54話 秋津タケルとその家族
第54話 秋津タケルとその家族
ざっぱーーん…。
熱めのお湯が、滝のようにさやかの全身を流れていく。思わず、さやかの唇からはーっと溜め息が洩れた。
――ああ、気持ちいい。
雨で冷えた身体に、潤いと温もりが染み渡っていく。ほのかに漂うヒノキの香りも悪くない。
ほかほかと湯気が上がる風呂場は、あの冷たい雨が降り注ぐ外とは別天地だった。
「お湯加減、いかがかしら。熱くない?」
さやかにお湯をかけてくれた女性が、後ろから艶のある声で尋ねてくれた。
「あ、は、はい。ちょうどいいです」
「そう。良かったわ」
女性の微笑む気配が、さやかの耳元をくすぐる。ついでに、背中に大きな柔らかいものが当たった。
――これは、かなり大きい……鈴子さんにも匹敵するかも。
ぽよぽよと当たる感触の気持ち良さについ没頭してしまったさやかだが、泡のついたスポンジが肌を滑り始めたところで、ようやく我に返った。
「あっ、あの」
「なぁに?」
「僕、自分で洗えるから大丈夫ですっ!」
さやかが慌てて振り返ると、さやかにぴっとりくっつくようにして後ろにいた女性が「あら」と切れ長の瞳を見開いた。
「遠慮しなくてもいいのよ。あなたはお客さんなんだから、くつろいでちょうだい」
「いや、そういう問題ではなく…」
「そうだよ、おばあちゃんに洗ってもらいなよ!」
「さやかちゃん、すっごく疲れた顔してるよ」
正面にある大きな湯船に浸かっていた少女2人が、そっくりの顔と声で言った。
「えっ。僕、そんなに疲れた顔してますか」
「うん!」
少女2人に頷かれ、ついでにぷるぷる揺れる2人の胸元を見たさやかは、顔よりも自分の胸元に気がいった。
――この子たち、どう見ても中学生ぐらいなのに、僕より大きいような……。
さながら、巨大戦艦に囲まれた小舟のような心細さを覚えたが、さやかは首を横に振った。
――って、違う!今は胸がどうとか考えてる場合じゃない!
さやかが逡巡している間に、女性は手際よくさやかの身体を洗い始めていた。
人に身体を洗ってもらうなんて子供の頃以来だが、丁寧な手の動きと優しい力加減が心地いい。ついでに背中に当たる女性の身体の柔らかさと石鹸の香りが、さやかを夢見心地にさせた。
母さんに洗ってもらってるみたい――と考えかけて、さやかは瞼を閉じた。
――ああ、僕、本当に疲れてるのかも。
疲れるのも当然と言えば当然だったが、さやかは自分の弱音が許せなかった。
――冬枝さんは、僕のせいであんな大怪我を負ってしまったのに…。
「………」
俯くさやかのうなじを、女性が心配そうに見下ろしていた。
遡ること1時間前、さやかは秋津ミノルの自宅にいた。
「………」
冬枝が気を失って倒れ、玄関先はさやかと秋津一家総長・秋津タケルの2人きりになった。
一拍遅れて、外からびしょ濡れになった栗林がよろよろと入って来た。
「そ、総長。ご無事ですか」
そう言う栗林も、冬枝に刀を突き付けられたせいで、喉元が血だらけになっている。傷は浅そうだが、さやかはばつが悪くなった。
――冬枝さん、とんでもない無茶するんだから…。
組員を人質に取られた以上、秋津タケルは容赦しない。冬枝は自ら墓穴を掘ったようなものだった。
タケルに一度ノックアウトされ、再び起き上がった時、冬枝の目つきはかなり怪しかった。呂律も回っていなかったが、本人は気付いていなかったのだろう。
結果、力尽きて倒れた冬枝を見て、さやかは泣きたくなった。
――痩せ我慢もここまで来ると、筋金入りのバカだ…。
さやかの横で、タケルは栗林に冷徹に命じた。
「栗林。この男を白虎組まで護送しろ」
「は……って、えぇっ!?」
頷きかけた栗林が、驚いてバッと顔を上げた。
「そ、総長!それって、この男を…冬枝誠二を見逃すってことですか!?」
「……」
タケルは、否定しない。栗林が、目を白黒させてタケルを見上げた。
「よろしいのですか、総長!?ミノルさんの……朱雀組の最高顧問の家に押し入ってきたんですよ、この男は!」
タケルは、低い声で言った。
「先に夏目さやかを連れ去ったのは最高顧問だ。白虎組が取り返しに来るのは当然のこと」
「しかし…」
「白虎組は『姑獲鳥屋』に宿泊している。お前も傷の手当てを急げ」
「……はい」
有無を言わせぬタケルの口調に、栗林は大人しく従った。
それから、タケルはさやかに向き直った。
「夏目さやか」
「……」
「うちまで来てもらう。いいな」
「………はい」
さやかは、ちらりと冬枝を見下ろした。
――これで本当にお別れです、冬枝さん。
組員を人質に取って最高顧問の家に押し入った冬枝を不問に処す、というタケルの決断は、破格の恩情と言っていい。
冬枝の身の安全が保障された以上、さやかが秋津一家に行くのを拒む理由はなかった。
「ガキがイキがってるだけにしか聴こえねえなあ」
冬枝の声が耳の奥から響いたが、さやかは聴こえないふりをした。
こうして、さやかは秋津一家の本部・赤陽館に連れて行かれ――るのかと思いきや、タケルが向かったのは赤陽館ではなく、自宅だった。
大きく『秋津』の表札が掲げられた玄関は、門構えも厳めしい。中に入ると、ミノルのこじんまりとした自宅とは正反対の、大きな庭とガレージのある広い邸宅が待ち受けていた。
――ここが、秋津一家総長の自宅……。
緊張するさやかをよそに、タケルは特に説明もせず、スタスタと先を進んだ。
タケルがガラガラと玄関を開けると、中から「おかえりなさい」と女性が迎え出た。
――わあ、綺麗な女の人。
ウェーブのかかった髪が顔の左右で揺れ、あらわになったうなじがギリシャ神話の女神のように優雅だ。それでいて、切れ長の目元と唇が何とも色っぽい。
女性はタケルとさやかを交互に見て「あら」と目を丸くした。
「2人共、びしょ濡れじゃない。傘はどうしたの?」
「玄関までなら通り道だ」
「タケルは良くても、お客さんが可哀想でしょう?今、タオルを持って来るわね」
秋津一家の総長であるタケルを呼び捨てにするところを見ると、女性はタケルの身内らしい。ゆったりとした服の上からでも分かる豊かなボディラインに、さやかはつい見惚れてしまった。
――淑恵さんといい、ヤクザの奥さんってみんな美人でスタイルが良いのかな…。
女性はタオルを手に戻って来ると、すぐにさやかの髪や服を拭いてくれた。
「ごめんなさいね、夫が気が利かなくって」
「いえ、そんな…」
「このままじゃ風邪を引いてしまうわ。ちょうど沸かしたところだから、ひとまずお風呂にしましょうか」
女性がさやかを甲斐甲斐しく拭いてくれている間、タケルはさっさと靴を脱いで上がった。
「アズサ。客人の相手は任せる」
「分かったわ。私たちはお風呂場を使うから、タケルは自分の部屋のシャワーを使いなさいね」
「……むう」
タケルは不満そうに口を尖らせたが、渋々、廊下の向こうへと歩いて行った。
その後、女性はお風呂場の大きな扉の前で自己紹介してくれた。
「初めまして、秋津アズサです。タケルの妻です」
「は、はじめまして」
――この人が、秋津一家総長の奥さん……。
女性――アズサの揺れる髪からは、大人っぽいオーキッドの香りがした。
アズサの隣には、瓜二つの顔をした少女2人がいる。いずれも、興味津々といった眼でさやかを見上げている。
――この娘たちは……。
さやかの疑問顔に、アズサがにっこりと答えてくれた。
「この2人は、私の孫よ。東京から遊びに来ているの」
「秋津モミジです!」
「秋津カエデです!私たち、双子なんだよ!」
そう言って笑うモミジとカエデは、お揃いの黒々とした瞳が何とも愛らしかった。
「わあ、双子なんですか。お名前もとっても可愛いですね」
と言いながら、さやかはふと素朴な疑問を抱いた。
――今、『孫』って言った…?
