7話 飛んで火に入る夏目さやか
第7話 飛んで火に入る夏目さやか
麻雀賭博はもっぱら夜に行われるため、さやかは日中、図書館で受験勉強をしたり、雀荘で打ったりしているらしい。
雀荘『こまち』は、さやかに代打ちを辞めさせたい春野嵐が根城にしているため、最近は避けているようだが――それでも、雀荘通い自体はやめられないようだ。
そんなさやかが、今日は珍しく、居候している冬枝のマンションにこもっている。自室から出てこないところを見ると、勉強中だろうか。
「兄貴。さやかさん、ノックしても返事がないんですけど」
「あ?」
弟分の高根が、昼食を作った時のエプロン姿のままで冬枝に告げた。
「これから夕飯の買い出しに行くので、さやかさんも一緒にどうかな、と思いまして。さやかさん、スーパーに行ってみたいって言っていたので」
「そうか」
こちらに来て日が浅いさやかは、地元のスーパーにまだ行ったことがないらしい。
家事や買い物は高根たち弟分の仕事だが、さやかには身の回りのものなど、男には頼めない用事もあるだろう。
冬枝はソファから立ち上がると、さやかの部屋のドアをノックした。
「おい、さやか。買い物行かねえか」
「………」
高根の言う通り、反応がない。何度か呼び掛けてみたが、なしのつぶてだった。
焦れた冬枝は、「さやか。入るぞ」と言って、ドアを開けた。
さやかは、こちらに背を向けて机に向かっていた。
勉強しているのかと思いきや、ヘッドフォンを着けている。
――なんだ、聞こえてなかったのか。
さやかはよほど集中しているのか、背後に冬枝がいることにも気付いていない。冬枝が顔を近づけてよく聞くと、さやかはぶつぶつと、何かの歌を口ずさんでいる。
「何聴いてるんだ?」
「…?…えっ?うわっ!」
ようやく冬枝の存在に気付いたさやかが、驚いて椅子から飛び上がった。
「おい、そんなにビビるなよ」
「ふ、冬枝さん。いつからいたんですか?」
「何回呼んでも返事がないから、入らせてもらった。高根が困ってたぞ」
「すみません…」
冬枝は、さやかの机の上に演歌のカセットテープが置かれているのを見つけた。
「ふーん。若いのに、渋い趣味してるな」
「……っ!これはその……」
さやかはカセットテープを引き出しに押し込むと、慌ててまくしたてた。
「僕の好きな人が、こういうの聴いてるらしくて…」
「えっ?」
「えっ?」
冬枝とさやかは、呆然と見つめ合った。
――しまった!
口元を押さえたのは、さやかである。自分で、自分の発言が信じられなかった。
高校ではよく、クラスメイトと恋愛の話題になった。さやかは麻雀にしか興味がなかったが、「好きな人がいる」と匂わせるだけでも場の空気を壊さずに済む。そのため、答えに困ると「好きな人が、麻雀好きなんだ」などと言ってお茶を濁していた。
つまり、冬枝の前でとっさに「好きな人」などと言ってしまったのは、その頃の名残だ。別に冬枝その人を「好きな人」と指名したわけでもないのだから、こんなにどぎまぎする必要はない。
――っていうか、冬枝さんは僕の『好きな人』じゃないし!
様々な感情を渋滞させているさやかに対し、冬枝の反応はあっさりしていた。
「なんだ、さやかも色気づいたもんだな」
「えっと……はい」
「高根が、買い物一緒に行かねえか?ってよ。行く時は呼ぶだろうから、返事してやれよ」
「あ、はい」
とまあ、平静を装ってさやかの部屋を出た冬枝だったが、内心は穏やかではなかった。
――誰だ、さやかの『好きな人』って。
冬枝は台所に弟分2人を集めると、緊急会議を開いた。
「えー、さやかさんの好きな人?アニ…」
「案外、身近な人間かもしれませんよねえ。なあ土井!!」
高根に口を塞がれて、土井がサングラス越しにジト目で睨んだ。
そんな2人に、冬枝が疑いの目を向ける。
「まさかてめえら、俺の見てねえところでさやかといちゃついてるんじゃねえだろうな」
「とんでもない!さやかさんは兄貴の大事な代打ちなんですから、そんな馴れ馴れしい口利けないですよ」
「そうですよ。俺、彼女にするなら、もっと明るい娘がいいし」
冬枝と高根から同時に睨まれて、流石の土井も「えっと」と口をどもらせた。
「あー、あいつじゃないですか?『こまち』の」
「ああ、春野嵐か。確かにあいつ、さやかさんに付きまとってるもんな」
高根が「でもあいつ、結婚してなかったか?」と言ったので、冬枝は不安になった。
――万が一、さやかの好きな相手が嵐だったら……。
