昭和黎明奇剣伝 黑夜叉 第二話 仇花の唄(仮)
登場人物
衛藤永吉 … 盲人の暗殺者。
栗原新平 … 衛藤の戦友。今はマスコミの真似事をしている。
嘉藤清彦 … 白髪白眉の美貌の剣士。かつての衛藤の同僚。浅草に潜伏している。
かごめ … のちに栗原の養女となる少女。唯一の血縁である母を失い東京を彷徨う。
川原我聞之介 … 間島親衛隊の一人。出身は鹿児島。
ダッドリー … 英国のボクサー。父親の残した愛車ジャガーを求めて旅立つ。
山崎竜二 … 沖縄出身。こうぶつは 馬刺し。
”埋蔵金”――という与太話がある。
大日本帝国の大義が健在だった時代のおとぎ話である。
大戦末期において貧困に喘いでいた軍中枢が志那の外地からかき集めた軍資金のごく一部が秘密裏に持ち出され、来たるべき再起、――転じて占領下からの日本の解放の為にどこかに隠されているという話だ。
いささか不出来な作り話でもあった。
「出鱈目が過ぎる話ですなあ」
衛藤の目の前で雀焼きを片手にコップ酒を飲む男が言った。
食物は”雀”と銘打っているが実際は何お肉かはわからない。鳥でも無いし、まして家畜でも野外の鳥獣でもないだろう。
「あ、衛藤さんも一つどうです?」
衛藤と向かい合って座っている男の名は栗原新平といった。
戦時中は諜報部を出入りしており、戦後は東京裁判のゴタゴタを潜り抜けて新聞記者の真似事をしていた。
南洋戦線で偶然、衛藤と知り合い、それをきっかけに行動を共にする事もあった。
衛藤は栗原を利益が衝突しない限りは生かしておくつもり――あくまでその程度のつき合いだ。
そう自身に言い聞かされながら昨日吸った血の味が抜けきらぬ酒の味を好む。実に美味い。
生来の欠陥品である衛藤永吉という男には生まれつき人の命を奪う事に抵抗は無かった。
「栗原君よ、今朝の話だが渋谷で間島聡哲の一派とやりあった。君の所には何か情報が入っているかね?」
栗原の顔からいつもの気さくさが失せて、代わりに衛藤は自分の前に置いてあったつまみの小皿を栗原に差し出す。小皿に乗っていたのは衛藤の好みの食べ物ではない、最初から栗原の趣向に寄せていた。
衛藤の仄暗い人斬り包丁特有の形相は以前に見せた哀愁漂う盲人の物ではない。
会話の潮目が変わった事を感づいた栗原は一息ついてから小皿に手を伸ばす。
「これはどうも」
栗原は故郷ではあまり食べる事が出来なかったアサリの佃煮を突いた。衛藤はまだ若い栗原が好物を見てせっつく姿を拝見し、目を細める。
途中、喉を詰まらせた栗原に飲料を勧める様子などは孫と祖父のそれに近い。
衛藤自身まだ耄碌したわけではないが、どうにも栗原の前では常人のような態度 を取ってしまう。
(俺は人斬りだ。堕獄上等、鬼畜生にも劣る下の下の生き物だ。こんなところで若造を相手に繕ってどうする?)
衛藤は心中を曇らせ、冷や酒を飲む。
やはり人を斬った後の酒は極上の味わいだ。
机の上に乗るデフォR頃の知れない濁り酒は戦時中に流出した酒もどきだが今のご時勢では十分すぎるほどのぜいたく品だ。
屍山血河の地獄めぐりたる南洋戦線から戻っては、片手業の仕事の合間に酒を嗜むようになっていた。
(いや、それでも十年ほど前は酒を嗜む事は無かったな)
ふと向かいの席に目をやると栗原がかめちゃぶを上手そうにかき込んでいる、実に微笑ましい。
案外、このどこまでもおめでたいな若者の影響かもしれないと自嘲する。
しばしの間、食事を嗜んだ後に栗原が楊枝を咥えながら話を始めた。
「間島一家の方は何もありませんね。というかそちらさんの名前を聞いたのは強が初めてですから」
酒気の引いた神妙な顔つきで栗原は衛藤に告げる。いつもの人懐っこい顔でも目の奥はは笑っていない。
一瞬の油断ならぬ曲者、これが栗原の本性だ。
彼は衛藤の助けと戦前戦後と平時と非常の使い分けで数々の七を潜り抜けてきたのである。ただものであるはずがない。
「そうですか。私も中佐殿の名前は人の口からしか聞いたことがありませんので。南米に隠れている連中はGHQに喧嘩でも売るつもりなんですかね」