秋津タケルの妻・アズサは、さやかの目から見ても美人だ。立ち振る舞いは落ち着いているが、とてもじゃないが『おばあちゃん』と呼ばれるような年齢には見えない。
その種明かしは、身体を洗い終わって湯船に浸かった頃、アズサ自ら話してくれた。
「私も息子も、子供を授かるのが早かったのよ。こんなところは親子で似るのね」
「はあ…」
「ちなみに、息子は東京で堅気のお仕事に就いてるわ。今日は都合が悪くて来てないけれど」
アズサはくすくすと笑った。
「ほら、タケルってあの通り、頑固で口下手でしょう?息子もそうなのよ。顔を合わせればケンカになるから、お互い会うのを避けてるみたい」
「そうなんですか」
いきなりタケルの身内の話をされて、さやかはどんな顔をしていいか分からなかった。
――僕、これから秋津一家に尋問なり拷問なりされる身の上なんだけど……。
さやかの浮かない顔に気付いたのか、アズサが眉を曇らせた。
「あら。もしかして、タケルがあなたに何か怖い想いをさせたのかしら」
「えっ?いや、その…」
「不器用な人だけど、悪気はないのよ。お詫びと言っては何だけど、今日はゆっくりしていってちょうだい」
アズサに微笑まれ、それがまた気品のある美しい笑みだったものだから、さやかは何も言えなくなってしまった。
――アズサさんに、敵意があるようには見えない。
或いは、アズサはさやかが秋津イサオの事件に関わっていることを知らないのだろうか。
さやかとアズサの正面にある浴槽で、モミジとカエデがきゃっきゃとはしゃぎ声を上げた。
「おじいちゃんちのお風呂、広くて気持ちいーい!」
「この匂いすると、おじいちゃんちに来たなーって感じするよね」
「ヒノキの匂いね。タケルのお気に入りなの」
アズサがにこやかに言うと、さやかはなるほど、と頷いた。
「ヒノキの香りには、気分を落ち着かせるアルファピネンとトルネオールという物質が含まれています。ここは浴槽だけじゃなく、天井や床もヒノキで造られていますから、一段といい香りがしますね」
「へー、そうなんだ!」
「さやかちゃん、物知りだねー!」
浴槽から身を乗り出したモミジとカエデに、アズサが「こーら」と優しくたしなめた。
「さやかちゃんじゃなくて、さやかさん、って呼びなさい。さやかさんは、あなたたちより年上の19歳なのよ」
「えっ、本当!?」
「てっきり、私たちと同じぐらいかと思ってた」
そう言う双子たちの目線が自分のバストに注がれていることに気付いて、さやかは浴槽に身を隠すように沈めた。
――どうせ、僕は小学生サイズですよ。ふーんだ。
祖母の注意は気にも留めず、モミジとカエデは「ねえねえ」とさやかに声をかけた。
「さやかちゃん、木好き?」
「えっ?」
「ほら、私もモミジもおばあちゃんも、みーんな木の名前なんだよ」
「大羽はね、山がいっぱいあるから、大きな木がたくさんあるの。秋は山が色づいて、とっても綺麗なんだよ」
モミジとカエデの他愛無い笑みを見ているうちに、さやかの中から自然と毒気が抜けていった。
――モミジちゃんとカエデちゃん、いい子たちだな。
そこでふと、さやかは疑問を持った。
――こんな可愛いお孫さんたちがいるところに、僕を連れて来て良かったのかな。
秋津一家にとってさやかは稀代の悪女であり、タケルにとっては実兄の仇だ。さやかがアズサや孫たちに危害を加えるかもしれない、という発想はなかったのだろうか。
相手はあの源を降し、冬枝をも倒した秋津一家総長・秋津タケルだ。鷲のように厳しい眼を持つタケルの考えは、さやかには測り知れなかった。
夕食後、さやかはモミジとカエデが泊まる部屋まで引っ張られた。
「さやかちゃん、見て見て。これ、私たちが持って来たお洋服」
「これね、学校の宿題。こっちは、お友達からもらったぬいぐるみ」
女子中学生らしく、2人はとにかくお喋りがしたくてしょうがないらしい。ベッドの上で雑誌や漫画を一緒に広げながら、さやかは場違いな気がしていた。
――お夕飯も一緒にいただいちゃったし、ホントにこれでいいのかな…?
