49話 パーティーには気をつけて!
第49話 パーティーには気をつけて!
秋津一家本部、赤陽館。
昼間は若い衆が掃除や雑用に精を出している館内も、夜の帳が降りた今はしんと静まり返っている。
人気のない赤陽館で、杉の木が薫る休憩室だけは、明かりが灯っていた。
中でゆったりとくつろいでいるのは、眼鏡をかけた2人の男だ。
青の背広に身を包み、新聞に手早く目を通している50代の男――朱雀組・秋津一家相談役、秋津ススム。
その末弟にして、朱雀組・秋津一家最高顧問――秋津ミノル。
2人共、その聡明さで秋津一家に貢献する、組の頭脳である。秋津四兄弟の次男と四男でもあり、ススムとミノルは特に、眼鏡をかけた穏やかな眼差しがよく似ていた。
ススムは、コーヒーを片手に溜息を吐いた。
「タケルの奴、5代目に挨拶ぐらいすればいいのに」
朱雀組5代目組長・柘植雅嗣が白虎組との会合で東京から訪れていたが、秋津一家総長・秋津タケルは、出向くことすらしなかった。
「舎弟頭が親分の出迎えに行かないなんて、前代未聞だぞ。東京の本部に戻ったら、またうるさく言われるだろうな」
4代目組長だった長兄・秋津イサオの死後も、ススム、タケル、ミノルの朱雀組での立ち位置は据え置かれた。タケルは、朱雀組においては舎弟頭という高い地位にある。
東京と大羽の調整で忙しいススムのぼやきに、ミノルは冷静に助言した。
「5代目へのご挨拶は、遠慮させて頂いたということにしておきましょう。ユタカがこちらで動いていましたからね」
「ああ、それもそうだな。ユタカの名前を出せば、本部の連中も納得してくれるだろう」
ススムは、あっさりと頷いた。
秋津ユタカ――。
実のところ、その名前はこの大羽の地にあっては禁忌だった。若い者たちは特に『名前を言ってはいけないあの人』扱いして、決してその話題に触れることはない。
栄えある秋津一家の歴史上、最大の汚点。大羽の地を揺るがした、お家騒動の発端。
週刊誌では青龍会や朱雀組5代目組長・柘植雅嗣と並んで、秋津イサオ殺しの容疑者とも目される男――それが、秋津ユタカだ。
そういう事情のため、ススムもミノルも、人前では決してユタカの名を口にしない。
尤も、ススムもミノルも内心では、ユタカの名をタブーだなどとは全く思っていないが。
「ユタカのことはともかく、5代目と白虎組は結局、物別れに終わったな」
青龍会が配下の『エメラルド・ドラゴン』と桃華組を使って、白虎組のシマから少女たちを拉致した。いわゆる『竜宮城計画』の顛末については、今しがたススムが報告し終えたところである。
ミノルは、アールグレイの入ったティーカップに目を伏せた。
「無理もないでしょう。白虎組が救出できたのは榊原淑恵、汐見マキ、そして夏目さやかの3人だけ。その他の少女たちは皆、桃華組が連れて行ってしまったのですから」
灘議員の打倒に関しては協力した柘植と白虎組だったが、少女たちの扱いに関しては完全に決裂した。柘植が、桃華組を追わない決断をしたためだ。
ススムは、うーんと腕を組んだ。
「まあ、白虎組が俺たちと桃華組の関係を知ってるわけがないからな。5代目には、憎まれ役を引き受けてもらう形になってしまったが」
「ですが、今回は痛み分けでしょう。白虎組は、夏目さやかの引き渡しに応じなかった」
ミノルはてっきり、あの陰険な白虎組組長・熊谷雷蔵ならば、柘植との取り引きに応じるだろうと思っていたのだが、今回は当てが外れた。
「5代目は夏目さやかに並々ならぬ関心があるようですから、彼女をその場から連れ去るぐらいはするかと思っていましたが……はるばる東京から来た割には、あっさり引き下がりましたね」
不思議そうに言うミノルに、ススムは「あー」と困ったように笑った。
「例のあいつ…冬枝って奴がさ、さやかちゃんを連れてっちゃったんだよ」
「ああ…冬枝君の仕業でしたか」
ミノルの脳裏に、雀荘『こまち』の前で対峙した冬枝の凍れる眼差しが浮かんだ。
――相変わらず、過保護なおじさんです。
事実はミノルの想像とは少し異なるのだが、ススムは言わなかった。
「とにかく、5代目はこのぐらいで諦めたりしないだろ。4代目…兄貴を殺した犯人は、まだ捕まってないんだから」
今年の1月に起きた秋津イサオ殺害事件は、全国の極道たちに波紋を呼んだ。イサオが組長を務めた朱雀組を始め、その故郷である秋津一家、そして朱雀組の宿敵である青龍会までもが、イサオ殺しの首を求めて跳梁跋扈している。
夏目さやかは、事件の重要な鍵だ。夏目さやかを手に入れれば、イサオ殺しの真相を知ることができる。或いは、イサオ殺しの真実を捻じ曲げることも。
ミノルたち秋津一家としては、青龍会は勿論、イサオ殺しの容疑者の一人である柘植に、さやかを渡すわけにはいかない。
このまま白虎組に夏目さやかの身柄を任せていては、いつ誰の手に落ちるか分からない。白虎組は秋津イサオに何の恩義もないし、白虎組のような小さな組は、えてして日和見主義だからだ。
ミノルは、銀色の髪を揺らしてにっこりと笑った。
「相談役。僕に考えがあります」
