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46話 ライアー・ゲーム

第46話 ライアー・ゲーム


 ラブホテル『ムーンライト・パラダイス』。

 夜空を染め上げるようなピンクのネオンの華やかさとは裏腹に、駐車場はどこか寂しげな影の中にある。

 その中に、青のスカイラインも停まっていた。

「………」

 シートに座ったまま、源も響子も、微動だにしない。沈黙だけが、車内を埋める全てだった。

 ――どうして、私はここから動けないの?

 素敵なデートのお礼に、とここへ誘ったのは、響子のほうだ。響子に真剣に向き合ってくれる源の気持ちに、一度だけなら応えてやってもいいと思ったのだ。

 それが、ここにきて迷っている。どうして身体が動かないのか、響子は自分でも不思議だった。

 ――こんなの、今までにもよくあったことじゃない。

 今まで響子が逢った男の中で、下心なしに食事に誘った男など、榊原しかいなかった。恋も愛もなく抱かれることに、響子は慣れていた。

 ――この人は、私の腕を強引に引くことだってできるのに。

 だが、源はただ静かに待っている。響子の躊躇いを責めることもなく、穏やかな横顔で。

 ――この人は何故、こんなに優しくしてくれるの?

 源が榊原の正妻である淑恵に思いを寄せており、最近、親しく会っているらしい、ということは、響子も知っていた。

 榊原が響子に娘の面影を見たように、源もまた、淑恵の代わりを響子に求めているのではないか。最初はそう思って身構えていたが、何度かデートを重ねるうちに、少し違うということに響子は気付いた。

 口説きはしても、響子の手も握らない。響子が帰りたいと言えば、すぐに解放してくれた。それで機嫌を損ねるわけでもなく、いつも変わらぬ真顔で響子と会った。

 響子が半ば源の気持ちを試すように、自らの貧しい生い立ちや、榊原への正直な想いを告白しても、源は変わらなかった。

「そうか。響子は、優しい親父さんが欲しかったんだな」

 そう頷いて、源は自らのことを話してくれた。

「俺はずっと、死んだお袋を追い求めてる」

 源には清子という、愛する母がいたこと。疎開先でも女手一つで源を守ってくれた母を、大人になったら自分が守るのだと思っていたこと。だが、母は若く美しいまま、呆気なく逝ってしまったこと。

 どんなに愛した女でも、永遠の別離が必ず来るのだということを、源は知った。

「どの女とも長続きしねえのは、そのせいだろうな。失うのが怖くて、こっちから手を離しちまう」

 源は寂しげに語った後、「似た者同士の俺たちなら、きっとうまくいくさ」と前向きに響子を口説いたのだった。

 淑恵との交流についても、源は隠すことなく響子に話した。

 過去にあった事件で源が組を去ったことを、淑恵はずっと気にかけていた。源が彩北に戻ると、真っ先に挨拶に来てくれて、バラの苗やお菓子などをプレゼントしてくれたという。

 ――私に話したら、若頭に告げ口されるかもしれないのに。

 響子が源と淑恵の関係を邪推し、榊原に讒言するかもしれないことなど、容易に想像できただろう。まして、淑恵にライバル心を抱く響子にとって、それは抗いがたい誘惑でもある。

 だが、源があまりにも正直に淑恵との関係について教えてくれるせいで、そんな気は起こらなかった。源と淑恵は、本当にただの友人に過ぎないのだから。

 ――誤解なんかできないぐらい、源さんは堂々としてる。

 源は、響子に全てを晒している。男女としてでなく、人として響子と向き合っているのだ。

 ――そんな人に、こんなやり方で応えていいの?

 確かに、ありふれた男女のやり取りだ。だがそれは、父や母や、響子がこれまで会ってきた、薄汚れた大人たちのやり方だ。

 ――源さんは、私が知ってる大人たちとは違う。

 そう気付いた瞬間、響子は「ごめんなさい」と口にした。

「今日はもう、帰ります」

「そうか。分かった」

 源はそう言うと、あっさりと車のエンジンをかけた。

 やはり、源は響子を責めない。響子は、改めて申し訳なくなった。

「すみません。ここまで来ておいて…」

「謝ることじゃねえさ。いずれ、響子のほうから『抱いてくれ』ってせがんでくる日が必ず来る。その時までのお楽しみさ」

「たいした自信ですね」

 場を明るくするために言ってくれているのかもしれないが、響子は思わず笑ってしまった。

 すると、源は不意に真剣な眼差しになった。

「ありがとう。響子」

「えっ?」

「俺が、下心だけで響子と会ってるわけじゃないって思ってくれたから、断ったんだろ」

 響子は一瞬、ハッとしたが、「…はい」と頷いた。

 ハンドルを握る源の横顔には、微かに笑みが浮かんでいた。

「響子が嫌なら嫌だ、って言える男でありたいんだ。難しいかもしれないが」

 源の声音は、あまりにも温かかった。そんなことを響子に言ってくれた男は、今まで誰もいなかった。

 思わず瞳に涙がこみ上げたが、響子はぐっと堪えた。

 ――ここで私が泣くのは、卑怯だわ。

 響子は涙を見られないよう、そっと運転席から顔を背けた。

 ピンク色の明かりが一瞬、車内を明るく照らし上げる。それを最後に、車は真夜中の道路へと吸い込まれていった。



『ムーンライト・パラダイス』と書かれたネオンが、こちらを手招きするかのようにチカチカと点滅している。

「『ムーンライト・パラダイス』……」

 無意識に呟いて、さやかは呆然と看板を見上げた。

 ここがラブホテルだということぐらい、さやかだって分かっている。それこそ去年まで、生徒会長として、ホテル街をうろつく生徒たちを捕まえていたものだ。

 浮つく気持ちをコントロールできない、バカの行く場所。わざわざあんなところに行くなんて、ガキっぽいとは思わないのだろうか。

 それが、去年までの葵山学院生徒会長・夏目さやかの感想だった。

 だが今は、輝くネオンライトを前に、金縛りにあったように立ち尽くしている自分がいる。

 夕方から始まった、ロマンティックなデート。お化粧とネイルにドレスアップ、行ったこともないような優雅なフレンチレストラン。

 夢の中にいるみたいだったデートの終着点が、目の前でさやかを待ち受けていた。

 ――こ、こ、こういう場合って、どう振る舞うのが最適解なんだ!?

 お上品に、楚々として冬枝についていけばいいのか。それとも、せっかく誘ってもらったんだから、もっとはしゃいでみせたほうがいいのか。いや、ちょっとぐらい照れてみせないと、はしたないと思われてしまうかもしれない。

 それらしい解は頭をぐるぐる回るものの、どれもさやかには恥ずかしくてできそうになかった。

 ――だ、だって、冬枝さんとそん、そんなことに…!?

 いや、今までにもそういう雰囲気になったことがなかったわけではない。大抵は健全なふれあいに着地したが、目の前にある楽園は、不健全な選択しか許してくれない。

 考えれば考えるほど胸が高鳴って、さやかは頭が働かなくなっていった。

 ――冬枝さんがイヤってわけじゃない!イヤってわけじゃないけど…!

 冬枝のことは好きだ。多分、これまでに好きになった誰よりも好きだ。冬枝とだったらそういう関係になってもいいと、想像の中では思っていたのに。

 ――どうしよう、何もできない!

 現実のさやかは、ガチガチに固まって動けない。自分が誰なのか、どこにいるのか、何をしようとしているのか、それすらさっぱり分からない。

 強面のヤクザ相手の麻雀でだって、こんなに緊張したことはない。さやかは、自分が何もできない子供になってしまったようで、怖くなった。

 ――うわーん!学校のみんなは、あんなにあっさり大人の階段上ってたのに…!

