51話 暗闇のディスタンス
第51話 暗闇のディスタンス
真夜中――。
白虎組事務所の給湯室で、霜田は一人、急須で茶を注いでいた。
霜田の背後にある執務室では今まさに、榊原と組長、その他少数の側近たちで、狂言クーデターの打ち合わせが行なわれている。
秋津一家、ひいては県内全ての極道をペテンにかける、前代未聞の大博打――。
だが、霜田の頭を占めていたのは、狂言クーデターのことではなかった。
――響子をどうするか。
灘議員を朱雀組に引き渡した後、霜田は組長から呼び出された。
「これで、俺たちと灘議員とは終いだ。霜田」
「はっ」
「お前にもよっく分かっただろ。自分の浅知恵が」
潮騒が響く波止場で、組長の声は乾いていた。
「もう、あの響子って女は榊原には必要ねえ。榊原と淑恵ちゃんのことは放っておきな」
「………」
響子を使って榊原と淑恵を離婚させ、榊原を灘議員から解放する――という霜田の企みは、組長には既にバレていた。組長がそれを不快に思っていることも、霜田は知っていた。
追い打ちをかけたのが、淑恵の妊娠だ。
「この年で、また父親1年生だよ。でも、淑恵のためにも俺が頑張らなきゃな」
そう言って笑う榊原は、本当に幸せそうで――霜田は、何も言えなかった。
――私がしてきたことは、一体何だったのか…。
榊原のためにやって来たことが、今、全て裏目に出ようとしている。組長の言う通り、霜田がしたことは本当に浅知恵に過ぎなかった。
響子は、本気で榊原を慕っている。淑恵の妊娠を知ったら、響子がどんな行動に出るかは分からない。
――いっそのこと、響子を始末するか…?
だが、組長の代替わりと淑恵の妊娠という、榊原の人生において輝かしい転換点を迎えようとしている今、そこに汚点を加えるような真似は避けたい。
――こうなれば、麻雀小町に響子を説得させますか…。
夏目さやかは響子と親しく、響子と榊原の愛人関係を終わらせたがっていた。霜田が上から命じるよりも、女同士のほうが話が通じやすいだろう。
その辺りは、スナック『パオラ』で美佐緒と共にさまざまなホステスたちを相手にしてきて霜田が得た経験則である。
――もっとも、麻雀小町であっても、今の響子を説得できるかは分かりませんが。
霜田がふうと重い溜息をついたところで、バタバタと朽木が飛んできた。
「霜田さん!」
「何ですか。茶なら今、持って行きますよ」
「それどころじゃありません。麻雀小町が秋津一家にさらわれました」
盆を持ち上げようとした霜田の顔から、眼鏡がずるっとずれた。
「はあ?」
さやかが秋津ミノルに拉致された。
組事務所に飛び込んできた冬枝の報せにより、クーデター計画を巡る話し合いは一旦、中断された。
「冬枝。貴様がついていながら麻雀小町を秋津一家に奪われるとは、何たるザマです」
「面目ありません」
霜田の叱責に、冬枝は素直に頭を下げた。
「さやかが秋津一家にさらわれたのは、俺の責任です。すみません」
神妙に謝ってはみせたものの、冬枝の腸は煮え繰り返っていた。
――さやかの奴、最初っから秋津一家に行くつもりだったな…!
