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42話 パンチドランカー・ララバイ(その2)

第42話 パンチドランカー・ララバイ(その2)


 雀荘『こまち』は、今日も麻雀を打つおじさんたちで賑わっていた。

「呑気なもんだよな。ビンタ男はまだ捕まってねえっていうのに」

 喫茶スペースに頬杖をつき、嵐が嘆息した。昨日は一日中、街を駆けずり回ったらしいが、結局、嵐も警察もビンタ男を捕まえられずじまいだった。

 隣に座るボルドーレッドのダブルのスーツの男――ミノルが、穏やかにコーヒーカップを置いた。

「しょうがありませんよ。犯人が標的にしているのは女性ですから。ここにいる客のほとんどが、自分は関係ないと思っているのでしょう」

 現に昨日、この店で襲われたのはさやかだけだった。ミノルは、隣に座るさやかの横顔を覗き込んだ。

「傷の具合はいかがですか、さやかさん」

「………」

「さやかさん?」

 ミノルに名前を呼ばれ、さやかはハッと我に返った。

「…あっ。えーっと、ぼ、僕なら大丈夫です」

「無理はしないほうがよいかと思いますよ。今日は、お家に帰ってゆっくり休んだほうがいいのではありませんか」

「いえ……」

 たかが軽く平手打ちされたぐらいで、ミノルを心配させたくはない。さやかは、努めて笑顔を作った。

「僕なら、この通り大丈夫です。女の子は笑顔が一番、ですものね!」

 しかし、ミノルは眼鏡の奥の瞳を悲しそうに細めた。

「ああ……」

「み、ミノルさん?」

「君のようなか弱い女性に、そんな顔をさせるなんて。犯人が、一日も早く捕まることを願っています」

「僕、そんなに変な顔してます?」

「女の嫉妬は醜いって、顔面のこと言ってるんだなー」

 嵐がズバリ図星を言い当てたので、さやかは思わず「嵐!」と声を上げた。

「嫉妬?」

 首を傾げるミノルに、嵐が「聞いてくださいよー」とわざわざ説明を始めた。

「さやかに、恋のライバルが出現したんです。こりゃ、ビンタ男以上の事件ですよ」

「おや。それは興味深い」

「ライバルなんかじゃありません!あんな子っ」

 さやかがぷいっとそっぽを向くと、嵐が「あ、ムキになってる」と言ってニヤニヤした。

 嵐のからかいも、嫉妬が顔に出てしまう自分も、何もかもが腹立たしい。さやかは、あの縦ロール頭のお嬢様に改めて憎しみを燃やした。

 ――あんなタカビーお嬢様に、冬枝さんを取られるなんて…!

 事実、認めたくはないが――灘佳代が現れたことで、さやかはビンタ男どころではなくなってしまった。



 昨夜の帰り際――さやかが榊原邸を辞す際、さやかが車に乗り込むのを待ってましたとばかりに、佳代が冬枝にしなだれかかかっていたのを思い出す。

「そうだわ、おじさま❤今夜は、佳代に添い寝してくださらない?」

「ええっ?いくら何でも、それは…」

「わたくし、一人じゃ心細いわ。夢の中までおじさまにエスコートして欲しいの…❤」

 佳代が冬枝の胸の中にそっと寄り添い、冬枝の両腕が、行き場を探してあわあわと空中をさまよった。

 ――なっ、あのハレンチ女……!

 さやかはよっぽど佳代をビンタしてやりたかったが、時すでに遅し。車上の人となったさやかには、もう遠ざかる冬枝と佳代の会話すら聞こえなかった。

 お陰で、昨夜は佳代への嫉妬で頭がいっぱいになり、ろくに眠れなかった。こんな時に限って代打ちの仕事もなく、さやかは悶々とした一夜を過ごした。

 ――こんな屈辱、生まれて初めて…!

 さやかの話を聞いたミノルが、「なるほど」とコーヒーを啜った。

「国会議員の孫娘、それもナイスバディの美少女に見初められるなんて、羨ましい限りですねぇ。逆玉の輿、といったところでしょうか」

「ダンディ冬枝、お嬢サマの愛人にされちゃったりして」

 嵐が「レディースコミックの世界だワ」と両頬に手を当てると、さやかがダンッと机を叩いた。

「そんなの、ありえません。あの娘はしょせん、家の権威を振りかざすだけの、典型的なエリート一族です。あんなショーワルのブリッコに、冬枝さんがなびくわけ……」

 嵐とミノルからまじまじと見つめられ、さやかはハッと我に返った。

 さやかは、オホンと咳払いして椅子に座り直した。

「……それより、ビンタ男の件です。嵐さん、警察はまだ犯人を特定できてないんですよね?」

「ああ」

 元警官の嵐は、今でも地元警察と緊密な繋がりを持っている。嵐自身、昨日は自分の足であちこち情報を集めて回っていたらしい。

「ビンタ男の被害者は既に、10人以上にのぼってる。いずれもほとんど無傷か軽傷だから、警察も本気で探してないのが現状だ」

「そんな…」

「今は『エメラルド・ドラゴン』対策で、不審者どころじゃねえんだろ。白虎組のおじさんたちのほうが、よっぽど血眼になって犯人を探してるぐらいだ」

 若頭・榊原の次女である奈々恵、若頭補佐・霜田の元妻である美佐緒、と白虎組トップの身内が被害に遭ったのだから、当然だ。まして、縄張り内で好き勝手に暴れるビンタ男を野放しにしては、組の沽券にかかわる。

「しかし、それだけ被害者が出ているにも関わらず、どうして未だに犯人を特定すらできていないのでしょう」

 ミノルが発した当然の問いに、嵐はピンクの革ジャンから小さなメモ帳を取り出して、ぱらぱらとめくった。

「それが、犯人があっという間に現場から逃走しちまうせいで、目撃者の情報があてにならないんスよ。若い男だったって言う娘もいれば、いやおじさんだったって証言もあるし、やせ型だった、いや小太りだった、大学生風、はたまたサラリーマン風……ってな具合で、犯人像がまとまらないんです」

 そのせいで、今のところ犯人は『20~40代の中肉中背の男』としか分かっていない。これでは範囲が広過ぎて、街を歩く男のほとんどが当てはまってしまう。

 ミノルは少し考えてから、ゆっくりと瞼を開いた。

「そもそも、犯人は一人なのでしょうか」

「えっ?」

「犯人は2人…いや、3人はいるでしょう。それぞれが、同時多発的に犯行に及んだ。だから、被害者の証言も一致せず、瞬く間に被害が広がった。そう考えるのが妥当ではないでしょうか」

 ミノルの推理に、嵐が「なるほど」と言って指を鳴らした。

 さやかも「僕もそう考えていました」と言って頷いた。

「というか、複数犯だと考えるのが普通だと思うんですけど……この街って、よっぽど犯罪者が少ないんでしょうか」

「悪かったな、田舎で。治安が良いのが取り柄なの!」

 この街ではビンタ男のような特異な不審者は珍しいため、まさかそんな珍しい犯罪者が、一度に3人も湧いて出たとは誰も考えなかったのだ。

 さやかは推理を続けた。

「『エメラルド・ドラゴン』やその他の犯罪者が犯行を依頼した可能性も考えましたが、それにしてはやることが中途半端です。恐らく、愉快犯の類ではないでしょうか」

 さやかの推測に、ミノルも頷いた。

「確かに、現場からすぐ逃げ去ったことを考えても、愉快犯で間違いないでしょう。ただ、背後に『エメラルド・ドラゴン』がいないかというと、まだ断定はできないかと」

 ミノルの言葉に、さやかが前のめりになった。

「それは…『エメラルド・ドラゴン』がこの騒ぎを利用して、警察や白虎組の目を盗んで何かしようとしている、ということですか」

「ええ。犯人たちは『エメラルド・ドラゴン』にそそのかされて、愚行に及んだだけかもしれません」

 さやかはそこで、あの憎たらしい縦ロール頭を思い出した。

「…まさか、『エメラルド・ドラゴン』は灘議員の孫娘を狙っているんですか」

「可能性は、十分にあります。事を起こすなら警察の目が厳しい都会よりも、時代遅れの田舎のほうがよっぽど容易でしょうから」

「悪かったっスね、時代遅れの田舎で。ていうか、ジェントル秋……いや、ミノルさんだって田舎モンじゃないですか」

「まあね」

 ミノルはゆったりと笑って、コーヒーカップに口をつけた。

「にしても、『エメラルド・ドラゴン』は一体どうやって愉快犯たちと繋がったんでしょうね」

 嵐が、タバコをくわえて首を傾げた。

「犯人が何人いるにしても、いずれも不良やヤクザって感じの風体じゃねえことだけは共通してるんですよ。それこそ『エメラルド・ドラゴン』にけしかけられない限り、こんな大胆な犯罪に走ったりしないタイプでしょう。そんなカタギが、なして東京の不良チームと出会っちまったんだかな」

「それだけ『エメラルド・ドラゴン』のネットワークは広範に及んでいるということでしょう」

 ミノルの口にした「ネットワーク」という単語に、さやかはハッとひらめいた。

「そうか!ネットワーク…!」

 さやかは喫茶スペースから立ち上がると、スタッフルームにいる中尾を呼びに行った。

「中尾さん!パソコンをお借りしてもいいですか」

「それは、構いませんが…」

 さやかはすかさずパソコンに向き合ったが、すぐに「あっ!」と声を上げた。

「このパソコン、回線が繋がってない!なんで!?」

「オーナーが契約しなかったんです。金がかかるから、と」

「もう、冬枝さんのケチ!しょうがない、今から契約します!」

「ですが、オーナーの許可がないと…」

 戸惑う中尾に、さやかがドンと自分の胸を叩いた。

「お金なら、僕が出します!冬枝さんにはそう伝えといてください!」

「は、はあ」

 後ろも見ずに『こまち』を出て行くさやかに、嵐が苦笑した。

「さやかの奴、つむじ風みたいっスねえ。ジェントル秋津の名探偵っぷりに刺激されたせいじゃないっスか?」

「めっそうもない。僕はただ、憶測を口にしたに過ぎませんよ」

 ミノルの銀髪が、窓から差し込む陽光を受けてきらりと輝く。

 風に揺れる稲穂のように穏やかなミノルの横顔に、嵐は素朴な疑問をぶつけずにはいられなかった。

「…ジェントル秋津はぶっちゃけ、どういう気持ちでさやかと会ってるわけ?」

 今年の1月に殺された朱雀組4代目・秋津イサオは、ミノルの実の兄である。イサオの死に関わっているであろうさやかに対して、こんな仏の如き顔をしていられるはずがないのだ。

