52話 お前を抱き締めるために
第52話 お前を抱き締めるために
さやかが大羽にあるミノルの家に着いたのは、夜更けのことだった。
暗いためよく見えないが、小さくて瀟洒な住宅だ。ミノルらしいな、とさやかは思った。
栗林に先導させながら、ミノルは玄関の扉からさやかを振り返った。
「今日はもう遅いですし、ひとまず寝ましょうか」
「は……えっ?」
頷きそうになったさやかは、意外な提案に呆気に取られた。
何せ、言ってしまえばさやかとミノルは敵同士だ。秋津イサオが殺された事件に関わったさやかと、兄を殺した犯人を追うミノル。これから、1月の事件について膝を詰めて語り合うのだと思っていたのだが――。
ミノルは、小さく欠伸をした。
「イサオお兄さんに関わる大事な話を、こんな寝不足の状態でしてもしょうがないでしょう。君にはちゃんと部屋を用意してありますので、安心して休んでください」
「は、はあ…」
ミノルは、さやかが逃げるとは思わないのだろうか。この家には、他に人がいる様子はない。
さやかの意を察したミノルは、リビングのソファに腰かけると、片目をつむって笑った。
「君は、冬枝君を振ってまで、僕についてきてくれたじゃないですか。君も、僕に話したいことがあるのでしょう」
「…はい」
さやかが頷くと、ミノルは優しく言った。
「栗林が美味しい紅茶を淹れてくれますから、それを飲んだらゆっくり眠りましょう。話は、その後で」
「…はい」
正直、さやかは眠れる気がしなかったが、ミノルの言は理に適っていた。
紅茶が入るのを待つ間、さやかは手持ち無沙汰に室内を見回した。
――ここ、ミノルさんが一人で暮らしてるのかな…。
秋津一家と朱雀組の最高顧問、というミノルの肩書きからすると、かなりこじんまりとした邸宅だ。さやかの実家より狭いぐらいだが、マホガニーのキャビネットといい、ガレを思わせる上品なランプといい、調度品は凝りに凝っている。
そこで、さやかはリビングの窓辺にそれを発見した。
「あ…雀卓」
「フフ、やっぱり見つけてしまいましたか」
ミノルは悪戯っぽく笑うと、その雀卓をポンと手で撫でた。
「もう、何年前になりますか……職人にワガママを言って、特別に作らせたものです」
「オーダーメイドの雀卓ってことですか!?」
思わず身を乗り出したさやかに、ミノルは「良ければ、近くでどうぞ」と言って雀卓を見せてくれた。
量産品ではなく特注の雀卓なんて、さやかも初めて見る。思わず、食い入るように雀卓を観察してしまう。
『こまち』にある自動卓と比べると、かなり小さめの手打ち卓だ。バーガンディーの素材に上品な木目が模様を描き、一本足で立つ姿は、さながらお洒落なワインテーブルのようだ。
天板を覗き込んださやかは「あっ!」と声を上げた。
――透き通ってる!
牌と点棒が飛び交う戦場である天板部分だけ、木ではなく透明な板が嵌められている。卓の上から床まで見通せるが、ガラスやアクリルにはない美しい輝きを放つ。角度によっては七色に反射する天板を見て、さやかはもしやと思った。
「これって…もしかして、水晶ですか」
「ご名答。フフ…ちょっと成金趣味ですか?」
謙遜するミノルに、さやかは「とんでもないです!」と首を横に振った。
「うまく言えないんですけど…こんなに綺麗な雀卓、初めて見ました。まるで、水の上で打っているみたい」
「ええ、まさにその通り。子供の頃によく、水たまりの上で麻雀の戦略を練っていたものですから…こんな雀卓を作ってしまいました」
ミノルの雀卓はどこか、この世のものではないような神秘的な雰囲気をまとっている。ミノルその人のような雀卓を見下ろしながら、さやかはおずおずと尋ねた。
「雀卓が特注ってことは、牌は…?」
「フフ、流石はさやかさん。察しが良いですね」
ミノルは棚を開けると、金具のついた木箱を卓上に乗せた。
箱は三段重ねになっており、それぞれの段に牌と点棒、サイコロやチップなどが収められている。
ミノルはそこから牌を一つ、つまみ上げた。
「象牙の牌です。色々と牌を試しましたが、これが一番馴染みがいい」
「素材によって違いがあるんですか?」
ミノルほどの達人であれば、牌の素材に左右されることはないだろう。不思議そうに尋ねるさやかに、ミノルは牌をじっと見据えたまま言った。
「これは僕の個人的なこだわりですが、手先の感触というものは、一種の霊感みたいなものなんですよ」
