9話 ストロベリー・ホリデー
第9話 ストロベリー・ホリデー
冬枝のマンションにさやかが居候するようになってから、それなりに経った。
冬枝は、さやかとの同居生活にもすっかり慣れたというか、麻痺してしまった。
朝、髭を剃っている冬枝の後ろから、さやかが「おはようございましゅ」とパジャマ姿で起きてくる。
寝ぼけ眼のさやかが、冬枝のシェービングクリームで歯を磨こうとするのを止めるのは、冬枝の朝の日課となっている。
「さやか、そっちじゃねえ。お前の歯磨き粉はこっち」
「はひ」
「違う、それは俺の歯ブラシだっつの」
こうも無防備だと、目の前にいるのが年頃の女だということを忘れそうになる。ついでにさやかの髪に寝癖がついていたので、冬枝は軽く撫でてやった。
朝食は、いつも冬枝が自分で作っている。と言っても、トーストにベーコンと目玉焼きを乗せるぐらいだが。
冬枝が淹れたコーヒーを飲み、トーストをかじる頃には、さやかの意識もはっきりしだす。
「冬枝さん。今日は僕、お休みでしたよね」
「ああ。どっか行くのか」
「嵐が『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のビデオを借りたから見に来いって言うので、嵐の家に行く予定です」
「あいつの家か……」
春野嵐は元刑事であり、さやかに代打ちを辞めさせたがっている男だ。何より、臆面もなくさやかにチカンまがいの行為を繰り返している。
「大丈夫ですよ。奥さんも一緒ですから」
「そうか。俺は今日は遅くなるから、夕飯は適当に済ませとけ」
「わかりました」
コーヒー片手に新聞を読む冬枝と、テレビで朝のニュースを眺めるさやか。
――父と娘だよな、我ながら。
43歳の冬枝と、18歳のさやかの同居生活は、こんな調子で至って健全である。弟分たちにだって恥じるところはない、と自負しているのだが。
「兄貴、なんか良い香りしますね。珍しい」
「ていうか、女子みたいな匂いですね」
「こら、土井!」
家事雑用のためにやって来た弟分、高根と土井が、口々にそう言った。
冬枝はがっくりと肩を落とす。
「やっぱり、お前らもそう思うか…」
「もしかして兄貴、さやかさんと…?」
「バカ野郎、んなわけあるか」
冬枝が声を上げると、テレビを見ていたさやかが、訝しそうに振り返った。
ここぞとばかりに、冬枝は弟分たちに愚痴った。
「さやかの奴、キャンペーンに応募したいとかで、俺にまで同じシャンプー使えって言い出したんだよ」
「ああ、あの吉川がCMやってるやつですね」
土井が高根を横抱きにして、「残り香…」と囁いてCMの真似をした。
「さやかさん、意外とミーハーなんですね」
「それだけじゃねえぞ。こいつ、吉川が出てるテレビは全部ビデオに録画してるし、こっちで放送してない番組は、わざわざ東京の実家に電話して録画させてるんだぞ」
「いいじゃないですか、別に!」
さやかが照れて頬を赤くした。
ついでに言うと、冬枝はさやかが電話口で「晃司さんのドライヤー欲しいから、母さんも協力してね」と、家族には吉川のことを「晃司さん」と名前で呼んでいるのが引っ掛かっていた。
――ああいうのが、さやかの好みなのかね。
そういえば、弟分たちにさやかの「好きな人」を探らせたが、結局、不明のままである。脳内の仮想敵に吉川の面影を重ね、冬枝は一人「ケッ」と毒づいた。
「まったく、どこがいいんだか」
「むっ」
さやかは冷蔵庫から氷のうを持ってくると、わざとらしく冬枝の額に押し当てた。
「冬枝さん、やっぱりおでこ、腫れてるんじゃないですか?ガーゼ貼ったほうがいいですよ」
「やだよ、みっともねえ。お前こそ、まだデコが治ってねえんじゃないか」
「こんなの、なんともないです。ほら冬枝さん、動かないでくださいっ」
「バカ、しゃっけえからやめろ」
氷のうを押し合う冬枝とさやかを、弟分2人が目を細めて眺めていた。
てきぱきと部屋の掃除を始めた弟分たちに、さやかが恐縮した。
「いつもすみません。本当は、僕がやるべきなんでしょうけど」
「いえいえ、めっそうもないです!さやかさんはうちの大事な代打ちなんですから、掃除なんかさせたら自分たちが叱られます」
「そうですよ。オレら、これが仕事なんで、さやかさんは気にしないでください」
高根と土井は心からそう言ってくれているのだろうが、自分より年上の男たちを働かせていると、さやかは居心地が悪い。
――僕も、何かできればいいんだけど。
