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愛したあの子は、プラスチックの鎧(ナフサ)を失い、消えた。

 皆さんはご存知でしょうか。「ナフサ」が足りないと、この国からプリンが消えるということを。


 これは、中東情勢と石油化学工業の荒波に飲み込まれた、ある一人のOLの愛と執着の記録です。

 推しプリンが販売停止になったとき、人は正気を保てるのか。

 一途すぎる愛(と食欲)が導き出した、斜め上の結末をぜひ見届けてください。

 

 ※とろとろ系のプリンを食べながら読むことを推奨します。


第1章:至福の午後三時、あるいは救世主としてのカスタード


 午後三時。

 それは、過酷な労働環境という名の戦場において、唯一許された停戦協定の時間である。

 東京都心のオフィスビル、その一角に席を置く私――佐藤由美、二十六歳、独身。職種は事務。主な業務内容は、上司がばら撒いたケアレスミールの回収と、不機嫌な取引先からの電話を笑顔のヴェールで受け流す、精神的ボディーガードである。


「……ふぅ」


 私は、誰にも気づかれないほどの小さな溜息を吐き、デスクの引き出しに手をかけた。

 そこには、午前中の地獄を生き抜いた私への、世界でただ一つの報酬が眠っている。

 

 大手乳業メーカー・極乳ごくにゅうクリエイトが放つ、至高の芸術。

『絹ごし・メルティ・ロイヤル』。


 一つ百六十円(税別)。コンビニという名の聖域で手に入るこのプラスチックの小宇宙は、私の枯れ果てた精神に潤いを与える唯一の聖水だった。

 

 まず、パッケージが素晴らしい。

 金色を基調とした蓋には、誇らしげに『とろける、その先へ』というキャッチコピーが躍っている。

 私は恭しくビニールの蓋に指をかけ、一ミリの狂いもなく、ゆっくりと、かつ大胆に引き剥がした。

 

 パカッ、という軽やかな音と共に、純白に近いクリーム色の地平が姿を現す。

 そこから立ち上るのは、マダガスカル産バニラビーンズの芳醇な香りと、厳選されたジャージー牛の濃厚な乳の香り。

 この香りを嗅ぐだけで、午前中に課長から言われた「君、この資料のフォント、一ポイントずれてるよ」という粘着質な嫌味すら、遠い銀河の出来事のように思えてくるから不思議だ。


 私は、愛用のマイ・ティースプーンを手に取った。

 このスプーンも、あの子を食べるためだけに新調した燕三条産の逸品である。

 

 スプーンの先を、その柔らかな肌にそっと沈める。

 抵抗は、ない。

 まるで春の陽だまりに溶ける淡雪のように、スプーンは吸い込まれていく。

 

(……ああ、これよ。この『固形を保てる限界の柔らかさ』。物理学の法則に挑んでいるかのような、危ういバランス……!)


 そのまま、私はあの子を口に運んだ。

 

 刹那。

 私の舌の上で、ビッグバンが起きた。

 

 甘い。けれど、くどくない。

 濃厚。けれど、後味はどこまでも清らか。

 噛む必要などない。舌の熱で、あの子は瞬時に液体へと相転移し、私の喉を滑り落ちていく。

 その通過儀礼を終えた後、鼻から抜けるのはキャラメルのほろ苦い余韻。

 

「……くぅ」

 思わず、喉から変な声が漏れた。

 

「由美さん、またやってる」

 隣の席の後輩、佐藤さんが苦笑いしながらこちらを見ている。

「いいじゃない、佐藤さん。これは私にとっての給油なの。これがないと、私のエンジンは午後四時までもたないわ」

「でも、そのプリン、最近すごい人気で品薄らしいですよ? 毎日食べられるなんて運がいいですね」

「運じゃないわ。執念よ。毎朝七時二分にコンビニの入荷タイミングを狙って……」

 

 言いかけた時だった。

 私のスマホが、不吉な振動を見せた。

 ニュースアプリの速報。

 普段なら政治家の失言やスポーツの結果など、一瞥して消す程度のものだ。

 

 だが、その見出しに含まれていた「ある単語」が、私の思考をフリーズさせた。

 

『【速報】ナフサ価格高騰と供給不足を受け、国内乳業大手が容器生産を一時停止。主力スイーツの販売見合わせへ』

 

 ナフサ。

 粗製ガソリン。石油化学製品の基礎原料。プラスチック容器の母なる源。

 

