1:Relata refero.
私は物心ついたときにはもう教会にいて、今も教会にいる。私の世界とは、教会の中でのことが全てだった。教会というのは不思議な場所だ。いろんな人が祈りに来る。嘆きに来る。縋りに来る。悔い改めに来る。何も言わない偶像に言葉を捧げ、祈りを捧げ……それで救われた気になって帰っていく人も多い。それで彼らが救われたと思えるのなら、確かに神はいるのかもしれない。彼らの中には。
それでも私は祈っても何も変わらないような気がする。目を閉じて……その間私は考える。私の祈りは思考に傾く。追い求めるもの。それが私にとっての祈り。
宗教とは何だろう。幼い私はそれがよくわからないままその場所に暮らしていた。今だってよくわからないまま。
祈りを捧げるその度に。あの頃は毎日のように考えていた。飾られた偶像に心の中で問いかけたけれど、一度だって返事が返されたことはない。神様とは本当にいらっしゃるのだろうかと、私は常に疑念を抱いていた。
周りの人々。私よりずっと年上の大人達。彼らのように狂信的に、妄信的にのめり込むことが出来ずに、何処か覚めた気持ちで私はそれを見つめていたのだ。
理不尽なことは多い。だけど誰も怨んではならないと本は私に教える。それでも私も人間だから、そんな風にはいられない。
私が何かいけないことをして、それで罰せられるのなら仕方のないこと。それでも世界は理不尽で、無意味に残酷だ。何もしなくても罰は降り注ぐものだから。それを黙って受け入れられるほど私の心は広くない。だってそれはおかしいことだ。
聖教会が掲げる物が平和。その聖教会が所有する聖十字が掲げる物が正義と平等。だというのに世界はとても不平等。教会の教えが広まっても平和は訪れない。何食わぬ顔をして教会の中まで汚いよごれた足で踏み込んでくる悪がある。
信じない者が犯す罪。信じすぎた者が犯す罪。それを偶像の神は何も言わずに見つめるばかり。幾ら問いかけても何も答えてはくれない。
神は見ていた。私も見ていた。神の家の中で一人の女が死んだことを。
私は混血。私の片割れも混血。私達を生んだことで母は迫害を受けた。目の色、髪の色……それが人とは違うから。私達は悪魔の子だと忌み嫌われた。
赤ん坊の私を抱えた母が、逃げ込んだのは教会だった。信仰を信じた母はそこまで来れば魔女狩りの魔の手から逃れることが出来ると信じていた。それでも母は死んだのだ。神様に守って貰えなかったのだ。
人の社会とは固定概念の塊。過去の鎖に縛られた閉鎖的な場所。例え法が私達を人間だと認めても、人が認めなければ意味がない。どんなに立派な王だって、国の全てを見ることは出来ない。法は全てを守ってくれない。
そう。守ってくれるのだとしたら、それはきっと神様。そう人々は言うけれど、私はそうは思えない。私はシスターだけど、神様なんか信じない。神様は私達を助けてなんかくれなかった。
だから私が信じているのは神様ではない。たった一人の人間だ。あの日私を救ってくれた。差し伸べられたあの人の手。私にとっての神様とは、見えない誰かのことではなくて……そうしてくれたあの人なのだ。
*
「神子様!神子様……イグニス様ぁ!?どこですかー?」
宗教国シャトランジア。その貿易港メルクリウルス港から山を登った所にあるのが第一聖教会。聖教会の総本山と呼ばれる場所に私は今身を置いている。
教会は数術研究機関の総本山でもあって、ある意味でこの場所は全知全能の知識の箱だ。故に一般人には入れない場所も多い。例えば、地下部分なんて丸ごと公開されていない。教会関係者の殆どはそこへ行く方法も知らない。だけどそれも仕方のないこと。世の中の表舞台には公開できないことなんて幾らでもあるのだから。
迷路のようなその回廊。それを抜けては地下の階を下って下って、私は下る。
その何階目だったろう。壁は鏡のように私の色を映し出すようになる。ここを通る多くの人間にとってそれは悔恨を移すだろう。それは私もまた同じ。
私の片割れも、生きていればこんな顔をしていたのだろうかと。私達に問いかける過去。
私の長い青い髪。それは私が純血ではなく、混血である証。アクアマリンの宝石みたいな私の瞳は水みたいに透き通る。そんな目をした人間、普通は居ないから……私が瞳を開いたときに、産声を上げたときに悪魔が生まれたと人々はそう言った。だからこそ、本来祝福であるはずの名前がこんなに呪わしい。