「霊感…ですか」
「そう。手触りから、僕は牌の流れや偏りを読む。象牙の滑らかな牌は、その感覚を邪魔しないんです」
確かに、とろりとした質感の象牙の牌は、今にもミノルの指と一体化してしまいそうだ。水晶の天板や象牙の牌は、ミノルの第六感を研ぎ澄ますのかもしれない。
ミノルは牌を箱に戻しながら、ふと思い出したように言った。
「今はあまり見かけなくなりましたが、昔は動物の骨で出来た牌もよくあったんですよ」
「ああ…鯨や馬の骨で牌が作られていたって言いますよね」
古き良き時代の麻雀牌にロマンティックな憧れはあるものの、現代っ子であるさやかとしては、経年劣化する獣骨牌よりも、傷つきにくい樹脂製の牌のほうが合理的だと思ってしまう。或いは、雀荘『こまち』を経営する冬枝の貧乏性が伝染ったのかもしれないが。
ミノルは象牙の牌を棚にしまうと、別の小さな箱を取り出した。
「僕は、死んだら牌になりたいと思っているんです」
「死んだら……牌に?」
「動物の骨で牌が作れるなら、人骨からでも可能でしょう?」
ミノルがちょうどそう言ったところで、栗林が台所から紅茶を運んできた。
――ミノルさん、また骨牌の話を……。
秋津四兄弟の中で唯一、末っ子のミノルだけが独身なのは、兄たちに比べて女性にモテないからではない。ミノルは女性といい感じになっても、この麻雀狂いのせいでご破算になってしまうのだ。
――『死んだら自分の骨で麻雀牌を作りたい』なんて、普通、怯えますって。
秋津一家を出世に導いたミノルの麻雀センスは、良縁を遠ざける悪趣味でもあった。栗林としては、尊敬するミノルにそろそろ良い相手が見つかって欲しいのだが。
――まあ、夏目さやかをビビらせる分には別にいいのかもしれないけど…。
栗林がサイドテーブルに紅茶を置きながらちらっとさやかの様子を伺うと、さやかはバッと顔を上げた。
「素敵です!自分の骨で麻雀牌が作れるなんて…!」
「ええ~っ?」
と困惑の声を上げたのは栗林だけで、ミノルとさやかは大いに盛り上がっていた。
「そうでしょう?ここだけの話、実はもう、職人に目星はつけてあるんです」
「本当ですか!?うわあ、僕も紹介して欲しいなあ」
自分の骨で麻雀牌を作る、という話ではしゃいでいる19歳女子の姿に、栗林は頭がくらくらした。
――み、ミノルさんが2人いる……。
栗林がわざとらしく咳払いすると、さやかはハッと我に返った。
「…す、すみません。僕、浮かれちゃって」
「いいんですよ。僕の趣味の話を聞いてくれる人は貴重ですから」
ミノルは、小さな箱をコトリと卓上に置いた。
先ほどの象牙の牌が入っていた箱と比べると、小さく粗末な箱だ。中に入っていたのは、かなり年代の入った麻雀牌だった。
茶色く変色し、木目を濃く浮かび上がらせた牌を見て、さやかは驚いた。
「これ、竹牌ですか?」
「ええ。僕が生まれる前のものですから、もう50年ほど昔の代物ですね」
さやかもいくつか牌を眺めたが、竹牌の木目は一つとして同じものはない。記憶力の良い者なら、簡単に覚えられてしまうだろう。
現代っ子の合理主義とは対極にある牌だったが、見ていると不思議と心が安らいだ。
「この牌、きっとたくさん打ってもらえたんでしょうね」
「おや。そんな風に見えますか?」
「はい。だってこの牌、何だか人の温もりが残っている気がするんです」
遠い昔、この竹牌で楽しい時間が過ごされたのだということが、さやかにも想像できる。或いは、樹脂製とは違う天然素材の質感が、さやかにそう錯覚させるだけだろうか。
ミノルの眼鏡の奥の瞳が、寂しげに曇った。
「この牌は、僕が子供の頃にイサオお兄さんからもらったものなんです」
「イサオさんから…」
言葉を失うさやかに、ミノルはふふっと笑った。
「きっと、イサオお兄さんもどこかの店からかっぱらってきたのでしょうけど…僕にとっては、思い出の詰まった大事な牌です」
そのイサオは、もうこの世にはいない。さやかとミノルを襲った、あの1月の夜の惨劇によって。
「………」
イサオの名前を出され、さやかはただ俯くしかない。
大切そうに木箱をしまうと、ミノルはパタンとキャビネットの扉を閉めた。
「さあ、冷める前に紅茶を頂きましょう。さやかさんは、祁門紅茶は召し上がったことがありますか?」
「…いえ、初めてです」
