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44話 パンチドランカー・ララバイ(その4)

第44話 パンチドランカー・ララバイ(その4)


 朽木は、弟分たちに市内の薬局を捜索させていたという。

「美佐緒姐さんに殴られた野郎は、結構な手負いだった。だが、病院なんかに行ったら、転んで出来た傷じゃねえとすぐにバレる。そうなりゃサツに通報されて、事情をあれこれ聞かれちまうだろ?だから、自力で手当てするはずだと踏んだのさ」

 朽木の推理に、さやかはなるほどと感心した。

「で、薬局の人たちからは、どうやって客の情報を聞き出したんですか」

「そんなもん、組の名前出しゃ一発よ。頭からダラダラ血を流してたってんで、店員もよく覚えてたらしい。こりゃただ事じゃねえと思って、塗り薬の処方に必要だからっつって、保険証を提示させたそうだ」

 朽木の運転するジャガーには、朽木とさやかだけでなく、白虎組若頭補佐――霜田も乗り込んでいた。

 霜田は、眼鏡の奥の瞳でちらりとさやかを見やった。

「ところで、麻雀小町。その面妖な姿は何です」

「ああ、これですか」

 さやかは、顔を包帯でぐるぐる巻きにしていた。さやかの意志ではなく、朽木の命令でやらされたものだ。

 ――冬枝さんの仮装に比べたら、僕は『面妖』のうちにも入らないと思うけど。

 かぼちゃパンツでよたよたと走っていた冬枝を思い出し、さやかは一人溜息を吐いた。

 朽木は、ハンドルを握りながら説明した。

「組の女を傷物にしやがって、って怒鳴り込むにゃ、このぐらいの演出は必要でしょう」

「流石は朽木。悪知恵ではお前の右に出る者はいませんね」

 霜田の褒め言葉に、朽木がふふんと得意げに笑った。

 さやかは、スカートの上で両手を握り合わせた。

「犯人は恐らく、自分のしたことはたかが平手打ちだと軽く考えています。連中の罪の重さを、思い知らせてやりましょう」

「やる気だな、麻雀小町」

 さやかは、パンと手の中で拳を打った。

「雀荘は、人を殴る場所じゃない!…犯人には、そう言ってやるつもりです」

「…はあ」

 朽木と霜田は、さやかのズレた意気込みに、気の抜けた声しか出てこなかった。

 霜田や朽木の弟分たちの手には、警察に見つかったら明らかに『凶器』認定される代物が握られている。無論、さやかにそれを咎めるつもりはない。

 ――ビンタ男たちの目的は何なのか、突き止めてやる。



 ジャガーが停まったのは、住宅街にあるありふれたアパートの前だった。

 朽木たちは、犯人の部屋を突き止めたらしい。一同は、ある一室の前で止まった。

 チャイムを鳴らしたが、反応はない。朽木は、さやかをアゴでしゃくった。

「麻雀小町。てめえが行け」

「はい」

 朽木の言わんとするところは分かった。街中でビンタ騒動を起こした挙句、返り討ちにあって大怪我をした犯人は、今頃、部屋の隅で縮こまっているはずだ。誰か分からない訪問者を、相当警戒しているに違いない。

 さやかは、ドアの前で口を開いた。

「あのう、すみませーん。隣の部屋の者ですけど、上の階から水漏れしてるみたいなんです。そちらは大丈夫ですか?」

 すると、部屋の向こうから怯えたような上ずった声が返ってきた。

「み、水漏れなんかしてないよ!うちは大丈夫だから、さっさと帰って!」

 犯人は、どうやら『ご在宅』のようだ。朽木は、弟分たちに目配せした。

 さやかはこのまま口から出まかせを並べて、何とか犯人を部屋から引きずり出そうと考えていたが、ヤクザたちはもっと手っ取り早い方法を選んだ。見た目もごつい斧を使って、ドアを叩き壊したのだ。

 どっかーん!

 轟音と共に、扉が割れて蝶番が吹っ飛んだ。

 まさか、いきなりドアを破壊して部屋に乗り込んでくるとは思ってもいなかったのだろう。頭に不格好な包帯を巻いたまま、部屋の隅にしゃがみ込んでいた30代の男が、慌てて窓から逃げようとした。

「ひいーっ!」

「逃げても無駄だぜ。そっちの窓の裏は、俺の弟たちが固めてる」

 シャッと開けられたカーテンの向こうには、朽木によく似た悪人面が3人並んでニヤッと微笑んでいた。包帯男は、ギャーッと叫んで尻餅をついた。

「……」

 さやかは、部屋に分厚いパソコンがあるのを確認した。

 弟分たちに包帯男を確保させると、朽木はずいっと男に迫った。

「おい、てめえ。よくも組の女に手を出してくれたな」

「く、組?」

「とぼけんじゃねえ。見ろ、この顔を」

 朽木はさやかを引き寄せ、ミイラのようになった包帯顔を指差した。

「てめえのせいで、うちの大事な女がこんなツラになっちまったじゃねえか。これじゃ、使いものになりゃしねえ。どう責任取ってくれるんだ」

 何やら朽木に失礼なことを言われている気がしたが、さやかは腹が立つのを堪えた。

「お、俺、そんな子殴った覚えないよ」

「この期に及んで、言い逃れか。てめえ、いい根性してるじゃねえか」

「いえ、朽木さん。この男は、僕を殴った犯人とは別人です」

「ああ?」

 さやかはそこで、ミノルとも話した「犯人は複数いる説」を朽木に教えた。

「朽木さんが犯人のことを『おっさん』と表現していたのがヒントになりました。『こまち』に現れた男は、もっと若かったので」

「ははーん。じゃあ、女を殴る野郎がたまたま彩北に連続して現れた、ってのか?」

「いえ」

 さやかは、真っ青になっている包帯男に目を向けた。

「あなたたちは、パソコン通信で知り合ったんじゃありませんか」

「えっ…なんで、それを」

 さやかは、驚く包帯男に滔々とまくしたてた。

「白虎組を侮ってはいけませんよ。白虎組では1000台のパソコンを駆使して、町中のパソコン通信を監視し、不穏分子がいないか日夜パトロールしています。あなたたちが知り合った掲示板も、既に白虎組によって突き止められています」

「い、今時のヤクザって、そんなにハイテクなんだ…!」

 無論、はったりである。白虎組にはパソコンなど一台もないが、朽木も霜田もすっとぼけた。

 そこで、ずんずんと大股に歩いてきた霜田が、包帯男の胸倉を掴み上げた。

「このクソ野郎、よくも人の女房に手を出しやがったな!貴様など、×××して×××した上、××××の××××させてやる!」

「ヒイーッ!許してくださいっ!」

「誰が許すか、この外道ーッ!」

 男の懇願も虚しく、霜田は男にビンタを食らわせた。それも一発、二発では終わらず、パパパパンと目にも止まらぬ連続ビンタだった。

 霜田の激昂っぷりにはさやかも朽木も目を丸くしたが、止めることはなかった。

 包帯男の鼻血が床を汚す頃、ようやく霜田は男から手を放した。

「はあ、はあ、はあ…」

 荒い息を吐いて肩を上下させる霜田の横から、さやかは包帯男に声をかけた。

「もう、あなたたちに逃げ場はありません。他の仲間の居所を教えてください」

「そ、そんなの分かんないよ。俺たち、掲示板で知り合っただけだから、互いの名前も顔も知らないんだ」

「…でしょうね」

 そうだろうとは思っていた。さやかはひとまず、男にパソコンを起動させ、掲示板でのやり取りを追うことにした。

「『おジャマなメスどもぶっ殺す会』……」

 口にするのもおぞましいような名前の掲示板は、女への罵詈雑言で埋め尽くされていた。さやかは見ていて不愉快になったものの、掲示板に投稿された内容はいずれも愚痴や悪口の類ばかりで、タイトルほどに過激な集まりではないようだった。

 くわえタバコで画面を見ていた朽木が、呆れたように目を細めた。

「こんなトコで憂さ晴らしするしかねえなんて、哀れな連中だな」

「…俺たちみんな、気が弱くて、女に逆らえないんです。俺は職場でパートのおばさんにイビられてるし、他の奴も、別れた彼女にひどいフラれ方したとかで」

 血の流れた鼻にティッシュを詰めながら、「でも」と包帯男は愛しげに画面を見つめた。

「ここでみんなとダベってる時は、心が楽になれたんです。ここは女から解放された、男だけの国。ここにいる時だけは、うるさい女たちにビビらなくてもいい。電話代は高くついたけど、俺たちは毎晩、夢中で書き込みし合ってました」

