「物資としてよこせ」と売られた私、氷の宰相様に才女として溺愛されています。返品不可と言ったのはお父様ですよね?
「その女を物資としてよこせ」
そう言われて実家から売られた主人公が、北の地で氷の宰相様に溺愛されるお話です。
※ハッピーエンド確約。
※売った実家は、自身の放った「返品不可」という言葉に苦しめられます。
1. 『物資』としての譲渡
冷え切った馬車のなかで、私の首筋だけが熱い。
私、エルミーナ・ハーベストは『物資』として、北の『氷狼の森』に運ばれている。
父の犯した浅はかな行為の詫びの代償として。
北へ向かう馬車の室内には、磨き上げられたオーク材が使われ、重い空気を醸し出してる。
そして、氷の宰相ディノ・ラシュフォードが、私の目の前に座っている。
長い旅の道中、寒さとつらさに耐えかねて寝たふりをしていたが、ふと薄目越しに、彼が私をまっすぐに見つめているのに気づいた。読んでいたはずの書類は彼の膝の上。
とても『物資』を見る目ではない。獲物を狩るような執拗なアクアマリン色の目。
私が薄目越しに彼の瞳を見てしまったことが、ばれてないかと気が気ではない。
閉ざされた車室は彼と二人きり。
その執拗な視線から逃げる場所はどこにもない。
彼の視線に射抜かれた場所から、 冷え切っていたはずの身体が、熱を持って伝わっていく。
首筋から、頬へ、耳へ。
羞恥と動揺で沸き上がった熱が全身を駆け巡り、いつしか馬車の凍てついた寒さを忘れてしまっていた。
――私の人生が一変するこの旅路の発端は、一週間前の、王都の暗い事務室にさかのぼる。
カリカリカリカリ。 ペン先が走る音が響く。
仮にもハーベスト家子爵令嬢が帳簿の整理をしているなんて、表立っては言えない恥ずかしい話だろう。
「ハーベスト」という豊穣に満ちた家名でありながら、我が家の台所事情は苦しかった。父は「専門家を雇う金が惜しい。嫁ぎ先もないのだからせめて家業を手伝え」と実家が経営する商会の仕事を、私に押し付けた。断り切れなかった私は、この王都で働いている。
普通なら嘆くところかもしれない。
けれど、私はこの時間が嫌いではなかった。
人は嘘をつくが、数字は嘘をつかない。数字は私のことを悪く言うわけではない。
(……ここ、計算が合わない。北国からの『氷狼の毛皮』のロスが出ている……輸送ルートの問題?でも、銀雪糖は通常通りだし……どっかで抜かれてるのかも?)
帳簿に違和感を覚え、なじみの業者に「内部で横流されているかもしれない」という警告を書いたところで、腕を伸ばし、机の上の手紙を手に取る。実家の封蝋。
(お父様から……またろくでもない話なんでしょうねぇ……)
その手紙は思ったより悪い内容だった。
父、ヴィンセント・ハーベスト子爵が、近々、大掛かりな夜会に参加するので、参加しろという命令だった。もちろん、父が私に社交を求めるわけはない。華のある妹、フローラの王都社交界のデビューに付き合えというのだ。
(ドレスなんてもう何年も袖を通してないのに……)
自分の頬に手を当てる。人並みの身体、地味な顔立ち。壁の花にはお似合いかもしれない。
「……承知いたしました」
拒否権など、最初から私にはない。
誰もいない部屋で、一人呟いた。
夜会の日。
夜会の場は、明るい光で満ちていた。視界を埋め尽くすのは、国中から集まった貴族たちの見目麗しいドレスと、互いを値踏みし合うような視線、張り付いた笑顔。
私は、穴から引きずり出されたネズミのような心持ちだった。引っ張り出してきた質素な紺のドレスは乾きかけたインクのような暗い紺色で、自分がまるで、きらびやかなシルクの布に落とされた一点の染みであるかのように感じた。
後ろから、聞き慣れた声がする。
「まぁ、お姉様。まだそのドレス着てらしたの?」
扇子で口元を隠しながら声をかけてきたのは、妹のフローラだ。
流行の淡いピンクのドレスに身を包んだ妹は、花のような可愛らしさに溢れていた。
「フローラは可愛らしくて素敵よ」
「まだ帳簿ばかり見られているんでしょう?事務仕事にはお似合いのドレスね」
「ありがとう。私も自分に似合ってると思うわ」
