5話 再会とはラビリンス
第5話 再会とはラビリンス
「夏目なら、一人でも大丈夫だよな。強いんだから、俺がいなくても勝てるだろ?」
そう言って、さやかを置き去りにした男。
血だらけになったさやかの手。
たった一人で迎えた夜明け――。
悲しくはなかった。ただ、行き場のない虚しさを、どうしたらいいのか分からなかった。
「……うにゅ」
さやかは、夢から覚めた。
頬の下には、開きっ放しの数学のノートが広がっている。
時計を見ると、朝の8時だった。受験勉強をしているうちに、寝てしまったらしい。
冬枝の代打ちになったさやかだが、進学を放棄するつもりはない。代打ちの傍ら、受験勉強も欠かさず行なっていた。
同級生たちは今頃、東京でキャンパスライフを謳歌しているだろう。さやかも、焦りを感じないと言えば嘘になる。
だが、羨ましいとは思わない。さやかはここで、大好きな麻雀を打ちながら、衣食住の心配なく受験勉強ができるからだ。
――全部、冬枝さんのおかげ。
冬枝はさやかに麻雀で食っていく道を与えたうえに、自宅マンションにまで居候させてくれた。冬枝がここにいていいと言ってくれた時、さやかは心からホッとした。
――ヤクザの代打ちになるなんて、東京にいた頃は想像してなかったな。
代打ちどころか、誰かのために打つこと自体、以前のさやかは考えたこともなかった。雀荘ではいつも一人で、周りはみんな敵だった。
さっき見た夢が、さやかの瞳に暗い影を落とす。
あの時のように、たとえ置き去りにされたとしても――自由気ままに麻雀が打てれば、それでいい。雀卓ではいつだって一人だ。さやかはそう信じていた。
もしかしたら、少し強がっていたのかもしれない。それを気付かせてくれたのは、冬枝だった。
「お前一人で戦うんじゃない。俺たち、2人で戦うんだ」
代打ちを辞めようとしたさやかに冬枝がそう言ってくれた時、心が動いた。
今まで、そんなことを言ってくれる人はいなかった。さやか自身、誰かの手を借りようなどと思ったことはなかった。
「お前がどんな変人だろうが、俺はお前を置き去りにしない。だから、お前も一人で逃げるな」
冬枝には、さやか自身も見えていなかった心の傷が見えていたのだろうか。
――僕より麻雀弱いくせに、不思議な人。
さやかは、足元のトランクを開けた。中に入っているルービックキューブは、六面全部バラバラになっている。
「ルービックキューブだって下手なおじさんなのに…」
さやかはふふっと笑うと、ルービックキューブをくるくると回した。あっという間に、六面を揃える。
冬枝には、本当に感謝している。その一方で、さやかは冬枝を案じていた。
冬枝には金がない。
金融会社の督促状、マンションの管理会社からの請求書、『金返せ!!!』と書かれた無記名の手紙と、同封されていた大量のカミソリ刃……。
郵便受けに入っていたそれらをテーブルに並べて、さやかは腕を組んだ。
「…ヤクザって、意外と貧乏なんだな」
冬枝は、さやかには気前のいいところしか見せない。相場は知らないが、代打ちとしての報酬だって十分にもらっている、と思う。
――僕がもっと、力になってあげられればいいんだけど。
さやかは金にこだわらない。経験豊富な裏社会の人間たちと麻雀が打てるというだけで、満足している。報酬はいらないぐらいだが、冬枝にもメンツがあるだろうと思って、素直に受け取っていた。
冬枝が金に困っていると分かった以上、もらった報酬を冬枝に返してもいいのだが――さやかの手元にも、東京で稼いだ1千万の半分、500万ちょっとしか残っていなかった。
さやかの所持金を巻き上げたのは、あの腹立たしいスケベ男である。
春野嵐――さやかがこちらに来て、初めて敗北した相手だ。
あれから、さやかは何度か雀荘『こまち』で嵐と対決したが、ことごとく負けている。
――どうして、あんな男に勝てないんだ…!
馴れ馴れしい軽口に、臆面のないチカン行為。脳みそが詰まっていないかのような嵐に、やられっぱなしの状態であることが、さやかは悔しくてならない。
――まして、嵐なんかに負けたことが冬枝さんに知られたら……!
