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6話 まわる乙女とコーヒーカップ

第6話 まわる乙女とコーヒーカップ


 図書館からの帰り道、さやかは親子連れとすれ違った。

 はしゃぐ子供の手には、赤い風船が握られている。

 ――そういえば、この近くに遊園地がある、って冬枝さんが言ってたっけ。

 出会ったばかりの頃、冬枝がこの辺りを案内してくれた。噴水のあるお堀を通ると、市立図書館があり、その先に、大きな公園が広がっている。そして、この奥には、動物園が併設された遊園地もあるのだ、と。

 ――冬枝さんって、メリーゴーランドとか乗りそうにないよなぁ……。

 冬枝と2人で遊園地に行っている図、を想像してしまい、さやかは赤面した。

 ――違う!冬枝さんとは、そういうんじゃないっ!

 最近、嵐から散々、冬枝との関係をからかわれたせいで、さやかの思考回路まで汚染されているのかもしれない。つくづく、不愉快な男だ。

 その嵐とは、今日は顔を合わせていない。今日は雀荘『こまち』に行っていないからだ。

「さやか。嵐とはもう勝負するな」

 さやかが高校の同級生だった小池と再会した日、マンションに帰ってすぐに冬枝はそう告げた。

 嵐に敗北したことを冬枝に知られた後だけに、さやかは素直に従う気になれなかった。

「次は勝ちます。あんな奴に負けたままで、引き下がれません」

「ダメだ。嵐のことは放っとけ」

「どうしてですかっ。僕じゃ、嵐に勝てないって言うんですか」

「そうじゃねえ」

 冬枝はソファに深く腰掛けると、タバコの煙を吐いた。

「嵐の目的は、お前に代打ちを辞めさせること。それは分かるな」

「でも、嵐に負けたからって、僕が代打ちを辞めることにはなりません」

 最初こそ「負けたら代打ちを辞める」という条件を突き付けられたが、さやかが拒むと、嵐はあっさり条件を翻した。

 そもそも、さやかを雇っているのは冬枝だ。部外者である嵐が横から口を挟んだところで、何の強制力もない。

 だが、冬枝の見立ては違った。

「嵐に負け続けていれば、ペースが乱れる。いずれ、代打ちにも響くようになるだろう。さやかが自信をなくし、自ら代打ちを辞めるように仕向ける。それが、嵐の狙いだ」

「あ……」

 言われてみれば、嵐の奇行の数々に合点がいく。さやかは思わず声を上げた。

「じゃあ、嵐が僕に夜這いしたり、胸を触ったりしたのも、冬枝さんたちみたいな男の人への不信感を植え付けるためだったんですね」

「よば……え?」

「元警官のくせに、どうしてノゾキなんてハレンチなことをするのかと思っていましたが……嵐に一杯食わされました」

「ノゾキ……」

 ――あいつ、今度会ったらただじゃおかねえ。

 冬枝が嵐に殺意を燃やしているとは知らず、さやかは「分かりました!」と姿勢を正した。

「しばらく、『こまち』には行かないようにします。嵐に会っても、なるべく無視します」

「…ああ。それがいい」

 そういう訳で、さやかは雀荘には行かず、浪人生らしく図書館で勉強していたのだった。

 ――学業が本分とはいえ、雀荘に行けないと、退屈だな。

 歩ける範囲にある雀荘は、『こまち』だけではない。新規開拓するのもいいかな、と繁華街へ繰り出そうとしたさやかの背に、「すみません!」という声がかかった。

「はい?」

「あの……『こまち』で打ってた、東京から来た方ですよね」

「はあ」

「僕、あの時、別の卓にいたんですけど、お嬢さんの勝ちっぷりは見てましたよ。常連客3人を、全く寄せ付けなかった」

「どうも」

 男は30代くらいで、小ざっぱりとした水色の背広を着ている。雀荘にいてもおかしくはないおじさんだが、さやかは見覚えがない。

 よく見ると、男は首にカメラと、顔写真入りの社員証を提げていた。

「申し遅れました、あさひがけ新聞の入江といいます。よかったら、取材させてもらえませんか」

 男――入江が差し出した名刺には、冬枝も購読している、地元新聞の社名が入っていた。



 さやかがブンヤに付きまとわれている、と冬枝の元に報告があったのは、昼食にしようと市内の『たらふく食堂』に来た時だった。

 冬枝の弟分である高根が雀荘『こまち』の見回りに行くと、そこでさやかが新聞記者に捕まっていたというのだ。

「何でも、さやかさんが450万勝ったあの日、ブンヤも店にいたとかで。東京から来た『麻雀小町』を記事にしたい、って言ってるらしいです」

「冗談じゃねえ。追い返してやれ」

 冬枝は『たらふく食堂』の電話で高根に命じたが、受話器の向こうからは「それが…」という高根の曇った声が聞こえてきた。

「春野嵐が、さやかさんとブンヤに張り付いていて、割り込むスキを与えないんです」

「またあいつか…!」

 嵐は元刑事で、さやかに冬枝の代打ちを辞めさせようとしている。これまでも、反則のような手口でさやかを負かしたり、さやかを自宅に引っ張り込んだりと、あの手この手でさやかを説得しようとしてきたらしい。

