3:Qui statuit aliquid parte inaudita altera, aequum licet statuerit.
誰もいない聖堂に佇んで、彼女は……彼は空を見上げる。地下に作られたこの場所に、灯りをもたらす天井に描かれた飾り窓。鮮やかな色で描かれた見事なステンドグラス。そこに記されているのは終わりへの物語。世界の創世から神の審判、そして滅亡までのストーリー。それを忌々し気に見つめるイグニス様。
私が聖堂に踏み入れたことを彼は察しているのかいないのか。神子様に限って気付かないなんてことはないだろう。それなら敢えて無視をしているのか。それともそれほどその絵を見つめることに夢中なんだろうか?
そんな彼があまりに遠くを見ているような気がして、私の口からこぼれ落ちる言葉。
「神子様……」
「……ルキフェル?君か」
「は、はい……」
私の声で、神子様はこっちに戻られたのだろうか。振り返り、優しく微笑み私の方を見てくれる。
「ソフィアとの待ち合わせはまだいいの?」
「あ、あんな女少し待たせてやった方がいいんです」
「僕としては事件を早いところ解決して貰いたいんだけどな」
「すみませんっ!今行きますっ!」
大急ぎで踵を返した私の背中に、可愛らしい笑い声。
「冗談だよ」
「え……?」
私をからかいあははと笑う姿は少しだけ意地悪く見える。それでもいつもの神子様よりも大分子供じみて見えてとても不思議な気分。
「結局の所世の中にはどうにもならないこともある」
「どうにも……ならないこと、ですか?」
悟ったような神子様のその言葉。それがよく似合ってしまうこの人は、やはり唯の子供ではない。同じ年の子供が背負うことが出来ない重過ぎる責任を任されているのだ。
(イグニス様……)
それなら私は。私は貴方に何が出来ますか?その重荷を少しでも軽くして差し上げたい。私はもっとこの方の力になりたい。私がもっと頑張れば……どうにもならないこと、それがどうにかなることに、変えられる?ううん、変えたい。変えてみせる。
そんな私の決意を見透かすように、神子様は私の思いを否定する。
「ああ。そうだよ。ある程度の情報があればある程度は守ることが出来るしある程度は防げるけれど、取りこぼしてしまうものって必ずあるものなんだ」
「取りこぼす……?」
「そう。未来に絶対はない。あるのは数字、確率さ」
ある程度の決められた道筋は確立によって弾き出される。最後の最後で勝敗を決するのは、努力でも友情でもなく鍛錬でもなく金の力でもなく美貌などであるはずもない。それを決めるのは時の運。
ある程度まで勝率を引き上げるのに必要なのは、確かに努力であり人脈であり金であり美しさなのかもしれないが、そこに絶対はあり得ない。結局の所運が良ければ勝てるし生き残る。運が悪いから負けるし死んでしまう。この世界はそういう風に仕組まれているのだと彼は言う。
「ルキフェル、君は最善という言葉をどう思うかい?」
「最も良い……ですよね?」
「ああ。そうだよ。でもそれは平和からは程遠いものなんだ。少なくとも最高とは呼べないよ」
「最善は、最高じゃないんですか……?」
「最善は最も犠牲者が少ない状況を指す。そしてそれは決して0ではないんだ。最高なのはそれを0にすることが出来たことを指す」
被害者が0の事件を人は事件などとは呼ばない。だってそれは起こらなかったことだから。だれもその存在を知るはずがない。
事件と呼ばれる者は必ず1以上の被害者、犠牲者が存在する。そこで初めてそれは事件として人に認識されるものへと変わるのだと神子様は言う。
「だけど、事件が起こってしまった以上最高の結末なんてものはあり得ないんだ。今回ももう既に被害者は出てしまったからね」
「神子様……」
「僕は確かにある程度の未来を知っている。それでも全てを守り救えるわけじゃない。未来は水面のようなもの。風が変われば、投げ込まれる石が変われば波紋の広がり方も変わるものだよ」
「救いようがない人間っていうのは何処にでもいるものでね、そういう奴らは罪を犯さずにはいられない。顔と名前と場所と被害者が多少変わっても、事件は無くならないもの。……人がいる限り、それは永遠に続いていくんだろう。見なくてもよく分かる」