秋津一家の二男と四男の密談は、若い衆がやって来る朝まで及んだのだった。
冬枝とさやかも、自宅マンションへの遅い帰宅を果たした。
「………」
青龍会にさらわれた少女たちを取り返すはずが、源に裏切られ、警察署にいた三船を奪われた。2人にとって、あまりにも長い夜になってしまった。
――さやかの奴、大丈夫か。
という冬枝の心配を先読みしたかのように、さやかのほうから同じことを言われた。
「冬枝さん、大丈夫ですか}
「ん?俺か?」
「源さんにやられたんでしょう」
そうはっきり言葉にされては立つ瀬もないが、実際、冬枝は源に負けた。
――やっぱりあの人、バケモノだ。
源はチャイナドレスにハイヒール、という動きづらい女装姿だったにも関わらず、冬枝の反応速度を遥かに上回るスピードで襲ってきた。源と冬枝の対決は、勝負と言えるようなものでさえなく、冬枝は一発で源にKOされた。
さやかは冬枝の惨敗を詰っているわけではなく、純粋に冬枝の身を案じているらしかった。
「本当に、怪我とかしてませんか?どこか、痛いところはありませんか?」
「お前は床屋か。痛ぇところも痒いところもねえっての」
などと茶化してから、冬枝は、さやかの心配も当然かと思い至った。
――さやかは、源さんにピストルを突き付けられたんだもんな。
味方だと思っていた源に三船を奪われた上、さやかは撃たれかけたのだ。源に対する恐怖は、さやかのほうが余程大きかっただろう。
そう思い返して、冬枝は、自分が源の裏切りを特に何とも思っていないことに気が付いた。
「冬枝さんは、源さんが青龍会の人間だったってこと…ショックじゃないんですか」
さやかからも聞かれて、冬枝は改めて自分の心情と向き合った。
「驚かなかったわけじゃないが…なんつーか、あの人は昔っから一匹狼だったからな。うちでも先代の親衛隊長はやってたが、源さんには組への忠誠心なんかなかったぜ。先代の甥っ子だからやってただけらしい」
「先代の甥っ子……って、源さんが!?」
ぎょっとするさやかに、冬枝は「あれ、言ってなかったか」と目を丸くした。
「何でも、源さんの死んだお袋さんが先代の義理の妹だったとかで、先代が源さんを用心棒にスカウトしたんだってよ」
「へえ…」
「昔は、源さんは先代の隠し子じゃないか、なーんて噂もあったんだぜ。源さんと先代、全っ然似てねえけどな」
つまり、源は任侠映画のような極道ロマンで白虎組に在籍していたわけではなく、単純に縁故で雇われていた身の上に過ぎなかった。実際、白虎組での肩書きも『組長の親衛隊長』だったため、正式な組員と呼べたのかどうか。
その源が白虎組を離れて、もう18年が経つ。源が新しい人生を送っていても、何らおかしくはない。源が選んだ雇い主がたまたま、青龍会だっただけだ。
冬枝はあっさりと語ったが、さやかはふと、冬枝の眼差しに乾いたものを感じた。
――冬枝さんはそもそも、そこまで人を信用していないのかもしれない…。
18歳で行くあてのない不良だった冬枝を拾い上げ、衣食住の面倒から裏社会での生き方まで、全てを教えたのが源だ。その源から裏切られたことでさえ、冬枝にとっては人生で起こるありふれた出来事の一つに過ぎないかのようだった。
――それだけ、冬枝さんは孤独な世界で生きてきたんだ。
いや、今でも冬枝は、誰も味方がいないのが当たり前の世界にいる。裏社会で生きていく上では当然の処世術なのかもしれないが、さやかは胸が締め付けられた。
「それより、さやか。三船のことだが…」
冬枝から切り出され、さやかは首を横に振った。
「いいんです、もう。それより、僕が三船にこだわったせいで、冬枝さんにまでご迷惑をかけてしまって…」
俯いたさやかの頭を、冬枝の大きな手がポンと触れた。
「何言ってんだ。俺が頭にきたから、源さんを追いかけただけだ」
「冬枝さん…」
「今夜はもう寝ろ。疲れた頭でぐるぐる考えたって、ろくなことねえぞ」
「…はい」
さやかは頷くと、素直に自分の部屋に下がった。
髪に残る、冬枝の手の感触を一瞬だけ噛み締めてから――顔を上げた。
「………」
さやかは、机の引き出しからルービックキューブを取り出した。昨年の誕生日、三船がくれたプレゼントだ。
東京から持ってきた大切な贈り物を、さやかは苦々しい想いで見下ろした。
――冬枝さんはああ言ってくれたけど、僕は自分を許せない…。
嵐のバイクで夜の車道をひた走り、空き地で倒れている冬枝を見つけた時、さやかの目の前に浮かんだのは1月のあの事件だった。
『朱雀組組長、マージャン店で殺害される』
新聞の大きな見出しと、記事に添えられた秋津イサオの写真。
初めてそれを見た時、さやかは新聞を握り締めたまま、崩れ落ちてしまった。
あの時の悲しみと後悔が、倒れている冬枝を見た瞬間、さやかの中で鮮烈に蘇った。
――僕のせいで、冬枝さんまでイサオさんのように死なせてしまうところだった。
ルービックキューブを握る手が、指先まで震える。さやかはそのまま、手を振り上げてルービックキューブを床に叩きつけた。
パーン!
