47話 金曜日の妻と乙女たち
第47話 金曜日の妻と乙女たち
その朝、さやかは警察署にいた。
――まさか、三船のほうから僕に会いたいって言い出すなんて…。
元警官の嵐から「例の不良少女がお前に会いたがってるらしいぞ」と電話を受けた瞬間、ベッドを出たばかりで寝癖頭もそのままだったさやかは、一瞬で目が覚めた。
「俺は、無理に会わなくったっていいと思うけど…会うか?」
受話器から聞こえる嵐の声は妙に弱気だったが、さやかは二つ返事でOKした。
朝の光が差す面会室に、警官に連れられた三船がやって来た。
「おはよう、夏目。こんな朝に呼び出してごめんね」
さやかと最も親しい同級生だった三船は、さやかが朝が弱いことを知っている。切れ長な瞳で優しげに見つめられると、さやかは切なくなった。
「ううん、いいよ。それより、三船はどう?元気にしてる?」
「平気だって。夏目は母親みたいなことを言うね」
冗談めかしてから、三船はふと俯いた。
「今日は、特に用事があって呼び出したわけじゃないんだ。夏目の顔が見たかっただけ」
「え…」
「夏目が、元気そうでよかった。変わらない夏目を見てると、私は安心する」
三船の表情が何だか寂しげに見えて、さやかは不安になった。
「三船。嵐だったら、三船の担当官を変えることも、今の環境を変えることもできる。困ってることがあるなら、何でも言って」
「俺、そこまでの権力はねえぞ」
さやかの後ろで腕を組む嵐が小声で突っ込んだが、さやかは無視した。
「今の境遇に不満はないよ。十分すぎるくらい」
「でも…」
「実のところ、私の身柄については県警も頭を悩ませているらしいんだ。このまま一生、留置場暮らしって訳にはいかないし、かといって、他の保護施設に送れば、別の少年少女に危害が及ぶかもしれない。青龍会が若者をターゲットにしていることは、こっちの警察もよくご存知みたいだね」
流暢に現状について述べる三船に、嵐が眉をひそめた。
「事情通だな、お嬢ちゃん。誰から聞いた?」
「ここでの暮らしも長くなったからね。皆、油断して、少しぐらいの内輪話は洩らしてしまう」
嵐はまだ何か言いたげだったが、さやかが遮った。
「警察が頼りにならないなら、僕から榊原さんに話しておく。いっそ警察じゃなくて、白虎組で三船を預かることはできないか、って」
「おいおい、さやか」
嵐が驚きの声を上げたが、さやかは聞き流した。
「僕は、絶対に三船の味方だから。僕は、青龍会なんか怖くない」
「その言葉、他の男なら信じないけど、夏目だったら本気で言ってるんだろうね」
「本気だよ」
さやかがじっと見つめると、三船はフッと笑った。
「ねぇ、夏目。入学式で初めて会った時のこと、覚えてる?」
「…覚えてるよ」
――忘れるわけない。
校庭の桜の木の下で、高校1年生のさやかと三船は出会った。
高校での恋愛を夢見て浮かれるクラスメイトたちの中で、三船は一人だけ醒めていた。そんな三船に、さやかは自分が麻雀好きであることを明かした。
その時、三船から「かっこいいね」と言われた瞬間――さやかには、いなかったはずの「好きな人」が出来てしまったのだった。
三船は、あの頃と変わらぬ醒めた目つきで、遠くを見つめた。
「あの時からずっと、夏目は何かと闘い続けてる。麻雀、不道徳、世の中のくだらない常識、自分自身。そして、私」
親や教師にもバレずに売春を続けていた三船を、さやかは朱雀組の力を使って止めた。その報復として、三船は卒業を待たずに高校から――さやかの前から――去った。
それは、確かにさやかと三船の戦いだったのかもしれなかった。
「私の売春を止めたのが、良心のある教師や親なんかじゃなくて、夏目で良かった」
「…」
「夏目のエゴは、私を楽しませてくれる」
ガラス越しに微笑む三船は、今でもさやかには理解できない世界で生きている。
こんなにも近くにいるのに、蜃気楼のように三船は遠い。それでいて、誰よりもさやかを魅了する。
「好きだよ、夏目」
不意打ちのような三船の言葉に、さやかは「えっ」と目を見開いた。
「私は男しかそういう対象にしないけど、地球上の女の子では夏目が一番好き」
「三船…」
「大好き。だから、私が好きな夏目のままでいてね」
誰にでもドライな三船なのに、今日の微笑みはまるで女神のように優しい。
さやかは、魂を抜かれたように呆然としてしまった。
――三船…。
「………」
面会時間を終えると、嵐がさやかの肩をポンと叩いた。
「さやか」
「………」
「悪いが、俺はちょっとこっちで用事ができた。先に帰ってくれ」
「……はい」
さやかは力なく頷いて、そのまま嵐のほうを振り返らずにふらりと警察署を出て行った。
――なんか、イヤーな雲行きだぞぉ。
三船亜弓は青龍会の手先であり、さやか以上の悪知恵の持ち主だ。そんな三船が、単なる思い出話のためだけにさやかを呼び出したとは思えなかった。
嵐はさやかの頼りない背中を見送ってから、署長室へとスキップで向かった。
その日は、冬枝たちと『たらふく食堂』で落ち合って昼食となった。
メニュー表を眺めていた土井が、サングラスをかけた顔をヒョコッと出した。
「兄貴ー。オレ、たまにはステーキとか食いたいなぁ」
「バカ、土井!兄貴にそんな金あるわけないだろ!」
高根の失礼なツッコミも、今日の冬枝はしかめっ面で聞き流すしかなかった。
――こないだのさやかとのデートで、金使いすぎたからな…。
源と響子を尾行するためのニセデートは、高くついた。高級車のレンタル代、さやかへの服や化粧品のプレゼント代、フレンチレストランでの食事代などなど。
このままでは赤字になるため、今日は街でも屈指の庶民派食堂でのランチとなった次第である。
高根とじゃれ合っていた土井が、ぱたんとメニューを閉じた。
「オレ、牛鍋にしよーっと。さやかさんは何食います?」
「……」
「さやかさん?」
土井に呼ばれたさやかが、ハッとして顔を上げた。
「え、えーっと…僕も牛鍋にします」
さやかは今朝、警察署から戻ってきてからずっとこんな調子だ。冬枝は、少し心配になった。
――さやかの奴、まだあの女のことを引きずってるのか…。
さやかとタマミこと三船亜弓が高校時代の同級生であり、さやかが友情以上の感情を三船に抱いていたことは、冬枝も知っている。
さやか自身、今朝のことを冬枝に包み隠さず話してくれた。
「三船とは、思い出話をしただけです。相変わらず、周りの人間をよく観察してるみたいですよ」
さやかは淡々と報告したが、どこか心ここにあらずといった様子だった。
――それでなくても、さやかは女のこととなると肩入れしすぎるところがあるからな。
聖天の女子高生・マキのために朽木と対決したり、榊原の愛人である響子と妻の淑恵の双方に味方しようとしたり、春野嵐の妻・鈴子とただならぬ仲だったり……と思い返した冬枝は、どんどん首が肩にめり込んでいった。
――こいつ、俺より女好きなんじゃねえか…?