神子様は国の大事や大きな時代の流れを見ることは出来ても、細かい予言には向かないタイプの先読みだ。勿論それが不可能というわけではなく、神子様への負担が大きすぎるという話。神子様は並の数術使いよりも膨大な情報を見ることが出来る。だからこそ、その無限とも言える情報の中から小さすぎる物事を見つけ出すのが困難なのだ。人の波に埋もれた顔も名前も知らない人間の未来行動をそこから導き出すこと、それは神子様には不可能ではなくとも容易なことではない。だから神子様には神子様で、精霊の加護と聖教会と聖十字がある。組織というものは、1人の人間では難しいことを簡単にするためのものであり、教会はそういう細かいことに特化した先読みの数術使いを何人も抱えている。つまりは適材適所ということだ。
「だから僕としては早期解決を望んでも、時が来るまでどうしようもないことだってある。君が急ごうと急ぐまいと変わらないものは変わらない。それならこうして君と少し、話をするのもそうは悪くはないことだ」
「そ、そう言っていただけると、……嬉しいです」
「あのねルキフェル……そんなに畏まらないでくれていいよ。下らないと思わない?年下のこんなガキに謙ったりするなんて」
「思いません!私にとって、神子様はっ……神子様ですっ!!」
真っ直ぐに見上げるのが怖いくらいに輝かしい人。そうしてしまったら私の目が焼けこげてしまうんじゃないかって不安になる。神子様は光だ。暗く醜い私の世界に差し込んだ光。神子様は太陽なんだ。暗い世界を照らしてくれる。この人がいるから、この人なら……こんな世界を変えてくれる。救ってくれると信じられるのだ。誰も救わない奴が世界を救うなんて出来やしない。それでも1人を救った人間が、世界を救うことはどんなに難しくても不可能ではない。すべては1の積み重ね。いつか不可能は可能に変わる。
「……はぁ」
「神子様?」
「Culpam poena premit comesか……皮肉なものだ。僕からすれば君の方がずっと眩しいものなんだけどね」
神子様が苦笑しながら目を伏せる。
「ルキフェル。僕は確かに神子だけど、僕も1人の人間なんだよ?それ以下になったとしても以上などでは決してない。だから僕にも不可能事は両手じゃ足りないくらいある。例えば今回のことにしてもそうだ。僕だけではここまでの情報を集めることは出来なかった」
差し出された左手。それを受け取る。書類などではなく直接能に送り込まれる情報の渦。それは音声、風景、匂いまで伴うさながら生きている情報。記憶なんて曖昧なものより余程鮮明な。
それを私に託して、彼は手を放す。それを渋る気持ちは私の畏れ多い我が儘だ。
(神子様の手……冷たかった)
その手の柔らかさとひんやりとした心地が手にまだ残っている。冷たい手の人は心が温かいという話を誰かが言っていた。やっぱり神子様は情け深い人なのだろう。私はそんな些細なことにまで、やっぱりこの人は私達とは違うと憧れてしまう。惹かれてしまう。この人の全てが本当に輝かしくて誇らしい。凛と響く声も、真っ直ぐ伸びた背中も前を見据える琥珀の瞳も。
「犠牲者から得た情報で、犯人の大凡の特徴も掴んだ。それと国内のデータを照らし合わせて出没場所の候補も上がった」
それでも情報を0から探すより、1から探す方が簡単なのはどんな数術使いでも同じ。犠牲者が居なければ犯人を捜すことも出来ない。だから……それが、最善。犠牲者が居なければ、犯人の足取りを追うことも出来ない。
「犯行時間は夜から明け方。僕らは明るい内に出回るには目立ちすぎるから好都合だね」
今はまだ犯人は尻尾を表さない。だからこうしている時間も無駄ではないのだと彼は言ってくれる。私の不安を宥めるように。
(神子様……イグニス様……)
神子様は私を信じてくれている。こうして私と話す時間に意味があると言ってくださった。私がこうしている間にも、世界では誰かが苦しみ傷つき死んでいる。神子様はそれを取りこぼしと言ったのだ。神子様はそれを見捨ててでも私に対話を求める。そうすることで私は考える。考えた先の私が、取りこぼした以上の人々を救うことを神子様は望んでいるのだ。
(神子様にここまで言って貰ったんだ。頑張らなきゃ……これ以上、犠牲者は増やさせない!)