(でも、それも過去のこと)
今では私はこの名が好きだ。私の大好きな人がとても優しく呼んでくれる。その響きがとても好き。彼があの美しい旋律のような声で奏でてくれるなら、どんな名だって私にとっては祝福なのだ。
「あれ、おかしいな。ここにもいらっしゃらないなんて」
「その声……ルキフェルかい?」
「あ、神子様……」
探していた人の声。その声の方向に私は駆ける。そして扉を開けた後にようやく気がついた。ざぁざぁと水がこぼれ落ちる音。ああそうか。この部屋は……
「も、申し訳ありません神子様ぁっ!!わ、私っ……禊ぎ中だとは思いませんでしてっ!!」
力一杯ドアを閉め、謝罪。驚いたような顔をしていた神子様も、扉の向こうで小さく笑う。
どうしよう。今目にした光景が脳内でエンドレスリピート。
カーネフェルの金髪に、本来あるべきは森の緑か海の青。それでも彼のそれはどちらでもない。金をもっと深く溶かしたような色。されど光に照らされ黄金に輝くその色は……琥珀色の神秘。遙か昔古より今を伝えるように、未来を予言する全知全能の数術使い。
濡れていつもより長く見える髪とか、光る水滴が睫にお顔に張り付いて。薄布を羽織っただけの悩ましげな少女の身体。それはほっそりとしていて決して肉付きの良い身体ではないけれど、だからこそ嫌らしさを感じさせない。やばいやばい。神々しいわ神子様。同じ混血でもここまで綺麗な人を私は知らない。嗚呼。あの笑顔は本当に天からの御使いかと見紛うほどに愛らしいですイグニス様ぁ!!
(うう。解ってるのに。解ってるのに)
神子様は元々男性だし、口調も性格も男の人のそれだけど、今の神子様は訳あって女の身体をしている。それなのに裸を見て狼狽えたり鼻血を出している私は聖職者としてどうなのだろう?いや、神子様は元々男性だしときめいても仕方ないよね。問題ないよね。むしろ正常だよね。
「ルキフェル?」
「は、はいぃいいいいっ!!」
「それで、僕に急用だったんじゃない?」
「あ、はいぃいい!!」
そうだった。そうでした。うっかりしてました。
「カーネフェルに飛んでいた№7、アルマからの伝令です。神子様の予言通り、本日タロックからの奇襲が始まりました」
「……そうか」
呟かれたその一言に滲む苦渋の色。神子様は世界最高の数術使いにして先読みの神子。
この世界の万物は数字で表すことが出来る。その数値を情報として知ることが出来、それに作用する力を持つのが数術使い。万物が数字、それを書き換えられるということは数術使いは理論上何でも出来る魔法使いのようなもの。それでもそれを扱うのが人間である以上不可能事も多い。神子様が世界最高の数術使いと呼ばれる由縁は、世界に張り巡らされた数値を読み取り、未来を知ることが出来る預言者だからだ。
他人が知らないことを知っている。そしてそれが確実ならば。先読みの神子を抱えるシャトランジアという国は、他国からすれば得体の知れない相手でもある。数術という力、教会兵器という古から伝わる強力な武器。そして全知全能の神子。この三者により宗教国シャトランジアは小さな島国でありながら、千年の平和を保っている。
他国の戦には介入しないが、平等にその救護に当たる、人道支援の軍が教会抱える聖十字軍。これは各国の教会圏内で治安維持の協力にも務める警察でもあり、世界平和のために尽力している。
イグニス様はまだ十の半ばにも満たない齢でも、多くを知るからこそとても大人びて落ち着きのある方だ。
だからこそシャトランジア国王と同党の地位にある神子……聖教会、聖十字軍の最高指導者という肩書き押し潰されることもない。正確に継ぐのは再来月とはいえ、彼は立派に仕事をこなしている。今の神子はもう1年前から寝たきりで、実質今は次期神子の彼が神子であると言っても間違いではない。
神子様は、高い位にありながら……決して優しさを忘れない。神子様は、ご自身の予言が外れればいいのにと願ってらっしゃる。戦争なんか起きなければいい。そんな予言外れてしまえばいい。そう考えている。
それでも人は愚かだから。争わずにはいられないから。いつも神子様の見た未来通りに世界は進む。けれどその先には滅びしかないから。だから私達運命の輪はその軌道修正を行う必要がある。