冬枝がさやかの性癖に疑問を持ったところで、頭上に据え置かれたテレビからお昼のニュースが流れてきた。
「灘議員が市役所に訪問し、市長らと懇談……」
牛鍋をつついていた土井が「あっ」と間抜けな声を上げた。
「灘議員って、若頭のお舅さんですよね。あの美人な奥さんの親父さん」
テレビを箸で指差す土井の額を、高根がぴしゃりと叩いた。
「バカ、土井。軽々しく奥様の話をするなって、若頭の親衛隊から注意されただろ」
「あっ、やべっ、そうだった」
弟分2人のじゃれ合いを聞くともなしに聞きながら、冬枝も何となくテレビを見上げた。
――あのジイさん、またこっちに来てるのか。
つい先日、灘議員の孫にあたる佳代が代理としてこっちに来たばかりだというのに、今度は本人が来るとは。冬枝は、佳代が誇らしげに祖父のことを語っていたのを思い出した。
田舎には珍しい大物議員の来訪とあって、ニュースでは灘議員のプロフィールを丁寧に紹介するVTRが流れていた。
「灘孝助議員は大正五年、市内の弁護士一家の長男に生まれました。上京し、大学卒業後、故・灘義雄議員の秘書となり、その娘である八重子さんと結婚。初めての選挙で見事、当選してからは、戦後日本の復興に尽力してきました。現在は長男・灘純一議員と共に、国家防衛予算の増額を訴え…」
アナウンサーのナレーションを背景に、選挙カーの上で演説する灘議員の映像が映った。
「私は、この国の末永い繁栄のために、この身を捧げる所存であります!」
土井がハフハフと牛鍋をつまみながら、しげしげとテレビを見上げた。
「なーんか、すごい人なんですねー、若頭のお義父さんって」
「バカ、土井。すごいのは灘議員じゃなくて、そんな人と縁続きになった若頭のほうだろ」
「高根ってば、優等生のお返事ですこと」
でも、と言って、土井はのんびりと背もたれに身を預けた。
「そうだよなー。こんな大物議員が後ろ盾についてるんだったら、白虎組も安泰だぁ」
「そういえば、灘議員が彩北に来てるんだったら、兄貴たちにもお声がかかったりするんですか?」
高根の言葉に、ぼんやりテレビを眺めていた冬枝はふと我に返った。
「老いぼれジジイの歓迎会、ってか?ない、ない。前の接待ゴルフの時と違って、今回は身内と会うだけだってよ」
テレビでは伝説の偉人のような紹介をされていたが、接待ゴルフで灘議員と会った冬枝は、その本性を知っていた。
「あんなどこの馬の骨とも知れぬもの、息子だと思ったことはありませんよ。娘をやった以上、こちらに奉仕するのは当然の務めでしょう」
義息である榊原のことをそう嘲った灘議員の鼻持ちならない横顔は、今でも忘れられない。あんな前時代の遺物、くたばり損ないの耄碌ジジイに揉み手して仕えなければならない榊原のことが、冬枝は気の毒で仕方なかった。
「………」
さやかは、テレビに興味のない眼差しを時々向けながら、注文した牛鍋をもそもそと食べている。三船のことで頭がいっぱいなのが丸分かりだ。
冬枝はテレビから目線を外し、さやかに声をかけた。
「なあ、さやか。タマ…三船のことだが」
「…はい?」
冬枝のほうから三船の話をするとは思わなかったのだろう。さやかが、目を丸くしてこちらを見た。
「あいつ、お前のこと、ロールキャベツみたいな女だって言ってたぞ」
「…三船が、僕のことを?」
「キャベツと同じで、剥いても剥いても肝心なところが見えて来ない、ってよ」
実のところ、この話をしたことにそんなに意味はない。三船が冬枝に言った言葉だって、単なるジョークに過ぎなかっただろう。
――さやかに、一人で思い詰めさせたくねえ。
三船のことは、冬枝も承知している。だから、さやかも一人で考え過ぎるな、と冬枝は言いたかった。
さやかは、ふっと暗い目つきで笑った。
「三船らしいですね」
榊原邸の玄関では、榊原夫妻が娘夫婦を送るところだった。
「今日は、久しぶりにおじいさまとお会いできてよかったわ。大輔さんを紹介できたし」
榊原と淑恵の長女・瑞恵は、そう言って隣の夫と笑みを交わした。
榊原邸ではちょうど、1時間前まで灘議員が訪れていた。多忙なスケジュールを縫ってまでやって来たのは、孫である瑞恵の結婚祝いのためだった。
幸せそうな娘夫婦を、淑恵は微笑ましく思う反面、申し訳なく感じていた。
「大輔さんも、急に呼び出してごめんなさいね。お仕事があるでしょうに」
「いえ。灘先生とお話しできて、すごく光栄でした」
娘夫婦は笑顔で去って行ったが、淑恵は浮かない顔だった。
「お父様にも困ったものだわ。いきなり電話で『これから瑞恵に会う』なんて言われたって、瑞恵たちにも都合があるのに」
「いいじゃないか。瑞恵たちも嬉しそうだったし」
「国会議員のお父様相手に、嫌な顔ができるわけないじゃない。特に大輔さんは」
それでなくても大輔は、義父でヤクザの榊原相手にもかなり恐縮しているのだ。大輔も瑞恵も文句の一つも言わないが、淑恵は父のワガママにうんざりしていた。
そこで、淑恵は困ったように笑う榊原を見てハッとした。
「…ごめんなさい。お父様のワガママで一番困ってるのは、あなただったわね」
「いや、そんなことないよ。灘先生が瑞恵のことを気にかけてくれて、嬉しいんだ」
実際、灘議員は白虎組の重要な後ろ盾だ。灘議員が榊原との繋がりを重視してくれることは、白虎組の将来を約束されたようなものだ。
「だけど…お父様には、良くない噂もあるわ。青龍会と繋がっている、という話だって…」
眉を曇らせる淑恵に、榊原は「おい、淑恵」とたしなめた。
「灘先生ほどの大物議員だったら、週刊誌で好き勝手書かれるのは日常茶飯事だろ。それに、東京にいれば、青龍会と付き合わないわけにはいかないさ」
淑恵の肩をポンと叩いて、榊原は笑みを浮かべた。
「どんな噂があったって、俺と淑恵の親父さんだ。大丈夫だって」
「忍さん…」
淑恵はふと、若き日に母――八重子から言われたことを思い出した。
「お父様はね、この国を本当に守ろうとしているの。それこそ、どんな手段を使ってでも、闘っているの。もう二度と、あんな悲惨な戦争を繰り返さないために」
高校生だった淑恵が、父の不倫について糾弾した時、母の返事がそれだった。
夫の不貞を詰るでもなく、ただ労わるような眼差しでそう語った母が、淑恵はずっと遠くにいるように見えた。
国会議員の娘として生まれた母、そして、その婿養子になった父。2人は、世間知らずの少女だった淑恵とは、全く違う世界で生きていたのかもしれない。
――だけど、家族を傷付けていい理由なんてないわ。
父がどんなにこの国に貢献していても、人の道にもとるような真似をしていいことにはならない。淑恵は今でもそう思っているが、夫にそれを言うのは憚られた。
――結局…私も、見て見ぬふりをするしかないのね。
先日の響子を巡る麻雀については、あれから榊原も淑恵も、一言も口にすることはなかった。
本音を言えば、響子とは別れて欲しい。だがそれは、あの真面目な女性を追い詰めることに他ならないのだと、淑恵はあの夜、知ってしまった。
響子を不幸にしたいわけではない。しかし、淑恵にも、榊原と響子のことを放置できない理由があった。
