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45話 ムーンライト・パラダイス

第45話 ムーンライト・パラダイス


 マンションの4階は、星に手が届きそうなぐらい夜空が近い。

 夜風に揺れるカーテンの傍で、ガラスの灰皿が月光を映してキラリと輝く。尤も、近頃は灰皿の出番はない。

「娘に禁煙しろって言われてるんだ。完全にはやめられないけどな」

 そう言って笑う榊原は、娘への愛情に満ちていて、幸せそうだ。そんな榊原を見る度に、響子は思わずにはいられない。

 ――私が、本当に若頭の娘だったら良かったのに。

 榊原の話に出てくる娘たちのように、榊原から大切にされたい。愛されて、守られて、長い腕の中で安らぎたい。

 榊原は、響子にとって理想すぎるぐらいに理想の父親だった。その愛情を独占するためなら、どんなことでもしたいと思うぐらいに。

 ――だけど、私は愛人にすらなれない。

 白虎組の若頭を射止めた響子を、ホステス仲間は皆、羨ましいと冷やかす。

 だが、榊原が与えてくれたのは、このマンションの一室と自動卓、贅沢な暮らし、そして優しさだけだった。

 今夜だって、榊原は響子と一緒に酒とミックスナッツを口にしながら、他愛のない話だけをして、帰るだろう。妻――淑恵の待つ自宅へと。

 榊原は、ゆっくりとブランデーを口にした。

「この間は、大変だったよ。佳代ちゃんが街に来てるっていうのに、変な野郎が出て」

「私も、怖かったです。美佐緒ママが襲われたから」

 響子が務める店『パオラ』にも、ビンタ男が出現した。美佐緒はほとんど無傷だったが、響子たちホステスはいつビンタ男が出るかと、気が気ではなかった。

「そうだよな。響子に何もなくて良かった」

 榊原の眼差しが、温かく響子を包み込む。榊原が自分の無事を喜んでくれることが、この上なく響子の心を満たした。

「姪御さんは、無事に東京へお帰りになりましたか」

「ああ。俺は街のほうで忙しくて、聖天の運動会での佳代ちゃんの挨拶は見られなかったが…佳代ちゃんは立派にやったって、淑恵が言ってたよ」

 榊原は、知らないだろう。淑恵と娘たちが手伝いに来た聖天高校の運動会に、響子も行ったことを。淑恵に会って、何もかも終わりにするつもりだったことを。

 結局、それは叶わなかった。直前になって怖気づいたのは、淑恵があまりにも完璧な女だったからか。或いは、優しすぎる源のせいか。

 ――私、源さんに意地悪したのに。

 ストレートに好意を向けてくる源に、響子は「淑恵に会いたい」と告げた。かつて淑恵に片想いしていたという源を困らせてやるつもりだったが、源は二つ返事でOKした。

 響子が淑恵の幸福を壊そうとしたことも、それすらできずに逃げ帰ったことも、源は責めなかった。響子は、源に手すら握らせていないというのに、

 ――源さんだったら、この寂しさを埋めてくれるのかもしれないけれど。

 臆面もなく「俺じゃダメか」「俺のほうが榊原より背が1cm高い」「毎晩、響子の顔を見ながら寝て、毎朝、響子の顔を見ながら目覚めたい」などと口説いてくるとはいえ、響子は源のことが嫌いなわけではない。これまで響子に言い寄ってきた男たちと違って、源が本当に優しい男なのだということも、分かっている。

 そこで、榊原がコトリとグラスを置いた。

「なあ、響子」

「はい」

「変なことを聞くんだが……源と会ってるって、本当なのか?」

「えっ?」

 目を丸くする響子に、榊原は「美佐緒ちゃんが言ってたんだよ」と答えた。

「響子が最近、源から言い寄られてるみたいだって。そうなのか?」

「は……はい」

 源とのことを榊原にどう説明すべきか、響子は迷った。

 ――もう、美佐緒ママったら…。

 源の女好きをよく知っている美佐緒は、響子のことを心配して榊原に告げ口したのだろう。美佐緒の気持ちはありがたいが、源とのことを榊原に知られるのは気まずかった。

 榊原は、渋い顔つきでタバコに火をつけた。

「源は、悪い奴じゃないが……女のこととなると、見境がないんだよ。大丈夫か?」

「え、ええ…。源さんとは、お友達としてお付き合いさせていただいてます」

 そう答えつつも、響子は胸が高鳴るのを感じていた。

 ――若頭が、私のことを心配してくれてる。

 男としての嫉妬ではないと、頭では分かっている。榊原が響子に向けているのは所詮、父親が娘を心配するのと同じ感情に過ぎないのだと。

 それでも、榊原は今、響子に源が近寄るのを嫌がっている。それが、響子はたまらなく嬉しかった。

「確か、源は俺の1歳上だから……今年で51か。響子とは、二回りも違うじゃないか。何考えてるんだか、あいつ」

 まるで父親のようにぼやく榊原が、響子は愛おしくてならなかった。

 別れ際、榊原は響子に小さな箱を手渡した。

「そうだ、これ」

「えっ?」

「最近、忙しくて、会ってやれなかったからさ。ちょっとしたお詫びだよ」

 バラ色の包装紙を剥がすと、中から出てきたのはターコイズ色のマニキュアだった。

「綺麗。私、好きな色です」

 ボトルを掲げて眺める響子に、榊原も相好を崩した。

「良かった。響子みたいな若い娘に何をプレゼントしたらいいのか、俺じゃ分からなくってさ。女の店員さんに頼んで、一緒に選んでもらったんだ」

「まあ…」

 榊原は、長身を屈めて響子の顔を覗き込んだ。

「髪の長い、若くて美人な娘にあげるんです、って言っておいたぞ」

「ふふ、若頭ったら」

 こんなやり取りをしていると、本当に恋人同士みたいだ。響子は、手の中のネイルボトルが輝いて見えた。

「麻雀を打つ時にも、きっと目立つぞ。さやかが羨ましがるかもな」

 ――夏目さん…。

 さやかの名前を聞いて、響子はふと、運動会の日のことを思い出した。

「霜田さんの思惑があったにせよ、響子さんを選んだのは榊原さんです。響子さんが望む形じゃないかもしれないけど、響子さんだって榊原さんの幸せの一部だと…僕は思います」

 麻雀となれば誰よりも真剣で、それでいて、響子の胸に顔を埋めて無邪気に甘えたりもする。掛け値なしに響子と向き合ってくれるさやかに、響子もつい、胸の内をこぼしてしまった。

 ――夏目さんって、何だか妹みたいだから。

 さやかを心配させたくはないが、さやかを安心させられるような『解』はまだ出せそうにない。マニキュアから滲み出す幸福感は、今夜も響子を平穏から遠ざけていく。



 その頃、星空の下にこじんまりと構えた店――バー『せせらぎ』でも、2人の男女が会っていた。

 バーカウンターを拭きながら、この店の店主である源がおもむろに口を開いた。

「淑恵。そろそろ、独り身になる決心はついたか」

「あら。何の話かしら」

 淑恵は、アイスティーが注がれたグラスをカウンターに置いた。

「夫婦の幸せなんて、年月と共にすり減っていくもんさ。俺だったら、淑恵を世界一の女にしてやれるぜ」

「もう、源さん」

 淑恵は、困ったように眉を八の字に下げた。

「私は冗談だって分かっているからいいけれど、響子さんのことをそんな風に口説いてはダメよ。怖がらせてしまうわ」

「俺は本気だが……それより、どうして響子のことを?」

 すかさず「妬いてるのか?」と畳みかけようとする源を、淑恵は笑顔で制した。

「響子さんは綺麗な人だから……若い方たちの中にも、ファンがいるのよ。東京から来た背の高いおじさんに言い寄られてる、って噂をされるほどにね」

「榊原、若い奴の躾がなってねえな」

 榊原の護衛として響子との逢い引きについていくうちに、響子を慕うようになる若い衆もいるのだろう。そうした連中が、ビンタ男の騒動や佳代の護衛で頻繁に榊原邸に出入りするようになり、そこから響子と源のことが、淑恵の耳にも入ってしまったらしい。

 淑恵は、優しげな横顔を曇らせた。

「私、心配なのよ。源さんがまた、忍さんとケンカするんじゃないかって」

「俺とあいつが、仲良く肩組む日なんか来ねえさ」

「どうして?源さんと忍さん、年も1歳しか違わないし、気が合うと思うのだけれど」

「俺のほうが年上だからな」

 淑恵は「1歳だけね」と言ってくすくす笑った。

「とにかく、若い娘とは分別を持って付き合ってくださいね。響子さんは、真面目な方だっていうでしょう?源さんから露骨な誘われ方をしたら、気の毒だわ」

「信用されてねえな。同じセリフを、冬枝にも言ってやれ」

 淑恵はそこで、「冬枝さんは…」と言葉を詰まらせた。

 榊原邸で冬枝が散々、淑恵の姪である佳代と過剰なスキンシップを取っていたこととか、まだ幼くて生真面目そうな夏目さやかと同棲していることとかが、淑恵の頭をよぎる。

 淑恵は、思わずため息を吐いた。

「……冬枝さんは、昔と比べて穏やかになったと思っていたのだけれど」

「そうか。あいつの悪行は、淑恵の耳にも届いてたか」

「源さんの影響よ、きっと」

 淑恵は、昔の冬枝のことを思い出した。

 源にいつもこき使われていた、目つきの悪い青年。絵に描いたような不良で、兄貴分に負けず劣らず、女性関係が派手だった。

 当時、まだ高校生だった淑恵は、冬枝のことをちょっと怖い人、と思っていた。

 ――真面目な娘ほど、悪い男の人に弱いのは……今も昔も、変わらないのかしら?