滅びが救いなどと説く神を、神子様は認めはしない。私も同じ。
神子様は誰より神に近い場所にいる人間なのに、彼らを認めていない。否定している。聖教会の最高権力者が神に反意を翻すなんて、普通じゃ考えられない状況だ。私も修道女でありながら神ではなく彼に従っているわけで、教会の狂信者とか保守派に知られれば神子様だってその地位は危うくなる。唯でさえ、混血の神子ということで偏見のある人間からは快く思われていないのだ。
平等を説くシャトランジアにだって差別も偏見も存在する。教会の外で、混血や移民が迫害にあり殺されたなんて事件は幾らでもある。
そんな話を聞く度に……私は銃を取る度に、平和ってなんなんだろうと繰り返す。
人の気持ちに敏感な神子様は、私の沈んだ心を扉越しに感じ取り、私を試すように問いかける。
「ルキフェル。君は僕に聞かないのかい?知っていて何故止めさせなかったのかとは」
いや、違う。神子様は何かを後悔していらっしゃる。まるで私に懺悔するように。こういう時、気の利いた言葉を言えればいいのに。あの赤毛の女。ソフィアみたいに。
だけど私はそんな勇気がないのだ。彼を名前で呼びたいけれど、実際目の前にすると畏れ多くて神子様としか呼べないように。
「神子様の行うことに間違いはありません」
「さぁ、どうかな。僕も人間だからね。間違いは幾らでもあるよ」
「そ、そんなことはないですよ!!神子様は絶対です!絶対にそんなことはありません!神子様を悪く言う奴が居たら私が……」
私が彼を神格化して神聖視していること。それを神子様は本当は煩わしいと思ってらっしゃるのかもしれない。それでも私にとって神子様は……神様みたいなものなのだ。
神子様が西というなら北も南も東も西だ。神子様が黒だと言うのなら赤も青も緑も黄色も白だって、それは全部黒なのだ。私は神子様を信じている。
こんなに優しい方だもの。救えない人のための後悔を一身に背負って、それでも弱さを見せない気丈な人だもの。そんな人が下した決断を、間違っているなんて私は言わない。
「そういう意味じゃないんだけどな」
「す、すみませんっ!!」
「いや、いいよ。ありがとう。そう言って貰えるのは……嬉しいよ」
神子様がくすりと笑う。私の熱意に溢れた言葉に苦笑されているのだ。
その後彼は、物語るように淡々と世の理を説く。
「下手に止めようとすると僕の知る未来から外れて、更に多くの犠牲が出る。避けられるところは避けたいけれど、仕方がないところは仕方がない」
「はい……」
表に出す預言というのは神子様が知る未来のほんの一部。その全てが真実であるとも限らない。
真実は逃れようがない、不変の事柄。嘘の情報は、情報操作。こうなるはずがこうなった。知っている未来……それがある行動により変わったことでこうなったのだと言うために。
真実の力は恐ろしい。時にそれは大きな混乱を招く。例えば今回カーネフェルの南西の村が襲われたこと。それを予め教えておいたなら確かにその村人は襲撃から逃れられたかもしれない。カーネフェルが軍を差し向け迎え撃つことも出来たかもしれない。
それでもそうすることで都や北部の警備が減ってそこを攻め込まれてもっと混乱。もっと略奪。もっと大勢、人が死ぬ。
神子様が見た未来。その中で最も犠牲の少ないルートを通る。その上で回避できそうな事柄は逐一私達が力添えをして回避させていく。それが神子様親衛隊にして秘密機関、今代運命の輪の在り方だ。
多くを守るためには多少の犠牲も止む終えない。その位割り切る覚悟がなければ世界を救うことなんか出来ない。それは私もよく知るところだ。
それでも神子様はそれを割り切ることに何も感じないわけではない。私はそれを知っている。だから私は彼を責めたり出来ないし、そんなことをする奴が居たら私がはり倒す。
「……そうだ、ルキフェル。部屋を一つ掃除していてもらえるかな」
「それって、№1のことですか?」
尋ねれば神子様は肯定。
確かに空いている部屋が一つあった。№2に関しては部屋自体存在しない永久欠番だからそれは違うとして。
「魔術師は僕の代から空席だったね。まもなく埋まるよ。まだ小さい子だから仲良くしてやってくれ。彼も…………可哀想な子だからね」