 嵐の疑いとは裏腹に、返ってきたのは静かな声だった。

「可愛いガールフレンドと会うのに、楽しい以外の気持ちが存在するでしょうか」

「ははぁん?」

 嵐は半信半疑だったが、目の前の独身中年はそれ以上、胸の内を明かそうとはしなかった。



 若い女と会うのが楽しいのは、冬枝も例外ではなかった。

「おじさま。今日は、佳代にこの街を案内してくださるお約束でしたわよね?」

 朝、榊原邸のリビングで顔を合わせた佳代からそうせがまれた時も、冬枝は意外と嫌な気がしなかった。

 ――多少、性格に難はありそうだが、悪い娘じゃなさそうなんだよな。

 昨夜も、冬枝は佳代にゴネられ、榊原邸に泊まることになってしまったのだが――夕食の席で瑞恵や奈々恵と談笑する佳代は、無邪気な年頃の少女そのものだった。

「佳代ね、東京のお店でこんなに大きな真っ白いテディベアを買いましたのよ。今度、お姉さま方も見にいらして」

 後で聞いたところによると、佳代には兄弟が年の離れた兄しかおらず、いとこである瑞恵と奈々恵のことを実の姉のように慕っているのだという。

 名家の令嬢として、東京で気の抜けない日々を過ごしていることを思えば、多少、高慢なところがあるのは仕方がないのかもしれない。冬枝は、少しだけ佳代が健気な少女に見えた。

「冬枝さん」

 さやかの冷ややかな声で、冬枝はハッと我に返った。

 夕食の席にいたのは、冬枝だけではない。瑞恵と奈々恵の厚意で、さやかも誘われていたのだ。

 さやかは冬枝をじっと睨み据えていたが、すぐに澄ました顔でシチューをふーふーと息で冷ました。

「…ビンタ男の件、僕のほうでも探ってみます」

「おい、危ない真似はするなよ。お前はなるべく外に出るな」

「そういうわけにはいきません。奈々恵さんや美佐緒さんが被害に遭って、僕だって悔しいんです」

「さやか…」

 無鉄砲というか、さやかは相変わらず男勝りである。プライドの高さでは、この女も負けてはいないのだ。

 ――ったく、しょうがねえ奴。

 白いレースのクロスが敷かれた長いダイニングテーブルの下で、冬枝はこっそり、左手をさやかのほうへと伸ばした。

 ツンツン。

 右手でわざとらしくウーロン茶など飲みながら、冬枝は、テーブルの下の左手でさやかの膝をつついた。

「…」

 シチューをもぐもぐと頬張っていたさやかが、それに気付いて、そっとスプーンを置いた。

 さやかの右手が、テーブルの下で冬枝の左手に触れる。冬枝はすかさず、その手をぎゅっと握り締めた。

 さやかの手は小さく、ひんやりしている。その指先に、冬枝は強く力を込めた。

 ――絶対、無茶なんかするんじゃねえぞ。

 冬枝の無言のメッセージが、届いたかどうか。俯いたさやかの表情は、冬枝からは見えなかった。

 一方、同じく夕食の席にいた榊原が「ところで」と娘たちに尋ねた。

「母さんはまだ帰ってないのか?」

「お母さんなら、今日は源さんのところに行ってるって」

 奈々恵があっさりそう答えたので、さやかとこっそりいちゃついていた冬枝はハッとした。

 ――淑恵さんが、源さんと会ってる!?

「源と…?」

 榊原も若干、動揺を隠しきれない様子だったが、奈々恵のほうは至ってあっけらかんとしていた。

「うん。源さん、東京から引っ越してきたばっかりだから、お庭に植えるお花をお母さんが一緒に選んであげてるんだって」

「まあ。源のおじさまも、お花がお好きなのね」

 にこにこと頷く瑞恵といい、奈々恵といい、子供の頃に源と別れた2人にとって、源は親戚のおじさんのようなものなのだろう。まさか、源が10数年来の想いを淑恵に寄せているなど、2人は知る由もない。

「………」

 榊原はフォークを持ったまま、じっと黙り込んでしまった。

 淑恵と源がこんな時間に2人っきりで会っていることに、榊原が疑いを抱いているのは明らかだった。

 ――源さん、まだ淑恵さんに未練があったのかよ!

 気まずい立場の冬枝が頭を抱える横で、さやかは何事かを考えているようだった。

 そんな夕食が終わった後で、冬枝はどさくさに紛れて帰ろうとしたのだが、目敏い佳代に背広の裾を掴まれた。

「いやん、おじさまったら、どちらへ行かれるの?」

「いや、俺はその」

「おじさまはわたくしのボディガードでしょう?一緒にいてくれなきゃやぁよ」

 子猫のような声でじゃれつかれ、ついでに柔らかいものをぷよぷよと肘に当てられると、冬枝としても断ることは難しかった。

 冬枝は一応、この家の主であり、上役である榊原をうかがった。

「あのー、榊原さん…」

「仕方ねえ。冬枝、今夜はうちに泊まってってくれ」

「…はい」

 冬枝は、ちらっとさやかを見た。

 さやかの大きな瞳がじとっと細くなり、唇はへの字に結ばれている。冬枝は、嫌な予感がした。

 ――まさか、自分も泊まる、なんて言い出したりしねえよな。

 だが、冬枝の予想に反して、さやかはぺこりと頭を下げた。

「僕は、これでおいとまさせていただきます。お夕飯、ごちそうさまでした」

 さやかは、くるりと冬枝のほうを向いた。

「冬枝さん」

「お…おう」

「佳代さんのこと、守ってあげてくださいね」

 そう言うと、さやかはあっさり、榊原が用意した車に乗って帰って行った。

「………」

 さやかを乗せた車のライトが見えなくなるまで、冬枝はぼうっと見送っていた。



 冬枝が佳代のボディガードに指名されてしまったというのに、さやかは鉄面皮だった。冬枝は、つくづくさやかの気位の高さを思い知った。

 ――素直じゃねえよな、さやかは。

 それに引き換え、今現在、目の前にいるお嬢様は素直を通り越して、あけっぴろげでさえあった。

「ねねね、おじさま、この街に喫茶店はあります?」

「ありますよ」

「お洒落なブティックは?」

「あります」

「遊園地は?」

「…一応」

 東京にある広くて華やかなものとは違うが、一応、『中森山遊園地』がある。

 冬枝は、朝食の席にいた榊原姉妹をちらりと見やった。

「街を歩くんだったら、お嬢さんたちと一緒のほうがいいんじゃないですか」

「そうは言っても、瑞恵お姉さまはお家に帰らなきゃいけませんし、奈々恵お姉さまも大学の講義がございますもの」

 結婚している瑞恵は夫の元へ、大学生の奈々恵は授業へ、とそれぞれ用事があるようだ。ずっと家にいていい、という榊原の父心とは裏腹に、大人になった娘たちはちゃんと自分の義務をまっとうしていた。

 幸か不幸か、外は気持ちのいい秋晴れで、街歩きにはうってつけだ。ひとまず、冬枝は佳代を連れて公園へと向かった。

「まあ、噴水がありますわ。それに、ボートも」

 お堀を行き交うボートを見つけた佳代が「おじさま、わたくしあれに乗りたいわ」と言い出した。

「えっ…ボート、ですか」

 冬枝は、あまり気が進まなかった。というのも先日、さやかと「一緒にボートに乗ろう」と約束したばかりだったのだ。

 その約束をした直後、退院したさやかとのデートは、生憎の雨だった。さやかは嫌がることもなく、冬枝との相合傘の下で、楽しそうにこう言った。

「いつか、一緒に乗れたらいいですね」

 さやかは、次の約束ができたことを喜んでいるようだった。それを思い出すと、冬枝はさやかの前に他の女とボートに乗るのが躊躇らわれた。

 すると、佳代はダンスを踊るような優雅さで、すうっとボートを指さした。

「ボートの上なら、例の不審者も襲って来れませんわ。おじさまにも楽をさせてあげられます」

「佳代さん…」

 佳代は、お堀の周りに広がるアーケード街を見上げた。

「ここからは、街がよく見渡せますわね。おじさまに、ゆっくりこの街のお話を聞かせてほしいわ」

「…分かりました。乗りましょうか」

 ――すまん、さやか。今日だけは見逃してくれ。

 心の中でさやかに詫びつつ、冬枝は佳代を連れて、公園の貸しボートに乗った。

 街中にあるお堀だが、川面を渡る風が心地いい。女連れでボートに乗っているのは少々気恥ずかしかったが、俺はボディガードだ、と自分に言い聞かせ、冬枝は胸を張ってオールを漕いだ。

「いい天気ですね。佳代さん」

「ええ。わたくしたち、カップルに見えるかしら?うふふっ」

「冗談でしょう」

 名家のお嬢様なのに、どうして佳代は自分のような中年ヤクザに懐くのか。冬枝は、ほとほと困り果てた。

「ねえ、おじさま」

 佳代はふと、真剣な目付きを冬枝に向けた。

「おじさま、お名前で呼ばれるのはお好きじゃないっておっしゃってましたけれど…何か、お名前に嫌な思い出でもあって?」

「…まあ、色々あったんで」

 冬枝は、答えをぼかした。

 名前をつけたのは実の親だが、実の親から名前を呼ばれた記憶はほとんどない。代わりに名前を呼んだのは、養子の冬枝を馬車馬よろしく朝から晩までこき使った、義理の親たちだった。