 淑恵の結婚式の写真に映っていた冬枝の姿を、食い入るように見ていたさやかの姿が目に浮かぶ。恋する少女のひたむきな横顔は、淑恵の母心をむずむずさせたものだった。

 先日、淑恵と榊原がキャンドルホテルでデートした時も、さやかが榊原のために右往左往したことを淑恵は知っている。さやかも榊原も根が真面目だから、嘘をつくのが上手くない。

 ――私のことも、響子さんのことも、傷付けまいとしてくれたのよね、あの子は…。

 プールの更衣室でさやかの髪を乾かしてやった時、さやかのまだ幼さを残す丸っこい頭と髪の毛の感触に、淑恵は涙が出た。

 こんなに小さくて若い女の子が、身一つで裏社会を懸命に生きていることが、あまりにも健気で――淑恵は思わず、本音を口にしそうになった。

 ――もういいのよ、って。

 淑恵と榊原のために、さやかがそこまで必死にならなくてもいい。自分たちのワガママに付き合わせて、本当にごめんなさいと――その言葉は、淑恵の喉元まで出かかった。

 ――でも、ダメ。

 さやかはまだ、諦めていない。淑恵の幸せも響子の幸せも諦めたくないから、さやかはあんなに頑張ったのだ。ここで身を引くなんて、淑恵のために闘ってくれたさやかに失礼だ、と淑恵は思った。

「なあ、淑恵」

 ガントリーを整理する振りをして、源は敢えて淑恵のほうを見ずに尋ねた。

「響子のこと、どうするつもりだ」

「………」

 グラスの中の氷が、カランと溶ける音が響く。淑恵が苦しげな顔をしていることが、背を向けている源にも分かった。

 淑恵は、ぽつりと答えた。

「忍さんほどの立場なら、親しくしている女性がいるのは普通だわ」

「そういうの、淑恵は一番嫌いなんじゃなかったのか」

「……」

 国会議員である父・灘孝助の不倫を調べているうちに、淑恵は榊原と出会った。今でも父には複数の愛人がいることを、淑恵は知っている。

 源は、ワインボトルを置いて振り返った。

「淑恵の本音を聞かせてくれ。俺にできることなら、なんだって力を貸す」

「………」

 源もまた、さやかと同じく、淑恵と響子の双方のことを考えてくれているのだろう。板挟みになれば苦しい立場になるのに、そんなことはお構いなしだ。

 淑恵は、ふっと自嘲の笑みを浮かべた。

「分からないの」

「……」

「響子さんをどうしたいのか、忍さんに何を言えばいいのか……分からないから、困っているの」

 エメラルド色のブローチが、淑恵の胸元で悲しい光を放った。

「私、忍さんに嫌われるのが怖いの。結婚してもう20年も経つのに、おかしいわよね」

「おかしくなんかないさ。俺だって、この歳になっても、惚れた女に嫌われるのは怖い」

 源の労わるような言葉に、淑恵は頷いた。

「だから、響子さんにはもう逢わないで、とも、響子さんと仲良くしてね、とも言えないの。私、臆病だわ」

「…きっと、響子も同じことを考えてる」

「そうよね。私がはっきりしないと、響子さんのことも困らせてしまうわね」

「いや」

 源はきっぱりと言った。

「白黒つけるべきなのは、榊原の奴だ。俺の女を2人も困らせておいて、優柔不断は許せねえ」

「源さんのものじゃないわよ、私たち」

 淑恵は小さく笑ってから、「覚悟はできています」と言った。

「私たちが決められないなら、運を天に委ねるしかないわ。たとえどんな結果になっても、私は忍さんの選択に従います」

「そうか」

 源は「じゃ、俺は絶世の美女を一気に2人も手に入れられるわけだな」と真顔で言った。

 淑恵は、悪戯っぽく唇を尖らせた。

「あら、源さん。絶世の美女2人から、一気に振られる可能性もありますよ」

「3人かもしれねえな。麻雀小町は侮れねえ」

 そうね、と頷いて、淑恵は窓の向こうの夜空を見上げた。

 淑恵、響子、そして榊原の運命を決める戦い。それにさやかを巻き込んでしまうことに、淑恵は一抹の罪悪感を抱いた。



「へっくしゅん!」

 同じ頃、常夜灯だけを付けた薄暗い台所で、さやかは一人くしゃみをした。

 ――こんな時間に、誰かが僕の噂でもしてるのかな。

 勿論、そんなのは根拠のない迷信に過ぎない。こんな夜中にパジャマ姿で料理なんかしているから、身体が冷えたのだろう。

「ふふふ……」

 さやかの笑みの下には、鍋の中でぐつぐつと煮えるラーメンがあった。

 ――真夜中に食べるラーメンなんて、不健康の極致なのに…。

 一度はベッドで寝たさやかだったが、変な時間に目が覚めてしまった。暇つぶしに吉川のLPを聞いていたら、更に眠気が遠ざかり、代わりに空腹がやって来た。

 ――冬枝さんは寝てるし、一人でこっそり食べちゃえ!

 冬枝を巡る最強のライバル・灘佳代は東京に帰った。巨乳でスレンダーな佳代がいなくなったということは、さやかは思う存分、夜食のラーメンを食べてもいいということだ。

「そうだ。シメジとキャベツも入れようっと」

 さやかは、フライパンで軽く炒めた野菜を鍋に投入した。卵は半熟希望なので、入れるタイミングを見極めているところだ。

 ――そういえば、このキャベツのにんにくバター炒め、冬枝さんにも好評だったっけ。

 あの時の冬枝は、酒も飲めず、タバコも吸えない佳代のボディガード生活に疲れていただけかもしれないが――料理上手な佳代を相手にすっかり自信を失くしていたさやかは、冬枝に褒められてちょっと、いや、かなり嬉しかった。

 さやかは冷蔵庫を覗いて、卵をひょいっと取り出した。

「この卵、買ったのけっこう前じゃなかったっけ。もう1個入れちゃお」

「おい、食い過ぎだぞ」

 後ろから低い声で突っ込まれ、さやかは「うわっ」と悲鳴を上げた。

 振り向けば、薄暗い台所に、寝間着姿の冬枝が仁王立ちしていた。

「冬枝さん。起きてたんですか」

「こんな時間にゴソゴソやってりゃ、誰だって起きる。今、何時だ」

「えーっと…深夜2時、です」

 冬枝は、ふわあっと欠伸を一つした。

「ったく、悪い奴だな。眠れねえのか」

「はい。何だか、お腹空いちゃって」

「そうかい。じゃ、俺も食うか」

 冬枝はさやかの手から卵をひょいっと取り上げると、片手で割って鍋に入れた。

「いいんですか?こんな時間に」

「お前が言うな。具は……キャベツとシメジか。肉食いてえな」

 鍋を覗き込んだ冬枝は、冷蔵庫をごそごそと物色した。

「お、ほうれん草の残りがある。これも入れよう」

「じゃあ、冬枝さん…2人で食べるんだったら、バターも入れましょうよ」

「お前、ホントに悪い奴だな。悪代官の腹ペコ奉行だ」

「何ですか、それ」

 さやかと冬枝は2人でクスクス笑いながら、具だくさんの塩ラーメンを完成させた。

「いただきます」

 リビングの照明をつけ、2人で向かい合ってラーメンに箸をつけた。

 カーテンの向こうには、真っ暗な街が広がっている。テレビもつけず、静けさにラーメンを啜る音だけが響いた。

「おいひい~」

「あー、うめ。バター入れて正解だったな」

「はひ。僕、ご飯も食べちゃおうかな」

「出たな、腹ペコ奉行。俺も、ちょうど同じことを考えてたところだ」

 冬枝は冷蔵庫から冷凍したご飯を出し、レンジに入れた。

「インスタントも美味えが、なんかもっと濃いのも食いてえな。チャーシュー入ってて、海苔とネギと味付き卵も乗っかってるやつ」

「いいですね。あっ!そうだ!」

 さやかはリビングから立ち上がり、台所にある棚を開けた。

「冬枝さんっ!このコーンも入れませんか?」

「おっ、いいな。どれ、俺が開けてやる」

 冬枝はさやかからコーン缶を受け取り、缶切りで開けた。

 コーンを入れた雑炊を、2人で無心に頬張る。ぱくぱくと食べ進んでから、さやかは今更ながらにハッとした。

 ――もしかして、意地汚いと思われちゃったかな。

 でも、今だけは許して欲しい。冬枝が2日も佳代の護衛で留守だったため、今夜は冬枝と一緒にいられる久しぶりの夜だ。嬉しさと安心感で、ついつい食べすぎてしまうのだ。

 ――しかも、冬枝さんも共犯にしちゃった。えへへ。

 さやかの気を知ってか知らずか、冬枝はあっという間に雑炊を平らげた。

「卵使っちまったから、朝のトーストはベーコンだけだな」

「夜食したから朝食は抜く、って発想はないんですね」

「どの口が言ってんだ。いつものことだろ?」

「ふふっ」

 かつての不良青年は、夜食にラーメンをつつく中年親父になった。恋する少女は食べ盛り、真ん丸のほっぺたをツヤツヤと光らせている。

 ロマンティックな夜空の月ではなく、ラーメンに浮かぶ半熟の卵を囲む2人は、これから巻き起こる恋の波乱など知る由もなかった。



「源さんに探りを入れて欲しい?」

 冬枝が復唱すると、白虎組若頭・榊原は重々しく頷いた。

 さやかとの背徳のラーメンから一夜明けた、昼間の白虎組事務所でのことである。

 人払いをした応接室で、榊原は声をひそめた。

「どうも、源が響子に言い寄ってるらしいんだ」

「はあ。響子さんに…」

 確かに響子は、冬枝から見ても美人だ。水商売とは思えぬ清楚さと礼儀正しさの持ち主で、『パオラ』でも一番人気のホステスと聞いている。

 ――その上、淑恵さんに似てるとあっちゃ、そりゃ源さんが狙うだろうな。

 冬枝は今更、兄貴分の女漁りに何の疑問も抱かなかったが、榊原は心配顔だ。

「ほら、この間、キャンドルホテルで2人が会っただろ。あれ以来、源からアプローチしてくるようになったみたいで


「キャンドルホテル…あっ!」

 それは、榊原の妻・淑恵と愛人・響子とのデートが、ダブルブッキングしてしまった日のことだ。

 淑恵と響子の鉢合わせを防ぐため、榊原とさやかはホテルを右往左往した。しかもそこに淑恵を狙う源まで乱入し、冬枝とさやかは頭を悩ませたものだった。

 結局、榊原が淑恵とバイオリンコンサートに行っている間、さやかの提案で源も入れて響子と麻雀を打った。

 榊原家の平和を守るためだったが、結果的に、女好きの源にわざわざ若頭の愛人を紹介してしまったわけだ。榊原が不快になるのも当然と言えば当然で、冬枝は、ちょっと責任を感じた。