さやかが昨今流行りの不倫に走ってしまうのも、冬枝的にはいただけないが、もっとまずいことがある。
嵐に惚れてしまったら、さやかは嵐の言うがままに、代打ちを辞めてしまう恐れがある。
たとえ、さやかの意中の相手が嵐ではなかったとしても、同じことだ。ヤクザのシノギでは、使っている女がよその男に惚れて、支配下から抜けてしまうことはよくある。
それに、さやかは麻雀でこそ男顔負けの腕前を誇るが、根は真面目な女子だ。悪い男に騙されて泣き寝入り、なんて目に遭わせるわけにはいかない。
「悪い男筆頭は、兄貴のような…」
「口にハエが止まってるぞ、土井!!!」
高根が思いっきり土井の顔下半分をビンタしたため、土井が痛みにのたうち回った。
「演歌を聴いてる、ってことは、さやかより年上の野郎か?代打ちの誰かか…」
冬枝が言えた立場ではないが、麻雀賭博で食っている人間なんて、ろくな奴がいない。そんな穀潰しにさやかが食い物にされるなど、想像しただけで冬枝はおぞけをふるった。
「てめえら、買い物ついでにさやかの好きな奴が誰なのか、聞き出してこい」
「分かりました」
「兄貴が聞いたほうが早いんじゃないですか?」
土井がまた生意気な口を利いたので、高根が横から叩いた。
「俺が聞くより、年の近いお前らのほうが、さやかも喋りやすいだろ。頼んだぞ」
そう言って、冬枝は高根たちとさやかを送り出した。
――さやかの奴、いつの間に男なんて出来たんだか。
嵐は論外としても、あの麻雀バカにも、麻雀以外に熱を上げる存在がいたわけだ。
微笑ましいと思えないのは、代打ちに障りがあっては困るからだ。もし冬枝が、さやかの意中の相手を始末したとしても、そこには私情なんて挟まっていない。
自分に言い聞かせながらも、遊園地で見たさやかの笑顔が瞼の裏から離れなかった。
「ぶっちゃけ、さやかさんって兄貴のこと、どう思ってるんですか?」
スーパーでの買い物帰り、高根の運転する車中である。
高根が「なるべく自然な流れでさやかさんを誘導しよう」とあれこれ考えていたというのに、土井はいきなり直球で聞いてしまった。
助手席でマイペースに腕を組む土井を、高根は横目で睨み付けた。
後部座席のさやかからは、至極冷静な答えが返ってきた。
「立派な方だと思ってますよ。お二人だってそうでしょう?」
「まあ、そうなんですけど…」
高根は「黙ってろ」と土井を目線で制した。
「そうですね、確かに、兄貴は立派な人です。兄貴に拾ってもらわなかったら、自分たち、とんでもないクズになってたと思いますよ」
「お二人は、冬枝さんにスカウトされてヤクザになった…ってことですか?」
「はい。オレ、ケンカがとんでもなく強かったもので」
土井が堂々とホラを吹いたので、高根はすかさず「違うだろ」と突っ込んだ。
「自分たち、金なかったんで、若い頃からケンカとか盗みばっかりしてたんです。それで組に入って、兄貴に面倒見てもらうようになったんです」
「オレら、東京にいたこともあったんですよ。兄貴が東京の事務所に行くってんで、ついていったんです」
「冬枝さん、東京にいたことがあるんですか?」
さやかは、ちょっと意外に思った。
――それなら、どうして東京を離れたんだろう。
東京のほうがシノギも多く、稼ぎはいいはずだ。白虎組の本拠地は彩北市とはいえ、冬枝本人にとっても、東京のほうが住み良かったのではないだろうか。
「でも、東京にはいい思い出ないですよ」
最初は都会に出られて、浮かれていた土井たちだったが、現実は厳しかった。
「『お前ら、訛ってるぞ』って、東京の奴らから笑われたんです。オレら、自分では訛ってないつもりだったんで、めちゃくちゃショックで」
田舎者、とバカにされるのが悔しくて、高根と土井は、訛りを直そうと躍起になったという。
「でも、そしたら兄貴が言ってくれたんです」
訛りを直すよりも、胸張って堂々と喋れ。そうすりゃ、誰も文句なんか言わなくなる。冬枝は、そう言って2人を励ましてくれた。
「それから、自分たちは兄貴一筋ですよ。何があっても、兄貴についていきます」
誇らしげに語る高根の気持ちが、さやかは分かる気がした。
――冬枝さんらしいな。
「お前は俺の子分じゃねえんだから、俺の前でかしこまんなくたっていい。さやかはさやかだ」
さやかが『僕』と言うのを躊躇った時、冬枝はそう言って笑った。
冬枝のおかげで、東京にいる時よりも、さやかは自分らしくいられる。自分の中に、気持ちいい風が吹き抜けているようだ。