「は、はい!!№1ってことは、大きな数術使える子ですか?」
「まぁ………そうなるんだろうね」
「……?」
神子様のちょっと良い淀んだ言い方が気になったが、突っ込んで尋ねる勇気もなく私はそのまま引き下がる。
運命の輪は全員で21人。№5の教皇が神子様。最強とするなら別格としてまず彼だ。№2は何時の時代も欠番。0から21までそれぞれ仕事が分かれていて、神子様抜かして上のナンバーほど強い数術使い。下の方ほど肉体派。中間辺りのメンバーは主に潜入捜査や情報操作が仕事となる。
私は№16。数術は使えるには使えるけれど攻撃専門とでもないし、情報専門というわけでもないちょっと変わった力。だから上のナンバーには憧れているところも実はある。№1ということは本当に凄い数術使いが来るはずだ。そういう仲間が増えるのは少し楽しみ。
「同僚かぁ……どんな子だろ?まぁどんな子でもあのクソ女以下ってことは絶対無いわね、うふふふふ」
笑う私のすぐ傍を、通り抜けるよう風が吹く。ふわと髪が感じた風と殺気。
「ご機嫌ようクソ女」
耳元で鳴り響く轟音の後、背後から聞こえる足音と女の声。
「最近のクソ女ってのは自画自賛逆位置で自分貶める機能ってのも付いてんのね」
「ソフィアぁああああああああああああああ!危っないじゃない!!私はあんたみたいな暴力女とは造りが違うんだからね!?死んだらどうしてくれんのよ!?」
「うっさいわね。死んだ方が悪いんでしょ」
振り向いた先には、赤髪赤目の後天性混血児。私より遅くやって来た私の同僚。№21の肉体派。どんな筋肉だるまかと思えば私よりずっと背の低いチビ女。それがとんでもない怪力だわ野蛮だわ、生まれがタロックってだけはある。あの侵略国がいっつも戦争起こすんだもの。あそこ出身だからこんなに乱暴で口も悪くて態度も悪くてがさつで性悪なんだわ。
兎に角私は生理的に潜在的にこの女が嫌いだ。大嫌いだ。新参者の癖に神子様とやけに親しい。私はそれがとても気に入らない。
私は成長が止まっていない数少ない混血だから、それなりに鍛えているからやってやれないことはないけれど、後天性混血相手では後れを取る。私の利点と言えば数術を扱えることだけれど、それは数術弾さえあれば同じ土俵に戻される。代償無しに扱える分、数術弾の方がよほど使い勝手が良い。私も銃は与えられているけれど、また素早さとかそういう次元の話になると後天性の彼女の方が有利になる。
ならば口喧嘩くらいでは負けるわけにはいかない。そうだ。そうよ。元々神子様に最初に仕えていたのはこの私なんだから!
「2人とも、ここで騒ぐと響くんだ。いろいろ数術は張ってあるとはいえここは一応秘密機関だからね、自重しようか?」
「は、はいぃ。すみません神子様」
「申し訳ありませんイグニス様」
神子様の声に振り返る。嗚呼、神子様今日もとっても麗しゅう……ってさっき会ったけど。まだ完全に渇いていない湿気を帯びた髪がとっても艶やかで色っぽいです神子様。私より背も胸もないのに私よりフェロモン出てる気がします神子様っ!!嗚呼、鼻血がまた出そう。胸がないのはソフィアも同じなのになにこの違い!?神子様の方がよっぽどお綺麗でお淑やかでお美しいわ。中身男の人なのに。
ソフィアなんか生まれも身体も女だってのに何このがさつな女。幼少は花嫁修業を受けてきたっていうけどあれ絶対ガセネタだわ。
っていうか神子、御髪から仄かに香る華やかでいて決して嫌らしい感じはしないこの香りは何の洗髪料ですか?同じの使っても私じゃこんな香りにはならないわきっと。それもこれも神子様がお美しいからに違いない。嗚呼、いっそのこと今すぐ貴方を抱きしめて、その首筋に顔を埋めたいです。そのまま神々しくも清らかな貴方様を皺一つ無いベッドメイクしたての純白のシーツの上に押し倒してそのまま一緒にお昼寝したいっ!絶対神子様の肌つるつるのすべすべよ。この間手を触ったときそうだったもの。そんな神子様を腕の中に閉じこめて、ぽかぽかの午後の日差しが差し込む部屋で一緒にお昼寝。目を開ければ天使のような神子様の寝顔。想像するだけで口元が緩んでふやけてにやにやしてしまう。
嗚呼、でもそんなことになったら私もう天にも昇る心地だわ。そのまま死んでもいいくらい。