 榊原は、アルマイトの灰皿にトントンと灰を落とした。

「源はいい奴だ。それは、俺も分かってる。ただ、響子とは年が離れすぎてるだろ」

「まあ、そうですね」

 冬枝には、榊原の言わんとするところがよく分かった。

 年齢うんぬんは建前で、可愛がっている響子に、女が好きで好きで好き過ぎる、『悪い虫』の筆頭格である源が近寄るのが、榊原はとにかく不安なのだ。

 ――あの人に『狙った女を諦めろ』って言ったところで、無駄足だと思うんだが…。

 源清司が最も嫌うこと、それは女とのデートを邪魔されることである。源清司の恋路を邪魔する奴は、源清司に蹴られて死ぬ。

 骨まで響くような蹴りで叩き込まれた教訓は、中年になった今でも冬枝の中に刻まれていた。

 榊原は「そこでだ、冬枝」と言って、身を乗り出した。

「源と響子のデートを、尾行してくれないか。2人がどんな様子なのか、探って欲しいんだ


「はあ」

「源が本気で、響子もその気だっていうなら、それはそれで構わねえさ。ただ源が、響子とは遊びでしかないっていうなら、俺にも考えがある」

 そう言う榊原の目つきはほぼ、娘に近付く不良を排除する父親のそれだった。

 ――昔っから本当に反りが合わねえよな、源さんと榊原さん…。

 源と榊原は1歳違いで、高い背丈も、女に好かれる容姿を持つところも似ている。そんな2人のライバル関係は、淑恵を巡る恋のさや当てで決定的になった。

 自分が世界の中心、女は何人でも愛でる源と、爽やかスポーツマンで、一途な優等生の榊原。両者はまさに水と油、犬猿の仲だった。

 ――まさか、俺が2人の板挟みになる日が来るなんてな…。

 昔は源の腰巾着だった冬枝も、今では榊原に食わせてもらっている身の上だ。兄貴分のプライベートとはいえ、白虎組の若頭に逆らうわけにはいかない。

 冬枝の気持ちを察したのか、榊原は「こんなこと頼んで、悪いな」と謝った。

「お前が、源のことを今でも慕ってるのは俺も知ってる。若い頃は、何から何まで源に面倒見てもらってたもんな」

「いや、そこまでじゃ…」

 確かに、裏社会に入ったばかりの頃の冬枝は、衣食住の全てを源の世話になってはいた。なってはいたが、その分、源からこき使われたし、ちょっとでもヘマをすれば高速の蹴りがお見舞いされた。感謝よりも、恨みつらみのほうが多いぐらいだ。

 榊原は、温かい声音で言った。

「源と響子が会うのを邪魔するなんて野暮なこと、お前だってやりたくねえよな。ただ、源の本音が聞けるのは冬枝、お前しかいねえんだ」

「榊原さん…」

 ――源さんの本音なんか、聞いたところであんた、吐き気がすると思いますよ。

 残念ながら、源の『本気』の相手は星の数ほどいる。いや、砂漠の砂粒の数と言っていい。

 今だって、響子を本気で狙いながら、隙あらば、淑恵も手に入れようと目論んでいるはずだ。何なら、さやかや鈴子のことだって標的にしているだろう。

 尤も、それを言うと榊原の命令が「探りを入れろ」からもっと物騒なものに変わりそうなので、冬枝は口をつぐんだ。

 そこで、榊原は意外なことを言った。

「本当は、さやかに頼もうかと思ってたんだが…」

「えっ?さやかに?」

「ああ。響子とも親しいさやかが相手なら、源だって正直なところを打ち明けてくれるんじゃねえかって。ただ、源だとさやかのことも口説きかねねえだろ?」

「…そうですね」

 ここで、「そんなことないですよ」と兄貴分を庇ってやれないのが情けない。源は、出会った当初からさやかに並々ならぬ関心を寄せていた。

 ――だが、さやかを使うってのはいい手かもしれねえ。

 どうせ、冬枝が榊原の差し金で動いていることぐらい、源にはすぐにバレる。さやかが冬枝の傍にいれば、源も少しは大目に見てくれるかもしれない。

 女連れの時の源は普段の100倍、いや1000倍は甘くなることを、冬枝はよく知っていた。

 応接室を辞した冬枝は、ふと、人気のない執務室のほうを振り返った。

 ――最近、親分の姿を見ねえな。

 白虎組組長・熊谷雷蔵と最後に会ったのは、夏の終わり頃だったか。組長の姿を見かけないのは冬枝だけではないらしく、組員の間では「よその大物と極秘に会っているらしい」とか、「病気で外に出られないのではないか」など、様々な噂が飛び交っている。

 それも笑い話で済んでいるのは、若頭である榊原がしっかり組の手綱を握っているからだ。ビンタ男が街を騒がせた時も、榊原が陣頭の指揮を取り、組員たちの混乱を防いだ。榊原もいつも通りだし、組長がいないのはたまたまだろう、というのが大方の見立てだ。

 ――ま、あの腹黒タヌキがそう簡単にくたばるわけねえか。

 冬枝としても、因縁浅からぬ組長の顔をわざわざ見たいわけではない。静まり返った廊下を一瞥して、冬枝は組事務所を後にした。



 その午後、春野家は常ならぬ華やぎに包まれていた。

「この服、変じゃないですか?」

 春野家の狭い居間で、さやかは淡いピンク色のワンピースを胸元に当てて立ってみた。

 鈴子が、にっこりと笑った。

「大丈夫よ、さやちゃん。とってもカワイイわ」

「本当ですか?」

「本当よ。もう、このまま冬枝さんの所に行かせるのが、勿体ないぐらい」

 鈴子がぎゅっとさやかを抱き寄せると、さやかも鈴子の胸にぽふんと顔を埋めた。

 鈴子の柔らかい胸の中で、さやかは甘いときめきを反芻した。

 ――まさか、冬枝さんからデートに誘ってくれるなんて…。

 鈴子に抱かれてうっとりしているさやかを、嵐がくわえタバコでじっと見ていた。



 それは昼下がり、さやかがいつも通り、雀荘『こまち』で打っていた時のことだ。

「よっ。さやか」

「冬枝さん。お疲れ様です」

 この時間に冬枝が来るのは、珍しいことではない。さやかは、ちょっとだけ胸が高鳴った。

 ――もしかして、今日は一緒にランチとか?

 さやかはついさっき、そこの喫茶スペースでサンドイッチを食べたばかりだったが、ランチはまだ済ませていない振りをしよう。食べ盛りのさやかなら、もう少しぐらい余裕だ。

 期待でフワフワするさやかだったが、冬枝の用件はランチのお誘いではなかった。

 冬枝は、さやかを人気のないスタッフルームまで連れ出した。

「さやか。今夜、空いてるか」

 その質問で、すぐにさやかの雀士スイッチがONになった。

 ――勝負か!

 さやかは、鋭い目つきで顔を上げた。

「もちろん。賭場はどこですか」

「いや、仕事じゃねえ」

 さやかの雀キチっぷりをよく理解している冬枝は、軽く手を振ってさやかを宥めた。

「デートだよ、デート。ドライブでも行こうぜ」

「でっ……」

 途端、さやかの頭の中は真っ白になった。

 ――デート!?

 パーンとくす玉が割れ、見えない花吹雪が舞う。キラキラ輝く視界の真ん中には、冬枝だけがいた。

「どうした。嫌か?」

「い、嫌じゃないです!ぜっ、ぜひ、ご一緒に」

 緊張のあまり、変な言い回しになってしまったさやかに、冬枝が「なんじゃそりゃ」と言って笑った。

「じゃ、夕方に駅前で待ってるからな」

 そう言ってポンと頭を撫でられ、さやかは完全にノックアウトされてしまった。

 ――ひゃああ…!