特に、今日のように代打ちの仕事がない日は、余計に肩身が狭い。さやかがやる家事は、せいぜい自分の下着の洗濯ぐらいだ。
やがて、冬枝は弟分2人を連れて、外に出掛けていった。さやかも受験勉強を1時間ほどこなしてから、マンションを出た。
向かう先は、ビルの日陰になって薄暗いボロ家――春野家である。
さやかが引き戸を叩くと、ピンクの革ジャンを着た嵐が、両腕を広げて出迎えた。
「よっ、さやか。ようこそ、我が家へ」
「……お邪魔します」
嵐の家にはいい思い出がないが、見たい映画だったのでつい釣られて来てしまった。ヒゲ面をニコニコさせる嵐にはうさん臭さを感じるものの、嵐の妻である鈴子から「いらっしゃい、さやちゃん」と微笑みかけられると、何だかホッとした。
「あら、さやちゃん。どうしたの、その傷」
「ああ、これですか」
朽木に頭突きされた額には、まだ薄く跡が残っている。さやかが説明する前に、嵐が口を挟んだ。
「ヤクザにケンカ売って、ぶん殴られたんだとよ。冬枝さんがついていながら、この体たらくだ。ダンディ冬枝ならぬ、ダンディ不手際だぜ」
「えーっ?さやちゃん、冬枝さんに殴られたの?」
「違います!嵐さん、ややこしい言い方をしないでください」
朽木の名前を出すまでもないので、鈴子には「チンピラに絡まれた」程度に話した。
「そうなの。可哀想にね、痛かったでしょ」
鈴子はさやかを胸に抱くと、頭をよしよしと撫でた。
――あったかいな…。
嵐は鬱陶しいが、鈴子のことは嫌いになれない。さやかが柔らかな胸に身を委ねていると、嵐がニヤニヤして寄ってきた。
「よかったな、さやか。お前にはないおっぱいの感触だぞ。とくと味わえ」
「……余計なお世話だ」
さやかが嵐を睨み付けると、鈴子が苦笑いした。
「嵐さんって、ヤクザに恨みでもあるんですか?」
さやかがそう尋ねたのは、ビデオを見ている最中、嵐がトイレに立った時のことだ。
鈴子が首を傾げると、黒いヘアバンドでまとめた髪がさらりと揺れた。
「いえ、元警察官なら、暴力団を許せないのは当然ですけど…。嵐さんには、もっと個人的なわだかまりがあるような気がして」
さやかの脳裏には、さやかが朽木に殴られたと聞いた後、急に険しくなった嵐の顔が浮かんでいた。
さっきだって、さやかのケガについて、嵐はいつになく冬枝に対してとげとげしかった。
嵐はヤクザとの間に、何らかの確執があったのではないか。さやかに代打ちを辞めさせようとするのも、そのせいではないか。
鈴子は、壁中に貼ってあるスナップを指差した。
「妹の鳴子については、こないだ話したわね。鳴子のことは、嵐も実の妹みたいに可愛がってたの」
写真の中で、嵐と鈴子と並んで微笑んでいる、儚げな女性。とても仲が良さそうなのに、鳴子だけはこの家にいないことが、さやかも気になっていた。
「あの娘、昔っから悪い男とばっかり付き合っててね。惚れた男の言いなりになるもんだから、とばっちりで補導されるなんてしょっちゅう。男と一緒に万引きしたことまであったわ」
呆れつつも、鈴子の口調には、妹に対する愛情が滲んでいた。
「私と嵐が結婚して間もなく、あの娘はいなくなった」
「いなく…なった?」
「駆け落ちしたの。相手はヤクザだったみたい」
嵐と鈴子が結婚した後、鳴子と3人で花見に行こう、と約束していた。
だが、花見は実現しなかった。満開の桜にさらわれてしまったかのように、鳴子は姿を消した。
それ以来、鳴子とは音信不通だという。タイミングがタイミングだっただけに、鈴子のみならず、嵐もショックを受けたらしい。
「うち、荒んでたからね。私と鳴子、姉妹2人で支え合って生きてきたの。だから、嵐は『俺がお姉ちゃんを取っちゃったから、鳴子はヤクザにたぶらかされたんだ』なんて気にしてるみたい」
「…そうだったんですか」
「さやちゃんには、鳴子みたいになって欲しくないんでしょうね。なんだかんだ言って、さやちゃんのこと心配してるのよ、あいつ」
普段ヘラヘラしている裏で、嵐には嵐の事情があったようだ。しつこくされてもどこか憎めなかったのは、嵐の言動にどこか、優しさを感じていたからかもしれない。
「…鈴子さんも、僕がヤクザの代打ちなんかするのは反対ですか?」
妹を連れて行かれたとなれば、鈴子だってヤクザにはいい印象はないだろう。
すると、意に反して鈴子は「まさか!」と笑って手を振った。
「いいじゃない、さやちゃんが好きでやってることなら。私は応援するわよ」