「誠二!さっさと荷物を運べ!」

「誠二なんか養ってやる義理ねえんだからな!あんな穀潰し、とっとと死んじまえばいいんだ!」

 戦後の貧しさもあり、養家の暮らし向きは悪かった。当然、養子である冬枝は厄介者であり、冬枝もまた、自分を虐げる義理の家族を憎んだ。

 名前で呼ばれると、そんな子供時代を思い出してしまう。だから、冬枝は深い仲になった女にでさえ、名前で呼ばせたことがなかった。

 そんな苦労自慢を、東京から来たお嬢様相手に語るつもりはない。無言でボートを漕ぐ冬枝に、佳代もそれ以上は追及しなかった。

「…そうですか。わたくしは、自分の名前が好きです」

 佳代はおもむろに、自分の胸に手を当てた。

「佳代、という名前をつけてくれたのは、お祖父さま――灘議員です。より佳き時代を生きられるように、という願いを込めて、この名前にしてくださったんですって」

「いい名前ですね。流石は、灘先生だ」

 冬枝は以前、組あげてのゴルフ接待で、灘議員の鼻持ちならない素顔を知っていたが、それをここで言うほど無神経ではない。

 ――あのクソジジイも、孫娘にとってはいいお祖父ちゃんなのかもしれねえな。

 実際、佳代は大物議員である祖父を誇りに思っているようだった。

「くじけそうになる時も、この名前がわたくしの背中を押してくれるんです。佳代という名に恥じぬよう、わたくしにできることを一生懸命、全身全霊で頑張らなくちゃ…って」

「佳代さん…」

 自分の名前が一向に好きになれない冬枝と違って、佳代はとても前向きだ。お人形のような愛らしい顔立ちにも、芯の強さが垣間見えた。

 ――意外と、健気な娘さんじゃねえか。

 冬枝が感心していると、佳代が上目遣いに「ねえ、おじさま」と言った。

「わたくし、もっとおじさまのことが知りたいわ。おじさまのこと、佳代に教えてくださいな」

「はあ…別に、面白い話も出来ませんが」

 冬枝は正直にそう言ったが、佳代は至極無邪気に「ご趣味は?」と聞いてきた。

「趣味……」

 冬枝は、さっそく答えに詰まった。

 そもそも、趣味と呼べるほどの嗜みが冬枝にはない。榊原のように狩猟やゴルフでもやっていればいいのだろうが、そんな優雅なご趣味とはそれこそ無縁の人生だった。

 ――女……はまずいし、酒…もダメだな。タバコも違うし、えーっと…。

 冬枝は自分の休日を思い浮かべ、酒と女の次に過ごしている時間が長い場所の名を口にした。

「パチ…」

「ぱち?」

 ――パチンコもダメだ!佳代さんにそんな話したって榊原さんにバレたら、ごしゃがれる!

 お嬢様、しかもまだ高校生の佳代に、ギャンブルの話はするべきではない。冬枝はうーんうーんと頭を抱え、自分の食い扶持にハッと思い当たった。

「麻…」

「まー?」

 ――麻雀もダメだ!男ばっかのむさ苦しい雀荘に行きたいなんて言い出されたら、たまったもんじゃねえ!

 それに『こまち』に佳代を連れて行くのは、何やらさやかに対する決定的な裏切りになるようで、冬枝は恐れた。

 ――俺の中のあいつが、さっきからずーっと目を三角にしてやがる。

 佳代のぷるんとした唇にそそられたり、佳代の意外と幼い微笑み方を愛らしいと思ったりする度に、冬枝の心の揺れに呼応して、さやかがプンプン怒っている気がしてしまう。

 ――って、俺は浮気が女房にバレるのを怖がってる亭主か。

 考えた末、冬枝はようやく「…料理です」と答えを絞り出した。

「まぁ!お料理がご趣味ですの!?」

 佳代は、レースの手袋の指先をもじもじといじった。

「実はわたくし、お料理教室に通っておりますの。一流の料理人から教わっているのですけれど、佳代、不器用だから難しくって……苦戦しております」

「料理って…何、作ってるんですか」

「和食です。わたくし、魚の三枚おろしが綺麗にできなくって…」

「なんだ。そんなもんだったら、俺が教えてあげますよ」

「本当っ!?」

 声も表情もワントーン明るくなった佳代が前のめりになったものだから、ボートがぐらりと傾きそうになった。

 佳代の顔が間近に迫り、冬枝はちょっと慌てた。

「ほ、本当ですよ。だから佳代さん、席に戻っ…」

「すごいわ!おじさまって、お魚も捌くことができるのね。わたくし、尊敬してしまいますわ」

「大げさですよ、佳代さん…って、おわっ!」

 佳代が近寄ってきたせいで、ボートが大きく揺れた。バランスを崩した佳代が、冬枝の腕に倒れ込んだ。

「きゃあっ!」

「か、佳代さん。大丈夫ですか」

「はい❤…おじさまの腕の中って、とっても温かいのね…❤」

 佳代にがっしりとしがみつかれ、冬枝はボートの舵取りに苦戦したが、決して悪い気分ではなかった。

 ――なんか、こういうのすげえ新鮮だな…。

 というのも、さやかはプライドが高い上に真面目ときているので、麻雀では怖いもの知らずの癖に、恋愛に関してはこと奥手である。冬枝自身、自分から分かりやすくアプローチできるタイプではないため、さやかといると堂々巡りになってしまうこともざらだ。

「きゃあっ!おじさま、ご覧になって。噴水に虹が」

「ああ…本当ですね」

 好意をストレートにぶつけてくる佳代には、有無を言わさぬ力がある。こちらを見上げる黒々とした瞳に、冬枝は引き付けられていた。



「やっぱり、本人じゃなきゃ無理か……」

 自動ドアから出てきたさやかは、はあと溜息を吐いた。

 さやかはNTTや家電量販店に掛け合ったものの、結局、回線の契約は『こまち』のオーナーである冬枝の許可がないと難しい、と断られてしまった。

 ――犯人グループは恐らく、パソコン通信で知り合ったんだ。

 ミノルの『ネットワーク』という言葉でひらめいたさやかは、早速それらしい掲示板を探そうと思っていたのだが――肝心の回線がつながらないのでは、話にならない。

 ――せっかく、犯人の目星がつけられると思ったのに!

 さやかは、ぎゅっと拳を握り締めた。手のひらにはまだ、昨夜、榊原邸の夕食の席で冬枝に手を握られた感触が残っていた。

 ――冬枝さんだってきっと、僕を応援してくれてる。こんなところで諦めるわけにはいかない!

 さやかは、冬枝がテーブルの下でこっそり手を握ってきたのを『さやかの犯人探しへの激励』だと受け取っていた。

 その冬枝は今頃、あの縦ロール頭――灘佳代と一緒にいるのだろうか。佳代の猛アタックを受けていた冬枝を思い出し、さやかは胸がむかむかしてきた。

 ――冬枝さん、あんなお嬢様相手にデレデレしちゃって。

 確かに、さやかの嫉妬と羨望と憎悪を割り引いて見れば、佳代は超一級の美少女だ。そんな女の子に、あれだけ分かりやすく好意を向けられたら、誰だって悪い気はしないだろう。

 そこでさやかは、自分が冬枝との帰り際に「佳代さんのこと、守ってあげてくださいね」などと言ったことを思い出し、情けなくなった。

 ――僕って、どうして素直になれないんだろう。

 あんな大人ぶったセリフより、もっと他に言うべきことがあったはずだ。恋のライバルが現れたというのに優等生ぶる自分が、さやかは滑稽に思えてならなかった。

 ――佳代さんに比べたら、僕は臆病者だ……。

 佳代を憎らしく感じるのは、さやかにはできないことをやすやすとやってのけるからだ。ワガママだ、ぶりっ子だと思われようが、好きな人に好きなように接する佳代が、さやかは羨ましかった。

 ――このままじゃ、ホントに冬枝さんを佳代さんに取られちゃうかもしれない。

 東京から来たお嬢様、しかもまだ初々しい女子高生と比べられては、19歳で居候のさやかは見劣りしてしまうだろう。何とかして、冬枝の気を引けないものか。

 ――そうだ!僕も、他のボーイフレンドの存在を匂わせる、とか……。

 さやかが次の手立てを考えながら街をぶらついていると、見慣れた黒のジャガーがキキッとブレーキ音を立てて停まった。

「おい、麻雀小町。そんなとこで何してやがる」

「朽木さん」

 朽木はドアを開けて車を降りるや否や、いきなりさやかを車の中に引きずり込んだ。

「ちょっ、ちょっと、何するんですか。放してください」

「いいから乗れ。ビンタ野郎がまだ捕まってねえってのに、不用心にほっつき歩かれたら俺様が迷惑なんだよ」

 朽木はさやかを無理矢理助手席に座らせると、ふーと溜息を吐いた。

「霜田さんもカンカンだが、若頭の怒りようは尋常じゃねえ。今朝も、まだ犯人を捕まえられねえのか、って事務所でたっぷり絞られたところだ」

「そうだったんですか」

「冬枝の野郎、まんまと会議をサボったようだが、あいつは一体何やってんだ?てめえのことまでほったらかして」

 佳代のことを朽木に喋るのは何となく憚られたので、さやかは「さあ」と曖昧に返した。

「とにかく、若頭のお気に入りであるてめえにまた何かあったら、俺たちゃ殺されちまう。俺様が送ってやるから、てめえは家で大人しくしてろ」

「あ…だったら朽木さん、うちじゃなくて朽木さんのお部屋に連れて行ってくれませんか」

 朽木はハンドルを握ったまま、意味ありげにさやかを横目で見た。

「悪いが麻雀小町、今はてめえとよろしくやってる暇はねえんだ。また今度にしろ」

「そんなに時間は取らせません。お借りしたいものがあるだけで」

「ああ?」

 ついでに鳴子と電話したい、とさやかが言うと、朽木は渋々、自宅行きを了承してくれた。



 朽木の住むマンションは、街の一等地にある。部屋の中は、相変わらず東京で暮らす鳴子へのプレゼント箱で溢れ返っていた。

「メイちゃん?うん、俺だよ、貴彦。メイちゃん、今電話しても大丈夫かな」

 朽木が相変わらずの猫撫で声で電話しているのを聞きながら、さやかは朽木の部屋の中をあれこれと物色した。

「…あった。えーと、どれにしようかな」

 さやかは棚に並んだボトルを右から左へ眺めて、適当に手に取った1個を首筋にプシュッと噴射した。

「げほっ、げほっ!うーっ、変な匂い」

「おい、てめえ!人の部屋で何してやがる」

 鳴子との電話を中断した朽木が、リビングから首を出してがなりつけた。

「何でもありません。ちょっと、香水をお借りしただけです」

「ああ?香水?」

「それより朽木さん、鳴子さんと代わってもらえますか」

 朽木はじろじろと不審そうにさやかを見下ろしていたが、仕方なく受話器を渡した。

「もしもし、鳴子さん。夏目です」

「もしもし、さやかちゃん?久しぶりね」

 愛らしい容姿そのままに、鳴子は声だけで相手の心を蕩かすような魅力を持っている。さやかが朽木の部屋にあっさり来てしまうのも、鳴子との電話が楽しいせいかもしれなかった。