きっと、冬枝のほうから代打ちをクビにされるだろう。それだけは嫌だ、とさやかは一人、首をぷるぷると振った。
「ふあーあ。さやか、今朝は早いな……って、うわっ!?」
自室から起きてきた冬枝が、テーブルに督促状が並んでいるのを見て、慌ててすっ飛んできた。
「あーあー、これはだな、弟分どもがたまたま、振り込むのを忘れただけでっ…」
「…誤魔化さなくてもいいですよ、冬枝さん」
テーブルの上に覆い被さって督促状を隠そうとする冬枝に、さやかは苦笑した。
「安心してください。僕がこれからいっぱい勝って、冬枝さんにいい暮らしをさせてあげますから!」
「あ、ああ……?」
「次からは、報酬もいりません。勝った分はそのまま、冬枝さんがもらってください」
「そ、それはダメだ」
さやかを働かせるだけ働かせて、金を搾り取るというのでは、朽木と同じになってしまう。組に内緒でデリヘルで稼いでいる、と噂の同輩のようにはなりたくない。
冬枝は郵便物を手早く片付けると、まとめて引き出しにしまった。
「さやか、コーヒー飲まねえか」
「ありがとうございます、いただきます」
台所へと向かいながら、冬枝はこっそり溜息を吐いた。
さやかのような若い娘にまで金の心配をさせてしまうなんて、つくづく情けない。あの調子では、冬枝が朽木から金を無心されているなどと知ったら、さぞかし心配するだろう。
――『報酬はいらない』なんて言う代打ち、世界中探したって、お前ぐらいだろうよ。
さやかは麻雀以外頭にない、麻雀バカなだけだ。そう言い聞かせないと、純粋な眼差しをうっかり勘違いしそうになる。冬枝は自戒した。
雀荘『こまち』で、さやかは今日も嵐に負けた。
「イェーイ!東北新幹線~っ!」
「そんな役、聞いたことがないぞ!反則だ!」
「あれーっ、東京から来たから知らねえのかなー?おーい、中尾」
嵐が呼ぶと、中尾という店員がサッと現れ、店で採用している和了役一覧表をうやうやしく広げた。
そこには、手書きで『東北新幹線』の役が書き足されていた。
「俺の勝ち!はい、100万ね!」
「ぐっ……!」
この調子では、さやかの所持金は底を尽きてしまう。分かってはいたが、麻雀となると退けないのがさやかの性分だった。
嵐は手を突き出したまま、俯くさやかの顔を覗き込んだ。
「金を払うのが嫌なら、代打ち辞めたっていいんだぜ?それでチャラだ」
「…チャラじゃない!そっちのほうが困る」
「じゃ、またうちで暮らさねえか?鈴子、お前が出てって寂しがってたぞ」
春野鈴子は、嵐の妻だ。明るく綺麗な女性で、さやかも鈴子のことが嫌いではない。
しらじらしく言う嵐に、さやかは拳を握り締めた。
「誰のせいで出て行ったと思ってるんだ…!」
さやかは以前、嵐に負けて嵐の家に住むことになった。嵐も鈴子も人懐っこく、一時はここで暮らすのもいいかな、と考えたが、嵐のチカン行為に耐えかね、一晩で飛び出した。
さやかが睨み付けても、嵐は一向に悪びれる素振りがない。
「なんだよ。さやかが一人じゃ寝れねえかなと思って、添い寝してやったんじゃねえか」
「奥さんがいるのに、よくもいけしゃあしゃあとそんなことが言えるな…!」
「鈴子は、そんたこと気にしねぇの。そうだ、今度は俺と鈴子と3人で寝るべ」
「断る!」
またベッドの中で体を触られては、たまったものではない。春野家を飛び出し、冬枝のマンションに着くまで、さやかは生きた心地がしなかった。
嵐が子供のように唇を尖らせた。
「なんだよ、ダンディ冬枝には添い寝してやってんじゃねえのか?」
「そ、そんなことするわけないでしょ!」
さやかの部屋と冬枝の寝室は、当然ながら別々である。掃除や洗濯は冬枝の弟分たちが行なっているため、さやかは冬枝の部屋に入ったことすらない。
「嫁入り前の女子がヤクザと同棲なんて、親御さんが泣くぞ?だからカモン、マイホーム」
「あんたの家にいたほうが、よっぽど親不孝だ」
「えーっ。さやかのイケズ」
「うるさい」
さやかはボストンバッグから札束を出すと、嵐の手に叩き付けた。
「なんでそんなに代打ちやりたいんだよ。ダンディ冬枝に惚れてんのか」
「なっ……」
かあっと顔に血が上ったが、さやかは慌てて首を左右に振った。
「そ、そっちこそ、なんで僕に代打ちを辞めさせたいんだ。あんたに関係ないだろ」
「そりゃーお前さん……」
嵐はふっと格好つけた笑みを浮かべると、親指と人差し指を輪っかの形に曲げ、自らの額にぴたりと当てた。
「俺は元々、『コレ』なんでね。可憐な乙女が非行に走るのは見逃せない、ってわけだ」
「……?」
おでこに丸、の意味が分からず、さやかは首を傾げた。
「………ブッダ?」
「はんにゃ~は~ら~み~た~しんきょ~……って、違う!あのな、これは…」
「警察。だろ?」
さやかの背から言葉を挟んだのは、枯れ葉色のスーツをまとった男――冬枝だった。
「…冬枝さん!」
「おー、ダンディ冬枝。今日もダンディだねえ」
「なんだよ、ダンディ冬枝って」
冬枝は顔をしかめつつ、さりげなくさやかと嵐の間に回った。
「嵐が…警察……?」
「『元』だけどな」
信じられないといった顔つきのさやかに、嵐は軽くウィンクした。
「元おまわりが、うちの代打ちに何の用だ」
さやかが「引っ越し先」として告げた住所に向かった冬枝は、そこが雀荘『こまち』の常連である春野嵐の自宅であることを突き止めた。
『こまち』のマスターである中尾は、嵐と親しい。東京から来た少女が冬枝に抱き込まれた、と元刑事である嵐にご注進したのだろう。
嵐はピンク色のジャケットをごそごそと探ると、タバコに火をつけた。