実際、いつも着ている服も紺色ばかりだ。
ことさら言い返す気力も湧かない。
父がフローラの後ろから現れ、私に釘を刺す。
「エルミーナ、今日はフローラを支えてやってくれ。くれぐれも粗相のないような」
「承知いたしました」
私は抑揚もなく答えた。
そして、父に言われた通り、柱の陰に身を隠すように立った。
息を潜めてやり過ごしていれば、明日はまた事務室で仕事に戻れる。
「――宰相閣下のおなりだ!」
熱気を帯びていた会場のざわめきが、静まり返る。
現れたのは、若くして国を支えるディノ・ラシュフォード宰相。
月光のような銀色の髪、アクアマリンの宝玉のような冷たい瞳。
「あれが……ラシュフォード閣下……」
宰相が夜会の場を見回すと、それだけでその場の温度が下がったようだった。
社交界に疎い私でも、その名前は知っている。
曰く「氷の宰相」
会場の令嬢たちが羨望の眼差しを送るが、その視線も宰相に届くまでに凍りつき、落ちてしまいそうだった。
父の目は欲望にぎらりと光った。
没落寸前の我が家にとって、彼に取り入ることは一発逆転のチャンスと思っているのだ。
「フローラ、行くぞ! 笑顔を忘れるな!」 「はい、お父様!」
父はフローラの手を引き、人波をかき分けて宰相の元へ突撃していく。田舎貴族の浅ましさ。あぁ、やめて。その人の瞳を見て。そんな安い媚びが通用する相手じゃない。
「閣下! お初にお目にかかります、子爵ヴィンセント・ハーベストにございます! こちらは娘のフローラで――」
「閣下ぁ、お会いできて光栄です」
フローラが甘い声を出して、上目遣いで宰相に近づく。
しかし、宰相は足を止めることなく、氷点下の視線で一瞥し、言い放った。
「……下がれ」
会場中の時が止まったような静寂。
「社交の場は重要だ。だが、宰相として国を預かる私に媚びを売るのは時間の無駄だ」
宰相は冷たい目で、二人を見下ろした。
「私は遠征前で忙しい。すぐに出てゆく。下がれ」
社交辞令など歯牙にもかけない態度。
「ひっ……!」 「も、申し訳ございません閣下!」
妹と父の顔から血の気が引いていく。 公衆の面前での完全な拒絶。このままでは、ハーベスト家は笑いものだ。
「お、お詫びなら何でもいたします! どうかお慈悲を……!」
必死に頭を下げる父。
「詫びなど不要だ。下がれ」
宰相は興味なさげに父の横を通り過ぎようとして――ふと、その足を止めた。
その視線が、柱の陰に立つ私を射抜く。
心臓が跳ねた。 透き通る瞳が、私を見つめている。すべてを見透かすような鋭い目。
「……そこの女。ハーベスト商会のエルミーナ・ハーベストだな?」
「はっ?はい?」
心底、驚いた。なんで宰相が私の名前を知っているの?顔も?
「は、我が長女、エルミーナ・ハーベストです!」
父が、何かを挽回しようと、必死に答える。
「そうか。貴殿はハーベスト商会の元締めのハーベスト子爵か……」
父を見る宰相の視線が僅かに興味の色を帯びる。
「詫びは不要と言ったが、撤回しよう。私はまもなく『氷狼の森』へと遠征視察をせねばならない。極寒の地で、何かと『物資』が入り用でな」
「ハッ!仰る通り彼の地は厳しい土地でございます。私は北の領主とも懇意にさせていただいております。閣下のご意向にそうよう、どんな物資でもご用意させていただきます。」
脂汗を流しながら頭を下げる父だったが、うちの台所事情で、満足な物資が出せるとは思えない。
「……その女を『物資』として寄越せ」
宰相の長い指が、真っ直ぐに私を指す。
「へ?」
父が間の抜けた声を上げた。
彼の口調は、まるでそこにある荷物でも持って来いというような無機質なもの。
「現地で使い潰すための『物資』が足りていない……そこの女でいいだろう」
使い潰す。物資。 人間に対して使う言葉ではなかった。
心の奥底から、ふつふつと怒りが湧いてくる。
それを自らの諦めと言う水で消そうとする。
でも、怒りの火は消えず、ちらちらと燃え広がり、心臓に絡みつく。
静まり返る夜会の人々の同情と蔑みの視線が痛い。
私は『物資』として北国へと連れていかれてしまう。