バックミラー越しにさやかの表情を眺めていた土井が「やっぱ兄貴だな」と呟いて、高根から肘で小突かれた。
マンションの駐車場近くまで来ると、高根が慌てて車をUターンさせた。
「どうしたんですか?高根さん」
「いや、ちょっと忘れ物をして」
さやかが駐車場のほうを振り返ると、黒のジャガーのそばで、冬枝が男と話しているのが見えた。
キラキラと光を反射する高級腕時計に、さやかは見覚えがあった。
――朽木だ。
冬枝と同じ白虎組の組員だが、朽木はやたらと冬枝に絡む。『こまち』での対決のように、また冬枝に無茶な勝負でもさせようというのではないか、とさやかは案じた。
「高根さん。止めてください」
「えっ。いや、でも、さやかさん」
「止めないなら、飛び降ります」
さやかが車のドアを無理矢理開けようとしたので、高根が「わ、分かりました!」と言って急ブレーキをかけた。
さやかはすかさず車を降りると、駐車場の冬枝たちの元へと向かった。
2人に近付いたところで、高根たちによって物陰に引っ張り込まれた。
「なんですか?」
「なんですか?じゃないですよ、今行っちゃダメです、さやかさん」
「なぜですか?」
高根と土井は、気まずそうに口をつぐんだ。
さやかは冬枝たちの会話に耳を傾けた。
「最近、羽振りが良いそうじゃねえか、兄弟。例の麻雀小町、負け知らずだって?」
「てめえに褒められたって、嬉しくねえよ」
僕も嬉しくない、とさやかは心の中で冬枝に同調した。
朽木はアルマーニを着込んだ肩をそびやかせた。
「褒めてなんかねえよ。そんだけ稼いでるんだったら、出すもん出せるだろ、って言ってんだ」
「………」
冬枝は憮然と口を一文字に結ぶと、黙ってスーツの懐から封筒を差し出した。
朽木は当然のように封筒を受け取ると、中身を数えて口笛を吹いた。
「金のなる木を手に入れて良かったな、冬枝。来月も、この調子で頼むぜ」
「うるせえ。とっとと失せろ」
朽木は戦利品とばかりに封筒を片手に掲げると、上機嫌にジャガーに乗り込んだ。
――冬枝さんが……朽木に金を。
思いもよらない現場を目撃してしまい、さやかは呆然としてしまった。
冬枝は、朽木に借金でもあるのだろうか。それにしては、冬枝は渋々金を渡していた気がする。だいたい、組員同士で金をカツアゲする、というのもおかしな話だ。
――でも、これで分かった。
さやかが代打ちとして稼いでいるというのに、冬枝の元には金融会社その他からの督促が絶えなかった。ヤクザは金の出入りが多いんだろう、とさやかは思っていたが、実際は朽木にむしり取られていたのだ。
さやかが納得したところで、弟分2人が頭を下げた。
「さやかさん、今のは見なかったことにしてください」
「え…」
「兄貴にもメンツがありますので、どうか他言無用で」
どうやら、高根と土井は事情を承知しているらしい。だが、さやかには打ち明けてくれそうにない。
さやかは尋ねたい気持ちをぐっと堪えて「…分かりました」と言った。
その夜、さやかと冬枝は市内のとあるマンションを訪れた。
このマンションは、まるまる1フロアが裏カジノとなっている。中にはバーラウンジやビリヤード台、ダーツにルーレットなどが並び、着飾った男女が優雅に遊んでいた。
さやかの戦場は当然、雀卓だ。マンションのオーナーに挨拶を済ませると、地元企業の重役や、引退した経営者などと雀卓を囲んだ。
「さやか。すまないが、今日は……」
ここに来る前、冬枝が車の中で、さやかを拝むように手を合わせた。
さやかは冬枝の言いたいことが分かっていたので、柔らかく微笑んだ。
「ほどほどに負ければいいんですよね」
裏社交場のオーナーが、ゲストとして噂の麻雀小町を招きたいと言っている、と聞いた時から、さやかは察しがついていた。
「悪い。お前にとっちゃ不本意だろうが、仕事だと思って堪えてくれ」
「構いませんよ。自分で場をコントロール出来れば、勝つも負けるも同じですから」
そう言いつつ、さやかは自分で自分が不思議だった。
――東京にいた頃なら、絶対に引き受けなかっただろうな。
麻雀が楽しくてならないさやかは、手を抜くなんてつまらないことは出来ない。まして、さやかより年上の男が大半を占める雀荘では、どうしても肩肘に力が入る。舐められたくない気持ちは、さやかを負けず嫌いにした。
今は「わざと負ける」という冬枝の頼みを、抵抗なく受け入れている自分がいる。
――僕も大人になった、ってことかな。
そんな感慨を抱きつつ、さやかは程よく場を盛り上げ、適当なところで手を崩した。
