0:Tu fui, ego eris.
水面に映る姿が僕を責める。愛おしい、君の面影。過去の亡霊がそこにいる。
そもそも僕という人間自体、過去の亡霊のようなもの。
昔々、でもないな。それでも始まりはずっと昔だ。
1人の愚かな人間が居た。その男は取り返しの付かない過ちを犯した。
その男はとても臆病で、愚かで頑なだった。
自分が1人で生きているとまでは思わなかったけれど、たった1人のために生きていると信じていたんだ。
彼女のために男の世界はあって、その1人の女のために彼の世界は回っていた。
彼と彼女は2人きりの世界でずっと生きてきた。
本来ならば生まれる前に殺されるはずだった二つの命。それを救ったのは宗教と信仰。
だけど生まれいずる悩みは生まれたからこそ生まれるもので、生まれさえしなければ何も悪いことは起きなかったのかもしれない。
二つの命、その始まりは罪の中。暴力に晒された哀れな女に神が与えた試練とでも言えばいいのか。女は努力をした方さ。好きでもない男に孕まされた子供を養うために必死に働いたのだから。
だけど女は2人を愛せはしなかった。愛のない場所から生まれたものだ。愛せるはずもないだろう。無から有は生じない。残ったのは信仰だけだ。
どんな理由があろうとも、その戒律は人殺しを認めない。信心深い女は、どんなにその子が憎くても、殺すことは許されなかった。
だから距離を置いたんだ。それが一番だろうと考えて。
遠くから送られてくる、母の稼ぎの金だけで……2人は命を繋いだ。
寂しくても辛くても、2人一緒なら大丈夫。閉じた狭すぎる小さな世界の中、2人きりで生きていた。閉じた世界にはささやかな幸せ。誰に何を言われても気にしないと笑っていられる。
閉じた世界には、これ以上の幸せがやって来ないことは知っていた。それでもこれ以上悲しいことも来ないこと。それを2人は知っていたんだ。
それはある日突然、嵐のように現れた。外の世界を彼女は知ってしまった。
そしてすぐに、そんな小さな世界の中で暮らしていくことに彼女は満足できなくなってしまった。
簡単な計算だ。2人より3人の方が楽しい。楽しいこと、嬉しいこと。それは幸せなこと。それを欲しがるのは、とても自然なことだ。
だけど彼は恐れていた。世界を広げることを。何より大切な今を、失うことを恐れていた。
本当に、彼女が大切だったから。彼女が自分の全てだったから。怖かったのだ。
彼女は自分の全てなのに、彼女はもう自分が全てじゃない。それを認めることが怖かった。
世界を広げ逃げていく彼女。取り残されるのは自分だけ。1人の世界。独りぼっちで生きること。それを奪われたくなくて、入ってきたそいつを憎んだ。
3番目の人間は、いろんな物を持っていた。2人が持っていないものばかりを持っていた。価値観の違いがとても気に入らなかった。幸せの物差しがあまりにも違いすぎたんだ。
愚かな男はその出会いを呪った。
あいつさえいなければ、こんなことにはならなかった。
誰よりも大切な彼女が長い眠りについた日に、愚かな男は取り残された。1人きりの世界で生きていくためには、憎しみを宿す以外生き延びる術がなかった。
苦痛も悔恨もすべてはあの3人目のせい。あいつさえいなければ、小さな世界は壊れなかった。
どんな理由があろうとも、人が人を殺めてはならない。それが愚かな男を生み落とした戒律。けれどそれを犯すことで、叶う願いがあるという。……男はすぐに縋ったよ。だってこの上なく愚かな男だから。
まるで道化だ。人のいい顔をして多くの人間を騙して踊らせる。願いのためにはどんな犠牲も肯定した。罪人も、罪無き人間も、その死を肯定し続けた。
愚かな男にとっての世界とは、たった1人のためにある。だからその外側で何人死のうがどうでもいいんだ。彼女が死んだことが多くの人にとってどうでもいいことだったように。
世界なんてそんなもの。誰もが心に境界を持っている。その内側だけがその人にとっての世界。外側で何があってもどうでもいい。誰が苦しんでも傷ついても構わない。人は誰しもそんな狭い箱の中で生きている。