吸い込む空気が胸の中で震え出す。意気込む私に神子様は、小さく笑って肩を叩いた。
「み、神子様!?」
「落ち着いて。君なら大丈夫だ。落ち着いている君ならね」
いつも通りにやればきっと君は最善を尽くせるよと神子様が私に言ってくれる。それに勢いよくはいと返事を返した私の声は、先程よりももっと気負ってしまっていて……それに神子様が苦笑する。
「まだ時間があるね。頑張ってくれるのは嬉しいけど、意気込みすぎても良くないから……気を紛らわすために何か話でもしてあげようか?」
「は、はいぃい!あ、ありがとうございますっ!!」
「何がいい?」
「え、ええと……」
聞きたいこと。ある。沢山ある。でも聞けない。怖くて聞けない。私は神子様を知りたいけれど、知りたくないのだ。私の知りたいが神子様の教えたくないと重なったなら、それは神子様を傷付けてしまう。
だから私の口から出たのはこんな言葉。
「な……何でも良いです」
別に嘘じゃない。神子様の声を傍で聞いていられる。私だけに語ってくださる。それだけで私は幸せ。その話がどんなものであっても。それは本当だ。
「君は似ているね」
「え……?」
「昔の僕の友人に、君によく似た奴がいたんだ」
過去形の言葉。私がそれに気付くと、神子様は頷く。
「昔の話だよ。彼はもう死んだ人間だ」
「神子様……」
何処が似ているのかとか、その人を神子様はどう思っていたのか。そんな疑問が浮かんでも、私はそれを口には出来ない。それが地雷のような気がして。
「救うことと掬うことは似ているよ。必ず取りこぼしてしまう。指の間から」
黙り込んだ私に、神子様はそんな風に切り出した。
「人の悲しみが涙となり海となる。救うべき人が海の水。救い主の両手が杯で器で……それを全て汲み上げるのが救済。一滴も取りこぼさないようにすると何回目だろうね……その重みに杯が耐えられないんだ。何もかもをすくおうとすると、器が壊れてしまう。そうなれば水は重力に従い海へと落ちる」
それは最高の結末ではなく、最善なのだと彼は言う。
最後に取りこぼされた中身達。それから壊れた杯の救い主。その犠牲の上に救済があるのだと。
「それでも少なくとも、杯が壊れる前に汲み上げた分の人は救われる。それなら杯の犠牲に意味はある。そういう見方もあるかもしれない」
私には、その話の杯というのが神子様のように聞こえた。自分を捧げて世界を救うのが役目だと、彼は言っているような気がした。
だけど、違和感。それはちょっと違うのかも知れない。神子様はその最善の結末に納得していないような様子だ。
「だけど聖杯になれる人間はそうそういない。血筋とか才能とか力とか、そんなものじゃなくて……それに見合う心を持てる人間がこの世界には殆どいない」
僕も人間なんだよと、神子様は私にこれまで何度か言っていた。それは私に自分を人として認識して欲しいという言葉ではなく、自身のいたらなさを語るようなものだった。神子様は自分に聖杯の資格がないと思っているのだ。自身では救い主になどなれないと自信を失ってしまっている。
「神子様、神子様は凄い方です!ですから……」
「誰も恨まず全てを平等に愛することが聖杯の資格。それが審判の真の終焉だ」
勇気づけよう。そう思って発した言葉が空回る。
「病める時も飢える時も凍える時も死せる時も祝福の内に全てを許せ……奪われても傷付けられても貶められてもそれでも人を世界を愛せ。見知らぬ他人のために心から泣け。罪を犯した隣人をも身内と思え。全てを許せ。そして無償の愛を捧げよ。僕らの神様ってのが求めている救世主っていうのはそういう奴のことなんだ」
その言葉の羅列に現実味を感じられない。唯少なくとも私では救い主にはなれないということは解る。私の想像の中の救い主は神子様……イグニス様だ。彼が傷付けられ、貶められて、奪われたなら……私は穏やかな心でいられるはずもない。
私が私で居ることが出来るのは、神子様がこうして傍にいてくれるからなのに。私も1人の汚らわしい人間で、その心を捨てようとこの方に近づこうと光を求めているだけなのだ。