「本当ですか?」
「鳴子のことだって、私はそんなに心配してないの。あの娘、駆け落ちする前から『貴彦さんがね、貴彦さんがね』って無邪気にのろけてたもの」
貴彦さん、というのが鳴子と駆け落ちしたヤクザの名前らしい。
鈴子はあっけらかんとして言った。
「私だって、嵐と結婚する前は、年上の男と不倫ばっかしてたのよ」
「不倫…え?」
「貧乏だったから、お金のために仕方なく…っていうのは建前で、私がそういう女だったってだけ。軽蔑するわよね」
「いえ、そんなことは」
鈴子はカラッとしていて、不倫の後ろ暗さは微塵も感じさせない。
「だから、さやちゃんがヤクザと手を組んでても、責められる立場じゃないのよ。人生短いんだから、楽しまなきゃ損、損」
でも、と言って、不意に鈴子の瞳が翳った。
その腕がゆっくりと伸びて、さやかを包み込む。ふわっと、優しい香りがした。
「ヤクザが嫌になったら、逃げていいのよ。私はいつだって、ここで待ってるから」
それはまるで、さやかではなく鳴子に言っているかのようだった。鈴子の腕の温もりに、そこはかとない哀しみを感じて、さやかは大人しく抱かれるがままになった。
「……」
さやかがちらりと目線を上げると、障子の隙間からこちらを覗いている嵐と目が合った。その口が「お・っ・ぱ・い」の形に動いたので、さやかは顔をしかめた。
冬枝が荷物を取りにマンションに戻ると、さやかの靴が玄関にあった。
――帰ってたのか。
さやかが嵐の家に行くと聞いた時は少し心配したが、無事に戻ってきただろうか。リビングを見てみたが、さやかの姿はない。
部屋にいるのか、と思ってふとソファを見たら、そこでさやかが横になって寝ていた。
「うわっ」
「……」
冬枝が帰ってきたことにも気付かず、さやかはすぅすぅと寝息を立てている。時間から察するに、昼食を食べて眠くなったのだろう。
それはいいとしても、ここはさやか以外、男しか出入りしない。そんなところで女子が堂々と寝ているのは、いかがなものか、と冬枝は案じた。
――昼寝するなら、自分の部屋で寝りゃいいだろうに。
さやかが無防備なのは相変わらず、というか日々、悪化している気がする。それだけ、冬枝のことを男扱いしていないのだろうが。
――俺だって、別にさやかのことをどうこうするつもりはねえけどよ。
とはいえ、こんな間近でさやかの寝顔を見ることもそうそうない。珍しいので、何となく見入ってしまう。
代打ちとして、裏世界の男たちと堂々と渡り合うさやかも、寝顔はあどけない。黙ってりゃ美人だよな、と冬枝はしみじみその顔を眺める。
つややかな白い頬を、冬枝は指先でつついてみた。
「起きねえな…」
ツンツン、どころか、フニフニしても、さやかは微動だにしない。指先が唇に触れると、怪訝そうに「う~ん…」と口をむにゃむにゃさせたが、起きる気配はない。
温かい吐息が指に触れて、こそばゆいな、などと冬枝が思っていると、弟分2人が気まずそうにこちらを見ていた。
「げっ。いやその、違うぞ、これは」
「………」
寝ているさやかに気を使ったのか、弟分たちは何も言わず、必要なものをまとめて粛々と外へと運んでいった。
――完全にスケベ親父だと思われたな、今のは……。
お前も起きろよ、と冬枝は寝ているさやかの髪をくしゃくしゃっと撫でた。もちろん、そんなことをしても、さやかは一向に目覚めない。
「仕方ねえ奴だな…」
一人ぼやくと、冬枝は着ていた枯れ葉色のジャケットを脱いで、さやかにかけてやった。
最後に、冬枝がさやかの頬をぐりぐりとこねくり回すと、さやかが「うにゅ…」とうめいて眉根を寄せた。それを見ていたら、冬枝は何だか笑ってしまった。
外に停めた車では、高根と土井が冬枝が来るのを待っている。
「兄貴のあんな幸せそうな顔、初めて見たなあ」
「しっ。見なかったことにしろよ、土井」
という弟分たちの会話を、冬枝が知る由もない。
まどろみの中で、さやかは鈴子に抱き締められたことを思い出していた。
快活さの裏に、妹と会えない寂しさを秘めた笑顔。温かいのに切なくて、何も言えなくなるような抱擁だった。
――こんなに近くにいるのに、あなたの心の中までは届かない気がする……。
いつの間にか、自分を抱き締めている相手が鈴子ではなく冬枝になっていることに気付いた瞬間、さやかは夢から覚めた。
「……っ!?」
ガバッと跳ね起きたさやかは、バクバクと高鳴る胸を手で押さえた。