ダージリン、ウバと並ぶ有名な中国の紅茶だということは知っているが、さやかはもっぱら市販のティーバッグの紅茶しか飲まない。
家でも、どちらかと言うとコーヒーを飲むことのほうが多い――と考えて、さやかの頭に浮かんだのは冬枝の顔だった。
ミノルが、甘い香りの漂う紅色のティーカップから顔を上げた。
「ああ、君は冬枝君と同じく、コーヒー党でしたね。コーヒーもいいですが、紅茶もおすすめですよ。こんな風に、自分好みにアレンジして飲むのが僕流です」
そう言うと、ミノルはボルドーレッドのスーツのポケットから小瓶を出し、そこから透明な液体を注いだ。
ドボドボドボ……。
「…入れすぎじゃありませんか、ミノルさん」
「はい?」
さやかが思わず突っ込まずにはいられなかったのも、その液体の正体が明らかにアルコール、しかもテキーラだったからだ。
「寝酒ですよ、寝酒」
ミノルはニコニコ笑顔で、悪びれもしない。
「寝酒って…」
確かに、ミノルの入れた酒量からして、紅茶のテキーラ割りではなく、テキーラの紅茶割りといった方が正しいだろう。今にも火のつきそうなティーカップを、さやかは驚嘆の想いで見下ろした。
――ミノルさんって、本当にお酒好きなんだな…。
冬枝もしょっちゅうウィスキーボトルを空にしていたが、ミノルもいい勝負だ。ヤクザは皆アル中なのだろうか、とさやかは気が遠くなった。
「さやかさんも、いかがです?」
ミノルが笑顔で小瓶を振ったが、さやかは「いえ、結構です」と控えめに断った。
結局、さやか自身は紅茶の味もよく分からないまま、ミノルの用意してくれた2階の客室で床に就いたのだった。
ミノルもすぐに寝支度をしたが、栗林から心配そうに尋ねられた。
「いいんですか?ミノルさん。夏目さやかを一人で寝させて」
眼鏡をサイドテーブルに置いたミノルは、「おや」と心外そうな声を上げた。
「栗林。お前は僕に、嫁入り前の女の子と同衾するなんていう、ハレンチな真似をしろというのですか?」
「いえ、そんな…」
栗林をからかうように、ミノルはクスクスと笑った。
「僕としてはそれもやぶさかではありませんが、総長はお怒りになるでしょうねぇ。その時は、栗林の指示でやったと言っておきましょう」
「か、勘弁してくださいよ、ミノルさん」
苅屋の一件で指を詰めさせられて以来、総長・タケルに対する恐怖は栗林の骨の髄まで染み込んでいる。ミノルの冗談を、笑う余裕などなかった。
栗林を安心させるように、ミノルはさっさとシーツをまくってベッドに潜り込んだ。
「心配しなくても、さやかさんは逃げませんよ。お前も寝なさい、栗林」
「はあ…。おやすみなさい、ミノルさん」
パタンと扉が閉まると、ミノルは一人、暗い天井を見上げた。
――何だか、今夜はよく眠れそうです。
夏目さやかが、ミノルの手の内にいる。うるさい総長も、陰気な5代目も、そして冬枝誠二も、今はさやかに手を触れられない。
――フフ……いい気分ですね。
実際、自分がひどく満たされていることに気付いて、ミノルは少し驚いた。
――まだイサオお兄さんの仇を討ったわけでもないのに……どうしたんでしょうね、僕は。
さやかを手に入れただけで、ミノルはこんなにも満足している。ミノルの雀卓を見て瞳をキラキラさせていたさやかの顔や、骨牌で盛り上がった時の熱気などが、今もミノルの胸に残っていた。
その温もりを確かめるように胸の上に伸ばした手を、ミノルはぎゅっと握り締めた。
――これは、あくまで作りごと。夏目さやかは、僕の敵です。
透き通る水晶の雀卓が本物の水面ではないように、さやかに対するミノルの想いもまた、かりそめのものに過ぎない。
――僕と彼女は今、一対一の勝負の場にいる。それを忘れてはいけない……。
ミノルは、さやかの残像を追い払うように瞼を閉じた。
コン!
ベッドで寝ていたさやかは、窓を叩く音にハッとした。
――誰!?
そっとカーテンを開けてみたものの、外は真っ暗で何も見えない。
――僕の気のせいだったかな。
それでも気になったさやかは、一応、ガラス窓を開けて、暗闇に目を凝らしてみた。
ヒュッ!
「わっ!」
その瞬間、外から白い小さな物体が飛んできた。
慌てて避けたさやかは、床に転がるそれを見て、首を傾げた。
「紙コップ……?」
しかも、コップの底に長い糸が付けられている。糸は、窓の外へと繋がっているようだ。
――糸電話?