「わかるかいルキフェル。それって誰かを必要以上に好きになってはいけないってことなんだよ」
それは、寄り添う恋人を祝福し続ける聖職者の気分そのもの。幸せそうな人達の傍らで祝福を、祈りを捧げる。それってとても残酷なこと。それをずっと続けていって、それでも真っ直ぐに誰かの幸せを祈れるものなのだろうか?自分が持たないものを、知らない幸せを抱えた人々。それを一度も憎まずに心から祝福出来るだろうか?身近な家族が、大切な友人が見知らぬ誰かに奪われるような錯覚を、一度も味わったことのない人間がいるのだろうか?それは、私にも覚えがある。
「君も誰かを大切に思ったことはあるだろう?僕も同じだ。とっても大事な人がいた」
人の幸せとは人の不幸の上に咲く花だ。綺麗な大輪の花の下には肥やしになった人がいる。
だから、人は私は罪深い。でもそれは自然なことであり、人間なら誰しも知る感情なのだと神子様は言う。私を責めない。
「誰かを大切に思うことは、他の誰かを傷付けることを厭わなくなる。誰かを深く愛することは、誰かを強く憎むことだ。だけど人間はそういう生き物だからそれは仕方のないことなんだ」
人間はそういう生き物。その言い方ではまるで、全てを愛する救い主が人間ではないような言い方。人間を越えなければ聖杯には……救い主にはなれないと、そういう意味なのだろうか?
だけど神子様は私の疑問には答えてくれない。なぜなら私が尋ねないから。
「でも、今日の世界がここまでおかしなことになったのは……人の本質が変わったからじゃない。対象が変わってしまっただけ」
人は今日も変わらず人を愛してはいると神子様は言う。
「今の人々が愛しているのは自分という人間なんだ。だから平気で他人を傷付ける。自分だけ良ければそれでいい。そういう奴らが増えたから、それだけ世界の嘆きも業の深さも増していく」
この世の悪の温床の一つがそこにある。神子様はそう言った。
「ルキフェル、どうして人は他人を愛せなくなったのだと思う?」
「え、ええと……」
突然の質問に私は狼狽える。考えれば考えるほど答えが見えなくなる問いだ。人の本質が変わらないのなら、人間は昔からそういう生き物だったはず。それが何故今になってこんなに世界はおかしくなった?おかしくなったのがこの数百年の間の出来事ならば、その間に何か人に変化が現れた。そう考えることになるけれど……
「すみません……私じゃわからないです」
煮詰まった頭を下げる私に神子様はそう難しい話じゃないよと首を振る。
「見えないものが見えるようになって、見えるものが見えなくなってしまったから。僕はそう考えているな」
「見える……、見えない?」
神子様の意味深な言葉に私は目を瞬いた。それに神子様は小さく笑う。
「後は君が考えて。君の君なりの解を聞ける日を少し楽しみにしている」
宿題を与える教師のような口ぶりは、確かにほんの少しだけ楽しげな様子が伝わった。その期待に応えたい。そうしたら神子様は……もっと喜んでくださるだろうか。
「は、はい!頑張ります!」
聖堂を響かせる私の威勢だけは良い返事。それに神子様はまたまた苦笑。
「それだけの気力があれば……この任務が終わることには君にも見えるようになっているかもしれないね。さ、ルキフェル……行ってらっしゃい。そろそろ行かないとソフィアが君にぶっ放しかねないよ」
秘密組織の君たちが街で騒ぎを起こしたら、最後は僕が困るだろ?そんな冗談めかした脅迫で神子様が私を送り出す。
神子様に迷惑を掛けるわけにはいかない。ソフィアの馬鹿女のせいでイグニス様の仕事が増えるのは御免だわ。
「わかりました神子様、行って参ります!」
神子様に一礼し、私は廊下へ。そのまま長い長い階段を駆け上がる。私は数術転移なんて高等数式使えない。それに身体は鍛えておかないと。唯でさえ先天性混血の私は後天性のソフィアより身体能力が低いのだ。かといって凄い攻撃数術を使える訳でもない。私は混血でありながら、そこまでの数術の才能がない。集中すれば使えないこともないけど……たぶん、殴ったり蹴ったりする物理攻撃の方が強い。才能がないのだ。