「冬枝さん、さやかは代打ちに向いてませんよ。こいつ、1回も俺に勝てないんですから」
「ぐっ」
「なに?さやか、お前、負けたのか」
冬枝が問うと、さやかは低く押さえ込んだ声で「……すみません」と言った。
――組の代打ちたちも歯が立たなかったさやかを、降した。
冬枝はにわかには信じがたかったが、さやかの様子を見ると、事実なのだろう。
うなだれるさやかの肩を、横から嵐がぐいっと抱いた。
「麻雀小町も名前負けですよ。弱いし、上も下も洗濯板だし、ない胸をまさぐると怒るし」
「うるさい、このスケベ親父っ!」
振り払おうとしたさやかより先に、冬枝が2人の間に割って入った。
嵐の腕をぐいっと掴み上げながら、冷たい眼で睨み付ける。
「嵐…とか言ったっけ。お前、俺の代打ちとずいぶん仲良くなったみたいじゃねえか」
さやかは「引っ越した」と言って冬枝のマンションを出たその夜、血相を変えて冬枝の元に戻ってきた。
てっきり、嵐が元刑事だと知って、慌てて飛び出したのかと思っていたが――今のやり取りを見たところ、どうやら全く違う事情のようだ。
――この野郎、さやかに何しやがった。
嵐をぶん殴りたい気持ちが指先まで充満しているものの、元刑事相手に無茶は出来ない。冬枝は、深呼吸して己を落ち着かせた。
「目的はなんだ。金か?まさか、古巣の警察にでもチクるつもりか」
「とんでもない。それよりも、ダンディ冬枝。さやかじゃなくて、俺を代打ちにしませんか?」
「あぁ?」
嵐は、無精ヒゲの目立つ口元に笑みを浮かべた。
「俺のほうがお役に立ちますよ。昔とった杵柄で、警察にもヤーさんにも顔が広いですし。麻雀だって、とぉーっても、強いし」
嵐に負けたさやかが、悔しそうに唇を噛む。
それを横目に見ながら、冬枝は「ダメだ」と言った。
「サツの息がかかった奴なんか、代打ちにできるか」
「ダンディ冬枝、知らないスか?けっこー多いのよ、ヤクザになる元警官」
嵐のへらへら笑いを遮るように、冬枝は雀卓をドンと叩いた。
「いいか、元おまわり。俺のシマで遊びたかったら、さやかに付きまとうんじゃねえ」
「あれま、おっかねえ。そんなに麻雀小町がめごいかね」
口調こそふざけているが、嵐の声には挑発するような響きがあった。
冬枝と嵐の目線が、卓を挟んでぶつかり合う。
「…夏目!?」
張り詰めた空気を壊したのは、他の雀卓から来た若い男だった。
「夏目…だよな。俺だよ、小池」
「あ……」
さやかが、驚いた様子で立ち上がった。
スポーツマン風の若い男は、「良かった、やっと見つけた」と顔をほころばせた。
「俺、ずっと探してたんだよ、夏目のこと」
「ぼ…『わたし』を?なんで?」
「なんでって、夏目が俺のせいで、受験に落ちたって聞いたから…」
冬枝と嵐は、それまでの応酬も忘れて顔を見合わせた。
――さやかが浪人したのは、この男のせい?
「…ちょっと、外で話そう」
そう言って、さやかは男を『こまち』から連れ出した。
さやかと男――小池は、どうやら高校のクラスメイトらしい。
「ああして見ると、お似合いっスね」
「ていうか、なんでお前とデバガメみたいなことせにゃならんのだ」
雀荘『こまち』の近くにある喫茶店で、冬枝と嵐は、さやかたちの会話を盗み聞きしていた。
「だって、気になるじゃないスか。麻雀小町が、東京でどんな男と付き合ってたのか」
「お前の頭にははんかくせえことしか詰まってねえのか」
「んだすよ。俺の脳みそは、股間と直結してるんで」
嵐は、堂々と開き直った。冬枝ですら閉口するのだから、潔癖なところがあるさやかは、この男に相当うんざりしたに違いない。
「冬枝さんこそ、いいんですか」
「何がだよ」
「うかうかしてると、東京から来たボーイフレンドに、さやかを連れ戻されちゃうかもしれませんよ」
確かに、その恐れはある。今は異郷の地で、裏社会での麻雀という非日常に我を忘れているさやかも、高校時代の同級生と会ったら、一気に目が覚めるかもしれない。
――せっかく、さやかの代打ちが軌道に乗り始めたところだってのに。
組の代打ちたちのリーダー格である岩淵に認められたことで、さやかの代打ちとしての立場は盤石なものとなった。これから経験を積めば、さやかは文句なしにシマ一の代打ちとして名を馳せるだろう。
あんな若造に横槍を入れられてたまるか、と思えば、さやかと小池のいる席を睨む冬枝の目にも力が入った。
通りに面した窓際の席で、さやかが静かに口火を切った。
「どうして、『わたし』がここにいるって分かったの」
「葵山学院の生徒会長が浪人なんて、前代未聞だろ?そのうえ、受験勉強のために東北まで行ったっていうから、みんなが噂してたぞ」
小池の話に身を乗り出したのは、嵐である。
「葵山学院って、偏差値72の進学校じゃねっスか。しかも、生徒会長だったって。あいつ、なんで麻雀なんかやってるんでしょうね」
「知るかよ」
と言いつつ、冬枝もさやかの経歴に驚いていた。頭が良いとは思っていたが、さやかは予想以上のエリートだ。
「小池は?大学、受かったんでしょ。こんなところに来てていいの?」
「ああ、うん。俺はさ、その…第一志望も第二志望も落ちちゃって、すべり止めで受けたトンペーに、なんとか」
万崖の東北大学といえば、地元ではそれなりの難関大である。葵山学院のインテリからしてみれば、地方の一大学でしかないようだ。
努めて表情を消している風のさやかとは対照的に、小池は切実さを募らせていた。
「俺……どうしても、夏目に謝りたくて」
「謝る?」
「だって、俺のせいだろ。夏目だったら、大学なんて選び放題じゃないか。なのに浪人なんかして、わざわざこんな田舎に来るなんて」