 むしろ、男子とキスすらしたことのないさやかのほうが、葵山学院では少数派だったかもしれない。皆は一体、どうやってこの羞恥心を乗り越えてきたのだろう、とさやかは真剣に疑問になった。

「………」

 冬枝が、ぽつりと「源さん、行ったな」と呟いた。

「えっ?」

「俺たちも帰るぞ」

 そう言って、冬枝はカラフルな看板から踵を返した。

「あの……」

 さやかが訳も分からずにいると、冬枝はこちらに背を向けたまま答えた。

「今日は、源さんを追っかけてただけだ」

「えっ…」

「榊原さんから言われたんだよ。源さんが響子さんを口説いてるみたいだから、探ってきてくれって」

 冬枝の言葉の意味を理解するのに、時間がかかった。

 理解が頭に到達した瞬間、さやかは目の前が真っ暗になった。

 くらっと眩暈がしそうになるのを、さやかは必死で堪えた。

「じゃあ、今日は…そのために?」

「そうだ。こっちもデートっぽくしねえと、源さんに怪しまれるだろ」

 冬枝は、こちらも見ずにそう答えた。

 肩に羽織った冬枝のジャケットが、夜風になびく。さやかは、身体の芯から冷えていくような気がした。

 ――そっか。

 言われてみれば、おかしいと思っていたのだ。冬枝がやたらと源たちの様子を気にしていたことも、デパートの駐車場やレストランの前で、いきなりキスされたことも。

 目の前で燦然と輝く、『ムーンライト・パラダイス』に来たことも。

 ――ぜーんぶ、嘘だったんだ。

 怒りは湧かなかった。源と響子の仲が心配なのはさやかも同じだし、それなりに楽しい時間を過ごせた。良い思い出ができたと、心から思う。

 ――だから……僕は、平気だ。

 駐車場に吹く風が、さやかの足元をひやりと通り過ぎていった。

「ん?」

 車に乗り込もうとした冬枝が、こちらを振り返ってぎょっとした。

「お、おい。さやか」

「………」

 両眼から、大粒の涙が零れる。酔っているせいだなと、さやかは自分に言い聞かせた。

 後から後から涙が流れ落ちたが、さやかはそれを拭うことすらできなかった。

 さやかが泣いているのを見た途端、冬枝は、一転して低姿勢になった。

「悪かった、悪かったって。俺が全部悪いんだ」

「………」

「泣くなよ。泣かないでくれよ」

 同じことしか言えない冬枝もまた、酔っ払っているのかもしれない。シャブリをあんなに飲むからだ、とさやかは思った。

 ボタボタと落ちる涙が、無表情なアスファルトをとめどなく濡らしていった。



 何とかマークⅡに乗り込んだ冬枝は、ライターでタバコに火をつけた。

 ――苦い。

 タバコの味をもってしても、口の中に広がる苦味を誤魔化せない。さやかの大きな瞳が洪水みたいになっている様が、冬枝の胸を掻きむしる。

 ――こんなことなら、最初っから素直に謝れば良かった。

 今更ここにきて謝るのは男らしくない、などとハードボイルドぶったのが仇になった。というか、このデートの前に、さやかに事情を説明するべきだったのだ。

「おい」

 ハンドルを握りながら冬枝があれこれと後悔していると、助手席のさやかが低い声を出した。

 さやかが冬枝に対してタメ口を利くのは、かなり怒っている時である。冬枝は、思わず猫撫で声になった。

「ん?どうした」

「返せ。僕の腕時計」

「あ、ああ、そうだったな」

 冬枝は慌ててポケットを探ると、さやかに腕時計を手渡した。

「……」

 さやかはそれをひったくるように受け取り、持っていたバッグに押し込んだ。

 ついでに、さやかは髪を留めていたバレッタも、耳を飾っていたイヤリングも、むしるようにして外した。明らかに、冬枝に対する当てこすりだ。

 ――だが、それを責める権利は俺にはねえ。

 対向車のライトが、一瞬だけさやかの顔を照らす。その頬に残る涙の跡を見れば、冬枝に言えることは何もなかった。

「………」

 さやかは、一言も喋らない。怒りよりも悲しみが勝ったゆえの沈黙だと分かっているから、冬枝も辛い。

 ものすごく辛いが、冬枝は心のどこかで安堵していた。

 ――これで良かったんだ。

 もしも源と響子が『ムーンライト・パラダイス』に入っていたら、冬枝もさやかを連れて突入しなければならなかった。そうなればホテルの中で源とドンパチするか、ホテルの部屋という密室空間でさやかを相手に理性を戦わせるか、最悪の二択だった。

 ――多分、ダメだった。

 多分、じゃなく、絶対だろう。源を止めることも、自分を止めることも、冬枝には不可能だった。

 兄貴分が振られたおかげで、冬枝もさやかと一線を越えずに済んだ。さやかを守れたのだから、これでいいのだと、冬枝はハンドルを握る手に力を込めた。



 翌日、さやかはキャバレー『ザナドゥー』にいた。

「こんな時間に、何のご用ですか」

 ――気晴らしに朝から打とうと思ってたのに、とんだ邪魔が入った…。

 朝食をとってすぐに雀荘『こまち』で打っていたところ、いきなりやって来た朽木に捕まったのだ。

 しかも、『ザナドゥー』に来たのはさやかだけではない。

「『ざなどー』ってどういう意味?さなづらの仲間?どこで区切るのが正解?ザ・ナドウ?ザナ・ドウ?ザナド・ウゥ~?」

「…『桃源郷』って意味ですよ、嵐さん」

 さやかが朽木に引っ張られてゆくのを見て、ちょうど『こまち』にいた嵐も無理矢理ついてきたのである。

 薄暗いカウンターで頬杖をついていた朽木が、露骨に顔をしかめた。

「俺様は麻雀小町に用があるだけであって、てめえは呼んでねえ。帰れ、春野嵐」

「やなこった!スケベ魔獣クチッキーが、朝っぱらからさやかを襲おうとしているのを見過ごすわけにいくもんか!」

「誰がスケベだ!こんな麻雀女、その気になる奴なんかいねぇよ!」

 朽木のいつもの暴言が、今日はグサリと刺さる。

 さやかは、うるさい男2人の狭間でうなだれた。

 ――僕はしょせん、ただの代打ちに過ぎないんだ。

 冬枝があんなに張り切ってデートに誘ってくれるなんて、よく考えたら不自然だった。最初から、源と響子を追うための作戦だと気付くべきだったのだ。勝手に舞い上がって、解を見失ったのはさやかのミスだ。

 ――冬枝さんからも、バカだなって思われちゃったかな。

 ホテルの前で泣かなければよかった、と今になって悔やむ。あれじゃ、期待してましたと白状したようなものだ。

 ――僕は、恋愛なんかしていい立場じゃないのに…。

 今年の1月に朱雀組4代目・秋津イサオが殺された事件で、朱雀組、そして敵対関係にある青龍会も動き出している。さやかもいずれ、事件の当事者として覚悟を決めなければならない時が来るだろう。