さやかは、糸がピンと張る位置まで下がると、おもむろに紙コップを耳に当ててみた。
「おーい」
「……冬枝さん!?」
紙コップから聞こえてきた声は、幻聴ではなかった。さやかは窓辺から身を乗り出し、暗闇の中にようやく枯れ葉色の背広姿を見つけた。
「どうしてここにいるんですか、冬枝さんっ!?あっ、聞こえてない」
しばらく、さやかが喋ったり冬枝が喋ったり、紙コップを口元に当てたり耳に当てたり、すれ違いが続いた。
ようやく会話のコツを掴んだ頃には、紙コップが夜風で冷え切っていた。
さやかは、両手で紙コップを包み込みながら小声で言った。
「冬枝さん。分かっていると思いますけど、ここは秋津一家の縄張りです。危険ですから、早く帰ってください」
「危険だって分かってるなら、お前こそ帰って来い。んなトコにいたって一文の得にもならねえだろうが」
案の定、冬枝はさやかを連れ戻しに来たらしい。さやかは、胸がよじれるような気がした。
――冬枝さん…。
危険を冒してまで迎えに来てくれた冬枝に、さやかの胸が高鳴りかける。だが、さやかは歯を食い縛って抑えつけた。
「僕はもう、冬枝さんの代打ちじゃありません。赤の他人です。僕のことは放っておいてください」
「あぁ?聴こえねえなあ。もしもーし」
最初、糸電話がなかなかうまくいかなかったのは、都合が悪くなると冬枝がすっとぼけるせいだったのだ、ということにさやかはようやく思い至った。
「冬枝さんっ!マンションに手紙置いて行ったでしょう!」
「手紙?ああ、あのメモ書きか。お前、字汚ぇから何書いてるか読めなかった!」
ホントに習字習ってたのかよ、と冬枝に言われ、紙コップを持つさやかの手がプルプルと震えた。
「だまれ!とにかく、冬枝さんは帰ってください!」
「やなこった。ここまで来るのに、ガソリン代いくらかかったと思ってんだ」
冬枝の貧乏性に、さやかは思わず「……セコい」と呟いてしまった。
「何?」
「いいですか、冬枝さん。僕は、朱雀組の4代目が殺された事件に関わってるんです。秋津一家とはいずれ、ケリをつけなければいけません。これは、僕のケジメなんです」
「ケジメ、ねえ。ガキがイキがってるだけにしか聴こえねえなあ」
「~~~~~~」
年の功と言うべきか、冬枝はさやかの腹が立つことを言うのが上手い。
さやかは、努めて冷静さを保とうとした。
――落ち着け、僕…冬枝さんの術中にハマっちゃダメだ。
さやかは、紙コップを持ち直した。
「僕はもう、冬枝さんとは一緒にいられないんです。僕は、死んで牌になる人間なんです」
「ああ?てめえのべってえ乳がどうしたって?」
冬枝のわざとらしい聞き間違いに、さやかは顔をしかめた。
「そのパイじゃありません!僕が死んだら、僕の骨で牌を作ってもらうんです」
さやかが声を張り上げると、紙コップ越しに冬枝の笑い声が聞こえてきた。
「骨ぇ?てめえの骨なんか、俺がバリバリ食って飲み込んでやらぁ」
「野蛮人っ」
さやかが眉をひそめたところで、冬枝が不意に言った。
「さやか。お前、俺に惚れてるだろ」
「っ!?はっ、なっ、なんでそんな話になるんですか!?」
さやかは聞き間違いかと思ったが、冬枝は「いいのかよ」と脅すように言った。
「お前が帰って来ねえと、他の女とデートするぞ」
「~~~!!僕がいたって冬枝さん、他の女の人とデートしてるじゃないですかっ!」
「おう、よくご存知で」
開き直る冬枝に、さやかは怒りがこみ上げた。
「冬枝さんは隠すのがヘタなんです!シャツから女物の香水の匂いがプンプンするし、背広から手書きの名刺とか、ラブレターがわんさか出てくるし……わざとやってるんですか!?」
「お前は俺の女房か。やっぱり、俺に惚れてるじゃねえか」
暗闇に目が慣れてきたせいで、こちらを指差す冬枝のニヤニヤ顔が微かに見える。さやかは、何だか悔しくなった。
――冬枝さんといると、僕はめちゃくちゃになってしまう…。
秋津イサオの件に、決着をつけるためにさやかはここに来た。イサオの弟であり、あの事件に巻き込まれた秋津ミノルも、さやかの告白を待ち望んでいる。
朝が来たら、さやかはミノルに全てを打ち明けなければならない。その時、ミノルがさやかをどうするとしても、さやかは受け入れる覚悟だった。
なのに、冬枝といると――冬枝が目の前にいると、さやかの覚悟が揺らいでしまう。
――僕は、冬枝さんのことまで傷付けたくないのに。
「もう、帰ってください!これ以上ここにいたら、秋津一家に見つかりますよ!」
悲鳴のようなさやかの言葉は、冬枝にどう響いたのか。
沈黙の後、紙コップ越しに聞こえてきたのは、冬枝の断固とした声だった。
「俺は帰らねえ」
「冬枝さん……」
「俺はな、頭にきてんだ。黙ってこんなこと決めて、部屋のモンまで片付けやがって」
冬枝は自分の頭を指先でトントンと叩くと、キッとさやかを見上げた。
暗闇を裂いて、弾丸のように真っ直ぐにこちらを射貫く眼差しに、さやかはたじろいだ。
――冬枝さん。
「一人で逃げるな、って言っただろ。俺とお前、2人で闘うんだ」
「………」
「本当なら、俺はお前をぶっ飛ばしてえところだが、女のツラなんざ殴ったところで胸糞悪いだけだ」
だから、と言って、冬枝は左手を大きく広げた。
「俺は、お前を抱き締めるまで帰らねえ」
「…冬枝さん」
「骨が折れるぐらい、ぎゅうっと抱き締めてやるからな。覚悟しろよ」
冬枝は、人差し指でチョイチョイとさやかの顔を指した。
「………っ」
糸電話を持つさやかの手が、どうしようもなく震える。わななく指先が、今にも紙コップに食い込みそうだ。
冬枝の言葉の数々が、さやかの胸に降り積もって苦しい。苦しみのあまり、押さえていたはずの本音が飛び出しそうになる。
――会いたい。冬枝さんの傍にいたい。
冬枝の腕に飛び込んで、痛いほどに抱き締められたい。離れたくない、冬枝と別れたくない、とさやかの胸が叫んでいる。
――ダメ!