だからこそ、こうして階段くらい自分の足で昇らなきゃ。最初は途中で倒れたりもしたけれど、ここに来てもう2年。毎日上り下りしていればそんなこともなくなった。才能が無くても私には私の良いところがある。神子様はそう言ってくれた。この2年間全く変わらない背丈の神子様との距離は遠くなったけど、それは見た目だけ。心は2年でぐっと近づいたと私は思っている。思うことにしている。
混血は心的外傷で成長が止まる。私は運良くそうはならなかった。その直前に神子様が私を助けに来てくれたから。だから私は私を助けてくれたイグニス様が大好きだし、イグニス様の力になるのが私の喜び。
(イグニス様……)
聞きたいこと。聞けないこと。沢山ある。私は聖堂での話を思いだしてしまった。
あの人には一体何があったのだろう?私には話してくれないけれど、彼が彼女になってしまった理由。成長が止まっている理由。
私がもっと頑張れば、いつか話してくれるだろうか?話して貰えないのは、私が聞けないのは私がまだまだ未熟で至らないから。もっとちゃんと仕事をこなし、多くを守って立派な神子様に少しでも近づけたなら。私はその価値のある人間になれるだろうか。彼の悲しみを共有できるような人間に。
神子様は、とても寂しい目をしている。楽しそうに笑っていてくれているのはたぶん私のため。心の中ではたぶん全然違うことを考えているんだ。
「駄目だな……私」
俯いた視線に入る自分の修道服がとても似合って見えないのだ。私はシスターで、自分のためでも誰かのためでもなく……みんなのために祈り働くのが私の仕事。神子様は私の気持ちも知ってらっしゃるのだろう。だからあんなことを言う。
全ては救えなくても多くを救うのが私の仕事。だけど一番救いたいのは、あの人だと思ってしまう。こんな気持ちで働くのはとても醜く浅ましい。
そんな私をあの人は、君は人間なんだからと教えてくださったのだろう。それは仕方のないことなんだよと。
*
第一聖教会は小さな山の上にある。聖教会の総本山であるその大きな建物の外。長い階段を下れば麓の街……港町メルクリウルスへと着く。
ここはシャトランジアと言う国の窓口のようなところ。王都は別にあるけれど、王と同等以上の権力を持つ神子様が収めているのがこの街だ。メルクリウルスはシャトランジアの東北に位置し、セネトレアとカーネフェルとの貿易に適した場所にある貿易港。ここが唯一の開港でありシャトランジアの玄関だ。
そして聖教会の総本山と言うことは聖十字軍の本部でもあるわけで、教会の半分は軍の訓練施設だし、街にも聖十字の屯所がある。そんな正義の番人達の暮らすこの街で、悪さをするなんて余程の馬鹿だ。けれど最近そんな余程の馬鹿が増えてきている。
メルクリウルス港は、貿易だけではなく移民や亡命者の受け入れにも利用され、彼らは教会へと保護される。それが最短ルートであり最も安全な亡命方法だから。
シャトランジアでは法の下では純血も混血も平等と言うことになっているが、人々の認識から言えばそうでもない。他の場所から上陸したなら、第一聖教会に着く前に何らかの事件に巻き込まれてしまうこともある。
そう。そう言う事件ならいくらでもある。唯、死体の上がるような事件がこの神子のお膝元であるような場所で起きることはこれまであり得なかった。
「……なるほど。神子様が私にやらせるわけだわ」
長い赤い髪を隠すため、黒のウィッグでそれを隠しての歩く街。この色に変装したのは今回の被害者が混血ではなくタロック人ばかりだから。
カーネフェル人国家のシャトランジア。ここで混血への理解は少なくとも移民のタロック人よりは進んでいる。格式高いプライド貴族がわんさか居るせいで、ありとあらゆる差別と侮蔑はあっても殺人事件が起こるほどのことはない。