 包帯男はうっとりしていたが、朽木も霜田も「理解できない」という顔をしていたし、さやかも同感だった。

 男の陶酔を遮るように、朽木がガンとデスクを叩いた。

「だったら、好きなだけパソコンで女の悪口言ってりゃいいだろ。なんで、町中の女をビンタして回るなんてバカげたことしたんだ」

「そ、それは…」

「…この『パンチドランカー』ってハンドルネームの人のせいですか」

 さやかは画面をスクロールするうちに、あるユーザーの投稿を探り当てていた。

 大概は日常の愚痴や悪趣味な冗談で盛り上がっている掲示板の中で、『パンチドランカー』の投稿だけが異質だった。

『俺は女を許さない。女は地球上から滅亡すべき』

『女を殺していいって法律ができたら、俺は真っ先に賛成する』

『女がいる世界で生きていくのが耐えられない』

 さやかが『パンチドランカー』の投稿を示すと、包帯男は悲しそうに俯いた。

「…そいつ、子供の頃にお袋さんに酷くいじめられてたとかで、めちゃくちゃ女を恨んでるんです。それで、ついには『街中の女を殴り殺す』とか言い出して…」

「…なんですって!?」

「これはヤバいと思って、特に仲の良かった俺たち3人が、何とかそいつをなだめたんです。『俺たちが街中の女を殴ってやるから、バカな真似はよせ』って」

「それで、手分けして街中の女性たちをビンタして回ったんですね」

 さやかが言うと、包帯男は力なく頷いた。

「顔も見たことねえ相手のために、よくそこまでできるな」

 朽木が眉をひそめたが、さやかは「無理もないでしょう」と言った。

「顔も見たことがないからこそ、強い仲間意識が生まれるんです。ここでは年齢や立場なんて関係なく、誰もが気持ちだけで繋がることができます。まして、辛い過去を持つ仲間のことを、放ってはおけなかったんでしょう」

「どうだか。過激な仲間に便乗して、自分の憂さを晴らしたかっただけじゃないんですか」

 霜田の皮肉もまた、間違ってはいないだろう。どのみち、女性を殴って回った男たちの気持ちなど、さやかも理解するつもりはない。

 さやかは、最近の『パンチドランカー』の書き込みを見て、絶句した。

「『俺は女を俺と同じ目に、いやそれ以上の苦痛を叩き込まないと気が済まない。俺は一人でもやる』……!?」

「何!?」

「全然、なだめられてないじゃないですか!」

 朽木と霜田の双方に肩を揺さぶられ、包帯男は「すみませ~ん!」と悲鳴を上げた。

「てめえ、この男の居場所分からねえのか」

「分かんないですけど、多分、市内だと思います。よく駅前の店とかイベントの話してたんで」

 だが、『市内に住んでいる』というだけでは、顔も年齢も分からない『パンチドランカー』を特定することは難しい。朽木が包帯男の胸倉を掴んだ。

「おい。てめえ、何とかしてこいつを呼び出せねえか」

「無理です。最近じゃ俺たちの呼びかけにも返事しなくなって、どんどん自分の世界に入っちゃってる感じなんです」

 朽木の剣幕に押され、包帯男は「やってはみますけど」と弱々しく付け加えた。

 さやかは掲示板の上から下まで目を通し、首を横に振った。

「…いえ。やみくもに相手を刺激しない方がいいでしょう」

「おい、麻雀小町」

「ここのところのやり取りを見る限り、『パンチドランカー』は仲間の慰めや説得に、却って苛立っている様子がうかがえます。ビンタ騒動を起こしたこの人が呼び出しても、捕まって警察に協力させられているのでは、と疑いかねません」

 猜疑心に駆られた『パンチドランカー』が掲示板を見るのをやめてしまったら、『パンチドランカー』に連絡する手段は断たれる。それだけは、避けなければならなかった。

 ――どうにかして、『パンチドランカー』を引きずり出せないか。

 そこで、さやかの脳裏に浮かんだのは、あの縦ロール頭だった。



 包帯男とその他の犯人たちについては、朽木たちが軟禁することになった。

 さやかは残りの2人とも話したが、得られた情報は包帯男と一緒だった。『パンチドランカー』の素性を知る者は、誰もいない。

 ――やっぱり、策を使ってパンチドランカーをおびき出すしかない。

 夕方、さやかが『ザナドゥー』で朽木にそのことを話すと、朽木はパチンと指を鳴らした。

「いいじゃねえか。俺様は賛成だぜ」

「ですが、冬枝さんは反対すると思います」

「どうでもいいだろ、あんなかぼちゃパンツのオッサンなんか」

「…バッチリ見てたんですね、朽木さんも」

 聖天高校運動会の仮装競走での冬枝の王子様コスプレは、色々な意味で衝撃的だった。天敵である朽木にまであの姿を見られてしまった冬枝に、さやかは心の底から同情した。

「ありゃ最高だったな。カメラ持ってくりゃ良かったぜ」

「く、朽木さん」

 冬枝の件から話を逸らすためではないが、さやかは話題を元に戻した。

「この作戦、僕一人ではできません。朽木さんにも力を貸してもらえませんか」

「お安い御用だ。麻雀小町に何かあったら、朱雀組の5代目が黙ってねえからな」

 いきなり意外な名前を出され、さやかは面食らった。

「は?」

「てめえ、竿灯の夜を覚えてるか」

「…そりゃ、まあ」

 冬枝と元恋人・エミコの会話を誤解したさやかは、一人で夜の街に駆け出したところを朽木に捕まった。あの時は気が動転していたのもあって、朽木の話などろくに聞いていなかった。

 朽木はカウンターに頬杖をついて、ふーっとタバコの煙を見上げた。

「俺様がいいとこに連れて行ってやるって言ったのに、てめえときたら、話の分からねえ女だよな。しかも、妙なオッサンに蹴られたし、散々だったぜ」

「…それが、どうしたんですか」

「まだ分からねえか。俺様はあの夜、柘植雅嗣にてめえを連れて来いって命じられたんだ」

「……柘植さんに?」

 目を見開くさやかに、朽木は「おうよ」と得意げに笑った。

「朱雀組の5代目とは、ちょっとしたコネがあってな。てめえとのパイプ役に、俺様が任命されたんだ」

「…本当ですか?」

 あの紳士的な柘植が、よりによってこの高慢で男尊女卑の朽木を選ぶとは信じがたい。

 疑いの目を向けるさやかに、朽木はアルマーニのジャケットから名刺を取り出した。

「これが証拠だ。ホレ」

 朱雀組5代目組長、柘植雅嗣――その名が印刷された名刺を、さやかはしげしげと見つめた。

「…確かに、本物ですね」

「偽物なんか出すかよ。朱雀組の5代目相手にそんな真似したら、俺様の命がねえ」

「………」

 ――でも、どうして柘植さんは朽木さんに…?