 さやかには、嵐が出没する『こまち』に行くなと言ってあったが――ひょっとすると、それに対抗して、嵐がブンヤを差し向けたのかもしれない。

「俺が行く」

 電話を切ると、冬枝は「行くぞ、土井」と言って、サングラス姿の弟分を促した。

「えーっ。兄貴、昼飯は?」

「んなもん後回しだ、行くぞ」

 冬枝は椅子に掛けていた枯れ葉色のジャケットを羽織ると、レジに万札を渡して颯爽と外に出た。



 入江がさやかのインタビュー場所として指定したのは、雀荘『こまち』だった。

「へえ、葵山学院の出身なんですか。すごいですね。部活は何をされていたんですか?」

「生徒会に所属してました」

「しかもこいつ、生徒会長だったんだって」

 横から補足したのは、嵐である。入江とは『こまち』の常連同士、仲が良いらしい。

 ――ていうか、こいつらグルだな…。

 ジト目で睨むさやかなどお構いなしに、入江はご機嫌にメモを取った。

「生徒会長!めちゃくちゃ優等生じゃないですか」

 麻雀はいつごろから始めたんですか?など、毒にも薬にもならないような質問が続く。

 牧歌的な地方紙で、東京から来た麻雀女の記事なんて載せるはずがない。明らかに入江は嵐の差し金だが、さやかの取材なんかして、何の意味があるのか。

 ――僕の過去なら、この間、小池が全部喋ったようなものなのに。

 それとも、冬枝の代打ちをやっていることを、さやかの口から告白させ、録音して警察にでも渡すつもりだろうか。

 ――つまり、これはていのいい尋問。

 どうせなら、嵐から受けた数々のチカン行為をこそ糾弾したいぐらいだ。

 尤も、新聞記者の肩書に偽りはないらしく、入江は次々に質問を投げかけて、さやかに考える暇を与えない。

「ところでさやか、ぶっちゃけ何カップ?」

「………」

 入江の質問に便乗した嵐の妄言を黙殺する余裕ぐらいは、まだある。

 それにさっき、店の奥で、冬枝の弟分である高根が電話しているのがちらりと見えた。

 ――もうすぐ、冬枝さんが来る。

 冬枝が来れば、この場の流れが変わる。それまで、さやかは口を滑らせないよう、入江の質問攻撃をやり過ごしていればいい。

「麻雀を始められたきっかけなどはありますか?」

「学校で流行っていたので」

「学校といえば、さやかさん、好きな歌手は?普段、何聴いてます?」

「えーと……明菜とか」

 実際は、さやかの実家の部屋には、吉川晃司のポスターが貼られている。

「麻雀やるのって男の人が多いですけど、やりづらくはなかったですか?」

「大丈夫です。ボーイフレンドと一緒にやっていたので」

「じゃあ、質問を変えるべ」

 さやかが嘘をついていることに気付いたのか、嵐が入江の椅子を奪い取って座った。

「さやか、お前、ダンディ冬枝のこと、どこまで知ってる?」

「え?」

「例えば、ダンディ冬枝が何歳か知ってるか?」

 覗き込むような嵐の目線から、さやかは顔を逸らした。

「さあ。興味ないです」

 さやかの鉄仮面に、嵐が『4』と『3』のサインを両手で突き付ける。

「43歳。お前と、干支が二回りも違うんだぞ」

「へえ」

 父さんより若いな、とだけ、さやかは思った。

 嵐はタバコをくわえながら、質問を続ける。

「冬枝さんに、前科があることは知ってるか」

「…さあ」

「20代の頃に人を斬って、ムショに入ってる。ま、相手もヤクザだったみたいだけど」

「ふーん」

 表面上は平静を装ったが、さやかは内心、腸がふつふつと熱くなっていた。

 ――冬枝さんの過去を暴いて、僕を動揺させるつもりか。

 裏社会の人間である以上、冬枝の経歴は綺麗ではないだろう。だが、さやかは敢えて冬枝の過去を知りたいとは思わない。本人が知られたくないようなことなら、猶更だ。

「じゃ、冬枝さんの女関係は、知ってるか?」

 嵐は、挑発するような笑みで顔を迫らせた。