マンションの玄関がやけに埃っぽかったのは、引っ越し業者が出入りしたせいだ。さやかは冬枝のいないスキに自分の荷物を処分し、パーティーに行くと言って外出した後、秋津ミノルと合流する腹積もりだったのだ。
不覚にも、冬枝はさやかの企みに全く気付かなかった。別れる前にホテルで交わした会話も本当に普通で、冬枝を怪しませる要素は微塵もなかった。
完璧な筋書きからも、さやかが本気で冬枝と決別したことは伝わる。それだけに、冬枝は怒りを覚えた。
――こんなの、俺は絶対許さねえぞ、さやか。
或いは、冬枝が憤っているのはさやかにではなく、冬枝とさやかを引き裂く何かもっと大きな力に対してなのかもしれない。
とにかく、一刻も早くさやかを連れ戻したい。幹部たちの前でなければ地団駄を踏んでいるところだが、相手が秋津一家の司令塔、『魔法使い』と呼ばれる最高顧問・秋津ミノルである以上、慎重に動かなければならないことは冬枝も分かっていた。
「あーあ。やっぱり、さやかちゃんは『魔法使い』についてっちゃったか」
組長の言に、榊原が顔を上げた。
「さやかは、自分の意志で秋津一家に連れて行かれたってことですか」
「あの娘、4代目が殺された事件に関わってるみたいだからねえ。責任感じちゃってるんじゃない?ほら、冬枝の顔にも、そう書いてある」
不躾に鼻先を指さされ、冬枝は顔をしかめた。
――このクソジジイ、病人じゃなきゃぶん殴ってるぞ。
「麻雀小町が己の意志で秋津一家に連れて行かれた以上、奪還は困難ということですか」
霜田が確認したが、組長は「いや」と言った。
「19歳の女の子をヤクザがさらっておいて、『本人の意志です』なんて通じないでしょ。こいつは、秋津一家によるれっきとした誘拐事件だ。組の代打ちを拉致された以上、俺らには秋津一家に攻め込む大義名分がある」
大胆なことを言ってのけた組長に、榊原も霜田も仰天した。
「親分。秋津一家に攻め込むって、俺たちの狂言クーデターはどうするんです」
「とりあえず、先送りだな。代替わりなんざいつでも出来るだろ」
さっきまで男たちが肩を付き合わせて会議していた計画が、いきなり帳消しである。組員たちからは驚きの声が洩れたが、組長の決断はこれに留まらなかった。
「秋津一家じゃ、いかなる理由があろうと女子供に手を出すのはご法度だ。弟の暴走を、総長・秋津タケルが許すとは思えねえ」
秋津タケルは、さやかの身柄の引き渡しについて、組長に正式に申し出るぐらい慎重だった。今回、弟のミノルがさやかの拉致に至ったのは、完全に独断だろう。
「いい機会だ。さやかちゃんの件を理由にして、秋津一家は今後一切、うちのシマを出入り禁止にさせてもらおうじゃねえか」
組長は、ミノルを始めとした秋津一家が我が物顔でシマをうろついていたのが、余程気に入らないらしい。或いは、榊原に代を譲る前に、邪魔な秋津一家を縄張りから一掃したいのかもしれない。
――結局、親分はさやかの安否なんかどうだっていいってことだ。
焦れながら幹部たちの話し合いを待っていた冬枝は「あの」と声を上げた。
「じゃあ、さやかを助けに行ってもいいですか」
「おう、好きにしな。なんなら、『魔法使い』を2、3発殴ってもいい。ああ、そうだ」
組長は側近に命じて、一振りの刀を持って来させた。
組長室に飾られている、黒塗りの鞘に入った日本刀。側近が両手で恭しく捧げ持ったそれを見て、榊原と霜田が色めき立った。
「親分、それは…」
「白虎組に代々伝わる、守り刀じゃありませんか!」
白虎組では、組長が代替わりする際に、この守り刀を受け継ぐしきたりになっている。その名の通り、組を守る力の象徴たる刀だ。
組の宝ともいえる守り刀を、組長は冬枝にポンと渡した。
「武器がねえと不便だろ。こいつは、お前にやるよ」
「はあ。ありがとうございます」
組長室の飾り物に特に興味のない冬枝は、型通りに礼だけ述べて「じゃ、俺はこれで」と執務室を立ち去った。
「冬枝ーッ!お前、組長から守り刀をいただいたというのに、何ですかその態度はーッ!」
「いいよ、霜田。放っとけ」
「ですが…」
組長は飄々としていたが、冬枝の無礼に金切り声を上げた霜田も、榊原も、組長の意を測りかねていた。
「親分。守り刀を冬枝に渡したってことは、跡目は冬枝に譲るということで…?」
榊原が一応、確認すると、組長が盛大に噴き出した。
「ハハハ、んなわけねえだろ。次の組長はお前だ、榊原。安心しな」
「はあ。では何故、冬枝にあの刀を?」
榊原の当然の疑問に、組長はサングラスの奥の瞳を細めた。
「先代から受け継いだ金も利権も人脈も、今じゃみんな役立たずのガラクタだ。古い時代は、俺で終いにする」
組長は、冬枝が去って行った執務室の扉を指さした。
「オンボロ刀なんか、それこそ前時代の遺物に押し付けてやりゃいいのさ。榊原には、俺が新しい立派な刀を拵えてやるよ」
「はっ。ありがとうございます」
榊原が、折り目正しく礼をした。
その横で、霜田は顔を強張らせていた。
「………」
――組長が、あの刀を冬枝に渡すなんて…。
18年前、盟友だった嘉納笑太郎を冬枝に斬られ、組長は冬枝のことをずっと憎んできた。その冬枝に大事な刀を渡したのは、言葉以上の意味があるはずだ。
――次の組長になる若頭を支える懐刀たりえるのは、私ではなく冬枝だと組長は仰りたいのではないか…?
