5月9日 『クローバー(白詰草)』
それは、四度目に彼と目が合った日に始まった。
和文化が彩る街――楓宮へ越してきたのは、私がまだ三歳の頃だと聞く。
希望を知らず、愛を知らず、信頼すら知らない私に対して、育ての親であるルフレット叔父さんは、どんな時でも優しかった。
母は既にこの世にはおらず、父は遠い国に住んでいる――と、叔父さんは教えてくれた。
悲しくは無かった。最初から”知らない”のだから、当然と言えば当然だ。でも、叔父さんはそれを悲しい事だと嘆いてくれた。辛い事だと慰めてくれた。その有り難みが分からなかったのが、今となっては心残りでならない。
生活に不満は無かった。叔父さんが居て、私が居る。それだけで満足だった。あの日、あの店の何時ものベンチで、彼に声をかけられるまでは――。
叔父さんは、花屋を営んでいた。
私がお店を手伝うと、叔父さんはニコリと笑顔で褒めてくれた。それが嬉しくて、店の中を小さな身体で駆け回っては、一生懸命働いた。
週末には、決まって二人でパン屋へ出掛けた。楓宮繁華街の奥の奥、狭い路地を曲がった先の、赤い屋根のパン屋さんだ。
叔父さんは珈琲が好きだった。そしてパンも大好きだった。叔父さんが好きな物は、私だって好きだった。珈琲は苦くて飲めなかったけれど、代わりに――と、叔父さんはパンのご褒美をくれた。その週に頑張った分だけ、好きなパンを選ばせてくれたのだ。
初めてクロワッサンを食べた日が、恐らく一度目だったと思う。二度目はメロンパンを買って貰った日で、クリームパンを選んだ日が三度目だ。そして、四度目に何時ものパン屋で”彼の瞳”へ目をやった日、不意に彼はこんなふうに私へ声をかけた。
「……髪、綺麗だね」
背丈も同じくらいの、黒く短めな髪に碧い瞳を見開く男の子は、ぎこちない笑顔を浮かべながらそう言った。
西の生まれである私のブロンドは、この東の国では酷く目立った。
悪目立ちだった。近所に住む同い年くらいの子からは、「変な色だ」と揶揄われた事だってある。だから髪を褒められた時、私は何て返事をすればいいのか分からず、その場で凍り付いてしまった。
次第に彼も不安げな顔になって、何故か「……ごめん」と謝りだす。そこで初めて、私は首を何度か横へ振った。そして言った。
「目、綺麗……だね」
脈絡もなく、思った事をそのまま口にしただけだった。
このパン屋で初めて彼を見つけた時、私は思わず、その碧い瞳に目が行った。綺麗だなと思った。それ以上でも、それ以下でも無かった。気を引きたいとか、声をかけたいだとか、そういうのも一切無かった。それで良かった。
そう、この日までは――。
「……あげる」
そんなふうに彼から差し出されたのは、ちぎりパンの一欠片だった。
大きな大きなちぎりパンだ。四角くくっついた四つのパンのうち、その一つを私へくれると彼は言う。私は少し迷ってから、その香ばしいふわふわを受け取った。
知らないはずだった。希望も、愛も、信頼も――全部無かった私に向けて、彼が最初に手渡してくれたのは、一体どの欠片だったのだろう。それはただの幸運だったのか、それとも大切な一欠片だったのかは、大人になった今の私にも分からない。けれども、間違い無くあの日、あの時に始まったのだ。
後に私を想ってくれた、彼との物語が――。
後に私の物になってくれた、彼と私の物語が――。