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43話 パンチドランカー・ララバイ(その3)

第43話 パンチドランカー・ララバイ(その3)


 その日、さやかは市内にある警察署を訪れていた。

 嵐も同行して向かったのは、署内にある面会室である。

 ガラス窓を隔てた向こう側にいるのは、細面の少女だった

「おはよう、夏目。わざわざこんなところまで、どうしたの?」

「…おはよう、三船」

 少女――三船亜弓は、酷薄そうな瞳をにっこりと細めた。

 かつて『タマミ』という偽名で冬枝の前に現れた三船は、さやかの元同級生であり、今は青龍会の手下になっていた。冬枝によって捕らえられた三船は、元警官の嵐の手引きによって、今は地元警察に保護されている。

 さやかは、街で今起こっているビンタ男の騒動について語った。

「…僕は、事件の背景に『アクア・ドラゴン』がいると見ているんだけど…三船は、どう思う?」

 三船は一通り話を聞いた後、何のてらいもなくこう答えた。

「『アクア・ドラゴン』は関係ないんじゃないかな。そんなつまらない騒ぎで警察や市民の目を引いても、青龍会には何のメリットもない」

「例えば、その騒ぎを目くらましにして、青龍会が何か別のことを起こそうとしている可能性は?」

 ミノルの推測をさやかは口にしたが、三船は笑って「無いね」と言った。

「目くらましなんかする必要がない。青龍会はもっと水面下で目的を遂げようとする」

「徹底的に自分たちの狙いを隠すってこと?」

「一夜城みたいなものよ。誰にも知られないまま、城を完成させてしまうの。気付いた時にはもう手遅れ、誰も手が出せない。それが、青龍会のやり方」

 つまり、「何かを企んでいる」という気配すら見せずに目的を完遂するのが青龍会の手口なのだ。水も漏らさぬ完璧主義の青龍会にあって、ビンタ男は余計な騒動としか言いようがなかった。

 さやかが納得したところで、三船が「ところで」と頬杖をついた。

「夏目は、いつから警察の真似事までするようになったの?」

「…別に。僕も被害に遭ったから、独自に調べてるだけ」

「気になったらとことん突き詰めるのが、夏目だもんね。それで私に会いに来てくれたなら、ビンタ男に感謝しなきゃいけないかな」

「えっ…」

 三船は、高校時代と同じ――乾いた、だけど何故か目を引き付けられる笑みを浮かべた。

「私もちょうど、夏目に会いたかったんだ。特に用があるわけじゃないけど、ただ、夏目の顔が見たかった」

「三船…」

 僕も、と言おうとして、さやかはぐっと堪えた。

 三船が家族や学校をも欺いて、毎日のように売春に耽っていたのはつい去年のことだ。裏では男に身体を売りながら、外では完璧な優等生を演じる三船の真意は、さやかにすら読み切れない。

 ――三船に気を許しちゃダメだ。

 現に三船は、さやかが自分に好意を寄せていることに気付いている。だからこそ、三船は売春を妨害したさやかの前から去ったのだ。

 三船の背後には、狡猾な犯罪組織・青龍会がいる。彩北を守る白虎組に属すさやかとは、全く異なる立場にいることを、忘れてはいけない。

 ――でも、三船はこんなに近くにいるのに。

 自分の身体を売り物にすることを厭わなかった少女は、さやかと敵対するようになった今でも、あの頃と変わらぬ薄情さで微笑んでいる。優しさと冷たさが同居する三船に、どうしようもなく惹かれていたのは、それほど昔のことではない。

 瞼の裏に蘇るのは、葵山学院に入学したばかりの頃。

 校庭に生い茂る桜の木の下で、さやかは恋愛話で盛り上がるクラスメイトたちの中にいた。

「男子ナンバーワンは、やっぱり小池君よね。アタックしてみよっかな」

「せっかく高校に来たんだもん。素敵な彼氏をゲットしなくっちゃね」

「ねえ、さやかは誰か気になる人いる?」

 中学からの同級生に水を向けられ、さやかは相手が顔なじみだったこともあって「わたしは…好きな人は、いないかな」と正直に答えてしまった。

 すると、クラスメイトたちは揃って目を丸くした。

「えーっ!?好きな人がいないの!?マジ!?」

「そんなの寂しすぎるよ。高校で、いい人見つけよう!」

「そうだ、隣のクラスと合コンしようよ。きっと、好きな人できるよ」

「う、うん、そうだね」

 クラスメイトたちの厚意はありがたかったが、さやかは正直、「小池君」にも「素敵な彼氏」にも興味が持てなかった。

 ――麻雀打ってるだけで、好きな人なんかいなくたって幸せなんだけどな。

 クラスメイトたちと別れ、一人、咲き誇る桜の花を見上げていたさやかに、ぽつりと誰かが言った。

「好きな人って、いなきゃダメ?」

「えっ?」

「私も、クラスメイトから不思議がられたんだ。好きな人がいないのって、そんなにおかしなことかな」

 さやかより少し背の高い少女は、銀縁眼鏡がよく似合う切れ長の瞳をしていて、びっくりするほど大人っぽかった。

 さらさらと風になびく少女の髪に目を奪われながら、さやかは、「僕は」と素の口調で答えていた。

「僕は、麻雀が好き」

 すると、少女はくすっと笑った。

「君、すごくかっこいいね」

 少女――三船からそう言われた瞬間に、さやかは『好きな人』ができたのだった。

 それから3年間、さやかはずっと三船と共に歩んできた。三船は麻雀を打たないし、何度説得しても売春をやめてはくれなかったが、さやかは三船の傍にいられるだけで幸せだった。