「って私なんて畏れ多いことを考えてるの!?」
「イグニス様。そこにある意味謀反企ててる反逆者がいますけど」
「うん。その程度の妄想なら可愛いものだよ」
いけない。神子様は数術のエキスパート。その強すぎる力のせいで日常生活に支障を煩っていらっしゃるくらい。私の感情数から私が脳内トリップしていることは見抜かれていた。その内容まではわからなかっただろうけれど粗方予想は付かれているよう。
「ルキフェルは可愛いね。君には僕も癒されているよ」
「そ、そんな……あ、ありがとうございます神子様」
よしよしと頭を撫でられる。年下に。おかしな図だけど神子様に触って貰えるならルキフェルはそれだけでも生唾涎が出るくらいです。そのままご飯三杯は食えます。ほぅと至福の息を吐く私を横目で見るソフィアは肩をすくめながらも私を馬鹿にした視線を送ることを忘れない。
「これだから処女は」
「何か文句あるのこの非処女っ!!背信聖職者っ!!」
「…んですってぇ!?この生娘っ!生麦生米生娘っ!!無駄乳脂肪っ!」
「なっ……なにそれっ!?このビチビチビチビチビチビチビッチっ!!ファッキンビッチっ!!非処女非常識非行女っついでに非人間っ!!」
「はん、処女の癖に何その胸脂肪?どんだけ自分で揉んだわけ?うわ、変態。可っ哀想ー…、揉んでくれる相手もいないんだー?まぁ私が男でも金渡されてもごめんだけどねー」
「自分が非処女なのに胸がないからって妬まないでくださる?女の嫉妬は見苦しいんで。ていうかあんたに揉まれたらセクハラで訴えるしー」
売り言葉に買い言葉。吠える私に噛み付くソフィア。私達の口論に、頭を抱えている神子様。神子様は天使のように愛らしいからため息を吐く様まで本当に絵になる。この悩ましげな息が半分は私のために漏れたかと思うとぞくぞくする。神子様を困らせるなんていけないことだと解っているのになんだかとってもぞくぞくする。
「君たち、とりあえず落ち着こうか。任務帰りで部屋で休んでるメンバーもいるんだから」
「イグニス様、あいつ撃ち殺していいですか?」
「うん、だからここではあんまり騒がないで」
「ってソフィアっ!何あんたそんな呼び方っ!神子様に無礼……」
「僕は別に気にしていないからいいよ」
「で、ですがそれでは示しというものがですねっ!!」
「自分の弱気を私のせいにしないで貰いたいわね。うざったいったらありゃしない」
「ソフィアぁあああああ!!」
「……ルキフェル?」
「あ、す、すみません神子様っ!!」
どうして私ってこうなんだろ。敬愛する神子様に怒られてしまった。横目で見ればあのクソ女の澄ました面。その面に泥団子でも投げつけてやりたい。
恐る恐る神子様の方を見れば、懲りない私に仕方がないなと言うように……呆れたように、それでも少し愉快そうに、彼は優しく微笑んでいて。私のためにそんな風に笑ってくれたということだけで、私はとても幸せで。口喧嘩に負けたことなどもう忘却の彼方。
ソフィアは現金な奴と私を馬鹿にした視線を向けてくるけれど、そんなことも些細なことだ。今は全く気にならない。
(神子様、神子様……)
運命の輪。その中の一輪。ルキフェルという人間の軸は間違いなくイグニスというその人だ。私の世界は彼が中心。彼のために世界が私がグルグル回る。目が回って足がふらふらになったとしても、私はこの上なく至福を感じられるだろう。
*
「ルキフェルにも困ったものですね、イグニス様」
仕事帰りと言うこともあり、私も少々気が立っていた。それでも先に喧嘩を売ってきたのはあの無駄胸脂肪の腐れシスターだ。私のは正当防衛よ。よって私は完全正義。
「まぁ……そうだねソフィア、あの子もいろいろあったから。あまりそういう話題には触れないでいてくれると助かるよ。彼女の潔癖性はそれも仕方がないことなんだ」
「別に私もあんな女のことなんか知りたくなんかないから構いませんけど」
「……そうだね。彼女も君をよく知ろうとはしないから、いつまでもこんな感じなのかな。彼女に代わって謝るよ。さっきの言葉は君にとっても辛いことだったね」
「別に、気にしてません。それに……」
「僕のことはいいんだ。そんなことより立ち話も何だし部屋に入らない?僕はまだ君にお帰りとも言っていないんだから」
神子様はにこと微笑んで、私を誘う。