 さやかは、その眼を真っ直ぐ見返す――と見せかけて、がばっと両手で顔を覆った。

「うわぁ~ん!」

「んっ?」

「おじさん、質問ばっかりして、こわーい!わたし、悪いこと何にもしてないのにっ」

「お、おい、さやか」

 さやかが大袈裟に泣き真似を始めたので、店内の視線が一気にさやかたちに集まった。

「さやか、落ち着けよ」

「きっとわたしにイチャモンつけて、ひどいことする気なんだわっ」

 さやかは声を高くして「あさひがけ新聞の記者さんが、わたしにハレンチなことをしようとしています!」と叫んだ。

「ちょっと、嵐さん」

 思わぬ成り行きに青くなったのは、入江である。あさひがけ新聞は、地元住民の大半が購読している。なじみの名前に、客たちがなんだなんだと耳をそばだて始めていた。

「お前、二重人格?」

 嵐が呆れ顔で発した呟きを、さやかはまたも無視した。

 ――嵐みたいな奴は、まともに相手するだけ無駄だ。

 ちょうどそこに、弟分2人を引き連れた冬枝が到着した。

「さやか!」

 顔を覆っているさやかの姿を見た瞬間、冬枝の頭は沸騰した。

 一部始終を知らない冬枝には、さやかが嵐とブンヤに泣かされているようにしか見えなかったのだ。

 冬枝は客をかき分けると、雀卓をドンと強く蹴った。

「てめえ、俺の代打ちに何してやがる」

「ひいいっ!」

「ダンディ冬枝、意外とプッツン体質ね」

 冬枝の出現に青ざめる入江に対し、嵐はのんびりとタバコの煙をくゆらせている。

「これじゃ、立派な恫喝ですよ。記事にしちゃうぞ」

「出来るもんならやってみな。そいつの営業所に血の雨が降るぜ」

 冬枝が睨み付けると、入江が「ひいいい~っ」と雀卓の下に逃げ込んだ。

「さやかさん、大丈夫ですか」

「はい」

 心配そうに駆けつけてくれた高根に、さやかはけろっとして答えた。

「冬枝さん。さやか、けっこー性格悪いっスよ。絶対、亭主を尻に敷くタイプです」

「何言ってんだ、てめえは」

 嵐の耳打ちを、冬枝は鬱陶しそうに手で払った。

 そこで、嵐が雀卓の下で震えている入江に、目配せをした。

 入江は嫌だとばかりに首を横に振っていたが、嵐の目付きが険しくなるにあたって、観念したように卓の下から飛び出した。

 拳で作ったマイクの向かう先は、さやかの鼻先である。

「そ、そそそそこの人とは、どのようなご関係なんですか!?」

「えっ?」

「あ、明らかに堅気の方には見えませんが、もしかして、その、無理矢理働かされている、とか…」

 冬枝のほうを見ることも出来ず、入江はガタガタ震えている。どう考えても、嵐の指示で無理矢理言わされていた。

 さやかは、嵐の狙いを察した。やはり、冬枝との関係を白状させるのが目的だったのだ。

 ――僕をナメやがって……。

「おい、てめえ…」

 冬枝が入江に迫る前に、さやかはがしっと冬枝の腕に抱き付いた。

「恋人ですぅ」

「は?」

「冬枝さんは、わたしの、恋人なんです。わたしがおじさんにいじめられてるのを見て、つい、カッとなっちゃっただけなんですぅ」

 冬枝は口を開けたまま絶句し、嵐は苦笑いしている。

「こ、恋人?マジで?」

 驚きのあまり、入江は口調が素になっていた。

「ええ。これからデートなので、失礼しますね。行きましょ、ダーリン」

 さやかは上目遣いでしなだれかかると、そのまま冬枝を引きずるようにして『こまち』から立ち去った。



 公園へと続く大通りを、さやかと冬枝は腕を組んで歩いた。

「おいさやか、いつまでくっついてんだ」

「嵐たちが、まだついてきています。もうしばらく、我慢してください」

 確かに、嵐と入江は距離を開けて、冬枝たちを尾行している。

 ちなみに、カップルに男2人が同行していると不自然だという理由で、冬枝の弟分たちは帰らせていた。

「それにしても、なんで『恋人』なんて嘘ついたんだ」

