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お代はいらないので帰ってください :約2500文字 :コメディー

作者: 雉白書屋
掲載日:2026/04/22

「あのー……」


 深夜、とあるファミレス。客足はとうに途絶え、広い店内に残っているのはその男一人だけだった。エアコンの低い唸りと、奥の厨房から聞こえてくる食器洗浄機の規則的な音が耳に届く。まるで店そのものがゆっくりと呼吸を落としながら眠りにつこうとしている生き物のようだった。

 男はテーブルに肘をつき、拳を頬に当てて目を閉じていた。そこへ店員がそっと近づき、おそるおそる声をかけた。


「ん……なんすか?」


 男は顔を上げ、重たそうにまぶたを瞬かせた。店員は腰を低くしたまま言う。


「もうすぐ閉店のお時間なんですけども……」


「ああ、はいはい。ラストオーダーね。注文はないですよ」


「それは助かります。あの、それでですね……」


「はい?」


「会計の際、前回の代金もお支払いいただきたくてですね……」


「……え?」


「では、よろしくお願いします。失礼します」


「いや、ちょっと!」


 店員はぺこりと頭を下げ、踵を返して歩き出した。男は慌てて立ち上がり、その背中に声を投げた。


「はい? ああ、よろしければコーヒーのお代わりをお持ちしましょうか?」


「いや、いらないいらない。え? 前回の代金って、昨日の……?」


「はい……」


「あんたが『お代はいらないので帰ってください!』って言った、あれのこと?」


「はい……」


「おー……?」


「よろしくお願いします。では……」


「いや、すぐ行こうとしないで。ちょっと、こっち来て」


「はい……」


 店員は視線を落とし、しぶしぶ戻ってきた。男は店員をじっと見つめながら、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。


「えっと、いや、あんたが『お代はいらない』って言ったんですよね?」


「ええ……」


「で、それをやっぱり払ってほしいと」


「はい……」


「なんで?」


「店長に怒られまして……」


「あー、怒られるんだ。そういうの」


「はい。『お前が勝手に決めるな』って、怒鳴られてしまいまして……。バイト代から天引きするって言うんですよ。ひどいですよね?」


「ひどいっていうか……まあ、でも勝手に言っちゃったんだもんね」


「はい……あの日は店長もいませんでしたし、自分がどうにかするしかないと思いまして……」


「まあ、ドラマとかでよくあるもんね」


「はい……」


「騒ぐ客たちにビシッと言って」


「はい……」


「気持ちよかった?」


「ええ、まあ……ふふふ」


「ぶつぶつ文句を垂れる連中を外へ追いやって」


「ええ、なんかこう、スイッチが入りましてね」


「で、トイレから戻ってきたおれを、その連中の仲間だと思って一緒に追い出して」


「その節は本当に申し訳ございませんでした……」


 店員は深く頭を下げた。


「いや、めちゃくちゃびっくりしましたよ。体がもうビクゥ! ってなったもん。『まだいたんですか! もう帰ってください! お代はいらないから帰ってください! 帰れえええ!』って」


「服装が似ていたもので……」


「まあ、確かに騒いでいた連中と同じくジャージでしたけどね。でも話をまったく聞いてくれないとは。おれが出て行くまでに、三回くらい『お代はいらないんで!』って言って。『お客様は神様という言葉は客側が使う言葉じゃない』とか、いろいろ言ってましたよね」


「ええ、まあ……力がどんどん湧いてきてしまって……ふふ」


「いや、気持ちよくならないで。あのときも、今も。何思い出に浸ってんの」


「すみません……あの」


「ん?」


「じゃあ、よろしくお願いしますね。では失礼します……」


「いや、え? ちょっと」


「はい?」


「人違いだったんですよね?」


「はい……。あのあと防犯カメラを確認したところ、別々のお客様だと判明しまして。本当にその節は……」


「おお……それで? 払ってほしいと?」


「はい」


「いや、いやいや……。そっちが勝手に間違えて追い出したんでしょ。責任はそっちにあるんじゃないですか?」


「いやあ……その、お支払いいただけないということでしょうか……?」


「そりゃそうですよ。こっちは被害者なんですから」


「やっぱり悪い人なんだ……」


「はあ!?」


「食い逃げ……警察……」


「いや、いやいや、だから間違えたのはそっちでしょ!」


「でも……『またタダになったらいいな』って思ってまた来たんでしょ?」


「違うわ。失礼すぎるだろ」


「じゃあ、払ってください。お願いします!」


「絶対嫌ですよ」


「私だって、天引きは絶対嫌なんです! こんなの不当だ! 労働者から搾取している! 企業は値上げした分を労働者に還元すべきなんだ……!」


「また気持ちよくなろうとしてない? やめて。正直、昨日のも聞けたもんじゃなかったから」


「じゃあ、一万二千六百円になりますので。お願いします……」


「え? いや、そんなに頼んでいないですよね?」


「はい……あの人たちの分も、ぜひ」


「すげえ……あんた、すげえな」


「ありがとうございます……ふふっ。では、そういうことで」


「いや、呆れてんだよ。払うわけないでしょ!」


「ええ!?」


「こっちがずっと驚きだよ」


「じゃあ……割り勘で……!」


「そんな苦渋の決断みたいな顔されても払うわけないじゃないですか。はあ……」


「じゃあ、今夜も払うつもりはないんですか……?」


「いや、そっちが払わせなかったんでしょうが。ほんと、すごいなあんた。天引きが嫌すぎてどうにかなっちゃったのか」


「はいー……嫌です……はあ……駄目かあ……せっかくまた来たのになあ……よっしゃあって思ったのに……」


「心の声漏らしすぎだよ」


 店員はがっくりと肩を落とし、床を見つめた。


「そもそも……」


 やがて、店員はゆっくりと顔を上げた。


「なんでまた来たんですか……」


「ん?」


「いや、おかしいでしょ。普通、あんなことされたら頭にきて二度と来ませんよね?」


「……ああ。昨日の用件が済んでなかったからさ。追い出されたせいで」


「用件……? えっ、あっ」


 男はズボンのポケットに手を突っ込んだ。そして次の瞬間、すっと立ち上がり、取り出したそれを店員に向けた。

 ナイフだった。


「レジの金と、それから金庫があるならその中の金も全部もらおうか。他の店員に気づかれるなよ。ばらしたら、そいつもお前も殺すからな」


「か、か……」


「わかったか? こっちはなあ、もうどうなったっていいんだよ」


「……刺したければ好きなだけ刺せよ。おれはいくらでも傷ついていい。だが、他の誰も傷つけるな……!」


「えっ、気持ちよくなってる……?」


「でもな、その他の誰かってのには、あんたも含まれているんだ。そんなことをして自分を傷つけるなよ……! いいか、たとえ今は一人ぼっちに感じるかもしれない。でもな――」


「代金は払うから帰らせてくれ」

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