「この間は、お姉ちゃんと会わせてくれてありがとう。さやかちゃんともお話したかったなぁ」

「ぜひ、またこちらに遊びに来てください。僕も鳴子さんに会いたいです」

 さやかは心からそう言ったのだが、電話の向こうからは「うーん」と悩むような声が返ってきた。

「メイコね、今、ちょっと大変なの。貴彦さんにもなかなか会えなくって…」

「お仕事、忙しいんですか」

「うん。でも、メイコ、頑張る。だって、貴彦さんのためだもの」

 鳴子は確か、東京でホステスをしているはずだ。『貴彦さんのため』ということは、金か、あるいは――。

 ――鳴子さんは、東京で情報収集をしているのか?

 最近は口に出さないが、朽木は鳴子のいる東京へ出たがっている。その足がかりとして、青龍会や朱雀組に取り入ろうと、鳴子に情報を集めさせているのかもしれない。

「鳴子さん。くれぐれも、無理はしないでくださいね」

「ありがとう。さやかちゃんも、無茶しちゃダメよ?メイコだけじゃなくて、お姉ちゃんも心配してるんだから」

「えっ…鈴子さんが?」

「お姉ちゃん、さやかちゃんが危ない目に遭うんじゃないか、ってホントはすっごく不安なんだって。さやかちゃん、メイコやお姉ちゃんみたいに慣れてないから」

『慣れてない』というのは多分、ゴロツキとの接し方を指しているのだろう。若い頃から水商売だった鈴子と鳴子はその辺、さやかよりは世慣れているのかもしれない。

 ――鈴子さん、僕の前では笑い話しかしないのに。

 ことあるごとにさやかを抱き締めてくれるのは、鈴子の不安の表れだったのかもしれない。さやかは、鈴子の愛情にじーんとなった。

「…僕も、同じぐらい鈴子さんと鳴子さんのことを想っています。また、みんなで元気に会いましょう」

「うん❤」

 というところで、受話器を朽木に分捕られた。

「てめえ、何メイちゃんを口説いてやがる。この、変態女が」

「何言ってるんですか、朽木さん。女同士なら、普通ですよ」

 大好きと言い合ったり、キスしたり、おっぱいを触ったり、一緒に寝たりなど、仲の良い女子同士なら、ごくごく普通のことだ。さやかは、鳴子の柔らかそうな唇と、鈴子に負けず劣らず大きなバストを思い浮かべていた。

 朽木は鳴子との電話を切ると、苦々しそうにさやかを睨んだ。

「ったく、油断も隙もあったもんじゃねえ!てめえ、冬枝の女好きが伝染ったんじゃねえのか」

「そうかもしれませんね」

「これじゃ、ホントに女かどうか疑わしいもんだな」

 朽木に無遠慮に胸を触られ、さやかは手を払い除けた。

「正真正銘、女です。じゃ、僕はこれで失礼します」

「待てよ。家まで送ってってやる」

「遠慮します」

 と断ったものの、結局、さやかは朽木のジャガーで帰ることにした。

 ――また何かあったら、冬枝さんを心配させてしまう。

 冬枝は今、あのワガママお嬢様で手いっぱいのはずだ。さやかは、冬枝に余計な気苦労をさせたくなかった。

 ハンドルを握った朽木が、助手席に座るさやかを嗅いで顔をしかめた。

「てめえ、よりによって俺様のお気に入りの香水使いやがったな。高ぇのに」

「朽木さんなら、お金に困ってないでしょう」

「まあな。なんだ、冬枝の奴、麻雀小町に香水の一つも買えねえほど落ちぶれてんのか」

 朽木にからかわれて、さやかは今更ながら『男物の香水をつけて冬枝の気を引く』という自分の作戦が、ガキっぽく思えた。

 ――こんなくだらないこと、やんなきゃよかった。

 帰ったらシャワーを浴びよう、と考えながらさやかがふと車窓に目をやると、街中を歩く見慣れた男女の姿が目に入った。

「!あーっ!!」

 冬枝の枯れ葉色のスーツに、ぴったりと腕をまとわせるスノーホワイトのドレス姿。

 灘佳代は、きっちり巻いた縦ロールの髪まで冬枝に触れんばかりに密着していた。

 腕を組んで歩く2人の姿は、恋人同士そのものだ。頬を桃色に染めた佳代は勿論、冬枝も笑みを浮かべて、楽しそうにしている。

「なんだよ、うるせえな…って、冬枝か」

 さやかの視線の方向を追った朽木が、ニヤッと口角を上げた。

「そうか、冬枝に新しい女ができたから、てめえも俺様と浮気しようって考えたのか。泣けるな、麻雀小町」

「………」

 朽木の憎まれ口に、気の利いた返事をする余裕もない。カップルならではの牛歩で進む冬枝と佳代の姿に、さやかは釘付けになっていた。

 ――僕だって、冬枝さんと腕を組んで歩きたい…。

 冬枝は照れ屋で人目を気にするから、さやかが腕を組めるのはせいぜい数分か、傘で隠せる雨の日ぐらいだ。その冬枝が、佳代とは晴れ渡った青空の下、ニコニコ笑顔で腕を組ませている。

「!あっ…」

 更にさやかの嫉妬に火をつけたのは、2人の行く先にある小さな店だった。

 ――み、ミルク焼のお店…!

 そこはさやかと冬枝が出会ったばかりの頃、冬枝が連れて行ってくれた店だった。まだ寒い4月、あんこがたっぷり詰まった真っ白な大判焼きの温かさが、さやかの胸に染み渡ったものだった。

 あまりの美味しさについ、冬枝の分のミルク焼までかじってしまったさやかのことを、冬枝は笑って許してくれた。その後も、記憶喪失になった冬枝が記憶を取り戻した記念に2人で10個のミルク焼を平らげたりと、思い出のある場所だ。

 ――あそこに、佳代さんと一緒に行くなんて…。

 2人が店を通り過ぎてくれればいいな、というさやかの願いも虚しく、冬枝と佳代は仲良くミルク焼の店へと入って行った。佳代の弾んだ足取りからは、「おじさま、早く早く❤」というはしゃいだ声が聞こえてくるようだった。

「………」

 朽木がご丁寧に車を停めてくれたお陰で、さやかは冬枝と佳代が店に入る一部始終を目撃することができた。2人の姿が見えなくなったところで、さやかはようやく我に返った。

「…車、行っていいですよ。朽木さん」

「なんだ、デバガメしに行かねえのか?」

「そんなことしません。僕には関係ありませんから」

「ふーん」

 朽木はタバコをくわえ、ハンドルを握り直した。

「にしても、結構いい女だったな。てめえ、捨てられたんじゃねえか?」

 朽木から見ても、佳代は相当な美少女らしい。さやかは車窓から顔を背け、あとは無言で車に揺られた。



 冬枝が帰宅したのは、夜も8時を回った頃のことだった。

「ただいまー」

「お疲れ様です、兄貴!」

「メシの支度、できてますよ」

 手柄顔で言う土井の頭を、台所番の高根が「お前は作ってないだろうが」とおたまでポカッと叩いた。

 冬枝は、慌ただしく枯れ葉色の背広を脱いだ。

「いや、飯はいい。またすぐ戻らなきゃならん」

「えっ。まさか、まだあのお嬢様のボディガードを続けるんですか?」

「ああ」

 冬枝の返事に、ソファでテレビを見ていたさやかはピクリと反応した。

 土井が、能天気に「すごいなー!」と言った。

「灘さんちのお嬢様に気に入られるなんて、さっすが兄貴っスね。若頭の覚えもめでたくなるんじゃないっスか?」

「んな大層なことしてねえよ。今日は一日中、佳代さんの街歩きに付き合っただけだ」

「へー。東京のお嬢様が楽しめるような場所なんて、うちにありますかね」

 すると、冬枝は「そうでもねえぞ」と言った。

「佳代さん、ああ見えて意外と庶民派なんだ。どら焼きが好きだって言ってたから、ミルク焼食わせてやったら『美味しい』って喜んでたぞ」

「へーっ、結構カワイイところあるんですね!お嬢様なのに!」

 さやかは聞いていて髪の毛が逆立ちそうになったが、冬枝たちは気付かない。

「だろ?でな、佳代さんを明日、ここに連れて来ることになった」

「えっ!?うちにっスか!?」

 土井と高根は勿論、さやかも驚いた。まさか、名門のお嬢様がヤクザの自宅を訪れるなんて。

 ――いつの間に、そんなに仲良くなったわけ…!?