そうと分かれば、これ以上まずいことはない。
冬枝は、霜田の妻だった美佐緒と寝た、あの憎たらしい源の弟分だ。その冬枝の下につくなんて――自分を差し置いて、そんな男が榊原の隣に並ぶなんて、霜田は許すわけにはいかなかった。
「朽木ッ!」
手を打つべく、霜田は腹心の部下の名を呼んだが、そこに朽木はいなかった。
――朽木の奴、こんな時にどこをほっつき歩いているのですか!
一人ほぞを噛む霜田を、榊原が不思議そうに見つめていた。
モーリス・マイナーは、夜の国道をひた走っていた。
「………」
さやかはミノルと並んで後部座席に腰かけながら、眺めるともなく車窓を見つめていた。
――冬枝さん、そろそろ僕の置き手紙を見つけたかな…。
あの手紙を書いている間、ずっと、冬枝の怒る顔が目に浮かんでいた。
こんなやり方で去るさやかを、きっと冬枝は許してくれないだろう。感傷に耽りそうになり、さやかは首を横に振った。
――僕はもう、冬枝さんと一緒にいちゃいけない。
そもそも、冬枝とここまで親しくなるべきではなかったのだ。さやかがまずすべきことは、秋津イサオが殺された事件の決着をつけることなのだから。
「……」
さやかがちらりと隣に座るミノルの横顔を窺うと、気付いたミノルがにっこりと笑った。
「もう夜も遅いですよ、さやかさん。大羽までまだしばらくありますから、お休みになったらいかがです?」
「…いえ、僕は」
遠慮するさやかに、ミノルが肩をすくめた。
「まあ、男2人と一緒じゃ眠れませんか。ですが、ご安心を。僕はさておき、そこの栗林は、総長に怒られて指を詰めたばかりです。君には手出しできませんよ」
「えっ…指を!?」
秋津一家総長・秋津タケルに指を詰めさせられた――と聞いて、さやかの脳裏に浮かんだのは、夏に白虎組組長・熊谷雷蔵と共に、秋津一家に拉致された事件だった。
無断で熊谷とさやかを拉致した組員たちに対し、タケルは指を詰めさせた上、組から破門にしたと聞いている。詰めた指を榊原が送り返したのも含めて、さやかにとっては衝撃的な一件だった。
「あの、栗林さんも組長の誘拐事件に関わっていたんですか…?」
「ああ、いえ。あの件ではなく、その前……苅屋という刑事を覚えていますか?」
――苅屋…!
忌々しいゲス刑事の名前を出され、さやかの目元が引きつった。
「苅屋を君にけしかけたのは、この栗林です。僕が入院中だったのをいいことに、先走った真似をしてくれました」
「………」
ミノルの言葉に、運転席の栗林が無言で首を縮めた。
さやかと栗林とは、ミノル越しに何度か顔を合わせてきた。まさか、さやかを留置場送りにした黒幕が、こんな近くにいたとは。
ミノルが溜息を吐いた。
「苅屋の件でも、総長はたいそうお怒りでした。栗林に指を詰めさせたのは勿論、僕まで監督不行き届きだと叱責を食らってしまいました」
「そう…だったんですか」
「君の味わった屈辱とは比べ物にならないでしょうが、栗林も必死だったんですよ。尊敬するイサオお兄さんが殺された上、その犯人が依然、見つからないとあっては、手段を選んではいられなかった」
「……!」
核心に踏み込んできたミノルに、さやかが目を見開いた。
そして、ふっ、とさやかは目を細めた。
――イサオさんを殺した犯人が見つからなくて、手段を選んでいられなかった、か…。
きっと、自分が栗林の立場でも、同じことをしたとさやかは思う。ゲス刑事を使ってでもさやかを捕え、事件の真相を吐かせようとしただろう。
イサオを殺した犯人への憎しみは、さやかだって栗林に負けていない。だからこそ、さやかは冬枝と離れる決断をしたのだ。
外をすれ違う車のライトを見つめながら、ミノルがさやかに尋ねた。
「君は何故、東京を離れて彩北に来たのですか?」
朱雀組4代目・秋津イサオが1月に殺害された後、さやかは高校卒業と共に、彩北へとやって来た。