あぁ、いつもの事務室に戻れたら。
あの暗さすら今は恋しい。
少なくとも平穏な明日はあったのだから。
私の暗い気持ちとは裏腹に、父とフローラの反応はひどく明るいものだった。
二人は顔を見合わせ、安堵と歓喜に顔を歪めたのだ。
「ええ、ええ! どうぞお持ちくださいませ!」
父の声は弾んでいた。
「姉も宰相様の元に居られるなど、光栄の極みです」
妹はこれ見よがしに、華やかなピンクのドレスをつまんで礼を言う。
ホッとした表情で、私のことは見向きもしない。
「ただし、 返品不可でございますよ!」
と、父からはとんでもない軽口まで飛び出す始末。
まるで粗大ゴミが、うっかり高値で売れた時のような喜びようだった。
「交渉成立だな」
宰相が短く告げる。
「ついてこい」
宰相の命令に従い、ふらつく足で前へ出た。
家族の失態の代償に、冷酷な宰相の『物資』として北国へ連行される私。
でも、なぜか『物資』と呼ばれても、必要だと言われたような気がした。
私は全く必要とされていない。ならば少しでも必要とされる方へ行ったほうがマシだ。
その時の私はまだ知らなかった。
この『物資』としての取引が、私の人生を劇的に変えることを。
そして、この「氷の宰相」の心の内も。
2. 北への冷たい旅路
その次の日には、私はラシュフォード宰相と二人きりで馬車で王都を後にした。
宰相が発する緊張が満ちて氷の棺のように冷え切っていた。
空気が痛くて、つらい。
向かいの席に座る宰相は、一言も発さずに、持ち込んだ書類を読みつづけている。
(……私、これからどうなるんだろう)
なにしろ「物資」として受け渡された身だ。何も文句は言えまい。
でも、つのる不安は止められない。
私は意を決して口を開いた。
「あっ、あの……閣下。私たちはどこへ向かっているのでしょうか?」
宰相が書類を膝に置く。私を一瞥し、短く答えた。
「夜会で言った通り……氷狼の森だ」
「氷狼の森……あの、北の最果ての?」
「そうだ。あそこではミスリルが採れる。だが、ここ三ヶ月、物流が途絶えている。ミスリルは結界術でも消費する。我が国を魔獣から守るためには欠かせない。現地へ赴き、一刻も早く、滞留の原因を排除する」
原因の排除。
事務的な言葉の響きに、私は身をすくませた。
その言葉には、国のあらゆることを、人ではなく、出来事として、物事として扱う宰相としての凄みがあった。
馬車が北へ進むにつれ、車窓の景色は緑から茶色へ、白へと変わり、いつしか完全な白銀の世界になっていた。
真っ白な雪原を見るのは初めてだ。珍しくはあるが、はしゃぐほどの年でもない。
それよりも寒さが身にこたえだした。
馬車の中は、冷え切っていた。王都を出たときのような緊張のせいではない。
外では雪がしんしんと積もっている。
私は自分の両腕をさすることしかできず、奥歯を噛み締めて耐えていた。
「……寒くはないか?」
沈黙を破り、彼が短く問いかける。
寒いに決まっている。 私は唇を引き結んだ。 今の私は人間ではない。
『物資』として、この北の地へ運ばれているだけの存在だ。
荷物が寒さを訴えるなんて、滑稽な話だ。
(家族にも売られ、誰にも必要とされていない……)
外に吹きすさぶ風の音が、孤独を感じさせ、寒さより、ずっと痛くて、惨めだった。
「……いえ、大丈夫です」
強がりだった。
けれど、言葉とは裏腹に、膝の上の手は小刻みに震えている。
私の強がりが、彼に見透かされている気がする。
惨めさに涙が浮かぶ。
涙がこぼれないように、ぎゅっと瞼を閉じた。
視界を閉ざして、寝たふりを決め込む。
そうすれば、すべてから逃げられる。
馬車の車輪が新雪を踏む音だけが、規則正しく響く。
しばらくして、気配が凪いだころ、私はそっと薄目を開けた。
「……っ」
心臓が、早鐘を打った。 彼は正面の座席から、あのアクアマリンの瞳で――瞬きもせず、ただ真っ直ぐに私を見つめ続けていたのだ。書類は彼の膝の上。書類なんて見てもいなかった。
熱っぽく、真摯な、獲物を狩るような眼。
私の心を射抜くような眼。
(嘘……ずっと、見ていたの……?)