さやかは、紙コップをぐしゃっと握り潰した。
「あっ!おい……」
驚く冬枝の顔めがけて、さやかは紙コップを投げ捨てた。
冬枝が何か叫ぶのが聞こえたが、さやかは窓をピシャリと閉めた。
そのまま後ろ手にカーテンを閉めると、さやかはずるずると床に座り込んだ。
「………っ……」
涙が、溢れて止まらない。さやかは一人、膝を抱えて泣き続けた。
早朝――。
受話器を置いた栗林は、急いで2階のミノルの部屋へと駆け上った。
「ミノルさん!大変です」
「うーん……」
ミノルはシーツを引っ被ったまま、寝返りを打った。
朝の弱いミノルは普段、昼過ぎまで寝ている。徹夜で麻雀を打っていることはあっても、こんな時間から目覚めることはない。
ミノルの夜型生活は熟知している栗林だが、今は緊急事態だった。
「白虎組の冬枝誠二が、シマの周辺で目撃されたという情報が入りました!きっと、夏目さやかを取り戻しに来たんです」
「んー……」
「起きてください、ミノルさん!冬枝誠二は『人斬り部隊』のナンバー2だった男だから気を付けろ、って言ったのはミノルさんじゃないですか!このままじゃ、夏目さやかを奪われてしまいますよ!」
栗林がシーツの上からミノルを揺すると、不意に、ミノルの双眸が見開かれた。
「夏目さやか……」
「ようやく目が覚めましたか、ミノルさん」
と栗林が安心したのも束の間、ミノルは栗林を振り払う勢いでベッドから起き上がった。
「うわっ!?」
「夏目さやか…」
ミノルはぶつぶつ呟きながら手早く着替えを済ませると、早足で階段を降りていった。
「………?」
栗林が怪訝そうに後を追うのも気付かぬまま、ミノルは未だ悪夢の中にいた。
――1月……東京は乾いた風が吹いていた。
最高顧問という立場上、ミノルはよく東京と大羽を行き来していた。
だが、東京はいつまで経っても異郷の地だった。きっと、イサオにとってもそうだっただろう。
――雪の降らない冬を冬とは思えない……イサオお兄さんはよくそう言っていた。
だが、あの日は雪が舞っていた。雀荘『紅孔雀』の看板を、白く縁取るほどに。
雪と競うように白かった、少女の髪を留めていたリボン――ミノルの鼓動が高鳴る。
――あの時、うずくまっていた彼女の肩を僕が掴んだ……その直後だった。
長い髪を翻し、振り返った少女の手には――ピストルが握られていた。
銃口が火を噴き、油断していたミノルは至近距離で2発撃たれた。
倒れたミノルを、イサオが身を盾にして庇ってくれた。そして――。
銃声と共に、イサオの大きな身体が、ミノルの上に倒れ込んだ。
霞んでいくミノルの視界に映ったのは、硝煙の向こうに浮かぶ少女――夏目さやかの笑みだった。
――夏目さやかが、イサオお兄さんを殺した。
「夏目さやかは、イサオお兄さんの仇……」
そう呟きながら、ミノルはキッチンで紅茶を淹れ始めた。昨夜、栗林が淹れたのと同じ祁門紅茶だ。
そこに、ミノルは小瓶から透明な液体を注いだ。
「!ミノルさん…」
背後で見ていた栗林が一瞬、驚いて目を見張ったが、すぐに口をつぐんだ。
「夏目さやかは、イサオお兄さんの仇……」
ティーカップを2つ並べて載せたトレイを持ち、ミノルはさやかの眠る2階の客室へと向かう。
ぎしっ、ぎしっ、と、上る度に階段が軋んだ。
さやかの部屋をノックしたが、返事がない。さやかが朝に弱いことは知っているため、ミノルはそのまま部屋の扉を開けた。
「………」
さやかは、ベッドにはいなかった。視線を窓辺へと転じたミノルは、愕然とした。
――冬枝君……。
そこに、冬枝誠二がいたわけではない。ただ、さやかがこちらに背を向けて、窓辺に立っている。
それを見ただけで、ミノルには分かってしまった。
――さやかさんは、冬枝君が来るのを待っている。
窓はカーテンが閉められていて、何も見えない。だが、さやかには冬枝の姿が見えている。さやかには冬枝しか見えていないのだと、直感が電流のようにミノルを襲った。
どんなに雀卓にはしゃいでいても、骨牌の話で盛り上がっても、さやかの胸を占めていたのはミノルではなかった。
そうと気付いた時、ミノルの手元からティーカップが滑り落ちていた。
ガチャガチャン!