 そう考えたさやかの脳裏に、受話器の向こうから聞こえるあの甘い声が響いた。

「…そうか。柘植さんとのコネって、鳴子さんですね」

「ちっ。妙なところ察しがいいな、てめえは」

 朽木は「言っとくが、メイちゃんに枕させたわけじゃねえぞ。メイちゃんは実力で、5代目に気に入られたんだからな」と念を押した。

「分かってますよ」

 柘植は、鳴子を愛人にするような男ではない。さやかから見ても幼げで純粋な鳴子のことを、柘植も気にかけているのだろう。

 ――わざわざ朽木さんに声をかけてまで、柘植さんは僕のことを……。

 さやかは、首を横に振った。今は柘植のことより、『パンチドランカー』を何とかするほうが先決だ。

「朽木さん。冬枝さんにも、このことを相談しないといけません」

「ああ。俺様も一緒に行ってやるよ」

 さやかが「柘植さんのこと、冬枝さんには…」と言うと、朽木が手のひらで遮った。

「言うか。冬枝どころか、組にも極秘なんだからな。てめえも喋るなよ」

「…はい」

 冬枝から朽木とつるんでいると思われるのは不本意だが、今はやむをえない。さやかは、朽木のジャガーで榊原邸へと向かった。



 榊原邸の書斎に、さやかと朽木、冬枝、そして榊原の4人が集まった。

 さやかの話を聞いた榊原は、オーク材の立派なデスクの上で腕を組んだ。

「霜田からも電話で報告を受けたが…その『パンチドランカー』って奴が、本当に犯行に及ぶという確証はあるのか?」

 実行犯3人を捕まえた以上、奈々恵や美佐緒の仇討ちは済んだ。これで一件落着、としたいところではあるだろうが、さやかはまだ不安材料があると訴えた。

「掲示板に寄せられた投稿を読む限り、『パンチドランカー』の女性に対する憎しみは尋常じゃありません。仲間たちが起こしたビンタ騒動にも満足していないところを見ると、自ら行動に出る可能性は決してゼロではないかと」

「それで、嬢ちゃんはどうするつもりなんだ」

「僕に、考えがあります」

 そこでさやかは、『ザナドゥー』で朽木にも語った作戦を開陳した。

「佳代さんに囮になってもらいます」

「なんだって!?」

 と叫んだのは、冬枝である。

 さやかは冬枝をちらっと見てから、説明を続けた。

「灘議員の孫娘が彩北に来ている、というのは恐らく『パンチドランカー』の耳にも入っているでしょう。上流階級の佳代さんに、『パンチドランカー』はかなり攻撃欲求を刺激されるはずです。そこで、掲示板にわざと佳代さんの居場所を流し、『パンチドランカー』をおびき出します」

「さやか、お前、正気か!?」

 冬枝は、横からさやかの肩を揺さぶった。

「いくら佳代さんが気に入らねえからって、その何とかかんとかって奴を使ってぶん殴らせるなんて、卑怯じゃねえか。いつからそんな血も涙もない女になっちまったんだ」

「おいおい、落ち着けよ冬枝」

 と、わざとらしく間に入ったのは朽木である。

 朽木の薄ら笑いに嫌なものを感じて、冬枝は眉をひそめた。

「てめえがさやかをそそのかしたのか」

「ああ?」

「とにかく、佳代さんに囮をやらせるなんて、俺が許さねえぞ。さやか」

 冬枝は、佳代の純粋な眼差しを思い出した。

 佳代は、冬枝がヤクザだろうと関係なく、信頼してくれている。そんな佳代に、傷一つ付けるわけにはいかない。

 ――佳代さんは、俺が守る!

「………」

 さやかは横顔を冬枝に向けたまま、静かに告げた。

「佳代さんには、安全な場所にいてもらいます」

「えっ?」

「囮は、僕がやります」

 さやかが、佳代の振りをして『パンチドランカー』を引き付ける。それが、さやかの作戦だった。

 冬枝も榊原も、愕然とした。

「お前…、どうやって『パンチドランカー』と闘うつもりだ」

 冬枝の当然の疑問に、朽木がしたり顔で前に出た。

「そこは、この俺様が麻雀小町のボディガードになってやるよ」

「あぁ?てめえが?」

「麻雀小町直々のご指名だ。なぁ?」

 朽木に肩を叩かれ、さやかは「…ええ、まあ」と頷いた。

 ――こいつら、いつの間にそんな仲になったんだ?

 冬枝が佳代に付き合っている間に、さやかは朽木とよろしくやっていたのだろうか。冬枝は、頭がくらくらした。

 そこで、ずっと話を聞いていた榊原が口を開いた。

「…嬢ちゃん。何もそこまでしなくたって、黙ってれば『パンチドランカー』もそのうち鳴りを潜めるんじゃねえのか。今のところは、パソコンで暴言を撒き散らしてるだけなんだろ」

 さやかは、パソコン画面に表示された掲示板をうっとりと見つめていた包帯男のことを思い出した。

「彼らにとっては、パソコン通信こそが現実です。今は画面上の暴言に過ぎなくても、実行に移す日が来ない保証はありません。実際、捕まった3人は『パンチドランカー』の投稿に危機感を抱いたからこそ、彼の代わりに犯行に及んだ」

 仲間である3人がまずいと思うほど、『パンチドランカー』の凶暴さは高まっている。女性たちを軽く叩いて回る程度だった3人と違って、『パンチドランカー』の憎しみは本物だ。

「勿論、『パンチドランカー』が行動を起こさなければ、それに越したことはありません。ただ、佳代さんに万が一のことがあってはいけませんから」

 佳代は、明日の朝の新幹線で帰る手筈になっている。そこまでの道中で、『パンチドランカー』に襲われればひとたまりもない。

「佳代さんのことは、冬枝さんや榊原さんの親衛隊の皆さんが守ってあげてください。僕には朽木さんがいますから、大丈夫です」

 さやかはしれっと言ってのけたが、冬枝はちっとも『大丈夫』ではなかった。

「バカなこと言ってんじゃねえ」

「冬枝さん」

「朽木なんかがあてになるか。俺は反対だぞ」

 何が悲しくて、さやかをノコノコと危ない場所に行かせなければならないのか。冬枝には、無謀としか思えなかった。

「予想が的中したな、麻雀小町」

 朽木にニヤニヤと肩を引き寄せられ、さやかは「ええ」と困り顔で頷いた。

「冬枝さん、これは絶好のチャンスなんです」

「何がチャンスなんだよ」

「言っちゃ悪いですけど、佳代さんはかなり目立ってます。聖天高校の運動会は一般開放でしたから、佳代さんの風貌は街の皆さんにも伝わっているでしょう。勿論、『パンチドランカー』にも」

 佳代と年の近いさやかなら、佳代になりすませる。派手な標的に、『パンチドランカー』が食いつく可能性は高い。

「だがよ…」

 なお言い募ろうとする冬枝の顔を、さやかはすっと覗き込んだ。

「佳代さんのこと、冬枝さんが守ってくれるんでしょう?」

「いや…そりゃ、まあ」

「冬枝さんが佳代さんについていてくれるから、僕も安心してこの作戦を実行に移せるんです。佳代さん本人に何かあったら、元も子もありませんから」

「でも、何もお前がそこまでしなくたっていいだろ」

 冬枝の言葉に、さやかは首を横に振った。

「美佐緒さんや奈々恵さんのような被害に遭う人を、これ以上見たくないんです。僕自身、悔しい思いをしましたし」

「さやか…」

 そこで、さやかはぐっと拳を握り締めた。

「雀荘は、人を殴る場所じゃない!麻雀を打つ場所です!」

「てめえ、まだそれ言うのかよ…」

 朽木が、呆れ気味に言った。

「………」

 榊原はしばらく考えていたが、やがて「分かった」と低い声で告げた。

「朽木。嬢ちゃんの作戦に協力してやれ。親分には俺から言っておく」

「はい」

 榊原があっさり作戦を了承したことに、冬枝は泡を食った。

「榊原さん、本気でこんなことをさやかにやらせるつもりですか!?」

「冬枝」

 榊原は、冬枝を宥めるように言った。

「嬢ちゃんの言う通り、佳代ちゃんに万が一のことがあっちゃならねえ。灘先生の手前もある」

「そりゃそうですけど…」

「それに、俺には例の『パンチドランカー』がそうそう姿を現すとは思えねえ。仲間3人が自分の代わりに恨みを晴らし、結果、捕まったんだから、奴はこのまま雲隠れを決め込む可能性のほうが高いんじゃねえか」

 つまり、さやかの囮作戦は空振りで終わる。あくまでも万が一の時のための保険だ、と榊原は言いたいのだろう。

「嬢ちゃんの作戦より、冬枝、お前のほうが重要だ。佳代ちゃんが帰りの汽車に乗るまで、傍に付いててやってくれ」

「榊原さん…」

「俺も結構長い付き合いだが、佳代ちゃんが彩北であんなに楽しそうにしているところを、初めて見たよ。お前がいてくれれば、佳代ちゃんも安心できるんだ。頼む」

 榊原から優しい叔父さんの顔でそう言われたら、冬枝にはもう何も言えなかった。

 ――でも、それじゃさやかが……。

 冬枝の気持ちを察したのか、さやかは先回りするように微笑んだ。

「安心してください。冬枝さん」

「さやか」

「僕が『パンチドランカー』を捕まえて、この騒ぎをおしまいにします。だから、佳代さんのこと、笑顔で送ってあげてくださいね」

 結局、さやかの囮作戦に反対する人間は、冬枝以外はいなかった。

 さやかたちは明日の朝、佳代に扮して別の場所に『パンチドランカー』をおびき寄せ、その間に冬枝と佳代は駅へと向かう、という段取りで、その場は解散となった。

 ――本当に、これでいいのか…?