薄目を慌てて閉じる。
まつげ越しに彼の瞳を見てしまったことが、ばれてやしないか気が気ではない。
思えば、閉ざされた車室は彼と二人きりでその視線からの逃げ場はどこにもない。
冷え切っていたはずの身体が、彼の視線に射抜かれた場所から、熱を持ち、伝わっていく。 首筋から、頬へ、耳へ。
羞恥と動揺で沸き上がった熱が全身を駆け巡り、あれほど辛かった寒さが、嘘のように遠のいていった。
そうこうするうちに王都を離れて4日。
ついに馬車は「氷狼の森」にたどり着いた。
「降りろ」
ラシュフォード宰相は兵に、あるいは咎人に命令するように、私に告げる。
否応もなく、私は馬車のドアを開け、降りる。青い空、雪原を照り返す日光が目に眩しい。
馬車の中も寒くて、凍えていたが、この刺すような冷たさの空気とは比べ物にならない。吐く息が、濃い白霧となって風に消えていく。
バサッ。
視界が真っ白な毛並みに覆われた。
温かい。そして、驚くほど重厚な温もり。
「え……?」
頭から被せられたのは、銀色に輝く毛皮のコートだった。
それが何であるかひと目で分かった。
それは『氷狼の毛皮』で作られたものだった。
商会で取り扱っているものの、自分で着ることなどありえない一品。この美しい毛皮は、馬一頭と引き換えにされるほどの高級品で、上流貴族の淑女が冬に着る贅沢品なのだ。
「か、閣下? これは……」
「着ておけ」
いつもの冷たい表情のまま答える。
「これ……『氷狼の毛皮』のコートですよね?しかも真新しい……」
袖を通しつつ、コートの仕立てを確認する。明らかにおろしたての女性用のコート。
こまやかで美しい毛の手触りは、高級なシルクも叶わないほどつややかだった。
サイズも私にぴったりだ。
「品がわかるのか?」
彼はわずかに興を乗せて聞く。
「えぇ。商会で取り扱ってましたから。かなり高価なものでは」
見たこともないほど上等な仕立て。
おそらく妹の夜会用ドレスが何着も買えるほどの品だろう。
なぜ宰相は、こんなにも高価な品を馬車に用意していたのだろうか?
「『物資』が風邪をひいては管理責任が問われよう」
物言いは冷たかったが、私を包み込む毛皮は、重く、温かい。
吹きすさぶ冷たい風から、私のことを守ってくれている。
「行くぞ。領主の別荘を借り受けている」
宰相が私を先導する。彼が横切ったとき、男性的な香りが鼻腔をくすぐった。
凍てつく冬風の匂いとは違う、清潔な石鹸と、微かなインクの香り。
3. 有能な『物資』、不正を暴く
馬車を迎えたのは、宰相の部下たちだった。
「領主様が自らお出迎えをと仰せになりましたが、お申し付け通り、固くお断りいたしました」
部下たちは、寒空の下、背筋を伸ばしたまま、大きな声で報告する。その声には規律と緊張が満ちていた。
「それでいい」
宰相の声は、感情の起伏一つない。
「今回の件に通じている者がどこに紛れ込んでいるかわからんからな。領主とて例外ではない」
流れるように部下へと指示が飛ぶ。
一つ一つが鋭く、的確だ。
(『氷の宰相』と言われる理由が、よく分かるわ……)
彼の姿に見惚れてしまった。
「私は滞在する部屋に荷を置いたら、すぐに合流する」
部下へそう告げた後、彼は私へと向き直る。その冷たい視線に射抜かれ、思わず息を呑んだ。
「部屋へ向かうぞ。ついてこい」
命令された声は、相変わらず冷え切ったものだったが、抗いがたい魅力があった。
宰相は、レンガ造りの建物に向かい、私もそれについていく。
冬の大地にしっかりと立つ岩のような建物の向こうに見えるのは、鬱蒼とした木々。
極寒の地「氷狼の森」
ここに連行された自分の生活がどうなるか、不安で仕方がなかった。
簡素な兵舎か場合によっては牢のような場所も覚悟しなければならないかもと恐れていた。
しかし、彼が私を連れて行ったのは、領主の別荘の最上階にある部屋だった。
「……え?」
赤々と燃える暖炉。
ふかふかの絨毯。
先程の寒さが嘘のようだ。
宰相は私のことを一瞥すると、相変わらずの冷たい口調で言い放った。
「ここで私と暮らしてもらう。足らぬものがあれば言え」
「暮らす? 私は『物資』として連れてこられたのでは……」
「そうだ。だからこそ、私の目の届く範囲に置く」
そう言い捨てると、彼は「仕事がある」と言って部屋を出て行ってしまった。
(……どういうこと?)