そこまで聞いた嵐が、ピンときたとばかりに「ははぁーん」と言った。
「あの2人、やっぱりデキてますね。元恋人同士、ですよ」
「そうかぁ?俺には、そうは見えねえが」
冬枝は、さやかが小池に対して『わたし』と言っているのが気になっていた。さやかは普段、『僕』という一人称を使っている。
――元恋人にしちゃ、他人行儀だな。
しかし、嵐の見解は真逆だった。
「多分、あの爽やか好青年に他に女が出来たとかで、さやかが振られたんですよ、それも、入試直前に。失恋のショックで受験に落ちたさやかは、傷心を癒すために旅に出た」
嵐は「ところが、乙女はそこで悪いおじさんに見初められ、代打ちという名の愛人にされてしまったのです。ヨヨヨ」と、ハンカチで涙を拭く仕草をした。
「愛人じゃねえ。てめえみたいなスケベと一緒にするな」
吐き捨てると、冬枝はさやかと小池に目線を戻した。
「小池のせいじゃないよ。『わたし』が自分で選んだことだから」
さやかはコーヒーカップに目線を落としたままで、小池と目を合わせようとしない。
「でも…、俺は逃げた。夏目だけ残して」
「仕方ないでしょ。入試があったんだから」
「それは夏目も一緒だろ」
深刻なムードになってきた若者2人に、嵐がミーハー心を剥き出しにした。
「ダンディ冬枝、これはおもしぇごとになってきましたよ」
「だから、その『ダンディ』っての、やめろって」
「いやいや、こいつぁヘビーな話だぜ。きっと、さやかはデキちゃったんですよ」
「出来たって、何が」
「妊娠したんですよ!」
「ぶふっ」
口をつけかけたブラックコーヒーが、冬枝の口元で霧状になった。
「な、な、なんだって」
「ガキ同士の火遊びで、さやかが身籠っちまったんですよ。ところが、受験直前で余裕のないダンナさんが我関せずを決め込み、さやかは一人、決断をせざるを得なかった…」
「冗談もほどほどにしろ。笑えねえ」
だが、感情を押し殺している様子のさやかと、強く責任を感じているような小池とを見ていると、嵐の言にも説得力があるような気がしてくる。
こちらの話が聞こえたわけでもないだろうが、「とにかく」とさやかが強い声を出した。
「小池が気にするようなことじゃない。それに、もう終わった話だよ」
「…ごめん」
「だから、もういいって」
「そうじゃないんだ」
小池は躊躇していたが、やがて勇気を振り絞ったように、ガバッと頭を下げた。
「ごめん!あの時、俺、塾があるからって言ったけど、ホントは、彼女の家に行ったんだ」
「…えっ?」
「夏目を置き去りにしちゃいけないって分かってたんだけど、入試の前、最後に一度だけ会おう、って彼女と約束してたんだ。だから……」
さやかは目をぱちぱちさせている。
小池は、すまなそうに顔を背けた。
「それに……怖かったんだ。ごめん…」
「……いいよ、別に。気にしてないから」
「でも、ケガしてたじゃないか。夏目、手に包帯巻いてただろ」
「あれは…」
さやかが押し黙ると、小池は「あの後、ヤクザたちに何かされたんじゃないか」と詰め寄った。
若者2人の話が、どうも剣呑な方向に向かっている。これは、さやかと小池の色恋沙汰では済まないのではないか、と冬枝は思った。
「こらぁぁぁぁぁっ!!!」
そこで、嵐が奇声を上げてさやかたちの席に突撃したので、冬枝は仰天した。
――何やってんだ、あいつ!
「ひどい、ひどいわ小池クン!!!アタシをヤクザに売り飛ばして、自分は女のところに走るなんてっ!!!」
「えっ?ええっ??」
いきなりピンクのジャケットを着たヒゲ面男に乱入され、小池は目を白黒させている。
さやかが般若の形相になっていたが、嵐はお構いなしにまくしたてた。
「小池クンが守ってくれないから、アタシ、ヤクザの愛人にされちゃったのよお!こんな田舎のマンションに囲われて、おじさんヤクザとおんなじシャンプー使わされてるのよお~っ!!!」
「そ、そうなのか、夏目!?」
小池の視線が、忙しなく嵐とさやかの間を行ったり来たりした。
「あ~~~ら~~~~し~~~~~~っ!!!!」
さやかは立ち上がると、嵐めがけてコーヒーを思いっきりぶちまけた。
嵐はそれを難なく避けると、左手でさやかのコーヒーカップを掴み、右手をぺたりとさやかの胸に当てた。
「ええカップと、Aカップ。なんちて」
「いっやああああああああああああああ!!!!!」
「嵐、てめえいい加減にしろ!」
冬枝はさやかから嵐を引きはがすと、その横っ面を張り倒した。
テーブルが引っ繰り返り、ドカッと音を立てて嵐が倒れた先は、小池の上だった。
「ひいい~っ」
顔面蒼白で這い出ようとする小池を、嵐が「いやーん、小池クン、逃げないでえ~」とがっちりホールドする。
「ねえねえ、小池ク~ン」
「なっ、なんですか?!」
「小池クンが彼女のとこに逃げた後、さやかに何があったのか、知りたいんだろ?」
「そりゃ、知りたいですけど…」
嵐はニカッと笑うと、小池を抱き起こした。
「よし!じゃあ、さやかと麻雀で勝負だ!」
「えっ?」
名指しされたさやかが、小さく目を見開く。
「小池クンが勝ったら、さやかはあの日、何があったのか正直に白状する。どうだ?」
嵐の唐突な提案に、冬枝は面食らった。
――そんな勝負、さやかに何の得があるんだ。
だが、さやかは迷いなく「分かりました。受けましょう」と言った。
「おい、さやか」
「その代わり、ぼ…『わたし』が勝ったら、小池は万崖に帰って。他の人にも、『わたし』のことは口外しない。それでいい?」
小池が返事をする前に、嵐が「さっすが、『麻雀小町』は話が早い」と言って指を鳴らした。