東京にいれば、さやかと親しい朱雀組5代目・柘植雅嗣の庇護を受けることもできただろう。それなのに、秋津イサオの故郷である大羽を目と鼻の先に控えた彩北を、さやかはどうして選んだのか。
さやかは、正直に答えた。
「…深い意味はありません。僕はこちらの生まれなので、単純に小さい頃に過ごした街に来たかっただけです」
さやかが秋津イサオの事件に関わっていることは、朱雀組と青龍会にはいずれバレてしまう。家族の身の安全のためにも、さやかは東京を離れたかった。
ここを選んだのは、土地勘があるのが彩北だった、というだけだ。
「では、冬枝誠二の代打ちになったのは、何故?」
ミノルの2番目の問いに、さやかは詰まった。
「それは……」
彩北に来た頃――イサオが殺されて3カ月が経ったものの、さやかは未だ、自分がこれからどうすべきか、という『解』が見えていなかった。
麻雀を通してでしか、さやかは自分自身と向き合えない。彩北の雀荘をあてもなく渡り歩いていたさやかが、『こまち』で冬枝と出会ったのは、本当に偶然だった。
今にして思えば、冬枝の代打ちになったのは、半分、ヤケだったのかもしれない。全国有数のヤクザである朱雀組を統べるイサオに比べたら、冬枝は田舎のチンピラに過ぎない。その冬枝の代打ちぐらい、大したことではないと思ったのも事実だ。
だが――…。
「僕が冬枝さんの代打ちになったのは、冬枝さんの下で打ちたいと思ったからです」
さやかは、きっぱりと答えた。
朽木に金を無心されている冬枝を、助けたいと思った。さやかはさやかのままでいいと言ってくれて、嬉しかった。冬枝の連絡ミスのせいで、賭場はどこかと街中を駆けずり回った。嵐に寝込みを襲われて慌てて逃げ帰ったさやかを、冬枝は迎え入れてくれた。
冬枝と過ごすうちに、さやかはいつしか自分自身を取り戻していた。冬枝の代打ちでいることが、さやかにとって自然な解だった。
――きっと、僕の人生で一番、幸せな時間だった。
その日々が、彩北と共に遠ざかっていく。さやかは、冬枝から遠く離れる車に乗っていた。
ミノルは、一拍おいてこう尋ねた。
「冬枝君の元に帰りたいですか?」
――帰りたい。
胸の奥から響く、突き刺すような自分自身の声に、さやかはNOと答えた。
――もう二度と、冬枝さんを危険な目に遭わせたくない。
「いいえ。僕はもう、冬枝さんの代打ちじゃありませんから」
そうですか、とミノルが答え、あとはまた静寂が車内を満たした。
「なんだ、てめえは!」
「秋津一家の者か!?」
組事務所の玄関から、荒々しい声が聞こえてきた。
執務室で夜通し、秋津一家への対抗策を練っていた榊原たちは、なんだなんだと顔を上げた。
「どうしたんだ、こんな時間に」
「私が見てきます」
霜田が腰を上げ、すぐに現場へと向かった。
「何の騒ぎですか!」
「あっ、補佐!」
若頭補佐の登場に、宿直の組員たちが慌てて頭を下げた。
唯一、頭を下げずに片手を鷹揚に上げたのは――ピンクの革ジャンを着た、深夜の闖入者だった。
「グッイブニン、パパ。会いたかったワ」
「パパと呼ぶんじゃありません!」
思わず霜田が怒鳴り返すと、闖入者――春野嵐は、ニッコリと白い歯を見せた。
「ダンディ冬枝、いないみたいっスね」
「今は取り込み中です。とっとと鈴子のところに帰りなさい」
朽木がいれば朽木に追い払わせるところだが、その朽木は未だに行方不明である。どうして補佐たる己がこんな坊主の相手をしなければならないのか、と霜田は歯軋りした。
嵐は、不意に真剣な目付きになった。
「さやかが、秋津一家にさらわれたんですってね」
「…!貴様、何故それを」
と言ってから、嵐のニヤニヤ顔に気付いた霜田はしまったと自分の口を押さえた。
「昨日、キャンドルホテルでエレベーターが占拠される事件があったそうっスね。それも、秋津一家の子会社が主催するパーティーのすぐ後で。そんで夜、俺がダンディ冬枝んちに行ったら、鍵開けっぱなしでもぬけの殻だった。ダンディ冬枝が鍵閉めるのも忘れるほどに慌てることっつったら、さやか絡みしかねえ」