夕食は、タケル・アズサ夫妻と孫たちとさやかが一緒に食べた。アズサが振る舞ってくれた料理はどれも美味しく、茶碗蒸しなんて思わずレシピを聞きたくなったほどだ。
賑やかに話す女性陣とは対照的に、タケルは終始、無言だった。さやかに秋津イサオの件を切り出す素振りもなく、食事が済むと足早に外へと出掛けて行ってしまった。
――こんな普通のお客さんみたいにもてなされちゃうと、どうしたらいいか分かんないな…。
実は全て、さやかを油断させるための罠なのではないか、とも疑ったのだが、アイドル雑誌の切り抜きを見せるモミジとカエデの笑顔には屈託がない。
「私、カッちゃんが一番好きなの」
「私はニッキ。双子だけど、男の子の好みはちょっと違うんだ」
「だから、私とカエデは一人の男を取り合う、なんてドラマみたいなことにはならないんだよ」
うふふと声を合わせて笑ってから、モミジとカエデはアイドル雑誌を指して尋ねた。
「さやかちゃんは、少年隊では誰が一番好き?」
「…ヒガシ」
さやかが正直に答えると、モミジとカエデは「シブ~い」と声を揃えて笑った。
「そうだ。さやかちゃんって、麻雀がすごく強いんだって?」
「えっ?」
「おばあちゃんが言ってたよ。さやかちゃんは、ミノル君と同じぐらい強いんだ、って」
――ミノルさん……。
ミノルの名前が出て、さやかは少し複雑な気持ちになった。
「お待ちしています」
ミノルの穏やかな声が、さやかの耳によみがえる。
結局、ミノルとは事件のことを話せないまま別れてしまった。今後、きちんと話す機会が来ればいいのだが。
モミジとカエデは、カバンから大きな箱を取り出した。
「じゃーん!麻雀セットだよ!」
「私たちも麻雀大好きなんだ。クラスじゃ無敵なんだから」
座卓もあるよ、と部屋の奥から引っ張り出してきたモミジとカエデに、さやかの瞳がぱあっと輝いた。
「あなたたちも、麻雀やるんですか!?」
「やるやる。子供の頃に、ミノル君が教えてくれたの」
中学生の『子供の頃』がいつのことかは分からないが、さやかは気にしなかった。
「わあ、ミノルさん仕込みなら間違いないですね。ちなみに、お2人のうち、強いのはどちらで?」
さやかの不躾な質問にも、モミジとカエデは「それ、よく聞かれる~」と笑って答えてくれた。
「今のところ、51勝51敗。引き分けなの」
「すごい。お2人、実力が拮抗してるんですね」
これまでのモミジとカエデの戦績を書いたノートも見せてもらい、さやかは胸がワクワクした。
「モミジさんもカエデさんも、いい打ち回しですね。中学生でここまで打てる子はそうそういませんよ」
「うふふっ、さやかちゃんに褒められちゃった!」
「褒められちゃった!」
満更でもなさそうに笑う姉妹に、さやかはキラキラした目で質問した。
「学校では、麻雀クラブとかやってるんですか?」
「まさか。学校で麻雀なんかやってたら、先生に怒られちゃうよ」
「そうそう。パパも麻雀なんか女の子のするもんじゃない、ってうるさいの」
双子たちの明かした内情に、さやかは悔しさのあまり拳を握り締めた。
「くっ…大人はいつもそうだ。自分たちの勝手なルールばかり僕たちに押し付ける!」
「さやかちゃん、なんかシリアスしてる」
「大丈夫?」
心配そうに顔を覗き込む双子たちに、さやかは「大丈夫です!」と明るく顔を上げた。
「大人たちの敷いたレールに乗る必要なんてないんです。あなたたちの麻雀で、大人たちを見返してやりましょう!お2人の腕前なら、将来は麻雀で食っていくことも夢じゃありません。双子の美少女雀士なんて、テレビからも声がかかるかもしれませんね。そしたら、女性専用雀荘や、女性だけの麻雀大会なんかも開催したりして……」
一人でぺらぺらとまくし立てるさやかに、モミジとカエデが呆気に取られた。
「さやかちゃん。私たち、そこまで麻雀に人生賭ける気はないよ」
「えっ?」
「麻雀はあくまで趣味だから。将来は、優しくてカッコいい銀行マンと結婚したいな」
「私は証券マンでもいいな」
モミジとカエデは、さやかの敷いたレールに乗っかる気はないらしい。一人で盛り上がってしまったさやかは、ちょっと反省した。
「…すみません。モミジさんとカエデさんみたいに、姉妹で一緒に麻雀を打ててる、っていうのが、羨ましくて」
雀卓の上では誰だって孤独、というのがさやかの信条だ。それでも、姉妹で麻雀を打ち合えるモミジとカエデはとても楽しそうに見えた。
「さやかちゃん、きょうだいいるの?」
モミジのくりくりした目に見上げられ、さやかははい、と頷いた。
「兄が一人います。モミジさんとカエデさんみたいに仲の良いきょうだいではないですけど、小さい頃はよく一緒に麻雀を打ってたんですよ」
「さやかちゃん、お兄ちゃんいるんだ」
「さやかちゃんは、女の子と打ったことある?」
ありますよ、と笑って、さやかはこれまでに打った面々のことを思い出した。
真面目で、粘り強い打ち回しをする響子。響子の師匠であり、経験豊富でかなりの実力者である美佐緒。
打ったことはないが、鈴子も麻雀が打てるかもしれない。源から麻雀を教わったという淑恵とも、打つ機会があったら打ってみたい。
そういえば、マキも出会った時に朽木と勝負していたから、麻雀のルールは分かるのだろう。一度ぐらい、手合わせしてみれば良かったか。
――でも、もうみんなと会うことはないんだ。
彩北で出会った女性たちの顔を思い浮かべているうちに、さやかは改めて自分が遠くに来たのだと思い知った。
感傷に耽っていたさやかは、隣にいたカエデがジャケットをごそごそと探っていることに気付かなかった。
やがて、カエデは、さやかのポケットから牌をつまみ上げた。
「牌みーっけ!ん?これ、なんて書いてあるの?」
「見せて見せて!ん?『ひゃくとう』?」
牌を手に首を傾げるモミジとカエデに、さやかはようやく我に返った。
「あっ、それはダメです!」
さやかが声を上げると、モミジとカエデはあっさり牌を返してくれた。
「ねえ、さやかちゃん。それ、なんて書いてあるの?」
「その牌、見たことない。何に使うの?」
モミジとカエデの質問に、さやかは苦笑して答えた。
「…これは『百搭』と言って、中国の麻雀で使われる牌です。トランプで言うところの、ジョーカーみたいなものかな」
百搭の牌を見つめるさやかの目が暗かったことに、モミジとカエデは気付かなかった。
トントン、とドアをノックする音がして、モミジとカエデが顔を見合わせた。
「あっ。おばあちゃんだ!」
「いっけない、もう9時だ」
ガチャッ、とドアが開き、2人の祖母――アズサがネグリジェ姿で現れた。
「あなたたち、やっぱりこんな時間まで起きてたのね。そろそろ布団に入りなさい」
「はーい」
「さやかちゃんは、どこで寝るの?」
モミジの質問にさやかが答えあぐねていると、アズサがポンと肩を抱いてくれた。
「さやかさんは、おばあちゃんがお部屋に連れて行くわ。モミジ、カエデ、おやすみなさい」
「おやすみなさい、おばあちゃん、さやかちゃん!」
パジャマ姿で手を振るモミジとカエデに見送られ、さやかはアズサと共に部屋を出た。
――いよいよ、総長と直接、話をするのか…。
というさやかの予想は外れ、アズサに連れて行かれた居間には、タケルの姿はなかった。
――あれっ?