「『麻雀小町』って呼ばないでください…」
「さやか。そんなあっさり、勝負を受けるなよ」
冬枝は、さやかの短気さに呆れた。
「ただ麻雀を打つだけです。簡単ですよ」
「そうじゃねえ。お前が話したくないことなら、話さなくたっていいだろ。あんなガキ、相手にすることねえ」
「冬枝さん…」
やがて、さやかはフッと笑みを浮かべた。
「…ありがとうございます。小池と嵐に、僕に挑んだことを後悔させてやりますよ」
そうじゃねえ、という冬枝の心の叫びは届かなかった。
結局、さやかは麻雀となると退けない女なのだ。こうして、冬枝とさやか、嵐と小池の4人で、麻雀対決をすることになった。
雀荘『こまち』に着くと、嵐が「ダンディ冬枝、ちょっと」と言って、スタッフルームに引っ張り込んだ。
「なんだよ」
「『麻雀小町』のさやかと小池クンじゃ、雀力に差があり過ぎます。ハンデが欲しい」
小池の腕前は知らないが、ベテランの代打ちですら凌駕するさやかに敵う相手とは思えない。嵐の言い分は、もっともと言えばもっともだった。
大金を賭けた勝負でもなし、強情を張る理由はない。冬枝は頷いた。
「分かった。何点欲しいんだ」
「点はいらねえ。小池クンが勝ったら、俺を冬枝さんの代打ちにしてもらおうか」
「はあ?!」
予想外の要求に、冬枝は度肝を抜かれた。
嵐は滔々とまくしたてる。
「ここで小池クンに負けるようなら、さやかは使い物になりませんよ。冬枝さんだって、若い女を使ったうえに負けて、仲間の前で赤っ恥かきたくないでしょ?」
「そりゃ、そうだが」
「安心してください。ワイルド嵐は、『麻雀小町』よりも強い。なんだったら、ダンディ冬枝に添い寝だってしてあげますとも」
「いらねえ、気色悪い」
ぴったりと身を寄せてくる嵐を、冬枝は振り払った。
「えー。さやかには添い寝させてるんじゃないんスか?」
「させるか、添い寝なんか!てめえ、一回脳みそ洗って出直して来い!」
声を荒げる冬枝を受け流し、嵐はニッコリと笑った。
「とにかく、小池クンが勝ったらさやかは真相を洗いざらい話して、冬枝さんの代打ちを辞める。ワイルド嵐っていう優秀な後釜がいるんだから、冬枝さんには損のない話だと思いますけど」
冗談じゃない。さやかが言いたくもないことを言わされるのもそうだが、さやかを辞めさせて、この元刑事を代打ちにするなど、もってのほかだ。
そう言って断ろうとした冬枝を、嵐が「ああ、そっか」と気の抜けた笑みで遮った。
「無理だよなあ、冬枝さんには」
「ああ?」
「さやかに頼らねえとやっていけないほど、麻雀弱いんだもんなあ。こんな条件呑んじまったら、今後はこのワイルド嵐を、嵐サマ、って呼んで拝まなきゃいけなくなるもんなあ」
冬枝のこめかみが引きつった。
「てめえ、今なんて言った」
「冬枝さんにもメンツがありますもんね!なよっちい大学生と元おまわりに負けて代打ちを手放した、なーんてことになったら、恥ずかしくて組に顔向けできませんもんね」
ハハハ、とわざとらしく笑う嵐の胸倉を、冬枝は掴み上げた。
「よくさえずる野郎だな。その舌、引っこ抜いてやろうか」
「おーっとダンディ冬枝、暴力はいけませんよ。ここは雀荘なんだから、勝負は麻雀でつけようじゃありませんか」
冬枝が至近距離で睨み付けても、嵐には微塵も恐れがない。流石に、元刑事は伊達ではないようだ。
「いいだろう。てめえの言う条件、呑んでやる」
「おおっ。それでこそダンディ冬枝、男前!」
「ただし、さやかが勝ったら二度とさやかに付きまとうんじゃねえ。代打ちを辞めろとか抜かすのも禁止だ」
冬枝が人差し指を突きつけると、嵐はおどけるように首を傾げた。
「さあ、それはどうかな」
「なに?」
「今の俺は、ただの民間人ですから。ふつーに雀荘に来て、たまたまさやかと同じ卓になって、さやかに勝っちまう、ってこともあるでしょ?」
「てめえ……」
嵐はウインクすると、ひらひらと手を振った。
「いいじゃないっスか、健全な勝負ですよ。賭けてるのは金じゃなくて、さやかの身の上ひとつなんだから」
嵐の言葉の裏には、さやかを代打ちにすることを許さないという気持ちが強く見え隠れしている。
――この勝負、油断はできねえ。
さやかは同級生と麻雀を打つだけのつもりだろうが、嵐の思惑はもっと深い。自然と、冬枝の表情は険しくなった。
さやかの告白と代打ちの座を賭けた麻雀は、思いもよらない成り行きになった。
この中では麻雀歴の最も長い冬枝、『麻雀小町』さやか、元刑事の嵐――を差し置いて、さやかの同級生である小池の一人勝ち状態になったのだ。
「ツモ!三色、タンヤオ!」
東四局も小池が制し、冬枝とさやかは顔色を失った。
「小池クン、強~い!」
嵐がはやしたてると、小池が照れ臭そうに頭を掻いた。
「へへ。麻雀、久しぶりにやったんですけど、やっぱ面白いですね!」
「よっ、大将!ドスケベヤクザをやっつけろ!」
「誰がドスケベヤクザだ、この野郎!」
冬枝が卓を叩くと、嵐よりも小池のほうが「ひっ!」とのけぞった。
「………」
さやかは一人、無言で眉根を寄せて卓を見つめている。
冬枝のみならず、さやかも信じられない展開なのだろう。実際に打ってみても、冬枝は小池がさやか以上の実力者とは思えなかった。
小池が勝っているのは、テンパイまでのスピードが速いからだ。相手の捨て牌も見ずに手当たり次第に鳴きまくり、安い役で和了っている。
普段のさやかなら、小池の手を阻止することも、より高い手で和了ることも可能なはずだ。それが、小池の安上がりに後れを取っている。
冬枝は、ちらりとさやかの手牌を見た。
――やっぱりな。