妙に気恥ずかしくて、慌てて周囲を見回してしまう。
――夢か……。
どれくらい寝ていたのだろう。誰もいないリビングの時計を見上げると、午後3時を回ったところだった。
「寝すぎちゃったな……」
さやかは元々、夜型である。それを、冬枝に合わせて朝から起きているため、昼になるとたいてい眠くなってしまう。
「…あれ?」
ふと見ると、さやかの上に見慣れた枯れ葉色のジャケットがかけられていた。どうやら、さやかが寝ている間に、冬枝が一旦帰ってきたようだ。
――起こしてくれればいいのに。
冬枝の上着を羽織っていたせいで、あんな夢を見たのだろうか。思い出すと心臓が爆発しそうになるので、さやかは首を振って夢の残像を追い払った。
コーヒーでも飲もうかな、とおもむろにソファから立ち上がったさやかは、冬枝の部屋の扉が半開きになっているのに気付いた。
――開いてる……。
何となく吸い寄せられたのは、そこが普段は開かずの間とされているからだった。
掃除担当の高根からも「兄貴の部屋には入っちゃダメですよ」と釘を刺されている。家事全般を担っている弟分たちですら、冬枝の部屋には入れない。
――冬枝さん、ちゃんと掃除してるのかな。
さやかはそっとドアを開くと、冬枝の部屋へと足を踏み入れた。
室内は広く、整然としていた。セミダブルのベッドに、本やビデオが並んだ棚。部屋の隅には金庫らしきものもあり、これがあるから人を入れないのかな、とさやかはぼんやり思った。
ダイヤル式の金庫のそばに、細長い袋が立てかけてある。さやかは、実家の父親の部屋にあるゴルフクラブを連想した。
――ゴルフクラブにしては、時代がかった袋だけど。
冬枝がゴルフに行くなんて、イメージがない。極道にもいろいろ付き合いがあるのかな、などと考えながら袋をするりとほどくと、信じられないものが出てきた。
――日本刀。
立派な柄に模様の入った鍔、真っ白な鞘。それは、時代劇に出てくる刀そのものだった。
刀はずしりと重く、片手では持てない。少しだけ鞘から抜いてみると、キラリと光る刃が覗いた。
「さやか?」
「うわっ!」
驚いて振り返ると、さやかの背後に冬枝が立っていた。
「何やってんだ、こんなところで」
「あの…えーっと」
さやかがしどろもどろになっていると、冬枝が剥き出しの日本刀に気付いた。
「こら、危ねえだろ」
「あ…」
「まーた寝ぼけてんのか。俺の部屋に入るなって、高根が言ってただろ」
「すみません」
冬枝はさして怒る様子もなく、こともなげにさやかの手から日本刀を取った。
「それ…本物ですか?」
「ん?ああ」
冬枝は、日本刀を手早く袋にしまった。
「極道なんかやってると、こういうモンを振り回すこともあるんだよ。ま、今はサツがうるさいから、滅多に使わねえけどな」
そう冬枝は言ったが、一瞬見た刀身は、さやかの顔が映るくらい磨き込まれていた。
さやかはかつて、嵐が言っていたことを思い出した。
「冬枝さんに、前科があることは知ってるか。20代の頃に人を斬って、ムショに入ってる」
それを思うと、目の前の日本刀から、底知れぬ何かが滲み出ている気がした。
「竹光とはいえ、触ればケガするからな。他にも危ないモンがごちゃごちゃしてるから、俺の部屋には入るなよ」
「…はい」
日本刀を見つめる冬枝の目が虚ろな気がして、さやかは少し怖くなった。
嵐には嵐の事情があったように、冬枝にもまた、さやかの知らない裏の顔があるのかもしれない。
冬枝の部屋から出ると、真昼のリビングが白く浮かび上がって見えた。
――なんだか、別世界から戻ってきたみたい。
さやかはふと、今朝に冬枝と交わした会話を思い出した。
「冬枝さん、今日は遅くなるって言ってませんでしたっけ」
さやかが尋ねると、冬枝はさやかを指さした。
「お前の肩にかけているものを取りに来たんだよ」
「…ああ」
さやかは、冬枝のジャケットを羽織りっぱなしだった。返そうとしてジャケットを脱ぐと、内ポケットから何かが落ちた。
「ん?」
拾おうとしたさやかの目に入ったのは、『スナックやちよ』と書かれた紫色のマッチ箱や、『また来てね❤なおみ』『お待ちしてます じゅんこ』と手書きされた名刺の束だった。
「あっ。何でもない、何でもないぞ」
「………」
冬枝は慌てて拾い集めたが、さやかが冷たい目でこちらを見ている。
「兄貴の行きつけは『五月雨』っスよ、さやかさん」
「バカッ、土井てめえ、余計なこと言うんじゃねえ」