ティーカップが割れる音に、さやかが驚いて振り返った。
「……ミノルさん!?どうしたんですか」
「………」
まるで、止まっていた時間が動き出したかのようにこちらへとやって来るさやかを見ながら――ミノル自身が、何かの魔法が解けたような虚脱感を覚えていた。
――僕は一体、何をしようと……。
ミノルの足元では、割れたカップの破片が紅茶の紅色に染まっている。紅茶の中身がさやかの命を奪うものであることに、ミノルは呆然としていた。
「大丈夫ですか…?」
割れたティーカップを拾おうとするさやかを見て、ミノルはようやく我に返った。
「…危ないですから、触ってはいけません。ここは、後で栗林に掃除させておきましょう」
「はあ…」
「それより、こんな時間に窓辺にいたら、身体が冷えてしまいますよ。何か、温かいものでも…」
そう言ってさやかの肩に触れた瞬間、ミノルは心臓が止まるような衝撃を受けた。
――違う。
「ミノルさん…?」
こちらを不思議そうに見上げるさやかが、ミノルには初めて会う人のように見えた。
――彼女は……あの夜の……。
ミノルを撃ち、イサオの命を奪ったあの少女と、目の前にいる少女とが、ミノルの中で歪んだ波紋を描く。
「……君は、本当に『夏目さやか』さんですか?」
ミノルの問いに、さやかがハッとして目を見開く。
「僕は……」
答えかけたさやかを、外から轟くエンジン音が遮った。
ブオンブオンブオン!
あまりにも無粋なその轟音は、ミノルにとってはよく聞き慣れたものだった。
「……いらっしゃいましたか、総長」
ミノルの呟きに、さやかが心配そうに眉を曇らせた。
一方、大羽の駅前では既に騒ぎが起こっていた。
「秋津一家は最低のスケコマシ集団です!大羽の皆さん、騙されてはいけません。秋津一家は女の子を誘拐し、ハーレムに加えて裸踊りを……」
小雨の中、マイク片手に演説しているのは、ピンク色の背広を着た男――春野嵐だ。
わざわざ軽トラックまで用意して、マイクを握り締めるその姿は、まさに選挙活動中の国会議員そのものだ。
通勤中のサラリーマンや、通学中の学生たちがなんだなんだと訝しげに足を止める。
市民の注目をふんだんに浴びながら、嵐はマイクを握る手に力を込めた。
「皆さんっ!暴力団を許してはいけませんっ!市民一致団結し、秋津一家を彩北から追い出しましょう!そして、秋津一家にさらわれた女の子の救出を……」
ブオオオオン!