「…この私にカマをかけるとは、いい度胸をしているじゃありませんか。目的は何です」
嵐が元警官であることは、霜田も知っている。一筋縄ではいかない、曲者であることも。
青筋を立てる霜田とは対照的に、嵐はまたカラッとした笑みを浮かべた。
「風林火山、どさいる?」
「そんな者はうちの組にはいません!」
ピシャリと跳ね付ける霜田に対し、嵐はわざとらしく腰をくねらせた。
「えー、いるでしょー?淑恵ちゃんの旦那で、響子ちゃんともイチャイチャしてる、おたくの不倫若頭」
「ふりっ…」
『風林火山』の意味を理解した霜田は、めまいがしそうになった。
霜田の気をよそに、嵐は口の左右に両手を添えて叫んだ。
「おーい、不倫若頭ー!」
「バカッ、大きな声で叫ぶんじゃありません!」
慌てて押さえつけようとしたが、小柄な霜田では長身の嵐に手が届かない。
周囲の組員たちが真っ青になるのと同時に、渋い顔の榊原が現れた。
「…また、てめえか。坊主」
「ハーイ、風林火山。なんかちょっと老けた?」
「申し訳ありません、若頭。すぐに追い出しますので」
霜田は小柄な身体をめいっぱい使って嵐にしがみついたが、榊原は「いや」と言った。
「坊主。てめえ、さやかのことで何か用があって来たんじゃねえのか」
「おっ、流石、不倫若頭は察しがいい」
「バカッ!」
口を押さえようとした霜田の手をかわし、嵐は目的を語った。
「ダンディ冬枝じゃねえが、俺もしったげ腹立ってるんだ、さやかをさらったジェントル秋津に。おたくらだってそうでしょ?夏に親分とさやかをさらわれて、今度はまたさやかをさらわれて。自分たちより田舎の秋津一家にこんだけ好き勝手されて、白虎組の看板に泥を塗られるようなもんだと思わねえか?」
だから――と、嵐は指を一本立てた。
「風林火山、テレビ局に知り合いいる?」
「…ああ、大学の同級生が今、局長をやっているが」
榊原は、すぐに嵐の意を悟ったようだった。
「…そうか。確かに、秋津一家に釘を差すいい機会かもしれねえな」
「でしょ?今回は特別に、ワイルド嵐クンも力を貸してやるぜ」
尊敬する榊原と胡散臭いチンピラが意気投合し始めたので、霜田は急に不安になった。
「何です。何をするつもりなのです、お前は」
「へっへっへ。まあ、陰険かつ明朗な嫌がらせってとこですよ」
「はあ?」
嵐の意味不明な返答に、霜田の眼鏡が顔からずるっとずれ落ちた。
翌朝――。
大羽の地にある秋津一家本部・赤陽館の広間では、粛々と朝食の支度が進められていた。
若い組員たちが緊張気味に給仕をしているのは、食卓に総長・秋津タケルと、その兄で相談役の秋津ススムの大物2人が揃っているせいだ。
花瓶に活けられた鬼百合の花を中心に、銀ダラと味噌汁、新香などが並べられていく。タケルには熱い緑茶、ススムは牛乳と、それぞれ兄弟の好みに合わせられている。
ススムは、新聞に手早く目を通しながら言った。
「昨日のキャンドルホテルの一件、犯人は書類送検されたってさ。さやかちゃんにもケガはなかったし、白虎組も納得したみたいだから、まずは一安心だ」
「………」
タケルは熱い茶を一口啜ってから、ぼそりと言った。
「義姉さんが無事で良かった」
「おっ?何だよタケル、珍しいこと言うじゃないか」
ススムの妻・秋津マユミもキャンドルホテルの事件に巻き込まれ、夏目さやかと共に、犯人に占拠されたエレベーターから救助された。
おっとりとしたマユミに対し、普段、タケルから話しかけることはほとんどない。年下の義姉に、寡黙なタケルはどう接してよいか分からないのだろう。
そのタケルが柄にもなくマユミのことを口にしたのは、理由があった。
「義姉さんは、ミノルを誤魔化すために呼び出されたんだろう。そのせいで、とんだ災難に巻き込まれた」
「うっ…。俺だって、あんなことになると思ってなかったんだよ」