卓には、冬枝もついている。さやかは、さりげなく冬枝の欲しそうな牌を捨ててみた。
「………」
冬枝はさやかの捨てた牌を鳴いたり鳴かなかったりしたが、いずれにせよ和了ろうとはしなかった。本気で打っているふりをしているさやかと違って、冬枝は勝つ気がないのが見え見えだ。
――冬枝さんも、そこそこ強いほうだと思うんだけどな。
捨て牌を見ていれば、さやかは冬枝の手牌が予想できる。客たちは遊びで打っているのもあって、危険牌を無警戒に捨てている。一回ぐらいロンすればいいのに、とさやかは歯痒くなってしまった。
――真面目だなあ、冬枝さんは。
一方、冬枝は、緩んだ笑みを浮かべながら駆け引きの真似事をしている客たちを、苦々しい気持ちで眺めていた。
客たちは「噂の麻雀小町も、経験達者な大人には敵わないみたいだなあ」だの「そんな牌捨てちゃダメだよ。ほら、場をよく見なきゃ」だの、完全にさやかを小娘扱いしている。
――ったく、さやかが本気でかかったら、てめえらなんかあっという間に一文無しだぞ。
さやかは愛想良く「勉強になります」なんて言っているが、冬枝のほうがいたたまれない。
本当は、こんなコンパニオンみたいな真似をさやかにさせたくなかった。ここのオーナーが組長と懇意にしているから、仕方なく引き受けたが――さやかは、どんな気持ちでこの場にいるのだろう。
さっきから、さやかが援護するかのように冬枝に有利な牌を捨てているのも、何らかのメッセージのように思えてならない。大方、冬枝に対する皮肉だろうが。
「さやか、疲れただろ。何か飲むか」
冬枝は半ば強引に切り上げると、さやかを連れて卓を離れた。
バーラウンジで隣に座ったさやかは、冬枝の予想に反して、けろりとしていた。
「冬枝さんこそ、お疲れなんじゃないですか。眉間に皺が寄ってますよ」
「えっ、本当か」
クソ親父とかクソ爺とか思っていたのが顔に出ていたか、と冬枝はちょっと慌てた。
さやかは「ウーロン茶ください」と言って、バーテンダーからグラスを受け取った。
「それにしても、すごい広さですね。1フロア全部、カジノになってるんですか」
「ああ。ギャンブルだけじゃなく、商談や取引なんかもやってるみたいだな」
むしろ、そちらのほうがこの裏社交場のメインだろう。先程の麻雀だって、客たちが賭けていたのはせいぜい2~3万程度だった。
「あ、ゲーセンもある。行ってきていいですか、冬枝さん」
「ん?ああ、いいが」
若い娘が面白がるようなゲームなんてあるかね、と冬枝は怪訝に思ったが、さやかは「最近、麻雀のゲームも増えてきたんです。コンピューター相手に打つのも悪くないですよ」と、にこやかに去って行った。
――相変わらず、超がつくほどの麻雀バカだな。
こちらを舐めくさった親父たち相手に打つぐらいなら、コンピューターと打ったほうがさぞかし楽しいだろう。
冬枝は、マスターに「ウィスキー、ロックで」と注文した。
冬枝がゲーセンまでついてこないのを確認して、さやかは少し安心した。
――冬枝さんの前だと、やりづらいからなぁ。
と言うのも、さやかが今プレイしている筐体は、脱衣麻雀ゲームだからだ。
プレイヤーが勝つたびに画面の美少女が脱いでいく、というハレンチな内容で、こんなゲームを平然とやっている自分を、冬枝に見られるのは避けたかった。
東京のゲーセンではこっそりプレイしていたが、ここなら冬枝以外に知り合いはいないため、気楽に遊べる。美少女たちがきわどい姿になっていくのは忍びないが、さっきのもやもやした麻雀のストレスを発散したかった。
「なんだ、威勢が良かった割には弱いじゃねぇか、お嬢ちゃん」
――この声は。
一瞬、さやかは自分のことを言われたのかと思ったが、その声は少し離れた雀卓から放たれたものだった。
声の主は、ピカピカ光るロレックスの時計を巻いた腕で頬杖をついた。
「大人相手にケンカ売るのは、10年早かったみたいだな。約束通り、今晩付き合ってもらうぜ」
朽木の正面にいるのは、ソバージュをかけた髪を赤いリボンで結んだ、気の強そうな少女だ。
「ふざけないでよ。誰があんたなんかと」
「おいおい、勝負の前に約束しただろ?でなきゃ、俺が負けたら100万払う、って条件とは釣り合わねえ」
朽木はタバコの煙を吐くと、ふんと鼻で笑った。
「お前にだっていい話じゃねえか。この俺に抱いてもらえるなんて、ラッキーだぜ」
気付いた時には、さやかはその場に乗り込んでいた。