――私は……忍さんに、伝えなければいけないことがあるのに…。
エメラルド色のスカートの上で、淑恵はそっと手と手を握り合わせた。
このまま、響子のことを曖昧にしているわけにはいかない。もう時間がないと分かっていながら、淑恵も、そして榊原も、決定的な言葉を口にする勇気が無かった。
風に揺れる金木犀の香りの中、夫婦は優しい沈黙に身を委ねた。
さやかがマキから喫茶店『異邦人』に呼び出されたのは、その午後のことである。
「ごめんね、さやか。対局中だったのに」
「ううん、いいんです。それより、何があったんですか」
聖天高校の制服姿でやって来たマキは、気の強そうなきりっとした美しい顔立ちの中に、いつになく深刻そうな表情を浮かべていた。
2人共にコーヒーを注文し、しばらく、店内に響くBGMだけがさやかとマキの間に流れた。
マキは「ハーレムおじさんの件、覚えてるかしら」と尋ねた。
「ええ、覚えてますよ。あの件は、ミノルさんが片付けてくれましたよね」
ハーレムおじさんとは、聖天高校の生徒を16人も囲い、愛人にしていた卑劣な男である。最初はマキの依頼を受けたさやかがケリをつけるつもりだったが、先んじてミノルがハーレムおじさんを倒し、女子高生たちと縁を切る旨の誓約書を書かせてくれたのだ。
さやかとミノルが初めて会った日の回想は、さやかに、別のことも思い出させた。
――ミノルさんが言ってた『裏切り者』って、誰のことなんだろう…。
さやかの身近な人物だと言っていたが、さやかには思い当たる相手がいない。朽木や霜田辺りはいかにもそれらしいが、彼らとはそもそも敵でも味方でもないため、今更、裏切られたところで驚きはしない。
――それに、僕に奪われて困るほどのものなんてないし…。
浪人生で居候の身の上で、財産だって麻雀と代打ちで得たあぶく銭だ。根無し草のさやかから、わざわざ取り上げるようなものなどあるだろうか。
マキが、とんとんとこめかみを指先で叩いた。
「ハーレムおじさんと縁を切った生徒たちは、みんな懲りて大人しくしてたわ。親の監視も厳しくなったしね」
「でも、そうじゃない生徒もいた、と」
マキは頷き、長い睫毛を物憂げに伏せた。
「どうも、うちの生徒に目をつける悪党は、あのハーレムおじさんだけじゃなかったみたいなのよね。まーた、大人との危ない恋愛にのぼせた生徒が出たわ」
「その男、素性は分かるんですか」
さやかの質問に、マキは形の良い眉を曇らせた。
「それが、今度はおじさんじゃないみたいなの」
「えっ?」
「モデルみたいな長身の、それはもう麗しいお姉様――らしいわ」
さやかは一瞬、ぽかんとしたが、すぐに事態を理解した。
「長身のお姉様……が、聖天の生徒と付き合っている、と」
言うまでもないが、聖天高校は女子校である。今ここで問題なのは、女同士で付き合っているという点ではない。
「その『お姉様』は、大人でありながら女子高生と交際していた、ってことですね」
「そういうこと。正確な年齢は分からないけど……というか、その『お姉様』のシッポも掴めてないの。なんてったって、肝心の生徒が行方不明になってしまったんですから」
「…行方不明!?」
謎の『お姉様』と付き合っていた女生徒が、行方不明――。
それは確かに、女同士とか年が離れているとかよりも、確実に問題だ。
「落合絵里子。あたしたちはエリって呼んでるわ」
マキがテーブルの上に出した写真に、さやかは見覚えがあった。
「この人…OGとのお茶会にも参加してた人ですよね」
「そうよ、覚えててくれたのね。あたしと同じ2年生で、生徒会役員よ」
落合絵里子――エリは、長い髪に淡いイエローのカチューシャをつけた、聡明そうな顔立ちをした美少女だった。最初はマキと同様、お嬢様らしくおしとやかに振る舞っていたが、打ち解けるとすぐにざっくばらんな口調になって話してくれた。
「見た目は優等生だけど、エリはとにかく恋愛体質で、あたしも困ってたわ。男からチヤホヤされると、すぐに調子よくなっちゃうのよ、あの娘」
「エリさんは、これまでに女性とのお付き合いはあったんですか?」
「全然。エリはむしろ、超がつくほどのオトコ好きよ」
そこでマキは、エリの『超』男好きな逸話を語った。
「エリってば、男が出来ると、化粧から下着から、めちゃくちゃ派手になるのよ。紫色の、こーんなキワどいパンティーなんか穿いてたんだから」
マキが指先で作った三角形の小ささに、想像したさやかは赤面してしまった。
「こ、高校生にはまだ早いんじゃないでしょうか…」
「エリのハレンチエピソードは、まだあるわ。あの娘、自分が穿いたパンティーを、ラブレターに同封して送った、なんて自慢げに言ってたのよ」
「ええっ…」
そこで、さやかの脳裏に浮かんだのは、源の自宅で見たラブレターの山だった。
――そういえば、源さんもそんなのもらってたな。
さやかと源の心と身体が入れ替わってしまった際、さやかは、源宛てに送られたたくさんのラブレターを目撃した。ラブレターはバラの香りがする便箋など色々あったが、さやかの度肝を抜いたのが、パンティー同封のものだった。
――今、パンティーを恋人に送るのが流行ってるのかな…。
さやかには理解の及ばない世界だが、源は満更でもなさそうだった。
しかし、エリの今度の相手は『お姉様』である。
「そんなに男性関係の派手だったエリさんが、どうして『お姉様』とお付き合いをはじめたんでしょう」
「あたしも意外だったわ。百合族の多いうちの学校でも、エリはちっともそのケがなかったもの」
そのエリが『お姉様』との付き合いを匂わせだしたのは、1カ月ほど前からだという。
「髪は毎朝、念入りにシャンプーとブローしてサラサラになってるし、イヴ・サンローランのバッグなんか、これ見よがしに持って来たりするし。これはまた、エリに男が出来たわねって、皆で噂してたの」
明らかに浮ついた様子のエリだったが、いつもの男漁りとは少し違っていたという。
「あの娘、手作りのお菓子とお弁当なんか持って来たのよ。『これ皆で食べてね』なんて言って。きっと、本命にあげるための練習用だったんでしょうけど、今までエリ、男相手に料理なんかしたことなかったわ」
「『お姉様』に感化されて、エリさんもお料理を始めたってことですか?」
「そうみたい。今までだったら、こっちが聞く前に男とのノロケ話を始めたのに、今回は幸せそうに頬を染めてるばっかりで、なんだか急におしとやかになったわ。相手が大人の『お姉様』だって聞いて、納得したけど」
エリは『お姉様』との交際について周囲に話したがらなかったが、親友であるマキには少しだけ教えてくれたらしい。
「エリが夜の街でしつこくナンパされて困ってたら、その『お姉様』が助けてくれたの。それはもう、そんじょそこらの男なんかよりずーっとカッコ良くて、しかも、とびっきり優しい方だったんですって。オトコ好きのエリが、宗旨替えするぐらいにね」
どうも『お姉様』には何か事情があるらしく、エリは詳しく語ろうとはしなかった。マキとしても、相手が女なら男よりは安全だろう、と軽く考えて、幸せそうなエリにそれ以上は突っ込まなかった。
そのエリが行方不明になってから、もう1週間が経つという。