「うわ、これどうしたんですか?」
神子様の部屋に入れば机の上に食事に飲み物。まだ温かい。作りたてのよう。
「上から拝借して来たんだ、たった今」
神子様が悪戯好きの子供のように意地悪な笑みを浮かべた。あまり他のメンバーの前では見せないけれど、神子様の本性はどっちかというとこういう側面。ルキフェルのような馬鹿が嫌に神格化しているが、実は結構腹黒い。
「職権乱用ですか?」
「力の有効活用だよロセッタ」
教会のずっと上の階で振る舞っている配給食。それを数術一つで盗んでくる、物質のみの空間転移。
「イグニス様、空間転移って代償結構食うんじゃなかったんですか?」
「これは生物じゃないし、物質は契約の範疇だから痛くもかゆくもないよ。たまには使ってやらないと僕も感覚が鈍るからね」
私に椅子を勧めつつ、ずずずと神子様も温かい紅茶を啜る。
「改めましてお帰り、ソフィア」
彼がその名で呼ぶときは、まずは私ではなく公の話。そう言うときは私の方も彼を名前では呼べない。これはもはや条件反射と言っても良い。
「只今帰りました、神子様」
そんな私の反応に、神子様は苦笑する。私に噛み付いてきたときのルキフェルを見ていた目にそれはよく似た目。
それを伏せて、再び明けたときにはその色は消えていた。それは彼が完全に公に切り替えた様子。
「せっかく帰ってきて貰ったところ本当に申し訳ないんだけれど……」
また仕事。それは仕方がない。
だから私は頷いた。忙しいのは喜ぶべき事。改革のための道程。これも本当の平和を作るためのこと。あのクソ女みたいに神子様の傍での仕事ばかり出来ないのはこれも仕方がないこと。私達にはそれぞれ専門分野という物がある。私は力業専門。揉め事、トラブル、それをさくっと解決。あのシスターじゃ私みたいにうまくはやれない。
「今度はどちらに?また王都の方ですか?それとも今度はカーネフェル?」
「いや……」
「それじゃあタロック?確かに私は他の奴らより地の利はありますけど」
「いや、違うんだ」
「え?」
「君に行って貰いたいのは……セネトレア。王都ベストバウアー」
「セネトレア……です、か?」
軽く目眩がした。出来ることなら二度と行きたくない場所。それは私にとっても目の前の神子様にとっても。私を散々罵ったあの腐れシスター。あいつは自分が慕う神子様のトラウマまで刺激してる自覚がないのだろうか。ないんだろうな。あの女にとって神子様は神様だ。穢れなき天使みたいなものだと思っているから。馬鹿みたい。下らない。
神子様だって人間なんだ。ちゃん心と体があって、傷ついたりする人なんだ。あの女は盲目で、それも忘れてしまっている。そういう無意識が気に入らない。自分が何も知らないのを良いことに知ったかぶりでこうして人を傷付ける。神子様はその幻想を壊さないようにあれの前では振る舞っているけれど、神子様はそんな人じゃない。どんなに立派に振る舞っていても、心から笑うし泣くし、悲しんだり…………そうしても良いはずなのだ。本当は私達より年下の、小さな子供なんだから。あの女の信仰は、神子様からそれを奪う。人間の子供としての権利を彼から奪おうとする好意で行為。
あの女のせいで嫌なことを思い出した。二度と思い出したくない。それでも何時だって忘れることが出来ない悪夢。セネトレア、忌まわしいその名前。私はあの日、あの国で……あの夜にとんでもない悪夢に誘われた。人が次々死んでいく。恐ろしいあの風景。この世のものとは思えない。人が次々殺し合う。悲鳴が歓声に変わる魔法。あれを殺そうとしていた人間達が、向ける凶器が狂気に変わる。地獄絵図の狂想曲。指揮をするのは美しいだけの殺人鬼。壊れたように笑い泣き、人が殺し合う様を見つめている化け物だ。彼がそこにいるだけで人々は狂い出す。味方同士が殺し合い、屍の山を積み上げる。
存在してはならない者。そこにいるだけで罪を生む。そこにあるだけで罪になる、あれは大罪。人の世にいてはならない化け物だ。あの殺人鬼は今もまだあの国に巣くっているのだろう。また誰かを殺し合わせているのだろう。
討伐しなきゃ。誰かがしなきゃ。平和のために。世界のために。それでもそれが私に出来るのか?あんな化け物を前にして。私が向けた銃口は、私の眉間に向けられるのでは?