「あの場を収めるには、それが最適解だったんです。新聞記者の前で僕が『ヤクザの代打ちをしている』という言質をとるのが、嵐の狙いですから」

「分かってるけどよ。いいのか、お前はそれで」

 さやかは何も答えず、ひたすら前を向いて歩き続けた。

「ていうか、どこ行くつもりだ。遊園地にでも行くのか」

「そうです」

「そうです、って……さやか、気は確かか」

 腕を組んで仲良く遊園地へ、なんて、本当にデートじゃないか。いくら嵐たちを誤魔化すためとはいえ、そこまでするか、と冬枝は目を見張った。

「冬枝さんって、おいくつなんですか」

「あ?」

 冬枝は唐突な質問に面食らったが、「43」と答えた。

「……そうですか」

 嵐の話は、口からでまかせではないようだ。冬枝の過去を図らずも知ってしまったことに、さやかは少しばつが悪くなった。

「さやか?」

「…遊園地、前から行ってみたかったんです。そうだ、何か食べて行きましょうよ。冬枝さんもお昼、まだですよね?」

「あ、ああ」

 さやかは足を早めると、公園に続く坂道へと向かった。

「おい、引っ張るなよ」

 動物のイラストが描かれた『なかもりやまゆうえんち』の門を、さやかと2人でくぐる。行き交う家族連れのたわいない笑顔が、冬枝にはこそばゆかった。

「大人2枚」

 冬枝が窓口で2本指を立てると、受付のおばさんが相好を崩した。

「娘さんとデートですか?いいお父さんですね」

 ――まあ、普通そう思うわな。

 ガラス窓を挟んでいるせいで、冬枝がヤクザには見えないのだろう。ヤクザがいたいけな女子を連れ回している、と通報されては敵わないので、冬枝はそそくさと受付を去った。

「へえ。ジェットコースターまであるんですね」

「俺は乗らねえぞ」

「乗らないんですか?」

 東京の人間から見れば、ここの遊園地なんて、こぢんまりとしたものだろう。だが、さやかは瞳を輝かせている。

「冬枝さん、コーヒーカップに乗りましょう」

「だから、俺は乗らねえって」

「カップルといえば、コーヒーカップですよ。ほら」

 さやかが指し示した先では、確かに若い男女や子供を連れた夫婦が、コーヒーカップでぐるぐる回っている。

 ――こんなの、組の連中に見られたら、一発アウトじゃねえか。

 代打ちとデキている、なんて思われたら、いい物笑いの種だ。さやかに押し切られて渋々乗ったものの、知り合いがいませんように、と冬枝は祈るしかなかった。

 厚かましいというか、嵐と入江も、続けてコーヒーカップに乗り込んだ。もはや、堂々とさやかと冬枝に貼り付いている。

 園内に据え付けられたスピーカーから、おニャン子クラブの歌が大音量で流れている。これなら、嵐たちに会話を聞かれる心配はなさそうだ。

 ふと、さやかは入江のインタビューで聞かれた質問を思い出した。

「冬枝さんって、普段、何聴いてるんですか?」

「あ?聴くって、何を」

「音楽です。スナックとかで歌わないんですか」

「あー…」

 冬枝は頭上を流れるおニャン子の歌を聞き流しながら、「今時の歌はわからねえけどよ」と前置きした。

「…『夜霧のブルース』とか…『北紀行』とか」

「…夜霧の…ブルース…?」

「そりゃ、知らねえだろうよ。お前が生まれる前に流行った歌だ」

 冬枝は照れ臭そうに手をひらひら振ってから、「飲み屋じゃ、付き合いで銀恋でも歌うぐらいだ」と付け足した。

「ああ、銀恋なら分かります」

 ――銀恋ってことは、女の人と歌ってるのか。ふーん……。

 さやかの目が一瞬、研ぎ澄まされた刃のように冷たくなったので、冬枝は背筋が寒くなった。

「さ、さやか?」

「……もうちょっと回しましょうか」

「おい、俺はあんまり目が回るのは…うわっ!」

 さやかが勢い良くハンドルを回し、2人を乗せたコーヒーカップが急回転した。

「さやか、てめえ!」

「………」