キャンドルホテルでパーティーを開き、夏目さやかをおびき寄せるというミノルの作戦を実行してやる代わりに、ミノルが夏目さやかに近付かないよう、マユミを呼び出した。義姉であるマユミが相手なら、ミノルも嫌な顔はできまいと思ったからだ。
「そうだ、今朝もニュースやってるんじゃないか?昨日は終日、地元のテレビ局がキャンドルホテルに詰めかけたからな」
はぐらかすわけではないが、ススムはテレビのリモコンをつけた。
チャンネルは、おなじみの地元の朝のニュース番組だ。見慣れた女性アナウンサーが、慌ただしく原稿を読み上げた。
「昨夜未明、大羽を拠点とする暴力団・秋津一家の組員が、市内在住の19歳女性を拉致するという事件が発生しました」
はきはきと読み上げられた文言に、食卓にいた全員の顔色が変わった。
静まり返る居間に、アナウンサーの声がなおも続く。
「拉致されたとみられる19歳女性とは、いまだ連絡が取れていません。この事件について、元刑事の春野嵐さん、解説をお願いします」
「はい」
したり顔で出てきたのは、ピンクの背広を着たオールバックの青年だ。
「秋津一家はとんでもない女好きの集まりです。こちらの図をご覧ください」
春野嵐は、デスクから1枚のフリップを取り出した。
フリップには、タケル・ススム・ミノルの名前と、似顔絵と思しき図が添えられている。
嵐は、最初にミノルの名前を指示棒で指した。
「えー、こちらが実行犯の秋津ミノルです。夜な夜な女の子漁りをしていたせいで、こんな白髪になっちまいました。秋津ミノルは若い女に目がないロリコンで、夏ごろから市内にいる少女たちを物色していたと見られます。極めて悪質な変質者なので、若い女の子のいるご家庭では注意してください」
カメラに大写しにされたミノルの似顔絵は、ススムが数年前、孫と一緒に見に行ったアニメ映画に出てきた白髪の悪役そっくりだった。要するに、人間には見えなかった。
春野嵐は、「次に、こちらの秋津ススム」と言って、別の似顔絵を指さした。
「秋津ススムは、金と権力にものを言わせて、街じゅうの女の子を愛人にしているドスケベ社長です。その愛人の数、なんと5万人と言われています」
「そんなにいるわけないだろ!」
ススムは思わず、テレビに向かって突っ込んでしまった。
春野嵐が描いたと思われるススムの似顔絵も、眼鏡が巨大すぎてトンボの顔のようになってしまっている。ススムは、妻のマユミがこれを見ていないことを願うしかなかった。
春野嵐は「そして!」と声を張り上げて、最後の似顔絵を指さした。
「この事件の黒幕、秋津タケル!えー秋津タケルは事件の実行犯である秋津ミノルの兄…いや弟?どっちだっけ?まあ、どっちでもいいや。とにかく、身内である秋津ミノルの悪質なロリコン犯罪を野放しにし、どころか援助している、とんでもねえ悪党です」
春野嵐の罵詈雑言に、ススムをはじめ、場にいた組員たちが凍り付いた。
――まずい…。
「………」
タケルは、微動だにしない。何も言わない。ただただ、空気だけが張り詰めていく。
ブラウン管の向こうで、春野嵐は饒舌にまくしたてた。
「大羽には『赤陽館』という秋津一家のアジトがありますが、実態は秋津一家のハーレム、キャバレーです。中では、秋津一家が集めた10万人の女の子が、あられもない姿で踊らされています」
「そんなに入るわけないだろ…」
というススムのツッコミも、もはや小声にならざるをえない。
「さや…さらわれた19歳女性も、この秋津一家のハレンチハーレムに加えられ、秋津タケルの愛人にされるものと思われます」
春野嵐は、フリップに描かれた似顔絵を順々に指していった。
「兄のススムが金を出し、弟のミノルが女をさらい、総長・タケルに献上する。これが、秋津一家の最新ハーレムシステムです」
テレビ画面に映し出されたタケルの似顔絵は、目を大きなハートマークにした、好色そうなタコ坊主だった。
「以上、解説の春野嵐さんでした。事件に関する情報は、こちらの電話番号までお寄せください……」
ガンッ!