「いやいやいや!その気はないでしょう?アメ公との戦力差は先の戦争ごっこで十分すぎるほど思い知らされたはずだ。ご自慢の大和も武蔵も戦わずして海の藻屑になっちまった。いい気味でさあ」
けけけ、と毒笑する栗原。
愛国者などと言うご立派な立ち位置ではない栗原だが先の大戦で上官の弾避けに使われた事をまだ根に持っているらしい。
本人の弁によると栗原の生き別れとなった信州に疎開していた両親は生きていたと聞いている。
さっさと戻って嫁でももらって親を安心させてやれば良いものを、と衛藤はガラにも無く考える。
「ここ最近はそんな塩梅ですけどね、衛藤センセイ。あっちの方は見つかりましたよ。嘉藤清彦」
ピタリ。
衛藤の所作が止まった、目くらの好々爺の面が剥がれ、冷徹極まりない暗殺者の本性が現れる。
さながら時間が停止した有様に周囲はざわついた。
衛藤の隠しようのない血の匂いと凍てつく殺気が本人も知らずのうちに駄々洩れしていたのだ。
「”白眉”――嘉藤清彦は日本にいましたか」
通り名、飛燕の白眉。
かつて衛藤と共に軍内部粛清用の暗殺部隊に所属していた男、嘉藤清彦こそが間島、鶴田、土岐ら三人の幹部を切り捨てた男だ。
神道流の流れをくむ八蜘蛛流という剣法の使い手で滅法腕が立つ。かつての八蜘蛛流の継承者と衛藤は互いの師を通じて知り合った同氏とも言うべき存在だった。
実際嘉藤と衛藤は面識があり、嘉藤が二十になる前の一介の道場通いにすぎなかった頃から何度か藩士をした事がある。
その道場では目立たぬ存在だったが、衛藤は嘉藤清彦の剣の才能を見抜いていた。
実際に衛藤自身、嘉藤清彦は自分より格上と考えている。
(先の先、そして燕返し。いやはやお天道さんってのは持ってるヤツには何でもくれてやるんだねえ…)
かつて知人の道場で、加藤清彦を紹介された時から今の今まで白髪白眉の天女と見紛うばかりの美青年に心惹かれていた。
あれを斬り、あれに斬られてしぬるなら本望と。
片手業の腕自慢が集まる屯所で見せた嘉藤の剣技の冴え渡り、一寸先の無明をも見通すかの如き眼力。
そして巌流佐々木某を彷彿させる秘剣”燕返し”。今や感情を押し殺す事さえ疎ましい。
「あれを斬らずに死ねるものかよ…」
衛藤は思わず物騒な事を口走る。
弱視という業を背負って生まれ、老いて全盲となった衛藤の生き甲斐は人を斬る事だった。
血糊と獣脂まみれの刃を研いでいる時にだけ衛藤の生への渇望は嗜好に達する。
人の心など母親の腹に忘れてきた性分である。
「先生、アンタ今笑っていますぜ?」
「失礼」
衛藤は白濁色の飲料水が入った碗に手を伸ばす。
これでも何とかという薬品で飲めるようにした配給品の飲料水だ。
戦時中末期に東京都に投下された爆弾による土と水の汚染は未だに人体を毒していた。
衛藤の真似をして栗原も飲料水の入ったコップに口をつけた。だが…
「ぷっ」
口内に入った瞬間に洗浄剤というか消毒液のような水の味に驚いて衛藤は吹いてしまう。
栗原は急いで口から吐き出した後、何度も咳込んでいた。周囲の客は栗原の痴態を見てどっと笑い店内の空気も幾分か穏やかになる。
「飲み物は酒にしましょうや、衛藤先生。こここの水を飲むくらいなら隅田川の水を飲んだ方がマシですぜ?」
涙と鼻水を出していいる栗原が言った。衛藤は無言で首を横に振る。
「どちらも勘弁願いたい」
衛藤と栗原は互いの不出来な冗談を聞いて笑い合う。
そんな中、小さな手がにょいと伸びて栗原の目の前にあった雀焼きを取った。
「おや」
襤褸を纏った浮浪児だった。一見で性別はわからなかったが、衛藤派彼女の発する音と匂いで女児である事を察する。
「あ、このジャリが‼よくもやりやがったな‼」
おまんまを食い損ねた栗原が激昂する。この男大抵の事には無頓着だが食べ物が絡むと途端にケチ臭くなる。栗原は袖をまくって店内を所狭しと追いかけっこする。
そして炭に追い込まれた女児の肩を掴んで地面に引き倒した。
平和な世の中ならともかく今の生きるのが精いっぱいの渡世では誰も気に留めない。
「俺のおまんまをかっさらおうとはいい度胸だ。お灸をすえてやる」