拍子抜けするさやかに、アズサはにこやかに言った。
「ごめんなさいね、あの子たちの相手をしてもらっちゃって」
「あ、いえ…」
「やっぱり、同世代の女の子とお喋りしてると、あの子たちも楽しそうね。特に、麻雀好きの若い女の子なんて、めったにいないから」
そこで、さやかはふと、ずっと思っていたことを口にした。
「……モミジさんとカエデさんは、東京からこちらに避難してきたんですか。青龍会から身を守るために」
今は、学校の長期休暇の時期ではない。モミジとカエデの部屋にはクッションや雑誌が置かれ、ここで長く生活していることが伺われた。
アズサは、台所で湯を沸かしながら答えた。
「念のため、ね。東京でイサオお義兄さんがあんなことになって、記者の方たちもうるさいから」
「そうですか…」
「息子もタケルも、心配性なのよ。それでなくてもモミジとカエデは双子で目立つから、スカウトマンに声をかけられた、ってだけで、原宿に行くのを禁止にしたりして。過保護よね」
アズサは笑みを浮かべると、ほかほかと甘い香りのするティーカップをさやかの前に置いた。
「どうぞ。カモミール、お嫌いじゃないかしら」
「わあ、ハーブティーですか。いただきます」
さやかは、熱々のハーブティーを一口、口にした。
鎮静作用のあるカモミールは、就寝前にはうってつけの一杯だ。さやかは、隅々に至るまでアズサの気遣いを感じずにはいられなかった。
「…何だか、申し訳ないです。着替えまで用意してもらっちゃって…」
さやかが着ているのは、温かなテラコッタ色のパジャマだ。普段は着ないような色だが、不思議とさやかに似合っていた。
アズサは自身もティーカップに口をつけると、「いいのよ」と言った。
「それ、私のお店の服だから」
「えっ…。アズサさん、ブティックを経営してるんですか?」
「そうよ。『カタルパ』ってお店。この街の女の人たち相手にやってる、小さなお店だけどね」
「『カタルパ』って…お名前から取ったんですか?いいですね」
さやかの返事に、アズサが小さく目を丸くした。
「さやかさんって、本当に物知りね。何だか、ミノル君と喋ってるみたい」
「えっ」
「『カタルパ』って名前も、ミノル君に付けてもらったのよ。お店の名前に悩んでいたら、英語で梓の木を意味する『カタルパ』はどうか、ってね」
――ミノルさん…。
ミノルの名前を出され、さやかは反応に迷った。
さやかの困り顔を見て、アズサが「ごめんなさいね」と謝った。
「まさか、ミノル君があなたをさらって来るなんて…。本当は、そんな人じゃないのだけれど」
「あ、いえ…。僕が自分でミノルさんについて来ただけですから」
そこは、はっきりさせておかなければならない。さやかは自分の意志で秋津一家に来たのであって、被害者面をするつもりはない。
だが、アズサの眼差しは憂いを帯びていた。
「秋津一家では、どんな理由があろうと堅気の女性や子供に手を出すことは禁じられているの。これは、口先だけのことじゃないわ」
アズサの視線の先を追ったさやかは、天井近くの壁に飾られてある写真を見つけた。
――わあ、格好いい男の人。
夕食時は緊張していたせいか、写真の存在に気付いていなかった。さやかは、改めてモノクロ写真に釘付けになった。
額縁の中で微笑む男性は、端整な細面にくっきりとした顔立ち、それに何とも言えない色っぽい目つきをしている。さやかは、思わず見惚れてしまった。
よく見ると、男性は目元が何となくイサオに似ている。大切そうに飾られているところを見ると、イサオの父親だろうか。
というさやかの想像は、大変失礼なものだということが明らかになった。
「あれは、アカネお義姉さんよ」
「アカネおねえさん……えっ!?お姉さん!?」
うっかり正直に驚いてしまったさやかは、慌てて口元を手で覆った。
さやかの無礼な反応にも、アズサは笑ってくれた。
「びっくりするわよね。私も初めて会った時、アカネさんのことを男の人だと思ってしまったもの」
「す、すみません」
「ううん。実際、アカネさんは自分のこと、男だとか女だとか、そういう風に縛っていない人だったから」
アズサはとても懐かしそうな瞳で、写真の中の人物を見上げた。
「アカネさんは、亡くなったイサオお義兄さんやススムお義兄さん、タケル、ミノル君の一番上のお姉さんよ
秋津アカネは、秋津家の長女として大羽に生まれた。
子供の頃から背が高く、面差しは凛々しく、声は艶やかで低く、一目では女だと分からない容姿をしていた。体格が優れていたアカネは、ケンカで男に負けたことはなかった。
その膂力と知恵を生かし、アカネは街の経営者たちの用心棒を務めた。時には悪徳地主と血だらけの決闘を演じ、また時には人々の争いを仲裁することもあった。
全ては、幼い弟たちを養うため――というより、アカネ自身が生まれながらの悪党だったのかもしれない。
当時の大羽は、鉱山で働く殺気立った労働者たちと、それを牛耳るヤクザたちが闊歩していた。決して女が生きやすくはなかった時代に、アカネは縦横無尽に大羽の街を飛び回っていた。
アズサがアカネと出会ったのは、15歳の時だった。
「私、親の借金のカタに売られて、高利貸しのところにいたの」
アズサからそう告白されて、さやかは言葉を失った。
「売られたのが10歳の時だから、5年はいたことになるわね。他にも売られてきた女の子たちがいて、私が一番の古株だったわ」
15歳になったアズサは、既に親からの助けなど期待していなかった。日々、主人の機嫌を伺い、年下の少女たちの面倒を見る。それが当たり前の日常になっていた。
「…高利貸しの家の庭には、大きな真っ黒い犬がいたの。お前の前にいた女は、ここから逃げようとしてあの犬に食い殺されたんだぞ、なんて脅されて。本当かどうかは分からなかったけれど、とにかく恐ろしくて、逃げることなんてできなかった」
一生、この暮らしが続くのだと思っていたアズサの前に、一陣の風のように現れたのが秋津アカネだった。
「お前たち、今日からみんなオレの女だ。今までのことは忘れろ」
そう言って笑うアカネの瞳は、名前の通りの茜色に輝いて見えた。
アカネの足元で倒れていた高利貸しがその後どうなったのか、アズサは知らない。ただ、その夜、アズサたちの人生が大きく変わったことだけは確かだった。
「売られてから5年も経っていたから、私の親はもう、どこにいるのかも分からなくなっていたわ。帰る場所のない私に、アカネさんが住むところとお仕事を用意してくれたの」
助けられたとはいえ、囚われていた5年間が消えるわけではない。自由になったという実感が湧かないアズサに、アカネは毎日会って話をしてくれた。
「弟さんたちの話をすることもあれば、どこそこの社長が中国から密輸してる、なんて際どい話をすることもあった。あと、ご飯の作り方や洗濯の仕方を教えてくれ、ってお願いされたこともあったわね」
長身で端整な面差しのアカネからそんな風に甘えられると、女性だと分かっていても胸がときめいた。アカネの存在は、アズサの支えだった。
「きっと、弟さんたちにとっても、アカネさんの存在は大きかったと思うの。女のアカネさんに負けていられないって思うから、ケンカでも勉強でも、人一倍頑張ったんじゃないかしら」
イサオはヤクザとケンカに明け暮れ、ススムは経営者たちに混ざってソロバンを弾き、タケルはバイクで街を駆け抜け、ミノルは麻雀の腕を磨いた。彼らが人並み外れた才能を発揮できたのは、アカネという偉大な姉がいたからこそだったのだ。