「鏡を見てから言ったほうがいいんじゃないですか、朽木さん」
さやかに気付くと、朽木が愉快そうに片眉を上げた。
「麻雀小町じゃねえか。そうか、今夜の賭場はここだったか」
「朽木さん。僕と勝負しませんか」
さやかは、単刀直入に切り出した。
「なんだよ、藪から棒に。冬枝は一緒じゃねえのか」
「僕が勝ったら、そこの女の子は帰してあげてください」
「ちょっとあんた、やめときなよ」
スカジャン少女はさやかの肩を掴むと、「あんたみたいな地味な娘が勝てる相手じゃないって」と言って止めた。
「地味……」
先日、朽木にもファッションを貶された。確かに、真っ赤なスカジャンにチェック模様のスカートを穿いた少女に比べると、ブラウスに紺のセットアップ、というさやかの格好は地味である。
朽木も先日の会話を思い出したのか、にやっと嫌な笑みを浮かべた。
「なんだ、じゃあ、負けたら俺の女になるっていうのか?麻雀小町」
「ええ。いいですよ」
「何言ってんのよ、ヤバいって」
赤い口紅を塗った口をぱくぱくさせる少女に、さやかは「大丈夫ですよ」と言った。
――やっぱり、ゲームよりもこっちのほうが面白い。
権力者相手のお愛想麻雀ではなく、本気の麻雀が打てるとなって、さやかの血が騒いだ。
朽木はロレックスの時計を覗くと、「もう、いい時間だ。先に一回和了ったほうが勝ちでいいか」と提案した。
「ちょっと、なに無茶なこと言ってんのよ」
「構いません」
さやかがあっさり承諾したので、少女はますます焦っている。
「ダメだよ、引きが悪かったら即アウトじゃん。あたしはいいから、あんたはやめときなって」
「ありがとうございます。でも、心配いりませんよ」
さやかは既に、場の牌に目を通していた。特に、朽木の捨て牌は念入りに。
――解はもう見えている。
朽木は、にやにや笑いながら牌をかき混ぜた。
「そんなに、俺の女になりたいか。そりゃそうだな、あんな貧乏ヤクザに尽くしたところで、先が知れてる」
貧乏ヤクザ、の一言が、完全にさやかの闘志に火をつけた。
――この男を叩き潰せるなんて、ここに来た甲斐があった。
事情は知らないが、冬枝から金を無心する朽木のことは、絶対に倒す。駐車場で一部始終を目撃した時から、無意識にそう決めていた。
仕事ではないので、さやかが容赦する理由はない。簡単に和了れそうな形をあえて見送り、さやかは朽木の捨て牌でロンした。
「先に一回和了ったほうが勝ち。ですよね?朽木さん」
さやかが冷ややかに問いかけると、朽木はタバコをぎりっと噛んだ。
「運が良かったな、麻雀小町」
表面上は余裕ぶっているが、この手の男がさやかのような小娘に負けて、悔しくないはずはない。
朽木の眼からは剣呑な気配が滲んでいるが、ギャラリーの目もあって、乱暴は出来ないと踏んだのだろう。『麻雀小町』として招かれたさやかに手を上げれば、ここのオーナーの顔を潰すことになるからだ。
朽木はさやかの傍に寄って来ると、「覚えてろよ。冬枝ごと潰してやる」と耳打ちして去って行った。
――やれるものなら、やってみろ。
朽木の腕前は、少女と対戦した後の場を見ておおよそ見当がついた。朽木はさやかには遠く及ばないし、あれなら、冬枝のほうが強いぐらいだ。
――冬枝さん、朽木にギャンブルで負けた、ってわけではなさそうだな。
そんな理由ではないだろうとは思っていたが、両者の事情の複雑さを思うと、さやかは気持ちが沈んだ。
「すごいね。ホントに勝っちゃった」
少女は「やったー!!」と言って、さやかに抱き付いた。
「わっ」
「ありがとう、ほんっとーにありがと!!」
少女はさやかの胸に顔を埋めて、何度も繰り返した。
「ヤクザ相手にタンカ切ったはいいけど、心の中では、どうしよーって思ってたんだ。おかげで助かったよ」
「いえ…。それより、朽木さんに何かされてませんか」
朽木の女に対する態度は、先日のなかもりやまゆうえんちでの遭遇で十分分かっている。この少女に対しても「負けたら自分の女にする」という条件で勝負させていたようだし、どこまでも卑劣な男である。
「あたしは大丈夫。あいつ、しつこくナンパしてくるから、金を巻き上げてやろうとしたんだけど、このザマ」
少女は「あたしはマキ。あんたは?」と尋ねた。
「僕は…夏目さやかです」
「さやか、今日は本当にありがとう。このお礼はいつか必ずさせて」
「気にしないでください。僕があいつを許せなかっただけですから」
じゃあ、と言って、さやかは冬枝のいるバーラウンジに戻った。