砕け散ったピースの中から、1個の麻雀牌が零れ落ちる。
『百搭』――。
その牌を拾い上げ、さやかは手の中に握り締めた。
――冬枝さんのことだけは、絶対に守り抜く。
翌日、嵐は万崖にいた。
「まめでらった?小池クン」
にこやかに久闊を叙す嵐に、正面に座る小池が「…はあ」と曖昧に頷いた。
駅前の喫茶店は、昼下がりの賑やかな空気に包まれている。人気の多いところを選んでやったのは、大学の帰りにいきなり連行された小池に対する、嵐なりのささやかな気遣いだ。
小池は長めに伸ばした前髪をサラリと揺らして、コーラをまずそうに一口吸った。
「あのう、俺に何か用ですか…?」
「あはは、そんな顔すんなよ。別に取って食ったりしねえって、ダンディ冬枝じゃあるまいし」
「えっ!?」
冬枝の名が出て、小池が腰を浮かせかけた。
「あ、あのヤクザの人、こっちに来てるんですか!?」
「来てねえよ。何だよ、俺じゃなくてダンディ冬枝に会いたかったってのか?」
「冗談でしょ!俺はヤクザなんかと関わり合いたくないです」
小池は落ち着きなく左右を見回すと、またコーラをずずっと啜った。
「親父からも、不良とは付き合うなってしつこく言われてるんです。悪いことしたら、すぐに仕送り止めるからな、なんて脅されて」
「うんうん、小池クンのパパは実に結構!学生の本分は勉強だもんな!」
小池は暗に「嵐のような胡散臭いチンピラとは関わりたくない」と言ったのかもしれないが、嵐は無視した。
「それでさー、小池クン。春に会った時、入試前夜の話してくれたの覚えてるか?」
「ああ…はい。あの、夏目にまた何かあったんですか?」
小池はさやかを心配しているというより、厄介事に巻き込まれたくないのが半分、さやかの身の上に対する興味が半分、と言った面持ちだ。
嵐はしたり顔で「そうなんだよ」と答えてやった。
「実はさやか、死んだ朱雀組の4代目の愛人だったんだよ」
「えーっ!?そうだったんですか!?」
心底、驚いたといった様子の小池に、嵐は神妙に頷いた。
「それでさ、さやかは今、朱雀組を継いだ5代目組長の柘植っておじさんから『俺の愛人になれ』って迫られてるんだ」
「えええーっ!?な、夏目がそんなことに!?」
小池がいちいち真に受けてくれるので、嵐は笑いを堪えるのに必死だった。
「な、夏目は一体、どうなるんですか?」
「さやかの奴、惚れてた4代目が死んじゃってヤケになっててさ。このままだと、5代目の愛人になっちまうかもしれねえな」
「えーっ…」
嵐は、ぐっと拳を握った。
「だども、俺はそんなの良くねえと思うんだ。貞婦、二夫にまみえずって言うだろ?このまま、さやかが成り行き任せに5代目の愛人になっちまったら、死んだ4代目が草葉の陰で泣くってもんじゃねえか」
そこでだ、と嵐は小池の顔をビシッと指差した。
「4代目が殺された日、つまり入試前夜だな。あの日、小池クンとさやかに本当は何があったのか、ワイルド嵐に教えてくれ」
「……!」
嵐の要求に、小池はぐっと息を呑んだ。
「……俺が嘘吐いてるって、気付いてたんですか」
「これでも俺、元警察官だから。気にしなくていいぜ、小池クンは鬼の生徒会長に逆らえなかったんだろ?」
さやかが葵山学院で辣腕を振るっていたことは、嵐も聞いている。小池は、あの日の真相をバラすな、とさやかに釘を差されていたのだろう。
小池は、サラサラの前髪で目元が隠れるぐらいに俯いた。
「あの店……『紅孔雀』って雀荘が、朱雀組のシマだってことは事件の後で知りました。親父からも、ヤクザに報復されるかもしれないから、あの夜のことについては黙ってろって口止めされたんです」
当時、小池は父親の金を無断で麻雀に注ぎ込んでいた。それがバレたついでに、雀荘のことも打ち明けたのだろう。
嵐はじゃあ、と言った。
「小池クンがさやかに麻雀代わってもらった時に打ってた相手も、朱雀組のヤクザ?」
「…だと思います。他の雀荘にいるオッサンとは、雰囲気が違ったんで…」
小池が入試前夜、ヤクザ怖さと恋人逢いたさに『紅孔雀』での勝負をさやかに押し付けて逃げた、というのは事実らしい。
「ただ、夏目はどうも、相手のヤクザと知り合いみたいだったんで…」
「マジで?!もしかして、殺された朱雀組の4代目か、それとも5代目か?」
嵐は、週刊誌のページを開いて写真を見せたが、小池は首を横に振った。
「いえ。俺が打ってたヤクザはもっと、若い人でした」
「そっか。んじゃ、多分朱雀組の若いのだな」
恐らく、さやかは以前から朱雀組――殺された4代目・秋津イサオや5代目・柘植雅嗣と交流があったのだろう。その取り巻きである若い衆とも、顔見知りだったはずだ。
同級生である小池がなじみの組員と揉めているのを見て、さやかが割って入った。入試前夜の雀荘『紅孔雀』での光景を思い浮かべて、嵐はあれと思った。
「でも、それならなして、さやかは怪我なんかしたんだ?」
自分のミスに腹が立ち、トイレの壁を殴ったら怪我をしてしまった――というさやかの言い訳を、嵐は信用していない。さやかの腕力では、包帯を巻くほどの怪我にはなるまい。
嵐がその話をすると、小池は深刻な顔つきになった。
「…次の日、学校に来たら、夏目は右手を骨折してたんです」
「骨折!?おいおい、話が違うじゃねえか」
どうやら、さやかが小池に伏せさせたのは、この辺りの話のようだ。骨折という大怪我をしていたなんて、入試前夜にさやかの身に何かあったのは明らかだ。
――さやかの奴、4代目が殺された事件にマジで巻き込まれたんじゃねえか。
青龍会や朱雀組が、こぞってさやかを狙うはずだ。とてもじゃないが、うだつの上がらない中年ヤクザの冬枝の手に負える女ではない。
「……その後のことは、春にお話しした通りです。夏目は俺に金を渡して、それっきりです。夏目は大学を浪人して、本来なら夏目がやるはずだった卒業式の答辞も辞退しました。学校にもほとんど顔を見せなくなって、俺が夏目と話す機会はありませんでした」
嘘吐いてすみません、と小池は正直に頭を下げた。
嵐は、ゆっくりとタバコに火をつけた。
「…教えてくれてサンキューな、小池クン」
「あ、いえ…。あの、夏目は一体どうなるんでしょうか」
小池の問いに、嵐はニッコリ笑顔で答えてやった。
「安心しな。さやかはヤクザの愛人なんかじゃなくて、ワイルド嵐の2号になって、幸せに暮らすって決まってるからな!」
顔じゅうにクエスチョンマークを浮かべている小池の代わりに会計を済ませ、嵐は喫茶店を出た。
――こりゃ、朱雀組の4代目が殺された事件について、さやかに洗いざらい吐かせねえとな。
昨夜、さやかは危うく、嵐の目の前で源清司に撃たれるところだった。あの変態中年が本性を現したということは、青龍会はいよいよ本気でさやかを狙い始めたのだろう。
――朱雀組の4代目とさやかの間に、一体何があったのか。それを知らなきゃ、さやかを守ってやれねえ。
こうなったら、手段は選んでいられない。正直に吐かないと鈴子のおっぱいに触るのを禁止するぞとか、さやかが嵐の前ではかなりガラが悪いことを冬枝にバラすぞとか、脅してでもさやかに真相を告白させるのだ。
――ダンディ冬枝もナルシー源相手じゃ形無しだし、さやか本人をオトすしかねえ。
そんなことを考えながら、嵐は帰りの汽車の中で、もう一人のおじさんヤクザのことを思い出した。
――ジェントル秋津も、そろそろ動き始める頃か……。
――さやかの奴、大丈夫か?