アカネはアズサ以外にも、街の恵まれない女性たちを助けていた。と言っても慈善事業ではなく、自分の息がかかった店で働かせていたらしいが。
「それでも、私たちにとっては十分救いになった。いつ殺されるか、怯えなくても良くなったんだもの」
大抵の困り事は、アカネに相談すれば何とかなった。恩人であり、とても魅力的な人物でもあったアカネに、時々キスされたり抱き締められたりしても、アズサは嫌だと思わなかった。
「なんて、タケルには内緒だけどね。アカネさん、街中の女の子と付き合ってたみたいよ。ふふっ」
それから、5年の月日が流れた。アズサはホステスとして働きながら、少しずつ自分の将来を考えるようになっていた。
「私、いつかお洋服屋さんをやりたいの」
ある日、アズサがアパートでそう言うと、アカネは卓袱台にあぐらをかきながら頷いてくれた。
「いいじゃねえか。アズサ、裁縫得意だもんな」
「うん…。前はよく、女の子たちに服を縫ってあげてたから」
戦後の物資不足で、女たちにお洒落をする自由はなかった。それでも着物の端切れを縫い合わせ、思い思いの色や形に仕立てていくうちに、アズサはこれを着て歩く女性たちの姿を思い浮かべるようになった。
「自分の好きなお洋服を着ている女の子たちは、みんな笑っているわ。ほんのちょっとでもいいから、女の子たちが笑顔になれる手助けができたらいいな、って」
アカネに語っていると、アズサの中で大きく希望が膨らんでいくのが分かった。こんなに前向きな気持ちになったのは、人生で初めてだった。
――いつか、アカネさんにも私が作った服を着て欲しい。
という胸のうちの言葉は、恥ずかしくて口には出せなかった。アズサはまだ貧しいホステスに過ぎず、夢を語ってはいても、実際に店を開くような資金などないのだ。
「だけど、やっぱり言えば良かった。アカネさんが、あんなに早く死んでしまうと分かっていたら……」
アカネがこの世を去ったのは、アズサが将来の話をして間もなくのことだった。
「スナックで、酔っ払ったヤクザ同士がケンカになったの。片方が拳銃を撃って、流れ弾がアカネさんに当たった」
アカネはまだ25歳だった。若い弟たちにとって、姉の死は大きな衝撃だったという。
「みんな言葉にはしないけれど、アカネさんがこんなに呆気なく命を落としてしまうなんて、本当にショックだったと思うわ。アカネさんは殺しても死なないんじゃないか、って冗談で言ってたぐらいだから」
大羽の悪党たちとも対等に渡り合い、男にも女にもモテた。女に力も権利もなかった時代に、アカネは不可能を可能にした。
両親を早くに失い、戦時下の貧しい大羽で育った4兄弟にとって、無敵のアカネは誇りだった。
そのアカネが死んだことは、4兄弟に深い傷を残した。無情な暴力の前では、どんなに大切なものでも壊れてしまうのだと、彼らは思い知った。
「秋津一家が女子供に手を出さないのは、アカネさんのことがあったからなんですね」
さやかが言うと、アズサは頷いた。
「もう二度と、あんな思いをしたくない。自分たち以外の誰にも、あんな思いをさせてはいけない。秋津一家を興したイサオお義兄さんはじめ、ススムお義兄さんも、タケルも、ミノル君も、無言のうちにそう誓ったの」
秋津四兄弟は、個性や考え方はバラバラでも、想いはアカネによって結ばれている。秋津一家の結束の強さの理由を、さやかは知った。
「アズサさんは…アカネさんが亡くなられた後、どうしたんですか」
さやかの問いに、アズサは寂しげに笑った。
「あまりにも急すぎて、しばらくは何も手につかなかったわ。だって、亡くなる前の日まで、普通に私の家で笑ってお酒を飲んでたんだもの。アカネさんがもうこの世にいないなんて、すぐには受け入れることができなかったわ」
家族のいないアズサにとって、アカネは恩人以上に大切な存在だった。事件のあった店の前に花を供える度に、涙が零れた。
「なかなかアカネさんの死から立ち直れなかったけれど、それでもお仕事には行かなくっちゃいけない。自分の生活に手いっぱいで、アカネさんの弟さんたちがどうしてるかなんて、ちっとも知らなかったわ」
アカネとは親しかったアズサだが、その弟たちには会ったことがなかった。ミノルはまだ子供だったし、イサオを始めとする上3人は不良三昧で、家族バラバラの生活をしていたせいだろう。
「だから、エンジンのうるさいバイクに乗ったお客さんが来た時も、それがまさかアカネさんの弟だなんて気付かなかったわ」
当時、タケルは16歳、アズサは21歳だった。タケルは仲間を率いてバイクを乗り回す不良だったが、アズサの前では大人しかった。
「その頃からタケルは口下手だったけど、優しい人だっていうことは何となく伝わったわ。私も何だかタケルが可愛くなっちゃって、お店で会ううちに付き合うようになったの」
タケルがアカネの弟だということは、後に知った。アズサはタケルのことが好きだったが、2人の付き合いは長くは続かないだろうと思っていた。
「私はタケルより5歳も上だし、長い間、人には言えないような暮らしをしてきたから。タケルのお嫁さんになる資格はないと思ってたわ」
狭い大羽の街では、アズサの過去を知らない人間はいない。親に売られて高利貸しの妾をしていたアズサには、夜の店しか居場所がなかった。
それでも、若いタケルの束の間の恋愛相手になれるなら、アズサは幸せだった。いつかタケルが自分の手から離れていくのかと思うと辛かったが、当然だと割り切っていた。
2人の関係が一変したのは、アズサの妊娠がきっかけだった。
「この子は、私が一人で育てるわ。私のことは忘れて、タケルは誰かいい人と幸せになってちょうだい」
身を引こうとしたアズサに対し、タケルはと言えば、何か気の利いたことを言ってくれたわけではなかった。
「ただ、ぶっきらぼうに『じゃあ結婚する』って、それだけよ。私が『いいのよ、私なら大丈夫だから』って言っても、タケルったら『いや、結婚する』の一点張りよ。最後には、私のほうが根負けしちゃったわ」
タケルが不器用なことも、そんなタケルだから愛しくてならないことも、アズサは分かっていた。
「本当は、自分でも分かってたのよ。タケルは、私の過去を気にするような人じゃないって」
そうして2人の長男が生まれ、タケルが18歳になった翌年、結婚した。
空になったティーカップを置き、アズサは苦笑いした。
「長い話に付き合わせてしまったわね。これじゃ、モミジとカエデのことを言えないわ」
「いえ、とんでもないです」
さやかは、アズサが単なる思い出話をしたわけではないことを理解していた。
――秋津タケルは、僕に危害を加えるつもりはない。そして、白虎組や青龍会が僕に危害を加えることを、許すつもりもない。
夏のさやかと組長の誘拐事件で、タケルが組員の指詰めと破門という重い処分を降したのも、全ては姉のアカネの死があったからだったのだ。
タケルの誠実さは分かったが、さやかにはあまりにも優しすぎる待遇に思えた。
「もし、僕がイサオさんの件について嘘を吐いたり、青龍会に利するような行動を取ったりしたら、どうするつもりですか?」
さやかがついそんな質問をすると、アズサがふふっと笑った。
「舐めてもらっちゃ困るわ。私、これでも洋裁家なのよ?」
「えっ?」
「さやかさんが嘘をついたら、さやかさんの正確なスリーサイズをみんなに言いふらしちゃおうかしら」
悪戯っぽく微笑まれ、さやかはとっさに自分の胸を両手で覆った。
――し、しまった!お風呂で身体を洗われた時に、スリーサイズを測られてたのか…!