 今は、恋愛にうつつを抜かしている場合じゃない。さやかは、気持ちを何とか切り替えようとした。

「朽木さん。今日は何のご用ですか」

 子供のような口喧嘩を続ける朽木と嵐に負けじと、さやかが声を張り上げた時だった。

 薄暗い店内の奥から、もう一人の男が姿を現した。

「お前を呼んだのは私です。麻雀小町」

「…霜田さん!」

 グレーのダブルのスーツに身を包んだ霜田が、「フン」と言って眼鏡の縁を押し上げた。

「あ、パパ」

 嵐が呑気に手を振ると、「お前のパパじゃありません!」と霜田が遮った。

 霜田は、はあと溜息を吐いて眉間に指を当てた。

「…まさか、鈴子の結婚相手がこんなちゃらんぽらんだったとは」

「霜田さん、鈴子さんのことをご存知なんですか?」

 さやかが尋ねると、「昔、美佐緒の店にいましたから」と説明された。

「男の趣味が悪い娘だとは思っていましたが、よりによって、こんな雀ゴロと結婚するなんて。鳴子も、さぞかし嘆いていることでしょうね」

「ちょっとパパァ!それなら、クチッキーに言えよ!」

「んだと!?」

 また口論を始めようとした朽木と嵐に、霜田は「黙りなさい!」と怒鳴りつけた。

「それより、麻雀小町。昨夜は、源と響子のデートを尾行していたそうじゃないですか」

「…どうして、それを」

「私は白虎組若頭補佐です。若頭のことなら、何でも知っています」

「…そうですか」

 得意げに微笑む霜田から、さやかは顔を背けた。

 ――昨夜のデートは、榊原さんの差し金だったのか…。

 源と響子のデートを見張るなんて悪趣味な真似は、冬枝の本意ではなかっただろう。さやかは、何も知らずに浮かれていた昨日の自分がつくづく嫌になった。

「源清司……」

 霜田は表情を一転させて、「あの下衆男め…」と低い声で唸った。

「今更彩北に戻ってきたと思ったら、恥ずかしげもなく若頭の女に手を出すとは…。どこまでも忌々しい奴めッ!」

 霜田は腹立ち紛れにカウンターの椅子を蹴ったが、足の長さが足りず、勢い余ってたたらを踏んだ。

 霜田はちょっとよろめきながら、さやかを振り返った。

「麻雀小町。お前も、源のようなウジ虫が、響子に近寄るのは許せないでしょう?」

「いや、あの…ウジ虫とまでは思ってませんけど」

「いいえっ!源清司はこの世の悪、ウジ虫です!お前も、源のことは女の敵だと思いなさい!」

 源への嫌悪感をあらわにする霜田が、さやかは純粋に疑問になった。

「あの、どうしてそこまで源さんのことを…?」

 すると、横から朽木がさやかに耳打ちした。

「源って野郎はな、美佐緒姐さんに手を出したんだ」

「…えっ!?美佐緒さんに!?」

「ああ。姐さんが霜田さんと離婚した後の話だけどな」

 離婚した後なら、美佐緒が源とどうなろうと、霜田が口を挟む筋ではないだろう。理屈の上ではそう思うものの、さやかは霜田の気持ちも分からないではなかった。

 ――霜田さん、美佐緒さんのことを今でも大事にしてるみたいだし。

 それが分からない源ではないだろうに、どうしてわざわざ美佐緒にちょっかいをかけたりしたのか。さやかは、改めて源の女好きにうんざりした。

 ――結局、男の人ってみんなそうなのかな。

 女と遊ぶことなんて、レジャーの一つに過ぎないのかもしれない。いや、女の側だって、きっとそうだ。ぐじぐじ悩む自分がおかしいのだろうと、さやかは思った。

「でも、ナルシー源は響子ちゃんにフラれたみたいっスよ、パパ」

 そこで口を挟んだのは、嵐だった。よく見れば、カウンターにあったスナック菓子を、勝手にポリポリ食べている。

「嵐さん、どうして分かるんですか?」

「ナルシー源から聞いたんだよ。フラれちゃったよ、エーンって」

「源さんから…?」

 源と嵐とは、いつからそんなに親しくなったのだろうか。鈴子を巡って嵐が源に対抗心を抱いていたこともあっただけに、さやかは不思議に思った。

 霜田は「当然です」と言って、鼻から息を抜いた。

「響子にふさわしいのは、若頭のように品行方正な男です。源みたいな薄汚いハイエナ、フラれて当然」

「それで、源さんと響子さんのことで、僕に何か…?」

 霜田が源を憎む理由は分かったものの、さやかには、一向に話が読めてこない。

 そこでようやく、霜田が本題を明かした。

「麻雀小町。お前には、源を響子から引き離してもらいたい」

「えっ…?…僕が…?」

 霜田はさやかに顔を近寄せた。

「噂によると、お前も相当、源と親しいそうじゃないですか」

「まあ、そうですけど」

「この際、冬枝のような貧乏神から、源に乗り換えてはどうです?あの男、顔は二枚目ですし、お前だって嫌いなタイプじゃないでしょう」

「はあ…」

 昨日のホテルでの冬枝との会話が頭をよぎり、さやかは気が重くなった。

 ――僕のことなんか、源さんだって本気で相手にしないと思うけど。

 響子や美佐緒のような大人の美女たちを相手にしてきた源にとって、さやかなんて女のうちにも入らないだろう。

 さやかが上の空なのを察したのか、霜田は眉間に皺を寄せた。

「…分かりました。命令を変えましょう。麻雀小町、麻雀で源をブッ倒しなさい。こちらが勝ったら源は響子と別れる、という条件です」

「やります」

 すぐに真剣な顔つきになったさやかを、嵐が横から「おいおい」と引き寄せた。

「さやか、よく考えろよ。源さんがそんな条件の勝負、受けるわけねえだろ」

「じゃあ……僕が負けたら、僕が源さんの彼女になります」

「何言ってんだよ!そんなの聞いたら、ダンディ冬枝が泣いちゃうぞ!」

 冬枝の名を出され、さやかの表情にふっと影が差した。

「冬枝さんは気にしませんよ。どうせ」

「お前、なんかやさぐれてない?」

「気のせいです」

 とはいえ、確かに源がさやかとの勝負を引き受ける確率は低い。考えているうちに、さやかも正気に戻った。

 ――そもそも、麻雀で人の恋愛をどうこうするってこと自体、間違いじゃないかな…。

 そこで、カウンターの近くにある電話が鳴った。

 すかさず、霜田が受話器を取った。

「はい、『ザナドゥー』霜田です」

 霜田が、「…なんですって!?」と声を上げたため、その場にいる全員が霜田に注目した。

「分かりました。すぐに手配します」

 短い電話を終えた霜田は、驚きながらもニヤリと笑って告げた。

「喜びなさい、麻雀小町。源と対決できますよ」

「えっ」

「今しがた、若頭と源の麻雀勝負が決まりました。あの下衆男、わざわざ事務所まで乗り込んできたそうです」

 思わぬ事の成り行きに、さやかも嵐も顔を見合わせた。

 ――源さんと榊原さんが、勝負…!?



 それは遡ることおよそ30分前、白虎組事務所でのことである。

「…そうか。ご苦労だったな、冬枝」

 執務室で昨夜のことの次第を聞いた榊原は、重々しく頷いた。

 榊原の表情が思いのほか暗いのを見て、冬枝はちょっと慌てた。

「大丈夫ですよ、榊原さん。響子さんはレストランでもそんなに乗り気じゃなかったみたいだし、源さんだって、嫌がる相手に無理強いなんかしません。2人の仲は、放っときゃ自然にどうにかなるでしょう」

 実際、源と響子は『ムーンライト・パラダイス』には入らず、Uターンしていった。その後、源が響子を自宅まで送り届け、自身も帰宅したことを冬枝は確認している。

 だが、榊原の表情は晴れなかった。

「どうだろうな…」

「そんなに心配ですか?」

 兄貴分の名誉のために「失礼な!」と憤慨したい気持ちはあるものの、源の女好きは冬枝が一番よく知っている。

 しかも、続く榊原の言葉を聞いたら、源を弁護する言い訳は思いつかなくなった。

「源の奴、淑恵としょっちゅう会ってるみたいなんだ。それも、夜中に」

「淑恵さんと?」

 源が昔の未練を引きずっていることは、冬枝も知っている。それで夜に2人で逢っているとなったら、もうクロとしか思えなかった。

 ――源さん、なんでそう見境がねえんだ、あんたは…!

 源に妻である淑恵、さらには愛人である響子にまで接近されたら、榊原が心穏やかではいられないのは当然だ。冬枝は、兄貴分の醜態に顔を上げられなくなった。

 榊原は、ぎりっと音を立てて拳を握った。

「ここまでされて、黙ってるわけにはいかねえ。源と、ケリをつける」

「それって、どういう…」

 冬枝が言いかけたところで、執務室の扉がバンと開かれた。

 ――この気配は!

 冬枝の背筋を、串刺しにするような殺気が走る。冬枝は、振り返るまでもなく来訪者の正体を悟った。

「俺もちょうど、同じことを考えてたところだ。榊原」

「源さん!」

 事務所にやって来た不埒者を捕えようとしたのだろう、榊原の親衛隊が何人も源にしがみついていたが、源の腕から力なく振り落とされた。

 源の足元に重なる組員たちの屍に、冬枝は空いた口が塞がらなかった。

 ――何してくれちゃってんだよ、あんた…!