 驚きと屈辱で、さやかは冬枝の顔を見ることもできない。スカートの膝に、両手の爪先がめり込んだ。

 お嬢様の来訪に、土井はすこぶる無邪気にはしゃいでいた。

「それって、やっぱりデートってことで?」

「バカ、違ぇよ。料理を教えてやるだけだ」

「料理?」

「佳代さん、花嫁修業の一環で料理教室に通ってるんだってよ」

「へえっ。お嬢様も大変なんだ」

「ああ。初めはとんでもねえタカビー娘かと思ったが、けっこー苦労してるみたいでな。なんか、放っておけなくなっちまった」

 しみじみと語る冬枝に、さやかは腸がふつふつと熱くなってくるのを感じた。

 ――冬枝さんってば、まんまとあの娘の術中にハマっちゃって…!

 腕を組んで歩き、ミルク焼を食べに行ったのに続いて、今度は家で一緒に料理である。さやかは、自分と冬枝のテリトリーを、佳代に土足で踏み荒らされているような気がしてならなかった。

 さやかの気も知らず、冬枝は自慢そうに語った。

「佳代さん、得意料理はビーフストロガノフだってよ。すげえよな」

「そんなの作れるんだったら、兄貴に料理教わる必要ないんじゃありません?」

「いや、佳代さんは洋食は得意だが、和食は苦手らしいんだ。美味しい魚料理が作れるようになりたいって話してて、なんか健気だろ?」

「うわー、いいお嫁さんになりそう。兄貴、オレと代わってくださいよ~」

「ダメだダメだ。てめえらは、例のビンタ野郎をとっつかまえるのに集中しろ」

 すっかり佳代の話で盛り上がる冬枝と土井に、さやかはついに我慢しきれなくなった。

「冬枝さんっ!」

「ん?」

 振り返った冬枝と目が合い、さやかの喉に言葉にならない何かがこみ上げてきた。

 佳代と仲良くしないで欲しい。佳代のことなんか褒めないで欲しい。佳代よりも、自分を見て欲しい――。

 次々と湧き起こってくる感情に、さやかは頭がくらくらした。

 ――こういう時って、なんて言えばいいんだ……?

 冬枝の関心を佳代から引き離し、さやかに向けるために適切な解とは何か。さやかの嫉妬、寂しさを、冬枝に理解させるためにもっとも効果的な解とは?

 さやかの脳内コンピューターはめまぐるしく回転したが、ぐちゃぐちゃとした心の声をまとめるスマートな一言は見つからなかった。

 さやかの計算は――嫉妬をありのままに言葉にしてしまったら、冬枝に嫌われてしまう――という恐れによって、ストップしてしまった。

 たっぷりの沈黙を置いて、さやかはわなわなと口を開いた。

「か……」

「か?」

 きょとんとしてこちらを見つめる冬枝の眼差しに、さやかは言葉を絞り出した。

「……身体に気をつけてくださいね、冬枝さん」

 また、さやかは優等生の答えを選んでしまった。さやかは、背伸びして本心を隠してしまう自分自身が嫌になった。

 ――どうして、本当のことを言えないの?

 肩を落として台所へと向かうさやかを冬枝は呆然と見つめていたが、すぐに佳代の元に戻らなければならないことを思い出した。

「そうだ、シャワー浴びに来たんだった。洗濯物、その辺に置いとくからな」

「はーい」

 土井の間延びした返事に送られて、冬枝はバタバタとバスルームに向かった。

 シャツを手早く脱ぎ捨てた冬枝は、ふと鼻先に嗅ぎ慣れない匂いを感じた。

 ――なんだ?

 冬枝のトニックでも、さやかのブローコロンの匂いでもない。妙にいやらしい、気取った、癇に障る匂いだ。

 辺りをきょろきょろと見回した冬枝は、匂いの元が洗濯カゴに入ったさやかの服だと突き止めた。

 ――さやかの奴、新しい香水でも買ったのか…?

 さやかのブラウスをふんふんと嗅いでいるうちに、冬枝はつい最近、同じ匂いを組事務所で嗅いだことを思い出した。

 ――朽木の匂いだ!

 何なら、さやかの服から朽木のタバコの匂いもする。冬枝の指先が、さやかのブラウスに食い込んだ。

「まさか、朽木に何かされたんじゃ……」

 嫌な予感に駆られ、冬枝はすぐにバスルームを飛び出した。

「おい、さやか。朽木……」

 だが、リビングで高根たちと夕食を食べようとしていたさやかは「きゃあっ!」と悲鳴を上げて顔を覆った。

「あっ」

 冬枝は、自分が着替えている最中だったことをようやく思い出した。

 パンツ一丁で立ち尽くす冬枝に、さやかがテーブルの上から布巾を投げつけた。

「さっさとお風呂入って来てください!変態!」

「へっ、変態って、お前…!」

 自分の格好が恥ずかしいのと、変態呼ばわりされた怒りとで、冬枝は朽木の匂いのことをさやかに問いただす気力を削がれた。

 ――なんなんだ、あいつ!

 ざばざばとシャワーを浴びると、冬枝はさやかの顔も見ずに自宅を後にしたのだった。



 分からないことは、年長者にアドバイスを仰ぐのがベターだ。

 結局、『優等生』の枠からはみ出せないさやかは、悩みの解決も古典的方法に頼った。

「これが麻雀だったら、僕は佳代さんにボロ負けだと思うんです」

 翌日、『こまち』の喫茶スペースでうなだれるさやかに、ミノルが「ほう」と言った。

「…佳代さんは、裏表がありません。自分に自信があるからできることです」

 自分と佳代とを比べて、さやかが出した解がそれだった。

 佳代は本音を隠さない。さやかが腹の立つようなことを平気で言うが、そこには嘘もない。一方、さやかはいい子の仮面に隠れて、嘘しかついていない。

 正々堂々としている佳代。逃げてばかりのさやか。麻雀だったら、勝つのは確実に佳代だ。

「しかも、佳代さんはお料理もできるっていうし…僕も全然できないわけじゃないんですけど、普段は人任せなので」

「うーん…」

 ミノルは腕を組んで話を聞いていたが、困ったように苦笑いした。

「その手のことに関しては、僕には年長者としてさやかさんにアドバイスできることがほとんどありません」

「え…」

「僕も、家事全般はそこの栗林に任せているもので」

 ミノルの指差す先には、いつも影のように付き添っているスーツ姿の青年が佇んでいた。

「……」

 青年――栗林が無言で会釈したので、さやかも何となく頭を下げた。

 ミノルはコーヒーカップを置いて、肩をすくめた。

「若い頃から、麻雀三昧で生きてきましたから。食事はたいてい外食、家に帰れば酒をひっかけて、昼まで寝るだけです」

「そういえば、朝は弱いって言ってましたっけ」

 自堕落だが、麻雀ひとすじのミノルのライフスタイルが、さやかにはちょっと格好良く思えてしまう。

 ――いいなぁ。いっそ僕も進学はやめて、麻雀だけで生活……。

 そこで、さやかはハッとした。

 かたや、名家のお嬢様で美少女で、愛嬌もあって料理もできる佳代。

 かたや、麻雀漬けで昼まで起きず、だらしなければ可愛げもないさやか――…。

 冬枝がどちらを選ぶかなんて、考えるまでもない。さやかは首を左右に振った。

 ――ダメだダメだ!

 一人でう~っと眉間に皺を寄せるさやかを見つつ、ミノルは話を戻した。

「僕もひねくれ者ですから、さやかさんのお気持ちはよく分かりますよ」

「ミノルさんも…ですか?」

「ええ」

 ミノルはゆったりと微笑むと、『こまち』の窓の外に広がる景色に目を細めた。

「人生はたった一度きり。今、目の前にいる人と、明日も会えるという保証はどこにもありません。当たり前のことなのに、僕らは気持ちをうまく伝えられない」

「ミノルさん…」

 ミノルは、さやかを励ますように目配せした。

「ましてや、他の女性に夢中になっている彼に対して心を開くなんて、無理でしょう。本音を言いたくないというのも、立派な君の本心です。弱さなどではありませんよ」

 ミノルの言葉が、じんわりと温かい。俯いていたさやかは、いつの間にか顔を上げていた。

「でも…このままだと、佳代さんに冬枝さんを取られちゃうんじゃないかって」

 さやかにとっては気に入らないハレンチお嬢様でも、佳代が魅力的な女性であることは事実だ。さやかは、冬枝の女好きをよく知っていた。

「ハッキリ言えば、冬枝の好みは、あいつに都合のいい女だ。美人で、世話焼きで、住む場所と飯の面倒を見てくれる女」

 かつて、冬枝の女性の好みについて、冬枝の兄貴分だった源はそう評していた。

 スタイルの良い美少女で、冬枝に猛烈なアプローチをしており、金持ちで料理もできる佳代は、冬枝の好みの条件をすべて満たしている。

 ミノルは、ぴんと人差し指を立てた。

「でしたら、君も手料理を作るというのはどうでしょう?」

「えっ…僕が?」

「舌は嘘をつきません。華やかな見た目や心をくすぐる振る舞いなどより、胃袋を掴んだ者が男心を捕まえるのです」

 ミノルに言われると、何やらそれらしく思えてくる。さやかは、ミノルの指先から今にもキラキラとした魔法が生まれてきそうに見えた。

 さやかは「でも…」と躊躇った。

「僕の料理で、佳代さんに勝てるでしょうか」

「どうやら、今日のさやかさんは相当、参っているようですね。じゃあ、僕も一緒に作って差し上げましょう」

「えっ…ミノルさんが、ですか?」

 ミノルは「はい」と頷いた。

「年長者として僕ができることは、そのぐらいですから」

 頼もしい笑みを浮かべるミノルとは対照的に、背後の青年――栗林は、不安そうな表情で2人を見つめていた。



「で、なして俺んちに来るんすか?」

 タバコ片手に呆れる嵐をよそに、さやかとミノルは揃って台所に並んだ。

「さて。何を作りましょうか、さやかさん」

「実は、もう決めてあるんです。ビーフストロガノフです」

「ほほう、ビーフストロガノフ」

 冬枝と土井がきゃいきゃいと佳代を褒めそやしていたのを、さやかはバッチリ聞いていた。

 ――どうせなら、佳代さんの一番得意な料理で勝負する!