 心の中で、リーンゴーンと鐘が鳴る。対局中だったというのに、さやかはそれも忘れてよろよろと『こまち』を後にした。



 そして現在、さやかは春野家で作戦会議をしている次第である。

「お弁当とか持って行ったほうがいいでしょうか。サンドイッチでも作ろうかな」

 膝の上に何冊も女性雑誌を開いてうんうん唸るさやかに、鈴子がアドバイスした。

「スナック菓子のほうがいいんじゃない?車の中で食べられるわよ。ほら、運転してる冬枝さんに、はい、あーんって」

「なるほど…!その手がありましたか」

 冬枝なら、チップスなどのしょっぱいお菓子のほうがいいかもしれない。車内を汚さないよう、ゴミ袋も持って行こう、とさやかはメモした。

「イヤリングはこれで、口紅はこれでいいとして…香水はどうしようかな」

「首筋にちょっとコロンをつけるぐらいでいいわ。そうだわ、夜のデートなら…」

 そこで、鈴子は意味深に声をひそめた。

「…念には念を入れたほうがいいんじゃない?ほら、そういう可能性もあるわけだし…」

「そういう可能性って?」

 きょとんとするさやかに、鈴子は耳元でこそこそと囁いた。

 途端、さやかの顔が真っ赤になった。

「そっ、それは考えてませんでした…!ど、どうしましょう。僕、何にも考えずにOKしちゃいました」

 慌てるさやかに、鈴子が優しく言った。

「あらっ。嫌ならいいのよ、急ぐことないもの。適当なところで切り上げて、冬枝さんには眠くなっちゃったからまた今度、って言えばいいわ」

「で、でも、それも勿体ないような…」

 さやかはしばらく意味もなく右を見たり左を見たりしていたが、やがて、ふらふらと立ち上がった。

「しゃ、シャワーをお借りしてもいいですか」

「やる気ね、さやちゃん。よぅし、私も一緒に入ってあげるわ❤」

 鈴子も並んで立ち上がり、さやかの肩をポンと叩いた。

「えっ…鈴子さんも?」

「さやちゃんの身体のすみずみまで、チェックしてあげる。どこを見られても恥ずかしくないようにしてあげるから、ね❤」

 鈴子にチュッと頬にキスをされ、またさやかは顔を真っ赤にして俯いた。

「おーい、君たち。誰かさんをお忘れではないかね」

 頬杖をついて女2人を見守っていた嵐が、コンコンとテーブルを叩いた。

「何よ、嵐。一緒にお風呂に入りたいって言うならダメよ。あんたと一緒に入ったら、さやちゃんが汚れちゃうもの」

「ひどいッ!そうじゃなくて、亭主の目の前でいちゃつき過ぎじゃねえの?鈴子ちゃん」

 嵐にジト目で見上げられ、鈴子は呆れたように肩をすくめた。

「悔しかったら、さやちゃんみたいに柔らかーいほっぺと、可愛いお尻の持ち主になることね」

「何だよ!嵐クンだってそれなりにいいケツしてると思うぞ!見せるか!?」

 本当にズボンを下ろそうとした嵐に、「誰も見たくないわよ、しまいなさい!」と鈴子のキックが飛んだ。

 鈴子に蹴られて使い古しの座布団にダイブした嵐は、その体勢のままでさやかを見上げた。

「なあ、さやか」

「はい?」

「鈴子といちゃつくのはこの際いいけど、東京の親に言えねえようなことはしちゃダメだぞ?」

 嵐は親心で言ったのだが、さやかは乾いた返事だった。

「ヤクザと同居して、ヤクザの代打ちをやってる時点で、親には何一つ言えません」

「ほんとだな。って、違ぇって!」

 本格的に説得を始めようとした嵐を、さやかは「嵐さん」と言って遮った。

「僕はもう19です。心配してくれなくても、大丈夫ですよ」

「19歳でも100歳でも、しくじる時はしくじるんだぞ」

 続けて、嵐がとんでもない下ネタを口にしたため、さやかは「変態!!」と言ってビンタした。

 怒りでハアハアと肩を上下させるさやかに、鈴子が優しく声をかけた。

「さやちゃん、私のシャンプーとシャワーコロン貸してあげるわ。ヒゲ面男のことは忘れて、楽しんできてね」

「鈴子さん…。ありがとうございます」

「なんだよーっ!俺は正義とモラルの番人だぞーっ!」

「正義とモラルの番人は、女の子の前で×××とか●●●とか言わないの」

 鈴子のツッコミを最後に、女2人は仲良く春野家の狭い浴室へと消えていった。



 黄昏が空を染めかける頃、駅前のバスロータリーに一台の漆黒の車が停まった。

 ちらちらと腕時計を気にしていたさやかは、ふと、その車に目を引かれた。

 ――トヨタのマークⅡだ。

 この地方都市でも、最近はよく見かけるようになった。東京と違って高層ビルもないし、テレビの民放は2局しか映らないが、流行るものはどこも同じらしい。

 ――モテそうだもんな、ああいうの乗ってると。

 ましてやこんな淡いパープル色の下、彼氏が颯爽と降りてきたりしたら――と考えかけたさやかの目に映ったのは、マークⅡから降りる冬枝の姿だった。

「ふ…冬枝さんっ!?」

「おう。待たせたな」

 しかも冬枝は、いつものくたびれた枯れ葉色の背広ではなく、シックなグレーのスーツに、ピカピカの黒い革靴を履いている。仕立ての良いアイテムが、冬枝の端整な顔立ちを一層際立てていた。

 ――か、かっこよすぎる…!

 きゅーん、と音を立てて、さやかの心臓が飛び跳ねる。さやかが思わず胸元を押さえると、冬枝が「ん?」と言って、さやかの腕時計に目を留めた。

「えっ…」

 冬枝がおもむろにさやかの手を取ったものだから、さやかはドキッとした。

 冬枝は、さやかの手首からスッと腕時計を外した。

「今日は、時計なんかいらねえよ。時間忘れて楽しもうぜ」

「は……はいっ!」

 思わず声が裏返ってしまい、さやかは慌てて口元を手で覆った。

 さやかの腕時計を指先でクルクル回す冬枝の笑みが、眩しい。さやかは、内側からキラキラした光に覆い尽くされていくような高揚を覚えた。

 ――今日は本当に、大人の階段上っちゃうかも…!?

 腕時計を取られた左の手首が、妙にすうすうする。そわそわした気持ちのまま、さやかはマークⅡに乗り込んだ。

 シートの座り心地が、いつものカローラとは比べ物にならないぐらい良い。嗅ぎ慣れないカーコロンの匂いが、さやかの鼻をくすぐった。

「この車…どうしたんですか?」

「レンタルだよ。せっかくのデートだってのに、オンボロ車じゃつまんねえだろ?」

 冬枝は、それだけさやかとのデートを特別なものだと思ってくれているのだ。嬉しさで、さやかは胸がいっぱいになった。

「こんなかっこいい車、僕、乗るの初めてです」

「そうか」

「いわゆる、ハイソサエティカーってやつですよね。しかもこの車、スポーツカー並みの高性能パワーユニットが搭載されてて、燃費もいいとか」

「お前、ずいぶん詳しいな」

 運転席の冬枝に感心され、さやかはハッとした。

 ――何言ってるんだ、僕!

 緊張のあまり、雑誌で読んだ内容をぺらぺらと口走ってしまった。これでは、単なる知ったかぶりだ。

 ――冬枝さんに、可愛くないって思われたらいやだ!

「すっ、好きなんです、カッコいい車」

 つっかえつっかえ失言をフォローするさやかに、冬枝が苦笑した。

「はしゃぎ過ぎだ、バカけ」

「はっ…」

 額をつんと指でつつかれ、さやかはもう、何も言えなくなってしまった。

 ――冬枝さんに、ぜーんぶ見透かされちゃってる…。

 恥ずかしさと共に、ぽわぽわとした嬉しさがさやかを包む。沈黙ですら、何だか愛おしく思えた。

「まずは、買い物でもするか」

「…はい」

 車は、すぐ近くのデパートビルへと向かった。



 冬枝は、さやかから奪った腕時計をちらっと確認した。

 ――源さんと響子さんのデートまで、まだ時間があるな。

 今夜、源と響子が逢う。冬枝は、それを源本人から聞いた。

「どうせ、榊原から言われたんだろ。俺の腹を探って来いって」

 昼間、バー『せせらぎ』へと源を訪ねた冬枝は、すぐに目的を当てられてしまった。

 端から、この人間離れした兄貴分相手に隠し事ができるとは思っていない。冬枝は、正直に認めた。

「ええ、そうですよ。あんた、なんで若頭の愛人になんかちょっかいかけるんですか」

「俺がどの女を狙おうと、俺の勝手だろ」

「俺の立場にもなってくださいよ。昔と違って、俺は榊原さんの世話になってるんです。榊原さんの女ばっかり狙うのも、大概にしてくださいよ」

 榊原の妻・淑恵に未練を見せたと思ったら、今度は榊原の愛人・響子に目をつけるとは。榊原と関係がない、フリーの女を狙えばいいのに、と冬枝は心から思った。

 源は、遠い目をしてタバコの煙を吐いた。

「男と女が出会う順番なんざ、くじ引きみたいなもんだ。あいつのほうがたまたま引きが良かっただけさ」

「淑恵さんを取りっぱぐれたこと、まだ根に持ってるんですか」

 か、と言わないうちに、冬枝は高速でしゃがんでいた。

 カウンター越しに回し蹴りをかました源は、何事もなかったように脚を元の位置に戻した。

「今の俺は機嫌がいい。1回ぐらいはてめえの失言も聞き流してやるさ」

「あんたねえ、蹴るこたないでしょう。仏さんだって、三度は大目に見てくれますよ」

「生憎、俗世に生きる俗人なんでな。今夜は響子とデートなんだ」

 サラッと言う源に、冬枝は目を剥いた。

「あんた、本気でオトすつもりですか。響子さんのこと」

「悪いか?」

「俺の話、聞いてなかったんですか?響子さんは、若頭の愛人ですよ。榊原さんが彩北の顔役だって、あんた分かってますよね?」

 若い頃の淑恵を巡る三角関係とは、訳が違う。今や榊原は組の事実上のトップで権力者、かたや源は引退した一般人だ。

 しかし、そんな理由で女を諦めるような兄貴分ではないこともまた、冬枝は分かっていた。

「榊原に睨まれることなんかより、魅力的な女を逃すほうが怖い。言うまでもないが、邪魔するなよ」

 源の切れ長な蒼い瞳が、ギロリと冬枝を睨んだ。

 バー『せせらぎ』を出た冬枝は、ふうと秋の空を見上げた。

 ――こんなの、榊原さんに報告できっかよ。

 正直に「源さんは今夜にでも響子さんをオトすつもりみたいですよ」などと榊原に言えば、冬枝がヒットマンに任命されかねない。かといって、源を説得するなんて不可能だ。

 元々、こうなることは分かっていた。分かり切っていた。だから、冬枝は既に腹を決めていた。

 ――こうなったら、現場を押さえてとっちめるしかねえ!

 源と響子が決定的な既成事実を成立させてしまう前に、妨害する。かなり無謀な計画だが、冬枝には策があった。

 ――さやかも巻き込む!

 冬枝だけなら源に蹴り殺されて終わるが、さやかがいれば話は別だ。「いやあ、奇遇ですねえ。俺たちもデート中なんですよ。なあ、さやか」「はい、冬枝さん」てな感じで和やかに割り込めば、源もごり押しはできまい。

 それから夕方までに、冬枝はデート――という名の、源の妨害――の準備に追われた。

 まずは、渋る業者を蹴飛ばすようにして、人気の高級車をレンタルした。それから先日、佳代が仕立ててくれたスーツをクリーニングから大急ぎで回収し、香水やらヘアセットやらヒゲそりやら、目のいい兄貴分を誤魔化すための支度に追われた。

 そんな風に慣れないことをしていたら、肝心の腕時計をうっかり忘れていたのだった。

 ――あー良かった、さやかが時計持ってて。

 文字盤をこっそり確認してから、冬枝はさやかの腕時計をポケットにしまった。



 マークⅡを停めると、冬枝は駐車場をざっと見回した。

 ――この車なら、俺たちだってバレねえだろ。

 普段のオンボロカローラでは、一目で源にバレてしまう。人気のハイソカーをレンタルするのは高くついたが、さやかも気に入ってくれたようだし、まずは上首尾だろう。

 冬枝は、さやかをエスコートしてデパートに入った。

 店内は、仕事帰りのOLやサラリーマンで賑わっている。華やいだ空気の中を、冬枝は、さやかと並んで歩いた。

「服、買って行かねえか。さやか」

「えっ…服ですか?」

「その服もいいけどよ、今日はちょっといい店行こうと思ってるんだ。もっと大人っぽいの、選んでやるよ」

「はっ…はい!」

 清楚で爽やかな今のドレスでは、遠目からでもさやかだと分かってしまう。少しばかりカモフラージュしたほうがいいだろう、と冬枝は考えていた。

 カラフルなパーティードレスが並ぶ婦人服売り場で冬枝が選んだのは、黒いカクテルドレスだ。

 ――これなら今の流行りっぽいし、さやかも気に入るだろ。

「ど…どうですか、冬枝さん」

 実際、試着室からぎこちなく出てきたさやかに、黒いドレスはよく似合っていた。身体がよりスマートに見えるし、肌の白さも際立つ。

 ――俺と並ぶと若干、葬式帰りに見えるのは気になるが。

 鏡に映る、黒っぽい装いの2人がお通夜みたいに見えるのは、冬枝が老けているせいか、さやかが地味なせいか。

 ドレスが似合っているだけに、今のさやかはちょっと惜しい。冬枝がうーんと悩んでいると、横から声をかけられた。

「あら。冬枝ちゃんじゃない」

「広瀬さん!」

 そこにいたのは白虎組の代打ちにして、このデパートビルに入っているブティック『H/S』の経営者、広瀬だった。

 広瀬は試着室にいるさやかと冬枝を交互に見て、すぐに状況を察してくれた。

「ははーん。これからデートってわけね」

「広瀬さん、他の奴らには言わないでくださいよ」

 冬枝が釘を差すと、広瀬は「しないわよ、そんな野暮なこと」と言ってウインクした。

 広瀬は試着室に立ち尽くすさやかを上から下まで見て、「なるほどね」と頷いた。

「悪くないけど、せっかくのデートにこれじゃ、ちょっと物足りないわね。待ってて」

 広瀬は売り場から手早く小物をピックアップして、さやかに手渡した。

「このイヤリングは子供っぽいから外して、こっちのネックレスにしましょ。ぐっと大人っぽく見えるわよ。あとはこのバレッタで髪をまとめれば、より首回りが綺麗に見えるわ」

