最終話
それから、一ノ瀬さんを精神科に連れて行った。
帰りの道を歩きながら、前も一度だけ精神科にかかったことがあると話してくれた。しかし通院が必要だと言われたもののわざと予約をすっぽかしてそのまま行かなくなったのだとも。
何故そんなことをしたのか尋ねたら当たり前のように「治さない方がいい曲が書けるでしょ」と返ってきた。
「でもどっちにしろ、いい曲が書けなくなってきたんだよね。有名になって、売れて、お金も愛も充分もらって、そしたらみんなに求められてる暗い曲が書けなくなった。本当は才能なんて無くて、単に傷を晒したら受けただけなんだって、気づいちゃったの。だから最後はせめてそれっぽく飾ろうと思った」
何も言えなかった。それは薄々、俺も勘付いていたことだったから。もちろん曲を作れるというのはそれだけで他の人には無い能力だ。しかしその能力に今の人気を伴わせたのは曲しかり本人の振る舞いしかり、彼が惜しむことなく傷だらけの姿を晒したからだろう。カズはある意味で自らの不幸を売りにしているようなところがあった。そしてそれが幸か不幸か、彼の実力以上の人気を呼び込んでしまった。活動休止直前の人気低迷がその証拠だった。
彼はかさぶたを剥がし、傷を広げ、きっと時には自傷しながら曲を作っていたのだ。
「こんなこと言っていいのか、わからないですけど」
「うん?」
「一ノ瀬さんが生きててくれて、良かった」
もしかしたら一ノ瀬さんは、あそこで死んでしまえた方が幸せだったのかもしれないけれど。
「俺、一ノ瀬さんのことが好きです。生きていてほしい、です」
目の奥が熱い。でも俺より一ノ瀬さんの方が辛いだろうに、泣くわけにはいかない。
「ごめんなさい。ただのわがままです。でも、俺は一ノ瀬さんに生きてほしい」
一ノ瀬さんがいきなり立ち止まったので、慌てて俺も立ち止まる。
「もう、前みたいな曲は作れなくても?」
「はい。曲なんて作れなくてもいい。ただ生きていてくれればそれでいいんです」
この言葉が、一ノ瀬さんの重荷になりはしないかと言いながら不安になってきた。
一ノ瀬さんは嬉しいとも悲しいとも取れるような表情で俺を見ている。
「俺の曲とか、不幸な生い立ちとか見てファンになったんじゃないの」
「きっかけはそれです。でも今はカズ自身が、一ノ瀬さん自身が、好きなんです。曲が作れなくても、幸せになっても、俺たちを救ってくれたことには変わりないです」
俺だけではないだろう。ファン仲間を思い浮かべる。元気にしててくれればそれでいいと言っていた友人を思い浮かべる。
みんな同じことを言うはずだ。曲を作れなくても、もう二度と表舞台に姿を見せなくても、カズが生きていてくれたらそれだけで嬉しいと。幸せに生きてくれたら、もっと嬉しいと。
しかし俺たちが、ファンが、知らぬ間に一ノ瀬さんを追い詰めていたのかもしれない。別に俺たちが悪いとかではなく、悲しい巡り合わせだ。一ノ瀬さんに救ってもらったのに、俺たちは追い詰めることしかできなかった。
「ごめんなさい、一ノ瀬さん」
追い詰めて、あるいは生きてほしいだなんて言って。
「なんで謝るんだよ」
一ノ瀬さんが、くしゃりと俺の頭を撫でた。
「ありがとな」
一ノ瀬さんが空を見上げる。俺もつられて見上げていた。東京の夜は明るすぎて星も碌に見えない。
「初めて会ったあの日、あの日に本当は死ぬつもりだった。でもお前をたまたま見つけて、これは奇跡だと思った。それで、どうせ死ぬなら恋愛をしてからにしようって思ったんだ。今までしたことなかったけど、興味はあったから」
一ノ瀬さんの「死ぬまでにしたいこと」ノートを思い出す。あそこに恋をする、と書いたのだろうか。それとも水族館でクラゲを見るとか巨大パフェを食べるとか書いたのだろうか。
「お前に二回も生かされた」
「すみません」
「だからなんで謝るんだよ。......大丈夫、元から本気で死ぬつもりじゃなかったし。幸せになっちゃうと死ぬ勇気も出ないもんだね」
「今、幸せですか?」
「んー、まぁまぁ」
「じゃあ、俺と幸せになりましょう」
それが今俺にできる精一杯だった。
「え、何それプロポーズ!?」
「ち、ちがいますよ! それは俺が就職してからもっとちゃんと......」
幸せにしてしまったから、幸せにしよう。
星も見えない夜空の下でそれでも楽しそうに笑う一ノ瀬さんを見て、俺はそう思った。