 これでは、完全に榊原に喧嘩を売っているようなものだ。いや、宣戦布告と言ってもいい。

「……」

 榊原が、すっくと椅子から立ち上がった。

「源。ここに来たってことは、響子から手を引く気はないんだな」

「響子はてめえの所有物じゃねえ。淑恵もな」

 愛妻の名を出され、榊原の目つきが険しくなった。

「悪いが、俺はお前を信用できねえ。どういう意味か、分かるだろ」

「そのセリフ、そっくりそのままお返しするぜ。淑恵と響子を天秤にかけたのはてめえだ」

 源も榊原も、互いに一歩も譲る気配がない。間に挟まれた冬枝は、たまったものじゃなかった。

 ――あっちゃー…。

 火花散らす睨み合いの後、源から提案があった。

「ここでケンカしたって、埒が明かねえ。麻雀で決める」

「麻雀で?」

「俺とてめえ、どっちに理があるか。お天道様に決めてもらおうじゃねえか」

 榊原は少し逡巡していたが、「いいだろう」と了承した。

「俺が勝ったら、響子にはもう会わないでもらう。それでいいな」

「ああ。ただし、てめえが負けたら、響子にはてめえの愛人を辞めてもらう」

「…それは、響子が自分で決めることだ」

 榊原の言葉に、源はフンと皮肉げな笑みを浮かべた。

「響子に決める権利があれば、の話だがな」

「何?」

「源さん、ちょっと」

 たまらず、冬枝が横から袖を引くと、源からは冷たい眼差しが返って来た。

「冬枝。てめえも他人事じゃねえぞ」

「えっ?」

「榊原はどうせ、さやかを代打ちに立てるつもりだろ。こんな身内の話、古参の代打ちの前じゃ出来やしねえ」

「うっ……」

 響子と親しいさやかなら、今回の勝負には適任だ。冬枝は、厄介な事態になったことを悟った。

 ――昨日の今日で、さやかに勝負をさせるなんて…。

 さやかとは今朝、朝食で顔を合わせたものの、一言も口を利かなかった。冬枝としても、さやかのことはしばらくそっとしておきたかったのだが、そうもいかなくなってしまった。

 榊原は、源をじっと見据えて言った。

「さやかには、メンツ合わせのために出てもらう。お前とは、俺が直接打つ」

「榊原さんが…!?」

 驚く冬枝をよそに、源は表情を変えず「望むところだ」と応じた。

 18年前、淑恵を巡って争った榊原と源が、今度は響子をかけて、直接争うというのだ。

 ――とんでもねえことになっちまった……。

 冬枝とて、途方に暮れている場合ではない。すぐにさやかに連絡し、勝負の打ち合わせをしなければならなかった。



 さやかが『ザナドゥー』から出ると、意外な人物が待ち受けていた。

「こんにちは。さやかさん」

「ミノルさん!どうして、ここに?」

 朝の繁華街を背に、ボルドーレッドのダブルのスーツに身を包んだミノルが微笑んでいた。

 ミノルは、片手で中折れ帽を軽く押さえた。

「何やら、雲行きが怪しいようなので……老婆心ながら、君に一つ忠告をしておこうと思いまして」

「忠告?」

 もしや、ミノルは既に白虎組若頭・榊原と源との諍いを知っているのだろうか。長い銀色の前髪から覗く眼差しは、さやかには見えない情報をも掴んでいるように見えた。

 ミノルは一歩、さやかに近寄ると、その耳元で囁いた。

「君のすぐ傍に、裏切り者がいます」

「……!?」

 驚くさやかに、ミノルは続けて告げた。

「悪魔はいつも、天使のような微笑みを浮かべているものです。そして、君の大切なものを奪い去っていく……。どうか、お気をつけて」

 ミノルの声は穏やかだったが、さやかの胸に戦慄と共に深い響きを残した。

「では、僕はこれで」

 そのまま、ミノルは側近の栗林と共に、すたすたと去って行ってしまった。

 静まり返った『ザナドゥー』の前で、さやかは一人、立ち尽くした。

「………」

 ――裏切り者って…一体…?

 雷に打たれたような衝撃で、さやかはしばらくその場から動けなかった。



 一方、モーリスの運転席に座った栗林が、後部座席のミノルを窺った。

「ミノルさん。どうしてあんな忠告を…?」

「ふふ…。言ったでしょう、ただの老婆心ですよ」

 ミノルはシートに深く腰掛け、ゆっくりと瞳を閉じた。

「今の状況は少し、フェアじゃないと思いましてね。か弱い女の子があっけなく騙されるのを見過ごすなんて、後味が悪いじゃないですか」

「はあ」

 栗林は釈然としない様子だったが、黙ってエンジンをかけた。

 ミノルの瞼の裏側に、さやかの呆然とした表情が浮かぶ。あの様子では、『裏切り者』が誰なのか、まだ知らないのだろう。

「尤も、彼女には何も出来ないでしょう。かの裏切り者に気付くには、彼女は純粋すぎる」

 それに対し、『裏切り者』は海千山千の強者だ。ミノルですら『裏切り者』を出し抜くのは難しい。到底、さやかでは太刀打ちできまい。

 ――親切というより、ちょっと意地悪だったかもしれませんね。フフ…。

 モーリスはそのまま停まることなく、どこへともなく走り去っていった。



 響子を巡る対決は、榊原とさやか、源とその連れの4人で打つことになった。

「源さんが一体、誰を連れてくるのか分からないが……あの人の腕前なら、一人でも十分だろう」

 冬枝は『こまち』の喫茶スペースで、さやかと膝を詰めて話し合った。

 さやかは指を口元に添えて、考えるような様子だった。

「響子さんは今度の勝負、了承したんですか」

「逆らえるわけねえだろ。榊原さんが決めたことなんだから」

「………」

 さやかの反抗的な目つきを見て、冬枝は「あっ」とその意を察した。

「お前、わざと負けようとか考えるなよ。そんなことしたら、俺の首が飛んじまう」

「…分かってますよ。源さんに響子さんを明け渡すなんてのも、嫌ですし」

 何やら、源に対するさやかの口ぶりは刺々しい。冬枝は首を傾げた。

「さやか。お前、どっちの味方なんだ?」

「どっちの味方でもありません。榊原さんには淑恵さんがいますし、源さんは、美佐緒さんにまで手を出すような人だって聞いちゃいましたから。僕としては、どちらも応援したくありません」

「えっ!?源さんが美佐緒さんと…!?」

 冬枝は初耳だったが、なくはない話だった。源と美佐緒は昔から交流があったし、スタイルが良くて美人な美佐緒が離婚して、フリーになったのを見逃す源ではない。

 そこで冬枝は、ようやく合点がいったことがあった。

 ――どうりで、霜田さんから目の敵にされるわけだ。

 さやかを代打ちに迎えた時といい、霜田からの風当たりが妙に強かったのは、霜田が冬枝の頭越しに源を見ていたからだったのだ。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、源が憎ければその弟分である冬枝のことも憎たらしいというわけで、全ては源のせいだったわけである。

 ――あの人、どんだけ揉め事起こしゃ気が済むんだよ…。

「それより、冬枝さん」

「ん?なんだ」

「源さん、何だか最近、変じゃないですか?」

 さやかの質問に、冬枝は目をぱちぱちさせた。

「あの人が女狂いなのは、今に始まったことじゃねえだろ。ありゃ病気だ」

「いえ、そうじゃなくて…。響子さんのこと、こんな性急に勝負なんか持ちかけるの、源さんらしくない気がして」

 何も榊原に喧嘩を売らなくても、こっそり響子と関係を深めることだって、源には出来るだろう。むしろ、榊原に気付かれないまま、響子の心を奪ってしまうほうが、源の本領なのではないか。