「捜索願は出したんですか」
「それが、出してないみたいなのよ。エリは前にも男の家に何日か外泊したことがあって、今度もまた男のところに行ってるんだろう、って親御さんは楽観してるみたい」
「でも、マキさんはそうは考えていないんですね」
さやかが確かめると、マキは頷いた。
「実は、うちの学校で音信不通になってるのはエリだけじゃないの。1年生や3年生の中にも、突然、学校に来なくなった娘たちがいて。事情を聞いてみたら、家族も行方を知らないっていうのよ」
「なんですって!?大ごとじゃないですか」
「どうやら、いなくなった娘たちは皆、例の『お姉様』と付き合っていたらしいわ。ハーレムおじさんならぬ、ハーレムお姉様よ」
ハーレムお姉様――。
脳内に展開した耽美な想像図を、さやかは首をぶんぶん振って追い払った。
更に、マキの話はそれだけに留まらなかった。
「しかも、これは聖天高校だけの話じゃないわ。他の高校にも、連絡のつかなくなった女生徒が何人かいるらしいの」
そのいずれの少女にも、謎の美女の影があったという。ハーメルンの笛吹きよろしく、美女は女子高生たちをどこかへ連れ去ってしまったのだ。
女子高生の集団失踪――。
さやかの脳裏によぎったのは、東京から来た不良軍団だった。
「『アクア・ドラゴン』の仕業ですか」
「やっぱり、さやかもそう思う?」
でも、今回の敵は男じゃなくて『お姉様』だし、『アクア・ドラゴン』と関係あるのかしら、と悩むマキに、さやかは「いいえ」と言った。
「青龍会は、女性のこともスパイとして使っています」
三船亜弓は、青龍会の意を受けて、彩北に現れた。青龍会が使う女は、三船だけではあるまい。
さやかの話に、マキも納得した。
「確かに、相手が女なら、誰だってガードがゆるくなるわ。まさか、優しくて綺麗な『お姉様』が、あんな野蛮な不良集団と結びついてるなんて思わないもの」
そして、さやかとマキは恐るべき可能性に気が付いた。
これまでのように、街中などで女子を無理に拉致しようとすれば、警察の目につく。そこで『アクア・ドラゴン』は、美貌の『お姉様』を使って少女たちを集め、秘密裡に監禁しているのではないか。
事の深刻さに、さやかもマキも表情が険しくなった。
「警察には、この件は?」
「無駄よ。いなくなった娘たちの親はみんな、外聞を恐れて、娘の失踪を公にしようとしないの。万が一、娘が男と駆け落ちなんかしてたら、家の恥ですからね。教師たちも同じよ。面倒事に巻き込まれたくないから、知らんぷりを決め込んでる」
「そんな…行方不明になった娘たちを、見捨てるっていうんですか」
マキは、制服のスカートの上で強く手を握り締めた。
「勿論、あたしは見捨てるつもりなんかないわ。だけど…いなくなった娘たちがどこへ連れ去られたのか、皆目、見当がつかないの」
あらかじめ口止めがされていたのか、エリ同様に少女たちは『お姉様』について、周囲に詳しいことは語らなかったという。そのため、少女たち自身はもちろん、少女たちをさらったであろう『お姉様』についても、その行方がまるで掴めていない状況だった。
「街をうろつく『アクア・ドラゴン』にでも聞けばいいんでしょうけど…そんなことをすれば、ミイラ取りがミイラになってしまうわ。あの娘たちを確実に助けるまでは、あたしが捕まるわけにはいかない」
マキの歯痒さが、さやかにも痛いほど伝わってきた。危険な不良軍団である『アクア・ドラゴン』が相手では、さやかやマキには太刀打ちできない。
さやかは「わかりました」と言って、すっくと立ち上がった。
「こうなったら、白虎組の力を借りましょう。街の女の子が青龍会に連れ去られたなんてことになったら、白虎組の名折れです。僕が組長を説得します」
一人、意気込むさやかを、マキが「ちょ、ちょっと待って、さやか」と制した。
「気持ちはありがたいけど、さやかにそんな無茶させられないわ」
「えっ?」
「そりゃ、さやかは代打ちとして白虎組に貢献してるんでしょうけど、だからって白虎組を動かせるほどの力はないでしょう?まして、年端もいかない女の子たちが行方不明になったぐらいで、白虎組がどうにかしてくれるとは思えないわ。青龍会が絡んでいるという証拠もないし」
マキから冷静に諭されて、さやかは再び、すとんと席に腰を下ろした。
「じゃあ、今日、僕を呼び出したのは…?」
「一つ、引っかかることがあるの。あたし、街の女の子たちが行方不明になったって知って、旧聖天第一寮に行ってみたんだけど」
「旧聖天第一寮?」
マキは「昔、聖天高校が全寮制だった頃に使われていた古い寄宿舎よ。とっくの昔に廃寮になったけど、建物だけは残ってるの」と説明した。
「創立されたばかりの聖天高校は、今みたいな街中じゃなくて、もっと海の近くにあったらしいの。だから、旧聖天第一寮も、海辺にあってね」
「へえ」
「人目につかない場所にあるし、2階建ての大きな建物で、部屋数も多いから、さらった女の子たちを監禁するにはちょうどいい場所だと思ったのよ」
だけど、アテが外れてね、とマキは言った。
「旧聖天第一寮の内部はかなり古くなってて、2階の床が完全に崩れ落ちていたわ。とてもじゃないけど、女の子たちを隠しておけるような場所じゃなかった」
しかし、マキはそこで気になるものを発見したという。
「寮の玄関に、麻雀牌が1個落ちてたの」
「麻雀牌…ですか?」
「それも、新品の麻雀牌よ。明らかに、誰かがわざと置いて行ったんだと思うわ」
マキは、ハンカチに包んだそれをさやかに見せてくれた。
牌の表面には、『夏』という漢字と、蓮の花の絵柄が刻まれている。
「花牌…」
日本の麻雀では通常、用いられない牌だ。立ち入る者のない廃寮に落とされているには、明らかに不自然な代物だ。
夏目さやかを名指ししている――と考えたのは、さやかだけではあるまい。さやかの視線に、マキは頷いた。
「さやかの身にも、危険が迫るかもしれないと思って…関係ないかもしれないけど、一応、知らせておきたかったの」
「マキさん…。ありがとうございます」
「って言っても、あたしのアイディアじゃないわ。さやかの前に、先に相談した方がいるの」
さやかが「それって…」と言いかけた矢先、ふわっとミュゲの香りが舞い上がった。
「私が、マキさんから知らせを受けたの。夏目さんにもお伝えしたほうがいいと思って」
「淑恵さん…!」
後ろの席から姿を現したのは、マーメイドラインが美しい、エメラルドグリーンのツーピースをまとった淑恵だった。
さやか、マキ、淑恵は喫茶店『異邦人』から車で移動し、榊原邸の広いリビングで紅茶を囲んだ。
「聖天高校をはじめ、市内のいくつかの高校で女生徒が行方不明になっているという話は、私も聞いていたわ。警察や保護者の方々が、この件に関して動く気がないということも」
ティーカップに紅茶を注ぎ終わった淑恵が、溜息を吐いて腰を下ろした。
「ここだけの話だけれど…県警は、青龍会に手を出すなと警視庁から通達されたそうなの」
「ええっ!?」
「どうして、そんなことに」
――それじゃ、彩北は青龍会と『アクア・ドラゴン』の餌食じゃないか…!