顔を真っ赤にするさやかに、アズサは「冗談よ」と言った。
「タケルも私も、さやかさんを守りたいの。あなたにとっては余計なお世話かもしれないけれど」
「そんな、僕は…」
遠慮するさやかに、アズサは不意に目を伏せて言った。
「……昔、仕事の帰りに犬に襲われたことがあったの。大きな闘犬だったんだけど、飼い主が放し飼いにしているものだから、近所の人たちはみんな怯えていたわ」
夜道でその犬に遭遇してしまい、アズサはとっさに身体が動かなくなった。
「…あの高利貸しの元を離れて5年も経っていたのに、まだあの家の犬のことを覚えていたのかしらね。或いは、ただ単純に怖かっただけなのかもしれないけれど」
窮地のアズサを助けてくれたのが、当時まだ出会ったばかりのタケルだった。
「今では、その時の話に尾鰭がついて、タケルが闘犬を素手で殺したなんて言われているわ。本当のことだけど、タケルもやりたくてやったわけじゃないの。タケルが助けてくれなかったら、私は今ここにいないわ」
アズサは「さやかさん」と言って、さやかの手をそっと握った。
「こうなった以上は、諦めて我が家の可愛いお客さんでいてちょうだい。うちにいれば、タケルが絶対にあなたを守ってくれるから」
――アズサさん…。
アズサの笑みは、さやかの胸の奥まで温かくしてくれた。
「おやすみなさい。明日は、美味しい朝食を作って待ってるわ」
アズサの微笑みに、さやかは素直に「はい」と頷いた。
去り際、さやかはもう一度アカネの遺影を見上げた。
――アカネさんがもしも生きていたら、今の秋津一家を見てどう思うのかな…。
センチメンタルに耽りかけたさやかは、写真に小さく名前が付されているのに気付いた。
――栗林アカネ。
その頃、秋津一家総長・秋津タケルは、弟であり秋津一家最高顧問・秋津ミノルの自宅を訪れていた。
「夏目さやかを拉致して、どうするつもりだった」
こじんまりとしたダイニングで、タケルは単刀直入に切り出した。
「………」
ミノルは紅茶を一口、口にすると、ふうと溜息を吐いた。
「総長。その件にお答えする前に、可哀想な栗林にねぎらいの言葉でもいただけませんか。栗林は冬枝誠二に殺されかけた上、冬枝誠二を白虎組の根城まで護送しろ、なんて無茶を命じられたんですよ?」
その栗林は台所の玉すだれの向こうで、びくびくとタケルの様子をうかがっている。首に巻かれた包帯の痛々しさに、ミノルは目を細めた。
「うちのシマとはいえ、『姑獲鳥屋』は中立寄りの旅館です。栗林は生きた心地がしなかったと思いますよ」
ミノルは栗林の苦労を訴えたが、タケルは相手にしなかった。
「そもそも、最高顧問が夏目さやかを拉致しなければ栗林が手負いになることもなかった。それも含めて、貴様の責任を問わなければならない」
タケルが厳しい眼をミノルに向けた瞬間、玉すだれをバッとまくって栗林が割って入った。
「お、お待ちください、総長!」
栗林はタケルの足元に跪き、必死で縋り付いた。
「夏目さやかの拉致には、俺も協力しました。ミノルさんが処分を受けるなら、俺も同罪です!」
「元より、そのつもりだ」
タケルはすげない返事だったが、栗林は諦めない。
「夏目さやかは4代目の仇です。ミノルさんがそう言ってるんだから、それが真実じゃないですか!」
「栗林…」
タケルが何か言おうとしたが、栗林は一人でまくしたてた。
「俺たち秋津一家が守るべきは、堅気の女子供でしょう。夏目さやかは4代目を殺した上、白虎組や5代目ともつるんでいる。あんな女狐、庇ってやる義理がどこにあるっていうんですか!」
言い終えた時には、興奮と恐怖で栗林はハアハアと肩を上下させていた。
タケルの目は、栗林の揺れる感情を鋭く見抜いていた。
「栗林。お前も、夏目さやかと直接会ったな」
「は……」
ミノルとさやかが雀荘『こまち』などで会う時、大抵、栗林も同行していた。春野家でビーフストロガノフを作るミノルとさやかを、危なっかしく見守ったこともある。
「夏目さやかは、本当に4代目を殺すような人間に見えたか。最高顧問の言葉ではなく、自分の頭で考えろ」
タケルに迫られ、栗林は返事に詰まった。
「そ…それは……」
昨夜、まさにこの場所で、さやかはミノルと共にいた。ミノル特注の雀卓にはしゃぐ姿は、無邪気そのもののように栗林には見えた。
いささか風変わりなところはあるものの、夏目さやかは普通の少女にしか見えない。胸の奥にある本心を、栗林は認めざるを得なかった。
ズズッと紅茶を啜る音が、タケルと栗林の間の緊張を破った。
「…そう仰いますが、総長は4代目の仇討ちをお忘れなのでしょうか?」
ミノルの眼鏡の奥の瞳が、挑むように兄を見上げた。
そして、その目がふと悲しげに翳る。
「僕は、一日たりとも忘れたことはありません。一番傍にいながら、4代目をお守り出来なかったのですから」
最愛の兄を、目の前で殺された。みるみるうちに兄の身体が冷たくなっていくのに、ミノルはどうしようもなかった。
その悔しさ、悲しさを、ミノルは常に胸に抱いている。スーツの懐に隠した『百搭』の牌を、無意識に指先で触れていた。
「4代目の仇が討てるなら、ガキ一匹の命ぐらい安いもの。4代目の…イサオお兄さんのためなら、僕は悪魔に魂を売ってもいいと思っています」
秋津一家の法度を破るような発言に、栗林が思わずハッと顔を上げる。
――これは総長、怒るんじゃ……。
「………」
しかし、栗林の予想とは裏腹に、タケルは静かにこう返した。
「アカネの死も無駄だったか」
「………」
「最高顧問。夏目さやかは、しばらくうちで預かっておく。手出しするなら容赦はしない」
タケルはそう言って、あっさりとミノルの家から立ち去って行った。
栗林はタケルを見送ると、そろそろとミノルのいるダイニングへと戻った。
栗林の心配そうな顔を見て、ミノルがふっと笑みを浮かべた。
「…すみません。怒りましたか?栗林」
「い、いえ、俺のことは気にしないでください。俺、母の顔も覚えてませんから…」
栗林アキラは、秋津四兄弟の姉・アカネが遺したたった一人の息子だった。
アカネが子を持つ人妻になったことは、四兄弟も後に知った。ちゃっかり籍まで入れて、秋津アカネは『栗林アカネ』になっていた。
「アカネ、本当に女だったんだなあ」
アカネが子供を産んだと知って、亡きイサオはそんなことを言ったものだった。
アカネが亡くなった時、息子である栗林はまだ1歳だった。母親の記憶がないのも無理はなく、自身も完全に父親似で、アカネの面影はほとんどない。
男勝りのアカネが選んだ伴侶、つまり栗林の父親は、破天荒なアカネとは対照的に朴訥な人柄だった。寡黙で、常に息子と距離を置いている父とは、栗林が成長するにつれ、ぎくしゃくするようになった。
家庭に居場所はなく、規則正しい学校や職場にも馴染めない。かと言って、ヤンキーとつるむのも何か違った。
栗林は一人、苅屋という不良刑事とつるんで悪さをしていた。苅屋のことは嫌いだったが、誰からも好かれない日陰にいるのが、自分にはお似合いのような気がしていた。
そんなある日、父は栗林を秋津一家へと連れて行った。
――どうして、俺をこんな田舎に?