 それに比べたら、麻雀勝負なんてギャンブルに恋の行方を託してしまうなんて、源の本来のやり方からは外れているような気がした。

「そりゃ、榊原さんが相手だから、ムキになってんじゃねえか?惚れた女が2人連続で榊原さんのコレだったんだから、源さんも手段を選んでられねえんだろ」

 冬枝の言う通り、源は榊原に対して並々ならぬライバル意識を抱いているのだろう。だが、それにしても強引さを感じるのだ。

 特にさやかが引っかかったのは、昨夜のデートでのことだった。

「冬枝さん。レストランで源さんが弾いてた曲、覚えてますか?」

「ああ、源さんがピアノで弾いてた曲か。覚えてるも何も、俺には何の曲だか分からねえよ。聞いたことはある気がするが」

 さやかは「あれは、ショパンの『別れの曲』です」と答えた。

「人気の曲ですけど、これから響子さんをオトそうって考えてる人には、あまり相応しくない曲じゃないでしょうか」

「確かに…」

 しかし、冬枝はそれでもピンとこないようだ。

「淑恵さんから教わったって言ってたから、淑恵さんからのメッセージじゃねえか?いい年こいて若い女の尻を追っかけるのはやめろ、っていう」

「うーん…。その可能性も、否定はできませんけど」

 今の源は、焦っているように見える。だが、源がそこまで急ぐ理由が、さやかには分からない。

 ――僕の思い過ごしか。

 人妻である淑恵や鈴子のことまで口説くような男だし、過去には美佐緒とも関係を持ったぐらいだ。源は、確実に響子を手に入れるために、榊原と決着をつけたいだけなのかもしれない。

 そこでさやかはふと、目の前の冬枝を見た。

「どっちの味方だ、って言いますけど…そう言う冬枝さんは、榊原さんと源さん、どちらの味方なんですか?」

「ああ?そりゃあ…」

 源は若い頃から世話になった兄貴分だが、今、冬枝の後ろ盾になっているのは榊原だ。冬枝は板挟みになった身の上だが、正直な感想を言ってしまえば、単純だった。

「どっちでもいい」

「冬枝さん…」

 さやかから呆れるような目つきを向けられたが、冬枝は「だってよ」と言った。

「響子さんも響子さんだろ。どっちにも気を持たせるような素振り見せるから、こんなややこしいことになるんだ」

「響子さんのせいにするんですか?」

 さやかが思わず「最低」と吐き捨てると、冬枝が目を吊り上げた。

「なんだよ。男が女にちょっかいかけるのは許せねえが、女が男に二股かけるのはいいってのか」

「そうじゃありません。響子さんの立場を考えたら、強く断れないでしょう」

 実際、響子は葛藤しているのだろう。榊原への想いは報われず、源の優しさを拒むこともできない。2人の間で迷うのは、誰も信じられない響子の不安の表れでもある。

 ――今度の勝負で、響子さんが苦しむようなことにならないといいけど。

 さやかの心配とは裏腹に、さやかの前にいる43歳のオジサンは、まるでデリカシーがなかった。

「そーかいそーかい、モテる女は大変ってわけか。モテねえお前にゃ縁のねえ話だな」

「え?」

 さやかが瞳を見開いたのを見て、冬枝はハッとした。

 ――しまった!

 昨日の今日でこの発言は、ジョークにならない。ラブホテルの前でさやかを振ったのは、他ならぬ冬枝自身である。

 案の定で、さやかの顔からフッと表情が消えた。

「…僕は、代打ちですから。ちゃんと、榊原さんが勝てるようにサポートしますよ」

「あっ、うん…」

「じゃあ、また夜に」

 素っ気なく言うと、さやかは飲みかけのコーヒーを残したまま、『こまち』を出て行ってしまった。

 ――やっちまった…。

 冬枝は、50絡みのオッサン2人の下らない勝負に、さやかが巻き込まれるのが嫌なだけだ。響子がどうとか、さやかがモテないとか、そんなことを言いたかったわけじゃなかったのだ。

 冬枝は、『こまち』の天井を仰いだ。

 ――畜生、全部源さんのせいだ!



 プレリュードの助手席で、響子は驚いて聞き返した。

「若頭と源さんが…勝負するんですか?」

「ああ。俺が勝ったら、源にはもうお前に近付くなと言うつもりだ」

 運転席の榊原は、タバコを深々と吸った。

「響子。昨日、源と逢ったんだってな」

「…もしかして、夏目さんたちに尾行させてたんですか」

 昨夜、レストランでちょうど後ろの席にさやかと冬枝がいたのは、偶然とは思えなかった。さやかはともかく、冬枝はかなり挙動不審だったため、響子も気になっていたのだ。

「はは。やっぱりあいつら、バレてたか」

 ちょっと笑ってから、榊原は真剣な目付きになった。

「余計な世話なのは、百も承知だ。だが、源だけは駄目なんだ」

「若頭は…どうして、そこまで源さんのことを?」

 やはり昔、淑恵を巡って争ったライバルだからだろうか。そう思うと響子は少し複雑な気がしたが、榊原の横顔には苦渋の色が滲んでいた。

「今は言えねえが…とにかく、源はやめてくれ。頼む」

「若頭…」

 深刻そうな榊原の様子を見て、響子の胸に再び、暗い喜びが満ちていった。

 ――若頭が、私のために苦しんでいる……。

 源と逢ったことで、榊原を心配させている。そして榊原は、響子のために源と勝負しようとまでしている。

 ――今だけは、私の若頭だわ。

 今、榊原の胸にいるのは淑恵ではない。ヒロインの座は、響子のものだ。

「今度の勝負、響子が嫌ならやめてもいい」

 榊原は、ぽつりと言った。

「源に言われちまったんだ。俺相手に、響子に拒否権があるのかって」

「源さんが…」

 ――あの人らしいわね。

 源はとことん、響子の意志を尊重してくれる。きっと、響子が求めるべき相手は、榊原ではなく源なのだろう。

 ――だけど…。

 響子は、膝の上に置いた自分の手に目を落とした。爪を彩るターコイズは、榊原が贈ってくれたマニキュアの色だった。

「だから、響子の正直な気持ちを聞かせて欲しいんだ。俺たちが争うことでお前に迷惑がかかるなら、源にどうこう言うのは止す」

 潔くそう言った榊原に、響子も真っ直ぐに答えた。

「私は、若頭にお任せします」

「響子…」

「私は、誰よりも若頭を尊敬しています。どうか、源さんに勝ってください」

 響子が頭を垂れると、榊原がそっと手を握った。

「…分かった。必ず、お前を守る」

「はい」

 榊原の大きな手が、温かい。この瞬間が永遠に続けばいいのにと、響子は思った。



 閉店後の雀荘『こまち』に、男たちが集まった。

 今夜の卓を囲むメンツ4人が勢揃いしたところで、『こまち』のオーナーでもある冬枝が声を上げた。

「おい。なんでお前がいるんだよ、嵐」

「へっへーん。神出鬼没のワイルド嵐クンでーす」

 おなじみのヒゲ面もピンクの革ジャンもいつも通りに、嵐は得意げに胸を張った。

「今日は、ナルシー源に助太刀することにしたのだ!打倒、風林火山!」

 嵐にビシッと指さされ、榊原が顔を強張らせた。

「そうか。源の連れはこの坊主か」

「ああ。こう見えてもこの春野嵐って奴は、さやかに全戦全勝してるからな」

「そうなのか?」

 榊原に驚かれ、隣にいたさやかが眉間を寄せた。

「…そうです。嵐は強いです」

「ちょっと、源さん。榊原さんの前でそんなこと言わなくてもいいじゃないですか」

 思わず冬枝が前に出たが、源は眉一つ動かさなかった。

「俺は事実を述べたまでだ。いいのか?榊原。さやかに打たせて」

 さやかは嵐に勝ったことがないんだぞ、とまで言う源に、冬枝は違和感を覚えた。

 ――確かにさやかの言ってた通り、源さん、なんかおかしいぞ。

 いつもの源なら、さやかを追い詰めるようなことは言わないはずだ。いくら響子との関係がかかっているとはいえ、今の源は何かが違う気がした。

 一方、榊原は源の挑発に対し「構わねえ」と答えた。

「俺は、さやかの腕前を信頼してる。白虎組の代打ちを舐めるんじゃねえ、源」

「榊原さん…」

 きっぱりと庇ってくれた榊原に、さやかはちょっと感動した。

 ――今夜の勝負、あまり気が進まなかったけど……やっぱり、頑張らなきゃ!