昼食がてら、冬枝はさやかの様子を見に、マンションに戻った。
プライドの高いさやかは、弱味を人に見せたがらない。平気な振りをしていても、失踪した少女たちの救出が空振りに終わった上、源に三船を奪われたのだから、本当はかなりショックだったのではないか。
――それに今回の件、俺にはもう一つ、引っかかってることがある。
その『引っかかってること』もあり、冬枝ははしばらく、さやかには代打ちを休ませようかと考えている。麻雀狂いのさやかからは文句を言われるかもしれないが、冬枝はこれ以上、さやかの心身をすり減らすような真似はさせたくなかった。
「ただいま」
弟分たちには、昼飯代を与えて外食に行かせた。できれば、さやかと2人で話がしたかったからだ。
「ん?」
靴を脱ごうとした冬枝は、玄関の床がやけに埃っぽいことに気が付いた。
――高根たちに、掃除しとけって言わねえとな。
リビングに向かうと、さやかが自室からそそくさと出てくるところだった。
「あっ。おかえりなさい、冬枝さん」
冬枝の姿を認めたさやかは、自室の扉を後ろ手でパタンと閉じた。
冬枝は、さやかの常ならぬ服装に呆気に取られた。
「さやか…お前、なんでそんな格好してんだ?」
冬枝が驚いたのは、さやかが淡いブルーのドレスを着ていたせいだった。耳には、かつて冬枝が偽デートで贈ったイヤリングも揺れている。
――まさか、あんなことがあった後だってのに、パーティーにでも繰り出すつもりか?
冬枝の内心の冗談は、口にする前に的中した。
「実は、マキさんからパーティーにお呼ばれしまして」
「パーティーに、オヨバレ?」
冬枝は、見知らぬ外国語を聞かされたかのように面食らった。
デジャブだ。確か、前にもこんなことがあったような気がする。
記憶を掘り起こした冬枝は、あの気の強そうな眉をしたポニーテールの女子高生のことを思い出した。
「マキって、あの聖天高校のお嬢様か。あいつも昨日、お前と一緒に『エメラルド・ドラゴン』にさらわれてなかったか」
「はい」
さやかとマキ、『エメラルド・ドラゴン』にさらわれた少女2人が、その次の日にパーティーで遊ぶというのだ。
――いくら何でも、今時の若い娘は元気が良すぎねえか。
戸惑いが、冬枝の顔に出ていたのだろう。さやかは、苦笑いして答えた。
「昨日の今日で、って思いますよね。今日のパーティー自体は、前から決まっていたらしいんです。マキさんのお家と取り引きのある企業が主催するパーティーで、身内同士の親睦会なんですって」
「はあ。いや、それにしたってよ、お嬢様もそうだが、何もお前までオヨバレすることないんじゃねえのか」
危うく青龍会に拉致されるところだったというのに、さやかにせよマキにせよ、楽しくパーティーなんて気分にはなれないのではないか。
冬枝はそう思ったのだが、さやかはだからこそパーティーに参加するのだと言う。
「マキさんは一人娘ですから、パーティーに出ないと親御さんの顔が立たないんです。それに、僕もマキさんも、気分転換が必要ですから」
「気分転換、か」
「はい」
さやかは、淡くアイシャドウの乗った瞼を物憂げに伏せた。
「青龍会にさらわれた女の子たちのほとんどが、桃華組から逃げ出そうとはしませんでした。マキさんのクラスメイトのエリさんもそうです」
冬枝には理解しがたい話だったが、大方、源が少女たちを口説き落としたのだろう。口八丁にかけてはあの兄貴分、いや『元・兄貴分』のあの偉そうな色情狂のオッサンの横に出る者はいない。
薄汚れた元・兄貴分のせいで、純粋なさやかたちは落ち込んでしまったらしい。
「結局、僕たちがしようとしたことは何だったのかなって…マキさんも、ちょっとヘコんでると思うんです。だから僕、マキさんを励ましてあげたくって」
「さやか…」
「正直、僕も、何が彼女たちにとって最適解だったのか分からないんですけど。とにかく、今はマキさんと一緒にいてあげたいんです」
そう言って笑うさやかのほうこそ、冬枝にはまだカラ元気に見える。だが、女の友情に水を差すのも、野暮だろう。
――さやかはとことん、お人好しだな。
同じ目に遭った者同士、マキと話したほうが、さやかの気も楽になるかもしれない。自分の前だとさやかが強がってしまうことも、冬枝は知っていた。
冬枝は、さやかの肩をポンと叩いた。
「分かった。ただし、帰りはあんまり遅くなるなよ」
「はい。あの…冬枝さん」
「ん?」
さやかはドレスの裾をつまんで、スカートを軽く広げてみせた。
「綺麗ですか?」
「おう。どっこも汚れてねえよ」
「そうじゃなくって」
不満そうに唇を尖らせるさやかに、冬枝は笑ってやった。
「ははは。心配しなくても、ちゃんとべっぴんさんしてるって」
「…ありがとうございます」
はにかんで言ってから、さやかは上目遣いに冬枝をじっと見上げた。
「冬枝さん」
「ん?」
「なんか、物騒なこと考えてません?」
「なんもね」
冬枝は笑ってさやかの頭を撫でたが、さやかは訝しげに冬枝を見ていた。