「さやか。遅かったな」
「すみません。麻雀に熱中してました」
嘘はついていない、とさやかは内心で舌を出した。
冬枝は、さやかの顔を見て笑みを浮かべた。
「少しは気が晴れたみたいだな。いい面構えになった」
「そうですか?」
冬枝にそう言われて、さやかはちょっと照れ臭くなった。
翌日、さやかは図書館に来ていた。
テーブルに広がっているのは、牌ではなく、ノートと参考書。握っているのは、点棒ではなくシャープペンシルだ。
こうして日の当たる場所にいると、あの薄暗い裏カジノにいたことが、夢だったかのように思えてくる。
――マキさん、あれから無事に帰れたかな。
マキは化粧をしていたが、さやかと変わらない年頃のように見えた。朽木にケンカを売る辺り、不良の部類に入るのかもしれないが、真っ直ぐな気性の少女だった。
「ごきげんよう」
不意に、鈴を転がすような可憐な声をかけられて、さやかは振り返った。
そこにいたのは、ウエーブがかかった長い黒髪に赤いリボンをつけた、清楚な美少女だった。
グレーのボレロに金色のリボンの制服は、地元では有名なお嬢様学校のものだ。公園の近くに聖書を扱っている書店があり、この女子高の生徒が主に利用している店だ、と冬枝が前に教えてくれた。
「さやかお姉さま。お会いできてうれしい」
美少女から名指しされたものの、さやかは相手に覚えがない。
「えーっと……どこかでお会いしましたっけ」
「ふふふ。この姿ではお分かりにならないかしら」
美少女はポケットから口紅を出すと、くいっと唇に引いた。
ルージュを差した唇に、気の強そうな眼差し。ついでに髪をポニーテールの形に持ち上げてくれたことで、さやかはようやく美少女の正体が分かった。
「……マキさん!?」
「やっと思い出してくれたのね。ふふっ」
マキは、さやかを図書館から公園へと連れ出した。
ベンチで隣同士に座ると、マキが改まって自己紹介した。
「汐見マキ、と申します。これでも、れっきとした聖天高校の2年生ですの。お見知りおきくださいませ」
「はあ…」
マキが差し出した学生証には、確かに『汐見マキ』の名と共に、目の前の美少女の顔写真が貼られていた。
「昨夜お会いしたのは、わたくしの裏の顔。学校には内緒の課外活動でございます」
「つまり、仮面優等生ってことですか」
「お話が早くて、助かりますわ。さやかお姉さまも、わたくしと同類ではなくって?」
「…否定はしません」
尤も、さやかはマキほど極端な表裏ではなかった。マキの「お嬢様」と「不良」の使い分けは、変身と言っていいレベルだ。
「そうよ。わたくし、夜な夜な正義の味方に変身しておりますの」
「正義の味方?」
「この街にも、悪い人はそれなりにいるんですの。しつこいナンパは序の口で、付き合っている女子に暴力を振るうヤンキーや、騙して金を貢がせるジゴロもどき。女の子をお金で買うおじさまなんかも、ね」
マキはそういう男たちに近付き、ケンカでコテンパンにしたり、バッグや服など高額なものを買わせたりして、報復をしているのだという。
「危なくありませんか」
「そりゃもう、危険ですわ。でも、危ないことをしている相手には、危ないことでしか仕返しはできません」
「他にも、手段はあると思いますけど」
すると、マキがぐいっとさやかに身を寄せた。
「さやかお姉さまだって、危ない橋を渡っているじゃありませんか。わたくしを助けてくれた時みたいに」
「あれは…勝てる勝負でしたから」
場の牌に、一定の偏りが見て取れた。恐らく、朽木の混ぜる時の癖なのだろう。朽木は油断しきっていたし、さやかが解を出すのは容易だった。
「あの時の朽木の悔しそうな様子、ご覧になりました?平気そうなふりをしているのが、もう、可笑しくって」
マキがコロコロと笑うと、さやかもつられて笑った。
「ふふっ。マキさんのおかげですよ、朽木の吠え面を拝めたのは」
「でも、さやかお姉さまはどうして朽木と?何か因縁がおありなのでは?」
「それは……」
さやかが言いあぐねていると、マキのほうがパンと手を叩いた。
「分かりましたわ。バーにいたおじさまに関わることですわね」
「えっ。見てたんですか」
さやかは一瞬、かあっと顔に血が上ったが、自分でも何が恥ずかしいのか分からない。
――別に、見られて困ることなんてないはずなのに。
「さやかお姉さまみたいな真面目そうな方が、どういった理由であのカジノにいたのか、気になったものですから」
「まあ…うん。色々あって」