最悪の想像をしていたので、拍子抜けしてしまった。
主人の部屋での同居。
混乱したが、ふと気づく。
そうか、私は「物資」兼「雑用係」なのだ。
多忙な宰相の身の回りの世話をする、住み込みのメイドのようなものだろう。何ができるわけでもないが、必要とされるなら、まだいい。
この建物は、領主の別荘ということで、頻繁には使われてはいないが、宰相の視察を迎えるだけあって、調度は整っていて、掃除も行き届いていた。使用人は何人かいるにはいるが、宰相に対してはもてなしは不要と言われ、皆、困惑しつつも、手持ち無沙汰にしていた。
お願いすると、台所は使わせてもらえた。
夜、温かいスープを作って、宰相を待った。
(いつになったら帰ってくるのだろう……)
暖かい部屋ではあるが、見知らぬ広い部屋に一人でいると、心細くなってくる。
彼が帰ってきたのは、夜半を回ってからだった。
宰相は暗く青白い顔をしている。手には書類の束。
「おかえりなさいませ。宰相様」
宰相は私のことをちらと見ると、一声もなく、朦朧と部屋を進む。
テーブルの前まで来ると、手に持っていた書類の束をバサリと投げ出して、椅子に腰掛け、冷え切ったスープに口をつける。
「すいません。すぐ温めなおします」
慌ててテーブルに近寄ると、彼は手をかざして私を制し
「いや、いい。十分温かい」と言った。
冷え切ったスープが温かいことがあるだろうか?不思議に思っていると、彼は言葉をつづけた。
「王都では誰が狙っているかわからん。せいぜい乾いたパンか干し肉程度しか口にできない」
丁寧に一口一口、黙々と食べ、器をカチャリとテーブルの上に置く。
「ありがとう……」
眼を合わせずに手短に礼を言うと、彼は立ち上がり、私の方へゆるゆると近づいてくる。
「閣下?!」
ドキリとしたのもつかの間、彼は私のそばを横切り、ソファまで歩いていき、……そこに倒れ込んでしまった。私はあわてて彼に近寄る。
あまりの激務だったせいか、宰相は倒れたままソファの上で寝入っていた。
普段は近づきがたいあのラシュフォード宰相が、目の前で無防備な姿でいるのは不思議な感じがした。
「……ぐっ……ぅ……」
苦しげな寝息とともに、白磁のような額に深いシワが刻まれる。目の下には濃いクマ。
国を背負い、冷徹に振る舞う仮面の下に、こんな傷ついた少年のような顔が隠されていたなんて。
(……氷の宰相なんて、誰が言い出したのかしら)
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
私は彼を起こさないよう、息を潜めてそっと毛布をかける。
ふわりと布を重ねた瞬間、彼から漂ういつもの冷たいインクの香りが香った。
「……ん……」
彼が身じろぎし、寝返りを打つ。そのとき、彼の手が、毛布を持つ私の手をかすめた。
ひやりとした感触。
けれど、その奥にある熱も同時に感じた。
目の前には苦し気な彼の素顔。
(触れたい……)
その思いは不意に訪れた。眉間のシワを指先でなぞったら、彼の苦しみが少しでも癒えるのではないか。そんな空想をしてしまう。
あと数センチ。手を伸ばせば届く距離。
その距離が、もどかしく、恐ろしい。
彼の瞳が開けば、それは、あの冷徹な宰相。
でも今は……この瞬間だけは……この無防備な寝顔は、私だけのものだ。
「……貴方も、一人で戦っているのね」
こぼれ落ちた言葉に、自分でも驚いた。
暗い事務室で働いている自分と国を背負う宰相では立場が違う。
でもどこか通じるものがあった。同情ではない、もっと切なくあたたかな思いだった。
私は伸ばしかけた手を、ひっこめて、胸元で強く握りしめる。
自分の高鳴る鼓動が、彼を起こしてしまわないように。
指先に彼の冷たい指の感触が残って、熱く脈打っていた。
私は逃げるように、そっとテーブルへと戻った。
テーブルの上には書簡、報告書そして帳簿の冊子。
帳簿の数字が目に入った瞬間、
「……ひどい」と口にしてしまった。
職業病だろうか。
合わない数字は「ひどく」見えてしまう。
この「ひどい数字たち」が彼の心労のもとなのだろう。
そう思うと、その数字がとても憎らしく見えてきた。
その勝手な怒りに押されるように、私は帳簿を手に取る。
パラパラとページをめくる。
頭の中で、数字がパズルのピースのように組み上がっていく。
ミスリルの採掘量、取引の合間に、合わない数字がある。
テーブルの上の報告書を取り上げる。
そこには「魔獣の襲撃により消失」とあるが、その日付と数字も合わない。
(これは……もしかして、うちの商会の『氷狼の毛皮』のロスと同じ?)