勿論、冬枝はなんもね、わけではなかった。
「榊原さんは知ってたんですね。源さんが青龍会と繋がってるって」
組事務所の執務室で、冬枝は白虎組若頭・榊原に詰め寄った。
「……そうだ。黙っていて、すまなかった」
恐らく、源が本当に青龍会の人間だという確証が得られるまで、冬枝やさやかには明かせなかったのだろう。榊原らしい、と冬枝は思った。
「源さんを響子さんに近付けたくなかったのも、そのせいですか」
「…ああ。俺も、源が青龍会に入ったなんて信じたくなかったんだが……確たる筋からのタレコミがあってな」
「確たる筋?」
冬枝の問いに、榊原の隣に控えていた若頭補佐・霜田が代わりに答えた。
「朱雀組の5代目です」
「朱雀組の5代目…って」
朱雀組4代目・秋津イサオが1月に殺された後、朱雀組を襲名した柘植雅嗣だ。冬枝も、新聞や週刊誌で、何度か柘植の写真を見たことがある。
神戸を拠点とする柘植は、不動産ビジネスで巨万の富を稼いだ経済ヤクザだ。その資金力には、あの青龍会ですら後れを取るという。
「5代目は、青龍会に対して並々ならぬ恨みを持っています。その5代目のタレコミとあっては、我々も信用せざるを得ませんでした」
実際、柘植の密告は真実だった。源は冬枝やさやかを騙し、青龍会の『竜宮城計画』のために、彩北で少女たちをかどわかしていた。
「なんでそんな大物が、俺たちにわざわざ源さんの正体を教えてくれたんですか?」
冬枝が素朴な疑問を口にすると、榊原が重い沈黙を置いてこう告げた。
「冬枝。さやかを手放す気はないか」
「は?何ですか、いきなり」
面食らう冬枝に、榊原は思いもよらない事実を明かした。
「朱雀組の5代目の目的は、さやかだ」
「何ですって」
「理由は、俺にも分からねえ。ただ、さやかが4代目の事件に関わってるのは確かなんだろ」
1月に秋津イサオが殺された事件に、さやかは当事者として関わっている。さやか自身の告白、そしてさやかの母が語った「事件の夜、さやかは右腕を骨折した」という話を、冬枝も聞いてはいた。
榊原は、顔の前で組んだ手をぎりっと握り締めた。
「彩北を守るためには、朱雀組の助けがいる。俺は、5代目の求めに応じるべきだと思う」
「それって…榊原さんは、さやかを朱雀組に渡してもいいって考えてるんですか」
「ああ」
きっぱりと告げた榊原に、冬枝は激昂した。
「冗談じゃねえ。死んだ4代目の仇かもしれねえさやかを朱雀組に引き渡しちまったら、さやかを見殺しにするのも同然じゃないですか」
「先の『竜宮城計画』で、何人もの女が青龍会に連れて行かれたんだぞ。これ以上、青龍会に俺たちのシマを荒らさせるわけにはいかねえんだ」
「彩北を守るためなら、さやかがどうなったっていいって言うんですか」
冬枝の厳しい目線に、榊原は苦しげに眉根を寄せた。
「…俺には、彩北を守る責任がある」
「守る?ははっ」
酷薄に笑い捨て、冬枝は真っ直ぐに榊原を睨み据えた。
「あんたが守りたいのは、自分のメンツだけじゃないんですか」
「冬枝!」
榊原の隣にいる霜田が声を上げたが、冬枝は止まらない。
「朱雀組にさやかを渡してそれで彩北が平和になりゃ、榊原さんは満足ですか。それで恥ずかしくないんですか、あんたは」
「…何とでも言え。さやかさえ来なければ、彩北が青龍会に荒らされることはなかったんだ」
榊原の言葉に、冬枝の瞼で、閃光のようにさやかの顔がよぎった。
「…ごめんなさい。冬枝さんを巻き込みたくないんです。ごめんなさい…」
夏の夜、別荘の屋根の上で泣いていたさやかの顔が、声が、涙が、冬枝から理性を消した。
「!」
視界に火花が散ったのは、冬枝だけではないだろう。
いきなり高速の頭突きを食らわされ、榊原が額を押さえた。
「若頭っ!」
霜田が慌てて榊原を支え、冬枝をキッと睨み付けた。
「冬枝!貴様、自分が何をしているか分かっているのですか!」
「あんたたちこそ、自分が何をしようとしてるか分かってねえだろ!さやかを朱雀組に引き渡すぐらいなら、俺は極道なんかやめてやる!」
言い切った冬枝と、何も言わない榊原の、互いの視線がぶつかり合う。
一触即発の緊張を破ったのは、のんびりとした声だった。
「うるっせえなあ。てめえら、いい年してピーピー騒ぐんじゃねえよ」
「…親分!」
扉を開け、組長・熊谷雷蔵は、白の麻のスーツ姿で悠々と執務室に入って来た。
呆然とする榊原と冬枝の間に颯爽と割り込んだ組長は、サングラスのレンズをずらして冬枝を見やった。
「お熱いねえ、色男。今のセリフ、さやかちゃんが聞いたら感動して泣いちゃうんじゃない?」
「………」
――殺してえ、このタヌキ親父…。
ただでさえ頭に血が上っているところに、神経を逆撫でするような冷やかしだ。冬枝は、組長から顔を背けた。
組長は、榊原が座す机に頬杖をついた。
「榊原」
「はっ…」
「朱雀組にさやかちゃんを引き渡すなんて、小せえこと言いなさんな。めでてえ時にそんな血も涙もない真似したら、お前さんだって後味悪いだろ」
「…ですが」
――めでてえ時?