「ええ、深くは聞きませんわ。さやかお姉さまが男に困らされているわけではないなら、わたくしが『変身』する必要はありませんもの」
マキはすっくと立ち上がると、白魚のような手をさやかに差し伸べた。
「さやかお姉さま、これからうちでお茶でもしませんこと?ゆうべのお礼がしたいわ」
「そんな、お礼なんて」
「さやかお姉さまがいなければ、わたくしは今頃、朽木の餌食になっていたでしょう。どうか、お礼をさせてください」
マキの真剣な瞳を見て、さやかは素直にお招きにあずかることにした。
「…分かりました。僕で良ければ、喜んで」
「きゃあっ、マキ、うれしい。ここからすぐ近くですの、さ、行きましょう」
「でも、あの…マキさん、学校は?」
思いっきり、平日の午前中である。
マキはにっこりと「病気でお休みですの」としらばっくれた。さやかは苦笑した。
マキの家に向かう道すがら、さやかたちは雀荘『こまち』の前を通った。
――嵐さんに出くわさなきゃいいけど。
さやかに代打ちを辞めさせようと、新聞記者まで駆使する男だ。また面倒なことになるのは避けたい。
心持ち、辺りを警戒しながら歩いていると、『こまち』の裏から冬枝の声がした。
「何の用だ。こんな時間に呼び出すな」
――冬枝さん。
「さやかお姉さま…?」
さやかはマキがいるのも忘れて、『こまち』の路地裏へと入った。
壁からそっと覗くと、『こまち』の駐車場に、冬枝の枯れ葉色のスーツの背が見えた。
正面には、アルマーニのスーツ姿の朽木が仁王立ちしている。
「俺がお前を呼びだす用なんて、1つしかねえだろ。兄弟」
「金なら、この間払っただろ」
「電話でも言ったが、追加で100万。持って来ただろうな」
「………」
冬枝は忌々しそうに眉根を寄せると、懐から封筒を取り出した。
すかさず封筒をもぎ取ると、朽木は下卑た笑みを浮かべた。
「サンキュー、兄弟。いやぁ、ゆうべ、博打で100万取られちまって」
その言葉を聞いて、さやかは凍り付いた。
――僕のせいだ。
昨夜、さやかは朽木を破り、その前に行われていた朽木とマキの勝負を無効にした。朽木はその腹いせに、冬枝に100万円を要求したのだ。
冬枝が車で去った後、さやかは朽木を呼び止めた。
「朽木さんっ!」
「ん?なんだ、またお前か」
ジャガーに乗り込もうとしていた朽木が、のっそりと振り返る。
さやかはボストンバッグを開けると、中に入っていた札束を掴んで、朽木に差し出した。
「500万あります。これで、もう冬枝さんにたかるのはやめてください」
「はぁ?」
朽木はくわえていたタバコを放すと、ハハハと声を上げて笑った。
「こいつぁ愉快だ。こんな小娘に尻拭いさせてるようじゃ、あいつも落ちたもんだな」
「その落ちた男にたかってるあんたは、ウジ虫以下だ」
さやかが吐き捨てるように言うと、朽木の顔から笑みが消えた。
さやかの胸倉を掴み上げ、顔と顔とが触れ合うぐらいに迫らせる。
「おい。あんまり調子こいてると、可愛い顔に傷がつくぞ」
「冬枝さんがあんたと同じ立場だったら、ここで僕を殴ったりしない」
朽木に凄まれても、さやかは退かない。朽木に対する怒りで、恐怖心は消えていた。
「ふーん」
朽木は、ぱっとさやかから手を放した。
「そうだな。あいつなら、女に手は上げねえだろうな」
だが俺は違う、と朽木が低い声で呟いた次の瞬間、さやかの視界に火花が飛んだ。
「……っ!?」
頭突きされたのだ、と気付くと同時に、さやかは衝撃で二、三歩後ろによろけた。
額にじわりと熱が広がり、鼻筋をつうっと血が伝う。
痛みが遅れてやってきたところで、さやかの顔面に、さらに朽木の拳が飛んだ。
「うっ」
鼻の奥が熱くなり、一瞬、息が出来なくなる。
何とか体勢を保とうとしたが、堪えきれず、さやかはその場に膝をついた。
俯いた途端、ぼたぼたと、大粒の血が零れ落ちた。
「さやかお姉さまっ!」
悲鳴を上げて、マキが駆け寄ってくる。
「俺は、男も女も殴る。男女平等だ。ハハハ」
朽木は高らかに笑うと、うずくまるさやかの肩を踏みつけた。
「っ…!」
「随分、冬枝にのぼせてるみたいだが、騙されるなよ?麻雀小町」
さやかの耳元で、朽木はタバコ臭い息を吐いた。
「あいつは俺の女を取った。だから、俺に金を渡してるのさ」
さやかの目が見開かれた。
朽木はフンとせせら笑うと、これみよがしにジャガーのエンジンをふかして去っていった。
さやかは、朽木の言葉で頭が真っ白になっていた。
――冬枝さんが……朽木の女を…?