アナウンサーの声が終わらないうちに、ブラウン管に花瓶が叩きつけられていた。
「………」
ひび割れたテレビ画面から、粉々になった花瓶と花がバラバラと落ちる。ポタポタと滴り落ちる水が、組員たちには血のように見えた。
花瓶を投擲したタケルは、すっくと椅子から立ち上がった。
「相談役」
「なんだよ」
ススムはおシャカになったテレビを見て「あーあ。アズサちゃんに怒られるぞ、お前」とぼやいた。
炎のようなオーラを発しながら、タケルは低い声で唸った。
「……ミノルが夏目さやかを拉致しただと?」
同じく大羽の街に、『米倉モーターショップ』という店がある。
赤陽館から程近くにあるこの店は、勿論、秋津一家と無関係ではない。
目つきの鋭い男が、店先にホースで水を撒いている。そこに、スキップで若者が駆け寄ってきた。
「頭!おはようございます」
若者から笑顔で挨拶され、頭と呼ばれた男――米倉は、苦笑いした。
「おい、俺はもう頭じゃねえって言っただろ」
「だって、頭は頭ですよ。鵯組の連中だって、皆そう呼んでるじゃないですか」
若者の言葉に、米倉は内心、複雑なものを感じていた。
――若頭の地位を失ったのは、俺の自業自得だってのに。
秋津一家の若頭だった米倉は、夏に白虎組の組長・熊谷雷蔵と夏目さやかを拉致・監禁した。
1月に殺された朱雀組4代目・秋津イサオの仇を取るためだったが、熊谷から返り討ちに遭った上、事件に目をつけた『アクア・ドラゴン』まで呼び寄せてしまった。結局、米倉が起こした事件は、タケルが熊谷に詫びを入れるという最悪の結果で終わった。
――俺のせいで、総長に恥をかかせちまった……悔やんでも悔やみきれねえ。
事件は総長であるタケルに無断で起こした暴挙であり、破門と指詰めは当然の処分だと米倉は受け入れている。
唯一の救いは、最高顧問であるミノルが、破門になった米倉たち組員に紹介状を書いてくれたことだ。ミノルのお陰で、米倉や事件に加担した若い組員たちは、路頭に迷わずに済んだ。
――総長と最高顧問は、車の両輪だ。きっと、2人で互いを補い合ってるんだろうな。
米倉とこの若者――穂積は、秋津一家の傘下である鵯組に迎えられた。
「俺たちはあくまで、客分として鵯組に厄介になってる身の上だ。肩書きなんかねえ」
米倉はそう言ったが、穂積は「でも」と言った。
「何かあったら、頭が総長のために身体張るんでしょう?同じじゃないですか」
「お前な」
「俺は今でも、頭が間違ったことしたとは思ってないですよ。白虎組の奴らは信用できねえ」
「よせ。こんな朝っぱらからする話じゃねえ」
米倉はタバコをくわえると、ホースをまとめて蛇口を閉めた。
「お前、そろそろ実家継いだらどうだ。印刷所、結構儲かってるんだろ」
「嫌ですよ。チラシ作りだのポスター作りだの、そんなの誰にだって出来るじゃないですか。俺は、俺にしかできないことがしたいんです」
穂積の実家は印刷所を営んでいるが、本人には継ぐ気はないらしい。兄弟がいるからと、自分は不良三昧をしている。
穂積は、店内に並ぶバイクの数々に目を輝かせた。
「俺だって、頭みたいに実家がバイク屋だったら考えないこともないですけど。いいなあ、俺もこんなでかいバイクに乗ってみたいたいなあ」
「バカ、商品に触るなよ。それにここは実家じゃなくて、叔父貴の店だ」
ヤクザによくあるパターンで、米倉も家族とは反りが合わなかった。バイク屋を営んでいた叔父の影響でスクーターを乗り回すようになり、気が付けばこの世界に入っていた。
米倉の脳裏に、タケルと共に街を走り回った若き日の残像がよぎった。
――懐かしいな。またいつか、総長と一緒に走れたらいいと思っていたんだが…。
タケルが15、米倉が14の時に出会ってから、米倉はタケルを兄のように慕っていた。40年経った今も変わらず、タケルは米倉の憧れであり続けている。