嵐の大演説を遮ったのは、一台のバイクだった。
バイクは唖然とする観客たちの間を風のように通り抜け、嵐の目の前で止まった。
ヘルメットを脱ぎ捨て、男――米倉は、嵐をキッと睨んだ。
「てめえ、白虎組の者か」
「うんにゃ。正義の味方、ヤクザの敵、ワイルド嵐!」
ビシッと敬礼を決める嵐を見て、米倉は一瞬、面食らったように黙り込んだが、すぐに気を取り直した。
「とにかく、バカげた真似は今すぐやめろ。さもないと、タダじゃ済まねえぞ」
「おーおー、紋切型のヤーさんだねえ。おまわりさんっ!ボク、怖いおじさんに恐喝されましたっ!って、通報しちゃうぞ」
口調はふざけていても、嵐の目は笑っていない。嵐の本気を感じて、米倉も目に力を込めた。
「てめえ…夏目さやかを取り返しに来たんだな」
「おお、やっぱりやっこさんもグルか。皆さーん!ここに、いたいけな女の子をさらった誘拐犯の一味がいまーす!」
「おいバカ、よせ!」
マイクで叫んだ嵐を、米倉が慌てて押さえつけた。
「てめえが何者か知らねえが、俺たちの邪魔をするな。俺たちは4代目の仇を討つ。そのためなら手段は選ばねえ」
「4代目って、殺された朱雀組の秋津イサオだろ?あんたら、秋津イサオがさやかに殺されたって、本気で思ってんスか?」
意外な角度から切り込まれ、米倉は少し戸惑った。
「……そうだ」
「ばしこけぇ。秋津イサオは、大羽の地じゃ偉大なヤクザだったじゃねえか。そんな侠が、あんな細っこい、胸の薄っぺらい女にやられちまったっていうのけ?」
「それは…」
米倉の脳裏に、夏に熊谷雷蔵と共に誘拐した少女――夏目さやかの姿がよぎる。
「僕は生きています。ですから、ここで組長を殺す必要はありません」
拳銃を持った米倉を相手に、身体を張って熊谷を守ろうとした夏目さやかは、確かにただの女子供ではなかった。
その強い眼差しは、イサオを手にかけるような悪党というよりも、イサオの右腕として彼を支え続けた男――秋津ミノルに似ていたことを、米倉は思い出す。
――いや、そんなはずはねえ。
逡巡する気持ちを振り払うように、米倉は首を横に振った。
「夏目さやかは4代目を殺した、これは事実だ。何せ、ミノルさんが…うちの最高顧問が、そう証言してるんだからな」
「ほー、黒幕はジェントル秋津だったか。やっぱりな」
嵐は一人頷くと、手にしていたマイクを米倉に突き付けた。
「オッサン。ジェントル秋津の……秋津ミノルのところに案内しな」
「断る。よそ者には、この大羽の地を一歩も踏ませねえ」
身構える米倉に、嵐が「あら、そう?」とおどけて言った。
「それじゃ、よそ者の嵐クンが、好きなだけ大羽の地を踏んじゃおっかなー!あ、それ!あ、そーれそれそれ!」
目の前でタップダンスを踊り出した嵐に、米倉の堪忍袋の緒が切れた。
「てめえ、どこまで人をコケにすりゃ気が済むんだ!もう容赦しねえ!」
「へへっ、ワイルド嵐について来れるか?オッサン!」
掴み合いになった嵐と米倉の間に、眩い一条の光が射しこんだ。
「!?」
薄曇りの暗さを切り裂くように、光――車のヘッドライトが、突然、駅前に突っ込んできた。
「なんだ!?」
「うわっ!」
車は嵐と米倉の頭上を飛び越し、凄まじい勢いで大羽の地へと駆け去って行った。
目にも鮮やかな青のスカイライン――その後ろ姿を見た嵐は、すぐにピンときた。
――ナルシー源、おいでなすったか!
流石は青龍会、情報が速い。これは田舎のオッサンとケンカしている場合じゃないと、すぐに嵐は米倉から方向転換した。
軽トラックに乗り込む嵐を、米倉が「おい!」と呼び止める。
「待て!てめえの相手は俺だ!」
「ごめ~ん、ワイルド嵐クンは忙しいの。また今度遊ぼうね、おじちゃん」
「誰がおじちゃんだ!このっ…!」
嵐を捕まえようとした米倉の手は空を切り、軽トラックはあっという間に遠のいていった。
「くそっ!すぐに捕まえてやる」
米倉はバイクに跨ると、エンジンをふかして猛然と駆け出した。
そぼ降る雨の中――。
濡れる石畳を忍び足で踏みながら、栗林はそっと軒先の様子をうかがった。
――あのエンジン音は、間違いなく総長のハーレー…。
栗林は、背後の邸宅を振り返った。
――もし総長が夏目さやかの引き渡しをお命じになったら、ミノルさんはどうするつもりなんだろう…。
ミノルがタケルに逆らってでもイサオの仇を討つというなら、栗林もついていく覚悟がある。
――もう既に指を1本詰めた身だ。恐れるものなどあるもんか…!
とはいえ、そんな栗林の決意も萎えそうになるぐらい、遠目にも総長・秋津タケルの眼差しは険しかった。
「源清司……」
ハーレーのヘッドライトが照らす先には、青のスカイラインから降りてくる長身の男――源清司がいた。
バンと扉を閉めて、源はタケルと相対した。
「ほう。秋津一家の総長自らお出ましとは、俺も名が売れたもんだな」
「生憎、男の出迎えは頼んだ覚えがねえんだが」と真顔でかます源に、タケルは険しい表情のまま切り返した。
「青龍会がこの街に何の用だ」
「愚問だな。俺は俺の女を迎えに来ただけだ」
源は、長い指でミノルの邸宅――夏目さやかがいる家を指差した。
植え込みの陰に身を潜めていた栗林は、源の言葉にゾッとした。
――青龍会はもう、今度の件を嗅ぎつけたのか!