栗原は子供を地面に抑えつけて殴ろうとする。
子供は逃げ出そうとじたばたと暴れたが、身動き出来ない。ガブリ。ついに栗原の腕を噛んで何とか逃げようとした。
「このガキ‼」
「お待ちなさいって」
ひたり。腕を噛まれて怒った栗原が馬乗りになろうと身を乗り出した刹那、彼の首筋に冷ややかな刃が当てられる。
うっすらとした氷のような、それでいて確かな殺意に栗原は心底恐怖した。
「あの、衛藤さん…?」
衛藤の表情に変化は無かったがそれだけに事の深刻さを物語っている。さらに懐から出した匕首が拭きつける涼風は止む気配がない。
栗原はここに来て衛藤の静かなる怒りさえ感じていた。
「このお嬢ちゃん、今日のところは私に免じて許してやってください」
衛藤は袖から二、三枚銀貨を転がすとようやく破顔する。栗原はその場から逃れようとしたが衛藤の手から匕首が放れてはいなかった。
「そりゃどうも」
栗原は全身からどっと沸いた汗に冷たさを感じながら銀貨を袖の下に収めた。硬貨からは外国産の煙草の匂いと赤錆がこびりついている。理由は問うまい。
おそらくは衛藤の背後にいるGHQか、MPからの支給品だろう。
「お嬢ちゃん、ここはアンタにはおっかない場所だ。速く還っておっかさんを安心させてやりなさい」
衛藤はガラにも無く笑顔を作って女児に語りかける。
後に優性保護法案のような非人道的な悪法がまかり通っていた時代に生まれた衛藤には子を残す事はおろか、妻をめとる選択肢さえ無かった。
そもそも剣一筋に生きてきた子供への接し方など知ろうはずもない。
「おっかさん、いない。一昨日からずっと寝たまんま」
女児の顔からは既に精気が失われている。物言わぬ母親の亡骸に一日縋った末にここへ辿り着いたのだろう。衛藤は女児の頭を優しく撫でる。
「そうかい。それは大変だったねえ」
衛藤はため息を吐くと女児は「おっかさん」と何度も泣きながら老爺に抱きついた。
一方、栗原は居心地の悪さを覚え、目を背けている。周囲の大人たちも衛藤と女の子から目を背けていた。
起床と同時に栄養失調で身近な誰かが物言わぬ躯となっている、――この時代の東京では珍しくもない、ごくありふれた光景だった。戦火の爪跡は幾つもの親子の絆を引き裂き、今でもその傷口は広がる一方である。
これが権力欲に固執した偏狭な世襲権力者たちの御曹司たちが引き起こした戦争という騒動の顛末である。丸焦げになった東京では如何なる死せる英雄たちへの凱歌も虚しいばかりだ。
衛藤は光を失った琥珀色の双眸で女児を見つめていた。
ガラリ。
どことなく薄汚れた店の敷居を黒い軍靴が跨いだ。巡廻の憲兵かやくざ者がやってきたのかと思い店の中がシンと静まり返る。現れたのは大男、いかにも戦地帰りといった様子である。
男はギョロ目で店内を観察し、すぐに獲物の所在を発見する。
「見つけたぞ、〈黒夜叉〉。衛藤永吉」
湿った空気を煮沸するような怒声と共に巨漢が衛藤、栗原が座る席までやってくる。物好きな客たちも大男が放つ気迫に押されて何も出て来ない。
旧帝国軍の軍服を着た、如何にも戦地帰りといった不運格の男だ。衛藤は女児を自分から話して男の方を見る。
「栗原さん、この子を預かって下さい」
男は背中に背負っていたリュックを投げ捨て、腰の長物に手をかける。丸太のように太い手には野太刀が握られていた。手にはいくつもの握りタコが出来ており、大男が並みならぬ技量の持ち主である事を伺窺わせる。
不動明王のように赤らんだ顔で衛藤を睨みつける。
「今朝、盟友迫水四郎五郎の死体が見つかったと報告があった。軍学校以来の生死を共にした仲だ」
男は片時も衛藤から目を離さない。一瞬でも衛藤が気を抜けば脳天から真っ二つにするといった様相だ。
衛藤はそれを気にかけることもなくいつもの惚けた様子で相手をする。
「へえ。どちらの迫水さんで?」
スッ。
衛藤は懐に隠した匕首は既に鞘から抜かれている。男はわずかに所作を覗いたが気にかける様子は無かった。最初から想定内の事態だと言わんばかりに。
その一方で仕込み杖の方はまるで見ないというのは衛藤のあからさまな罠だったろう。