「お姉さまっ、しっかりして」
マキが懸命に呼びかけても、さやかは微動だにできなかった。
マキはさやかを連れて、雀荘『こまち』に飛び込んだ。
「さやか、今手当てしてあげるからね」
「……」
マキの言葉に、さやかは力なく頷いた。
店内はいつも通り、のどかに麻雀を打つ客たちで賑わっている。その中には、春野嵐の姿もあった。
「おー、さやか。どうした?雪も降ってないのに、滑って転んだか?」
嵐がさやかの怪我を見咎めたが、さやかは答えない。
冗談めかす嵐に対し、マキが「ほっといてよ、おじさん」と金切り声を上げた。
「うへぇ、今時の女子高生はおっかねぇな」
「ちょっとあんた、救急箱持って来なさい」
マキが命じると、マスターの中尾が慌てて店の奥へとすっ飛んでいった。
額と鼻からダラダラと血を流したまま、さやかはぼんやりしている。
流石に不審に思った嵐が、「おーい」とさやかの顔の前で手を振った。が、反応がない。
「まさか、お嬢ちゃんがさやかとタイマンしたとか?」
「ふざけないでちょうだい。朽木ってヤクザにやられたのよ」
朽木の名を聞いた途端、嵐の顔つきが変わった。
「朽木だって?お嬢ちゃん、それ、本当か」
「ホントも何も、このケガ見れば分かるでしょ?っていうか、救急箱はまだ?」
マキが「ちょっと、何やってんのよ!」と店の奥に向かって叫ぶと、中尾が青ざめた顔で救急箱を持って来た。
「おい、さやか。お前、朽木と何があったんだ」
「………」
嵐の問いかけにも、さやかは無反応だった。
――冬枝さんが……朽木の女を取った……。
朽木の言葉が頭の中をぐるぐる回っていて、外の声がまるで入ってこない。
マキがさやかの手当をしようとしたところで、中尾から連絡を受けた冬枝が駆けつけた。
「さやか!」
「…冬枝さん」
そこでようやく、さやかは我に返った。
冬枝の姿を見た瞬間、さやかは泣きそうになってしまった。
――僕のせいで、冬枝さんが朽木から金を……。
申し訳なくて、冬枝の目を見ることが出来ない。さやかは、すぐに顔を背けた。
事情を知らない冬枝は、血だらけになったさやかが目に涙を浮かべているのを見て、瞬時に頭に血が上った。
――殺してやる。
さやかをこんなことにした相手を、生かしてはおけない。冬枝は、足早にさやかの元へ行くと、しゃがんで顔を覗き込んだ。
「さやか。誰にやられた」
「あんたのお仲間の朽木って野郎だ」
俯くさやかに代わって、嵐が答えた。
冬枝は「朽木だと?」と眉を吊り上げた。
――あのゲス野郎、よくもさやかに手を出しやがったな。
うなだれているさやかの手を、冬枝は強く握り締めた。
「安心しろ。この落とし前は必ずつけさせてやる」
すると、さやかはハッとして「いえ」と言った。
「これは、僕が売られたケンカです。朽木とは、僕がケリをつけます」
――冬枝さんは、僕が守る!
さやかはこれ以上、朽木の魔の手に冬枝をさらしたくなかった。
「何言ってんだ。お前にこんなことされて、黙ってられねえだろ」
「大丈夫です。こんなの、どうってことありませんから」
「んなわけあるか。血まみれじゃねえか」
さやかは今更のように鼻血に気付くと、ジャケットの袖で無造作にぬぐった。
「血なんて、オキシドールを使えば落ちます」
「そういう問題じゃねえ。朽木の件は俺がカタをつけるから、お前は引っ込んでろ」
「嫌です!僕がやります」
「俺だ!」
「僕です!」
頑として譲らない冬枝とさやかを見て、マキがぽかんとしている。
嵐が、ポンとさやかの肩を叩いた。
「さやか。ここは、ダンディ冬枝に任せとけ」
「…嵐さん」
「ヘビの後始末は、同じヘビにやらせときゃいいんだ」
そこで、さやかはようやく、嵐の様子が違うことに気付いた。
いつものへらへらとした笑みが嘘のように、嵐の顔つきは険しい。
「さやか。ヤクザってのはな、甘い言葉をどんなに吐いてたって、優しいのは上っ面だけだ。こいつらの頭ん中は、金を搾り取ることしかねえ」
その言葉は、間違いなく元刑事・春野嵐から放たれたものだった。
「ヤクザと市民の利益は、たいてい一致しない。代打ちも同じだ」
嵐はさやかに向き直ると、諭すような声音で言った。
「いい機会だ、さやか。この際、代打ちなんかやめちまえ。お前だって、ケガしてまでヤクザと麻雀打ちたくないだろ」
「おい、勝手なこと抜かしてるんじゃねえ」
冬枝が、さやかと嵐の間に割って入った。
嵐は、構わず続ける。
「冬枝さんだって、所詮ヤクザだ。お前を殴った朽木の側の人間だぞ」
「あんなクズと一緒にするんじゃねえ。てめえこそ、どの立場でもの言ってやがる」
「代打ちなんかやらなけりゃ、さやかがヤクザに殴られることはなかったんですよ。さやかを危険に晒してるのはあんただ、冬枝さん」
嵐の言葉に、さやかのほうが胸を衝かれた。
――冬枝さんは悪くない。
さやかが嵐を止めようとした瞬間、冬枝と嵐の頭上に、水がぶちまけられた。
どしゃ降りの後のように、枯れ葉色のスーツとピンク色のジャケットが、仲良くずぶ濡れになる。
「ケガ人の前で、ぎゃーぎゃーうるさいわよ!ケンカなら表でやりな!」
空になったバケツを持ったマキが、毅然として怒鳴りつけた。
場がしんと静まり返り、男2人からぽたぽたと水滴が落ちる音だけが響く。
「………はい」
すっかり牙を抜かれた冬枝と嵐は、大人しく矛を収めた。
「………」
――冬枝さんと朽木の間に、何があったんだろう……。
さやかはただ一人、朽木が言った言葉の意味を考え続けていた。