冬枝には組長の言った意味はよく分からなかったが、組長がさやかの引き渡しに反対なのは意外だった。
――てっきり、このタヌキ親父ならホイホイさやかを朱雀組に売り渡すかと思っていたが…。
それだけ、組長にとっても朱雀組は信用しきれない相手ということかもしれない。朱雀組が少女たちを拉致した桃華組を追跡しなかったことは、冬枝も聞いていた。
組長は、両手で榊原と冬枝の背中をパンパンと叩いた。
「ま、榊原も冬枝も、そう話を急がねえこった。青龍会のことは、秋津一家に任せときゃいいのよ」
――秋津一家…?
この時の冬枝にはまだ、組長の言葉の真意は分からなかった。
白のロールスロイスが、滑るようにキャンドルホテルの前に停まった。
運転手がうやうやしくドアを開け、中からしゃなりしゃなりと出てきたのは、ドレス姿の2人の少女だった。
「今日はホントにありがとう、さやか。無理言ってごめんね」
シェルピンクのドレスと、同色のリボンで髪を結った少女――汐見マキが、さやかを拝むようにして両手を合わせた。
「いいんですよ。僕がマキさんと一緒にいたいだけですから」
実際、さやかが冬枝に語ったのは建前ではない。マキを励ましたいというのは勿論、さやか自身、マキの傍にいたかった。
――やっぱり、友達っていいな。
一人でいるとぐるぐる考え込んでしまうような時でも、2人でお喋りするだけで気持ちがすっかり楽になる。
ここに来るまでの道中、汐見家の送迎車であるロールスロイスで、さやかとマキは昨夜のことをぽつりぽつりと語り合った。
「エリはあれで良かったのかもしれないわ」
桃華組に連れて行かれた同級生・落合絵里子について、マキはそう結論づけたようだった。
「エリが選んだのは危うい道だと思うけれど…あたしたちだって、もう高校生なんだもの。自分で決めたことには責任を持たなきゃいけないわ」
そう言ってから、マキは笑って付け加えた。
「自己責任だなんて言って、エリたちを突き放すつもりじゃないのよ。エリだったら、自力で幸せになれるって信じてるから」
「マキさん…」
「信じるしかない、って言ったほうが正しいか。青龍会のヤクザが相手じゃ、あたしにできるお節介はここまでだもの」
昨夜の拉致未遂事件で、両親をかなり心配させてしまったとマキは明かした。
「エリだけじゃないわ。あたしも、あたしの…汐見マキの人生に責任がある。あたしと、あたしの周りの人たちのためにも、これ以上の無茶はできない。情けないけどね」
さやかは首を横に振った。
「そんなことないです。マキさんの気持ちは、エリさんたちにも必ず伝わったはずです」
「さやか…。そうね。きっと、そうだと思うわ」
車窓の向こうを眺めるマキの瞳は、遠いエリを見つめているかのようだった。
口には出さなかったが、さやかは頭の片隅で考えていた。
――いつか、僕がエリさんたちの様子を確認できたら…。
エリの話はそこまでにして、車を降りたさやかとマキは、パーティー会場へと向かった。
「今日は楽しみましょ、さやか。内緒だけど、ちょっとぐらいお酒を飲んだってバレないわよ」
「ま、マキさん」
さやかは苦笑いしたが、5階・大広間のパーティー会場を見て、マキの言にも一理あると納得した。
――すごい人。それに、すごい食事の量。
会場は身なりの良い紳士淑女は勿論、その子女と思しき若い男女が何人もひしめいていた。化粧とドレスアップした姿では、成人か未成年かの区別は難しいだろう。
立食形式らしく、各テーブルには高級フレンチをはじめ、シャンパンやワインなどのドリンクが常備されている。グラスを持ったウェイターが何人も行き来し、とても賑やかだ。
想像よりも大規模なパーティーに、さやかは目を見張った。
「今日の主催って、マキさんのお家と取り引きのある会社でしたっけ」
「そうよ。主催は中小企業だけど、親会社は、レストランチェーンを展開しているグース・グループなの。その関係で、シスキンやオスプレーみたいな大企業も参加してるわけ」
「へえ。それで、こんなに豪華なパーティーを開いているわけですか」
会場の片隅ではオーケストラがBGMを奏でており、とても身内の交流会とは思えない。好景気とはいえ、東京から遠い地方の一都市でこんな華やかな催しを見られたことにさやかは驚いた。
そこで、さやかはふとあることに気付いた。
――こんなに大きなパーティーがあるのに、白虎組は関わってないのかな。
彩北のほとんどの店や企業には、白虎組の息がかかっている。大規模なイベントには、必ず白虎組が噛んでいるはずだ。
とはいえ、それをマキに聞くのは憚られる。さやかは、周囲の客を何となく眺めながらマキと共に会場を歩いた。
やがて、マキは品の良い男女の前で足を止めた。
「お父様、お母様。お待たせしました」
スーツ姿も様になる艶やかなオールバックの男性に、マキによく似た、意志の強そうな目元をした女性が、さやかに微笑みかけた。
――ま、マキさんのご両親…!