さやかとマキが口々に驚きの声を上げると、淑恵は悲しそうに目を伏せた。
「残念なことだけれど…警視庁は、こちらの警察を見下しているの。青龍会を確実に捕まえるにあたって、地元の協力は、却って足手まといになると考えているみたいで」
「そんな…」
「それじゃ、女の子たちが行方不明になっている件で警察が動かないのも、背後に青龍会が絡んでいるからってことですか?」
マキの問いに、淑恵は憂いを帯びた眼差しをティーカップに落とした。
「確証はないわ。警察が、女の子たちの失踪を単なる家出だと軽く考えているのも事実よ。ただ…」
淑恵は一瞬、話すのを躊躇するような沈黙を置いたが、意を決して語り出した。
「……実は、青龍会には噂があるの」
「噂?」
「青龍会は『アラビアン・ナイト』という巨大なカルテルを率いています。女の子を夜のお店で使ったり、果ては幹部の愛人にしたりするのが主な役目」
――まさか……。
さやかとマキは、次第に話の輪郭を掴み始めた。
「青龍会は地方の街を巡って、若い女の子たちを集めて『アラビアン・ナイト』に『輸出』しているそうよ。組織的な犯行でありながら、警察では家出少女が非行に走った、程度にしか扱われないわ」
「じゃあ、彩北で起こっている女の子たちの失踪事件も…」
「……ただの家出や外泊であって欲しいと、私も思っていたわ。だけど…」
翠なす淑恵の瞳には、テーブルに置かれた『夏』の牌が映っていた。
淑恵が言おうとした続きを、さやか自身が引き取った。
「…青龍会は、僕を狙っています」
「さやか…!そんな、どうして」
「僕が、朱雀組の組長が殺された事件に関わっているからです」
さやかの思いもよらない告白に、マキも淑恵も蒼白になった。
さやかは、テーブルの上の『夏』を手に取った。
――これはきっと……僕に対する何らかのメッセージ。
「こうなった以上、僕があの廃寮に乗り込みます」
淑恵の話を聞いている間、さやかが出した『解』はこうだった。
「恐らく、女の子たちを乗せた船が廃寮のそばの浜辺に係留されているのでしょう。廃寮で待ち伏せしていれば、青龍会の人間が船に出入りする現場を押さえられる。女の子たちがどこに囚われているのか、確かめてやります」
「駄目よ!危険すぎるわ」
淑恵に止められたが、さやかは「これが一番確実な方法です」と答えた。
「僕自身も青龍会に捕まれば、女の子たちと一緒に脱出の手立てを考えることができます。僕にせよ女の子たちにせよ、青龍会も殺そうとはしないはずです。ある程度、遠くまで逃亡することができれば、青龍会も無理に追おうとはしないでしょう」
さやかは我ながら完璧な計画だと思ったが、淑恵とマキからは再び「駄目!」の大合唱が返って来た。
「えっ…」
「そんなの、さやか一人じゃ無理よ。できっこないわ」
「そうよ。夏目さんまで捕まってしまったら、青龍会の思う壺じゃない」
淑恵とマキから揃って大反対にあって、さやかは「でも…」と言葉もなかった。
「淑恵さま。この件、白虎組の皆さまにお願いすることはできないんですか?」
マキの言葉に、淑恵は目を伏せた。
「…まだ、青龍会が関わっているという証拠がないわ。それに、今は父が…灘議員が来ていて、そちらで手いっぱいだと思うの」
「だったら、青龍会が女の子たちの失踪に関わっている、って証拠を掴めばいいのね」
マキの目配せに、さやかも頷いた。
――だったら、僕たちで確たる証拠を掴んでやる!
「いけないわ、夏目さん、汐見さん。あなたたちにそんなことをさせるために、この話をしたわけじゃないのよ」
心配顔で言ってから、淑恵は、さやかたちを仰天させるようなことを言った。
「廃寮には、私が行きます」
「えーっ!?」
「淑恵さまが!?」
「私は若い女の子じゃないから、青龍会だってきっと狙わないわ。もし遭遇しても、通りすがりのおばさんです、って言えばいいもの」
張り切る淑恵に対し、今度はさやかとマキが「駄目ですよ!」と合唱した。
「ええっ!?どうして?」
「淑恵さま、鏡をご覧になったことがないんですか?淑恵さまを見て、『なーんだ、通りすがりのおばさんか』なんて素通りする男、いないわよ!」
思わず素の口調になったマキに続いて、さやかも「そうですよ!」と言った。
「淑恵さんはすっごく美人ですし、胸だっておっきいし、いい匂いがするし、ボディラインだってこう、メリハリがあってセクシーだし……僕が『アクア・ドラゴン』だったら、ヒツジもオオカミになっちゃいますよ!」
「ちょっと、さやか」
思わずジェスチャーつきで熱弁するさやかを、隣のマキが引っ張った。
「どうしました?」
「さやか、あんた形容がオジンくさいわよ」
「がーん!」
ショックを受けるさやかに、マキが「冬枝のおじさまの悪影響ね」と肩をすくめた。
気を取り直して、さやかは「とにかく!」と声を張り上げた。
「淑恵さんにそんな危険なことをさせるわけにはいきません!青龍会を彩北に呼び込んでしまったのは僕です。僕が、責任を取らなきゃならないんです」
それでなくてもさやかは響子の友人という、淑恵に後ろめたい立場だ。この上、淑恵に危険を冒すような真似までさせるわけにはいかない。
すると、淑恵の手がそっとさやかの頬に触れた。
「夏目さん。青龍会の件も、今度のことも、あなたは巻き込まれただけ。責任なんて、感じなくていいのよ」
「ですが…」
なお言いつのろうとするさやかに、淑恵はどこまでも優しい眼差しを向けた。
「夏目さんは、白虎組の大切な代打ち。本来なら、私が軽々しくお招きしていい方ではないの」
「淑恵さん…」
「今回は、夏目さんにも危険が及ぶ可能性があるから、伝えておきたかっただけ。夏目さんは、ご自分を大事になさって」
それは、淑恵がさやかではなく、源から麻雀を教わった理由でもあった。
白虎組の代打ちであるさやかを、淑恵が私用で呼ぶわけにはいかない。また、さやかをこれ以上、自分たち夫婦の問題で翻弄したくない、という想いもそこにはあった。
――これは、私が背負うべき問題だもの。
何より、もしも青龍会が少女たちの失踪の黒幕だとすれば、青龍会との関係が噂される淑恵の父――灘議員もそこに関わっているかもしれないのだ。
実の父が少女たちの拉致監禁に関わっているなど、考えるだけでおぞましい。だが、淑恵は現実を直視しないわけにはいかなかった。
――この子たちを守るためにも…まずは、私が確かめなくっちゃ。
淑恵がこの件を榊原に言えないのは、そうした事情もあった。
「じゃあ、あたしが行くわ!さやかよりはケンカ慣れしてるし」
押し問答になるさやかと淑恵を見かねて、マキがそう言い出したが、勿論、これにも淑恵とさやかは大反対した。
「いけないわ、汐見さんはまだ高校生じゃない。私なら青龍会だって女扱いしないでしょうから、私が行くわ」
「駄目ですよ!淑恵さんが女扱いされないんだったら、僕なんて半分ヤクザみたいなものです。僕だったら色々事情もありますから、青龍会だってきっと悪いようにはしません。僕が行きます!」
「さやかこそ何言ってんのよ!街から女の子を根こそぎさらって行くような連中が、一人一人面接して選んでると思ってるわけ!?いざという時にモノを言うのはやっぱり拳よ、拳」