だからタロック人のふりをして街をぶらついているだけで、犯人に近しい人間が現れる可能性はある。実際妙な視線が向けられている。しつこく舐め回すような視線に痺れを切らし、振り返る。
「んで、なんであんたがついて来んのよクラティラ」
この同僚のねっとりとした視線のせいで、勘が鈍る。他から向けられているかもしれない殺気が薄れてしまって邪魔だ。邪魔しに来たのなら帰って欲しい。ていうか帰れ。
冷たい視線を女に向けてやる。白髪を隠し金髪のカーネフェル人の振りをしているその女はうっとりとした目つきではぁと息を吐く。
「ソフィアが私について来て欲しそうだったからに決まってるじゃない」
「決まってない。帰れ。ストーキングで聖十字屯所の地下牢にぶっ込むわよ」
「どうせなら違う場所に別のものをぶっ込んでもらえる方が私は嬉しいなぁ」
「あっそ。耳の穴?口の穴?鼻の穴?どっからでも弾丸食らわせてやるわよ。どっから死にたいわけ?」
「嫌ねぇ、冗談が通じないんだからソフィアちゃんは。下の口って言ったらほんとに教会兵器ぶっ放しそうだから自重させて貰おうっと」
そういう低俗で卑猥な冗談は私がもっとも嫌うもの。それを知っていて口にするこの女が私は嫌い。嫌がる私の顔を見るのが愉しくて堪らないと言った恍惚の表情に嫌気が差した。
「ま、脱線はこの位にして。ソフィアは数術使えないでしょ?だから優しいこの私が視覚数術張ってあげてるんだわ。ソフィアの髪は目立つし」
「そのくらい教会兵器でカバー出来るわよ。第一変装だってしてるしあんたの協力なんか要らないわ」
「……あくまで私に本音を吐かせたいのね」
肩をすくめて手招きをする同僚。余り近寄りたくはないが、神子様からの何か新しい情報があったのかもしれない。しぶしぶクラティラへと寄る。
「実はね……ここだけの話なんだけど……」
「変なことしたらぶっ放すから」
耳元に顔を寄せた同僚に、ドスの利いた声で脅しをかける。しかしこの腐れ女はそれに脅える所か顔を赤らめるという救いようのない反応。本当にその脳天ぶち抜いてやりたい。
「変なことって?」
「あんたが考えそうなことよ」
「具体的には」
「言わせる気?」
「言って貰わないと私わからなーい」
この女は本当に好かない。私の反応を本当に楽しんでいる。無視しても怒っても基本的に何でも喜ぶ変態女だ。
(…………正気を疑うわ)
私なんかの一体何処をそんなに気に入っているんだか。聞いてもろくな答えが返って来そうにないしおぞましい答えが返されても困るので、聞かないでおこう。
「……耳元で思いっきり怒鳴ったり、息吹きかけたり舐めたりしたらぶっ放す。あんたの右の耳から左の耳まで風通しよくしてやるから覚悟しなさい」
「つまりそれ以外、それに類似する行為以外なら許容範囲ってことね」
「それ以外って何があるわけ?」
「例えば私の物で」
「指をブツって言うな」
「ソフィアの耳処女膜を貫通とかどう?」
どんな頭をしているんだこの女は。それ以外の発想を思いつくこと自体理解しがたい。
「鼓膜破ってもぶっ放すから。大体そんなことして何が楽しいのよ」
「普段は強気で気丈な子が痛みに脅えて泣き喚いて懇願するようなギャップ萌え。それを私は見てみたい」
「今すぐ死にたい?それとも傷害罪で投獄されたい?」
「嫌ねぇ、未遂未遂。っていうか未遂以前じゃない」
「知ってる?空想でも妄想でも姦淫は罪になるっての。やるかやらないかじゃなくてそんな危ない考え持ってる時点であんたは十分犯罪者。近寄らないで汚らわしいったらありゃしない」
「でもそれで捕まった人はいないでしょ?国法には思想の自由ってのがあるんだし」
「はいはいはいはいそうですね。思想は自由よ。だけど私っていう他人に迷惑かけてくるような思想は自重して貰いたいものだわ」
長ったらしい脱線に重いため息が出る。そんなこっちの気も知らないで同僚は恍惚の表情だ。呆れた侮蔑の視線にも興奮できるなんて私はこの女の神経を疑う。
「で、結局何なのよあんた」
「ソフィアの男装が私のツボだったから後つけちゃった。てへ」