 卓に着いたからには、不倫だの歳の差だのは関係ない。さやかはただ、目の前の牌から解を見つけ出すだけだ。

 4人が席に着くと、榊原が勝負の条件を確認した。

「俺たちが勝ったら、源はもう響子に言い寄らない。源が勝ったら、俺はもうお前と響子の仲を邪魔しない。それでいいな」

「ああ」

 源が頷き、嵐も「ガッテン承知の助!」と敬礼のポーズを取った。

「……」

 響子自身は、卓から少し離れた喫茶スペースから、対決を見守る形となった。

 こうして、真夜中の雀荘『こまち』で、勝負は静かに幕を開いた。



 東場が終わり、一旦、休憩となった。

「………」

「………」

 源と榊原は、黙ってタバコに火をつけた。

 対局中から、2人共ほとんど喋らなかった。勝負中に無駄口を利かないところも、この2人は似ている。

『こまち』のマスター・中尾がうやうやしく双方にコーヒーを運ぶ中、冬枝は一人腕を組んだ。

 ――こりゃ、思ってもみない展開になったな。

 源の言った通り、嵐は手強い。その上、源自身も強いとあっては、榊原とさやかの不利は明らかだった。

 ところが、冬枝の予想に反して、東場のトップを飾ったのは榊原だった。源が響子に近寄るのを許さない、という榊原の戦意に応えるかのように、次から次へと役が仕上がっていったのだ。

 榊原の引きの良さに、さやかの的確なアシストがピタリとハマった。榊原は適切なタイミングでリーチし、最良の形で和了る、という展開を繰り返したのだった。

 ――榊原さんが勝って、嬉しいような、複雑なような…。

 響子を巡る諍いにはまるで興味がない冬枝だが、兄貴分がこのまま負けてしまうのは少し居たたまれない。冬枝は、ちらりと源のほうを見やった。

「………」

 タバコを吸う源は、微塵も負けている雰囲気など漂わせていない。女と逢っている時でさえ、ほとんど笑わぬ鉄面皮の男は、勝負中でも一切表情を変えなかった。

 ――それはいいとして、問題はあいつだな…。

 不気味なのは、これまた黙ってタバコをふかしている嵐だ。源のことを『ナルシー源』、榊原のことを『風林火山』などと呼んで憚らないこのお祭り男が、今夜の勝負でこんなに神妙にしているのはおかしい。

 恐らく、さやかも嵐の沈黙を不審に感じているはずだ。これまで、嵐に一番手玉に取られてきたのはさやかだからだ。

 実際、榊原にもさやかにも、勝者の余裕みたいなものは一切ない。むしろ、源たちより表情は硬い。

「榊原さん。ちょっと」

 冬枝は榊原に声をかけ、さやかも連れて3人でスタッフルームに入った。

「あいつら相手に、こんなにすんなり勝てるのはおかしい」

 開口一番、榊原は正直な感想を打ち明けた。さやかも続く。

「僕も同意見です。まるで、わざと勝たされているみたいで」

「じゃあ、東場でこっちを調子に乗らせておいて、南場で引っ繰り返すつもりか、奴ら」

 ありそうな話だ、と冬枝は思った。

 自信家で、しかも榊原に対して長年のライバル意識を持ってきた源のことだ。南場で華々しい逆転劇を演じ、榊原の吠え面を存分に堪能しようという肚だろう。

 榊原も、冬枝の仮説に同意した。

「源らしいな。だが、あいつらが何を仕掛けてこようと、こっちは正面から勝つ。いいな、嬢ちゃん」

「はい…」

 頷くさやかが何か別のことを考えているのを察して、冬枝は声をかけた。

「さやか。何か、引っかかってることでもあるのか」

「あ、いえ…大したことじゃないんですけど」

 さやかは、源の態度に何とも言えないちぐはぐさを感じていた。

「源さん、自ら組事務所に乗り込むなんて暴挙に出たのに、東場でゆっくり勝ちを譲る、というのはちょっと不自然じゃないでしょうか」

「そうか?それも含めて、源さんの悪だくみなんじゃねえのか」

「悪だくみって…」

 仮にも兄貴分に対して全く遠慮のない冬枝の物言いにちょっと苦笑してから、さやかは表情を改めた。

「源さんは今夜の勝負、本気なんだと僕は思っています。だって、この勝負でかかっているのはお金や物じゃなくて、響子さんとの関係なんですから。そんな真剣勝負で手を抜くなんてこと、あり得るでしょうか」

「確かに…」

 源が響子のことに本気なのは、組事務所での睨み合いでも伝わってきた。殺気すら漂わせていた源が、自作自演の逆転劇で格好つける、なんて余計な真似をするとは思えない。

「だとしたら…何のために、俺たちにわざと勝たせるんだ?」

 榊原の問いに、さやかは「僕の推測ですが」と前置きしてから答えた。

「源さんたちは、麻雀勝負そのものではなく、別の部分で仕掛けてくるつもりじゃないでしょうか」

「別の部分?」

「まさか、停電でも起こして襲って来るつもりか。響子をさらうとか」

 榊原の予想に、さやかは「はい」と頷いた。

「そもそも、麻雀勝負に女性との関係を委ねること自体、源さんらしくありません。パートナーに嵐を選んだのは、そういう立ち回りに長けているからじゃないでしょうか」

 つまり、源と嵐は、この対局中に何かを起こすつもりなのだ。今夜の勝負はその性質上、護衛もほとんどつけずに人払いをしている。何かあれば、源たちの独壇場を許してしまうだろう。

 榊原は、すぐに指示を出した。

「冬枝。ブレーカーと店の出入り口に人を回せ」

「はい」

 中尾に出入口、高根にブレーカー、土井に勝手口を見張らせ、冬枝自身は響子の傍につくことになった。

 ――確かに源さんなら、勝負中に女をさらうぐらいはやりかねねえ。

 冬枝たちが緊張する中、源と嵐は驚くほど落ち着き払っていた。

「作戦会議は終わったか。榊原」

「ああ。そっちはいいのか」

 源は淡々と「打ち合わせなら、とっくに済んでる」と答えた。

「じゃ、やりましょうか」

 嵐までもがいつもの軽口を叩くことなく、さっさと勝負を始めた。

「響子さん、気をつけてください。あいつら、何か企んでます」

 喫茶スペースに回った冬枝が小声で注意を促すと、響子は不安そうに頷いた。



 ところが、南場が始まって早々、異変が起こった。

「ううっ!」

 洗牌が終わったところで、突然、嵐が声を上げた。

 ――なんだ、なんだ?

 冬枝たちが思わず身構える中、嵐はわざとらしく腹を押さえた。

「嵐クン、ちょっとお腹が痛くなってきちゃった。せんせー、早退していいですかぁ?」

「早退って…」

 榊原は言葉を失っている。冬枝もさやかも、思わず顔を見合わせた。

 ――まさか、この勝負自体をお流れにするつもりか?