ここに来るまでの車中で、さやかはマキの家業について一応聞いていた。彩北を始め、県内で複数のリゾート施設を運営する汐見グループ――その総帥が、マキの父親だった。
「わたくしのお友達の、夏目さやかさんです」
「はじめまして。夏目と申します」
さやかが頭を下げると、マキの父が白い歯を見せて笑った。
「はじめまして。いつもマキがお世話になってるね」
「はあ…」
「そんなに硬くならないで。さやかさんのことは、マキからよく聞いてるのよ。この娘のお転婆に付き合ってくれているそうね」
マキの母が言い、マキは「もう、お母様ったら」と照れ臭そうに口を尖らせた。
どうやら、マキの両親はマキの裏の顔――不良少女としての活動も知っているようだ。仲の良さそうな汐見一家に、さやかもホッと緊張が解けた。
マキの父が、心配そうにさやかを見下ろした。
「昨夜は災難だったね。君も、無事に戻って来られて良かった」
「そんな…。僕のせいでマキさんを危ない目に遭わせてしまって、本当にすみませんでした」
慌てて頭を下げるさやかに、マキが「ちょっと、さやか」と止めた。
マキの父も「夏目さんが謝ることじゃないよ」と言った。
「君子危うきに近寄らず。危ういと知って近寄るなら、最悪の事態を覚悟して行け。…と、娘にはよく言ってるんだ。今度のことは、マキが自分で決めてやったこと。夏目さんも、そうだろう?」
「…はい」
「うん。だったら、いいのさ。人生は冒険、冒険に危険はつきものだ」
自分で言って、マキの父はうんうんと一人頷いた。
流石はマキの父親というべきか、かなり自由な考え方の持ち主のようだ。さやかは、ちょっと呆気に取られた。
「ところで、夏目さん」
「はい」
「娘から聞いたんだが、君は白虎組の人間だそうだね」
「…はい」
さやかが頷くと、マキの父が少し声のトーンを落とした。
「君も知っているだろうが、県内は白虎組と秋津一家で二分されている。と言っても、それぞれ縁故で繋がっているようなものだから、白虎組派の会社の身内に秋津一家の人間がいる、なんてこともよくある」
「そうなんですか」
東京と違い、地方であるこの県では縄張り意識がそこまで厳密ではないのだろう。好景気に押され、ヤクザよりも稼いでいる商売人たちは猶更だ。
「この県で仕事をするに当たって、白虎組とも秋津一家ともまったく関わらない、というのは不可能だ。我が汐見グループも、彩北で稼ぐ以上は白虎組寄りということになるが…仕事の相手として、秋津一家の派閥を拒む理由もないと、僕は考えている」
「つまり、このパーティーは秋津一家の派閥の企業が主催しているんですね」
先回りして結論を述べたさやかに、マキの父が目を見開いた。
「その通りだ。夏目さんは知ってたのかい?」
「いえ。招かれている会社の名前を聞いて、そうではないかと」
マキが主催として述べたグース・グループや来賓のシスキン、オスプレーは、いずれも秋津一家――そのナンバー2である秋津一家相談役・秋津ススムが取締役を務める大企業・秋進コーポレーションの傘下だった。
――マキさんのお父さんの言う通り、白虎組と秋津一家の勢力図は、かなり複雑なんだろうな。
何せ、秋津一家の派閥が主催するパーティーが、白虎組のシマのど真ん中で開かれているぐらいだ。白虎組としても、企業間の複雑なしがらみにいちいち目くじらを立てていられないのかもしれない。
マキの父は、ポケットのハンカチーフで口元をそっと隠した。
「噂で聞くところによると、白虎組と秋津一家は抜き差しならないことになっているとか。そんな状況で、君をここにお招きするのは正直迷ったんだが……」
長い指をぴたりと額に当て、たっぷりと間を溜めてから、マキの父はにっこりと破顔した。
「友情は、何よりも得難い宝物だ。裏社会のつまらない争いのために、娘が友人と会う時間が減るのは勿体ない」
マキの父は、マキとさやかの顔を交互に見つめた。
「一生は一度きりだ。今、大切な人と共に過ごせるこの時間も、二度とはやって来ない。今日は、楽しんでくれたまえ。夏目さん」
「…はい!ありがとうございます」
「お父様ったら、話が長いんだから。わたくしが恥ずかしいですわ」
頭を下げるさやかの隣で、マキが不満そうに腕を組んだ。
知り合いへ挨拶に行くマキの両親と別れ、さやかとマキは2人、テーブルであれこれと料理を吟味した。
「さやか!この牛フィレ肉のソテー、すっごく美味しいわよ」
「ホントですか?こっちのシーザーサラダもいけますよ」
美味しいものを食べると、自然と会話が弾む。マキの父が語ったパーティーの内情も忘れ、さやかは無邪気にはしゃいでいた。
――やっぱり、今日来て良かったな。
友達と一緒にいて、美味しいご飯を食べているだけで、いつもの自分に戻れる。それがどれだけ大切なことかを痛感すれば、さやかは申し訳なさも感じた。
「マキさん」
「なぁに?」
ビーフカレーを夢中で頬張るマキに、さやかは頭を下げた。
「…昨夜は、本当にすみませんでした」
「ちょっと、なんでさやかが謝るのよ」
マキがナプキンで口を拭きながら突っ込んだが、さやかは顔を上げられなかった。
「僕がカッコつけて突っ走ったせいで、マキさんと淑恵さんまで青龍会にさらわれてしまうところでした。女の子たちを助けよう、なんて考えが浅はかだったんです」
です、と言ったところで、さやかの頬がムニッとつねられた。
「あら、結構柔らかいわね。お餅みたい」
「ま、マキひゃん」
「もう、あたしもパパも言ったじゃない。昨夜のことは、あたしが自分で決めてやったことだって。淑恵さまもきっとそうよ」
「でも…」
「昨夜のことで責任を感じるなら、あたしと淑恵さまも反省会を開かなきゃいけないわ。麻雀好きの友達を、青龍会に連れて行かれるところだったんですもの」
マキの微笑みが、さやかの胸にじわりと温かく染み渡る。
「マキひゃん…」
「ほら、昨夜の話はこれでおしまいよ。これ以上したら、ビンタするからね」
「ひゃい!」
それからさやかとマキはカレーとグラタンとオムライスをハシゴし、デザートのケーキもたっぷり平らげたのだった。