さやかの手はシャンポン待ち、ロンなら四暗刻、ツモでも三暗刻とトイトイになる形だった。小池とは対照的に、鳴かずにギリギリまで狙っていたのだろう。
四暗刻なら役満だが、小池と比べて待ちが重い。さやかは役満に固執するあまり、勝ちを逃している状態だった。
――わざとあの坊主に勝たせている、って感じでもねえな。
さやかの顔つきは硬い。小池のことなどさっさと蹴散らすつもりだったのが、思いのほか手こずっているせいだろう。
「さあさあ、皆さん。次の局始めるべ」
嵐が場を仕切り直し、手牌をじゃらっと崩した。
一瞬だが、冬枝は、倒れた嵐の牌を見逃さなかった。
――こいつも一枚噛んでやがったか。
さやかの待ち牌は、嵐によって止められていた。さやかの手は、完全に嵐に読まれていたのだ。
こんなことが出来るぐらいだ。嵐なら、自力でさやかを破ることだって可能なはずだ。嵐はわざと小池に勝たせて、自身は小池のサポートに徹している。
この勝負は、形の上ではさやかと小池の一騎打ちである。元同級生で、簡単に勝てると思っていた小池に負けたとなれば、さやかは屈辱を感じるだろう。
――それが嵐の狙いだ。
この場には、冬枝も同席している。冬枝の目の前で、自分より弱い相手に惨敗を喫すれば、さやかは代打ちとしての自信を失くす。嵐が口を挟むまでもなく、さやか自ら代打ちの座を降りかねない。
――あの野郎、能天気なフリして、陰険な真似しやがる。
冬枝の視線に気づいたのか、嵐がこちらに向かってニヤッと笑った。手牌を見せたのも、偶然ではなくわざとだったのかもしれない。
尤も、さやかが小池相手に手を焼いているのは、嵐の妨害だけが原因ではない。
今のさやかには、目の前の勝ちが――さやかがいつも言うところの『解』が――見えていない。
「ちょっと、一服してくる」
冬枝はタバコ片手に立ち上がると、「さやか。お前も来い」と促した。
「…はい」
「さやか、お前タバコ吸ってんの?」
嵐からふざけ半分にからかわれ、さやかは「吸ってません」と憮然とした。
バックヤードで2人きりになると、さやかが先に口を開いた。
「次は勝ちます。これ以上、小池と嵐の好きにはさせません」
嵐に手を妨害されていることには、さやかも気付いていたようだ。
「博打じゃない麻雀でも、手を抜かねえのは立派だが…」
冬枝はタバコの煙を吐いた。
「さやか。お前、カッコつけようとしてねえか」
「え?」
「小池に素を見せたくない、頭ん中を読まれたくない、って気持ちが出過ぎてんだよ。それで、必要以上に高い手で和了って、自分をデカく見せようとしてる。違うか?」
「………」
さやかは黙って俯いた。さやか自身、意識していなかったのかもしれない。
「お前、何を守ろうとしてるんだ。メンツか」
「…それは…」
「さやか。お前はそのまんまでいいんだ。あんな坊主相手に身構える必要なんかねえ」
さやかが、顔を上げた。
薄暗いバックヤードで、冬枝とさやかの目が合う。
「お前はもう、あいつが知ってる『夏目さやか』じゃねえ。俺の代打ちだ」
「…冬枝さん」
さやかと小池の間に何があったのか、冬枝は知らない。
冬枝が知っているのは、さやかが強い女だということだけだ。
「…僕と一緒に戦ってくれるって言葉、信じていいですか」
さやかの問いに、冬枝は「おう」と頷いた。
――さやかの弱い部分は、俺が補ってやる。
「勝たねえと、嵐が俺の代打ちになっちまうからな…」
冬枝がぼそっと呟くと、さやかが「は?」と片眉を上げた。
「なんですか、それ」
「嵐と約束しちまったんだよ。小池が勝ったらお前を辞めさせて、嵐を代打ちにする、って」
「は…?」
さやかは文句を言おうと口を開きかけたが、ぐっと堪えて顔を背けた。
「ちっ」
「あっ!お前、舌打ちしただろ!」
「ちっ」
「しかも2回も!てめえ、礼儀ってもんを知らねえのか」
「うるさいな。勝手にそんな約束されたら、舌打ちぐらいしたくなりますよ」
さやかに呆れた調子で言われ、冬枝は「すまん」と素直に謝った。
「あいつの挑発に乗っちまった」
「何やってるんですか、いい年して」
「てめえ、口の利き方ってもんがだな」
「だまれ」
冬枝を遮ると、さやかは「とにかく」と言った。
「…代打ちの座がかかってるんじゃ、小池に負けるわけにはいきません。なりふり構わず勝ちにいきます」
「ああ。それがいい」
不機嫌そうだったさやかが、不意にふっと唇を緩めた。
「冬枝さんと話してたら、何だか気が楽になりました」
「そうか?」
「東京の知り合いに会うなんて久しぶりだったから、肩に力が入ってたみたいです。こっちでは、自分を取り繕わなくてもよかったので」
さやかは、小池の前ではずっと『わたし』で通していた。麻雀でも、本来の自分を見失っていたのかもしれない。
「俺は、いつものさやかが一番いいと思うぞ」
冬枝は励ますつもりで言ったのだが、さやかからは赤面された。
「からかわないでください。バカ」
「バカって、お前…」
さやかはぷいっとそっぽを向いて、そのままバックヤードを出て行った。
――何にせよ、調子を取り戻したみたいだな。
あれだけ生意気風を吹かせられるなら、問題はない。
ちょっとめんけえ『バカ』だったな、と冬枝は一人で反芻した。
そして、次の局であっさりさやかと小池の点数は逆転した。
「ツモ。リンシャン、三槓子、ホンイツ、ドラ2」
南三局になる頃には、さやかの強さに小池はすっかり怖気づいていた。
「…夏目、マジで強いんだな。さっきは、手加減してたのか」
「ううん。調子が出なかっただけ」
さやかの返事に気負いはない。嵐が、横から小池の肩を引き寄せた。