 釈然としない冬枝をよそに、さやかは朽木のジャガーで悠然と榊原邸を去って行った。



 その夜、榊原邸では佳代の作ったお菓子が振る舞われた。

「佳代特製、ラングドシャクッキーですわ❤サックサクの生地が、お紅茶とよく合いますのよ。さぁおじさま、お召し上がりになって❤」

 フリフリのエプロンをまとって皿を差し出す佳代に、冬枝は「ありがとうございます…」と礼を述べた。

 真っ白い生地のクッキーを口に入れると、あっという間に溶けてなくなった。

「美味いですね」

「でしょっ?でしょでしょ~っ!?うふふっ、ラングドシャクッキーって、焼くのが難しくってぇ。佳代、おじさまのために頑張りましたわ❤」

「佳代さん、ホントに料理上手ですね」

「いや~ん、おじさまったら❤クッキーだけじゃなくって、佳代のことまで食べたくなっちゃった?」

「いや、そんな…」

 佳代に頬を寄せられ、冬枝は力なく笑った。

 そこで、ティーカップに紅茶を入れていた淑恵が「あら」と言った。

「冬枝さん、何だか少しお疲れじゃありませんか?」

「えっ?ああいや、そんなことないですよ」

「まあ大変っ!もしかしておじさま、運動会で張り切りすぎちゃったのかしら。佳代のことを抱いて走ってくださったものね…❤」

 佳代はうっとりと頬に手を添えると、「そうだわっ、おばさま、わたくしが持ってきたバラのジャムを持ってきてくださいませ!」と淑恵に命じた。

「佳代ちゃんのお気に入りのジャムね。瑞恵と奈々恵も美味しいって言ってたわ」

 淑恵がそう言って持ってきたジャム瓶を、佳代は礼も言わずに横から奪い取った。

「見て、おじさま。このバラのジャム、赤色がとっても綺麗でしょう?ほら!まるで、ルビーみたい」

 佳代が顔の横に掲げたジャム瓶を、冬枝は「はあ」とぼんやり眺めた。

「なんか、血みたいな色ですね」

「えっ?」

 佳代がぽかんとし、場が一瞬、静まり返った。

 淑恵が軽く目元を引きつらせているのを見て、冬枝はやっと失言に気付いた。

 ――しまった!

「ちっ、ちっ、力がみなぎってくる色ですね!って、言ったんですよ」

「まあ、おじさまったら❤このジャムはね、色だけじゃなくて、香りもとっても素敵ですのよ。ひとくち口に入れると、バラの花園にいるみたいな気分になりますの」

 早速、佳代はジャム瓶を開けようとしたが、指をかけてすぐ顔をしかめた。

「やだっ、フタが固くって開かないわ」

「あら、本当ね」

 淑恵もビンを開けようとしてみたが、力を込めてもフタが回らない。

 冬枝は、おもむろに手を伸ばした。

「じゃ、俺が開けますよ」

「きゃぁっ、おじさま、頼もしい❤」

 冬枝はビンに手をかけると、フタを回そうとして――両手に力を込めた瞬間、指がガラスにめり込んだ。

 バリーン!

 佳代ご自慢のバラのジャム瓶が、冬枝の手の中で粉々にひび割れた。

「げっ…」

「あっ…」

「………」

 またもや、場がシーンと静まり返った。

「大変、すぐに拭くわね」

 凍り付く冬枝と、呆気に取られる佳代に代わって、淑恵がすかさず布巾を持ってきた。

「冬枝さん、お怪我はない?」

「ああ、怪我はないですけど…すみません、佳代さんのジャムが」

「おじさま…」

 佳代は割れたジャム瓶をまじまじと見つめてから、ふふっと唇をほころばせた。

「もう、そんなにジャムが食べたかったのね。おじさまってば、可愛い❤」

「は、はは…」

 冬枝自身、自分でも何をやっているのかよく分からない。甲斐甲斐しく手を拭いてくれる淑恵を、ぼんやりと見下ろすことしか出来ない。

「ビンは割れてしまいましたけど、中身はまだ残ってますわ。このジャム、クッキーとも相性抜群ですのよ。さぁ、召し上がって❤」

 佳代はスプーンでジャムをすくい取り、冬枝のクッキーに乗せてくれた。

「いただきます」

 冬枝は、クッキーを一口ぱくっと食べた。

 確かに、バラの香りが鼻へと突き抜ける。これはまるでバラの花園、というより――。

「なんつーか、トイレの芳香剤みたいな…」

「えっ?」

 佳代が首を傾げ、場は三度、シーンと静まり返った。

 淑恵の笑みがぴくぴくと痙攣しているのを見て、冬枝は再び失言に気付いた。

 ――まーた、やっちまった!

 冬枝は、必死で取り繕った。

「と、と、トレビアンな芳香が、口の中に漂って……」

「まあ、おじさまったら❤そんなに気に入ったなら、どうぞお紅茶にも入れてくださいませね。佳代はよく、バラの花びらを浮かべたお紅茶を寝る前に飲んでいますのよ」

 佳代は冬枝言うところのトイレの芳香剤、もといトレビアンな芳香のバラのジャムを、親切にティーカップに入れてくれた。

「おじさまがようっく眠れるように、佳代がおまじないをして差し上げますわ❤」

 冬枝のティーカップをスプーンでくるくる楽しそうにかき混ぜる佳代は、無邪気そのものだ。冬枝は、自分が上の空なのを申し訳なく思った。

 ――どうしちまったんだか、俺は。

 佳代もそうだが、微笑を浮かべてこちらを見ている淑恵が怖い。淑恵としても冬枝の本性を知らないわけではないだけに、姪っ子とのやり取りを危なっかしく思っているに違いない。

 ちらりと壁時計を見れば、21時をとっくに回っていた。

 ――いつもだったら、晩酌してる時間だな。

 それが今は、ウィスキーではなくバラのジャムを入れたお紅茶なんかを飲んでいる。身体にはよっぽどいいのかもしれないが、冬枝は落ち着かなかった。

 ――さやかは今頃、家で何してんだか。

 いや、まさか朽木のところにいるのでは……という不安が冬枝の脳裏をよぎった瞬間、淑恵が「佳代ちゃん」と控えめに言った。

「そろそろ、寝るお支度をしたら?お風呂の準備ができてるわよ」

「あら、わたくし、まだおじさまとお話していたいですわ」

 佳代は冬枝の腕を引いたが、淑恵はにっこりとこう言った。

「気持ちは分かるけれど、夜更かしは美容の大敵、って、よく佳代ちゃん言ってるじゃない」

「はっ!」

 淑恵の言葉にハッとした佳代は、慌てて壁時計を振り仰いだ。

「嫌だ、もうこんな時間!?早くお風呂に入らなきゃ、美容液を塗る時間に間に合いませんわっ!」

「うふふ、佳代ちゃん、風邪引かないようにちゃんと湯船に浸かるのよ」

「お前たち!わたくしのお風呂道具を持って来なさい!シャワーコロンはフランスで買ったものを、石鹸はバラの香りのものよ!早く!」

 佳代は召し使いたちを引き連れて、バタバタとバスルームへと引っ込んで行った。

「………」

 冬枝は呆然と佳代を見送ってから、バラのジャム入り紅茶を口にした。

 トイレの芳香剤とガムシロップを大量にぶち込んだような味――。

「まっじい」

「冬枝さん」

 隣に淑恵がいることに気付いた冬枝は、慌てて誤魔化した。

「あっ、ちがっ、違うんですよ淑恵さん!今のはえーっと、若者風に『マジで美味い』って言おうと…」

「…夏目さんにお電話なさったら?冬枝さん」

「えっ?」

 意外な言葉に冬枝が目を丸くすると、淑恵は柔らかく微笑んだ。

「冬枝さんには、もう2日も佳代ちゃんの護衛をしていただいて……私も主人も、すごく助かっています。佳代ちゃんがあんなに生き生きとしているのは、冬枝さんのお陰よ」

「いや、俺は何も…」

「でも、そのせいで冬枝さんと夏目さんを離れ離れにしてしまったわ。夏目さん、今は一人でお留守番をなさってるんでしょう?」

「はあ、まあ…」

 どうやら榊原は、冬枝とさやかが同居していることを淑恵に伝えてあるらしい。愛情深い淑恵が、娘と同じぐらいの年のさやかと2人で暮らしている冬枝のことを、どう思っているかはあまり考えたくない。