「ロセッタ……」
震えた私の手に気付き、神子様は私を名で呼んだ。それに私は我に返った。
「ああ。君にはこれまでなるべくあそこには行かせないようにしていたけれど……今回の仕事は君にしか頼めないものなんだ」
これまで故意にあの国への任務から私を遠ざけてきてくれたのだろう。そしてこの言葉。そこまで言われて断れるはずもない。そもそも私は彼の道具なのだから、断るという概念などないに等しい。それが世界平和のためですと言われたなら、私はそれを拒めない。
「その前に、君に渡しておきたい物がいくつかある」
「これは……」
「数術弾。以前渡した物とは違う術を施した物だ」
後天性混血児の私は数術を使えない。暴力だけで始末できない任務となれば教会兵器に頼るしかないのが現状だ。数術使いをパートナーに連れ歩いても私の身体能力について来られずにお荷物になるのが見え見えだもの。1人での仕事の方が私の型に合っている。
神子様からの贈り物に礼を告げ、それを受け取る。
「セネトレアへの任務の期間はどのくらいなんでしょうか?」
私がいつも使うのは普通の弾だ。いくつか切り札として隠し持っている数術弾があるだけで……任務の後それが無くなればまた神子様から貰うような形で来ていた。神子様はいつどの弾で私が仕事を終えるか大体予想しているらしく、持たせてくれるそれでいつもは事足りる。しかし今渡された弾はひとつだけ。それなら短期の任務なのだろうか?
それを尋ねる私に神子様は首を振る。
「……そうですね、七月から秋の終わりか冬の始め辺りまでかと」
今は六月。任務まで少し時間は空くようだけれどそれまでの準備などがあるのだろう。七月と言えばあの神の審判が始まる時期でもある。念には念を入れておく必要もある。そのための時間だろうか。
(それにしても……)
それだけの期間の任務なのにこれだけ、というのはどうなのだろう。それこそ余興は終わり。戦いまくりの日々が始まるはずなのに。
「いつもより数が少ないようですが、弾の補充は?」
「随時連絡してくれれば君の所へ転送する。無機物を送る分には僕も負担はないからね」
なるほど。私を迎えた時の食事はその下地だったのか。
そこまで言って私がすっかり手を止めてしまっていることに気がついて、神子様は食事を勧めてくれた。礼儀とか気にしなくて良いから、食べながらで良いよと。
「今回渡した弾の性能を確かめるためにも、その前に一つ腕慣らしに小さな任務をお願いしたいんだけど、頼めるかな?」
「わかりました」
ああそうか。その腕慣らしもあるから一月空いているのか。
「その任務に支障が出てもいけないし、この件が片付いてから本題の話を始めよう。それまで気楽にやってくれて良いよ」
神子様がそう言うということは、本当に簡単な任務なのか。それともセネトレアに控えているそれが大きすぎるということなのか。確かにあまり聞きたくはないかも。今は目先の任務に集中させようという彼の心遣いが有り難い。
何にせよ気楽にやれと言うことは、休暇と仕事を両立させろと言うことか。そうできる程度には楽な仕事なのかもしれない。
「ところで神子様、その小さな件の方ですが……」
「ああ。最近亡命者と思われる人間の死体がよく見つかるようになっている。教会にたどり着く前に殺されているという事件が相次いでね……これは僕も見過ごせない」
「被害者は?」
「混血と移民だよ。純血至上主義者と、それからカーネフェル人至上主義者グループによる犯行だろう。妙な奴らがこの国に入り込んでいるようだ。君たちにはその始末を頼みたい」
「わかりま………私、“達”?神子様、私1人じゃないんですか!?」
思わず快く引き受けかけて、私は妙な単語に引っかかる。複数形ってどういうこと?