 スプーンを持った私の手が、目に見えて震え始めた。

 

「……な、なふさ……?」

 

 その単語が、私の幸せな午後三時を、そしてこれからの人生を、真っ黒な原油色に染め上げようとしていた。


 ◇◇


第2章:絶望の淵でナフサを呪う、あるいは世界経済への宣戦布告


「……う、嘘よ……そんなはずはないわ。だって、ナフサよ? ただの粗製ガソリンじゃないの」


 震える指先で、ニュースの続きをスクロールする。

 画面には無機質な文字が並んでいた。『世界的な原油高および中東情勢の緊迫化に伴い、石油化学製品の原料となるナフサの調達が困難に。プラスチック容器の製造ラインがストップ。対象商品は極乳クリエイトの全カップスイーツ……』。


 全カップスイーツ。

 その五文字が、鋭利な刃物となって私の胸を貫いた。

 つまり、私の『絹ごし・メルティ・ロイヤル』も、その戦火に巻き込まれたということだ。


「ちょっと、由美さん! 本当に大丈夫? 過呼吸になってるわよ!」

 佐藤さんの声が遠くで聞こえる。

 大丈夫なはずがない。

 想像してほしい。ガソリンスタンドで給油ができなければ車は止まる。それと同じだ。ナフサがなければ、あの子を包み込むあのしなやかで透明なポリプロピレン容器が作れない。容器がなければ、あの子は形を保てず、工場のラインを流れることも、配送トラックに揺られることも、コンビニの棚で私を待つこともできないのだ。


「ナフサ……なんて罪深い響きなの……」


 私はデスクに突っ伏した。

 なぜ、もっと勉強しておかなかったのか。大学の経済学の講義で、なぜ石油化学産業の重要性を真剣に聴かなかったのか。

 原油を熱分解して得られるナフサは、エチレンやプロピレンに姿を変え、我々の生活のあらゆるプラスチックへと転生する。私のキーボードも、このモニターも、そして……あの子の愛おしいカップも。


 世界経済の荒波が、まさか東京の片隅でプリンを愛でる一介のOLの胃袋を直撃するなんて、誰が予想しただろう。

 プーチンもバイデンも、私の午後三時のことなんてこれっぽっちも考えていないに違いない。


「……由美さん、ほら、落ち着いて。まだお店にある分はあるはずだし……」

「佐藤さん。あなたは何もわかっていないわ」


 私は幽鬼のような動きで顔を上げた。前髪の間から覗く私の瞳は、おそらく獲物を狙うハヤブサよりも鋭かったはずだ。

 

「ニュースが出たということは、もう始まっているのよ。……『プリン・パニック』が」


 私の脳内シミュレーションでは、すでに都内のコンビニエンスストアで壮絶な争奪戦が勃発していた。

 あの子の熱狂的なファンは私だけではない。あのとろとろの魔法に魅せられた中毒者たちは、今この瞬間にも仕事を放り出し、社用車を飛ばして、あるいは駅前を全力疾走して、棚に残された最後の「ロイヤル」を奪い合っているはずだ。


「行かなきゃ……」

「えっ、どこに?」

「戦場よ」


 私はおもむろに立ち上がると、デスクに置いてあった「本日の午後の仕事」という名の書類の山を、無意識のうちにゴミ箱へシュート……しそうになって、辛うじて踏みとどまった。