はたと気づいた。これは、父からの夜会の手紙を受け取ったあの日、自分が見つけた横流しの件と同じなのだと。
あの日は、想像しただけだが、今は詳細な帳簿が目の前にある。
たまらず椅子を引き、帳簿を精査して、すぐに予感する
(これは大規模な横領!)
私は机の上のペンを取った。紙がない。
悪いとは思ったが、報告書の裏に計算を書き出した。
カリカリカリカリ……かつての事務室と同じ音が密やかに鳴り響く。
取引の不一致は、この建物の持ち主、『氷狼の森』を擁する領主自身の手によるものだった。
「分かった!」
我を忘れて、ペンを握りしめたまま腕を振り上げてしまう。
「何が『分かった』のか?」
振り返ると、彼がそこに立っていた。
相変わらず眉間にしわを寄せ、不機嫌そうに見える。
「かかかか閣下!お休みになっていたはずでは?」
私のしどろもどろな質問を全く気にすること無く、無言で、私のメモ書きを手に取る。
しまった。政務の書類に落書きをしたら処罰は免れないだろう。
「あぁぁあの!すいません。大事な書類にうっかり……」
慌てて弁解するがもう遅い。
宰相はアクアマリンの冷たい瞳で、私のなぐり書きを目で追い、そして、その鮮やかな瞳を見開く。
「なるほど。これは『大事』だな」
「すいません!!申し訳ございません!悪気はなかったのです!」
平身低頭、謝り倒すしか無い。部屋の外で鳴り響く吹雪の音が、冷たい未来を予感する。
4. 氷解の時
宰相は眉間にしわを寄せたまま
「いや、これには、明らかな悪意が感じられるな……」
と呟くと、書類を震える手で握りしめる。クシャリと音を立てて書類が身を捩る。
宰相がここまで感情をあらわにするとは。
まずいかもしれない。
「いえ!ただうっかり、メモ書きをしてしまっただけで!」
「君は何を言ってる?」
「は?」
「これは大規模な横領なのだろう?しかも領主自身の。これが『大事』でなくて何だ」
彼は、私のなぐり書きの計算式から、内容を正確に読み取っていた。
「あ、はい。魔獣被害というのは偽装だと思います。現地の管理官が、在庫をごまかして横流ししています。そして領主の管理下でズレが生じています。この帳簿を見れば明白かと……」
一気に吐き出した後、沈黙が落ちた。
外の吹雪の音をかき消すように、暖炉の薪が爆ぜる音がパチリと響く。
彼は深く息を吐き、私を真っ直ぐに見つめた。アクアマリンの瞳に温かさが灯った。
「ありがとう……やはり、私の眼は間違っていなかった。あの時会いに行ってよかった」
「え?」
何のことだろう?夜会の日まで宰相と会う機会などなかったはずだ。
「君は、以前、業者に『北からの商流で、商品が横流しされているかも』と警告の手紙を送ったろう?」
宰相は思いがけないことを言った。
「あ、はい。うちの商会の『氷狼の毛皮』の物流が滞っていて……推測でしたが……」
ただの推測ではあったが、何かあるのは間違いないと思っていた。
「その業者はミスリルも扱っていて、その疑念を私に報告した。その聞き取りをする間に、君の名前が出た。ハーベスト商会、エルミーナ・ハーベスト」
アクアマリンの瞳が私をまた射すくめる。
「私!?」
ちょっとした愚痴を兼ねた警告がそんなことになってるとは思いもしなかった。
ましてや宰相の下にまで届くとは。
「正直驚いた。部下たちが何ヶ月も調査しても原因不明だった難事が、一商会の女性によって突き止められるとはな」
「いえ、そんな……」
(帳簿を見れば明白だったとは言いにくいわね……)
宰相は続ける。
「すぐに君の商会に赴いて、君のことを遠目に確認させてもらった。王家の周りには、役に立つ注進を餌に悪意を持って近づく輩もいる。私の目で確認したかった」
宰相がうちの商会を偵察に来たなんて思いもよらなかった。
でもそれなら、夜会の場で私のことを知っていたことに説明がつく。
「どんなやり手の女傑かと思ったら、まさかこんなに愛らしい……」
そう呟いたところで、宰相は思わず漏れてしまった言葉を、押さえるかのように、慌てて口をおさえた。
「私は幼い頃から感情を表すのが得意ではないんだ」
耳を赤く染めながらの突然の独白。
いつもの氷のようなアクアマリンの瞳が揺らいでいる。そして、震える声で彼は私に謝罪する。
「夜会の場では『物資』扱いしてしまって申し訳なかった」
「え?」
「そうでもしないと……私には君を連れ出す口実が作れなかった……私の気持ちも抑えが利かなかった……」
夜会を凍り付かせたあの命令が、演技?