「男の人相手に危険よ、汐見さん。夏目さんも、自分のことを大事にしてって言ったばかりじゃない」
淑恵は意気軒高な少女2人をなだめようとしたが、マキもさやかもやる気マンマンだ。
「仲間がさらわれたっていうのに、あたしだけ知らんぷりなんてできないわ!お願い、淑恵さま、あたしに行かせてちょうだい」
「いいえ、これは僕の問題です!この『夏』の牌は、明らかに僕を名指ししています。僕が適任です!」
「もう、2人共、これがどれだけ危険なことか分かってるの?青龍会に捕まったら、タダじゃ済まないかもしれないのよ」
淑恵は心の底から説得したのだが、鼻息の荒い少女たちに聞く気はない。
「覚悟の上です!白虎組の代打ちになった時に、僕は女を捨てています!」
「あたしだって、逃げる気なんてさらさらないわ!仲間を見捨てるぐらいなら、一緒に捕まった方がマシよ!」
「ああ……夏目さん、汐見さん、あなたたちったら……」
淑恵は、くらくらする額を押さえた。
花瓶に活けられたシクラメンが薫るリビングで、女たちの会議が紛糾すること15分。
喧々諤々の議論の末、さやか、淑恵、マキは、苦渋の決断を下した。
「……こうなったら、僕たち3人で行きましょう。それが最適解です」
「同感ね。あたしたち2人がついてれば、淑恵さまを守って差し上げられるし、もし青龍会に見つかっても、誰か一人ぐらい逃げられるでしょ」
「あなたたちを危険な場所に連れて行くのは気が進まないけれど……怖くなったら、途中で引き返すのよ」
淑恵はそう言ったが、さやかにもマキにも、引き返す気など微塵もない。
――必ず、女の子たちを助け出す!
待ち合わせは、金曜日の夜20時。こうして、女3人の夜のピクニックが決定したのだった。
ところが、当日の朝、さやかは頭を抱えるハメになった。
「まさか、代打ちの仕事が入っちゃうなんて……」
雀荘『こまち』の喫茶スペースで、さやかは一人、テーブルに突っ伏した。
青龍会の脅威が彩北に迫っている中でも、白虎組のシノギが止まるわけではない。最近の白虎組は鴉組の吸収を始めており、今回はそれ絡みの勝負だ。
鴉組は鉱山で栄えた南の町の組だが、炭鉱がほとんど閉じた現在、その勢いは最盛期の1割以下にまで下がった。近頃では『アクア・ドラゴン』に利用されるほどに落ちぶれた組だが、かつては県随一の財力を持っていたというプライドから、未だに白虎組の傘下に入ることを良しとしていない。
――こんな大事な勝負、サボることなんてできない。
鴉組を取り込み、白虎組の勢力を拡大することは、青龍会に対する防御力を少しでも上げることに繋がる。さやかとしても、自分で役に立てるならばいくらでも協力したいところだ。
――でも、淑恵さんとマキさんだけに行かせることもできない。
旧聖天第一寮と少女たちの失踪事件が関わっている、というのは、あくまでさやかたちの憶測に過ぎない。無駄足に終わればそれに越したことはないが、『夏』の牌があそこに置かれていた以上、さやかは胸騒ぎがしてならなかった。
冬枝に相談することも考えたが、言ったら止められるのは目に見えている。少女たちをさらった『アクア・ドラゴン』が行き来しているかもしれない場所に赴くなんて、あまりにも無謀だからだ。
賭場と、夜のピクニック。その両方をクリアする解を求めて、さやかは思考を巡らせた。
「賭場が終わってから、廃寮に向かう?……いや、それじゃ、着いた時には手遅れかもしれない。淑恵さんとマキさんに何かあったら嫌だ」
誰にも気付かれることなく、目的を遂げる。それが青龍会のやり口だと、三船から聞いた。
実際、行方不明になった少女たちは『誘拐される』場面を目撃されていない。そしてそれ以降、誰からも姿を見られていない。淑恵やマキが攫われても、証拠は残らないだろう。
「じゃあ、勝負をすっぽかす?……冬枝さんなら、いいって言ってくれるかもしれないけど…」
実際、鴉組は衰退著しく、専属の代打ちすらいない有様だと聞いている。さやかじゃなくても勝てる勝負だろう、とは冬枝も言っていた。
――だけど、代打ちの仕事を投げ出すなんて、僕のプライドが許さない。
一度でも勝負を降りてしまったら、もう、この裏社会で雀士として立つ資格を失うだろう。女で、経験も浅いさやかがこの世界で生き残るためには、闘い続けるしかないのだ。
雀士としての誇りか、淑恵とマキか。そのどちらを選んでも、さやかが後悔することだけは確かだ。
「あーっ!僕はどうすればいいんだ…!」
さやかが髪をぐしゃぐしゃとかき乱したところで、「さやかさん」という穏やかな声が背中にかかった。
「ミノルさん!」
「こんにちは。何やら、お困りのようですね」
緩く波打つ銀髪から覗く眼差しは、さやかの悩みなど全てお見通しと言わんばかりに深い。
さやかは、藁にも縋る思いでミノルに相談した。
「実は今夜、大事な勝負があるんですけど……それと同じぐらい、大事な用事があるんです」
「ほう。麻雀狂いのさやかさんが『勝負と同じぐらい大事な用事』と仰るからには、替えの利かない話なんですね」
「はい」
廃寮に『夏』の牌が置かれていた以上、本当はさやかが一人で行かなければならない件だ。淑恵とマキが何と言おうと、さやかは引けないと思っていた。
ミノルは、マスターの中尾に注文したコーヒーを一口、口にした。
「鴉組はかつて、鉱山事業で勢力を伸ばしました。その前身も含めれば、歴史は白虎組よりも遥かに長い」
「え……ええ」
思わぬ話にさやかは目をぱちくりさせたが、ミノルは静かに続けた。
「僕のいる大羽も、昔は炭鉱が盛んだった街です。勿論、その裏にはヤクザが絡んでいました」
「そう…なんですか」
「ですが、今や主な鉱山は、全て閉山する運びとなりました。炭鉱の危険な重労働で、ヤクザが金を搾り取る時代は終わったんです」
実際、大羽の街で明治の頃からのさばっていた古い組は、皆、秋津一家によって吸収された。
一家を率いた兄・イサオの若き日の横顔が、一瞬だけミノルの瞼によぎる。
――イサオお兄さんが、古い時代を終わらせ、新しい時代を拓いた。ですが、お兄さんが作った時代もまた……。
ミノルは、コーヒーカップを置いた。
「……鴉組も、同様です。ここで白虎組に吸収されるのは、時代の必然と呼べるでしょう」
「僕が、わざわざ勝負するまでもないってことですか?」
窺うようにこちらを見上げるさやかの大きな瞳に、ミノルはにっこりと微笑み返した。
「その通り。吹けば飛ぶような塵芥のために、君が大事な用事を犠牲にすることはありません。僕が何とかしましょう」
「…えっ?ミノルさんが?」
そもそも、さやかは今夜の勝負が鴉組とのものだということまで話していない。それにも関わらず、ミノルは全てお見通しだ。
「ちょっと、電話をお借りしてもよろしいですか?」
ミノルはマスターの中尾に声をかけると、『こまち』の電話でどこかへと連絡した。
まるで世間話でもするみたいに和やかな会話の後、ミノルは受話器を置いた。
「ふふっ。さやかさん、これで今夜の勝負はなくなりましたよ」
「ミノルさん。一体、どうやって…」
――魔法でも使ったんですか?