いつの間にか来ていた土井が、にやにやしながら引っ込んでいった。
「………」
さやかは仏頂面でジャケットを冬枝に突き出すと、「冬枝さん」と言った。
「ん?」
「今日も飲みに行かれるんですか。これから」
「あ?ああ、まあ」
「僕も行きます」
さやかが意外なことを言い出したので、冬枝は目を丸くした。
夕方までの時間つぶしに、さやかは雀荘『こまち』で打っていた。
嵐と会うと面倒なことになる、という理由で一時期『こまち』は避けていたが、結局、どの雀荘に行こうが嵐がついてきたため、さやかは諦めて『こまち』に戻っていた。
「さやか、頭からツノが生えてるぞ」
春野家での映画鑑賞に続けて、今日は一日中、嵐と隣り合わせである。愛想を使う気にもならず、さやかはぶっきらぼうに答えた。
「ツノなんか生えてません」
「なら、これから生えてくるんだな。あ、それロン」
「………」
苛立ったさやかが卓を拳で叩くと、嵐が「お行儀悪ぃぞ」とおどけた。
「なんだ?ダンディ冬枝、ほろけでたか?」
「なんですか」
「嫉妬の鬼」
嵐がしかめっ面にツノの仕草でさやかの表情を揶揄したので、さやかはそっぽを向いた。
「別に、嫉妬なんかしてません」
「そうだよなー。花の乙女がなびくにゃ、枯れすぎだよなあ、43歳は」
嵐のわざとらしく肩をそびやかす仕草が、妙に癇に障る。
さやかが卓を変えようと席から立ちかけると、嵐が急に真面目な顔で「今日はありがとな、さやか」と言った。
「何がですか?」
「ビデオ。さやかがうちに来てくれて、鈴子、嬉しそうだったからさ」
「ああ…」
別に、映画に釣られて行っただけで、感謝されるようなことではないのだが、とさやかは怪訝がった。
「鈴子さ、あんま外に出たがらねえんだよ。鳴子が家に帰ってくるかもしれないから、って」
「え…」
「家にこもってばっかじゃ暗すぎるから、俺がしょっちゅう旅行に連れ出してるけどさ。さやかがいると、鳴子が戻ってきたみたいで、気が紛れるんだろ。あいつも」
よかったら、また家に遊びに来てくれないか、と言われて、さやかは素直に頷いた。
「ええ。僕で良ければ、ぜひ」
「じゃ、次は3人でアダルトビデオでも見ようぜ」
「………」
くだらない冗談には閉口するが、鈴子を想う嵐の気持ちはさやかにも分かった。
――明るく振る舞ってても、本当は深く傷付いているのかもしれない。
目には見えない孤独を抱えて生きている。嵐も鈴子も――或いは、冬枝や、さやかも。
「さやかさん。お迎えにあがりました」
夜になると、高根が車で迎えに来た。冬枝と土井は、先に店に行っているらしい。
スナック『五月雨』は、酔客たちですでに賑わっていた。
「おー、さやか。本当に来たのか」
「お疲れ様です、冬枝さん」
カウンターに座る冬枝の前には、氷の入ったグラスにウィスキーが注がれていた。
「お前も何か飲むか」
「いえ…。僕は遠慮しておきます」
「相っ変わらず真面目だな」
冬枝は既に、アルコールが回っているようだ。
――帰ったら晩酌もするくせに、飲み過ぎじゃないかな。
さやかはちょっと心配になったが、冬枝が平然としているので、何も言えない。
酒を飲まないさやかと運転手の高根は、常連客に遠慮して、奥のボックス席に座った。
「高根さんも大変ですね。運転するんじゃ、お酒飲めませんよね」
「いいんです。自分、酒はそれほど飲みませんし」
「飲めねえんだろ、お前は下戸だから」
もう出来上がっている風な土井が、横から高根にもたれかかった。トレードマークのサングラスが、顔からずり落ちそうになっている。
「土井、お前なあ、少しは遠慮しろよ。すみません、さやかさん」
「いえ…」
高根と土井のじゃれ合いを前にしながらも、さやかはちらちらと冬枝のほうを盗み見ていた。
カウンター席の冬枝は、綺麗なママと談笑している。
「冬さん、久しぶり。マメでだか」
「おー、ママ、久しぶり。マメでだマメでだ」
「最近、全然うちに遊びに来てくれなかったじゃないの。ほろけでたんじゃないの」
「なもなも、そんたことさね。それより、何かこしゃけてくれねえか」
「ああ、こさ、ばっけあるのよ。ほら」
ここまでは何となく分かったが、それ以降は意味が取れなくなった。さやかが彩北市にいたのは5歳までなので、本格的な方言は聞き取れない。
――『ばっけ』が何だかわかんないし。
何より、冬枝とママが親しげに喋っている様を見るのが、想像以上に耐えがたかった。