 その三船には、1年前に決定的にフラれた。さやかが次に好きになった人は、三船とは全然違う、中年のヤクザだった。

 さやかは、感傷的になっていることを自覚しつつも、つい三船に問わずにはいられなかった。

「…ねえ、三船」

「何?」

「好きな人に振られたら、どうしたらいいのかな」

 すると、三船は高校時代と同じ、さやかの考えていることなら何でもお見通し、といった笑みで答えた。

「麻雀は夏目を振るの?」

 さやかの欲しい言葉を、さらりと答えられる。そこに愛情も善意もないとしても、さやかは三船の言葉に勇気づけられて、警察署を後にした。

「………」

 嵐だけが、何ともいえない顔で少女たちの会話を聞いていた。



「ここに集まった皆さまの健闘をお祈りして、挨拶に代えさせていただきます」

 佳代がマイクの前で優雅に頭を垂れると、会場から万雷の拍手が送られた。

 ここは、聖天高校のグラウンド。佳代が灘議員の代理として招かれた運動会が、ついに始まったところだ。

 ――運動会なんて、何十年ぶりだか。

 晴れ渡った青空の下、ブルマ姿の女子高生と、その家族や地域住民たちがずらりと並んでいる。冬枝は、裏稼業の自分が場違いな気がしてならなかった。

 設営されたテントの下に戻ってきた佳代は、うふふっと笑って冬枝に近寄ってきた。

「おじさま❤佳代の挨拶、いかがでした?」

「ああ…立派でしたよ、佳代さん」

 佳代は、大勢の観客を前に、カンペも一切見ずに堂々と挨拶を述べた。灘議員の孫娘というのは伊達ではない、と冬枝も感心してしまった。

 すると、佳代がぎゅうっと冬枝の腕に抱き付いた。

「うふっ、佳代嬉しい❤わたくし、おじさまが見ていてくださるから頑張れたのよ❤」

「佳代さん…み、みんなが見てますって」

 佳代の護衛につけられたのは、冬枝だけではない。叔父である榊原がつけた親衛隊は、テントの下で苦笑いしていた。

 佳代は構わず、ぐりぐりと冬枝の腕に頬擦りした。

「これぐらいで恥ずかしがっていては、自由競技はできなくってよ?わたくしとおじさまのベストパートナーぶりを、田舎の皆さんに見せつけて差し上げましょう」

「ホントに俺も出るんですか、それ」

「勿論❤」

 自由競技というのは、今年から設けられた外部者参加型の演目だ。佳代は特別参加枠で、いくつかの競技に出るつもりらしい。

 ――女子校の運動会でヤクザが走るなんて、お笑い草だろ。

 楽しそうな佳代とは対照的に、冬枝は気が遠くなっていった。



 一方、さやかは観客席で、早速始まった50メートル走を見学していた。

「僕、よその学校の運動会を見るのなんて、初めてです」

「あら。さやちゃんはお兄さんがいるんじゃなかったっけ?」

 レジャーシートを広げた鈴子が、不思議そうにさやかの顔を覗き込んだ。

 鈴子は、さやかが聖天高校の運動会に行くと言ったら「私も行くわ」と言ってついてきた。さやかが謎の男にビンタされたと聞いて、心配してくれたのかもしれない。

 さやかは、鈴子の隣につつっと身を寄せた。

「兄とは小中高と、同じ学校でしたから。5歳離れてるので、通っていた時期はバラバラですけど」

 鈴子は「私も、ご町内の運動会ぐらいかしら」と言った。

「聖天高校も、よく一般開放したわよね。ピチピチの女子高生のブルマ姿なんて、お金を取ってもいいぐらいよ」

「もう、鈴子さんったら。嵐さんじゃあるまいし」

「さやちゃんも、ブルマ穿いてくれば良かったのに。バレーボール大会の時にあげたやつ、まだ持ってるでしょ?」

「持ってるけど…」

 鈴子に意味ありげに見つめられ、さやかは頬を染めて俯いた。

 鈴子は、さやかの膝の上に手を乗せた。

「さやちゃんは恥ずかしがり屋さんなのね。それとも、冬枝さんにしか見せたくないのかしら」

「冬枝さんには…恥ずかしくって見せられません」

「あーん、さやちゃんったら可愛い。もう食べちゃいたいぐらい」

 鈴子にむぎゅっと抱き締められ、さやかは鈴子の胸に顔を埋めた。

 ――ああ。やっぱり、僕には鈴子さんのおっぱいが必要だ……。

 さやかがうっとりしたところで、「俺も混ぜてくれねえか」と、艶のある低い声が割って入った。

「源さん!?」

「あら、源さん」

「よう」と言って片手を上げた源は、いつものスーツ姿ではなく、サラリと揺れる長い髪にチャイナカラーのドレス姿――女装した『ミナ』の格好だった。

『ミナ』状態の源を初めて見る鈴子は、目をパチパチさせて源を見上げた。

「源さんって女装も似合うのね。ホントに女の人みたい」

「ありがとう。だが、鈴子の前じゃ霞んじまうさ」

 さやかは、鈴子の胸から顔を上げた。

「それにしても源さん、なんで女装してるんですか?」

「この格好の方が、女の園で浮かないだろ?あそこのバカを見てみろ。完全に変態親父だ」

 源が指差した先には、特設テント――特別ゲストである佳代のために設えられた特等席があった。

 遠目にも目立つオフホワイトのドレス姿の佳代を中心に、うやうやしくかしづく使用人たち、ずらりと控えた榊原の親衛隊たち、そして、佳代の一番傍にスーツ姿の冬枝がいた。

 さやかは冬枝を直視しないようにしていたが、佳代と楽しそうに話す姿は嫌でも視界に入った。

 ――冬枝さん、佳代さんのことけっこー気に入ってるみたい…。

「冬枝さんが女装したら、気持ち悪いでしょうねえ」

 鈴子がのんきに言ったので、センチメンタルに陥っていたさやかは噴き出した。

「ふふっ。確かに、冬枝さんはお化粧しても、源さんみたいな美人さんにはならないと思います」

「でしょう?口紅塗っただけでバケモノになりそう」

「それこそ、変態親父になるだろうな」

 3人でひとしきり笑い合うと、さやかは気持ちがすっきりした。

 源は、さやか、鈴子と並んでレジャーシートに腰かけた。

「実を言うと、今日は淑恵の手伝いに来たんだ」

「淑恵さんも来てらっしゃるんですか?」

「ああ。瑞恵と奈々恵も来てる」

 源が女装しているせいでうっかり流しそうになったが、さやかはちょっとぎくりとした。

 ――源さん、淑恵さんとずいぶん親しいんだな。

 母校の、それも女子校の手伝いに呼ばれるなんて、相当ではないだろうか。源と淑恵の付き合いが古いことはさやかも知っているが、それにしたって……。

「源さんもお忙しいのに、運動会のお手伝いなんて大変ですね」

 さやかがさりげなく探りを入れると、源は真顔で「全然」と答えた。

「淑恵が呼ぶなら、火の中だろうが水の中だろうが行くさ。それに、手伝いっていっても大した仕事じゃない。むしろ、右も左も若い女ばかりだから目移りして、そっちのほうが忙しいぐらいだ」

