が吐き捨てるように言う。突然突きつけられたビー子への罵りの言葉に彩音が面食らっていると、トロワさんが唸るように「おい」と釘を刺した。
「おお怖い、ウェットな関係はこれだから嫌なのよ」
身を翻すようにその場を去ると、振り向かずに手をひらひらさせて、そのまま帰っていった。それを合図にサダ以外の人もそれぞれに帰り支度をしたり、そのままどこかへと消えていったりした。
トロワさんが小指で額の生え際を掻いていた。
「いつもこんな感じですよ」二人に微笑んでみせ、「だから、そんなに気にしないでいいです」
「サダは……っていうか、こっちは変わってないのな」
トロワさんの表情が曇ったのを彩音は見逃さなかった。悲しんでいるのか、怒っているのか、それともそれ以外の何かなのかを知ることは出来なかったが。
「そんな簡単には変わらないし、元々こういう方が気が楽でオレ達は部活を辞めたんですからねぇ」
こういう方、という言葉にようやく彩音は理解した。サダとそのグループは、ただ「歌うこと」で繋がっていて、その他の事で繋がることは煩わしい事として切り捨ててしまったのだ。そして彼らが繋がっている理由は、「切り捨てた者同士」で「それでも歌を歌いたい」からだ。サダたちが彩音に向けた視線に乾きを感じたことも、ビー子を罵った女性が言った「ウェットな関係」という言葉も、歌うこと以外につながりを求めていないからだ。
正直に言えば、彩音はガリレオの振る合唱部の歌よりも、今ライブハウスで聞いた曲の、コーラスの方がずっと綺麗で、ずっと巧いと思った。
(サダさんが私を「よく似ている」と言ったのはそういうこと……?じゃあガリレオさんも本当は、こういう関係が良かったのかな)
彩音が考えをめぐらせていると、トロワさんが「そろそろ邪魔になるから帰らないとな」と声をかけた。サダは彩音を見ていた。
「メロちゃんも、多分トロワさんに教えてもらえばこっちに来ることはないと思うけど」とサダは前置きを述べて「もし、歌を歌うこと、いやそれ以外のあらゆる目的について、それ以外の事が煩わしくなった時に、そこから逃げて純粋に目的だけを共有したグループを作ろうとする。そうするとさ、モチベーションを維持するのは簡単なんだけど、時々ね、なんでこの人たちと一緒に歌っているんだろう、やっているんだろう、ってなってしまうから気をつけてね」
「そりゃ僕の言葉じゃねぇか」トロワさんが言う。
「そうでしたっけ?」
「違ったかな?」ビールを持ったまま、器用に腕組みしてみせる。「だってさ、メロちゃん」トロワさんは完全には彩音の方を向かず、流し目気味に言った。
「よく分からないです」
彩音は、溢れそうな涙を必死に抑えながら曖昧な返事をした。曖昧な返事をしなければ、口も目も余計な事を、様々な溢れ出るものをこの場で抑えられそうになかったからだ。
週明けの月曜に彩音はようやく停学から解放されて、久々に登校した。一部のクラスメイトは彩音を腫れ物のように、異質なもののように遠巻きに扱ったが、それを彩音は全く気にしなかった。佳奈は彩音よりも先に登校していて、教室に入るといの一番に彩音を抱きしめた。
「おかえりぃ」肩の辺りで鼻を啜っているのが分かって彩音も思わず泣きそうになった。
「ごめんね、ありがとう」
安藤先生に連れられて、大学の合唱部を見学したことを彩音は言わなかった。二人だけで旅行に行ったような状態に加えて、夜中のライブハウスでコピーバンドに感動した話をどうやって下心を排して話せるかと考えると、話さないほうがよいと思ったからだ。
「それで、安藤先生の事、大丈夫だった?」
佳奈の言葉に驚いたが、それがメールアドレスを無断で教えたことだと知って安心した。
「うん、大丈夫だよ」だから彩音は臆面なく佳奈に笑顔を見せた。何かあったかと聞かれれば、何もないとは言えない。大丈夫かと聞かれれば、大丈夫と答えられる。
「部員もみんな、先生がいなくなってから先生の悪口大会になってさ。本当に、第一印象って大切よね」
「そうね」彩音は頷く。教室の窓の向こうに音楽室が見えた。
「また彩音だけに余計な心労が増えないか心配で心配で……」
彩音の両手を握って佳奈が呟く。それを振りほどいて今度は佳奈の両手を握り返す。驚いた佳奈がこちらを見るのと、彩音が自信を込めた表情で佳奈を見つめ返すのとは、ほとんど同時だった。
「佳奈ちゃん、私は大丈夫だよ」一度握り返した両手を縦にシェイクして「先生の事は絶対に大丈夫、私が保障する。私が暴れたときにいた、あの時の部員だって今の私なら大丈夫。困ったときは佳奈ちゃんにも助けてもらうけど、ちゃんと立ち向かえる」
それは佳奈を説得するだけの言葉ではなかった。彩音はそれを口にしてはじめて、自分を奮い立たせるための言葉だと理解した。
佳奈は人が変わったような彩音の姿に、はじめこそきょとんとした表情をしていたが、言い終わっても自信の表情を崩さない友達の顔に、何か素敵な変化を感じ取って破顔した。
「ねえ彩音、何か良いことあった?」佳奈は聞かずにはいられなかった。
「うん。極意を教えてもらったんだ」
「極意?誰に?」
「トロワさんにね。人の前に立つためにはどうしたら良いのかを教えてもらったんだ」
佳奈の頭の上に疑問符が見えても彩音は気にせずに続けた。普段はしたことのない、最高にキュートなウィンクを添えて。
「自分と共にする相手を知ろうとすること。それが一番だって」