 まだだ。まだ私は社会人としての理性を一欠片だけ残している。


 しかし、その理性の壁は、課長の容赦ない一言によって粉砕された。


「佐藤君、例のA社の見積もり、今日中に……って、なんだその顔は。恋人に振られた直後の演歌歌手みたいな表情して」

「課長。……ナフサが足りないんです」

「はあ? ナフサ? 何を言ってるんだ。仕事に戻れ」


 仕事。

 この人はわかっていない。

 あの子がいない世界で、見積書を作ることに何の意味があるというのか。

 あの子が私の食道を通り、脳内麻薬ドーパミンをドバドバと放出させてくれない限り、私の右指はマウスをクリックするエネルギーさえ生成できない。


「課長、失礼します。……急用を思い出しました。有給を使わせてください。今から」

「おい、佐藤君! 待て! どこへ行くんだ!」


 背後で吠える課長の声は、すでに私の耳には届かなかった。

 私はパンプスを鳴らし、オフィスの自動ドアへと突進した。


 目指すは、このビルから半径五百メートル以内にある全七軒のコンビニ。

 待っていて、『絹ごし・メルティ・ロイヤル』。

 ナフサの供給が途絶えても、私の愛という名のエネルギーは、今まさに臨界点に達しているのだから。


 ◇◇


第3章:彷徨えるコンビニ、忍び寄る甘い罠


 一軒目、セブン。……全滅。

 二軒目、ローソン。……影も形もない。

 三軒目、ファミリーマート。……棚に貼られた『次回の入荷は未定です』という無慈悲な付箋が、私の心を引き裂いた。


「そんな……早すぎるわ。ナフサの余波が、もうここまで……」


 私は、都心のオフィス街を彷徨う亡霊と化していた。

 四軒目のコンビニに足を踏み入れた時、私の膝はガクガクと震えていた。もはや低血糖なのか、精神的ショックによるものなのか自分でも分からない。


 だが、その店のスイーツコーナーで、私は「それ」を見てしまった。


「……っ!」


 そこには、私の愛する『絹ごし・メルティ・ロイヤル』の姿はなかった。

 代わりに、そこを占拠していたのは、見たこともない新参者――『濃厚完熟・プレミアム・ベルベット』。


 黄色い。あまりにも不遜なほどに濃い黄色だ。

 パッケージには『卵黄のコクを極めた、贅沢なひととき』という、あざといコピーが添えられている。

 しかも、あのロイヤルと同じ「とろとろ系」を自称しているではないか。


(……代わり、じゃない。これは、ただのピンチヒッターよ)


 悪魔が耳元で囁いた。

『由美、いいじゃないか。同じプリンじゃないか。ナフサ不足で本命がいない今、この子で我慢しておきなよ。どうせ胃に入れば一緒だよ?』


「違う! 一緒じゃないわ!」


 私は思わず声に出して否定した。店内の客がビクッとして私から距離を置く。だが、今の私に体面を気にする余裕などない。


 私は震える手で、その『ベルベット』を手に取った。

 プラスチックカップ越しに伝わる、ひんやりとした感触。

 あの子よりも、少しだけ重量感がある。

 あの子が「可憐な乙女」だとしたら、このベルベットは「着飾った成金」のような存在感だ。


(一口だけなら……一口だけなら、あの子にバレない。どうせあの子は今、工場のタンクの中で容器を待っている身なんだから)


 私はそのプリンを胸に抱き、レジへ向かおうとした。

 それは、十数年連れ添った恋人が入院している間に、近所のイケメンとデートに行くような背徳感。

 私の舌は、すでにあの子以外の甘みを受け入れる準備を始め、唾液が溢れ出してくる。


(ごめん、ロイヤル。私、もう限界なの……。この虚無感を埋めてくれるなら、誰でも……誰でもよかったのよ!)


 その時だった。

 店内の有線放送から、聞き覚えのあるメロディが流れてきた。

 それは、『絹ごし・メルティ・ロイヤル』のCMソング――儚く切ないピアノの旋律。


「……あっ」


 私の脳裏に、あの子の「白に近い、あの控えめなクリーム色」がフラッシュバックした。

 あの子は、あんなに謙虚だった。

 あんなに優しく、私の喉を撫でてくれた。

 それなのに私は今、容器がプラスチックだというだけの理由で、この成金プリンに身を委ねようとしている。


「私は……なんて浅ましい女なの!」


 私はハッと正気に戻り、手に持っていた『ベルベット』を元の棚に戻した。

 いや、戻したのではない。叩きつけたと言ってもいい。

 