 流石はプロのデザイナーだけあって、さやかはあっという間に『親戚の法事』から『おしゃれなレディ』へと変身した。

 冬枝は、広瀬の手際に素直に感心してしまった。

「同じ服なのに、こんなに変わるもんなんですね」

「モデルがいいからよ。もう、気の利いた褒め言葉ぐらい覚えてからデートしなさいよ、冬枝ちゃん」

「へーへー」

 さやかもぼんやりと鏡に見惚れていたが、すぐにハッと我に返って「広瀬さん、ありがとうございます」と頭を下げた。

「いいのよ。世界中の女の子を綺麗にしてあげるのが、僕の仕事なんだから。じゃあ、お邪魔虫はこれで退散するわね」

「どうも、広瀬さん」

 広瀬は、軽く手を振って自分の店へと戻っていった。

 冬枝はそのまま会計を済ませ、さやかを化粧品売り場へと連れ出した。

 ちらりとポケットの時計を見れば、源と響子が来る時間が迫っていた。

 ――そろそろ、2人の様子を確認しねえとまずいな。

 冬枝は美容部門の店員を捕まえると、さやかの背中を押して前に出させた。

「こいつに似合う化粧、一通りお願いします。あとはそうだな…」

 冬枝は売り場にちらっと目を走らせると、並んでいたカラフルなボトルから1本抜き出した。

「おっ、これなんかいいな。さやか、これ塗ってもらえよ」

「マニキュア…ですか?」

 さやかは大きな瞳を真ん丸にして、白いマニキュアを見つめた。

「塗ってもらうのはいいですけど…乾くまで、時間かかりますよ」

「いいよ、俺は他の店見てるから。楽しみにしてるぜ、べっぴんさん」

 ぽっとピンク色になったさやかの顔に頷いてから、冬枝はそそくさと化粧品売り場を抜け出した。



 18の年から源の舎弟、もとい使い走りにされてきた冬枝は、兄貴分のデートコースなど容易に想像がつく。冬枝は、4階にある宝飾品売り場へとエレベーターで向かった。

 ――やーっぱり、ここだ。

 かぐわしいバラの花束、きらめく指輪にネックレス、ドレスや靴は着せてから脱がせるところまでがセット。女にはとにかくプレゼント、それが源が冬枝に教えた鉄則だった。

 照明もきらびやかなジュエリーショップで、源は響子にアクセサリーを見繕ってやっているところだった。

 その背中をこっそり伺いながら、冬枝は内心で呆れた。

 ――あの人、女のオトし方が変わんねえな。三つ子の魂百まで、とはよく言ったもんだ。

 だいたい源は、響子と何歳離れているか分かっているのだろうか。以前、さやかと共に響子のマンションに麻雀を打ちに行った際、響子はまだ27歳だと話していた。今年51歳の源とは、二回りも離れている計算だ。

 指折り数えた冬枝は、ふと愕然とした。

 ――俺とさやかもおんなじじゃねえか。

 冬枝は今年で43歳、さやかは19歳になったばかり。源のことを言えた立場ではない、と冬枝は気付いてしまった。

 ――いや、だが、今はそういう問題じゃねえ!

 冬枝は、忍び足でジュエリーショップに近付いた。BGMも賑やかなデパートの売り場では、それなりに近付かないと源たちの会話が聞こえない。

 ちょうど、源たちはショーケースを覗き込んでいる。冬枝は、話し声が聞こえる距離まで接近した。

 源は、手元の小さな指輪を指さした。

「この指輪、いいな。響子に似合いそうだ」

「アクアマリン…ですか?」

「響子は3月生まれだろ?誕生石だ」

「よくご存知ですね」

 響子は照れ臭そうに苦笑した。

 店員にショーケースを開けさせ、源はうやうやしく響子に指輪をはめた。

 ――あの人、ホントにキザだよな。

 冬枝の失礼な感想など知る由もなく、臆面もなく肩を抱く源の隣で、響子は指輪に目を細めた。

「すごく綺麗。私、本物の宝石なんて初めて見ました」

「響子の輝きには、ダイヤモンドだって敵わないさ」

 冬枝が思わず砂を吐きたくなるようなセリフを真顔で言って、源は響子の手を取った。

「アクアマリンには『幸福』って意味もあるんだ。俺から、響子に幸せをプレゼントさせてくれないか」

 源の真剣な声音に、響子がハッとして顔を上げた。

 影から見ていた冬枝も、源の猪突猛進っぷりに呆れ果てた。

 ――これじゃ、まんまプロポーズじゃねえか。

 尤も、これと似たような場面を、冬枝は何度も見ている。遊びと本気の境目など存在しない源は、出会った女全てにプロポーズまがいの言葉をかけていた。その割に、実際に婚約した相手は一人もいないが。

 ――そのうち、結婚サギで捕まっちまいますよ、源さん。

「………」

 響子はしばし、アクアマリンの水色の輝きに見入っていたが――ターコイズ色に塗られた爪先に視線をやって、ふっと笑った。

「源さんのお気持ちは、すごく嬉しいけれど…これに見合うようなお返しは、できそうにありません」

「響子…」

「私は、源さんと一緒に美味しいお酒でも飲めれば十分です」

 優しく微笑む響子に、源はそれ以上、押し付けようとはしなかった。

「くくく……」

 棚の影で話を聞いていた冬枝は、噴き出しそうになる口元を必死で押さえた。

 ――源さん、フラれてやがる!

 年甲斐もなく、他人の女にちょっかいをかけるからこうなるのだ。年寄りの冷や水とはまさにこのこと。これに懲りたら、背筋が寒くなるようなキザったらしいフレーズも、他人の女に恥ずかしげもなく色目を使う癖も見直して、少しは真っ当に――…。

「おい」

「くくくっ…ってギャアッ!」

 一人で笑いを堪えていた冬枝は、悲鳴を上げて尻餅をついた。

 兄貴分の青みを帯びた双眸が、遥かな高みから冬枝を睥睨していた。

「み、源さん、奇遇ですね」

「何、店の隅っこでニヤニヤしてんだ。さやかを待たせてるんじゃねえのか」

「よ、よくさやかがいるって分かりましたね」

 源は、無表情に冬枝の格好を見下ろした。

「てめえがそんな張り切った格好してんの、女連れの時だけだろ」

「は、ははっ。そりゃ、可愛いさやかとのデートなんで、俺だって気合が入りますよお」

 わざとらしく頭をかく冬枝に、源はフンと鼻から息を抜いた。

「とっととさやかのところに帰ってやれ。デートでよそ見してる野郎はモテねえぞ」

「はいっ、そうします!」

 冬枝の無駄にイキのいい返事を最後まで聞かず、源は冬枝に背を向けた。

「行くか。響子」

「あの、冬枝さんはよろしいんですか…?」

「あんな変態親父、放っとけ。それより、次の店に行こうぜ。店主に言って、貴重なワインを準備してもらってあるんだ」

 コートの裾を翻し、源は響子の肩を抱いて颯爽と去って行った。床にへばりつく冬枝のことなど、振り返ることもなく。

 ――誰が変態親父だっつの!

 源にだけは言われたくない、と思いながら、冬枝は立ち上がってスーツの裾をパンパンと払った。

 ――あの2人、これから飯食いに行くのか…。

 指輪は断られたが、源と響子のデートはまだ続くらしい。つまり、冬枝もまだ源を追跡しなければならないということだ。

 ――源さんが女を誘うような店と言えば、あの辺か…。

 頭の中に地図を思い描きながら、冬枝はさやかが待っている化粧品売り場へと急いだ。



 冬枝が「よっ」と片手を上げて迎えに行くと、ちょうどさやかが化粧品売り場の椅子から立ち上がるところだった。

「冬枝さん。お待たせしてしまってすみません」

「全然。それより、見違えたじゃねえか。誰かと思ったぜ」

 冬枝のお世辞に、さやかは素直に頬を染めた。

「変じゃないですか?」

「変じゃねえって。姉ちゃん、これ全部包んでくれ」

 冬枝がさやかのメイクアップに使われた道具一式を指差すと、店員が笑顔で「はい」と頷いた。

 レジへと向かおうとする冬枝の裾を、さやかがつまんだ。

「いいんですか、冬枝さん。全部だと、結構高いですよ」

「ケチなこと言うなよ。お前だって、いいもん使うほうが楽しいだろ?」

「そりゃ…まあ」

 美容部門の店員が勧めてくる化粧品は大抵、高価であるということは、冬枝も知っている。さやかの誕生日に口紅を買ってやった時はレジで「げっ!?」と冷や汗をかいたものだったが、ニコニコ笑顔の店員を前に「やっぱやめます」とは言えなかった。

 ――高いもの買ってやったほうが、こっちも気分がいいしな。

 つまらない見栄だとは分かっているが、目をキラキラさせて鏡の中の自分を覗き込むさやかを見ていたら、買ってやらずにはいられない。正直、冬枝には化粧の良しあしなんてさっぱり分からないが、さやかが幸せそうなことだけは伝わってくるのだ。

 ――こいつも、いっぱしの女なんだな。

 普段は化粧っ気もなく、タバコをふかした親父共と一緒に雀荘で打っているさやかでも、こういう方面に興味が無いわけではなさそうだ。

 冬枝が会計を済ませ、デパートのロゴが入った紙袋を「ほい」と渡してやると、さやかは紙袋をぎゅっと胸に抱いた。

「ありがとうございます…!大事にします」

「大事になんかしなくていいから、ケチケチせずに使えよ。お前、美人なんだから、こういうのを楽しまねえと損だぞ」

「…はい!」

 さやかのはちきれんばかりの笑顔に、冬枝も思わず、唇が緩んだ。

 たかが化粧品を買ってやったぐらいなのに、冬枝まで気分が浮き立つ。デパートを行き交う客たちに、いちいち自慢したくなってしまう。

 ――どうだ、てめえら。俺の女、けっこー美人だろ?

