5月10日 『アイリス』
一人きりになって、初めての梅雨が訪れた。
昼だというのに、辺りはカーテンを下ろしたようにどんよりと暗く、藍碧の空からは、容赦の無い大粒の雫がバタバタと地面へ降り注いでいた。
俺はふと、赤髪の彼女と初めて出会った夜の事を思い出した。
あの日も、こんな具合に酷い雨だった。あれからもう四年近くが経ったと思うと、何だか急に遠い昔の話みたいに思えてしまって、記憶の輪郭がふわふわと曖昧になっていく。
……いいや、忘れてなるものか。あの悍ましい夜の事を――。
忘れてなるものか。あの幸せに満ちた日々を――。
涙に濡れた向こう側で笑う、彼女の愛くるしい顔を――忘れてなるものか。
「……珈琲でも淹れるか」
誰もいない居間で一人、キッチンへ目を向けながらボソリと漏らす。
呟き癖は、一向に治っていない。何なら酷くなる一方だ。恐らくそれは、一人暮らしという初めて経験する孤独のせいだろう。想像していたのとは少し違って、何というか、身体を濃密に包み込むような、酷く途方もない淋しさだ。
彼女が、「王都の魔術学園を受験したい」なんて言い出したのは、昨年十月頃の事だった。突然妹から切り出された”別居”の申し出に、何故だか失恋にも似た気分を味わったのをよく覚えている。最も、失恋なんてした事がないから、想像上の話に過ぎないのだけれど……。
離ればなれになってまだ三ヶ月も経たないというのに、胸中には余計な心配ばかり浮かんだ。
もし彩音が何処ぞの男を連れてきて、次には「結婚する」なんて言い始めた日には、俺は気を失ってしまうんじゃないだろうか。そんな――父親にも似た気分を味わいながらも、気付けば珈琲が出来上がっていた。
コーヒーサーバーとカップをトレーへ乗せ、縁側へ出てみれば、さっきまでの豪雨が嘘みたいに晴れ間が顔を出していた。
珈琲を注ぎ、一口啜りながら空を見上げると、そこには久方ぶりの虹が架かっていた。
最後に虹なんて見たのは、いったい何時だったろうか……。
そんなふうに記憶を遡りながら、またカップへ口を付けると、鼻へ抜ける香ばしい余韻と共に、娘である彼女の笑顔が再び脳裏へ浮かんだ。
虹――というには、あまりにも酷い泣き顔だったけれど、確かにそれは七色に輝いていたように思えた。
それにしても、俺は何故彼女の事を――。
思った矢先、ポケットの中でスマートフォンが震えた。
通話の着信だった。カップを置いて画面を確認すると、そこには”彩音”と出ていた。
通話開始ボタンをタップし、「もしもーし」とスピーカーへ声を投げる。しかし、返事は無かった。
「……ん? 彩音?」
彼女を呼ぶが、それでも返答は無い。
間違い電話だろうか? もしかすると、ポケットかカバンの中でスマホが誤作動を起こし、勝手に電話がかかってしまったのかもしれない。
俺は今一度「もしもーし」と声をかけた後、「切るぞー」と言ってから、耳から引き剥がした画面をタップしようとした――その時だった。
――祐杜
スマホから鳴ったその声が、俺の頭から記憶の断片を拾い上げる。間違い無く、彩音の声では無かった。もう少し芯の通った、落ち着きのある声だ。
その声は、続けてこう言った。
――やっと、追いついたよ
「……皐姫……?」
名前を呼んだ刹那、スピーカーの奥のほうから、携帯の持ち主と思しき声が鳴った。
――ちょ、アル姉!! 私の携帯で何勝手に……!!
ブツッ。
酷い電子音を立て、そこで通話は切れた。
それが最初の便りだった。彼女は確かに――帰ってきたのだ。
「……おかえり」
俺は空を見上げながら、遠い場所の彼女へ声を送った。