さやかの険しい表情を見た高根と土井が、こっそり顔を見合わせる。
「あらー、何だかまずそうな雲行き」
「さやかさん、何か食べませんか。ほら、イチゴありますよ」
高根がイチゴの盛り合わせをすすめると、さやかはそこから一つ、また一つと口に運んだ。
イチゴをぱくぱく頬張りながら、さやかは冬枝を遠くに感じた。
――冬枝さん、楽しそうだな。
酔いが回ったのもあるのか、冬枝はママとお国言葉で盛り上がっている。もはや、冬枝が何の話で笑っているのか、さやかにはさっぱり分からない。
冬枝は、さやかがいることなど、すっかり忘れてしまったようだ。さやかの胸に、苛立ちと虚しさが募った。
――来なきゃ良かったな…。
というか、なんで来たんだろう、とさやかは今更、疑問に思った。雀卓のないスナックなんて、何の用もないのに。
「やだよ、カラオケなんて。嫌いだって言ってんだろ」
「そう言って冬さん、一度マイク握ったら放さないじゃない」
「そりゃ、ママがどうしてもって言うから…」
浮かれた様子で冬枝がママとカラオケセットの前に向かうにあたって、さやかは我慢の限界を迎えた。
「僕、帰ります」
「あっ、じゃあ、車出しますよ、さやかさん」
「いえ、歩いて帰りますから、大丈夫です。高根さん、土井さん、お先に失礼します」
おやすみなさい、と言って、さやかは2人を振り返らずにさっさと『五月雨』を出た。
東京と違って、こちらの繁華街は名ばかりで、店の外はしんと静まり返っている。ネオンライトもまばらな夜道を、さやかはてくてくと歩いた。
――どうして、こんなにむしゃくしゃしてるんだろう。
おじさんが仕事帰りにスナックで飲んでママとふざけ合うなんて、ごく普通の光景だ。それを見て腹を立てる自分のほうがおかしい、とさやかは認める。
冬枝が上機嫌なんだから、いいことじゃないか。そのはずなのに、さやかは「ツノが生えそう」になっている。段々、自分が嫌になってきた。
――冬枝さんのバカッ!
さやかが腹立ちまぎれに足元の石を蹴ると、石は一直線に飛んで、前方を歩いていたサラリーマンのふくらはぎに当たった。
「いてっ!」
「あっ…」
人影も少ない路上では、誤魔化しようがない。すぐに犯人がさやかだと分かったサラリーマンは、ずかずかとこちらにやって来た。
「ねえちゃん、何すんだ」
「す、すみません」
「あぁ?」
どうやら、相手は酔っているらしい。酒臭い息を吹きかけられ、さやかは顔を背けた。
やがて、相手が大声で何かまくしたて始めたが、酔っているのと訛っているのとで、何を言っているのかまるで分からない。
「すみません。じゃ、失礼します」
さやかはそう言って場を切り上げようとしたが、酔っ払いから腕を掴まれた。
「痛っ…」
酔っ払いが意味不明の文言を言いながら、さやかの腕を引っ張る。放してください、と言って抵抗するが、びくともしない。
通行人たちは皆、浮き足立っていて、さやかの危機に気付いてくれそうにない。酔っ払いに腕をぐいぐい引かれて、やめてくださいっ、とさやかが叫んだときだった。
「えっ?」
突風が吹いた。
酔っ払いの身体が、3メートルぐらい後ろに吹っ飛んでいった。
ズザザザッ、と音を立てて、酔っ払いがアスファルトに転がる。ふと見ると、さやかのすぐそばに、酔っ払いを殴り飛ばした拳が伸びていた。
「…冬枝さん!」
「ったく、なんで一人でほっつき歩くんだよ。危ねえだろうが」
冬枝はさやかの肩を抱くと、くるっと回れ右して、来た道を戻り始めた。
いきなり肩を抱かれたことにさやかは驚いたが、おずおずと礼を言った。
「あの…ありがとうございます」
「んー?いいってことよ」
何となく、呂律が怪しい。やはり、冬枝は酔っ払っているらしい。
――公衆の面前で、いきなりカタギを殴っちゃったもんな…。
しかも、明らかに手加減なしの全力パンチだった。さやかは、あの酔っ払いが生きていることを願うしかなかった。
このまま『五月雨』に戻るのかと思いきや、冬枝は人気のない路上で足を止めた。
「?どうかしましたか、冬枝さん」
「………」
冬枝はくるりとさやかに正面を向かせると、そのまま、がばっと抱き締めた。
「!!!??ふっ、冬枝さん!?」
「さやかが逃げねえように、こうして捕まえておく」
「冬枝さん、よ、酔っ払ってるでしょ!?」
冬枝はフフフと笑うと、さやかを抱く腕に力を込めた。
冬枝の体温が伝わるほど身体が密着して、さやかは顔が真っ赤になった。
――ど、どうしてこんなことに?!