穂積は外の曇り空をちらっと見上げて、玄関からすぐそこにある居間へと身を乗り出した。
「なんか外、降りそうっスね。頭、天気予報観ていいっスか?」
「ったく、自分ちみたいにくつろいでんじゃねえぞ。好きにしろ」
鋭い目つきのせいか、大羽を統べる秋津一家の元若頭という地位のせいか、米倉は若者から恐れられることも多い。穂積だけはこんな調子で無邪気に接してくるので、米倉もつい、生意気だとは思いつつも、面倒を見てやってしまう。
――この年齢になると、若いのが可愛くなってきちまうのかもしれねえな。
だからこそ、白虎組の卑怯を許せず、イサオの仇を討ちたいという若者たちの熱意に、米倉はほだされてしまった。本来ならば諫めるべき立場だったのに、若頭失格だ。
穂積はテレビのダイヤルを回し、「あれっ?臨時ニュースやってる」と言った。
「臨時ニュース?」
穂積の後ろからテレビを覗き込んだ米倉は、そこに流れている映像を見て絶句した。
「この事件の黒幕、秋津タケル!えー秋津タケルは事件の実行犯である秋津ミノルの兄…いや弟?どっちだっけ?まあ、どっちでもいいや。とにかく、身内である秋津ミノルの悪質なロリコン犯罪を野放しにし、どころか援助している、とんでもねえ悪党です」
ピンクの背広の男がまくし立てるデタラメの数々に、タケルの滑稽な似顔絵――。
度を越した悪ふざけの数々に、米倉は自分が悪い夢を見ているような気さえしてきた。
――総長がロリコン?秋津一家のハーレム……!?
どんどん顔色を失っていく米倉の横で、穂積が顔を引きつらせていた。
「か、頭……」
実のところ、米倉の思いとは裏腹に、穂積とて米倉が怖い。穂積たち若者の気持ちを分かってくれる男だからこそ敬愛しているが、あの最強の総長・秋津タケルと肩を並べていた米倉薫は、穂積にとって十分恐ろしい。
しかも、こんな風に全身からピリピリとした殺気を放たれたら――穂積はもう、縮み上がって声も出せなくなってしまう。
米倉は、バンと畳を叩いて立ち上がった。
「ふざけんじゃねえ!」
「ひいっ!」
「白虎組の連中め、厭らしい真似しやがって。許せねえ…!」
障子が破れて穴が開くんじゃないか、と心配になるほどの怒声に、穂積は思わず頭を抱えた。
――まずいっ!頭、相当おかんむりだ…!
亀のように丸まった穂積の首根っこを、米倉が掴み上げた。
「おい、穂積」
「は、はい!?」
「お前、今すぐ実家の仕事場に行け。作ってもらいたいものがある」
「わ、分かりましたっ!」
米倉から放り投げられるようにして解放された穂積は、ほうほうのていで店先を後にした。
一人になった米倉は、行き場のない怒りを畳にぶつけた。
「畜生っ…」
握った拳が、わなわなと震える。怒りのあまり、危うく穂積を殴ってしまうところだった。
米倉は、キッと顔を上げた。
――総長を侮辱したこと、後悔させてやる。今に見ていろ、白虎組…!
米倉の乗ったバイクのエンジンは、大羽を揺るがす一大騒動の幕開けを告げる狼煙となって街に響いたのだった。
同じ頃、大羽から離れた彩北でも、そのニュースは流れていた。
マンションの部屋でテレビを見ていた響子は、その珍妙な映像で語られている『19歳女性』が誰なのか、すぐに悟った。
――夏目さんが、秋津一家にさらわれた……!
長い髪を翻し、響子はすぐに勤め先の『パオラ』へと電話した。
「もしもし、ママ?響子です。あの、今夜はお休みしてもいいでしょうか」
そして、更に遠く離れた東京へも、その報せは届いた。
朝のビル街を見下ろす高層マンションで、桃華組組長は忌々しげに受話器を置いた。
「フン!先走った真似をしてくれる。これだから田舎は嫌なんだ」
桃華組組長は、傍らにいる源に命じた。
「源!分かってるな」
「はい」
「夏目さやかを連れて来い。白虎組や朱雀組に横取りされる前にな」
無論、そのつもりだ。スカイラインを飛ばし、源は大羽の地へと急いだ。