「小池クン、弱気になっちゃダメだぞ。小池クンが勝たないと、さやかは変態ヤクザに捕まっちまうんだからな」
「は、はい」
「誰が変態ヤクザだ!」
冬枝の憤りもそっちのけで、嵐と小池はこちらに背を向けて、何やらボソボソと相談し合っている。
こうもアケスケだと、咎める気にもならない。冬枝は嘆息した。
「さやか。あいつら、この土壇場になって何かする気だぞ」
「好きにさせておきましょう。小池の解はもう見切っています」
さやかはもう、小池を『因縁のある同級生』ではなく、『ただの対戦相手』として、冷静に見据えている。冬枝も安心した。
だが、嵐はこのオーラスで、とんでもないことを仕掛けた。
「!」
それは数巡目、嵐のツモ番のことだった。
牌をツモる時、嵐の指がわずかに動いた。目視できたのはそれだけだったが、裏社会で麻雀を打ってきた冬枝にはそれで十分だった。
――こいつ、牌をすり替えやがった。
手牌と山にある牌を、瞬時にすり替えた。目にも止まらぬ早業で、冬枝も反応が遅れてしまった。
――やられてからすり替えだと言ったところで、証拠がねえ。
元刑事のくせに、小賢しいことをする。今の手際を見ると、イカサマをするのはこれが初めてではあるまい。冬枝がすり替えを指摘したところで、平気で開き直るだろう。
よく見れば、嵐の隣の小池も落ち着きがない。嵐は卓の死角で、小池と手牌を交換したのかもしれない。
――俺の前でインチキするとは、いい根性してるじゃねえか。
こうもコケにされては、冬枝のメンツが立たない。普段の裏賭博ならともかく、今はプライベートの勝負だ。嵐たちを力ずくで黙らせても、誰からも文句を言われる筋合いはない。
立ち上がりかけた冬枝は、卓の下でさやかから袖を引かれた。
「あ?」
「冬枝さん。気にしないでください」
どうやら、さやかも嵐のすり替えに気付いたらしい。雀荘でいかつい男たち相手に打ってきただけあって、イカサマも見慣れているのだろう。
だが、と反論しようとした冬枝を、さやかは小声で制した。
「冬枝さんが手を出すほどの相手じゃありません。僕を信じてください」
さやかの瞳は、晴れた青空のように澄み渡っていた。
そう言われてしまえば、冬枝は黙るしかない。枯れ葉色のスーツの袖をつかむ指先を、邪険に振り払う気にもなれなかった。
――こいつらをぶん殴ったほうが、話は早いと思うんだが。
気を揉む冬枝をよそに、さやかは涼しい顔で嵐のツモ切りを見送った。
「………」
次の瞬間、小池が張り詰めた面持ちで「ツモ!」と叫んだ。
「こ、国士無双!役満!」
「国士だぁ?」
局中、冬枝は小池の捨て牌を注視していたが、国士の気配など皆無だった。
小池は、捨て牌をカモフラージュできるような頭の持ち主ではない。だとすれば――。
――しまった!
嵐の露骨なすり替えは、冬枝たちの目を引き付ける囮だったのだ。つばめ返しか何か知らないが、とにかく小池の手牌をほぼ丸ごと入れ替えたのは間違いない。
呆然とする冬枝の隣で、さやかが「…フフッ」と笑い声をあげた。
「小池。国士って、そんな簡単にできるもんじゃないよ」
「えっ?」
「ツモ牌。よく見て」
さやかに言われてツモ牌を見た小池が、蒼白になった。
「……国士じゃない!」
小池がツモった牌は伍萬――国士には不要の牌である。
「どうして、イカサマするのが自分だけだと思ったの?」
さやかの冷たい笑みは、嵐に向けられていた。
――こいつ、いつの間に。
恐らく、さやかは嵐たちが牌をすり替えることを読んで、小池のツモ牌に不要牌が来るよう、山をすり替えたのだ。隣にいた冬枝ですら、さやかの動きに気がつかなかった。
「『僕』は、冬枝さんの代打ちを辞めるつもりはありません」
さやかがきっぱりと告げると、嵐が苦笑した。
「んだか。そこまでして守りてえか、ヤクザの代打ちの座は」
「はい」
さやかの返事に迷いはなかった。
――こいつ、敵に回すと怖ぇな。
冬枝はさやかの力量に舌を巻きつつ、その覚悟に感じ入っていた。
「はあ~……」
すっかり脱力している小池の肩を、嵐がポンと叩いた。
「そう落ち込むなよ、少年。とりあえず、さやかとの間に何があったのか、小池クンが知ってることだけでも教えてくれねえか」
「えっ。あ、はい」
嵐が「これならセーフだよな、さやか」と確認すると、さやかは渋々頷いた。
小池はサッカー部のキャプテンで、学校ではさやか同様、優等生のポジションをキープしていた。
そんな小池が雀荘通いにハマったのは、部活のOBから誘われたのがきっかけだった。受験勉強のストレスも手伝い、小池はいつしか、親の金にまで手をつけていた。
このままではまずいと焦った小池は、使い込んだ金を取り戻そうと、入試前日のその夜も雀荘で打っていた。
雀荘『こまち』の喫茶スペースで、小池は肩を落としながら回想した。
「まさか、相手がヤクザだなんて思わなかったんです」
無理もない、と冬枝は思う。東京のヤクザは普通のスーツ姿が多く、素人目には、サラリーマンと見分けがつかないからだ。
気付いた時には手遅れで、小池はヤクザから、到底払えない額をふっかけられた。窮地に陥った小池の前に現れた救世主こそ、さやかだった。
「なんで、受験前日に雀荘になんか行ったんだよ」
嵐のツッコミに、さやかは恥ずかしそうに「…受験勉強のストレスで」と、小池の言い草を真似した。
冬枝には察しがつく。成績優秀だったさやかにとって、受験前日に雀荘に行くぐらい、たいしたことではなかったのだろう。むしろ、受験よりも麻雀のほうが大事だったのではないか。
さやかは生粋の麻雀バカだからな、と一人納得する冬枝に、小池が冷水を浴びせるようなことを言った。