さやかがほぼ一人で完食したイチゴとか、春野家で観た『バック・トゥ・ザ・フューチャー』とか、冬枝の部屋にあった日本刀とか、関係ない記憶が渦になって脳内を回る。
今日は、鈴子にもこんな風に抱き締められた。優しく、慈しむようだった鈴子と違って、冬枝の腕の中は熱くて、力強くて、身動きが取れない。
周囲には、2人を照らす街灯もない。このまま、誰も見ていない夜の闇の中で抱き合っていたら、気が変になってしまいそうだった。
「さやか」
耳元で名前を呼ばれた瞬間、さやかの中で何かが爆ぜた。
「ロンッ!」
高らかに叫ぶと、さやかは麻雀牌、ではなく冬枝を突き飛ばし、その場から駆け出した。
足がもつれて、うまく走れない。駆け出す前から、息があがっている。
―― 一萬、二萬、三萬、四萬…!
さやかは散り散りになりそうな理性を繋ぎ止めるために、必死で頭の中で牌を並べた。
冬枝がどんな顔をしていたのか、恥ずかしくて振り返ることが出来ない。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ…」
どこをどう歩いてきたのか、もう思い出せない。冬枝のマンションに戻ると、さやかは玄関にへたり込んだ。
それほど長い距離を走ったわけでもないのに、足が震えている。夜風にあたったはずの頬が、信じられないぐらい熱い。
――どうしちゃったんだろう、僕は……。
ドアにもたせかけた身体に、まだ冬枝の腕の感触が残っている気がする。着替えなきゃ、シャワーを浴びなきゃ、数学の参考書もやらなくちゃ、と自分を急かしても、うまく現実に戻ってこられない。
――冬枝さんで頭がいっぱい……。
スカートの中がじわりと汗ばみ、思わず内股を擦り合わせる。さやかはしばし、冷たいコンクリートの上で膝を抱えるしかなかった。
「ふんふんふーん…」
ほろ酔い加減でシャワーを浴びて着替えると、冬枝はリビングの明かりを消した。
いつもは晩酌する時間だが、今日は外で少し飲み過ぎた。いつになくハイペースになったのは、さやかがそばにいたせいかもしれない。
――そういやあいつ、ちゃんと帰って来たかな。
さやかと、店の前で別れるまでの記憶がおぼろげだ。玄関に靴があるので、無事に帰宅しているのは分かったが、何となく気になった。
「………」
部屋に入ると、さやかはベッドですやすや眠っていた。顔が見たくなったので、冬枝は忍び足でベッドに近付いた。
自分からスナックに行くと言ったくせに、さやかは途中で帰ってしまった。酒も飲まず、イチゴをたらふく食べて帰った、と弟分たちからは聞いている。
――ひょっとして、妬かせたかな。
あそこのママは美人だから、つい冬枝も饒舌になった。さやかは、それが気に入らなくて、車も使わずに帰ったのかもしれない。
――めんけぇ奴だな。
日中、昼寝しているさやかにそうしたように、冬枝はまた、さやかの頬に手を伸ばした。吸いつくような肌の感触に、つい何度も触りたくなる。
頬だけにとどまらず、さやかの唇をつーっとなぞってみる。薄く開いた口元に、指でもくわえさせてやりたくなる。
「すぅ……すぅ……」
昼間同様、いくら触っても、さやかはちっとも起きない。味をしめた冬枝は、こっそりベッドの中に滑り込んだ。
横からぎゅっと抱き締めると、さやかはびっくりするほど小さかった。腕の中にすっぽり収まってしまうようで、このままさらってしまおうかな、なんて思ってしまう。
嵐はペチャパイだ何だと言っていたが、こうして抱き締めてみると、見た目よりある。身は薄いが、柔らかさは申し分ない。
――いいな、さやかは。小さくてやっこくて、あったかくて……。
さやかの温もりが、冬枝の全身に伝わる。放したくなくて、つい抱く腕に力が入る。
2人分の重さに、ベッドが軋んだ。その音を聞いたら、もう、よからぬことをしてしまおうかな、という気分になってきた。
――こんなにめんけぇんだから、俺のものにしたくなるのはしょうがねえだろ。
なめらかな黒髪に顔を埋めるのも、気持ちが良い。さやかから薫るブローコロンの香りを嗅いだ瞬間、冬枝の脳裏に吉川晃司のCMが蘇った。
――これじゃ夜這いじゃねぇか!