 冬枝のカラオケの十八番なんて知ったところで、麻雀には何の関係もない。さやか自身、何を言っているんだろう、と自分が不思議になった。

「さやか、お前、ダンディ冬枝のこと、どこまで知ってる?」

 嵐の挑発的な問いかけが、妙にさやかの胸に引っ掛かったせいかもしれない。

 名前は、知っている。最初は苗字しか聞かなかったが、後からもらった名刺で「冬枝誠二」というフルネームを知った。年齢は、さっき聞いたばかりだが、43歳。

 冬枝はせっかちなため、朝はパン派だ。昼食はもっぱら外で済ませ、台所番の高根には、夕食だけ作らせている。晩酌は焼酎かウィスキーだ。タバコはキャスター。

 嵐はさも訳知り顔で「さやかは冬枝のことを何も知らないんだろう」と言いたげだったが、さやかだって、手を組んだ相手の日常生活ぐらい観察している。シャンプーだって、ついこの間まで冬枝のものを借りていたから、何を使っているか知っている。バカにするな、と嵐に言ってやりたい。

 嵐のことを思い出したらむしゃくしゃしてきたので、さやかは力任せにハンドルを回した。

「さやかーっ、いい加減にしろーっ!」

 冬枝が怒鳴ったが、さやかは知らん顔をした。

 コーヒーカップから降りると、冬枝は千鳥足になっていた。

「あのな、さやか、中年の三半規管はな、デリケートなんだぞ」

「冬枝さん、次はジェットコースター乗りません?」

「人の話を聞けよ…」

 冬枝の疲れ顔の前に、さやかがびしっと人差し指を立てる。

「これも作戦です。ここで一日中、遊んでれば、嵐たちだって流石にばかばかしくなって帰るでしょう」

「一日中!?勘弁してくれ」

 キャーキャーと歓声を上げている女子供に混ざっているというだけで、冬枝は全身がかゆくなってくる。こんな茶番に日暮れまで付き合わされるなんて、たまったものではない。

「冬枝さん…」

 さやかは、不意に深刻な調子になった。

「相手は元刑事と、新聞記者です。本気で尋問されたら、僕だってどこまで沈黙を貫けるか、自信はありません」

「さやか…」

「かといって、乱暴に追い払えば、それこそ記事にされかねません。ここは、辛抱どころじゃないでしょうか」

 さやかからうるうるした瞳で見上げられて、冬枝は反論の余地を失った。

「…分かったよ。お前の言う通りだ」

 すると、さやかはにっこり笑って冬枝の腕を引いた。

「じゃ、決まりですね!ジェットコースターに乗ったら、お昼にしましょう」

 ――なんか、さやかに手玉に取られているような…。

 正直、気は進まないが、楽しそうなさやかにやめろと言う気にもなれない。心なしか、遊園地に来てからのさやかはいつもよりのびのびとしているように見えた。

 ――こいつも、年頃の女なんだよな。

 薄暗い雀卓なんかより、こういうところのほうが似合っているのは当然だ。

 それに、冬枝の代打ちとして裏社会の住人たちと対決するのは、さやかにとっては緊張の連続だっただろう。

 ――たまには、息抜きも必要か。

 尤も、ジェットコースターの高さとスピードを間近で見ると、冬枝はめまいがしそうだったが。



 遊園地内のレストランに着いた時には、冬枝はげっそりしていた。

「あー、くたびれた」

「冬枝さん、お疲れですね」

「昔から、高いところは嫌いなんだよ」

 冬枝がぼやくと、さやかが興味津々といった瞳で覗き込んできた。

「冬枝さん、もしかして、ジェットコースターに乗るのは初めてだったんですか?」

「当たり前だろ。二度と乗るか、あんなもん」

 冬枝は吐き捨てるように言ったが、さやかは小さくガッツポーズした。

「よっしゃ」

「何がよっしゃ、だ。俺に恨みでもあんのか」

「僕しか知らない冬枝さん、いただきました」

 ――何言ってんだ、こいつは。

 憎たらしいはずなのに、さやかの笑みには毒気を抜かれてしまう。目の前にいるのは、凄腕の代打ちではなく、ただのお茶目な娘でしかない。

 ――ったく、調子が狂うぜ。

 パン!