 ぎしぎしと床を軋ませながら、鈴子が料理雑誌を片手にやって来た。

「さやちゃんとミノルさん、いきなり本格的なメニューに挑戦するのね。ミノルさん、料理できるの?」

「そうですねえ。健全な目的で刃物を持つのは、30年ぶりでしょうか」

 平然と物騒なことを答えるミノルに、嵐が「帰ってくんない?」と眉をひそめた。

 ミノルは、昼間だというのに薄暗い台所を見回した。

「それにしても、嵐君のお宅は随分とボロ…いや、古めかしいですねぇ。築40年といったところでしょうか」

「ほっといてくださいよ。ここは俺と鈴子の愛の巣なの!」

 鈴子は居心地悪そうに正座している栗林を見つけて「あら」と言った。

「こっちのお兄さんは、ミノルさんの弟さん?」

「あの…」

「ええ、そうです。僕の弟の栗林といいます」

 ミノルが適当にそう言ったので、栗林は言葉少なに「…お邪魔します」と頭を下げた。

 不審そうな嵐と不安そうな栗林、面白がっている鈴子に見守られながら、さやかとミノルは狭い台所で調理を始めた。

「まずは、何から始めましょうか」

「えーっと…野菜を洗いましょう、ミノルさん」

 スーパーで買ってきた野菜をぎこちなく開け始めるさやかとミノルの後ろ姿に、鈴子が目を細めた。

「可愛いわね。小学生のはじめてのお手伝いって感じ」

「小学生じゃなくて、浪人生と独身中年だけどな」

 嵐は密かに、『健全な目的で刃物を持つのは30年ぶり』のミノルが何かするのではないか、と目を光らせていたが――台所から聞こえる話し声に、次第に脱力していった。

「ニンジンの葉っぱ、捨てるのがもったいないですねぇ。どうせだから入れちゃいましょうか」

「流石ミノルさん、目の付け所が違う!」

「ジャガイモは…皮を剥くのが面倒なので、適当に切っちゃいましょう」

「わあ!ミノルさん、合理的ですね!」

 ミノルはジャガイモをためつすがめつ眺めてから、「こうかな?」とか言って、ジャガイモの真ん中に包丁をブスッと突き刺した。

「うわあ!危ないですよ、ミノルさん!」

 これには堪らず、栗林が飛び出したが、ミノルが「栗林!」と鋭い声で止めた。

「これは、僕とさやかさんの闘いです。手出しはしないように」

「は、はあ……」

 栗林は、所在なさげに居間と台所の間で立ち尽くした。

 嵐は「ちょっと、マロン林」とその肩を引いた。

「ミノルさん、あれ、マジでやってるわけじゃないよな?独身中年の悪ふざけだよな?」

「……ミノルさんは、麻雀では誰にも引けを取らないんです」

「今、麻雀の話はしてねえよ!お前はさやかか!」

 嵐が突っ込んだが、栗林は必死に言い募った。

「ミノルさんは、麻雀でも花札でもポーカーでも、賭け事では最強なんです!ただ、それ以外は……」

 言いにくそうに口をつぐんだ栗林の後を、嵐が引き取った。

「…つまり、生活能力はゼロってこと?」

「……はい」

 うなだれる栗林に、嵐は言葉を失った。

 そうこうしている間にも、台所からは怪しげなやり取りが聞こえてくる。

「ミノルさん!レシピに赤ワインって書いてあるのに、買ってくるの忘れてました!どうしましょう」

「どれどれ…おや、ここにブランデーがありますよ。これで代用しましょう」

「高級そうですね。嵐さんに飲ませるのはもったいないですから、どばどば入れちゃいましょう」

「おいっ、それ俺がもらったやつ!!」

 嵐は止めようとしたが、鈴子にぐいっと引き戻された。

「いいじゃない、ちょっとぐらい。あんた、ビールのほうが好きでしょ?」

「やだ!大人になったらブランデー飲むの!」

「いくつになって言ってるんだか」

 栗林も、はらはらしながら台所をうかがっている。

「み、ミノルさん。肉にはちゃんと火を通してくださいね」

「僕は、レアぐらいが好きなんですけどねぇ。それに、待つのもじれったい」

「時は金なり、って言いますもんね!」

「そうそう。…おや?野菜は、煮込む前に炒めなければいけなかったのですか?」

「どうせ煮込んじゃえば同じですよ。あれっ?ここに余ってるお肉、何だろう」

「さやかさん、こんなところにトマトも残っていますよ。僕らの可愛い忘れ物」

「ホントだ。うふふっ」

 さやかとミノルは無邪気に笑い合っているが、傍で聞いていた嵐は、口の中のタバコがどんどん苦くなっていくのを感じていた。

「何スか、『僕らの可愛い忘れ物』って。レシピが泣いてら」

「でも、2人とっても楽しそうよ。お邪魔するのは気が引けるわ」

 確かに、鈴子の言う通り、さやかもミノルも料理を楽しんではいるようだ。

「セロリは…僕は苦手なので、ミョウガで代用しましょう」

「ナイスアイディアです、ミノルさん!洋食のビーフストロガノフに和の味わいが加わって、和洋折衷になりますね!」

 料理経験ゼロのミノルの暴走に、さやかは目を輝かせて追従している。嵐は、思わず嘆息した。

「ああ、ここにダンディ冬枝がいれば……」



 その頃、冬枝と佳代は市内にある学校――私立聖天女子高校に来ていた。

 ――なんか、めちゃくちゃ居心地悪ぃ。

 制服であるシルバーグレーのジャンパースカートをひらひら揺らす女学生に、ベールをかぶったシスターたち。女子高だから当然だが、すれ違うのは皆、女ばかりだった。

 今日は、冬枝と佳代の二人きりではない。護衛である榊原の親衛隊に、東京からついて来た佳代の使用人たちがずらりと並び、冬枝はその最前列にいた。

 ――なんで、俺が一番前なんだよ。

 気まずい冬枝に、隣を歩く佳代がにっこりと微笑んだ。

「おじさまが傍にいてくださるだけで、佳代、百人力ですわ❤」

「はあ…。いいんですかね、俺みたいなのがくっついてて」

 冬枝は佳代の外聞を気にしたのだが、佳代はお構いなしだ。

「あら、とってもお似合いですわよ。そのスーツ」

「ああ…」

 冬枝は、ストライプの入った上品な黒のスーツを着ていた。

 パリッと糊の利いたジャケットに、脚をすらりと長く見せるスラックス。手触りといい、着心地といい、普段の着古した枯れ葉色の背広とは大違いだ。ついでに靴も、ピカピカの新品である。

 いずれも、佳代が地元の紳士服店に大急ぎで仕立てさせたものだ。冬枝は値段を聞いて目玉が飛び出そうになったが、佳代は「東京だったら、もっと素敵なスーツが用意できるのに」と不満そうだった。

「いつか、おじさまを東京のテーラーにお連れしたいわ」

「テーラー?」

「お祖父さまとお父さまのスーツの仕立てを任せているお店です。あそこだったら、こんなものよりもっとおじさまに似合うお洋服を揃えられますわ」

 ――そんな店、俺みたいなヤクザが行っても門前払いだって…。

 冬枝には、地元の店が仕立てたスーツでさえ高級すぎるぐらいだ。冬枝は、改めて佳代が上流階級の人間なのだと実感した。

「………」

 おあつらえのスーツを着て、お嬢様の行列をぞろぞろ従えている自分。妙な気分だな、と冬枝がタバコをくわえたところで、横を歩くシスターから小声で注意された。

「校内は禁煙です」

「あっ…すみません」

 冬枝は、慌ててタバコをしまった。佳代の前ではずっとタバコを遠慮していたので、つい手が出てしまったようだ。

 ――なーんか、肩凝ってきちまった。

 佳代とその一行がしずしずと向かった先は、聖天高校の生徒会室だった。

「ようこそ、灘佳代さま。聖天高校生徒会長、汐見マキと申します」

 女学生たちの中心に立っていたのは、リボンで黒髪を束ねた美しい少女だった。

 気の強そうな目元に、冬枝は見覚えがあった。

 ――あの娘、さやかの友達か。

 マキと佳代はそれぞれ挨拶を述べた後、明日行われる運動会の打ち合わせに入った。

「佳代さまにはご挨拶の後、特別席で演目を観覧していただくことになっております。もしよければ、いくつかの自由競技にご参加していただけないかしら」

「自由競技…ですか?」

「ええ。聖天高校では長年、運動会や文化祭などの行事は完全チケット制、それも生徒の家族に限定するという、厳しいしきたりを敷いてまいりました。ですが、わたくしたちはそんなルールはもう時代遅れだと判断し、撤廃することにしましたの。地域の皆さんや他校に通う同年代の方たちと、幅広く交流するために」