「アンタじゃダメなのよ! どんなに卵黄が濃くても、どんなにプレミアムでも、私の心(胃)にある特等席は、あの子のものなの!」


 他社プリンからの、最大級の誘惑。

 私はそれに打ち勝った。

 だが、勝利の代償は大きかった。


 五軒目、六軒目、七軒目。

 すべての棚は空だった。


 私は駅前の公衆電話の横(なぜかそこが落ち着いた)で、力なく座り込んだ。

 手元には、一向に鳴らないスマホと、空腹で鳴り続けるお腹。


「……ロイヤル……会いたいよぉ……」


 夕暮れ時のオフィス街に、アラサーOLの悲痛な叫びがこだまする。

 だが、この時の私はまだ知らなかった。

 絶望した人間が最後に向かう場所――それは「自作」という名の地獄であることを。


 ◇◇


第4章:禁断の錬金術、あるいはバニラ香る地獄


「……売っていないのなら、作ればいいじゃない」


 どこかの王妃のような言葉が、乾いた唇から漏れた。

 七軒のコンビニを巡り、全戦全敗を喫した私が辿り着いたのは、自宅のキッチンだった。

 普段はコンビニ弁当のゴミを一時的に置く場所でしかないこの空間が、今、聖なる実験場へと変貌を遂げようとしていた。


 私はスーパーで買い込んできた「最高級」の材料を並べる。

 一個百円もする放し飼い有精卵。

 一パック五百円の低温殺菌ジャージー牛乳。

 そして、清水の舞台から飛び降りる覚悟で購入した、マダガスカル産の本物のバニラビーンズ。


「材料は完璧。あのロイヤルの成分表は脳内に刻まれているわ。あとは、私の愛で『錬成』するだけよ」


 まずは、カラメル作りだ。

 砂糖を鍋で熱し、焦げる寸前の絶妙なタイミングで熱湯を注ぐ。

「熱っ!」

 跳ねた熱湯が指を焼くが、構わない。この痛みは、あの子を失った心の痛みに比べれば、そよ風のようなものだ。


 次に、卵と牛乳、砂糖を混ぜ合わせる。

 ここで重要なのは、空気を含ませないことだ。あの子の「とろとろ」を再現するためには、微細な気泡さえも命取りになる。私は精密機械のような手つきで、一秒間に二回転という一定のリズムで泡立て器を動かした。


 バニラビーンズを割き、中の黒い種をこそげ落とす。

 甘く、どこか官能的な香りがキッチンに充満する。


「いいわ……いい感じよ、ロイヤル。今、あなたをこの世に再誕させてあげるからね……!」


 だが。

 いざ、卵液を型に流し込もうとした瞬間、私は凍りついた。


「……あ」


 ない。

 型が、ないのだ。


 私が求めているのは、あの子のあの「しなやかな曲線を描く、透明なポリプロピレン容器」だ。

 しかし、我が家にあるのは、無骨な耐熱ガラスのグラタン皿か、あるいは百均で買った「クマの形」のシリコン型。


「こんなの……こんなのは、あの子じゃない!」


 耐熱ガラスでは熱の伝わり方が早すぎて、あの繊細な『絹ごし』の食感は失われる。シリコン型など論外だ。あの子は、あの薄いプラスチックの壁に守られ、自らの重さでプルプルと震えてこそ、至高の存在なのだ。