当時、栗林はそんな風に戸惑った。というのも、その頃の栗林は大羽ではなく、白虎組のシマである彩北に住んでいたからだ。
アカネが命を奪われた場所にいるのが辛いから、という理由で大羽を離れていたのだとは、その時に明かされた。
また、母の弟たちがヤクザの秋津一家だということも、栗林はこの時初めて知った。
「お願いします。息子の面倒を見てやってください」
そう言って父が頭を下げた相手は、秋津一家初代総長・秋津イサオだった。
秋津一家の名前は知っていたが、当時は白虎組の躍進が著しい時代だった。秋津一家は田舎の小さい組、と思い込んでいた栗林は、目の前にいる秋津イサオの輝きに圧倒された。
――太陽みたいな人だ。
イサオの傍にいるだけで、栗林まで力づけられる。こんなにエネルギーが横溢している男は、堅気の世界にも、不良の世界にもいなかった。
「よし。俺が責任持って、お前を立派な男にしてやる」
イサオはそう言ったものの、栗林の身柄はミノルに丸投げした。
「ミノル。お前、歳近いんだから、お前が栗林の面倒を見てやれ」
「ん~……」
兄にそう言われても、ミノルはベッドでシーツにくるまったまま、生返事だった。
――なんだ、この人…。
第一印象から輝ける太陽だったイサオと違い、ミノルの第一印象は『寝たきり老人』だった。栗林は早くも先行きに不安を感じ始めたが、他に行くところもないし、ミノルにくっついているしかなかった。
ミノルの凄まじい麻雀の実力や、人の心を操る才覚などを目の当たりにするのは、その後のことだ。
それから20年――栗林は今も、ミノルの側近として傍にいる。
栗林は言った。
「秋津一家の法度は、確かに守るべきだと思います。でも、4代目の仇討ちより大事なことなんてありません」
ミノルの側近として過ごしているうちに、裏社会には秋津四兄弟を始め、凄い人間が多々いるのだということ、この世の色々なことを栗林は学んだ。
記憶にない母の悲劇より、栗林にとっては恩人であるイサオとミノルのほうが大事だった。
「栗林…」
――そんなことを言ったら、草葉の陰でアカネお姉さんが泣き…いや、泣かないか、あの人は。
ミノルの記憶の中のアカネは、いつもひょうきんな笑顔だ。亡き姉を思い出すと、ミノルも何だかシリアスぶるのがバカらしくなった。
「…そうは言ってもですよ、栗林。今、総長の家に押し入ったら、僕らはアズサお義姉さんとモミジとカエデの3人から、変態お下劣親父として軽蔑されるでしょうね」
「うっ…」
タケルの妻・アズサは穏和で美しく、アズサを慕わない組員はいない。下っ端の栗林にも何くれとなく親身になってくれたアズサに、こんなことで嫌われるのは避けたかった。
ミノルは、すっかり冷めてしまった紅茶を口にした。
「夏目さやかのことなら、既に手は考えてあります」
「本当ですか?」
「5代目や青龍会は、いまだ夏目さやかを狙っています。それに、冬枝君も、この程度で懲りるような男ではないでしょう」
「あの男、また来るんですか?」
冬枝にやられた首の包帯をさすって、栗林はげんなりした。
冬枝誠二だけではない。春野嵐もこの街に来ており、その動きはミノルにも読めない。
――もう一波乱ありそうですね。
ミノルは、今頃大騒ぎになっているであろう白虎組の面々を想像し、小さく笑った。
大羽の駅近くにある旅館『姑獲鳥屋』に、白虎組の幹部が集結していた。
白虎組組長・熊谷雷蔵、若頭・榊原、若頭補佐・霜田。
夜、宴会場を貸し切って、幹部3人と組員たちがずらりと並んだ。
「すみません。さやかを取り返すのに失敗しました」
冬枝が幹部たちに頭を下げると、折れた守り刀を両手に持った組長が「わぁお」と声を上げた。
「どうする?榊原」
「どうもこうもありません。秋津一家に宣戦布告を出します」
榊原の爆弾発言に、冬枝は思わずギョッとして頭を上げた。
「せっ、宣戦布告?」
「すぐに秋津一家に書面で通達します。冬枝、お前は休んでろ」
さっさと立ち上がろうとする榊原のズボンの裾を、冬枝は慌てて掴んだ。
「待ってくださいよ、榊原さん。いきなり秋津一家とドンパチするって、一体どういうことなんですか」
さやかのために秋津一家と抗争に及ぶほど、榊原も組長も甘くはあるまい。自分が気絶している間に何かあったのだ、と冬枝は察した。
「冬枝…」
榊原は一瞬、言うのを逡巡したが、横にいた霜田が1枚の書類を冬枝に差し出した。
「こんなものが、うちのシマ中にばら撒かれていました」
「これは…」
紙を手に取った冬枝は、そこに印刷された内容を見て絶句した。
『ロリコンの本家ご本尊!!!未成年少女を拉致・監禁!!白虎組組員・冬枝誠二(43)』
チラシには、冬枝の大きな顔写真と共に、指名手配犯のようにでかでかと名前と行状が書き記されていた。
――何だよ、ロリコンの本家ご本尊って。
驚きで言葉も出ない冬枝に、「それだけではありません」と霜田は更に写真を封筒から出した。
「こんなトラックまで、我々のシマを走り回っていました。よくもまあ、短い時間で用意したものです」
写真に映されていたのは、冬枝の顔写真が大きくプリントされたラッピングトラックだった。こちらはチラシと違って時間がなかったのか、顔写真の横にはただ「チカン!変態!!」とだけ赤文字で大きく書かれている。
「………」
あまりにもアホらしいチラシとトラックに、冬枝は理解が追い付かなかったが――部屋の隅からくっくっくっと笑いを噛み殺すような声が聞こえるにつれ、ハッと我に返った。
「嵐!てめえ、そこにいんのか!?」
「プププ、ダンディ冬枝改め、ロリコン冬枝、グッモーニン」
「何がグッモーニンだ、この野郎っ!」
冬枝は座布団を蹴飛ばし、組員たちを押しのけ、宴会場の隅にいた嵐の襟首を引っ掴んだ。
「このチラシ、『こまち』にまで配られたらしいっスよ。ダンディ冬枝、ご愁傷様」
ひらひら揺れる『ロリコン冬枝』のチラシをパンと払い除け、冬枝は嵐に顔を迫らせた。
「てめえ、最初っから知ってたな」
「何を?」
「とぼけんな、秋津ミノルのことだ。お前、あんな野郎がさやかの周りをうろちょろしてるって、どうして俺に教えなかった」
すると、嵐はジトッとした目で冬枝の顔を指さした。
「ジェントル秋津の正体、気付いてなかったのダンディ冬枝だけ」
「うっ…」
「多分、さやかはハナっから分かってましたよ。ジェントル秋津が死んだ秋津イサオの弟だってことも、ジェントル秋津が自分を狙って彩北まで来たんだってことも」
さやかはずっと、揺れていたのかもしれない。このまま冬枝と共に過ごすか、秋津ミノルの復讐劇に付き合うか。
――だからって、死んで麻雀牌になるなんて悪趣味な真似、させてたまるか!