そう言いたくなるぐらい、一瞬の出来事だ。さやかには、何がなんだか分からなかった。
ミノルは席に戻ると、残っていたコーヒーに口をつけた。
「…簡単なことですよ。鴉組に、再就職の口を紹介してやっただけです」
「再就職?」
「今の鴉組は、もはや指揮系統もバラバラなチンピラの集合体でしかありません。本当は、彼らだって白虎組のような大きな組の下で、安心してシノギがしたいはず」
それなのに鴉組が白虎組に盾突く理由は、一つしかない。
「自分たちを、白虎組に高く売りたい。それが彼らの本音です」
「高く売りたいって……だって、鴉組はもう」
言いかけたさやかの言葉を、ミノルが引き受けた。
「そう。素寒貧の彼らですが、だからこそ、残された看板にしがみつくのです。白虎組に奴隷同然のように扱われることこそ、彼らが今一番恐れていること」
つまり、白虎組の庇護は受けたいが、搾取されるのは嫌だというわけだ。散々、白虎組に逆らっておいて虫のいい話だとは思ったものの、さやかはそこまで鴉組の心境を考えていなかった自分に気付いた。
――鴉組だって、人間なんだよな。
さやかには良い印象のないゴロツキたちでも、鴉組の一人一人にそれぞれの生活があり、人生がある。家族のいる者だっているかもしれない。白虎組からは悪あがきにしか見えなくても、彼らにとっては必死の抵抗なのだ。
ふと、さやかの首筋を冷たいものがすうっと通り過ぎていった。
――僕は、いつからそんなことも分からなくなったんだろう。
大局よりも、目の前の勝負に夢中になってしまう麻雀狂いのせいか。或いは、権力を増していく白虎組の大きな傘の下で代打ちをやっているうちに、人に対する感覚がぬるくなってしまったのか。
いつからか、さやかが警戒するのは目の前の『一人』ではなく、『アクア・ドラゴン』や青龍会といった、巨大な組織になっていた。
――なんだろう。僕は何か、重大なことを見落としている気がする……。
にわかに胸をざわつかせるさやかに対し、ミノルが明るい声で告げた。
「ですが、もう安心です。鴉組には、別の組への仲介を約束しておきました」
「えっ…別の組って?」
それには答えず、ミノルは軽やかに言った。
「強大な白虎組からの圧迫で頭がいっぱいだった彼らには、ちょうどいい抜け道に見えるでしょう。別の組に守ってもらえるなら、力で勝る白虎組と無理に張り合う必要はない。今夜の勝負、彼らのほうから丁重にお断りしてきますよ」
そう言うミノルの襟元では、鷹の羽紋のバッジが銀色に光っていた。
「………」
さやかはぼんやりとそれを見つめた後、「ありがとうございます」と頭を下げた。
「ミノルさんって、本当に魔法使いみたいですね」
「フフ…。大したことはしていませんよ。お節介は、年寄りの得意技ですから」
さやかはぺこりと頭を下げて、小走りに『こまち』を去って行った。
「………」
さやかに手を振った後、ミノルのレンズの奥の瞳はすうっと冷たくなった。
夕方、さやかとマキ、そして淑恵は、駅前で落ち合った。
バスロータリーに程近い乗り場でタクシーを拾うと、3人で後部座席に座った。
「ごめんなさいね。主人に伝わるといけないから、家の車は使えなくって」
謝る淑恵に、さやかもマキも首を横に振った。
「あたし、メリケンサックとカミソリ持ってきたわ。いざって時のためにね」
「流石マキさん、準備がいいですね。僕は、コンパクトカメラを持ってきました。これで、人さらいたちの顔をバッチリ激写してやります」
本当にピクニックのようにウキウキする少女2人を、淑恵は心配そうに眺めた。
「夏目さんも汐見さんも、お家の方にはなんて言って出てきたの?」
「僕は…代打ちの仕事が休みになったので、友達と遊びに行く、と言って来ました」
実際、今夜の『こまち』は鴉組との勝負で貸し切りにする予定だったため、15時で閉店した。さやかの言い訳を、冬枝が疑っている様子はなかった。
マキもコロコロと笑った。
「ほほほ、うちはシンデレラ方式ですの。門限は12時までですから、このぐらいの時間は余裕ですわ」
「そう…」
――今の女の子たちって、大胆なのね。
さやかとマキの自由さに隔世の感を抱いた淑恵だったが、高校時代に父の不倫を追いかけて夜の街にまで繰り出した自分も人のことは言えない、と気付いてちょっと赤面した。
「淑恵さんは何か持って来たんですか?」
さやかは、淑恵が持っている小さなハンドバッグに目をつけた。
「ああ、これ…手ぶらだと不審がられるかと思って、一応持ってきただけよ。武器の類は持っていないわ」
「そうですか」
確かに、マキならともかく、淑恵がナイフやメリケンサックで不良と闘うところなど、想像もつかない。万が一、『アクア・ドラゴン』に捕まったらボディチェックを受ける可能性もあるため、武器を持って来なかったのは賢明といえた。
黄昏の街を小一時間ほど走り、タクシーは海水浴場の前で停まった。
「わたくしたち、季節外れの海水浴かと思われたかしら」
「かもしれませんね」
マキの冗談に、さやかも苦笑して答えた。
実際、夏もとうに過ぎた海沿いの街は、静かだった。小さな売店やコンビニ、クリーニング店などが並ぶ質素な通りは、東京のヤクザとは縁遠い場所に見える。
マキの案内で、さやかたちは例の旧聖天第一寮へと向かった。
「本当に、海のそばにあるんですね」
「でしょう?今はもうないけれど、昔はヨット部の活動も盛んだったらしいわ」
店が並ぶ大通りからぽつんと離れて、旧聖天第一寮は海水浴場の程近くに建っていた。夕焼けを背にしてそびえる古色蒼然とした建物は、どことなく不気味さを漂わせている。
とりあえず、3人は散歩を装って寮の周辺をぐるりと一周した。
「誰もいないみたいですね」
「もう使われていない建物だから、地元の人も近寄らないわ。夏場はおバカな学生たちが、肝試しに来たりしていたみたいだけど」
正門前には、立ち入り禁止のロープがかかっている。扉には、大きな錠前がしっかりとかけられていた。
「ここからは入れないわ。勝手口があるの」
マキが示したのは、裏手にある小さなドアだった。
ドアノブに手をかけたさやかは、握った感触に目を丸くした。
「壊れてますね」
「そうなの。正門が厳重でも後ろがこれじゃ、誰だって出入り自由だわ」
壊れたドアから中に入ると、室内はどんよりと暗い。
暗さに目が慣れてくると、蜘蛛の巣やホコリが目についた。床はギシギシと軋み、時折、腐っているのか足が沈み込む個所もある。
「電気も水道も通ってないし、ここに女の子たちが監禁されている様子はないわ」
「…確かに、ここでは無理ですね」