「…はあ」

 さやかの意を察したのか、源は真意を教えてくれた。

「…淑恵は、例のビンタ野郎を警戒してるんだ。奈々恵がやられたからな」

「あっ…それで、源さんを?」

「ああ。本当は今日の参加自体、取りやめようとしたらしいが、奈々恵本人が出たいと言ったそうだ」

 榊原邸で爽やかに笑っていた奈々恵を思い出し、さやかは頷いた。

「このこと、榊原さんは…?」

「さあな。いちいち奴の許可なんか取るつもりはねえ。榊原も、ビンタ野郎の捜索で忙しいみたいだからな」

 それはそうだろう。ビンタ男の捕獲は白虎組の、ひいては榊原自身の沽券に関わる一大事だからだ。

 そこで、源の後ろから「あの…」と、涼やかな声がかかった。

「源さん。そろそろ、奥様たちがいらっしゃるお時間です」

「そうか。少し喋り過ぎたな」

 さやかは源と平然と並んでいる彼女の姿を見て、ぎょっと目を丸くした。

「きょ…響子さん!?」

「こんにちは。夏目さん」

 長いワンレングスの黒髪を垂らして、響子がぺこりとお辞儀をした。

「あら、響子ちゃん。久しぶり」

 鈴子が片手を上げると、響子が「鈴子さん」とちょっと驚いた。

「お久しぶりです。鈴子さん、夏目さんとお知り合いだったんですか」

「そうよ。私とさやちゃんは、ABCの先までいった仲なのよ❤」

「やだ、恥ずかしいです、鈴子さん…って、そうじゃなくて!」

 鈴子に抱き寄せられてポッとしたさやかだったが、すぐに我に返った。

「えーっと、響子さんと鈴子さんは、お知り合いなんですね」

「そうよ。私が美佐緒ママのお店にいた頃、響子ちゃんとも一緒に働いてたのよ」

「私、その頃はまだお店で働き始めたばかりで。鈴子さんと妹の鳴子さんには、本当にお世話になりました」

 響子はそう言ったが、鈴子はひらひらと手を振った。

「謙遜しちゃって。響子ちゃんは真面目で礼儀正しいから、私と鳴子のほうが教えられる立場だったわよ。特に鳴子なんて、すぐ酔っ払って響子ちゃんにもたれかかっちゃって」

「鳴子さんは優しいから、お客さんに勧められると断れないんですよ」

 鈴子と響子の昔話も興味深いが、さやかは本題に入った。

「それでその、源さんとはどういう…?」

「恋人だ」

 断言する源の腕を、響子が軽く叩いた。

「お友達です。源さんがよくお店にいらっしゃって、外でも会うようになったんです」

「……はあ」

 男女の友情は成立するのか、という陳腐なクエスチョンが、今、さやかの脳内で深刻さを伴って点滅している。

 ――源さんはともかく…響子さんって、確か、彼氏がいるんじゃなかったっけ。

 竿燈の夜に喧嘩していた彼氏、そして勿論、マンションを与えてくれている榊原の存在もある。その上で、響子は源とも付き合っているということだろうか。

 目をぐるぐるさせているさやかの肩を、鈴子がポンと叩いた。

「響子ちゃんと源さん、怪しいわね。さやちゃん、おっぱいセンサー出動よ」

「ラジャー!」

「おっぱいセンサー…?」

 源と響子が声を揃えて言ったところで、さやかは響子の胸にぽふんと飛び込んだ。

「きゃっ」

「………」

 さやかはしばらく響子の胸に顔を埋め、ついでにむにむにと揉んでみた。

「な、夏目さん…」

「………」

 鈴子ほど大きくはないが、さやかにとっては十分羨ましい手ごたえのバストだ。香水をつけているのか、ほのかにフリージアの香りが漂う。

 しばらくそうした後、さやかはすっと顔を上げた。

「シロです」

「あら、意外。源さんって見た目のわりに奥手なのかしら」

「もう、夏目さんも鈴子さんも、いじめないでください」

 恥ずかしそうに言うと、響子はまだすりすりと胸に頬を寄せるさやかの髪を優しく撫でた。

「若頭に後ろめたいようなことは、何もありません。安心してくださいね、夏目さん」

「むぅ…」

 さやかはまだ疑いを捨てきったわけではなかったが、今は響子を信じることにした。

 一連のやり取りを羨ましそうに眺めていた源に、さやかは釘を刺した。

「源さん。響子さんは、僕の麻雀友達です。変なことをしたら許しませんからね」

「それは保証できねえな」

「シャーッ!」

 さやかが威嚇しても、源はどこ吹く風だ。切れ長の瞳が、遥かな青空を見上げた。

「響子に鈴子、さやか。いっそ3人全員連れ去って、どっか遠くに行きてえな」

「あら、いいわね。この4人ならきっと楽しいわ」

 鈴子はのんびりと同意したが、さやかはふと、源の眼差しに何かいつもと違うものを感じた。

 ――源さん…?

「源さん。そろそろ行きますよ」

 響子に促され、源は「ああ、そうだな」と言って、連れ立って去っていった。

「………」

 ぼんやりとその背中を見送ったさやかは、遅れて重大なことに気が付いた。

 ――源さん、『淑恵の手伝いに来た』って言ってなかった!?

 榊原の妻である淑恵と娘たちの手伝いに、榊原の愛人の響子を連れて行くつもりなのか。今更ながらとんでもない状況だと分かって、さやかは慌てて後を追おうとした。

 そこに、体操着姿の少女がひらりと現れた。

「さやか!来てくれたのね」

「マキさん!」

 ブルマーから覗くカモシカのような脚もしなやかな、聖天高校生徒会長・汐見マキだ。

 きりりと結んだハチマキから覗く豊かな黒髪を揺らしながら、マキはスキップでさやかに駆け寄った。

「さやかったら、こんなトコにいていいの?冬枝のおじさまに悪い虫がついてるじゃない」

「悪い虫って…」

 聖天高校の運動会の挨拶に来たということは、佳代はマキと顔を合わせているのだろう。気の強いマキのことだから、佳代の高飛車っぷりは相当、頭にきたはずだ。

 マキは佳代の言動をあれこれさやかに愚痴ったあと、こう締めくくった。

「典型的なぶりっ子だけど、見た目ほどおバカじゃなさそうね。頭は切れる娘よ」

「マキさんも、そう思いますか」

「そう思います。じゃないわよ、さやか!」

 マキは、さやかの両肩を掴んで揺さぶった。

「どうして、あんな娘を野放しにしてるのよ。あの娘、明らかにおじさま狙いじゃない」

「そうですけど…」

 若頭の姪にボディガードに指名されてしまった以上、冬枝にもさやかにも、佳代を追い払う権利はない。ビンタ男がまだ捕まっていないという現状もある。

 ――冬枝さんなら、確実に佳代さんを守れる。

 灘議員の孫娘である佳代に何かあったら、それこそ白虎組の名折れだ。理屈で自分を誤魔化している自覚はあったが、今のさやかにはそれが最適解だった。

 そこでマキは、さやかの肩越しに鈴子の姿を見つけて「あら?」と首を傾げた。

「あなた、どこかでお会いしたことがないかしら」

「ん?そうだったかしら」

 鈴子はぴんときていないようだったが、マキの顔を見てにっこり笑った。

「まあ、今ここで会ったんだからもうお知り合いよね。こんにちは、春野鈴子です。さやちゃんがいつもお世話になってまーす」

 鈴子は、さやかを胸元に抱き寄せて、ぺこりとお辞儀をした。図々しいが、何とも憎めない笑顔だ。

 ――鈴子さんって、こういうところ、嵐さんとそっくりだよな。

 マキも、お嬢様のスタイルでぺこりと礼をした。

「はじめまして、汐見マキと申します」

「マキちゃんね。今日は、ケガしないように頑張るのよ。私たちもここで応援してるわ」

「はい」

 マキはそのまま去ろうとしたが、さやかはハッとしてマキを呼び止めた。

「マキさん!」

「はい?」

「きょっ、今日、淑恵さんたちがいらしてるんですよね」

 マキはああ、と頷いて破顔した。

「そうよ。OGの代表として、淑恵さまと瑞恵さま、それに奈々恵さまが本部のお手伝いに来てくださっているの。奈々恵さまなんて、あんな事件があったばかりなのにお見えになってくださって…生徒会一同、感謝でいっぱいですわ」