「あの時、君を誰にも渡したくなかった。私の目の届く場所に、どうしても置いておきたかった。許してほしい」
そう弁解する彼は、いつもの冷静冷酷な宰相の姿からは程遠く、飼い主に許しを請う、大きな犬のようだった。
「私は愚かだった。自分の本心を隠すために君を公衆の面前で侮辱してしまった。許されないことだ」
氷の仮面は震え、彼の白い耳朶がさらに赤く染まる。
彼は涙を流したわけではない、でも、これは冷たい氷が溶けだした瞬間だった。
「許してほしい。エルミーナ。君は素晴らしい女性だ」
宰相の潤んだ瞳と、端正な顔が近くに見える。
彼が私に近づいている。
三歩、二歩……一歩……零
間近で見る彼の表情から、氷のような冷たさが消えていた。
そこにあるのは、不器用で、けれど熱っぽい焦燥と心からの感謝。
「ありがとう、エルミーナ。君のおかげで、この地は救われる」
ふわり。
大きな手が、私を引き寄せた。
「そして私も」
気付いた時には、私は彼の胸の中にいた。
「え、あ、閣下!?」
「……少しだけ。今は、宰相ではなく一人の男として、礼を言わせてくれ」
彼の低い声が、私の身体に染み入り、鼓動を速める。
それは今までに感じたことがないほど、強く激しかった。
腕の中から伝わる体温は、氷狼の毛皮より、ずっと温かくて、重くて。
凍えていた私の心を溶かしていくようだった。
さっきまで私の頭を占領していた数字なんて一瞬で吹き飛んでしまった。
次の日の朝、ラシュフォード宰相は何事もなかったかのように、仕事に赴いた。
私のなぐり書きの書類を手にして。
5. 返品不可の代償
カリカリカリカリ。ペンの音が鳴り響く。
あれから一ヶ月、私は今も、北の最果て「氷狼の森」にいる。
「……ん、これでよし」
私はペンを置き、大きく伸びをした。
外は猛吹雪だったが、北方領主の別荘の最上階……改め、ラシュフォード宰相の臨時執務室は暖かな空気に包まれている。この土地の銀雪糖がたっぷり入った温かい紅茶を飲みながら、外の吹雪を眺める。
穏やか時間。だが、私の中には一つの気がかりがあった。
領主の横領が明らかになった後、多くのつながりが暴露され、様々な悪事がゴロゴロ出てきたのだ。それらを解決するため、ラシュフォード宰相と私は、北の地に滞在して、多くの書類と帳簿と格闘していた。
その中で、とんでもないことが分かった。横領の金銭が、私の父、ヴィンセント・ハーベスト子爵にも流れていたことだった。私の知らないところでの金策にからむものだったらしいが、こうなっては私にはどうすることもできない。
王家の捜査の手が実家にも及ぶことになった。
慌てた父から、宰相に取り次いでほしいという懇願の手紙が届いていた。
その父が、今日この館を訪れるのだ。
使用人がドアをノックし、父の到来を告げる
「ハーベスト子爵が到着いたしました。宰相様は既に応接でお待ちです」
私は書類を胸の前に抱え、呼吸を整え、応接へと向かった。
赤を基調とした応接、暖炉で温められてはいるが、空気は冷え切っていた。
父、ハーベスト子爵がラシュフォード宰相と相対しているのだ。彼の放つ緊張感で、暖炉の火も凍ってしまいそうだ。
「エルミーナ!すまなかったな!元気でやっていたか?!」
父がソファから腰を上げ、これ見よがしな笑顔で近づいてきた。詫びの品として明け渡したときの厄介払いができたと言わんばかりの態度とは真逆の様に、私は怒りを通り越して、おかしくなってしまった。
「ハーベスト子爵、この度の一連の事件、貴家にも金銭が流れていたという証拠があがっています」
彼は立ち上がって、父に冷酷に告げる。「氷の宰相」として。
「宰相殿!私は横領のことは知らなかったのです!どうかお慈悲を!エルミーナとの縁もございます!なにとぞご一考を!」