人が全てを救えないのは、人が全てを愛することが出来ないのと同じ事。人が全てを許すことが出来ないのと同じ事。
どんな理不尽も、暴力も。受け入れて許して愛することが出来る人間。そんな奴はあり得ない。そんな人間居るはず無いんだ。
愚かな男も当然そう信じた。だって自分に出来ないこと、他の人間だって出来るはずがないだろう?所詮どいつもこいつも同じ人間っていう低俗な生き物なんだ。
だから愚かな男はさ、とびっきりの復讐をすることにした。自分が受けた苦痛、彼女が受けた苦痛。その全てを3人目に味合わせてやろうとね。
いつも傍にいて支えている振りをして最高のタイミングでどん底へと突き落とす。その瞬間の間抜け面を一番近くで見ることが、何よりの楽しみだった。
その時そいつは怒るだろう。怒り狂い吠えるだろう。それでも自分の犯した罪を知れば何も言えなくなる。二つの罪の狭間でそいつは揺れ動く。
何として生き、死んでいくのか。どちらを選んでも、そいつが犯した罪は消えない。償うことは出来やしない。そいつも大概愚かだから、全てを救うことなんか出来なかった。出来るはずがない。それでもその行動は、唯1人を救うことにはなった。
3人目が救ったのは、愚かな男のことだった。
愚かな男はそいつが息絶えるまで、そのことには気付けなかった。仕方ないね。だってその男はとんでもなく愚かだったから。
それに気付いたとき、愚かな男は自分のしでかしたことの重大さを知ったよ。
3人目は、愚かな男にいつも手を差し出していた。1人取り残されること、それを愚かな男は恐れていたけれど、3人目は愚かな男だけを置き去りにするようなことはしない。それを信じられなかったのは男が愚かだからに他ならない。
愚かな男は本当に愚かだ。彼女を望んでも、世界は元には戻らない。
願いはたった一つ。彼女と彼とは選べない。
愚かな男の世界はとっくに2人だけの物ではなくなっていた。それに気付けなかったのが、愚かな男の最大の過ちだ。
だから愚かな男は願い事を変えた。それから何度も何度も同じ事の繰り返し。
愚かな男を止めようと、3人目を救おうと。足掻いてはみるけれど、過去の自分の愚かさがそれを阻む壁となる。たった一度の過ちが永劫の時間繰り返される拷問。生まれては死に、殺しては殺される。3人目を殺すことで、ようやく全てを知るけれど、一度だって愚かな男を止めることは出来ない。
だから愚かな男は今もまだ虚像と戦う日々の中に囚われる。
どんな理由があろうとも、人を殺してはいけないと。その理由を愚かな男も理解するほどその日々は果てしない。
壊すことはとても容易。それでも直すことは困難だ。
どんなに後悔しても泣いても悔やんでも、死んだ人間は甦らない。だから人は人を殺してはならない。
殺した後に気付いても遅いのだ。
その人が自分にとってどんなに大切だったのか。その人がどれほどこの心を占めていたのか。その笑顔を向けられる度に、いっそ首を吊ってしまいたくなる。それでも何も変わらない。彼が殺された後にまた、記憶の一つとしてそこに加わるだけ。
殺した人間の数以上に殺されても、まだ終わることなく、……僕の今は続いている。
仮初めの命で借り物の器で僕はここに生きている。だけどいつか今の僕に殺される日が来るのだろう。過去に何度も繰り返されてきたことだ。解っている。
それでも今度こそ。もう終わりにしよう。僕が僕を殺す。殺してみせる。そのことで、未来を変えるんだ。
彼が生き残れば、きっと世界は変えられる。
人は人だから全てを救うことは出来やしない。それでも一を救うことが出来た人間に、全てを救えないわけがない。多くの人は一すら救わない。零の中を生きている。救うことを放棄している。それくらい薄情な生き物が人間。
一を積み重ねていけば、いつか彼は全てを救えるよ。仮に救えなかったとしても僕は彼を怨まない。
救えないことと、救わないことは意味が違う。
救おうと足掻く彼は、誰より勝者に相応しい。彼の答えはいつか神をも越える。そんな解を導き出せる。
「死なせない……死なせるものか」
水鏡に映る彼女も、今だけ僕を否定はしなかった。