 淑恵は、冬枝が残したジャム入り紅茶をカチャカチャと片付けた。

「佳代ちゃんと仲良くしてくださるのは、とてもありがたいけれど…夏目さんを寂しがらせちゃいけないわ」

「と、淑恵さん」

「夏目さんを泣かせたら、源さんに告げ口しちゃいますよ。なーんて、ふふっ」

 そう言う淑恵のイタズラっぽい笑みは、かつて源が横恋慕していた女子高生の頃のままだった。



 淑恵の許可を得て、冬枝は榊原邸の応接間から自宅に電話をかけた。

 ――さやかの奴、まさか電話に出ねえなんてことはねえよな。

 冬枝はちょっとハラハラしながら受話器を握っていたが、1コール目ですぐにさやかが出た。

「はい。冬枝です」

「さやか。俺だ」

「冬枝さん」

 さやかの声が嬉しそうなのが、電話越しにも伝わる。冬枝は、内心でホッと安堵した。

「そっちはどうだ。何事もねえか」

「はい。冬枝さんは?」

「なんもねえよ。平和そのものだ」

 飯は食ったか、と冬枝が聞くと、さやかは一拍置いて「…はい、一応」と答えた。

「一応ってなんだよ。高根の奴、飯作って行かなかったのか」

「いやその、今日は高根さんじゃなくて…」

「なんだ麻雀小町、冬枝からか」

 さやかの後ろから聞きたくない男の声がして、冬枝は全身の血液が逆流するような錯覚を覚えた。

「朽木っ!?てめえ、どうしてうちにいるんだ」

「俺様が、泥棒みたいにてめえんちに忍び込んだってか?麻雀小町が入れてくれたに決まってるだろ、バーカ」

 ギャハハと下品な笑い声まで耳に響けば、いよいよ冬枝は受話器を握り潰しそうになった。

「この野郎!今すぐうちから出てけ!」

「おーっと、そりゃできねえ相談だな。俺様と麻雀小町は明日の作戦の相談で、今夜は徹夜なんだ。若頭の前で決まった話だ、てめえも嫌とは言わせねえぞ」

 さやかと朽木が夜通し、冬枝のマンションに2人きり――。冬枝は、完全に頭が沸騰した。

「ざけんじゃねえ!てめえ、さやかに指一本でも触ってみろ、タダじゃ済まさねえぞ!」

「ギャーギャー騒ぐんじゃねえよ。俺様だって、灘先生の大事なご令嬢のために粉骨砕身してんだ」

 さやかが背後で何か言っているのが微かに聴こえるが、朽木に完全に受話器を奪われたらしく、冬枝までは届かない。

 朽木は得意げに言った。

「変装用の服やアクセサリーだって、俺様が用意してやったんだぜ?麻雀小町にも、なかなかお似合いだぞ。豚に真珠ってのはよく言ったもんだな」

「そのツラで人の女をブタ呼ばわりするんじゃねえ。おい、さやかに代われ」

「てめえこそ、麻雀小町と遊ぶのはほどほどにしといたほうがいいぜ。この女、こーんな地味なナリしてても、東京じゃ5代目の愛……」

 そこで、朽木が「ぐおっ!」と唸り声を上げた。

 数秒置いて、さやかが「もしもし」と不愛想な声で代わった。

「朽木さんの話は気にしないでください。この人、ゲセワ星から来たゲセワ星人ですから」

「おい、さやか。朽木はどうした」

「冬枝っ!男の急所は蹴るなって、てめえの女にしつけとけ!」

 さやかの背後から、朽木が悲痛な声で叫ぶのが聞こえた。

 事態を察した冬枝は、それ以上は突っ込まなかった。

「さやか。今そっちに行ってやる」

「大丈夫ですって。この人、僕には何もできませんから」

「んなこと言ったって…」

 そこで、応接間の扉がバンと開かれた。

「お・じ・さ・まー!!❤」

「うわっ!佳代さん…!」

 冬枝が面食らったのは、佳代がほとんど一糸まとわぬ姿で乱入してきたからだった。

 慌ててついてきたのだろう、佳代の使用人たちが横からタオルやらガウンやらを佳代に羽織らせようとしている。

「お嬢様っ!服を着てください!」

「湯冷めしてしまいますよ!」

 いや、湯冷めとかいう問題じゃねえだろ……と思いつつも、冬枝の目はついつい、上気した佳代のバラ色の肌や、ぶるんぶるん揺れるバストやらに吸い寄せられていった。

 佳代はその格好で、冬枝の胸にぴょーんとダイブした。

「わたくし、いいこと思いつきましたわ❤運動会を頑張ってくれたおじさまへのお礼に、佳代が特別にお背中、流して差し上げます❤」

「ええっ!?いや、いいですよ」

 佳代は使用人たちをほとんどハンガーのようにして、彼らが持っている服を手に取った。

「おじさまは、どのウェアを着た佳代がお好み?これは、佳代お気に入りのピンク色のバスローブ。シルクの手触りがとってもすべすべですのよ❤こっちは、お家から持ってきた湯帷子。ちょっと古風かしら?」

「そ・れ・と・も……」と言って、佳代は色っぽく目配せした。

「おじさまは、何も着ていない佳代が一番お好みかしら…?きゃっ❤」

「か、佳代さん。いいから服着てくださいって」

 この光景を淑恵や榊原に見られたら、冬枝の社会生命は確実に終わる。佳代が放つ熱っぽい吐息も、濡れたシャワーコロンの匂いも、かなり魅力的ではあるものの。

「……冬枝さん?」

 電話の向こうからさやかの冷たい声がして、冬枝はハッとした。

「とっ、とにかく、高根たちをそっちに行かせるからな。今……」

「おじさま、こちらもご覧になって❤東京で新調した佳代のブ・ラ・ジャー❤」

 冬枝の耳元で囁いた佳代の声は、回線に乗って、遠く離れたさやかの耳にまで届いてしまったようだった。

「……おやすみなさい、冬枝さん」

 待て、と冬枝が呼び止める間もなく、電話はガチャンと切れた。

「んぐぐ…」

 受話器片手にうなだれる冬枝の背後で、佳代の使用人たちが右から左から、無理矢理佳代に服を着せた。

「佳代お嬢様、パジャマに着替えてください!」

「淑恵さまに見られたら、叱られてしまいますよ!」

「あーん、佳代、お風呂上がりのぴっちぴちなお肌をおじさまに見て欲しかっただけなのにぃ」

 使用人たちに引きずられていく佳代の声を聴きながら、冬枝は高根のアパートにダイヤルした。

「高根か。俺だ」

「どうしましたか、兄貴」

「今すぐうち行って来い。朽木の野郎を追っ払え」

「えっ、朽木さんが兄貴んちに来てるんスか?」

 呑気に間延びした声は、土井である。金のない弟分たちは、6畳二間のアパートで二人暮らしをしているのだ。

 冬枝は声を荒らげた。

「とにかく、ぐぐと行け!さやかの無事がかかってんだからな!」

「は、はい!」

 ガチャンッ!