冷汗をぬぐいながら、懸命に言い訳をする父、ハーベスト子爵。
そんな父に、ラシュフォード宰相はいつも通りの冷たい声で言い放った。
「確かに、貴殿から詫びのしるしとして『物資』は受け取ったが、家族としての繋がりを持った覚えはないな」
「そんな……」
「『物資』を受けとった恩はあるかもしれないが、貴殿は『返品不可』と申したしな……王家の捜査に協力し沙汰を待つが良い」
とにべもなく告げた。
父はうなだれて帰途についた。
妹も大慌てだろう。
父が去った後、私は彼と執務室に戻った。
宰相は、執務室のドアを閉めながら、
「終わったな」
と優しく呟いた。
彼のアクアマリンの瞳が私を見つめている。
ただ、その視線は以前とは真逆に熱っぽくて、青い炎の様。
「はい。これでこの地の裏取引は全て明らかになったと思います」
私は胸元の書類をギュッと抱きしめながらも、うつむいてしまう。
実家の問題が片付いて、ホッとしているが、それを惜しく思っている自分がいる。
この横領の事件が片づけば、『物資』の私が、宰相の元にいる理由は無いのだ。
「もう……寒くはないか?」
氷の宰相は不思議な事を聞いた。暖炉で温められたこの部屋で何が寒いというのだろう。
彼は近寄って、私を真っ直ぐ見つめる。
その視線で、この『氷狼の森』に向かう馬車で凍えているときにかけられた彼の言葉を思い出した。
私が自分を『物』のように感じていたあの時、彼は本当に私のことを気遣っていたのだった。
「エルミーナ、君はいつも私の前で寒そうな顔をする」
そういうと、彼は私を抱き寄せる。
バランスを崩して、持っていた書類が執務室のテーブルに散らばってしまう。
「えっ……閣下?」
「こうすれば温かいだろう?」
私の目の前で、氷の仮面が暖かく笑った。
「あっ……その……」
しどろもどろになっている私の前で、宰相は甘くささやいた。
「二人のときはディノと呼んでくれないか?」
この少し拗ねたような言い方を、王都の淑女たちが見たらどう思うだろう?
「は……はい……ディノ様」
「『様』は不要だ」
その口調は、かつて夜会の場で私を『物資』扱いしたときとは似て非なるもの。
低く冷静だが、彼の心の熱が感じられる。
「あ……はい……では……ディノ……その手を握られていると……その照れてしまいます」
「大丈夫。誰も見てない。ここはもう我が家なのだから」
彼が私の手を引いて、唇を耳元に近づける。
「あの……それは……」
「返品不可なのだろう?」
彼はそう言いながら、私の手を握ったまま、優しく、けれどしっかりと、その大きな体を預けてきた。
もう何も言い返せない。言葉にしたくない。
私の頬を撫でる彼の指先は、まるで宝石を扱うように丁寧で、熱い吐息が耳元をくすぐる。
その低く甘い囁きに、私の心臓は高鳴り、全身の力が抜けていくのを感じる。
彼に触れられているこの瞬間、私の中のすべてが彼だけを求めている。
もう寒さは感じない。体の中から抗いようもない熱が広がっていく。
彼との繋がりを確かめるように、私はその手に強く力を込めた。
そして、私がもがくように振ったもう一方の手が、テーブルの上のペンに触れてしまう。
ペンが跳ね、テーブルの上を転がり、そのペン先からこぼれおちたインクが、白い紙に染み込んでいく。
(完)
最後までお読みいただきありがとうございました!
「物資」として売られたはずのエルミーナと、実は不器用なだけのディノの溺愛は、これからも続きそうですね。お父様の「返品不可」ブーメランが炸裂し、スカッとしていただけたなら幸いです。
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