 マキは、感無量といった様子で両手を握り締めた。

「あの…僕も、淑恵さんたちにご挨拶してもいいでしょうか」

「もちろん。そうね、さやかは奈々恵さまのお気に入りだったわね」

 マキから意味ありげに肩を叩かれ、さやかは目を丸くした。

「えっ…どうして、マキさんがそれを?」

「もう有名よ。東京から来た麻雀好きの浪人生が、奈々恵お姉さまとお近付きになったって」

 ――恐るべし、女子校のネットワーク。

 聖天の王子様たる榊原奈々恵に近付いたよそ者・さやかのことを、もうそこまで調べ上げているとは。さやかは、つくづく乙女たちのパワーに圧倒された。

 マキは、ブルマー姿が行き交うグラウンドを見やった。

「もう競技が始まっちゃうし、淑恵さまへのご挨拶ならお昼休憩の時にしたほうがいいわ」

「あ…そうですね。マキさんもお忙しいのに、すみません」

「いいのよ。こうしてさやかに見に来てもらえたんだから、思い切って一般開放して良かったわ。さやかも楽しんでいってね」

「はい!」

 ポニーテールを揺らしてグラウンドへと駆けてゆくマキの背中に、さやかと鈴子は手を振った。



「続きまして、次の競技は借り物競争です。どうぞ、観覧の皆さまもご参加ください」

 アナウンスが流れ、テントの下で座っていた佳代がすっくと立ち上がった。

「さぁ、灘孝助の孫娘、灘佳代の出番ですわ❤」

「頑張ってください、佳代さん」

 冬枝が言うと、佳代がむーっと頬を膨らませた。

「もう、他人事じゃなくってよ、おじさま。自由競技は、わたくしとおじさまの2人で出るって言ったでしょう?」

「えっ…いや、でも借り物競走なんて、俺の出る幕はないでしょう」

 すると佳代は、白いレースの手袋をはめた人差し指を左右に振った。

「灘孝助の孫たる佳代に、不可能はありませんわ❤ここでお待ちになっていてね、おじさま❤」

 そう言って、佳代はバレリーナのような足取りで、優雅にグラウンドへと向かっていった。

 ――佳代さん、借り物競走なんかでどうやって俺と走るつもりなんだ?