 そういった校外の参加者たちにも楽しんでもらうためにもうけたのが、自由競技だという。

「例えば、こちらの二人三脚。生徒が観客の中からパートナーを選んで走る、という競技ですが、特別枠として佳代さまにもご参加いただけないかと」

 マキが言うと、式次第に目を通していた佳代が「まあ」と頬に手を当てた。

「それってつまり、わたくしとおじさまが一緒に走れるってことですわねっ!?きゃあ、佳代、今から胸が高鳴ってしまいますわ~❤」

「か、佳代さん…」

 佳代に腕を掴まれ、冬枝は面食らった。

「………」

 マキが冷たい目でこちらを見ているのは、気のせいだろうか。冬枝の気まずさとは裏腹に、佳代は嬉々として席次第をめくった。

「あっ、こちらの仮装競争もいいですわね。佳代、ウエディングドレスを着て、タキシード姿のおじさまと走りたいですわ~❤」

「か、佳代さん、勘弁してください…」

「そうだわっ!二人三脚は、足を縛るんじゃなくって、パートナーをお姫様抱っこするというルールに変更しましょう!そのほうが絶対楽しいですわ、ね、田舎のお嬢さん?」

「『田舎のお嬢さん』…!?」

 マキの美貌に青筋が立ちそうになったが、マキはすぐに取り繕った。

「…か、佳代さま。たいへん面白いご提案ですけれど、運動会は明日ですのよ?今からルール変更というのは、流石に厳しいかと…」

「あーら、できませんの?田舎の人たちは物分かりが悪いんですのね」

「あぁ…!?」

 マキからドスの利いた声が洩れそうになったが、他の生徒会メンバーがどうどうと宥めた。

 他にも、佳代は聖天運動会の競技にダメ出しをした。

「パン食い競走じゃなくって、ケーキに変更しませんこと?人前でパンにかぶりつくなんて、はしたなくってよ」

「大玉転がしなんて、今時古臭いですわ。乗馬レースのほうが優雅ですわよ」

「組体操は危険ですから、廃止にしましょう。代わりに、クラシックバレエを披露するのはいかがかしら」

 マキは黙って聞いていたが、肩がわなわなと震えていた。

「………最後のご提案に関しては、わたくしも同じことを考えていましたわ。ただ、組体操は生徒の中にも希望者が大勢おりまして、今年は開催することになりましたの」

「ふぅん。娯楽の少ない田舎では、組体操が数少ないエンターテイメントということですわね」

「っだから……」

「マキさん、落ち着いて!」

「相手は灘議員の孫娘よ!」

 席から立ち上がりかけるマキを、周りの生徒会メンバーが必死に押さえた。

 冬枝としても見ていられないようなミーティングだったが、何とか無事にお開きとなった。

 尤も、佳代が最後にかました別れの挨拶は、再びマキの顔を引きつらせたが。

「灘孝助の孫娘たる灘佳代がこんな僻地の学校を訪れるなんて、奇跡ですことよ。皆さん、どうぞこの僥倖をお喜びになって」

 生徒会室から見送るマキたち聖天生徒会の愛想笑いが、冬枝はうすら寒くて仕方なかった。



 冬枝と佳代が聖天高校の校舎を出ると、いつの間にか校門の前は女生徒たちで人だかりが出来ていた。

「見て!あれが灘家のお嬢様よ」

「あの淑恵さまの姪でいらっしゃる、佳代さまよ」

「なんて優雅な立ち振る舞いかしら。指先まで輝いて見えるわ」

 物見高い女生徒たちは皆、佳代の挙措や仕草ひとつに溜息を吐いた。佳代が召し使いから受け取った白い日傘をポンと広げただけで、どよめきすら起こった。

 傍で見ていた冬枝は、少女たちの異様な熱気に頭がくらくらした。

 ――女子高って、わけわかんねえ。

 佳代は、自分を見つめる生徒たちに笑顔で手を振りながら、ぽつりと呟いた。

「淑恵叔母さまって、ここでは有名人ですのね」

「はあ…そうみたいですね」

「お父さまは、今でも呆れてらっしゃるわ。灘家の娘がヤクザと結婚するなんて、前代未聞だって。わたくしもそう思っていましたわ」

「まあ…そうでしょうね」

 佳代は「でも」と言って、意味ありげな目線を冬枝に向けた。

「わたくし、今は淑恵叔母さまの気持ちが分かる気がします。恋に落ちてしまったら、身分の差なんて関係ありませんもの…❤」

「み…身分の差?」

 冬枝を置いてけぼりにして、佳代は一人でうっとりと空を仰いだ。

「麗しの姫君に身分違いの想いを抱く、壮年の騎士…❤禁じられた恋ほど、燃え上がってしまうものですわっ❤」

 佳代は「ああ、騎士道ロマンス…❤」と言って、自分で自分をがっしりと抱き締めた。

 ――ひ、姫君と騎士ぃ?

 どうやら、佳代とは住む世界だけでなく、見えている世界も違うらしい。乙女の園から抜け出しても、冬枝は身体がむず痒かった。



 冬枝と佳代が聖天高校から出た途端、校門の傍からすっと男が近寄ってきた。

「灘先生の孫娘でいらっしゃる、佳代さんですよね?ちょっと、お話聞かせてもらえませんか」

 そこで、自分の世界に浸っていた佳代が、ハッと我に返った。

「…あなた、週刊誌の記者さん?」

「はい。佳代さんを追っかけて、わざわざ東京からこんな片田舎まで来たんですよ。一言でいいのでコメント、もらえませんか」

 山高帽をかぶった、いかにも記者然とした怪しげな男だ。冬枝は、佳代をかばうように前に出た。

 佳代は、つんとそっぽを向いた。

「生憎ですけど、わたくし、アポイントメントのない方とはお話できませんの。どうぞ、お引き取りになって」

「まあ、そう冷たいことをおっしゃらずに。お祖父さんの話でも一緒にしましょうよ」

 記者がいやらしい笑みを浮かべて近寄ったところで、冬枝が手首を掴み上げた。

「いてっ!何すんだ、あんた」

「佳代さんが嫌だって言ってんだろ。とっとと東京へ帰りな」

 冬枝はぎりぎりと音を立てて手首を捻り上げたが、東京の記者はしつこく粘った。

「あんた、カタギじゃないな。議員のお嬢さんとつるんで、金でもせびる気か」

「ああ?」

 そこで、佳代が口を挟んだ。

「こちらのおじさまは、わたくしが任命したボディガードです。失礼な発言はお慎みになって」

「佳代さん…」

 昨日出会ったばかりの自分のことをかばう佳代に、冬枝はちょっと感動した。

 ――上流階級のお嬢様なのに、気丈なとこあるじゃねえか…。

 だが、佳代の発言は裏目に出たらしい。記者が、脂汗をかきながらにやりと口角を上げた。

「おやおや、田舎のヤクザとつるむところはお祖父さまそっくりですね。このこと、記事にされたくなかったら……」

 と、脅しを口にした記者の目が、ハッと見開かれた。

「こぉらー!東京のブンヤ風情が、俺らの縄張りで何してんだー!」

 声を裏返しながら突進してきたのは、小ざっぱりとした白いスーツ姿の青年だった。

 よく見れば、青年は頭にヘルメット、首にはカメラと社員証、腕に腕章、両手には重そうな紙袋を携えている。

 あまりに珍妙な出で立ちに、冬枝と佳代も目を丸くした。

「ちっ。田舎の新聞社か」

 東京の記者はちっと舌打ちすると、冬枝の腕から逃れて、そそくさと退散していった。

「おらおらー!この街から出てけー!強引な取材は犯罪だぞー!」

 珍妙な青年は、記者の後ろ姿に向かって丸めた新聞紙を振り回した。

 佳代が、ぽかんとして青年を見つめた。

「……この街には、こういった方がよくいらっしゃるの?」

「いや……俺も長いことこの街にいますが、初めて見ました」

 記者の背中が見えなくなると、珍妙な青年が「いやあ、大丈夫ですか」と気さくに声をかけてきた。

「怖かったでしょう。最近、東京から変な記者がわんさか来て、取材だって言って街の人たちに声かけてるみたいなんですよ。それで俺、局長から『東京者退治係』に任命されまして、東京者を見かけたらこうして追い払ってるんです。ついでに、新聞の営業もしてて」

 青年は、紙袋から『あさひがけ新聞』の名前が入ったタオルや洗剤を見せた。

「………」

 冬枝と佳代がまだ目をぱちくりさせているのを見て、青年が「あっ」と恥ずかしそうに声を上げた。

「すみません、これじゃ、俺のほうが不審者ですよね。あさひがけ新聞の記者で、入江って言います」

「あさひがけ新聞の入江……?」

 渡された名刺を見ているうちに、冬枝の記憶が半年前へとワープした。

「あっ!お前、嵐に言われてさやかに付きまとってたブンヤか」

「その節は、どうも。冬枝さん」

 入江は、気まずそうにぺこりと頭を下げた。

 春――さやかがまだこの街に来たばかりの頃、さやかの代打ちを辞めさせるために、嵐があさひがけ新聞の記者をさやかにけしかけたことがあった。

 ――まさか、こんなところであの時のブンヤと再会するとは……。

 冬枝の感慨をよそに、入江は人懐こそうな笑みでニコニコと佳代に向き合った。

「災難でしたね、お嬢さん。どうぞ、この街で楽しんでいってくださいね!」

「ご親切に、どうも」

「じゃ、冬枝さんもお仕事頑張ってくださいねー!」

 そう言うと、入江は珍妙な格好のまま、元気良く駅前へと駆け出していった。

「………」

 ――嵐の知り合いには、変な奴しかいねえのか…。

 呆気に取られる冬枝の腕を、おもむろに佳代が抱き寄せた。

「さっきのおじさま、とっても格好良かったですわ❤」

「あ、はは……仕事ですから」

「今ならわたくし、世界中に胸を張って言えますわ。おじさまは、世界一のボディガードですって……❤」

 佳代の吐息が、スーツの袖越しにも熱い。ついでに肘に当たった感触の柔らかさに、冬枝はちょっと気分が高揚した。

 ――佳代さんのことは、俺が守らなきゃならねえ。

 佳代は、ヤクザの冬枝を掛け値なしに慕ってくれている。佳代の身に傷一つでも許してしまったら、男ではない。

 冬枝は、佳代からヤニ臭い記者のことを忘れさせてやろうと思った。

「佳代さん、次はどこに行きますか。どこだってお供しますよ」

「きゃあっ、佳代嬉しい❤じゃあ……おじさまのお宅に連れて行って❤」

「えっ!?家ですか」

 佳代の大胆な申し出に、冬枝はうろたえた。

 ――流石に、灘議員の孫娘を家に連れ込むのはまずいだろ……!?

 しかし、佳代は熱っぽい眼差しでこちらを見つめてくる。

「わたくしに、三枚おろしを教えてくださるのでしょう…?」

 何やら、『三枚おろし』がいけないことのように思えてくる。冬枝は、ぶんぶんと頭を左右に振った。

 ――真っ昼間だから!何にもしねえ、何にもしねえから!