散々引っ張った癖に普通にどうでもいいことをさらっと暴露しやがった同僚に、もう呆れて溜息すら出なくなる。
「……馬っ鹿じゃないの?」
「胸が慎ましやかなせいで潰さなくても容易に男装出来るなんて便利よね。ねぇ今どんな気持ち?ねぇ今どんな気持ち?普段女らしさを否定してる癖にちょっと凹んで着替えして微妙な心境で変装してる今どんな気持ちなの?やばい、想像しただけで興奮してきたわー」
やばいのはお前の頭と行動だ。着替えまで覗いていたのか。本当に許されるのなら今すぐ銃口向けてやりたい。でもこんなクソ女でも神子様の部下。神子様にとっては必要な人材。それを頭の中で何度か繰り返し、心に折り合いを付ける。
「……はぁ、邪魔すんなら帰りなさいよ。あんたの任務じゃないんだしあんたの分給料出ないわよ」
「いやいや、邪魔なんかしないし私。むしろ手伝いに来たのは本当よ?そりゃ下心は10割あるけど」
完全に下心しかないじゃないそれじゃあ。そう睨み付けても、女はくすくす笑うだけ。
「ソフィアと正々堂々とデートが出来るんだもの。時間外労働万歳っ!」
腕を絡ませて身を寄せてくるクラティラ。腕に当たる胸の圧倒的な質量に見下されているような気分で嫌な感じ。こっちがそういう気分になるのを知っていてわざとそういうことをしているのだろう。本当に嫌な女だ。
横目で睨めば嫌らしい笑みを浮かべているのだろう。そう思ったが……隣の彼女はにやにやという下品な笑みではなく、普通に嬉しそうに笑っているから少しだけ驚いて、面食らったような気分になる。
それでももしかして心配して来てくれたのだろうか?これまでの犠牲者はみんなタロック人だから。
「なんで来たんだよ」
変装していることをようやく思い出して、言葉遣いに気をつける。今の私は男なんだ。
ぶっきらぼうに吐き捨てたその言葉を拾う彼女は、切り替えるように再びいつもの嫌らしい笑みにに変える。
「いいわそれ、凄くイイっ!やっぱりソフィアの性格には男口調がガチでいいっ!そこらの野郎より全然格好いいのに女の子だって言う詐欺がまた堪んないわぁ……格好も性格も男らしいのに無理矢理組み敷かれるようなソフィアを想像するだけで鼻血が出るくらい身悶えしちゃうわー」
「…………変態。ていうかそういうのはどうでもいいから」
「はい、私は変態です。貴女は変態ですか?」
「何その語学入門みたいな返答……」
「はぁ……私に別方面の数術の才能があったらなぁ、余裕で生やすのに。代償的に見合わないから常備出来ないのが痛いんだわ」
「あんたの発想がまず痛いっての」
「大丈夫だからねソフィア!ソフィアが私に手を出さないのは私に手を出されたいからなんだよね!ちゃんと解ってるから!必ず満足させてみせるわ!」
「あんた本当に可哀想で幸せな脳味噌してんのね」
前言撤回。この女は本人が自負している通りに唯の変態だ。それ以下があったとしてもそれ以上であるはずもない。
「あ、ちょっと!ソフィアぁっ!!女の子に冷たい男はモテないわよー!!」
男じゃないっての。そう言い返したい衝動を堪えて距離を稼いだ。乱暴に腕を振り払って変態女から遠離る。先天性混血のクラティラが私の脚に追いつくことはない。それにおしゃれなんかしてヒールなんか履いてくるからあんな足では走れないだろう。
足早に進んでしばらくしてから振り返ればもう見えない。それに無事に撒いたかと安堵の息を吐き、ルキフェルとの待ち合わせ場所へ向かおうと辺りを見渡す。クラティラを撒くために、裏路地に入ってしまった。ルキフェルは時間にうるさいから指定しておいてこっちが遅れたら小言を何時間も聞かせられることになる。通りに向かおうと歩き始め……微かに背後から聞こえる足音と衣擦れ息遣い。獲物が掛かった。
(いいわ……来なさいよ)
こんな雑魚い事件、さっさと私1人で解決してやる。数術なんか使えなくても私はちゃんと戦える。救いようのない馬鹿は、殺されるまで止まらない。これ以上被害者を出される前に手を打ってやる。
罪には罰を。刻んでやらなきゃ。傷付けられた人達の、無念を痛みを思い知らせてやる。