 冬枝が佳代の言葉の意味を理解したのは、競技が始まって間もなくだった。

「さあ、走者一同、紙に書かれたお題を探して観覧席へと走り出しました!おっと、特別ゲストの灘佳代さまは、特設テントへと一直線です!」

 アナウンスが言い終わる前に、佳代は満面の笑みで冬枝の前に駆け寄っていた。

「さあ、おじさま❤わたくしと一緒に、ゴールテープを切りましょう❤」

「佳代さん。佳代さんの借り物って、一体…」

「もう、佳代に言わせるつもりですの?意地悪なおじさま❤」

 佳代はもじもじして、小指を立てた両手で用紙を広げて見せた。

「佳代の借り物は、こ・い・び・と❤ですわっ❤」

「こいび……ええっ!?」

 仰天する冬枝の腕を、佳代は何の躊躇もなく取った。

「うふふっ。事前に、聖天の皆さまに根回ししておきましたの❤さぁ、おじさま、走りましょう❤」

「は、はあ…」

 冬枝はまだ信じられない気持ちで、佳代に引きずられるようにしてグラウンドへとまろび出た。

 テントから出た途端、眩しい太陽の光と観客の歓声が、冬枝と佳代を包み込む。

 ――おいおい、悪い冗談だろ。

「おーっほっほっほ、庶民の皆さま、ご覧になって!灘孝助の孫娘と、その恋人ですわよ~!」

「か、佳代さん、やめてくださいよ」

 まるでパレードのように悠々と歩く佳代に冬枝がハラハラしたところで、2人を追い抜くシルエットがあった。

「…さやか!」

 ハチマキを巻いたポニーテールの少女――マキと、さやかが並んで走っていた。

 マキが、呆れた目つきで佳代を見た。

「運動会は盛り場じゃなくってよ、佳代さま」

「あーら、汐見さん。あなたの借り物は、その庶民のお嬢さんですの?」

「ええ」

 マキはさやかの手を取り、握った手と手を佳代に掲げた。

「わたくしのお題は…『親友』ですわ!」

 マキとさやかはそのままぐんと勢いをつけて、冬枝と佳代を追い抜いていった。

「………」

 冬枝はしばらくさやかたちの後ろ姿に釘付けになっていたが、ふと我に返った。

「佳代さん!俺らも走らねえと…」

「構いませんわ。ここは、地元の皆さんに花を持たせて差し上げなくっちゃ」

「はあ…」

 佳代は平然としているが、冬枝は落ち着かない。マキのみならず、他の選手たちが全力で走っているというのに、佳代は散歩でもしているかのような速度なのだ。

 佳代は、ぎゅうっと冬枝の腕を抱き締めた。

「わたくしは、勝ち負けになんて興味ありません。こうして皆さんに、おじさまとの仲を自慢できるだけで……佳代、幸せです❤」

「お、大げさですって…」

 冬枝としては公衆の面前で恥を晒されている気分なのだが、純粋極まりない佳代を邪険にすることもできない。

 結局、歓声と共に1着となったのは、さやかとマキのコンビだった。

「生徒会長ー!」

「マキさまー!こっち向いてー!」

 マキは生徒たちの声に応えるように1着の旗を振り、さやかに白い歯を見せた。

「ありがとう、さやか。一緒に走ってくれて」

「とんでもない。僕のほうこそ、選んでくれて…ありがとうございます」

 さやかがはにかみ交じりに言うと、マキも満面の笑みを浮かべた。

「当たり前じゃない。あたしの『親友』って言ったら、さやかしか思いつかないわ」

「マキさん…。でも、学校の友達じゃなくて良かったんですか?」

 さやかの問いに、マキは苦笑いで答えた。

「そこよ。生徒会長のあたしが、ここで誰か一人を選んじゃったら、不公平じゃない。あたしは、学校のみんなのことも親友だと思ってるもの」

「その辺、外部の僕なら角が立ちませんね」

 聖天高校においては、さやかも佳代と同じ特別ゲスト、言い換えればよそ者だ。借り物競走で一緒に走っても、そこまで目くじらを立てられまい。

「それだけでさやかを選んだんじゃないわよ。そこは分かってちょうだい」

「ええ。もちろん」

 さやかとマキが微笑み合ったところで、ようやく佳代と冬枝がのろのろとゴールインした。

「楽しかったですわね、おじさま❤さ、テントに戻って一緒に紅茶を飲みましょう。すぐに支度させますわ」

「は、はは…」

 女子校の運動会で晒し者にされた冬枝は、遠目にも分かるほど顔がやつれていた。さやかはちょっと、冬枝が気の毒になった。

 ――冬枝さんは冬枝さんで、大変そうだな。

 そうは思っても、冬枝と佳代の間に割って入る気にはなれない。すっかり2人でいることに慣れた様子の後ろ姿が、さやかを尻込みさせた。

 と、そこで、さやかの手がぎゅっと力強く握られた。

「ま、マキさん?」

「負けんじゃないわよ、さやか。麻雀でも恋愛でも、あたしはさやかの味方だからね」

「マキさん…」

 マキの手をぎゅっと握り返すと、さやかの中にもマキの勇気が流れ込んでくる気がした。

 ――そうだ。僕が弱気になる理由なんてない。

 冬枝が己の職務を全うしているように、さやかは今、自分にできることをするだけだ。背筋をぴんと伸ばしたさやかに、マキが笑顔で肩を叩いてくれた。



 懸命に汗を流す乙女たちを眺めているうちに、時計の針が正午を差した。

 客席に戻ったさやかは、鈴子が持ってきてくれたお弁当を広げた。

「おいひ~い」

「さやちゃん、たらこおにぎり好きでしょう?今日はシーフードおにぎりもあるわよ」

「うれひいでしゅ」

 さやか自身は借り物競走でしか走っていないのだが、マキをはじめ聖天の少女たちが全力で駆ける姿を見ていたせいか、つられて空腹になっていた。

 さやかは、鈴子が作ってくれた大きなおにぎりに、次から次へとかぶりついた。

 ――外で食べるご飯って、どうしてこんなに美味しいんだろう。

「うふふっ。ご飯食べてる時のさやちゃんって、ほんっとーに可愛い❤」

「あむ…」

「おにぎりだけじゃないわよ。鈴子特製卵焼きは、タッパいっぱいのビッグサイズ!こんにゃくのピリ辛炒めと、ゴボウ太めのキンピラもおススメよ」

「わーい❤」

 あむあむと昼食を食べるさやかに、鈴子が甲斐甲斐しく水筒のお茶を注いでくれた。

「そういえば、源さんと響子さんもそろそろお昼を食べてる頃かしら」

「んぐっ!」

 完全に無邪気なお子様モードになっていたさやかは、その一言で我に返った。

 ――しまった!源さんたちのこと、すっかり忘れてた!

 さやかは鈴子が注いでくれたお茶をぐびぐびと飲むと、すっくと立ち上がった。

「鈴子さん。僕はちょっと、淑恵さんたちにご挨拶してきます」

「なんて言って、ホントは源さんと響子ちゃんの様子を見に行くんでしょ。私も行くわ」

「鈴子さんも?」

 鈴子はお弁当をバスケットにまとめて、「ええ」と笑った。

「さやちゃんがそれだけ気にかけるってことは、今の響子ちゃんはちょっと心配な感じなんでしょう?私も、響子ちゃんと話してみるわ」

「鈴子さん…」

 鈴子の優しさにしんみりしたさやかに、鈴子は悪戯っぽく言った。

「女装したおじさんと女子校でいちゃつくなんて、変態すぎるもの。響子ちゃんにはもうちょっと、ノーマルなお付き合いをおすすめしたいわ」

「ははっ。そうですね」

 鈴子と2人、さやかは連れ立ってグラウンドへと出た。



 淑恵たちのいる本部テントがどこにあるかは、すぐに分かった。

「きゃー!淑恵さま、私の花束受け取ってください!」

「瑞恵さまー!クッキー焼いてきました!」

「奈々恵さま、お怪我の具合はいかがですかー!?」

 ブルマー姿の女子高生が本部テントに殺到し、大層な人だかりになっていたからだ。

 ――淑恵さんたち、相変わらずすごい人気。

 聖天の生徒のみならず、よく見れば他校の高校生や中学生まで混ざっている。淑恵たちの人気は、学校の外にまで及んでいるようだ。

 呆気に取られるさやかたちの後ろから、聞き慣れた声が届いた。

「あーあ、予想通りね」

「マキさん!」

 マキは苦笑いして、乙女たちに包囲された本部テントに目を向けた。

「今年の一般開放で、他校の女の子たちにチャンスをあげちゃったみたいね。憧れの淑恵さま方とお近付きになれる機会なんて、他校の娘たちにはそうそうないもの」

「淑恵さんたち、すごい人気ですね」

「女の子たちの噂話は、学校の垣根なんて簡単に超えるわ。聖天で伝説のお姉さま方は、他校の女の子たちのことも引き付けてしまうみたい」

 少しでも淑恵たちに近付こうと押し合いへし合いする乙女たちの姿は、まるで運動会の競技の一つみたいだ。

 ――これじゃ、淑恵さんたちにご挨拶できそうにないな。

 それに、見たところ、あの長身の『ミナ』――源の姿は見当たらない。源がいないということは、響子もここにはいないだろう。

「…源さんたち、いませんね」

「みたいね。もしかして、校舎のどこかにしけ込んだのかしら」

「ええっ…」

 鈴子はくすくす笑って、「ほとんど犯罪ね」と言った。

「私はグラウンドを見て回るから、さやちゃんは校舎のほうを探してくれない?さやちゃんなら、学校の周りをうろうろしててもそんなに目立たないだろうから」

「そうですね。探してみます!」

 観客席にいる家族の元に戻るというマキと別れ、さやかは一人、聳え立つ聖天高校の校舎へと向かった。



「午後の競技も頑張ってね、ミホちゃん」

「ありがとう、マサシさん❤あっ、そろそろ戻らなきゃ。パパとママが待ってるの」

「うん、じゃあまた後でね」

 名残惜しそうに男女が離れるのを見計らって、さやかは壁から顔を出した。

 ――響子さんと源さん、ここにもいないなぁ。

 聖天高校の敷地は広い。流石に部外者のさやかが校内に入るのは憚られたため、とりあえず中庭を見て回っていたのだが――。

 ――聖天のお嬢様も、けっこーボーイフレンドを作ってるんだな。

 女子校だろうと共学だろうと、田舎だろうと都会だろうと、女子高生のやることは変わらない。中庭にいるのは、人目を忍んで愛を語らうカップルばかりだった。

 ――やっぱり源さんたち、学校の中にいるのかな。

 しかし、校舎の中を探すとなると、さやか一人の手には余る。まして、白虎組の先代の親衛隊長だった源に本気で隠れられたら、さやかが見つけられる可能性は低い。

 ――まさか、本当に女子校でデートしてるわけじゃないよな。

 中庭を一周したさやかは、駐車場のほうも探してみることにした。

 ――うわぁ、すごい数の車。

 当たり前だが、駐車場は保護者の車でぎっしり埋まっていた。車のそばでタバコをふかす父親たちの姿も多い。

 のどかな休日の一コマを見ているうちに、さやかは、自分が間違ったことをしているような気分になってきた。

 ――この際、源さんと響子さんのことは、放っておいてあげたほうがいいのかも。

 淑恵と響子が鉢合わせしたわけではなさそうだし、それなら、わざわざ源たちを邪魔する必要はないだろう。源なら、響子と上手く付き合えそうだ。

 ――鈴子さんを待たせてるし、戻ろう。

 駐車場から出ようとしたさやかは、ちょうど近くに青のスカイラインが停まっているのを見つけて、ハッとした。

 ――響子さん。

 助手席のシートにもたれて、響子は物憂げに座している。そっとしておいたほうがいい雰囲気を感じたものの、さやかは声をかけずにはいられなかった。

 さやかが窓をコンコンとノックすると、響子がゆっくりと顔を上げた。

「夏目さん。良かったら、中にどうぞ」

「…はい」

 響子は扉を開け、さやかを運転席に座らせてくれた。

「夏目さんなら、私がどうしてここにいるのか、分かってるでしょうね」

「…淑恵さんに会いに来たんですか?」

「ええ。そうよ」

 響子は深く頷き、フロントガラスの向こうを見つめた。

「源さんとは、キャンドルホテルで最初に会った時から、よくデートに誘われていたんです」

「そうだったんですか…」

 源と響子を引き合わせたのは、他ならぬさやかである。榊原のデートがダブルブッキングした際、榊原が淑恵とコンサートに行っている間、源を響子との麻雀相手に引き入れたのだ。