 冬枝はさりげなくさやかの肩を抱くと、悠々と出口へと向かった。

「さやか、腹減らねえか。飯食いに行くぞ」

「はい!」

 駐車場に出ると、週末であることも手伝って、来た時より車が多く停まっていた。冬枝の黒いマークⅡは、すっかり埋もれてしまっている。

 ――レンタカーだと、どれが自分のだかさっぱり分からねえ。

 きょろきょろする冬枝に、さやかが「こっちですよ」と言って案内してくれた。

「よく分かるな、さやか」

「分かりますよ。だって、すごくカッコいい車だもん」

「お前、本当に車好きなんだな」

 冬枝が笑うと、さやかは頬を膨らませた。

「違います。冬枝さんが、わざわざレンタルしてくれた車だから…」

 もじもじするさやかと瞳と瞳が合った瞬間、冬枝は一瞬、時が止まった。

 源と響子のことが、頭から飛びそうになる。冬枝は、ふっと夕暮れの空を見上げた。

 ――もう全部忘れて、さやかとこのままドライブしちまえばいいんじゃねえか。

 ピカピカのハイソカーなら、さやかと2人、夜の向こうまで手が届きそうだ。そんな想いが、冬枝を動けなくさせた。

「冬枝さん…?」

 車の前で立ち尽くす冬枝をさやかが見上げた、その時だった。

「……!」

 ――源さんだ!

 まだデパート内にいたらしく、源と響子が連れ立って駐車場に来た。よく見れば、源の真っ青なスカイラインは、冬枝のレンタルマークⅡからさほど離れていない位置に停まっていた。

 ――まずい!この車が俺のだってバレたら、今後の尾行もまかれちまう!

 冬枝は慌ててさやかの手を引くと、源たちとマークⅡから距離を取るため、駐車場の隅へと小走りに移動した。

「冬枝さん、どうしたんですか?」

 怪訝そうなさやかを強引に壁際へと追い詰め、冬枝は背後をちらりと振り返った。

 駐車場には、姿を隠せるような高い壁などない。源と響子の姿も、冬枝からバッチリ見えた。

 ――結構近いな。このままだと、源さんを警戒させちまう…。

 こうなったら、源が近くにいるのを逆手に取る。冬枝は、戸惑い顔のさやかに迫った。

「冬枝さ…」

 さやかが言い終わらないうちに、冬枝は塗られたての口紅の上に強引に覆い被さった。

 冷たいコンクリートの上に置かれたさやかの手を、痛いほどに握り締めながら。

 ――これで何とか誤魔化せる!

 自分のデートを邪魔されるのが嫌いな源は、他人のアバンチュールも尊重する。源を恐れるあまり、キスというより頭突きに近い勢いになってしまったが、源から見えるのは冬枝の背中だけだ。立派なラブシーンとしか思われないだろう。

「………」

 5秒経ったか、10秒経ったか。冬枝がそっと背後を伺うと、スカイラインがエンジン音を響かせながら、駐車場を出て行くところだった。

 ――ふう、命拾いしたぜ。

 冬枝が一息ついた直後、さやかがぐらりと腕の中に倒れ込んできた。

「おっ、おい、どうした」

「ふにゃぁ……」

 さやかは、真っ赤になって目を回している。よれた口紅の跡を見下ろして、冬枝はちょっとばつが悪くなった。

 ――こいつにゃ、まだちょっと早かったか。

 というか、単純に息を止めている時間が長過ぎたのか。冬枝はさやかの背中をさすって落ち着かせると、源を追いかけるべく、何とかマークⅡに乗り込んだ。



 青のスカイラインが向かった先は、繁華街から少し離れたレストランだった。

 ――やっぱり、ここか…。

 源たちから少し遅れて、冬枝も駐車場に車を停めた。

 東京と違って、この地方都市には、デートに向いた高級店はそう多くない。源が選んだのは、冬枝もよく知る店だった。

 ここは昔からあるフレンチの店で、特にシーフードを使った料理が美味い。冬枝自身、女とのデートで何度か来たことがある。

 ――ただし、俺がここに来るのは、よっぽど見栄を張りたい時だけだ。

 貧乏性の冬枝と違い、源は女とのデートに金を惜しまない。こんなこともあろうかと、財布の中身を多めに入れておいて良かった、と冬枝は胸を撫で下ろした。

 だが、金以前の問題がある。値の張る店のお約束として、必須というわけではないが、大半の客が予約するのだ。

 ――予約してねえが、入れるか…?

 源たちが席に着いたタイミングを見計らって、冬枝もさやかを連れて店に入った。

 オレンジ色のダウンライトの下、ウェイターがうやうやしく出迎えた。

「ご予約のお客様ですか?」

「いや、予約はしてない。空いてるか」

 恐る恐る尋ねたが、ウェイターからはにこやかな返事が返って来た。

「ちょうどキャンセルのお客様がいらっしゃいまして、窓際の席が空いております。すぐにご案内しますね」

 ――助かった!

 冬枝は、赤い絨毯の敷かれた廊下で思わず、天を仰いだ。

 流石に、店の外で見張っていたらさやかに不審がられるし、かといって、他の店に行けば、源たちとはぐれてしまう。同じ店内にいれば監視も容易だし、さやかとのデートも成立する。

 ――そういや、こいつ、ずっと大人しいな。

 いつものさやかなら、車はレンタルしたのに店は予約もせずに飛び込んだ冬枝の行動を、怪しんでもおかしくないところだ。

 冬枝は、ちらりと後ろのさやかを振り返った。

「………」

 ここへ向かう車中もそうだったが、さやかは未だにピンク色の顔のまま、ぼんやりしている。足取りもふわふわして、夢見心地といったところだ。

 そんなさやかを見ているうちに、冬枝の胸に、何とも言えない感情がじわじわと押し寄せてきた。

 ――キスしたぐらいでこんなんなるんだったら、もっと凄いことしたらこいつ、どうなっちまうんだろうな…。

 冬枝の中で、スケベ面で悪事をけしかける悪いおじさんと、父親のようにさやかを心配する良いおじさんとが、正反対の顔をしながら葛藤した。

 ――いかんいかん!今は俺じゃなくて、源さんがスケベなことしねえか見張らねえと!

 気を取り直した冬枝だったが、店員に席まで案内され、絶句した。

 ――源さんの真後ろじゃねえか!

 これでは監視がバレバレなうえ、響子からは冬枝とさやかの姿が丸見えだ。いくら何でも、とは思ったが、他に空いている席はない。

 焦る冬枝をよそに、さやかは夜空が広がる窓を嬉しそうに見上げた。

「いい席ですね、冬枝さん」

「ん?あ…ああ」

 さやかの微笑みの左右で、デパートで買ってやったイヤリングが揺れる。黒いドレスと化粧の効果もあって、今日のさやかはいつもより大人びて見えた。

 ――これが本物のデートだったら、100点満点なんだけどな…。

 ロマンティックな店に、さやかは上機嫌だ。兄貴分のデバガメなんかより、目の前の女と楽しむべきなのは明らかだった。

 複雑な気持ちでメニューを開いた冬枝は、またも言葉を失った。

 ――読めねえ…!

 革の表紙でカバーされたメニュー表には、流麗な横文字しか並んでいなかった。それも、英語ではない。恐らくフランス語だろうが、冬枝には何一つ意味が分からなかった。

 ――畜生、昔はちゃんと日本語でメニュー書いてたじゃねえか!景気が良いからって格好つけやがって…!

 などと毒づいたところで、目の前のメニューが読めるようになるわけではない。冬枝がメニューと睨めっこしていると、こちらに背を向けている源が店員に声をかけた。

「今日のお勧めは?」

「はい。本日は牡蠣のクリーム煮と、シャブリがございます」

 源と店員の会話を聞いていた冬枝は、一筋の光明を得た。

 ――それだ!

 冬枝は早速、源を真似して「本日のお勧め」を店員に注文した。これで、何とかさやかの前で恥をかかずに済んだ。

 ――あー、源さんのお陰で助かったぜ。

 源はと言えば、店員に聞いた割には「本日のお勧め」は頼まず、コース料理をあらかじめ予約してあったようだ。冬枝のピンチに気付いた兄貴分が助け舟を出してくれたような気配がものすごーくするが、冬枝は素知らぬ振りをした。

「僕はお酒が飲めないので、ノンアルコールで」

「かしこまりました」

 律義に店員に言い添えたさやかに、冬枝は感心してしまった。

「お前、今日ぐらい飲んでいいんだぞ」

「いえ…。せっかくのデートなのに、酔っ払っちゃうなんて勿体ないですもん」

 ドレスアップしていても、さやかはさやかだ。金持ちっぽい店の雰囲気に飲まれかけていた冬枝も、ふと肩の力が抜けた。

 さやかは、店の中央にあるグランドピアノを見つけた。

「あっ、ピアノがありますよ。生演奏とかするのかな」

「あー…。そういやお前、楽器弾けるのか」

 ピアノと言えば、生け花やお琴と並んで、女の習い事の花形だ。東京で優等生だったさやかなら、ピアノを弾く姿がよく似合いそうだ。

 さやかは、苦笑いして首を振った。

「全然。習い事はそろばんと習字ぐらいです」

「はは。なんか、お前らしいな」

 お花やピアノを嗜むお嬢様というよりも、さやかは机に齧りついているガリ勉タイプだ。そんなさやかだから、冬枝も自然体でいられるのかもしれなかった。



 ほどなくして、冬枝たちのテーブルにも料理が運ばれてきた。

「わあ。美味しそう」

「牡蠣なんか、久しぶりに食うな」

 台所番である高根に許可している食費の額では、牡蠣が冬枝家の食卓に上がることはまずない。

 牡蠣の他にも、サラダや肉料理など、目にもきらびやかなご馳走が並んでいる。冬枝は、早速フォークとナイフを手に取った。

 ――せっかく奮発したんだし、遠慮なく食うか!