冬枝が拳を握り締めたところで、「冬枝さん」と足元から声がかかった。
「ああ?」
「お初にお目にかかります。この『姑獲鳥屋』のオーナー、汐見グループ総取締役の汐見です」
汐見が整髪剤でピカピカに固めた頭を上げると、右頬に赤黒い痣が浮かび上がった。
「お前、どうしたんだよその顔。秋津一家にやられたのか」
思わず秋津一家の犯行を疑った冬枝に、汐見は笑って顔を横に振った。
「いえいえ。これは、うちのお転婆娘にやられたものです」
「娘?」
「聖天高校に通う、マキという子です。夏目さんとはいつも仲良くさせて頂いていたようで」
名前を聞いて、冬枝もすぐにあの気の強そうな目つきの娘を思い出した。
「ああ。あんた、あのマキって娘の親父さんだったのか」
「はい。先日のキャンドルホテルでのパーティーでは、夏目さんがマキと一緒にいてくれて……あの娘も本当に楽しそうでした。2人は本当に良き親友なのでしょうね」
しかし、と言って汐見はほろ苦い笑みを浮かべた。
「あの爆弾騒ぎで、私は真っ先に妻と娘を連れてキャンドルホテルから避難しました。夏目さんがエレベーターに取り残されているのは分かっていましたが、家族の安全を最優先すべきだと判断したのです」
その結果、さやかと無理矢理引き離されたマキから、怒りの鉄拳を食らった。事の次第を語りながら、汐見は頬の痣を手でさすった。
「我々汐見グループは普段、白虎組の皆さまとも、秋津一家とも、よろしく付き合わせていただいております。が、今回に限っては、白虎組の皆さまに協力したい所存です」
一企業の社長である汐見の思い切った発言に、冬枝はちょっと目を丸くした。
「それは……娘のためか」
「というより、自分自身の保身のためです。次はメリケンサックつきで殴る、と娘から脅されているもので」
頬の痣を指して苦笑いする汐見に、嵐が「そりゃ、おっかねえ」と笑った。
「兄貴…」
背後から呼ばれて冬枝が振り返ると、高根と土井が長い布袋を冬枝に差し出した。
「俺の刀じゃねえか。お前ら、どうしてこれを…」
驚く冬枝に、高根が「すみません!」と頭を下げた。
「兄貴の部屋に入っちゃいけないのは分かってたんですが、でも…」
「水くさいじゃないですか、兄貴!さやかさんを助けに行くんだったら、オレたちにも一声かけてくださいよ!」
土井からも熱弁され、冬枝は、弟分たちの想いを悟った。
――そうか。こいつらにとっても、さやかは同じ釜の飯を食った仲間だもんな。
さやかの身が心配なのは、冬枝だけではなかったのだ。弟分たちがいじらしくなって、冬枝はつい、軽口を言った。
「なんだよ。お前ら、ホントはさやかに気があったのか?」
「いえ、それは全くないです」
「オレたち、さやかさんのこと女だとあんまり思ってないんスよね。胸ないし、麻雀しかしないし」
真顔で返す高根と土井に、冬枝はガクッと肩の力が抜けた。
――さやかの奴、日頃っからリビングで昼寝したり、大口開けてメシ食ったりしてるから、こんなこと言われるんだぞ。
冬枝は、2人から刀を受け取った。
「さやかは、必ず取り戻す。お前らもついて来い」
「はい!」
高根と土井は、声を揃えて力強く返事をした。
その夜遅く――。
寝室の鏡台で、アズサは髪をすきながら鏡越しに夫に尋ねた。
「ねえ……さやかさんは、本当にイサオお義兄さんの事件に関わっているの?」
「………」
ベッドの上に座ったまま、タケルは動かない。
寡黙なのはタケルの常だったが、先ほど、弟であり最高顧問でもあるミノルの家から戻ってからは、ずっと何事かを考え込んでいる。
アズサは、夫の沈黙の上にふわりと乗せるように言葉を紡いだ。
「あの娘の身体に、目立つ傷や痣はなかったわ。武器もナシ」
「……」
「麻雀牌だけで、この世界を渡ってきたのね。ミノル君にそっくり」
アズサは小さく息を吐くと、くるりとタケルに向き直った。
「本当に普通の女の子よ、夏目さやかさんは。どうして、あの娘が朱雀組や青龍会の争いに巻き込まれなければいけないの?」
国内有数のヤクザである朱雀組や青龍会から本気で狙われれば、さやかは明日にも無惨な死を遂げるだろう。孫たちと笑いながら話していた少女が破滅するのを、アズサは見たくなかった。
「………」
タケルはしばらく無言だったが、やがて、ぽつりと口を開いた。
「アズサ」
「何?」
「4代目は……兄貴は、偉大な男だったと思うか」
思わぬ問いに、アズサは一瞬、ハッとして目を見開いたが――。
――それを聞くってことは、あなたも迷っているのね。
ふっと微笑んで、アズサは鏡台から立ち上がった。
「タケルは、ずっとイサオお義兄さんと比べられてきたわね」
「…………」
「イサオお義兄さんは、秋津一家の初代総長で、大羽の英雄だった。タケルはお義兄さんの跡を継いで秋津一家の二代目総長になったけれど、誰もが大人しくついてきてくれたわけじゃなかった」
「…………」
二代目として、大羽に栄光をもたらしたイサオの弟として、タケルは常にイサオより下に見られてきた。誰もがタケルにイサオの面影を追い、イサオのように振る舞うことを求めた。
意志の強いタケルをもってしても、秋津一家の舵取りには苦労していることを、アズサは一番よく知っている。
「でも、タケルの心意気に惚れてついてきてくれる人たちが、今の大羽にはたくさんいるわ。米倉君や穂積君みたいにね」
「……あいつらとは、腐れ縁だ」
ぶっきらぼうに言うタケルに、アズサはくすっと笑った。
「迷わないで、タケル。私は、あなたの正義を信じてる」
アズサがそっと肩に置いた手に、タケルはゆっくりと触れた。
「………」
死んだ兄・秋津イサオは、今もなお秋津一家と朱雀組から圧倒的な尊敬を得ている。
だからこそ、タケルはケリをつけなければならなかった。兄によって深く傷付けられた少女と――己の弟のために。
――ミノル。
大羽の地の上から、重く垂れ込めていた雲が徐々に晴れようとしていた。