 あの時から、源は響子に並々ならぬ関心を寄せていたのだろう。榊原家の家庭崩壊を避けるためだったとはいえ、さやかは女好きの源に響子を紹介してしまったことを悔いた。

 ――なんか、責任を感じちゃうな…。

 さやかの後悔とは裏腹に、響子は源とそれなりに親しくなったようだった。

「源さんとは何回か会ううちに、色々なことをお話するようになりました」

「…榊原さんのこととか?」

「そう。私も、誰かに打ち明けてしまいたかったんでしょうね。源さんには、夏目さんにお話ししたのと同じことを全部話しました。私がパパの…霜田さんの差し金で若頭に近付いたことも、若頭を灘議員から解放したいと思っていることも…そして、名ばかりの愛人でしかないことも」

 響子はそこで、自嘲の笑みを浮かべた。

「源さんは、私にとても優しくしてくれるわ。でも、あの人だって若頭と同じ。私に淑恵さんを重ねているだけよ」

「そんな…」

 響子は、気付いていたのだ。自分が淑恵と似ていることも、そのせいで榊原からは娘のようにしか見てもらえないことも。

「だから私、言ったんです。本当に私のことが好きなら、私と淑恵さんを会わせてくださいって」

「響子さん…」

 さやかは改めて、響子の心が追い詰められていることに気付かされた。

 ――響子さんはいつだって、愛されないっていう不安でいっぱいなんだ。

 そして、さやかの入院中に源が語った話は、響子のことだったのだとようやく気付いた。

「片想いの重さに耐えられねえ奴もいる」

「そういう奴は恋の不幸に溺れて、やがて、自分の影に飲み込まれる。そうなる前に、悪い恋から目が覚めりゃいいんだがな」

 ――源さんは、響子さんのことを助けようとしているのかもしれない…。

 響子は、ふうと溜息を吐いた。

「そうしたら、源さんは本当に私をここに連れて来てくれたわ。私の好きにしていい、とまで言ってね」

「……」

「だけど私……結局、怖くて…奥様のところまで行けなかった。バカよね」

 響子の美しい瞳には、涙が滲んでいるようにさやかには見えた。

「源さんに連れられて、奥様と娘さんたちのすぐ近くまで行ったの。本当に、優しそうな人たちだった。この人たちは、若頭にとってかけがえのない存在なんだと思ったら、何も出来なくて…」

「響子さん…もう言わないでください」

 さやかは辛そうな響子を見ていられなかったが、響子は首を横に振った。

「私は、若頭を不幸にすることしかできないのかもしれません」

「響子さん…」

 そこで、初めて響子と会った時の光景が、さやかの脳裏によみがえった。

 広く、綺麗なマンション。新品の自動卓。響子にタバコをたしなめられて、笑っていた榊原。

 さやかは、キッと顔を上げた。

「そんなことありません!」

「夏目さん?」

「響子さんと一緒にいる時の榊原さん、すごく楽しそうでした。源さんと違って、榊原さんは女性なら誰でもいいって人じゃありません。響子さんは、榊原さんが選んだ人なんです」

 響子が、切れ長の瞳を小さく見開いた。

「霜田さんの思惑があったにせよ、響子さんを選んだのは榊原さんです。響子さんが望む形じゃないかもしれないけど、響子さんだって榊原さんの幸せの一部だと…僕は思います」

「…夏目さん」

 一息に言うと、さやかはふうと肩の力を抜いた。

 ――なんか、自分でも何言ってるんだか、さっぱりだ。

 響子に、榊原の愛人を続けて欲しいわけじゃない。ただ、響子に自分自身を追い詰めて欲しくなかった。

 ――どんなに不幸な恋だって、幸せな瞬間が必ずあったはずだから。

 響子は呆然としてさやかを見つめていたが、やがて、訥々と話し始めた。

「…夏目さん。少し、私の話をしていいですか」

「はい」

「家が貧乏だって話は、前にしましたね。家が貧しかった理由は、幼い時に父が出て行ったからなんです」

「お父様が…」

 響子は、遠い過去に想いを馳せるように、瞳を上げた。

「母は身持ちの悪い人だったから、父が出て行ったのも当然でした。私自身、母の元にいるぐらいなら、父と一緒に連れて行ってほしかった」

 母と違って、父は真面目で働き者で、幼い響子によく玩具や洋服を買ってくれた。年齢を重ねていくごとに、家を去った父への思慕は高まったという。

「響子さん…」

 響子の複雑な家庭環境に、さやかは言葉もない。

 響子は、小さく肩をすくめた。

「でも私、父のことを美化していたみたい」

「えっ…」

「この間、久しぶりに父と再会したんです。父は若い女の人と一緒で、パチンコから出てくるところだった」

「………」

「父も女の人も、ぞっとするほど無表情でした。タバコをくわえたまま、うつろな顔でふらふら歩いていった。娘の私が目の前にいることにさえ、気付かずに」

 響子はふふっと悲しい笑みを浮かべた。

「私、あんな濁った眼をした人のことを、ずっと慕っていたんだって思ったら…もう、訳が分からなくなっちゃった」

「………」

「もう、夏目さんならお分かりですよね。私はずっと、若頭に父親を求めていたの。私をお嬢さんと重ねる若頭のことを、責められる立場じゃないのよ」

 ずっと黙っていたさやかは、静かに口を開いた。

「…源さんじゃ、ダメですか」

「分からないわ。あの人はとても優しいけれど…私にはもう、何も分からない。自分の気持ちが見えないの」

 ただ、と響子は言った。

「父も母も、汚れ切った最低の大人だった。そして、私自身も。…私にはもう、若頭しか信じられるものがないんです」

「響子さん…」

「若頭を失ったら、と思うと、不安で居ても立ってもいられないの。若頭を不幸にはしたくないのに」

 そう言う響子の瞳は、あまりにも悲しそうで――。

 結局、今の響子を救える解は、さやかには見つけられなかった。

 スカイラインを出たさやかは、頭上に広がる空を見上げた。

「夏目が男の子だったら良かったのにね……」

 三船の言った言葉が、鉤爪のようにさやかの心に食い込む。彼女たちは、友情では届かない闇の淵に立っていた。



 ――そろそろ、お昼休みが終わる頃かな。

 そんなことを考えながら駐車場の裏手に回ったさやかの耳に、艶のある低い声が届いた。

「ああ。ここは東京よりずっと住みやすい。古巣だからな」

 ――源さんの声だ!

 声のするほうへ向かうと、駐車場を囲むフェンスの前で、源がポロシャツ姿の男と話していた。

 さやかは、近くの車の影にこそっとしゃがみこんだ。

「そうか、源さんはこちらに住んでたことがあったんでしたね。やっぱり、田舎はいいものですか?」

「いい女がいれば、どこだって都さ」

「ははは、それは確かに。この学校も、いい子ばかりだ」

 男の言葉に、源が微かに眉をひそめたが、すぐに元の無表情に戻った。

「…そっちも順調みたいだな」

「ええ。こんな田舎で上手くやっていけるか不安でしたが、いや、トントン拍子で」

「大変だろう。単身赴任は」

「まあ、息子も進学して家を出ましたし、妻と2人きりってのも息が詰まるので、かえってちょうど良かったですよ」

「そうか」

 さやかはふと、源と話している中年の男に見覚えがあるような気がした。

 ――あの人、どこかで見たような……。

 だが、雀荘で会ったなら忘れるはずがない。ポロシャツを着たおじさんは皆だいたい同じ顔に見えてしまうから困る、とさやかは一人首を傾げた。

「…!」

 そこで、源の鋭い眼光がこちらに向いた。

 ――うっ…!