 実際、料理は美味い。正直、メニューが読めないせいで牡蠣以外は何の何料理なのかもよく分からないが、どれも普段は口にしない味付けで、新鮮だ。

「美味えか、さやか」

「はい。すごく美味しいです」

 白ワインもよく冷えていて、牡蠣との相性が抜群だ。常ならぬ贅沢な食事に、冬枝は酒も飯もよく進んだ。

「………」

 ムシャムシャと料理を貪っていた冬枝は、ふと、さやかが何か言いたそうにこちらを見ていることに気付いた。

「どうした?さやか」

「あ、いえ…何でもないです」

 さやかは、フォークもナイフも手慣れた様子で使いこなしている。上品に肉を切り分けて口に運ぶ姿など、深夜の塩ラーメンにご飯をぶち込んでいた娘と同一人物とは思えないぐらいだ。

 ――東京じゃ、マナー講習もしっかりやってんのかね。

 しみじみとしたところで、冬枝の背筋に強烈な悪寒が走った。

 ――殺気!

 富裕そうな客が優雅にディナーを楽しむ店内で、こんなに濃厚な殺気が出せる人間は一人しかいない。冬枝は、恐る恐る顔を上げた。

「………」

 源の背中から、強烈な怒りのオーラが放出されている。その肩がわずかに動いているのが見えて、冬枝は視線を、テーブルの下の源の手へと移動させた。

「………!」

 わざわざ冬枝から見える位置に出された源の手は、昔、裏の稼業でよく使っていた指文字を冬枝に示していた。

 ――音を出すな…あっ!

 そこで冬枝は、自分が高級フレンチにがっつくあまり、食器をカチャカチャ鳴らしてしまっていたことにやっと気が付いた。

 ――やっちまった。

 ガキじゃあるまいし、いい年してお皿とフォークで演奏会をしてどうする。さやかもそれを気にしていたのだろうと思い至れば、冬枝は赤面しきりだった。

 冬枝が反省したところで、さやかがおもむろに口を開いた。

「冬枝さんって、やっぱり大人ですね」

「ん?」

 源から恥ずかしい指摘をされたところでそう言われてしまうと、皮肉にしか聞こえなかったが、さやかは褒めているらしかった。

「僕、こんなに素敵なお店に来るの初めてだから、緊張しちゃって。正直、味もよく分からなかったんですけど…冬枝さんが美味しそうに食べてるところを見ていたら、僕も食欲湧いてきちゃいました」

 高級な店でもいつも通りに振る舞える冬枝は凄い、と言って、さやかは笑った。

 ――お前さんと違って、育ちが悪いだけなんだがな。

 だが、それでさやかが食事を楽しめるのならいいか。さやかの笑みに、冬枝も気持ちがほぐれていった。

「この牡蠣のクリーム煮、僕すごく好きです。お家だったら、ご飯入れちゃってたかも」

「お前、シチューにも飯入れるもんな」

「お行儀悪いですけどね」

 こんな庶民的な話をしていると、澄ましたフレンチレストランの店内も、我が家のように温かく感じられてくる。ワインも進み、冬枝は次々に杯を重ねた。

「冬枝さん、飲みすぎじゃないですか?」

「いいんだよ。こんな高い酒、めったに飲む機会ねえからな」

 さやかじゃないが、冬枝も最初は気負っていたのか、ワインの味が分かっていなかったようだ。リラックスして美味さが分かるようになると、ぐいぐい飲んでしまう。

「お前もちょっとだけ飲めよ。なっ」

「もう…。じゃ、一口だけ」

 冬枝からグラスを受け取ると、さやかは白ワインをぺろっと舐めるように口にした。

「…ん?あれ、意外と飲めるかも」

「だろ?安酒と違って、高い酒は口当たりが良くて、悪酔いしねえんだよ。もっと飲んでいいぞ」

「このぐらいにしておきます。冬枝さんも、ほどほどにしてくださいよ」

「平気だって」

 白ワイン単体の味もさることながら、牡蠣との組み合わせが実にいい。プリプリの牡蠣の弾力もまた、何個食べても飽きない食べ応えだ。

 さてもう1個、と冬枝が牡蠣にフォークを突き刺した瞬間、牡蠣の弾力がフォークを押し返した。

 ツルーン!

「!?あっ…」

 牡蠣はそのまま、ロケットのように勢い良く飛び出し、皿の上から発射されてしまった。

 ピョーン…。

 牡蠣は、冬枝の正面のさやか――を通り過ぎ、その背後にいる大きな背中に命中した。

 ベチャッ!

 ――ゲッ!

 さやかに当たらなかったことを喜ぶより、まずいことになった、という焦りが勝った。そんな冬枝の感情に呼応するように、源がゆっくり、ゆっくりとこちらを振り返った。

 その形相、鬼の如し。

 源の冷徹な眼差しは、一瞬で冬枝の中のアルコールを凍らせた。

「冬枝」

 源はすっくと立ち上がると、牡蠣が命中したベストをその場で脱ぎ捨てた。

 ひらりと放られたベストは、冬枝の頭の上に着地した。

 源は、無表情で命じた。

「1分だ」

「はい!」

 冬枝は頭からベストを引っぺがし、ダッシュで店のトイレへと走った。

 洗面所からペーパーナプキンを引っ張り出し、ベストの表面の油分を吸い取る。続いて、布の裏に乾いたナプキンを当てながら、濡らしたペーパーナプキンとハンドソープをシミになじませる。

 コツは、こすらないこと。根気強く、濡らしたペーパーナプキンでシミの油分を移しとっていく。

 冬枝がバタバタとトイレから駆け戻ると、脚を組んだ源が椅子の上で踏ん反り返っていた。

「源さん!出来ました!」

「ん」

 冬枝からベストを受け取った源は、一瞥して「30点」と言った。

「しょうがないでしょう!この短時間じゃ無理ですって」

「クリーニングに出すしかねえな」

 源はベストを椅子に掛けると、おもむろに立ち上がった。

 源がすたすたと向かった先は、店の中央にあるピアノだ。そのまま店員と一言二言会話すると、源は悠然とピアノの前に腰かけた。

 ――源さん、ピアノなんか弾けるのか!?

 驚く冬枝をよそに、源は長い指を鍵盤にかけた。

 笑いさざめく客たちの華やかな喧騒の中に、源のピアノの音色が染み渡る。冬枝は、信じられないような気持ちで目を見張った。

 ――あの人、本当に何でも出来るんだな…。

 長い付き合いだが、源が楽器を演奏するところなど、冬枝は初めて見た。演奏の巧拙は分からないものの、弾く姿はそれなりに様になっている。

 短い時間だったが、演奏が終わると客の間から拍手が起きた。源は堂々とそれを受けると、真っ直ぐにこちらに戻ってきた。

 源が向かった先は、冬枝ではなくさやかのところだった。

「さやか。邪魔して悪かったな」

「いえ…。源さん、お見事な演奏でしたね」

「デートに水差しちまった侘びだ。許してくれ」

 さやかに軽く微笑みかけて、源は響子のいる元の席に戻った。

 ――水差したって自覚があるなら、俺にシミ抜きなんかさせるなよ。

 冬枝は源を恨めしく睨み付けたが、兄貴分の背はとっくに響子とのデートに没入していた。



「源さん、素敵な演奏でしたね」

 と言ったのは、源の正面に座る響子である。

 冬枝は、今更ながら2人の会話に耳をそばだてた。

 ――すっかり忘れてたが、源さんと響子さんの仲はチェックしておかないとな…。

「この1曲だけさ。淑恵に教えてもらった」

 こともなげに応える源に、冬枝は口にしたワインを噴き出しそうになった。

 ――普通、デート中に他の女の名前なんか出すかよ!?

 そういうことに関して冬枝にうるさく説教したのは、他でもない源自身ではなかったか。まして榊原の愛人である響子にとって、榊原の正妻である淑恵は恋敵に他ならない。この場において、淑恵の名前はタブーだ。

 若い頃は彩北の女を一人残らず口説き倒していた源清司も耄碌し、ただの色ボケ親父になったのか。冬枝は、失礼な思考を巡らせた。

 案の定、響子からは複雑そうな声音が返って来た。

「…淑恵さんは、ピアノも弾けるんですか」

「ああ。どうしても、響子の前でピアノが弾きたかったから、淑恵に頼み込んで教えてもらったんだ」

 意外な話の成り行きに、響子は少しだけ瞳を開いた。

「ピアノだけじゃなくて、口もお上手ね、源さん」

「響子には何も隠したくないのさ。淑恵とのことも含めて、全部」

 いつも通り、耳が腐るような源清司節の連発だ。だが、冬枝はその中に、いつもの源とは何か違うものを感じた。

 ――いくら口説き落とすためとはいえ、源さん、手の内を明かし過ぎじゃねえか?

 落としたい女に合わせて、いくらでも口八丁、嘘八百を並べ立てる、デタラメ大百科が源の十八番だったはずだ。事実よりもムード優先の源にしては、やけに正直ではないか。

 ――それだけ、響子さんのことを本気で狙ってるってことか…。

 グビグビと喉を鳴らす音にふと気付いた冬枝は、源たちから正面に座るさやかに意識のピントを合わせた。

「ふう。美味しいですね、これ」

「これ…って、それ、俺のワインじゃねえか。いや、飲んでもいいけどよ…」

 ちらりとビンに目をやれば、中身がかなり減っている。そして今また、さやかがぐっぐっと天を仰ぎながらグラスを傾けているところだった。

「おい、いくら美味いからって、ジュースみたいに飲むなよ。ホントに酔っ払うぞ」

「ひっく」

 冬枝の予想通り、さやかは目つきが怪しくなっている。さやかは赤らんだ顔のまま、流暢にしゃべり出した。

「冬枝さん、知ってますか?シャブリって土地は昔、海の底だったんですって。だから、海の生き物である牡蠣とよく合うんですよ」

「へ、へえ…」

「いわば、シャブリと牡蠣は、ベストカップルなんです。僕も、冬枝さんと、シャブリと牡蠣みたいになりたいなあ…」

 さやかの赤くなった目元が、窺うように冬枝を見つめた。

「………」

 かなりヘタクソなフレーズだが、さやか流の口説き文句なのだろう。わざわざ酒をがぶ飲みしてまで言ったのは、酒の力を借りなければ乗り越えられないほどの羞恥心があったからだ。

 ――つまり、そういうことか。

 さやかの口癖を借りるなら、ここで冬枝が出すべき『解』は――兄貴分のデートを盗み聞きすることなどではない。さやかを、2人きりになれるどこかへ連れ出すことだ。

 ――さやかにここまで言わせておいて、何もしねえってのは重罪じゃねえか…?