パーティーは終始、和やかなムードのままでお開きとなった。
秋津一家の派閥と聞いて内心、ちょっと警戒していたさやかは、解散の挨拶を聞いてほっと胸を撫で下ろした。
――良かった、何事もなくて。
尤も、『竜宮城計画』を遂行したばかりの青龍会が今動く理由はないし、秋津一家もこのタイミングで事を起こしはしないだろう。100%カタギの平和な集まりだったこのパーティーで、わざわざヤクザがドンパチする余地はなかった。
「あーん、まだ混んでるわ。いつになったら化粧直しができるのかしら」
5階の女性化粧室の前は、パーティーに訪れた女性客でずらりと列ができている。マキが、もどかしそうにポニーテールをぶんぶん揺らした。
「もうっ、どうして女ってトイレが長いのかしら!さやかは先に車に乗っててちょうだい」
「ははは…。車で待ってますね、マキさん」
ドレス姿の行列から離れたさやかは、大広間の大きな扉の前で呼び止められた。
「もし。そこのお嬢さん」
「はい?」
さやかが振り返ると、そこにはドラジェブルーのドレスをまとった40代の女性がいた。
――マキさんのお母さんも美人だったけど、この人もすごく綺麗。
彩北には美人が多い、という俗説も、あながち嘘ではないのかもしれない。真っ赤なルージュがよく似合っていたマキの母とは対照的に、目の前の淑女はおっとりとした眼差しの、可愛らしい雰囲気だ。
淑女は、垂れ目の瞳を悲しげに曇らせて言った。
「この辺りで、青いブローチをお見かけにならなかったかしら」
「ブローチ…ですか。落とし物なら、クロークに問い合わせたほうが」
すると、淑女は首を横に振った。
「主人からもらった、大切な品なの。あまり騒ぎにしたくないわ」
「…そうですか」
このパーティーに招かれているぐらいだから、淑女は県内企業の重役夫人なのかもしれない。
確かに、そんな貴賓の紛失物とあっては、ホテルマンたちが右往左往してしまうだろう。納得したさやかは、ポンと胸を叩いた。
「じゃあ、僕も一緒にブローチを探しましょう」
「あら、本当?ご親切にありがとう」
マキはまだ戻って来られないだろうし、その間にブローチを見つければいい。さやかは、淑女と共にキャンドルホテルのカーペットをじっと見下ろして歩いた。
「失くしたブローチは、どんな色と形ですか?」
「青いトルマリンを使った、5センチぐらいの大きさのブローチなんだけれど…」
淑女はさらっと言ったが、想像以上の高級品にさやかはぎょっとした。
――それは、落としたことがバレたら確かに一大事かも。
淑女と並んで歩きながら、さやかは更に情報を集めた。
「ブローチがなくなったことに気が付いたのは、いつですか?」
「ついさっきよ。パーティーが終わって、さあ帰ろうかしらと思って外に出ようとしたら…」
当時の行動を思い出した淑女は、ぱんと手を叩いた。
「そうだわ。私、きっと1階で落としたんだわ」
「1階ですか?」
パーティーが開かれていたここは、5階だ。ずいぶん離れていると思ったが、さやかは事情を聞いて納得した。
「パーティーの前、1階のラウンジで主人と一緒にお茶を飲んでいたの。その時、ちょっと暑かったから、上着を運転手に預けたの」
「じゃあ、ブローチも運転手さんに?」
「ううん。ブローチを上着から外したところまでは覚えているのだけれど、それからどうしてなくなったのかが思い出せないわ」
恐らく、1階に行けば淑女の記憶も戻るだろう。さやかは、淑女と共にエレベーターホールに向かった。
――わあ、大きな花瓶。
来た時には客でごった返していたため気付かなかったが、エレベーターホールには大きな花瓶が置かれていた。真っ赤なバラや大輪のダリアなど、季節の花で彩られたフラワーアレンジメントは、今日のパーティーに合わせたものだろう。
それを眺めているうちに、エレベーターが1階に着いた。
エレベーターには、先客が何人か乗り込んでいた。さやかが気を遣って淑女にちょっと身を寄せると、ふわりと上品なアイリスの香りがした。
「ごめんなさいね、こんなところまで付き合ってもらってしまって」
「いえ、いいんです。落とし物、見つかるといいですね」
エレベーターがしばらく上昇した後、異変が起こった。
ドスン!
――なんだ!?
エレベーター全体を揺るがす衝撃と轟音の後、照明が消えて真っ暗になった。
「きゃあっ」
驚いて悲鳴を上げる淑女に、さやかは「大丈夫ですよ」と言った。
「ここに緊急用の電話があります。すぐに助けが来ますよ」
さやかはちょうど、電話のすぐ傍に立っていた。手探りで受話器を見つけると、さやかは受話器を手に取った。
「もしもし」
「そのエレベーターは、『エメラルド・ドラゴン』が占拠した」
電話の向こうから返ってきた声に、さやかは息を呑んだ。
――『エメラルド・ドラゴン』!?
ここが市内屈指の高級ホテルである以上、悪趣味な冗談ではありえない。さやかは、じわりと汗の滲んだ手で受話器を握り締めた。
「どういうことですか」
「てめえらは人質だ。死にたくなかったら、そこで大人しくしてるんだな」
目的は、と問おうとしたさやかを遮るように、『エメラルド・ドラゴン』の男がとんでもない事実を告げた。
「そのエレベーターには爆弾が仕掛けられている。泣いても笑っても、30分後にはドカンだ」
「なんですって!?」
「こうすりゃ、ホテル側は身代金を支払うしかないだろ?何もしなくても、30分以内に大金持ちってわけさ。ハハハ」
絶望的な状況に、さやかはめまぐるしく頭を回転させた。
「あなたたちは今、どこにいるんですか。ホテル側とはもう交渉を始めたんですか」
「さあな。まあ、30分ギリギリで迫ったほうが、金をもらえる勝算は高くなるよな」
さやかを脅しつけるように言ってから、男は捨て台詞を吐いて電話を切った。
「せいぜい、このホテルの連中が賢明な判断をしてくれることを願うんだな」
音のしなくなった受話器を握り締め、さやかは立ち尽くした。
――あと30分で、僕たちは木っ端みじん……!?