「……ナフサ。やはりお前なのね。お前がいないと、私はあの子を正しく形作ることさえできないのね!」


 私は絶望に打ちひしがれながらも、仕方なくマグカップに卵液を流し込み、蒸し器(という名の鍋)に火をかけた。


 数分後。

 出来上がったのは、表面にボコボコと穴が開いた、無残な「甘い茶碗蒸し」だった。


「…………これじゃない」


 一口食べた瞬間、私は泣き崩れた。

 味は、悪くない。材料が良いのだから。

 だが、決定的に「何かが」違う。

 それは、あの子が持つ、あの工業製品としての完璧なまでの均一性、そして容器から滑り落ちる際のあの官能的なまでの滑らかさ。


 個人の努力では到達できない、巨大資本と石油化学工業の結晶。

 私は、自分が挑んでいた相手の大きさを、初めて正しく理解した。


「ごめんなさい、ロイヤル……。私は、あなたのことを何もわかっていなかった……」


 私は、マグカップの中の「茶碗蒸し」を呆然と見つめながら、ふと、デスクの中に隠した『聖遺物』のことを思い出していた。

 昨日、あの子の最後の一片を飲み干した後、洗って保管しておいた「空のカップ」。


 私は狂ったように、カバンの中からそのカップを取り出した。

 プラスチックの、無機質な、けれど愛おしい、ナフサの子供。


「そうだわ……中身が偽物でも、このからだがあれば……」


 深夜のキッチンで、女は空のプラスチック容器に、失敗作のプリンを流し込み始めた。

 それは、亡くなった恋人の服をマネキンに着せて踊るような、狂気にも似た光景だった。


 ◇◇


最終章:聖遺物の輝き、あるいは夜明けを待つ舌


 空のカップに、自作の「甘い茶碗蒸し」を流し込む。

 見た目だけは、一瞬だけ、あのロイヤルが帰ってきたかのように見えた。

 だが、現実は残酷だ。

 プラスチック越しに透けて見えるのは、気泡だらけの無骨な黄色。スプーンを差し込めば、あの子のような流麗な滑らかさはなく、ボソリとした断絶の感触が手に伝わる。


「……ふふ、ふふふ……。バカね、私は」


 私は、自嘲気味に笑いながらスプーンを置いた。

 形だけを真似ても、あの子の魂はそこには宿らない。

 あの子――『絹ごし・メルティ・ロイヤル』は、熟練の職人の勘と、計算し尽くされた工場の温度管理、そして何より、ナフサから精製されたあの完璧なカップが三位一体となって初めて完成する、現代科学の奇跡なのだ。


 私は、失敗作のプリンが入ったカップをそっと冷蔵庫の隅へ追いやった。

 代わりに手に取ったのは、もう一つ、別に保管しておいた「真の聖遺物」。

 

 それは、賞味期限が今日までだった、奇跡的に買い置きしていた最後の一つ。

 

「……これを食べたら、本当にお別れね」


 私は正座した。

 深夜二時。静まり返った部屋で、私は厳かに蓋を開ける。

 そこには、世界情勢などどこ吹く風と言わんばかりの、凛としたクリーム色の地平が広がっていた。


 一口。

 ただ、一口を。

 舌に乗せた瞬間、私は宇宙そらを見た。

 

 これだ。

 この、喉を通る時の、微かな抵抗さえ感じさせない究極の「とろみ」。

 石油化学工業の粋を集めたポリプロピレン容器の中で、大切に育まれた純潔な甘み。

 

「……美味しい」


 涙が零れ、プリンの表面に一滴落ちた。

 塩気が加わり、あの子の甘みがさらに引き立つ。

 最後の一口を飲み干した時、私は深い充足感と、それ以上の決意に満たされていた。


 翌朝。

 私は、何事もなかったかのようにオフィスに出社した。

 目は少し腫れていたが、その足取りは軽い。


「あ、由美さん! 昨日いきなり帰っちゃって……大丈夫だったんですか? あ、これ、お詫びじゃないですけど、別のメーカーの『とろとろ極みプリン』、一個余ったんであげますよ」


 佐藤さんが、昨日私を誘惑したあの他社プリンを差し出してきた。

 以前の私なら、飢えを凌ぐために飛びついていただろう。

 だが、今の私は違う。


「ありがとう、佐藤さん。でも、それは受け取れないわ」

「えっ、あんなに探してたのに?」

「ええ。私、決めたの。……あの子が帰ってくるまで、私の舌は『欠番』にするわ」


 佐藤さんが「こいつ、いよいよ本格的にヤバいな」という顔で引いているのが分かったが、構わない。

 

 私はデスクの引き出しを開けた。

 そこには、綺麗に洗われ、ダイヤモンドよりも眩しく輝く(私にはそう見える)『絹ごし・メルティ・ロイヤル』の空カップが、誇らしげに並んでいる。


 ナフサが足りないなら、待とう。

 プラスチック容器が生産されないなら、祈ろう。

 中東の平和を。物流の安定を。

 そして、日本の石油化学産業のさらなる発展を。

 

 私のこの想いは、一過性のブームでも、ただの食欲でもない。

 これは、愛だ。

 たとえ半年かかろうと、一年かかろうと。

 再びコンビニの棚に、あの白く輝くカップが帰還するその日まで。


「……由美さん、仕事、しませんか?」

「ええ、やるわよ。あの子が帰ってきた時に、最高のコンディションで迎えられるよう、バリバリ稼いでおかないとね」


 私はキーボードを叩き始めた。

 午後三時のチャイムは、まだ鳴らない。

 だが、私の心の中には、あの子と再会する日のファンファーレが、すでに鳴り響いていた。


 待っているわ、私のロイヤル。

 世界が再び、あなたを包む「容器」で満たされるその日まで。


(完)


 最後までお読みいただき、ありがとうございました!


 時事ネタである「ナフサ不足によるプラスチック容器生産遅延」をテーマに、OLの切実なプリン愛を描いてみました。

 私たちの「美味しい」は、実は世界の物流や石油化学に支えられている……そんな(無駄に)壮大な事実を再認識していただければ幸いです。


 由美さんの舌が「欠番」から解放される日が、一日も早く来ることを祈っております。

 

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