 さやかほどではないが、冬枝も相当、酔っ払っている。今の2人なら、普段は乗り越えられない壁を超えられそうな気がした。

 ゴージャスな白ワインが、冬枝とさやかから日常を洗い流していく。わずらわしい常識も、野暮な理性も、まばゆい照明にかき消されてしまう。

 今なら、感情の温度だけで、孤独も不安も蒸発させられる。心地よい高揚感が、冬枝とさやかを包んだ。

「…はっ!」

 気が付くと、いつの間にか源と響子の姿が消えていた。どうやら、食事を終えて席を立ったらしい。

 冬枝は、慌てて席を立ち上がった。

「さやか。そろそろ出るぞ」

「…はい」

 返事こそしたものの、さやかの足元はちょっと危なっかしい。冬枝は思わず、さやかの手を握った。

「…」

 握り返してきた指先から、期待のこもった熱を感じる。レジへと向かいながら、冬枝はいよいよ心が揺れた。

 ――くそっ!このままじゃ本当に、さやかをどうにかしちまう!

 胸の内で巨大化した天秤は、『源たちを追う』と『さやかとしけ込む』の重りを乗せて、ぐらぐら揺れている。前者がすこぶるどうでもいい他人事なのに対して、後者は甘く魅力的だ。

 沸騰しそうな冬枝の頭に冷や水を浴びせてくれたのは、レジの店員のにこやかな発言だった。

「お一人様につき、チャージ料5千円を頂きまして、お会計が6万4千円になります」

「ろくまっ…」

 ――チャージ料って何だよ、聞いてねえぞ!

 そういえば、読めないメニュー表には日本語だけでなく、金額も書かれていなかった。財布から万札を引っこ抜く残酷な瞬間は、冬枝に痛いぐらいに理性を取り戻させてくれた。

 ――俺は、源さんみたいに色ボケするもんか!

 スカスカになった寂しい財布は、冬枝の未来そのものだ。このまま衝動に身を任せ、さやかと束の間は楽しんでも、失うものは金なんかより重い。

 店の扉を閉めると、冬枝はさやかの手を離した。

「冬枝さん…?」

 一瞬、こちらを不思議そうに見上げたさやかと目と目が合う。

 さやかの髪が夜風に揺れた瞬間、その肩を掴んで、強引に唇を奪ってしまった。

 柔らかな感触を、もっと欲しくなる気持ちに必死でブレーキをかける。この瞬間だけを、永遠に刻み込むかのように力強く抱き寄せながら。

 ――今夜は、これで我慢だ!

 さやかに、そして自分自身にもそう言い聞かせるように長く口付けて、冬枝はさやかを解放した。

「あうう…」

 デパートの駐車場でのキス同様、さやかはすっかり呆然自失状態だ。ホカホカと湯気を立てるさやかを助手席に押し込め、冬枝はマークⅡのエンジンをかけた。



 マークⅡは、夜の国道を駆け抜けて行く。

 源と響子が乗ったスカイラインをつかず離れず追いながら、冬枝は源の目的を悟った。

 ――源さん、いよいよしけ込むつもりだな。

 響子はそこまで源との関係に乗り気には見えなかったが、食事の礼に一晩ぐらいなら、とOKする可能性はある。冬枝は、気が重くなった。

 ――いいところを邪魔されたら、源さん、絶対ブチ切れるぞ…。

「うみ…」

 そこで、助手席でぼんやりしていたさやかが何か呟くのが聞こえて、冬枝は我に返った。

「ん?」

「海が見えますね、冬枝さん」

「ああ…そうだな」

 車窓の向こうには、海が広がっている。尤も、昼間ならともかく、今の海は墨汁みたいなどす黒さだ。

 さやかがそんな味気ない景色にコメントしたのは、車内に漂うこの妙な静けさのせいだ。そうと気付いた冬枝は、ごそごそと手元を探った。

「なんか、カセットでもかけるか。何本か持って来たんだよ」

 使い古しだが、デート用のカセットテープをいくつか用意しておいたのだ。源に気を取られるあまり、今の今まですっかり忘れていた。

 セットリストは、源に勧められるがままに録音した、冬枝が若い頃に人気のあった洋楽だ。冬枝は正直、英語の歌はピンとこないが、さやかなら楽しめるだろう。

 適当にテープをオーディオにセットして、冬枝は再生ボタンを押した。

 ――♪

「……!?」

 次の瞬間、流れてきたのはちょっとレトロだが心地よい昔のバンドサウンド――ではなく、若者たちの歓声と、くぐもったマイクから響き渡る女子高生の歌声だった。

「冬枝さんっ!これ、僕の文化祭のテープじゃないですかっ!」

「さいっ!間違って、さやニャンのテープ持ってきちまった」

「さやニャンって呼ぶなっ!」

 以前、『アクア・ドラゴン』に所属するさやかファンの不良たちから没収したテープだ。さやかからは返せと要求されたものの、冬枝は聞く耳を持たず、時々こっそり聞いて楽しんでいた。

 車内に響き渡るさやかの歌声に、冬枝は目を細めた。

「あー、さやニャンの歌はいいな。何度聞いてもいい」

「止めろっ!こんなの、聞く価値ありませんっ!」

「んなこたねえよ。源さんの即席ピアノより、お前の歌のほうがよっぽどいい」

 さやかは照れ臭そうにしているが、冬枝は本気でそう思う。

 ――ああ、ホントにいい気分だ。

 幻術にかけられたようだったフレンチレストランでのひと時よりも、今のほうが安らぐ。冬枝は、無性に夜風を浴びたくなった。

 そう思っていた冬枝の目に、白く輝く空間が目に留まった。

「おっ、自販機あるぞ。なんか飲み物買ってくるか」

「僕も行きます」

 冬枝は車を停め、自販機が並ぶ小さなオートスナックに降りた。

「わあ、見てください、冬枝さん!ハンバーガーがありますよ!」

「食いしん坊だな。さっき食ったばっかだろ」

「あっ、ホットサンドもある!ラーメンも!どうしよう、どれにしようかなぁ」

「おいおい」

 と言いつつ、冬枝も軽食の自販機が気になった。よく見れば、そばやうどんの自販機まである。

 ――あのぐらいなら、今の腹にも入りそうだな…。

 結局、冬枝は天ぷらそば、さやかはチーズのホットサンドを、それぞれコーヒーと共に購入した。

 さやかは、自販機から出てきたアルミに手を触れかけて、指先を引っ込めた。

「あっつ」

「気をつけろよ。どれ、俺が持ってってやる」

 ベンチに腰掛け、冬枝はふうと一息吐いた。

「トーストなんか、家でだって食えるだろ」

「自販機で買うと、何だかワクワクするじゃないですか。ふふっ」

 さやかは、湯気を立てるトーストを熱そうに指先で持った。

 冷えた夜風が、肌に心地いい。冬枝は、そばのつゆをずずっと啜った。

「あー、うめ」

「冬枝さんこそ、お店であんなに食べた後でおそばなんて、食べすぎじゃないですか?」

「いいじゃねえか、このぐらい」

 夜の冷たい空気の中で食べると、そばの熱さが身体の奥まで染み渡る。なんてことないダシや天ぷらの味が、今はちょうどいい。

 さやかは、ずいっと前のめりになって冬枝に近寄った。

「冬枝さんの健康のために、僕に天ぷらを分けることをお勧めします」

「お前が食いたいだけじゃねえか。ったく、俺にもトースト寄越せよ」

「ふふっ。はーい」

 交互にトーストとそばを分け合いながら、冬枝とさやかは行き交う車を眺めた。

「こんな時間に外で食べてるなんて、何だかいけないことしてる気分です」

「なんも。こんなトコに自販機があるのが悪ぃんだ」

 ――この辺も、景気が良いもんだ。

 こじんまりとしてはいるが、こんな田舎にもオートスナックがあったとは。端のほうにはエロ本の自販機まであったが、それについては冬枝もさやかも見ないふりをした。

 ――今は、スケベとかそういう気分じゃねえんだ。

 さやかと2人、この世界の果てみたいな粗末なベンチの上で、ただのんびりと過ごしていたい。吸い慣れたタバコでさえ、何だか優しい味がした。

「へっくしゅ」

「ん?さやか、寒ぃか」

「大丈夫です」

 とは言っているものの、確かにこの吹きっ晒しの休憩所は、さやかのカクテルドレスだと冷えるだろう。冬枝は、着ていたジャケットをさやかに羽織らせた。

「ほれ」

「あ…ありがとうございます」

「ん。ゆっくり食えよ」

 冬枝もトーストをかじり、2人で黙々と夜の軽食を味わう。

 このまま、眠ってしまいそうなぐらい、穏やかなひと時だった。

「……」

 ――って、呑気に休憩してる場合じゃねえんだった!

 すっかり忘れていたが、源たちを追わなければならない。スラックスの尻を軽く払うと、冬枝はそそくさと立ち上がった。

「あんまり長居すると、風邪引いちまうな。戻るぞ、さやか」

「はい」

 名残惜しいが、冬枝は温かな雰囲気を蹴散らすように、早足にマークⅡに戻った。

 ――そうこうしてる間に、源さんと響子さんがデキちまったらまずい!

 何がまずいって、榊原だ。源が響子に手を出したなどと知ったら、響子を娘のように大事にしている榊原はどれほど怒ることか。

 ――車を見失っちまったが、追いつけるか。

 しかし、冬枝の心配は杞憂だった。自販機が並ぶ休憩所のすぐそこに、大人の休憩所が聳え立っていたのだ。

 ピンク色に輝くネオン管を見上げ、冬枝とさやかは呆然と立ち尽くした。

「『ムーンライト・パラダイス』……」

 今になって冬枝は、充実したオートスナックが忽然と道路沿いにあった理由を察した。あそこは前哨戦、もしくは『ご休憩』帰りにでも、恋人たちが寄るためにしつらえられた場所だったのだ。

 ――さやかにも、そう思われてたら嫌だな…。

 トーストとそばを平らげたあの和やかなひと時は、それ以上でも以下でもない。決して「ムフフ、これからお前にけしからんことをしてやるぞ」などと舌なめずりしながら腹ごしらえをしていたわけではないのだ。

 さやかの頬が赤いのは、駐車場を煌々と照らすネオンのせいか。嫌がるそぶりの一つぐらい見せてもらわないと、こっちも引っ込みがつかないではないか。

 青のスカイラインは、目の前の駐車場に停まっている。源を止めるには、冬枝たちもホテルに入るしかない。

 ――だが、それってもう後戻りができなくなるんじゃねえか…!?

 ここは、月よりも眩しく輝くピンク色の楽園だ。平和に過ごしたオートスナックは、もう遥かに遠い。


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