「ロセッタ」
にこりと微笑む神子様は、コードネームではなくここぞとばかりに私を名前で呼んで来る。
「“何時如何なる時も沈黙と静寂を愛するべし”。廊下で騒いじゃいけないよ」
神子様は、掟を破った私にとんでもないお守りを言いつけた。おそらくこれはあのクソ女がやるべき任務だったのだ。それが1人では埒があかないから、その尻拭いを私が任せられたのだ。
「ということで君とルキフェルで今回のヤマを解決して欲しい。何有能な君たちのことだから、二倍早く片付くだろう?余った時間は休暇としてゆっくり休んでくれていい。頼んだよ」
無理です神子様。私1人での方が早いです。私とあの女だと足し算にも掛け算にも乗算にもなりません。あるのは引き算か割り算かそれかマイナス付けた足し算掛け算乗算です。
けれど神子様の微笑みの圧力に、私はやはりこう言うしかないのだろう。
「はい……わかりました」
*
「よし、ベッドメイク終わり!床掃除オッケー!窓ふきも終わり!棚も拭いたし机も椅子もさっきやったし……これで全部終わりかな」
がらんとした何もないこの部屋にもうすぐ誰かがやって来る。
神子様があんな言い方をしたってことは、その子もそれなりに酷い境遇に陥っているのだろう。
(神子様も……神様も。同じなのかもしれないな……)
全てを救ってはくださらない。神子様の力は有限だ。どんなに凄い数術使いでも、出来ないことは数多くある。
神子様はその子が不幸になると知っている。だけどそれを救わないのは、それが世界のためだからだ。混血は不幸によって数術に開花することがある。審判に打ち勝つために強い力が要るのは解る。その子を救うことは、世界を見捨てること。平和の内にあれば、力に目覚めることもない。
(イグニス様は、多くを……救うために犠牲を容認している)
私は運が良かっただけ。だから私は救われた。神子様だって全ては救えない。だから拾う者と捨てる物を決めるのだ。
祈りを捧げるだけで、何もかもが救えるのならばこの世の中はとっくの昔に楽園になっていただろう。一粒の種が地に落ちて……正にその言葉の通り。生きていれば一粒のまま。死ぬからこそ意味がある。だから多くの実を結ぶ。誰かの犠牲なしに世界は動かない、変えられない。仕方のないことなんだ。
それでもだからあの人は、時々とても悲しそうな顔をする。救えないことを悔やんでいる。多くを知るからこそ、誰にも言えない後悔を抱えて生きている。誰にも理解されない苦しみを背負わされている。
だからそのことで、あの人を怨むのは筋違い。そんな奴が居たら私が許さない。
怨むべきはその悪を犯した人間の方に決まっている。それを止めなかった神子様が悪いんじゃない。戦争や盗みや人殺しをした方が悪いのだ。
(そう、イグニス様は悪くない)
悪いのは神様だ。人を数字にしか見ていない。研究サンプルのように、人に不幸や試練を押しつける。
人は確かにちっぽけで小さな数字かもしれない。それでも人には心がある。それは数字で言い表すことは出来ないものだ。結果だけですべてを計ろうとしているの神様。その過程で、人が何を思い悩み苦しみ生きているかなんてどうでもいいのだ。でなければ、神の審判があんなものであるはずがない。
幼い頃はいないと思っていたその存在を、神子様の口から奴らは確かに居るんだと私は教えられてから、彼らを憎く思い始めた。
確かにいて、全てを見て、何もかも知っているのにどうして?どうして悪を捌いてくださらないの?どうして何もしていない人が殺されていくのを黙ってじっと見ているの?……私にはよくわからない。
祈りを捧げる度に、心穏やかにはならない。思い出すのは、ドロドロと揺らめく復讐の炎。
今日もこうして私が生きているこの世界。そのどこかで同じ事が繰り返されているんだろう。この手を汚すことで、悪の芽を摘んでも……キリがない。悪人は次から次へと幾らでも現れる。
私の母が死んだ場所は教会の綺麗な聖堂だった。
私が生まれたその場所は、とても閉鎖的な場所だから。だから迫害が横行する。大きな街まで行ったなら、正しき法と正義が守ってくれるはず。母はそう信じたんだろう。
だけど母が殺されたのは、大きな街の大聖堂。物を言えない赤子でも……聞こえる言葉の意味を理解できない赤子でも、私はそれを見ていたんだ。今でもはっきり覚えている。あの景色が瞳に焼き付いて、私は夜毎……魘される。