吉川のおかげで我に返った冬枝は、慌ててさやかから離れると、ベッドから出た。
酔っていたとはいえ、さやかに夜這いしかけるなんて、自分が信じられない。何より、こんなことをしてしまっては、冬枝とさやかの信頼関係は粉々に壊れてしまうだろう。
恐る恐るさやかの顔を覗き込むと、さやかは安らかな寝息を立てていた。
「………」
大の男が自分のベッドに忍び込んだというのに、さやかはぐっすり寝入っている。
――もうちょっと警戒心を持てよ…!
もし冬枝が正気に戻らなかったら、とんでもないことになっていた。さやかが気付いていないことにホッとするのも姑息なようで、冬枝は複雑な気持ちになった。
さやかはひっそりと、溜息を吐いた。
昼食のあと、リビングで英字本を読んでいたが、内容がまるで頭に入ってこない。
――どうしても、ゆうべのことを考えてしまう。
昨夜はいつまでも心臓が暴れ回っていて、さやかは眠れる気がしなかった。だが、逆に疲れたせいか、実際はあっという間に眠りに落ちてしまった。
それは良かったのだが、何やら変な夢を見ていたような気がする。それも、冬枝が出てくる、なかなかにハレンチな、言葉にするのも恥ずかしいような……。
蘇りそうになった記憶を封じ込めるように、さやかは「緑一色!清一色!混一色!字一色!」と呪文を唱えた。
おまけに、朝目覚めたら、何だか自分から冬枝の匂いがする気がした。昨夜はちゃんとシャワーも浴びたから、そんなはずはないのに。
――本当に、僕はどうかしちゃったのかな。
昨夜、路上で冬枝に抱き締められたときに、さやかの中の何かが壊れてしまったのかもしれない。
いや、そもそも、あれは本当に現実の出来事だったのだろうか。あれも夢だったのではないか、とさやかが疑っていると、玄関のドアが開く音がした。
「さやか。『タロー』のケーキ買ってきたぞ、食わねえか」
冬枝はいつになくニコニコしながら、近所のケーキ屋の袋を持っていた。
「ありがとうございます」
「今、コーヒー淹れてやるからな。先に食ってていいぞ」
イチゴの乗ったケーキをテーブルの上に置くと、冬枝はそそくさと台所に向かった。
――なんか、ご機嫌取りをされているような気がする。
冬枝は、さやかに後ろめたいことでもあるのだろうか。思い浮かぶのはスナック『五月雨』での光景だが、冬枝がスナックのママと仲良くしたぐらいで、さやかに気を遣う筋合いはあるまい。
むしろ、昨夜は酔っ払いに絡まれたところを、冬枝に助けてもらった。感謝こそすれ、機嫌を取られる覚えはない。
――僕の思い過ごしか。
「ほれ、お待たせ。冷めないうちに飲めよ」
冬枝が、コーヒーカップを2つ持ってきた。その手に、湿布が貼られているのを見て、さやかは苦笑した。
――あんな力いっぱい殴ったりするから。
「冬枝さん」
「んっ?」
「お酒、あんまり飲み過ぎないほうがいいですよ」
すると、冬枝が「ぐふっ」とコーヒーにむせた。
「大丈夫ですか、冬枝さん」
「だ、大丈夫、何でもねえ…」
冬枝は何故かうろたえながら、「さやか」とうかがうようにこちらを見た。
「はい?」
「お前その、ゆうべのこと……」
さやかがきょとんとしていると、冬枝は「…いや、やっぱいい」と言うのをやめた。
「……」
「……」
気になるような、口に出したらまずいような、微妙な雰囲気が互いの間を漂う。
イチゴのケーキと、コーヒーの苦みで、さやかと冬枝はもろもろの想いを飲み下した。