 源の視線に射すくめられた途端、さやかは身動きが取れなくなってしまった。

 源はタバコをポケットにしまうと、「じゃ、俺はこれで」と男に断りを入れた。

「ええ、また今度。頑張りましょうね、お互いに」

「ああ」

 男に背を向け、源は真っ直ぐにさやかの元へとやってきた。

「………」

「みな…もと、さん」

 太陽を背に立つ源の眼差しは、研ぎ澄まされた刃のようだ。まるで喉元にナイフを突きつけられているような気分で、さやかは立ち上がれなかった。

 ――聞いちゃ、まずかったかな……。

 源の目付きがあまりにも恐ろしくて、さやかは声も上げられない。

「………」

 しばしの沈黙の後、源はふっ、と口元をほころばせた。

「そんなところにいたら、日焼けしちまうぞ。さやか」

「あ…」

「ほら。立てるか?」

 源に手を差しのべられ、さやかはすうっと浮き上がるように立たされた。

 源の表情は、先程までの鋭い睥睨が嘘のように優しい。さやかは、拍子抜けした。

「あの…」

「俺を探してたんだろ?手間取らせたな」

 長い髪をさらりと払い、源は不敵な笑みを浮かべた。

 ――いつもの源さんだ。

 ちょっとホッとしたさやかは、素朴な疑問を口にした。

「あの、さっき一緒に話してた人は…源さんのお知り合いですか?」

 源は、特に気負いもなく「ああ」と答えた。

「東京から来た者同士、たまに連絡を取り合っているんだ。顔を合わせたから声をかけただけさ」

「そうなんですか…」

「何か、気になることでもあるか?」

 源にじっと眼を覗き込まれ、さやかはうーんと眉根を寄せた。

「僕、何だかあの人のことを知っているような気がして」

「何?」

 源がちょっと真剣な反応だったので、さやかは慌てて両手を振った。

「でも、人違いかもしれないです。おじさんって、私服姿だと誰が誰だかわからなくって」

「確かにな。俺みたいな二枚目はそうそういない」

「ははは」

 小さく笑ってから、さやかは堂々とした源の横顔を見上げた。

「…僕、源さんが羨ましいです」

「俺が?」

「源さんみたいにちゃんとした大人の男の人だったら……響子さんも、安心できるだろうから」

「響子と話したのか」

 さやかが頷くと、源は「そうか…」とタバコを口にした。

「俺は、さやかが羨ましい」

「僕がですか?」

「響子は、男に父親の代わりを求めてるだけさ。響子にとって俺の価値は、年上の男ってところしかねえ」

 だが、と言って源はさやかを見つめた。

「自分より年下の女で、家族にも恵まれているさやかに身の上話をするのは、相当、勇気がいるはずだ」

「あ…」

「それでも響子が自分の弱味を打ち明けたのは、さやかの中にある誠意を信じたくなったからさ。それって、男女の色恋より余程凄いことじゃねえか?」

 源の蒼い瞳が、じっとさやかを見据えた。

 さやかは響子の辛い境遇にばかり気を取られていたが、過去をさやかに打ち明けた時点で、響子の中で何かが変わり始めたのかもしれない。

 ――僕でも、響子さんの力になれてるのかな。

 まだ弱気なさやかの肩を、源はポンと叩いた。

「冬枝だったら、俺が羨ましいなんて言わねえさ。あいつは、自分に出来ることしか考えねえ」

 出来ないことは投げ出すからな、と言って、源はタバコの煙を吐き出した。

「…そうですよね」

 冬枝は、自分より遥かに年下の佳代のことも、全力で支えていた。さやかを代打ちにしたのだって、冬枝自身がその時にできる最善の解を選んだからだ。

 ――冬枝さんは、いつだって今を見ている。

 源が、おもむろにフェンスから身を放した。

「源さん、もう帰っちゃうんですか?」

「ああ。榊原が来たから、俺がいなくても淑恵たちは大丈夫だろう」

「そうですか…」

 さやかは「じゃあ、響子さんによろしく伝えてください」と言って、源の前を辞した。

 ――この分なら、淑恵さんと響子さんが鉢合わせすることはなさそう。

「俺が羨ましい、か……」

 さやかの背中を見つめる源の目線が、どこか悲しげだったことにさやかは気付かなかった。



 さやかが観客席に戻ると、レジャーシートの上から鈴子が立ち上がった。

「さやちゃん!やっと戻って来たのね」

「鈴子さん…」

「もうっ、あんまり遅いから、源さんに食べられちゃったのかと思ったわ。大丈夫?何だか顔色が悪いわよ」

 鈴子に優しく頬にキスされ、悄然としていたさやかは、少しだけ元気を取り戻した。

「…大丈夫です。源さんとも響子さんとも、ちゃんとお話できたので」

「そう?ところでさやちゃん、お客さんが来てるんだけど」

「お客さん?」

 と首を傾げたさやかは、鈴子の背後に漆黒のアルマーニ姿がいることに、ようやく気付いた。

「…朽木さん!?」

 朽木は、おなじみの悪人面をこれでもかと歪めた。

「ったく、どこほっつき歩いてやがった。緊急事態だ、とっとと行くぞ」

「緊急事態って…まさか、ビンタ男が」

「ああ。見つかった」

 思わぬ知らせに、さやかの中からさっきまでの落ち込んだ気分が吹っ飛んだ。

「見つかったのは、一人ですか?場所は?」

「詳しくは、車で話す。犯人に会うに当たって、てめえにも一緒に来てもらう」

「僕も?」

 さやかにとっては願ってもない話だが、どうして朽木がさやかを同行させるのだろうか。

 話を聞いていた鈴子が、朽木の肩を掴んだ。

「ちょっと、貴彦さん」

「ああ?」

「それって、この間のビンタ騒動の犯人のことでしょう?そんな危ない奴をとっちめるのに、どうしてさやちゃんを連れて行く必要があるのよ」

「春野鈴子、てめえにゃ関係ねえ。組の女を俺様がどうしようが、俺様の勝手だろうが」

 パン!