 とにかく、今まさに嵐たちは何かを仕掛けようとしている。冬枝たちが張り詰めていくのとは裏腹に、嵐は憎たらしいほどトボけた笑みで手を振った。

「ああ、勝負のことなら心配しないでください!こんなこともあろうかと、ちゃーんと代打ちを用意しておいたんで!」

「代打ち?」

 ますます、妙な成り行きだ。嵐自身がメンツ合わせのために呼ばれたようなものなのに、さらにその代打ちを用意していたとは。

 ――嵐の代打ちってのは、一体…。

「じゃ、俺は交代しまーす!」

 榊原の返事も待たず、嵐は駆け足で卓を離れてしまった。

「………」

 一同、呆気に取られていたが、ハッと我に返った榊原が源に確認した。

「源。どういうつもりだ」

「ただのアクシデントだ。イカサマなんかする気はねえから安心しろ」

 実際、まだ配牌も終わっていない段階のため、イカサマのしようがない。さやかはじっと卓に目を光らせていたが、源や嵐に怪しい素振りは見られなかった。

 ――でも、ただのアクシデントのわけがない。

 恐らく、東場で榊原とさやかに勝たせたのは、この時のためだ。そこまでは分かったが、まださやかには解が見えなかった。

「!」

 その時、『こまち』の扉が開いた。

 外からやって来た人物を見て――冬枝もさやかも、そして榊原も、唖然とした。

「淑恵……」

 たおやかに広がる長い髪を揺らして、淑恵は冬枝とさやかの双方に頭を下げた。

「こんばんは。冬枝さん、夏目さん」

「こ、こんばんは…」

 ぎこちなく挨拶を返す冬枝の隣では、響子が凍り付いている。

 ――まさか、愛人を巡る対決に奥さんを連れて来るなんて…。

 冬枝もさやかも、源と嵐の魂胆をはっきりと悟った。嵐は所詮、狂言回し、前座に過ぎなかったのだ。

「………」

 淑恵は響子に会釈をしてから、嵐がいた席に腰を下ろした。

「おい、淑恵。お前、何やってるんだ」

 呆然と問う榊原に、淑恵は穏やかに答えた。

「私が、嵐さんの代わりに打ちます」

「ええっ!?」

 榊原のみならず、さやかと冬枝にも驚きが走った。

 ――淑恵さんが、麻雀……?!

 白虎組の若頭の妻とはいえ、淑恵はテレビドラマで描かれるような、いわゆる『極妻』の類ではない。

 淑恵は国会議員・灘孝助の娘であり、お嬢様学校である聖天高校に通っていた頃のままに、お菓子作りとガーデニングを楽しむ優雅な奥様である。ヤニ臭い雀荘も薄汚れた雀卓も、清らかなミュゲの香りをまとった淑恵には全く似合わない。

「淑恵、お前、麻雀なんて打てるのか」

 戸惑いを隠せない様子の榊原に、淑恵はにっこりと説明した。

「実はね、最近、源さんに麻雀を教えてもらっていたの」

「源に…?」

 どうやら、『源と淑恵が頻繁に逢っている』というのは、ただ単に麻雀を教えてもらっていただけだったらしい。

「ホントにそれだけかよ…」

 兄貴分の性分をよく知る冬枝は、とてもじゃないが源が麻雀を教えるためだけに淑恵と逢っていたとは思えない。

 すると、冬枝の隣に座る響子が、ぽつりと呟いた。

「本当ですよ」

「えっ?」

 振り返った冬枝の目に映ったのは、悲しげに俯く響子の横顔だった。

「でも、何のために?淑恵が麻雀なんかすることないだろ」

 榊原の当然の問いに、淑恵はふっと寂しげな眼差しをした。

「あなたや響子さんと、同じ景色が見たかったの」

「………!」

 榊原の顔から、さーっと血の気が引いた。

「………」

 愕然としたのは、榊原だけではない。さやかもまた、一種の責任を感じていた。

 ――僕も、共犯者だ。

 いつでもさやかに優しく接してくれた淑恵だったが、麻雀の教えを乞うた相手はさやかではなかった。それが意味することを、さやかは重く受け止めていた。

 響子のマンションで、響子や榊原と楽しく打っている間、輪の外で傷付いている人がいたということ。

 忘れていたつもりはなかったが、さやかは自分がただ、共犯者の輪の内側で打っていたに過ぎないことが、どうしようもなく悔しかった。

 沈痛な面持ちの榊原とさやかを励ますように、淑恵がぱんと手を打った。

「さあ、始めましょう。これでも私、ちゃんと役は全部覚えたのよ」

 ね、と淑恵が振り返ると、源が「ああ」と頷いた。

「………」

 まだ配牌の途中だったが、榊原が苦渋の表情で告げた。

「止めだ。今夜の勝負はこれで終いだ」

「忍さん」

 淑恵が止めたが、榊原は首を横に振った。

「俺には、淑恵と勝負することなんてできねえ。嬢ちゃんも、そうだろ?」

「……はい」

 すっかり消沈しているさやかに、喫茶スペースから見ていた冬枝は気を揉んだ。

 ――やっぱり、こんな勝負にさやかを引っ張り込むんじゃなかった。

 これでは、不倫している榊原と響子のみならず、淑恵を慕っているさやかまで『淑恵の敵』のレッテルを貼られたようなものだ。こんなことなら、何だかんだと訳をつけて、さやかではなく自分が打てば良かった、と冬枝は後悔した。

 源は、そんなさやかと榊原にさらに厳しい目を向けた。

「終いってのは、なんだ。てめえの負けでいいってのか、榊原」

「……ああ。俺の負けでいい」

 榊原は、暗い目で源を睨んだ。

「だが、俺はお前が淑恵と会うのも、響子と会うのも許す気はねえ。それだけは、覚えておいてくれ」

「忍さん」

 淑恵がたしなめるように言ったが、榊原はじっと源を凝視していた。

「………」

 そこで、ずっと事態を静観していた響子が、すっくと立ち上がった。

「響子さん?」

 冬枝の声を無視して、響子は小走りで卓の前へと躍り出た。

 響子の登場に、さやかも榊原もハッとする。

 ――響子さん、いったい何を…!?

 ついに、淑恵と響子が直接、対峙してしまった。さやかも冬枝も、固唾を呑んで見守ることしかできない。

「若頭!私…」

 響子はわなわなと手を震わせながら、思い切ったように告白した。

「私、源さんに無理矢理迫られました」

「えっ!?」

「だから…私……」

 響子はそのまま、辛そうに口ごもった。

 榊原は勿論、淑恵もさやかも言葉を失った。

「………」

 名指しされた源だけが、常と変わらぬ真顔のままだった。

 しばし、場は水を打ったように静まり返った。

 やがて、榊原が、席から立ち上がって響子の肩をポンと叩いた。

「源。聞いた通りだ」

「………」

「響子はもう、お前と逢う気はねえ。今夜の勝負も無しだ。分かったな」

 意外な展開に呆気に取られていた冬枝が、そこで我に返った。

「ちょっと待ってください、榊原さん。源さんはそんなこと…」

「分かった」

 冬枝を遮るように言うと、源は椅子から立ち上がった。

 榊原の隣で蒼褪めている響子をちらりと見てから、源は背を向けた。

「じゃあな」

「源さん!」

 冬枝は追おうとしたが、源から鬱陶しそうに手を振られ、立ち止まった。

 バタン、と『こまち』の扉が閉まる。

 後には、蛍光灯に照らされた、寒々とした男女だけが残された。

 ――なんだよ、これ…。

 響子を巡る対決のはずが淑恵が現れ、榊原の敗北になるかと思いきや、響子の告白で全部うやむやになってしまった。

 淑恵が、静かに席から立ち上がった。

「忍さん。私は先に帰るわ」

「…そうか。車は?」

「外で待ってもらってます。響子さんのこと、ちゃんと送ってあげてくださいね」

 そう言う淑恵の表情は、どこまでも優しい。

 榊原は痛みを堪えるように目を細めてから、「ああ」と頷いた。

「………」

 響子は誰とも目を合わせず、ただ俯いていた。

「夏目さん」

 淑恵に声をかけられ、さやかがハッとして顔を上げた。

「淑恵さん…」

「今夜は、お邪魔してしまってごめんなさい。夏目さんも、気をつけて帰ってね」

 そっと手を握られ、さやかはようやく、呪縛から解けたかのように力が抜けた。

 波乱の一夜は、互いに気まずさだけを残して幕切れとなった。



 翌朝、冬枝たちは源のバー『せせらぎ』に集合した。

「何なんですか、響子さんは。あんたに無理矢理迫られた、なんてばしこいて」

 怒りが収まらないとばかりにカウンターをばんばん叩く冬枝に、嵐が椅子をくるりと回して振り返った。

「ナルシー源なら、ありえない話じゃないっスよ」

「おい、嵐!……まあ、俺もちょっとそう思ったが」

 冬枝の正直な発言に「ははは」と笑ってから、嵐はカウンターに頬杖をついた。

「いくら不倫若頭の愛人つったって、プライドがあるんでしょ。いい年こいたオッサン2人が自分を賭けて争うなんて、さぞかしいい気分だったべさ。それが、奥さん登場でヒロインの座を奪われた。せっかくのヒロイン気分をぶち壊しにされたもんだから、思わずばしこいちった、と」