 乱暴に受話器を置くと、冬枝は一人ふーっと溜息を吐いた。

 ――何やってんだ、俺は。

 もしもさやかが朽木とよろしくなっていたら、と想像すると、気が気じゃない。それなのに、冬枝はこの場から動けない。

「あー、よいでね……」

 前髪をぐしゃぐしゃと搔き上げ、冬枝はずるずるとその場にしゃがみ込んだ。



 翌朝。

 さやかと朽木は、ビンタ騒動を起こした犯人の一人、包帯男のアパートを訪れた。

「おい。例の内容、ちゃんと掲示板に投稿したんだろうな」

「は、はい」

 朽木にすっかり怖気づきながら、包帯男は手でパソコンの分厚い画面を示した。

 昨日、さやかの指図で投稿したその内容とは、以下のものである。

『明日の朝、灘議員の孫娘がお忍びで男と逢うらしい。場所は、大町の空き家になってるスーパー。俺を捕まえたヤクザが喋ってた。ほんとかなー』

 この投稿には、掲示板で多くの注目が集まった。大半は『デバガメ行く?』とか、『わざわざ田舎来てデートするスケベ女』のような野次馬で、『パンチドランカー』の投稿はなかった。

 勿論、掲示板上で反応を見せないだけで、『パンチドランカー』が興味を抱いている可能性は十分にある。さやかは、包帯男に追加でダメ押しの投稿をさせた。

『灘佳代は、母親に譲ってもらった真珠のネックレスを着けて行くらしい。ボディガードにもめちゃくちゃママ自慢してたってさ』

 さやかは、『パンチドランカー』の憎悪の元凶が母親であることに着目した。母親の愛情を見せびらかす『灘佳代』の姿は、さぞかし『パンチドランカー』の感情を逆撫でするだろう。

 真珠のネックレスは、さやかが『灘佳代』である、という分かりやすい目印でもある。朽木が、じろじろとさやかを見下ろした。

「それにしても、ご立派な格好だな。別人みたいだぜ、麻雀小町」

「どうも」

 さやかが仏頂面なのは、朽木の皮肉っぽい褒め言葉のせいだけではない。

 ――囮っていうか、これじゃピエロだ。

 佳代の縦ロールを真似するには、さやかの髪では長さが足りなかった。田舎の美容院の技術では、聖子ちゃんカットの大失敗版、爆発コントに主演した明菜、ダース・ベーダーの出来損ないとでもいうような代物に仕上がった。

 かつ、朽木が鳴子に贈るはずだった服を流用したドレスは、白いレースが夢のように紗をかける繊細なデザインこそ美しいが、爆発頭の下に着るには派手すぎた。アフロヘアに真っ白ワンピ、という出で立ちは、完全に恋の天使・キューピッドだ。

 もはや、真珠のネックレスという符丁が無ければ『パンチドランカー』に灘佳代だと思ってもらえるかどうかも怪しい。

 昨夜、バタバタと家にやって来た高根と土井が「さやかさん!大丈夫で……すか」と、さやかの滑稽な出で立ちに口をあんぐり開けていたのを思い出し、さやかは一人赤面した。

 ――冬枝さんも、こんな気持ちだったのかな…。

 聖天高校の運動会で、冬枝はかぼちゃパンツに白タイツ、という古典的王子様コスプレをさせられた。多分に佳代の趣味だろうが、大勢の見ている前であんな格好をさせられた冬枝の恥ずかしさは、さやかの比ではなかっただろう。

 ――それでも、冬枝さんはやり遂げたんだ。僕だって、やってやる!

 さやかはぐっと気を引き締め、朽木と共に例の空きスーパーへと向かった。



 その頃、冬枝と佳代は駅前のデパートビルにいた。

「………」

 今朝の佳代は、昨夜の大騒ぎが嘘のように静かだった。朝食のクロワッサンを上品に食べる姿など、お人形のような容姿そのままに、背後に白百合の花が咲くのが見えるかのようだ。

 ――今日の佳代さん、ずいぶんしおらしいな。

 佳代は淑恵や榊原と優雅に語らった後、その静かさのままで冬枝に向き直った。

「おじさま。帰りの新幹線までは、まだ時間があるみたいですから……佳代と一緒に、お買い物に行きませんこと?」

「買い物ですか。いいんじゃないですか」

 リビングの窓に掛けられた白いレースのカーテンが、朝のまだ少し冷たい風に靡く。

 佳代は、榊原邸の庭を照らす陽光に目を細めた。

「寂しいけれど、今日でおじさまとはお別れです。だから、おじさま。佳代に、何かプレゼントをくれませんか」

「プレゼント…ですか」

 佳代は、レースの手袋をした両手を胸の前でそっと重ねた。

「東京にいても、おじさまのことを思い出せるように…佳代とおじさまの、思い出の品が欲しいの」

「佳代さん…」

 佳代のような美少女に、そんな健気なことを言われてしまったら、冬枝もぐっときてしまった。

 ――やっぱり、東京に帰すにはちょっと惜しい女かも…。

 勿論、中年ヤクザの冬枝がどうこうできる相手ではないことは承知している。佳代は白虎組若頭・榊原の姪であり、あの大物議員、灘孝助の孫娘なのだ。

 ――でも、何だかんだで佳代さんと一緒にいた時間は、楽しかったな。

 街でボートを漕いだり、女子校の運動会で変な格好をさせられたり。佳代のワガママに振り回されながらも、決して悪い気はしなかった。

 冬枝と佳代は、互いに名残惜しさを抱えながら、デパートビルの宝石店にやって来た。

 ――流石に、灘議員の孫娘相手に、その辺のイミテーションで済ませるわけにはいかねえ。

 ガラスケースに並ぶ、老眼気味の冬枝には見づらい小さな値札に印字された数字には尻込みしそうになるものの、佳代のために奮発してやりたい気持ちが勝った。

「おっ。このイヤリングなんか、どうですか」

 冬枝は、真珠のイヤリングに目を留めた。小さいが上品で、まだ若い佳代が着けても嫌味にならないデザインだ。

 佳代もガラスケースを覗き込んで、顔を綻ばせた。

「まあ。どうして、これを選んでくださったの?」

「佳代さん、首回りが綺麗じゃないですか。こういうの似合うんじゃねえかなって、前から思ってたんですよ」

「嬉しい。おじさま、佳代のことを見ていてくださったのね」

「そりゃそうですよ。ずっと一緒にいたんですから」

 今日だけは、佳代のことを『ワガママお嬢様』ではなく、一人の女として扱ってやりたい。冬枝は、正直な気持ちを口にした。

「本当は、もっと高いモンのほうが佳代さんには相応しいんでしょうけど…俺なんかじゃ、このぐらいが精々です。すみません」

 冬枝は、店員に言ってイヤリングをガラスケースから出させた。

 冬枝がイヤリングを渡すと、佳代は頬をバラ色に染めた。

「このイヤリングに、誰も値段はつけられませんわ。おじさまの気持ちは、佳代だけの宝物です❤」

「佳代さん…」

 佳代はイヤリングを大切そうに両手の上に乗せ、片方を冬枝に差し出した。

「片方は、おじさまが持っていらして」

「俺が?」

「これがあれば、おじさまはわたくしのこと、忘れないでしょう?どうか、このイヤリングを見る度に、佳代のことを思い出して…」

 佳代の瞳に涙が浮かんでいる気がして、冬枝は何も言えずにイヤリングを受け取った。

 ――佳代さん…。

 その瞬間。

 冬枝の手に、強烈な電流が走った。

 脳裏をよぎったのは、これと同じぐらいの、白いハートのイヤリング。冬枝が片方を奪って、そのままもらいっぱなしになっている代物だ。

 ――さやかのイヤリング。

 冬枝に耳朶を触られて、頬を赤くしていたさやかの顔が――ずっと忘れていたはずなのに、鮮明に蘇った。

 ――俺は……こんなことしてて、本当にいいのか?

 目の前にある真珠のイヤリングと、さやかからぶんどった白いハートのイヤリングの双方が、冬枝に何かを訴えている。

 ――やっぱりダメだ!

 こんなにも一途な佳代に対して、冬枝は二人の女を天秤にかけている。とてもじゃないが、この真珠のイヤリングを持つ資格はない。

「………」

 冬枝の表情から何かを察したのか、佳代が顔を背けた。

「それ以上は何もおっしゃらないで、おじさま」

「佳代さん?」

「わたくし、本当は分かっていたの。おじさまには、他に好きな方がいるって」

 ――佳代さん、気付いてたのか。

 ハッとする冬枝に、佳代は悲しげな瞳で言った。

「おじさまは、淑恵叔母さまのことが好きなのよね」

「そう、淑恵さ……ええっ!?」

 とんでもない名前が飛び出し、冬枝は面食らった。

 ――なんで、俺が淑恵さんを好きなんて話になるんだ!?

 冬枝の狼狽をよそに、佳代は一人でまくしたてた。

「昨日…わたくしとお話している時、おじさまの目は淑恵叔母さまを追っていたわ。おじさまは気付いていなかったかもしれないけれど」

「いや、それは…」

 昨夜はさやかのことで頭がいっぱいになるあまり、失言を重ねてしまったため、淑恵の顔色をうかがっていただけだ。

 だが、佳代は冬枝を手で制した。

「いいのよ、誤魔化さなくて。おじさまはずっと、淑恵叔母さまに叶わぬ恋をしていたのよね」

「あの、佳代さん…」

「そして、わたくしに叔母さまの面影を重ねてしまった。ああっ……わたくしって、悲恋」

 ――悲恋も何も、100%誤解だって!