「てっきり、夏目が俺のこと、好きなのかと思ってさ。それで、助けに来てくれたのかと」
「は?」
さやかが、怪訝そうに眉を寄せた。
冬枝が目を剥いていることも知らずに、小池は満更でもなさそうに頬を搔いている。
「夏目、めちゃくちゃモテるのに、誰とも付き合ってなかったじゃん?だから、俺だったのかなーって…」
「小僧、口は慎んだほうが身のためだぜ」
冬枝が上から頭を鷲掴みにすると、小池が「ヒッ!」と悲鳴を上げた。
「それで、ヤクザの相手はさやかに任せて、自分は女のところにトンズラした、と」
嵐が話を軌道修正すると、小池は「……はい」と消え入るような声で頷いた。
「次の日、学校に行ったら、夏目が金をくれたんです。それも、100万円ぐらい」
ヤクザにむしられた以上の金額を渡され、小池は驚いた。しかも、さやかの手には包帯が巻かれていた。
「訳を聞いても、夏目、何も話してくれないし。俺も、聞くのが怖くて、そのまま卒業しちゃったんだけど。あの後、夏目が浪人して彩北に行った、って噂を聞いて、居ても立ってもいられなくなったんだ」
小池は顔を手で覆うと、「まさか、夏目がヤクザの愛人にされてたなんて…!」と嗚咽を漏らした。
「だから、違うって」
「じゃあ、なんで浪人したんだよ。大学、受けようと思えば受けられた筈だろ」
「それは……」
言い淀むさやかに代わって、冬枝が口を挟んだ。
「坊主。お前、さやかに謝りに来たんだろ?」
「は、はい」
「なら、用は済んだはずだ。帰りな」
「えっ。で、でも……」
まだ何か言いたげな小池を、冬枝は険しい目つきで制した。
「さやかは、お前とは違う世界の人間になったんだ。もうお前の知ってる女じゃねえ」
「そんな……」
「このことは誰にも言うなよ。万崖にもうちの組員はうろついてる。下手な噂なんか流したら、すぐに俺の耳に入るからな」
最後はドスを利かせて脅しつけると、小池は首を激しく上下に振った。
「恐喝ですよ、ダンディ冬枝」
脱兎の如く逃げ去る小池の背中を見送りながら、嵐がさりげなく冬枝を肘で小突いた。
「コバエがうるせえから追い払っただけだ。悪ぃか」
「過保護なおじさんだなー。いいのか?さやか。彼氏に逃げられちまったけど」
「彼氏じゃありません」
さやかはげんなりして否定した。
「小池を助けたのは、本当に偶然です。いつもとは違う雀荘に行ったら、たまたま小池がピンチだっただけです」
「ホントかぁ?結構、ハンサムボーイだったじゃん。実は狙ってたんじゃねえの?」
「そんなに良いなら、嵐さんが小池と付き合えばいいでしょう」
ぴしゃりと言い返されて、嵐が「イヤン、ご機嫌斜め」と身をよじらせた。
「受験に落ちたのは、打ってたせいか」
冬枝が尋ねると、さやかは照れ臭そうに俯いた。
「打っているうちに、つい、熱中してしまって…。気が付いたら、入試の時間をとっくに過ぎていました」
同級生が入試問題と向き合っていた頃、さやかは麻雀牌と睨み合っていたわけである。
「親にはなんて説明したんだ」
「正直に話しました。僕が麻雀好きだということは、家族も知っているので」
尤も、「ヤクザに絡まれ、怖くて逃げられなかった」という風に話を脚色したという。
「…まあ、間違ってはいねえな」
「でも、ケガってのはなんだよ。小池クンがずいぶん気にしてたけど」
嵐に言われて、冬枝も思い出した。
麻雀はヤクザ顔負けだが、さやかは所詮、か弱い女子だ。負けたヤクザに逆上され、手を上げられたら、ひとたまりもない。
さやかは「あれは…」と頬を赤くして答えた。
「……対局中に1回、凡ミスをしちゃって…。自分自身にむかついたから、トイレの壁を思いっきり殴ったんです」
「えっ?まさか、ケガってのは…」
「…はい。自分で傷付けちゃったんです」
どうやら、それが恥ずかしくて、小池には詳しく語らなかったらしい。
「なーんだ、小池クンに振られたわけでも、妊娠したわけでもなかったのかあ」
嵐があけっぴろげに言うと、さやかが眉を吊り上げた。
「は…?」
「あっ、俺だけじゃないぞ。ダンディ冬枝も、さやかが小池クンに妊娠させられたんじゃないか、って疑ってたからな」
「おい、俺を巻き込むな!」
「…………」
さやかの目線が、冬枝にちくちく刺さる。嵐のせいで、とんだとばっちりだ。
「妊娠は違ったけど、お前さんも男運がないねえ。さやか一人にヤクザの相手させて、自分は女のところに逃げ出すような野郎のために、大学落ちるなんて」
嵐がしげしげと言い、冬枝も同感だった。
さやかは、自分だけ逃げ出した小池を咎めなかった。それどころか、金を渡してやった。さやかがお人好し過ぎて、冬枝のほうが腹が立ってくる。
――って、俺が言えた立場でもねえが。
さやかは「いいえ」と言って首を横に振った。
「正直、このまま進学していいのかな、って悩んでいたんです。大学に行くのは簡単だけど、僕には麻雀がある。麻雀で生きたい、って気持ちから、どうしても目を逸らせなかった」
小池に代わってヤクザと打っている間に、さやかは麻雀への思いを自覚したという。
「ただの麻雀狂いです。人助けをしたわけじゃない」
さやかは、自嘲するように言って笑った。
その肩を、冬枝がポンと叩く。
「いいじゃねえか。それで助かった奴がいるんだから、胸張ってりゃいい」
「…冬枝さん」
少なくとも、ただの麻雀狂いなら、小池に金を渡したりはしない。冬枝から見れば、さやかのしたことは立派な人助けだ。
冬枝を見つめるさやかの顔に、明るい笑みが浮かんだ。
「張るほどの胸もないっスけどね」
嵐が茶々を入れると、冬枝とさやかの「嵐!!!」という怒声が重なった。