 会計をするため席を立とうとしたその時、破裂音が店内に響き渡った。

 ――銃声か!

 冬枝はひらりとテーブルを飛び越えると、さやかをソファの上に押し倒した。

 さやかを身体の下に庇い、すかさず辺りを見回すと、近くの席で子供がべそをかいていた。

「あーん、風船割れちゃった」

「また後で買ってあげるから」

 どうやら、銃声だと思ったものは、風船が割れた音だったらしい。冬枝は気が抜けた。

「なんだよ、驚かせやがって…」

「ふ、冬枝さんっ」

「ん?」

 我に返ると、さやかが冬枝の下で真っ赤になっていた。

 至近距離で、目と目が合う。

 真っ昼間から女子に覆い被さっているおじさん、と化していたことに気付いた冬枝は、慌ててさやかの上から飛びのいた。

「すまん!ああいう音を聞くと、つい条件反射で」

「い、いえ……」

 風船の音より、こっちのほうがドキドキする……と、さやかはこっそり心臓を押さえた。

 レストランを出ると、さやかがアイスクリームの屋台に目をつけた。

「アイスひとつ、ください」

 ピンクと黄色のバラの花の形をしたアイスクリームを、うっとりと見つめるさやか。警戒心がまるでないというか、友達か彼氏とでも遊びに来たかのようだ。

 ――ヤクザと一緒に外歩いてて、よくそんなご機嫌になれるな。

 無邪気にアイスを頬張るさやかにつられて、冬枝も平和ボケしそうになる。

 うららかな午後の陽気に水を差してくれたのは、アルマーニのスーツにロレックスをこれ見よがしに着けた男だった。

「よう、兄弟」

「げっ。朽木…」

 朽木はレイバンのサングラスを軽く下げると、「人の面見て『げっ』はねぇだろ」と言った。

「妙なところで会うもんだな。しみったれた中年には一番似合わねえ場所だぜ」

「そりゃ、こっちのセリフだ」

「おや、女連れか?」

「あっ…」

 冬枝が誤魔化すより先に、朽木はさやかの姿を見つけ、ニヤッと笑った。

「久しぶりだな、麻雀小町。そういや、名前をまだ聞いてなかった」

「……夏目さやかです」

 さやかは、怪訝そうな表情で冬枝を見た。冬枝は渋々、朽木を紹介した。

「あー、こないだ『こまち』で会ったな。俺の同僚の朽木だ」

「朽木さん…ですか」

 朽木はスーツのポケットに手を突っ込んだまま、値踏みするようにさやかを見下ろした。

「『麻雀小町』もこうして真っ昼間に会ってみると、なんだ、可愛らしい娘っ子じゃねえか。ただ、そのナリはいただけねえな」

「…はあ」

「しみったれてんなあ。俺なら、女にはもっと贅沢な格好をさせるぜ」

 確かに、白いブラウスに紺のジャケットとタイトスカート、というさやかの服装は、18歳の女子にしては少々堅苦しい。

 ――だが、さやかは見せ物じゃねえ。

 冬枝が苛立ち始める中、朽木はいきなり、さやかの顎を掴んだ。

「さやか、って言ったか。こんな辛気臭い親父はやめて、俺んところに来いよ」

 朽木は「俺の女になれば、月100万やるぜ」と露骨な口説き文句を吐いた。

「おい朽木、てめえ…」

「お断りします」

 さやかはきっぱりとはねつけると、朽木の手を顎から外した。

「僕は冬枝さんの代打ちですから」

 さやかの声音には、朽木に対する怒りも怯えもなかった。

 朽木はフン、と鼻を鳴らした。

「冬枝についていったって、ボロ雑巾にされるのがオチだぜ。ま、今日はせいぜい楽しんでいきな」

 流石の朽木も、堅気の客がひしめく遊園地で揉め事を起こす気はないらしい。意外とあっさり引き下がったので、冬枝はちょっと拍子抜けした。

「おい、朽木。お前、何しにここに来たんだ」