 確かに淑恵は美人だが、冬枝にとっては20年前から『兄貴分が横恋慕していた女』という印象で一貫している。

 というか佳代には、冬枝の相手がさやかという発想がないのだろうか。そう考えて、冬枝ははたと気付いた。

 ――中年親父があんな若い女を相手にするって思わねえのか、普通。

 40歳の淑恵なら、43歳の冬枝のロマンス相手としては釣り合いが取れている。逆に言えば、実際の冬枝は佳代のピュアな恋愛妄想の枠外にいるわけで、何やら頭の上から冷水を浴びせられたような気分になった。

「あの、佳代さん。俺は淑恵さんには何にも…」

 冬枝は弁解しようとしたが、佳代は聞く耳を持たなかった。

「やっぱり、このイヤリングはわたくしが一人で持ちます。きっと、身に着ける度に、この悲しい恋を思い出すでしょう」

「えーっと…」

「でも、わたくし嬉しいわ。だって真珠は、大切な人に贈る縁起物ですもの。どこまでも丸く美しい真珠のように、いついつまでも幸せでありますようにと…」

 佳代はイヤリングを捧げ持ち、しばし陶然とすると、店員に「お会計を」と命じた。

「お見送りは結構よ。これ以上おじさまといたら、わたくし泣いてしまいそう…」

「佳代さん…」

「灘孝助の孫娘は、みだりに人前で涙を見せてはいけないの。おじさまは、笑顔のわたくしだけを覚えていて」

 冬枝は支払いを済ませ、改めて佳代に真珠のイヤリングを渡した。

 佳代はその場でイヤリングをつけ、きらりと小首を傾げた。

「ねぇ、似合う?おじさま」

「ええ。すごくよく似合ってますよ、佳代さん」

 結局、佳代とは最後まで噛み合わないというか、どこかズレたままだったが――佳代の別れ際の微笑みは、忘れるにはあまりにも惜しい綺麗さだった。



 さやかが『パンチドランカー』をおびき寄せる場所に指定したのは、街中にあるスーパーの空き店舗だった。

 空になった棚が並ぶ店内は、朝だというのに薄暗い。さやかは、壊れて傾いたブラインドを指先でめくった。

「この店、ちょうど移転したところだと聞いたので」

「確かに、ここならお嬢様のお忍びデート先にはうってつけだな。悪知恵の回る女だぜ」

「どうも」

 朽木はアルマーニの袖からピカピカのロレックスを覗き、「まだ時間があるな」と言った。

「俺は店の中を確認しておく。てめえはそこで隠れてろ」

「はい」

 果たして、『パンチドランカー』は来るのかどうか。さやかは一人、眩しく輝く窓の向こうに目を細めた。

 ――冬枝さんは今頃、佳代さんと駅に向かってるかな。

 佳代を囮にする、という作戦に猛反対されたことを思い出し、さやかは小さくため息を吐いた。

 ――冬枝さんったら、すっかり佳代さんにメロメロになっちゃって。

 昨夜の電話でも、例によって佳代のハレンチ攻勢を受けていたようだし――さやかは、ちょっとだけ不安になった。

 ――まさか、佳代さんと一緒に東京に行っちゃったりしないよね…?

 あの恥知らず女なら、冬枝を東京に拉致するぐらいはやりかねない。さやかは、ひんやりと冷えた頬に手を添えた。

 ――灘家のゴージャスな豪邸に迎えられて、毎日、佳代さんの巨乳とお尻に誘惑されて、ハレンチ放題、贅沢三昧の暮らしなんかさせられたら、冬枝さんが骨抜きにされちゃう!

 そんな酒池肉林を絵に描いたような生活を送っていたら、冬枝はあっという間にさやかのことなど忘れてしまうだろう。さやかは、一人で地団駄を踏んだ。

 ――やっぱり、こんな作戦なんかやらずに、冬枝さんについていったほうが正解だったのかな。

 わざわざ佳代の名前を使って『パンチドランカー』を挑発するなんて、寝た子を起こすような真似をしなくても良かったのではないか。さやかは、自分がつまらない見栄を張っているだけのような気がしてきた。

 ――奈々恵さんや美佐緒さんのためなんて言ったけど、本当は、かっこつけてただけなのかも…。

 所詮、『パンチドランカー』を捕まえて手柄を上げて、冬枝を振り向かせたかっただけなんじゃないか。さやかは思わず、長いスカートの裾をぎゅっと握り締めていた。

「……」

 ――いや、違う。

 指先に蘇ったのは、榊原邸のダイニングテーブルの下で、冬枝がこっそり手を握ってくれた時の温もりと力強さだった。

 冬枝はきっと、ビンタ男を捕まえたい、というさやかの気概を買ってくれている。今更、弱気になんてなっていられない。

 ――僕は、僕にできることをやる。それが最適解だ!

 さやかはぐっと拳を握ったが、そのシルエットは一人ぼっちだった。

『パンチドランカー』が来ないのはともかく、朽木が一向に戻って来ない。振り返っても、さやかの背後にはしんと静まり返った店内だけが広がっていた。

 ――朽木さん、ずいぶん念入りに見回りしてるんだな。

 だが、警戒するに越したことはない。ビンタ男たちと違って、『パンチドランカー』は武器を持っている可能性が高いからだ。

 ――『パンチドランカー』の投稿は、女性への敵意に満ちていた。彼が人を襲うとしたら、それこそ金属バットとか、木材なんかを持って来るはず……。

 そう、ちょうどこんな感じの――とさやかが気付いた瞬間、角ばった木材が眼前に振り下ろされていた。

「っ!」

 すんでのところで避けられたのは、まぐれとしか言いようがない。さやかの代わりに破壊されたレジから、パラパラとプラスチックの破片が落ちた。

「………」

 荒い息を吐いて肩を上下させているのは、ヘルメットをかぶった小柄な男だった。

 さやかは、恐る恐る彼に声をかけた。

「あなたが…『パンチドランカー』ですね」

「………」

「僕は佳代さんじゃありません。あなたと話をするために、ここに…」

 と言いかけたさやかの話は、木材の一振りで遮られた。

「っ!」

 ――話ができる雰囲気じゃない!

 朽木は戻ってこないし、逃げるしかない。駆け出したさやかは、次の瞬間、埃っぽい床にダイブしていた。

「いったぁ…」

 佳代に扮するために履いた白いハイヒールが、仇となった。薄暗いせいで気付かなかったが、床は陳列用の資材が散らかっていたのだ。

 などと観察している間にも、パンチドランカーの振り回した木材がさやかの足元をかすめた。

 ――早く逃げなきゃ!

 さやかはすぐに立ち上がろうとしたが、ぐいっと下から引っ張られた。

「えっ!?」

 長いレースのスカートが、倒れたポップスタンドに引っかかっている。

 指先ですぐに外せる程度の引っかかりだが、『パンチドランカー』の一撃がさやかに迫るほうが速かった。

 ――当たる!

 さやかが思わず身をすくめた――その時だった。

「……っ!?」

 一瞬、息もできないほど苦しくなった。それが抱きすくめられたせいだとさやかが気付いたのは、数拍置いた後のことだった。

「ってえな…」

 さやかを抱いて庇った冬枝は、額に翳した手をゆっくりと上げた。

「ふ…冬枝さん!?」

「……」

 冬枝は、痛そうに手をひらひら振った。遅れて、額からたらりと血が垂れる。どうやら、手でガードするのは間に合わなかったらしい。

「おい」

 冬枝は、鋭い目つきで『パンチドランカー』を睨んだ。

「女相手に大層なモン振り回しやがって。てめえ、恥ずかしいとは思わねえのか」

「………」

『パンチドランカー』は答えず、再び、冬枝めがけて木材を振りかざした。

「冬枝さん!」

 さやかは思わず叫んだが、冬枝は怯まなかった。

「てめえの腑抜けた攻撃なんかより、源さんに蹴られたほうがよっぽど痛えんだよ!」

 木材をかわすと、冬枝は『パンチドランカー』の小柄な身体を掴み、空っぽの棚めがけて叩きつけた。

 ガシャーン!