いくつか部屋も見て回ったが、床や天井に穴が開いていたり、2段ベッドが倒壊している部屋もあった。最近になって使われた形跡もなく、ここが少女たちの監禁場所ではないことは明らかだった。
「この先が食堂のあった場所なんだけど……これ以上は、進めないわね」
廊下の向こうには広い空間があるようだったが、それを遮るように、2階部分が崩れて積み重なっていた。100年前の建物じゃ当然か、とさやかも納得した。
淑恵が言った。
「ここに長居するのは危ないわ。そろそろ行きましょう」
「はい」
もし『アクア・ドラゴン』が現れるにしても、日没後のことだろう。いつ天井が落ちてくるか分からない寮の中で待つのは危険なため、3人は寮の外にある物置小屋の影へと移動した。
最初は立っていた3人だが、時間が経つにつれ、いつの間にか3人とも地面に腰かけていた。
「早く来ないかしら、あいつら」
「毎日来るとは限りません。今日来てくれれば、ラッキーなんですが」
マキと話していたさやかは、ふと、俯いている淑恵の顔色が悪い気がした。
「淑恵さん。大丈夫ですか」
「あ、ええ…なんでもないわ」
そう答えた淑恵だが、どこか辛そうだ。さやかは心配になった。
――淑恵さんの具合が悪いなら、帰ったほうがいいかな。
もうすっかり日が暮れたというのに、『アクア・ドラゴン』が現れる気配はない。海辺の冷たい風に晒されているうちに、さやかも気力が萎えてきた。
「うーん。悔しいけど、今日は収穫ナシね」
「ですね。引き揚げましょうか」
マキとさやかは頷き合うと、淑恵を連れて廃寮を離れた。
「この近くに、公衆電話ってありましたっけ」
「確か、そこのコンビニの駐車場にあるわ。タクシー呼ぶわね」
電話ボックスに向かおうとしたマキに、淑恵が「私が行くわ」と呼び止めた。
「うちの車を呼ぶわ。帰るだけなら、忍さんにも言い訳が立ちますから」
「ありがとうございます、淑恵さま」
すっかり日の落ちた駐車場で、さやかとマキは空を見上げた。
郊外だけあって、上り始めた月と星がちらほら瞬いているのがよく見える。
「まだ10月なのに、冷えますね」
「いなくなった皆も、寒い思いをしてないかしら」
この同じ空の下に、行方不明になった少女たちがいる。そう思うと、さやかもマキも、このまま引き上げるのは惜しかった。
――でも、これ以上ここにいても無駄足だしな…。
今夜は、青龍会の人間たちが出入りするタイミングではなかったのかもしれない。或いは、廃寮と青龍会とは無関係だったのか。
――だとしたら、あの『夏』の牌は一体……。
さやかが無意識のうちにポケットに入れた『夏』の牌を握り締めたところで、電話ボックスから淑恵が出てきた。
「じきに車が着くわ。それまで、お店の中で待っていましょう」
「はい」
さやか、マキ、淑恵は、目の前にあるコンビニに入った。
コンビニと言っても、ここはさやかが東京でよく行っていたようなチェーン店ではなく、個人経営のこじんまりとした商店である。
きょろきょろと辺りを見回す淑恵に、さやかは「どうしました?」と声をかけた。
「こういうお店って、初めて来るから…何だか珍しくって」
「えっ。淑恵さん、コンビニに来たことがないんですか!?」
「ええ。私が若い頃は、まだこういうお店はなかったし……大人になってからも、大抵のものは百貨店で買っているものだから」
さやかは改めて、淑恵のハイソっぷりに感嘆した。
――流石は灘家のお嬢様……淑恵さんはきっと、コンビニでからあげやフライドチキンを買ったりなんかしないんだろうな。
そこでさやかは、お嬢様が淑恵だけではないことを思い出した。
「ま、まさかマキさんも、コンビニに来るのが初めてなんて言いませんよね?」
「あはは、あたしは違うわよ。放課後の買い食いなんかもう、しょっちゅう」
「あら、汐見さんったら」
淑恵からたしなめるような視線を向けられ、マキが照れ臭そうに舌を出した。
「ほほほ、ご心配なさらないで、淑恵さま。確かに買い食いは校則違反ですけれど、わたくしたちはあくまでお菓子やジュースを買っているだけですわ。北高の連中なんか、酒やタバコを買い漁ってるって…」
酒類の棚に並ぶ大きな酒瓶を見上げたマキが、そこでふと言葉を止めた。
「…思い出したわ」
「マキさん?」
マキが、大きな瞳を見開いてさやかに向き直った。
「さやか!あたし、どこであの方に会ったか、やっと思い出したわ!」
「あ、あの方って?」
マキから両肩を揺さぶられ、さやかは戸惑いながら聞き返した。
「さやかが運動会で一緒に連れて来てた方よ。名前は、確か」
「鈴子さんのことですか?」
「そう!鈴子さん」
そう言うと、マキは感慨深そうに眼を閉じた。
「ああ、やっと分かったわ。あたしの命の恩人は、鈴子さんって名前だったのね…」
「命の…恩人?」
さやかがマキから詳しく話を聞こうとしたのと同時に、淑恵が「あっ」と窓の外を見て声を上げた。
「車が着いたみたい。お話の続きは、車の中でしましょう」
「はい!」
コンビニを出ると、さやかも乗ったことのある黒いセダンが道路沿いに停まっていた。
さやかたちの姿を認めた途端、車のウィンドウが下ろされた。
「!」
そこで、さやかたちは息を呑んだ。
車の運転手だろう、スーツ姿の男性が、ぐったりと助手席のシートに倒れている。殴られたのか、顔じゅうが血だらけだ。
そのこめかみにピストルが押し付けられているのを見て、さやかもマキも淑恵も言葉を失った。
運転手がわななく唇で何かを告げようとするのを、ピストルを持った運転席の男が遮った。
「ちょっと、そこのお嬢さんたち。俺たち、『アクア・ドラゴン』っていうんだ。これから、俺たちとドライブしないか?」
よく見れば、後部座席にも男がもう1人、我が物顔で陣取っている。カラフルなシャツに身を包んだ男たちは、いずれも若い。
――罠だったんだ…!
恐らく、さやかたちが廃寮を訪れたことを知った『アクア・ドラゴン』は、先回りしてさやかたちを待ち伏せていたのだろう。さやかたちが逃げられないよう、人質まで確保して。
淑恵は、蒼褪めた顔で唇を固く結んでいる。さやかもマキも、迷いはなかった。
「いいでしょう。そのドライブ、お付き合いしますよ」
「ちょうどいいわ。あたしたち、ヒマしてたとこなの」
「夏目さん、汐見さん」
淑恵がハッとして止めようとしたが、若い男が運転手のこめかみに銃口をこすり付けるのを見て、口をつぐんだ。
危険は承知だが、乗り掛かった舟だ。さやかは、覚悟を決めた。
――何とかして、さらわれた女の子たちのところに辿り着く!
用済みになった運転手をコンビニの駐車場に蹴り出すと、『アクア・ドラゴン』はさやかたちを乗せてセダンを発進させた。