 朽木にしては珍しく、女を連れている様子がない。まさか、冬枝とさやかを冷やかすためだけに来たわけではあるまい。

 朽木は、向こう側に見える黒い建物を顎でしゃくった。

「あのお化け屋敷、俺の知り合いの仕切りでな。稼いでるか見に来てやったのよ」

 じゃあな、と言うと、朽木はアルマーニのスーツを翻して去って行った。

「さやか、大丈夫か」

「ええ」

 東京にいた頃から雀荘に通っているさやかには、朽木のように絡んでくる輩など珍しくはない。さやかが気に入らないのは、朽木の冬枝に対する態度のほうだった。

 ――あの朽木って人、冬枝さんに恨みでもあるのかな。

 さやかが朽木と『こまち』で初めて会った時、朽木は冬枝に土下座を強要していた。同じ組の組員であるにもかかわらず、どうして朽木は冬枝を目の仇にしているのだろう。

 さやかの疑問を察したのか、冬枝が気まずそうに口を開いた。

「あー、朽木とは昔、ちょっとあってな」

「そうですか…」

 冬枝のことを知ったと思えば、また新しい謎が出てくる。

 無理に聞き出すつもりもないが、掴みどころのない冬枝が、さやかは少しもどかしい。

「気晴らしに、なんか乗るか。ほれ、観覧車もあるぞ」

 せっかくのさやかのご機嫌顔が、朽木のせいで曇ってしまった。冬枝が気を使って誘ってみると、さやかは「あ、いいですね」と頷いた。

「でも冬枝さん、高いところ苦手なのに、いいんですか」

「観覧車なら、人目につかねえだろ」

 と自分で言ってから、これじゃ、観覧車の中で何かするみたいじゃねえか、と冬枝は失言を悟った。

 さやかは特に気にする素振りもなく、さっさとゴンドラに乗り込んだ。

「冬枝さん。今日は付き合ってくれて、ありがとうございました」

 ゴンドラがゆっくりと動き出すと、正面に座ったさやかがぺこりと頭を下げた。

「ああ…嵐たちも引き上げたみたいだし、お前の作戦通りになったな」

 ジェットコースターを降りた辺りから、嵐と新聞記者・入江の姿が見えなくなった。ようやく諦めたか、と冬枝は内心ホッとしていた。

「………」

 観覧車までは、おニャン子も届かない。ようやく一息付ける、と懐のライターを探った冬枝は、ふと手を止めた。

 さやかの横顔が、陽に照らされている。

 改めて見ても、華奢で、肉付きの薄い女子である。首筋なんて、細すぎて鶴のようだ。

 怜悧な顔立ちは、とてもじゃないが脂ぎった親父たちと雀卓を囲む人間のものとは思えない。澄んだ瞳には、冬枝には見えないものが見えているような気がした。

 窓の外へ向けられていたさやかの視線が、ライターを探すポーズで硬直している冬枝をとらえた。

「どうぞ。別に吸ってもいいですよ」

「いや…」

 高いところが苦手な冬枝は、景色なんか見る気にならない。

 ただ、今はこの眺めを、タバコで煙らせたくなかった。

 さやかは、横顔のままでぽつりと言った。

「冬枝さん。今日は楽しかったです」

「ん?ああ」

「まるで、本物の恋人同士みたいで」

「えっ?」

 冬枝は一瞬、言葉に詰まった。

 さやかの頬が赤いのは、日差しのせいか。見えない何かが冬枝の背中を押している気がするが、もし、このまま押されてしまったら、どうなるのか。

 地上から遠く離れたゴンドラに、2人を邪魔するものは何もなかった。

 しばしの沈黙の後、さやかは早口で「…そのほうが、嵐たちも誤魔化せますから」と付け加えた。

「そ、そうだな」

 危なかった。このまま静寂が続いたら、「観覧車なら人目につかない」という冬枝の発言が、犯行予告になってしまうところだった。

 ――ここの空気に毒されたか…?