 朽木が言い終わるか終わらないかのうちに、鈴子が朽木を平手打ちしていた。

 さやかがぎょっとする横で、朽木は呆然と鈴子を睨み付けた。

「…てめえ、何のつもりだ」

「さやちゃんはビンタ男に叩かれて、すっごく怖い思いをしたのよ?またさやちゃんを怖い目に遭わせるって言うなら、私が許さないんだから」

「鈴子さん…」

 鈴子の優しさに、さやかは胸が熱くなった。

「ぐぬぬぬ…」

 朽木は今にも鈴子を殴りたそうに拳をプルプル震わせていたが、クルッと背中を向けて己を宥めた。

「こいつはメイちゃんのお姉ちゃん、こいつはメイちゃんのお姉ちゃん……!この女を殴ったら、メイちゃんが悲しむっ……!」

「そーよ。鳴子が悲しむような真似はしないでちょうだい、貴彦さん」

 鈴子の優しさはありがたかったが、さやかはそっと2人の間に割って入った。

「…ありがとうございます、鈴子さん。でも、僕は朽木さんと一緒に行きます」

「さやちゃん!」

「僕だけじゃなく、奈々恵さんや美佐緒さん…彩北の女の人たちが、ビンタ男に叩かれたんです。ビンタ男を捕まえるというのなら、朽木さんだろうと僕は喜んで協力します」

「『朽木さんだろうと』ってどういう意味だ、おい」

 朽木のツッコミを無視して、鈴子はぎゅっとさやかを抱き締めた。

「バカな子。さやちゃんはそんなことしなくたって、安全な場所にいていいのに」

「ビンタ男を捕まえたら、また、ぎゅーってしてくれますか?」

「当たり前じゃない」

 熱く抱擁し合う女2人に、朽木の頬が引きつった。

「なんだ、こいつら……」

 さやかは鈴子との別れを惜しむと、朽木に向き直った。

「お待たせしました。行きましょう、朽木さん」

「本っ当に待ちかねたぜ。もう時間がねえ、走るぞ」

 と言うや否や、朽木はさやかの腕を掴み、グラウンドへと走り出した。

 衆人環視のグラウンドに引っ張り出され、さやかは慌てた。

「くっ、朽木さん!?」

「うるせえ、ここを突っ切ったほうが早いだろうが!どうせ今は競技中だ、誰も見てやしねえよ」

 朽木の言う通り、確かにグラウンドは観客の歓声に包まれている。誰も、さやかと朽木のことなど目に入っていないようだ。

「さぁ皆さん、仮装競走もいよいよクライマックスです!トップは一般からご参加の奈々恵王子!我らが生徒会長、汐見マキさまも華麗なる騎士の衣装で追いかけます!」

 ――へぇ、奈々恵さんも走ってるんだ…。

 熱の入ったアナウンスに、さやかは思わず、首だけ振り返った。凛々しい奈々恵の王子姿が、ちょっと気になったからだ。

 そして――さやかは、とんでもないものを目にした。

 ――えっ…!?

「最後尾から追い上げるのは、特別ゲストの灘佳代さまです!オデット姫のたおやかなドレス姿で、素敵な王子様に抱かれています!」

 恐らく、アナウンス係の生徒はかなり言葉を選んだのだろう。さやかでさえ、その格好を見て噴き出しそうになったのだから。

 ――し、白タイツ……。

 佳代のフリフリのバレリーナ姿はともかく、その佳代を抱えて走る冬枝は、童話の王子様の格好をさせられていた。それも、子供向けの絵本に出てくるような、かぼちゃパンツに白タイツという出で立ちだ。

 若者が着ても恥ずかしい格好なのに、中年の冬枝が着せられている様は、もはや笑いを通り越して痛々しい。冬枝の腕に抱かれて幸せそうな佳代とは真逆に、冬枝は「いっそ殺してくれ」と言わんばかりに、苦悶の表情を浮かべていた。

 ――冬枝さん、佳代さんに逆らえなかったんだろうなぁ……。

 冬枝が気の毒になる一方で、さやかは、そこまでして佳代に従う冬枝のプロ意識に感服した。

 ――僕も、僕にできることをちゃんとやらなきゃ!

 冬枝に見入っていたさやかは、朽木にぐいっと腕を引っ張られた。

「おい麻雀小町、よそ見してねえで真っ直ぐ走れ!」

「あ、はい」

 朽木に引きずられていくうちに、冬枝の哀れな王子様姿は、どんどん遠ざかって見えなくなっていった。



 その頃、冬枝は地獄のような50mをひた走っていた。

 ――もう、いっそ殺してくれ……。

 頭がズシリと重いのは、被せられた王冠のせいではない。ボヨンボヨンと揺れるかぼちゃパンツは、一歩進むごとに冬枝を嘲笑っているかのようだった。

 冬枝は一刻も早くこの苦行を終わらせたいのだが、腕の中の美少女がそれを許してくれない。

「あん❤そんなに急がないで、おじさま❤佳代、まだこのままでいたいの…❤」

「佳代さん…」

 冬枝に人生で一番恥ずかしい格好をさせている女を、振り解けたらどんなにいいか。衣装の胸元から覗く谷間だけが、冬枝の良心を繋ぎ止めていた。

 ――俺にゃ段々、佳代さんが悪魔に見えてきた……。

 ビンタ男の騒動があったというのに、佳代の護衛があってはさやかの傍にいてやれない。かといって、振るにはすこぶる魅力的な美少女ときている。

 ――今の俺をさやかが見たら、指差して笑うだろうな……。

 冬枝が佳代につきっきりでいることを、さやかが快く思っていないことは承知している。お嬢様のご機嫌取りに精を出しているなんて、自分でもみっともないと思っている。ましてや、こんな滑稽な格好をさせられていては、猶更だ。

 ――あともう少し、あと少しでゴールだ……。

 ゴールテープへと向いた冬枝のうつろな視線は、グラウンドを駆け抜けていく2人の影に吸い寄せられた。

 ――さやかと……朽木!?

 さやかの華奢な身体が、見間違えようのない悪趣味なアルマーニ姿に引っ張られていく。手を取り合って走る姿は、まるで駆け落ちする恋人同士だ。

 朽木の香水の匂いがプンプンしたさやかのブラウスが、冬枝の脳内に駆け抜けた。

 ――あの野郎、俺がいねえからって間男みたいな真似しやがって……!

 朽木を追いかけようとして加速した直後、かぼちゃパンツがゴールテープを切っていた。

「7着、お疲れ様です!」

「最後までよく頑張りましたね!」

「ナイスファイト!」

 女生徒たちがタスキを持って冬枝たちを取り囲み、さやかと朽木の姿が覆い隠された。

「ちょっ、どいてくれ…」

「ああん、もうおしまいですの?佳代、まだおじさまのお姫様でいた~い❤」

「かっ、佳代さん!」

 佳代にすり寄られ、円盤のような佳代の真っ白いスカートが、冬枝のかぼちゃパンツにめり込んだ。

 ――モタモタしてたら、さやかが朽木に連れ去られちまう!

 だが、女生徒たちよりも更に長身の影が、冬枝の前に立ちふさがった。

「冬枝」

「あっ、榊原さん…」

 姪の応援に来たのだろう。ポロシャツ姿の榊原が、観客席からやって来たところだった。

 榊原は、冬枝をなるべく直視しないようにしながら、口元を手で覆った。

「その…ご苦労さん」

 労うように背中をポンと叩いてくれたが、榊原の肩は、明らかに震えていた。

 羞恥心が、冬枝の頭のてっぺんからつま先まで貫いた。

 ――今すぐ、300メートルぐらい穴掘って隠れてえ……。

 かぼちゃパンツに白タイツ姿の43歳は、お笑い草でしかない。笑うのを堪えてくれた榊原の優しさも、うっとりと冬枝を見上げる佳代の色香も、何の慰めにもならなかった。

 ――それより、さやかは一体どこに行っちまったんだ?

 グラウンドを見回しても、もはや、さやかと朽木の姿はどこにもない。かぼちゃパンツに白タイツでは、2人を追いかけることもかなわなかった。


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