「表に出ろ、黒夜叉。貴様のような下衆には裏路地で野良の犬のエサになる末路が相応しい」
巨漢は野太刀を収め、荷物を背負い、肩で風を切って店の外に出る。
衛藤は店主と他の客に軽く一礼して巨漢の跡を追った。
男は人気の無い河川敷にきたところで再び野太刀を鞘から抜いた。武骨な造りの指に握られた鉄塊は男の本性を示すが如く狂猛な輝きを見せる。察するにかなりの血を吸った業物だろう。
男は中位の構えで衛藤に相対する。
「某は、川原我聞之介という。北辰一刀流を使う」
川原は勢い良く太刀を振って見せる。轟音と共に風が生じた。
孤剣にて空を裂き、風をなびかせる様は彼の剣腕が尋常な物ではない事を示していた。
だが衛藤はそれを見ても尚、平静さを崩さない。否、川原が敵とさえ見なしていないのだ。
「ところで川原さん。私とご同業の嘉藤清彦さんは今どちらに?」
「あの唇を朱に染めた女男の事か。くだらん。浅草に潜伏していると聞いているが?」
「ほほう。浅草ですか」
衛藤は何食わぬといった容貌の下で嘉藤の健在を知り、ほくそ笑んだ。
川原の技量など取るに足らぬものだが、嘉藤所在を知る事が出来たのだからそれなりの収穫はあったようだ。
「巷で噂の神速とやらを某が吟味してやろう」
川原を太刀を上段に構えた。
一方、衛藤は匕首を鞘ごと腰に収めて仕込み杖に手を添えた。
ここに大地を睥睨する天龍と天を見上げる伏虎の図が一瞬で生まれる。
中天には赤鴉の如き太陽が輝き、二人の剣士の行く末を見守っていた。
「ぬっ‼」
川原は一歩進んで、衛藤の脳天に刃を振り下ろした。
衛藤は仕込み杖を閃かせこれを受け止める。川原の太刀は押そうが引こうが微動だにしなかった。
竹ひごのような痩せた身体からは想像できない剛力に、川原は目を悦ばせる。
「やるな、黒夜叉。だがこれで詰みだ。そのなまくらで二度目はどう避ける?」
刃を押し当て、川原は衛藤の腹を蹴る。
直撃を受けた衛藤は下腹に鈍痛を覚えながら後退した。だがその威勢に翳りのようなものは無い。
「やれやれ。今逃げれば死なずにすんだものを」
悪鬼が嗤った。川原は衛藤の安い挑発を耳に入れず一足飛びで切りかかる。かなりの速さには違いなかったが衛藤にとっては思わず眠ってしまいそうな速度でしかない。
「ほざけ‼」
土砂を巻き上げながら猛牛のように川原が襲いかかる。
上段から刃を振り下ろし、今度は頭蓋を両断するつもりだった。
「最初にそうしておけばよかったんですよ」
ガシッ‼
衛藤の仕込み杖が川原の太刀を止める。目と鼻の先で刃と刃が止まった。
相手は痩せた老人と侮った川原は力で是を凌駕しようと意気込むが、鬼神が如き力によって遮られる。
(しまった。これが噂に聞く”関所の太刀”か――‼)
川原の顔が見る見るうちに苦悶のそれに変容した。
川浪流”関所の太刀”とは富田流の奥義”車”から掠め取った邪剣と聞いていたので川原は最初から衛藤を目くらましの拳法を使う山師と侮っていたのだ。
されど川浪流の本義とは”弐の太刀いらず”即ち暗殺に特化した奇剣である。
「折りますよ?」
衛藤がそう呟くと川原の大刀は薄氷のように根元から折れてしまった。
バリンッ‼
川原は残った柄を捨て、懐から小刀を出す。
「〈黒夜叉〉衛藤永吉、先に地獄で待っているぞ。俺の首は貴様にはやらん」
川原は己の首に刃を当て、真一文字に切り裂いた。
朱色の鮮血が間欠泉のようにどっと吹き上げる。
それを見ていた誰もが川原の帝国軍人としての見事な散り際を褒め称える。
川原は命があるうちに地面へ座り込み、衛藤を睨みつけた。
それが弱者にとっての決して譲る事の出来ぬ最後の一線だった。
やがて前ののめりに倒れ込む川原の死体を起こし、衛藤はそれを無縁仏用の敷地に運び込む。
「六文銭の代わりですよ、川原さん」
衛藤は川原の着物の裾に間島を始末した時に給金を詰め込んだ。
そして踵を返し、栗原と浮浪の少女のもとに帰る。
「栗原さん、無茶をしていなきゃいいな」
少女に栗原が暴力を振るっていないかを心配する衛藤だった。