「ぶち壊しにしたのはてめえだろ、嵐」

 まさか、源と嵐が淑恵を連れて来るなんて、冬枝たちも予想できなかった。榊原と響子は、さぞかし肝が冷えただろう。

 ――こいつら、趣味の悪いことしやがって。

 嵐たちの悪趣味の結果、響子が動揺してとんでもない嘘をついたのだ。冬枝は、つくづく後味が悪かった。

「………」

 冬枝と違って、さやかは、嵐のことも響子のことも責める気にはなれなかった。

「あなたや響子さんと、同じ景色が見たかったの」

 そう言った淑恵は、本気で榊原と響子に向き合おうとしたのだろう。だから源に麻雀を教えてもらい、自ら、勝負の場に出た。嵐は、淑恵の本気に応えたまでだ。

 ――だけど、響子さんにはそこまでの覚悟はできなかった。

 響子は、淑恵を目の前にした途端、榊原を振り向かせたい、榊原の関心を引き止めたいという気持ちで頭がいっぱいになってしまった。だから思わず、嘘を吐いてしまったのだ。

 きっと、榊原も源も、響子の嘘は分かっていた。バレると分かっていながら嘘を吐いた響子は、どれほど惨めだっただろう。

 ――源さんも、響子さんからあんな風に嘘を吐かれたら、流石に堪えただろうな。

 さやかがじっと源を見つめると、ボトルの整理をしていた源がくるりと振り向いた。

「さやか」

「は、はい」

「今日も可愛いな。冬枝はやめて、俺にしないか?」

 臆面もなく口説かれ、さやかはがくっと肩の力が抜けた。

 冬枝が、横からさやかを庇うようにして立ちはだかった。

「あんた、そんなんだから『無理矢理迫られた』とか言われるんですよ!ちったぁ凝りてください!」

「別にいいさ。女の嘘は許すもんだ」

 さらりと言う源に、さやかは思わず「いいんですか?」と言ってしまった。

 いくら源が見境のない女好きとはいえ、響子にはそれなりに紳士的に接してきたことは、さやかも知っている。響子自身、源の優しさを痛感していた様子だった。

 今回の響子の嘘は、いわば恩を仇で返したようなものだ。しかも、長年思いを寄せていた淑恵の前であんなことを言われたのだから、源が響子を責めたっておかしくない。

 だが、源は片目をつぶって楽しげに言った。

「これで貸しが一つできた。響子とまた逢う口実ができて、俺は嬉しいぐらいだ」

「……前向きですね、源さん」

 源のタフさに呆れると同時に、さやかはちょっとだけ感心した。

 ――源さん、響子さんのことがホントに好きなのかも。

 響子の嘘を許してしまえる源は、流石に度量が大きい。さやかは、先日の偽デートの件を根に持っていた自分が、小さく思えた。

 ――冬枝さんだって、僕を騙したくて騙したわけじゃないんだろうし…。

 ホテル『ムーンライト・パラダイス』の前で泣き出してしまったさやかを見て、冬枝は正直に謝ってくれた。

 冬枝の誠意を素直に受け止めたほうが、あの日のことを良い思い出にできるだろう。今なら、そう思えた。

 バー『せせらぎ』の前で嵐と別れ、冬枝と2人になったさやかは、道すがらに切り出した。

「冬枝さん」

「さやか」

 と、冬枝とバッチリ声が重なってしまい、2人で顔を見合わせた。

「あっ、すみません。お先にどうぞ」

「おう。お前こそいいのか」

「はい」

 冬枝はタバコをくわえて「こないだのデートだが」と切り出した。

「えっ…」

 冬枝のほうからその件を持ち出すとは思わず、さやかは目を瞬かせた。

 冬枝は、ふーっと深く煙を吐いた。

「…埋め合わせはする。今度はもっと、美味いもん食わせてやるからな」

 意外なことを言われ、さやかは呆気に取られてしまった。

「いいですよ、埋め合わせなんて。あれはあれで、結構楽しかったですから」

「あれはあれで、って何だよ」

 冬枝はちらっと目を逸らして、照れ臭そうに頭を掻きながら言った。

「…俺にだって、お前の彼氏面ぐらいさせろよ」

「冬枝さん…」

 嬉しさが、むず痒さとなってさやかのつま先から頭のてっぺんまで駆け抜ける。

 さやかは、照れ隠しにバッグで冬枝をバシッと叩いた。

「いてっ。何だよ、おい」

「べつに」

 さやかはたたっと小走りに駆けて、冬枝を追い抜いて前に出た。

「そういやお前、なんか言おうとしてなかったか。言えよ」

「べつに!」

 さやかはくるっと振り向くと、笑みを浮かべた。

「冬枝さんと、おんなじことを言おうと思ってただけです」

「……そうかよ」

 小さくスキップで跳ねるさやかの背を、冬枝は目を細めて見守った。



 実際、源の予言は当たった。

 冬枝が響子の嘘に息巻いた日の夕方に、その響子本人が『せせらぎ』を訪ねてきたのだ。

「ごめんなさい」

 開店前の人気のないカウンターの前で、響子は立ったまま頭を下げた。

「謝って許されることではないですけど…本当に、申し訳ないことをしました」

 ほっそりとした首筋に、翠がかった艶やかな髪がさらりと流れる。湖の畔に降り立った白鳥のような優美な姿に、源はしばし見惚れた。

「………」

 ――おっと、いけねえ。

 これでは、憤怒のあまり返事もできないのだと思われてしまう。源は、拭き終わったグラスを傍らに置いた。

「顔を上げてくれ、響子。俺は何も気にしてねえ」

「源さん…」

 面を上げた響子の、憂いを帯びた眼差しがまた何とも美しい。そして、響子の美しさはうわべだけではない。

 ――ただ綺麗なだけの女だったら、わざわざ嘘を謝りになんか来ないさ。

 女の嘘は可愛いものだ。源は心底そう思っているから、これまでに何度も女の嘘を許してきた。

 ついた嘘を謝る女がほとんどいないのも、源は当然だと思っていた。大概が弱さから出た嘘であれば、その弱さを謝罪するなんて、自分で自分を傷付けるようなものだろう。

 嘘をついても平然としている女は驕慢でそそられるし、ついた嘘を謝る勇気のない女は、守ってやりたい。嘘をつかれたぐらいで源は揺るがないから、謝ってもらわなくても構わなかったのだ。

 だが、今、源の前にいる女は、そのどちらでもなかった。源に許されることよりも、己の非を認め、詫びることを選んだ女だった。

「自分でも、どうしてあんな嘘を吐いてしまったのか分からなくて…。自分がここまで醜い人間だったなんて、知らなかった」

 自嘲するように言う響子に、源は首を横に振った。

「そんなこと、言わなくていい。響子に期待させる榊原が悪いんだ」

「でも…」

「響子が一番、後悔してるんだろ」

「…はい」

 頷く響子に、源は深い悲しみを見た。

 そもそも響子は、好んで嘘を吐く質の女ではない。真面目な響子の寂しさにつけ込み、自分から離れられなくさせたのは榊原の罪だ。

 それに――。

 源は、ふっと笑みを浮かべた。

「俺も嘘つきなのさ」

「源さんも…?」

「ああ。だから、俺に響子を責める権利なんかない」

 榊原がどうして、わざわざ冬枝に源たちの尾行をさせたのか。榊原が麻雀対決をしてまで源を響子から引き離そうとした本当の理由を、冬枝もさやかも、響子自身も知らないだろう。

 秋の夕暮れが、源たちの頭上にベールのように大きな影をかけた。


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