ミノルの単独行動である夏目さやかの拉致を、東京にいながらどうやって知ったのか。青龍会の情報網の広さは、栗林の想像を超えていた。
タケルが構えた。
「大羽に、青龍会が踏んでいい地は一歩もない。帰れ」
「問答無用、か。俺も、男とお喋りする趣味はねえ」
タケルと源は、その場で取っ組み合いを始めた。
「あわわわ……」
男2人は、素手で殴り合っているだけだ。それなのに、見ている栗林には、銃弾が飛び交っているような恐ろしさがあった。
――ナイフや拳銃なんかより、総長の拳のほうが100倍怖い。
苅屋の件で制裁を受けた栗林をはじめ、それは秋津一家の組員全員の実感だろう。一度、タケルに打ちのめされれば、自分がいかに脆弱だったかを思い知る。
強くならなければならない、総長のように。タケルに破門された元組員たちが、いっそう鍛錬に励んでいることは、栗林の耳にも届いていた。
タケルの拳、身のこなしは、強さとは何かを無言で教える。武器に頼るのは弱い者のすることだと、秋津一家の人間ならば誰もが知っている。
――あの源って男も、只者じゃなさそうだ。
源は長身を生かした流麗な足さばきで、息もつかせぬ攻防を繰り広げている。秋津一家の人間ならば誰でも怯むタケルの眼光を前にしても、源の横顔は憎たらしいほど鉄面皮だ。
――総長と対等に渡り合えるなんて、人間じゃない…!
栗林ほどではないだろうが、タケルも源の腕前に感心したらしい。珍しく、小さく口を開いた。
「源清司……『人斬り部隊』の隊長だった男か」
「昔の話だ。それより、秋津一家の総長はこの程度か?素手で闘犬を殺した、って武勇伝は似非だったか」
源の挑発に、タケルはふと目を伏せた。
「…妻を守るためにしたこと。誇れるようなものではない」
「そうか、女のためだったか…。道理で強いわけだ」
源は一つ頷くと、蒼い双眸でひたとタケルを見据えた。
咳払いすら躊躇うような、張り詰めた静寂の後――。
再び、タケルと源はぶつかり合った。
気が付けば、栗林は総身が雨でずぶ濡れになっていた。
雨はやむ様子もなく、ミノルの家の屋根から、庭の低木、そして栗林の靴まで、冷たく濡らし続けていた。
それでも、ここから動く気にはなれない。栗林は、目の前の光景に釘付けになっていた。
――決着がついた。
タケルと源が組み合っていたのは、どれくらいの間だろうか。30分か、或いは5分も経っていなかったのかもしれない。
源清司の強さは、栗林に青龍会の恐ろしさを教えるのに十分すぎるほどだった。源の流れるような蹴りとパンチは、栗林にはほとんど目で追えなかった。
――『人斬り部隊』の隊長だったって噂は、伊達じゃないってことか。
だが今、濡れたアスファルトの上に立っているのは――タケルだった。
源との激しい戦闘を制し、タケルは息一つ乱れていない。源の肩の関節を外した時ですら、タケルは表情を変えなかった。
――やっぱり、総長は強い。
畏怖と共に、誇らしさが栗林の胸に満ちる。タケルは今、その腕一本で大羽の地を青龍会の脅威から守ったのだ。
――って、安心してる場合じゃないんだった!
源を倒し、タケルはずんずんとこちらに向かってくる。栗林は焦った。
――元若頭が夏目さやかを拉致した時は全員、総長自ら制裁を下された上、指1本を詰めることになった……。
勿論、今回のミノルの夏目さやか誘拐も例外ではないだろう。その証拠に、総長であるタケル自らここに出向いたのだ。
――総長に逆らってでも、俺はミノルさんについていく!
4代目の仇を討つためならば、栗林は身を張ってタケルを止める。……つもりだったが、タケルが源清司を倒すところを目の前で見てしまったら、そんな決意も呆気なく萎んでしまった。
心なしか、タケルの目つきがどんどん怖くなっている気がする。栗林にはもはや、タケルが鬼に見えた。
――くそっ、足が震える……ダメだ、やっぱり総長は怖い!
夏目さやかを監禁している、という後ろめたさも手伝って、栗林の膝がガクガク震え、ふらりと身体が傾いた。
「!」
「栗林!」
タケルが栗林の名を呼んだ――次の瞬間だった。
栗林に触れた冷たさは、濡れた石畳ではなかった。
喉元に食い込む刃の冷ややかさは、人の命を奪うものが持つ冷酷さそのものだった。
何より、栗林を凍り付かせたのは――倒れそうになった栗林を後ろから羽交い絞めにし、日本刀を構えた男が放つ殺気だった。
――この男、いつの間に後ろに……!
栗林がタケルと源の格闘に夢中になっている間、男はずっと身を潜めていたのか。全く気付かなかっただけに、栗林は心の底からゾッとした。
――噂通り、なんて狡猾な男なんだ…!
何せ今、栗林を拘束している男は――東京からやって来た少女を自宅に軟禁した上、代打ちとして荒稼ぎさせているという外道だった。
「……冬枝誠二か」
タケルの低い唸り声に、男――冬枝誠二が、栗林のすぐ背後で頷いた。