 あちこちに転がるカゴや資材を巻き込みながら、『パンチドランカー』は棚ごと引っ繰り返った。

 冬枝は、腰を押さえてうーんと伸びた。

「ふー…」

「冬枝さん、大丈夫ですか」

 さやかは冬枝の怪我を心配したが、冬枝は額の血を袖で無造作に拭った。

「そりゃ、こっちのセリフだ。なんで、こんなトコに一人でいるんだ。朽木はどうした」

「さあ…」

 さやかは何とか引っかかった裾を外して、よろよろと立ち上がった。

「冬枝さん、佳代さんは…?」

「ああ、榊原さんの親衛隊がちゃんと駅まで送ったよ。俺は、途中でお払い箱になった」

「お払い箱?」

 首を傾げるさやかをよそに、冬枝はすっかりノビてしまった『パンチドランカー』に近付いた。

「他の奴らは素顔だったってのに、一人だけヘルメットしてるなんて、とことん狡い野郎だな。隠すほどのツラだってか」

 気絶している『パンチドランカー』からヘルメットをもいだ冬枝は「んっ!?」と声を上げた。

「どうしました、冬枝さん」

「いや…こいつ」

「あっ…」

 冬枝と並んで『パンチドランカー』を見下ろしたさやかは、言葉を失った。

 髪こそ男のように短くしてはいたが、そこにいたのは――明らかに、女性だったのだ。

 さやかと冬枝は、気まずく顔を見合わせた。



 スーパーの裏手から、朽木は背伸びして中の様子をうかがった。

 それから、ちらっと目の前の男――ボルドーレッドのダブルのスーツを着た銀髪の男を見下ろした。

「…あんた、麻雀小町に恨みでもあんのか?」

 すると、男はにっこり笑って、逆に問い返した。

「5代目に言いつけますか?朽木貴彦君」

 柔和な笑みの奥で、底知れぬ影を湛えた瞳がじっと朽木を見据えている。その下できらめく鷹の羽紋の代紋バッジを一瞥して、朽木は首を横に振った。

「…いや。言わねえよ」

「それが賢明でしょう」

 尤も、ミノルは『パンチドランカー』にさやかを襲わせたかったわけではない。今回はあくまで、朽木に釘を刺したかっただけだ。

 ――夏目さやかは、秋津一家の獲物だということ。

 朱雀組の5代目じきじきに声がかかったとなれば、田舎でくすぶっている朽木が舞い上がるのも無理はない。だが、朱雀組と秋津一家は、ましてや柘植とミノルとは、必ずしも利害が一致しているわけではない。そのことを、朽木にも知っておいてもらわなければならなかった。

 ――5代目も、意外な人選をするものです。

 まさか柘植が、白虎組の中でも朽木を夏目さやかとの連絡役に選ぶとは。朽木の恋人である風間鳴子との縁がきっかけのようだが、或いは、柘植がそれだけ冬枝誠二を信用していないことの表れかもしれない。

「………」

 ミノルは、廃墟となったスーパーに目線を向けた。今頃、さやかは『パンチドランカー』の正体に気付いたところだろうか。

 才走ったさやかのことだから、パソコン通信でビンタ男たちが繋がっていると気付いた時点で、すぐに次の手を打つ。麻雀と同じで、やられたら反撃に出ずにはいられないのだ。ミノルは、さやかのプライドの高さを熟知していた。

 ――君の無鉄砲も、冬枝君がいる限りは問題ないでしょう。今は、ね。

 秋の風が、冷ややかにミノルの銀髪を揺らす。ミノルは、茶番の舞台となった空きスーパーに背を向けた。



「まさか、ビンタ騒動の火元が女だったとはなぁ」

 警察署を後にして、嵐がのんびりと空を見上げた。

 嵐と共にヘルメット女を引き渡した冬枝は、怪訝そうに尋ねた。

「あの女、本当に『パンチドランカー』だったのか?」

「ダンディ冬枝の背負い投げがしったげ効いたみたいで、素直に白状しましたよ。供述の内容から考えても、奴で間違いないっス」

「女の癖に、この世の女を殴って回るって言ってたのか」

 冬枝の言葉に、並んで歩いていたさやかは一人、俯いた。

 ――それだけ、『パンチドランカー』は孤独と憎しみを抱えていたんだ。

「…こんなこと、しなきゃ良かったな」

「ん?」

 さやかの呟きに、冬枝と嵐が揃って足を止めた。

「僕が挑発なんかしなければ、『パンチドランカー』は大人しくしていたかもしれない。なのに僕は、わざわざ彼女を傷付けるようなことをしてしまった」

 さやかは、自分が独りよがりな正義を振りかざしただけのような気がしてならなかった。

 嵐が、ポンとさやかの頭を叩いた。

「そう言うなよ、さやか。案外、これで良かったのかもしれねえぞ」

「嵐さん…」

「今回は未遂で済んだが、ほっといたらあいつ、ある日突然、ドカーンと大爆発しちまってたかもしれねえぞ」

 男ばかりの掲示板に、あれだけ苛烈な書き込みをしていたぐらいだ。さやかがおびき出すまでもなく、『パンチドランカー』はいずれ、凶行に及んでいたかもしれない。そうなれば、取り返しのつかないことになっただろう。

 嵐は、背後の警察署を軽く振り返った。

「無関係の他人を殴ったって、あいつの過去が救われるわけじゃねえ。自分が何をしようとしていたのか、あいつに考える時間をやったと思えばいいんじゃねえか」

「…そうですね」

 さやかにできることは、彼女が心の平穏を取り戻せる日が来るのを願うことだけだ。

 冬枝は、ちょっと呆れ気味にさやかを見下ろした。

「お前、犯人が女だって分かった途端、急に肩入れしてんじゃねえか」

「そうですか?」

「男女差別だ!」

 嵐にふざけて指差され、さやかは苦笑いした。

「…あれ?」

 ふと警察署を振り返ったさやかは、ガラス扉の向こうに見慣れた人影を見つけた気がして、立ち止まった。

 ――源さん?

 だが、源だと思った人影は、ガラスの反射に身を隠すかのように、すぐに見えなくなってしまった。

「どうした、さやか」

「いえ……」

 ――見間違いか。

 運転免許の更新という季節でもないし、源がこんなところにいるわけがない。顔の広い源なら、警察にも知り合いがいるかもしれないが。

 源については深く考えず、さやかは隣にいる冬枝を見上げた。

「冬枝さん」

「ん?」

「佳代さんのボディガード、お疲れ様でした」

 それから、さやかは勇気を出して、こう付け加えた。

「…今度は、僕ともデートしてくださいね」

「…おう」

 佳代とボートに乗ったこととか、佳代に真珠のイヤリングをプレゼントしたことなんかが頭をよぎり、冬枝はちょっとぎくりとしたが――そんなことはおくびにも出さなかった。

 嵐が、にやにやと冬枝の脇腹を小突いた。

「よっ、色男。お嬢サマとさやかの両手に花なんて、モテる男はつらいっすねぇ」

「うるせえ。ガキにモテても嬉しくねえよ」

 実際、冬枝の本音はそれだった。佳代はすこぶる魅力的だが、議員の孫娘で若頭の姪だ。とてもじゃないが、手を出せる相手ではない。

 冬枝が自分を褒めてやりたいのは、さやかと過ごしたあの夜のほうだった。

「僕だって、ヤキモチ焼いてるんですからね……」

 さやかの膝の上でそう囁かれたあの瞬間、冬枝にははっきりと見えた。

 一度、越えてしまったが最後、二度と後戻りできない一線が。

 冬枝は考えた。さやかの、小さくて温かい膝の上で考えた。

 世界を、冬枝とさやかの2人だけにしてしまう、夢のような幸福を。そして、雪崩のような衝動に身を任せれば、破滅するのは自分一人ではないことも。

 中年男の煩悶を、目の前の麻雀狂いが理解する日は来ないだろう。冬枝は、改めてさやかを見つめた。

「…ところでお前、どうしたんだよ、その頭。いつもの寝癖の3倍ひでえぞ」

「…っ!余計なお世話ですっ!」

 さやかがぷいっとそっぽを向くと、きつくパーマされた髪がふわりと揺れた。

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