 きっと、アベックや子供連れの黄色い声を、一日中耳にしていたせいだ。そのせいで頭のネジが1本緩んだだけだ、と冬枝は自分に言い聞かせた。

 観覧車から降りると、さやかが小走りに駆け出した。

「さやか?どこ行くんだ」

「お化け屋敷。面白そうなので、ちょっと行ってきます」

「あぁ?」

 止める間もなく、さやかは一直線にお化け屋敷へと突進していった。

 ――どうしたんだ、あいつ。

 呆然と見送る冬枝の視線の先で、さやかはすうはあと不自然な深呼吸を繰り返していた。

 ――なんで、あんなこと言っちゃったんだろう。

 本物の恋人同士みたいで、という自分の発言を思い出すにつけ、恥ずかしくてたまらない。

 冬枝は、どう思っただろう。考えるのが怖くて、さやかはお化け屋敷に飛び込んだ。

 さやかに置いていかれる形で、冬枝はお化け屋敷の前に佇んだ。

 ――そういやここ、朽木の知り合いの仕切りだっつってたな。

 見たところ、普通のお化け屋敷のようだが、さやかを一人で行かせて大丈夫だろうか。しかし、冬枝は高いところ以上にこの手のたぐいが好きではないので、中に入るのは気が進まない。

 出てきたカップルは皆、一様にはしゃいで帰ってくる。まあ大丈夫だろう、と冬枝がタバコを吸おうとした矢先、「きゃあああああああっ!!!」というさやかの悲鳴が聞こえてきた。

「さやか!?」

 ハリボテの幽霊を怖がった叫び声には聞こえなかった。冬枝が受付を無視して強引に中に入ると、入口のすぐそばにさやかが倒れていた。

 しかも、さやかの上には、見覚えのあるピンクの革ジャンの背中が覆い被さっている。

「嵐っ!」

「へへへ、やっとシャンプーをダンディ冬枝と違うやつにしたんだな、さやか」

「いやーっ!離れろっ!」

 鼻の下を伸ばして頬擦りしてくる嵐に、さやかが細い手足でもがいている。

 冬枝は嵐の首根っこを掴むと、さやかから引き剝がした。

「このチカン野郎、サツに突き出すぞ!」

「あれー、ヤクザにごしゃがれた。さやか、おっさんなんかほっといて、俺と楽しいことしようぜ~」

「断るっ!!!」

 さやかは肩をいからせると、来た方向へとずんずんと戻っていった。

 後を追ってお化け屋敷から出ようとした冬枝を、嵐が呼び止めた。

「冬枝さん」

「なんだ」

「あんまり、さやかを野放しにしないほうがいいですよ。成金スーツが、ワルーい顔してさやかを狙ってました」

 成金スーツとは、朽木のことだろう。嵐は、朽木の魔の手からさやかを守るために、あんな真似をしたというのか。

 ――食えない野郎だ。

 ふざけた言動の影で、嵐は冬枝とさやかの動向を注意深く観察している。流石に、元刑事の肩書きは飾りではないようだ。

 という冬枝の評価も、嵐は瞬時に打ち壊す。

「さやかに言っといてください。いざって時のために、ブラとパンティーは揃えとけって」

「………てめえ、いつ見たんだ」

「あれれ~、ダンディ冬枝、目がおっかねぇぞ~?せば、俺はこれで」

 冬枝の手をひらりとかわし、嵐は軽快なステップで去って行った。

 お化け屋敷から出ると、さやかが「ああっ」と素っ頓狂な声を上げた。

「どうした、さやか」

「動物園っ。ここ、動物園がメインなのに、見るの忘れてました……」

「そんなに見てえか?」

 確かになかもりやまのメインはあくまで動物園で、遊園地はおまけのようなものである。どっちにしろ、東京に住んでいたなら、そんなに珍しくもないだろうと冬枝は思うのだが。

「落ち込むなよ。動物園は、今度連れてってやるから」

 うなだれるさやかを見ていたら、口が勝手にそう動いていた。

 ――何言ってんだ、俺は。

 これでは、自分からデートに誘っているようなものだ。冬枝の動揺とは裏腹に、さやかはぱっと顔を上げた。

「本当ですか?」

「え、ああ、うん」

「約束ですよ、冬枝さん」

 もうデートごっこはこりごりだったが、さやかが嬉しそうなのを見ていたら、水を差すのも野暮に思えた。

 ――ま、悪い気はしねえけどよ。

 見上げれば、2人の頭上をオレンジ色の夕暮れが染め上げていた。

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