 心の中で言い訳している相手が、榊原でも灘議員でもなく、目を三角にしたさやかなのが、我ながら情けない冬枝であった。



「お待たせしました!嵐さん、鈴子さん」

「僕たちの初めての合作…ぜひ、召し上がれ」

 さやかとミノルがにっこり満面の笑みを浮かべる中、嵐と鈴子、そして栗林は、食卓でごくりと固唾を呑んだ。

 さやかに甘い鈴子と、ミノルに逆らえない栗林に代わって、嵐が口を開いた。

「あのー、お二人さんは何を作ってたんでしたっけ?」

「ビーフストロガノフですよ」

 さやかは自信満々だが、嵐には目の前のものがビーフストロガノフには見えなかった。

「…ビーフストロガノフって、ビーフシチューの親戚みたいな奴じゃなかったか?」

「そうとも言えますね」

「この、タマネギが丸ごと1個入ってるのは何かのジョーク?」

 嵐が皿からごろっとタマネギを持ち上げると、さやかが「わあ」と声を上げた。

「すごい。タマネギを切らずに入れるなんて、天才の発想…!」

「ってことは、これはミノルさんの仕業っスか」

「レシピには、『タマネギを切れ』と書いてありませんでしたから」

 栗林が無言で頭を抱えるのを横目で見ながら、嵐はそうっと席を立とうとした。

「俺、ちょっと腹の調子が…」

「嵐。せっかくさやちゃんとミノルさんが作ってくれたんだから、食べましょうよ」

「え~っ。鈴子ぉ」

「ほら、みんなで手を合わせて。いただきまーす」

 鈴子に促され、嵐は仕方なく「いただきまーす」とスプーンを手に取った。

 さやか、ミノル、嵐、鈴子、栗林が、揃ってビーフストロガノフを口に入れた。

「………」

「………」

「………」

「………」

「………」

 一拍置いて、全員が舌を突き出した。

「まずい!」

「まずいですねぇ」

「うげーっ!」

「あっはっは、まずいわね」

「おうっ……」

 リアクションこそ様々だが、慌てて麦茶をぐびぐび飲んだのは全員同じだった。

 麦茶を飲み干し、ミノルは優雅に銀髪を払った。

「びっくりするほど美味しくありませんねぇ。嵐君、この味を端的に表現してくれませんか?」

 まずさのあまり食卓に突っ伏していた嵐が、うめくように答えた。

「生野菜のブランデー煮込み」

「矛盾してませんか?」

「野菜に全然火が通ってねえんだよ。特にこのタマネギ!」

 嵐がまるっと入ったタマネギをフォークで突き刺すと、ミノルがゆったりと笑った。

「僕はレアぐらいが好きなもので」

「それはお肉の話でしょーッ!?肉はむしろ煮込まれ過ぎてガッチガチ!」

「靴底噛んでるみたいね」

 鈴子も同意し、一同はそれ以上、ビーフストロガノフを食べる手が進まなかった。

 ミノルは、紫色の液体に浸かった野菜がゴロゴロ入った皿を手で示した。

「どうします?さやかさん。これ、彼氏に食べさせてみますか?」

 ミノルは「きっと、愛を試せますよ」と言って笑った。

「あー、これ食うんだったらダンディ冬枝は確実に男だべ。さやかに文字通り命捧げてる」

 嵐がフォークで野菜をつつきながら言ったが、さやかは苦笑いして答えた。

「…やめときます」

 こんなものを冬枝に食べさせたら、愛を試すどころか、永遠に愛が遠ざかるだろう。

 さやかは、春野家の古びた天井を見上げた。

「なんか、つまんないことで意地張ってました」

 佳代は佳代、さやかはさやかだ。どんな娘が冬枝の前に現れようと、さやかが変わる必要はない。つまり――。

「僕に料理は向いてません!僕は麻雀で勝負します!」

「諦めるの早っ!それでいいのかよ!」

 嵐は思わず突っ込んだが、ミノルはにっこりと頷いた。

「いいんじゃありませんか。女の子は笑顔が一番、さやかさんには麻雀が一番です」

「ミノルさん、さっそく僕と打ちませんか。この間の勝負が途中でしたよね」

 先日、さやかは念願叶ってミノルと麻雀が打てたのだが、途中でさやかが倒れて救急車で運ばれてしまい、中断していた。

 ――あの時の続きを、もう一度……!

 さやかは瞳をキラキラさせて迫ったが、ミノルは首を横に振った。

「魅力的なお誘いですが、今日は遠慮しておきます」

「ええーっ」

 露骨にがっかりするさやかに、ミノルは麦茶をゆったりと飲みながら言った。

「気分じゃない時は打たない主義なんです」

「かっこいい……」

 ポッと頬を染めるさやかに、嵐が「そうかぁ?」と首を傾げた。

 ミノルは、紫色のビーフストロガノフを見下ろした。

「今はこのまま、さやかさんとの楽しいひとときを噛み締めさせてください。僕は、一度打ちだしたら、前後のことはパーッと吹き飛んでしまうので」

「僕もです!」

「フフフ。お互い、業が深いですね」

 さやかとミノルは、顔を見て笑い合った。

 ミノルは「お料理ですが」と言って、一つアドバイスしてくれた。

「ライバルに勝つためではなく、ご自分の好きなものを作ったほうがうまくいくと思いますよ」

「僕の好きなもの……」

「あら、さやちゃんに恋のライバルが現れたの?」

 鈴子は棚をごそごそ探ると、女性向け雑誌を取り出した。

「そうだわ、さやちゃん。恋のライバルと闘うなら、これなんかおススメよ」

「それは…?」

 鈴子と並んで雑誌を覗き込んださやかから「おお……」という感嘆の声が洩れた。



 台所で、ミノルと栗林が揃って皿洗いをしている。台所を汚した責任を取りたい、と自ら申し出たのだ。

 ついでに、ビーフストロガノフ改め生野菜のブランデー煮込みも、ミノルたちが引き取ることになった。

 ――あんな毒々しいものを持ち帰るなんて、ヤクザらしく落とし前つけるってとこか。

 タバコをふかしながら台所を眺めていた嵐は、ふと、隣で女性雑誌を熟読しているさやかに声をかけた。

「なあ、さやか」

「はい?」

 さやかは未だに、すこぶる無邪気にミノルを慕っている。さやかがミノルの正体を知っているのか、ミノルの目的を知っているのかは、嵐にも分からない。

 ――もしも、さやかがジェントル秋津の正体を知った上で、こうしてるんだとしたら…。

 嵐は、核心に踏み込んでみることにした。

「ミノルさんはさ…」

 だが、何故か言葉が出てこない。テーブルに広がるこのアホ臭い失敗料理のせいか、さやかが女性雑誌のあらぬページを広げているせいか。

「………」

 深刻な事情とは裏腹に、今、ここに流れているのは、笑ってしまうほど平和な時間だった。さやかはただの恋する麻雀娘で、ミノルはただの世間知らずの麻雀おじさんだ。

 嵐は、タバコの煙を深く吐いた。

「ミノルさん、童貞だと思う?」

「は!?」

 さやかは顔を真っ赤にすると、読んでいた雑誌を嵐の頭に投げつけた。

「バカ!」

「………」

「失礼ですよ、そんな話!」

 ぷいっとそっぽを向くさやかに、嵐は頭を抱えた。

「あーっ、うだてぇ!なして俺がこんた、フクザツな思いせねばなんねのさ!」

「どうしたのよ、嵐」

 トイレから戻ってきた鈴子を、嵐はガバッと押し倒した。

「宇宙船春野嵐号、おっぱい星雲に突入します!」

「キャハハ!何よ、もう」

「あーっ、いいなぁ。僕も」

 嵐が鈴子の胸に顔を埋めると、さやかが羨ましそうに指をくわえた。



「ただいまー」

 さやかがマンションに帰ると、冬枝の革靴の隣に、見慣れない白のローファーが玄関に置かれていた。

 ――佳代さんか。

 そういえば、冬枝が佳代に料理を教えてやるんだと言っていた。台所を覗いてみれば、冬枝と佳代が並んで料理に励んでいるところだった。

「おう、さやか。ちょうどよかった、今できたとこだぞ」

「わたくしとおじさまの、初めての共同作業ですわ❤」

 白いフリルのついたエプロンを着た佳代が、うっとりとして出刃包丁に頬を寄せた。

 食卓に並んだのは、アジの照り焼きにじゃがいもの煮っ転がし、野沢菜の味噌汁だ。

 どれも美味しそうだが、さやかはアジの照り焼きに目を引かれた。炒りゴマの乗ったツヤツヤのアジは、光り輝いてすら見える。

「ほれ、さやか。食ってみてくれ」

「どうぞ、召し上がれ❤」

「…いただきます」

 冬枝とさやかの両方に勧められ、さやかは早速、アジに箸をつけた。

 ぱくっ。

「……美味しい」

 思わずぱくぱくと箸を進めるさやかに、冬枝と佳代が顔を綻ばせた。

「だろ!?」

「良かったぁ。わたくしとおじさまの共同作業、見事、大成功ですわね❤」

 エプロン姿の佳代に絡みつかれ、冬枝は照れ臭そうに頭をかいた。

「いやあ、佳代さんが頑張ったからですよ。俺が教えることなんか、何にもなかった」

「そんなことありませんわ。わたくし、おじさまのおかげで自信がつきました」

「なら、良かった」

 冬枝も佳代も、楽しそうだ。さやかは、それを穏やかな気持ちで眺めることができた。

 ――このアジ、すごく美味しい。

 アジだけでなく、煮っ転がしも味噌汁も、店で出て来てもおかしくないレベルだ。さやかは、佳代の料理の腕前に素直に感心した。

 ――これは、不戦敗だな。

 ミノルと作ったビーフストロガノフでは、相手にならない。あのビーフストロガノフのまずさを思い出せば、佳代の料理は美味しすぎて涙が出るぐらいだ。持ってこなくて良かった、とさやかはホッと溜息を吐いた。

 ――佳代さんは、本当に努力家なんだ。

 さやかより年下なのに、これだけの料理を作れるのは、日頃の成果だろう。佳代のすごさが分かるようになったのは、ミノルと一緒に料理したおかげだ。

 生野菜のブランデー煮込みしか作れなかったさやかには、佳代に嫉妬する資格はない。さやかは、きゃいきゃいと語り合う冬枝と佳代に微笑みかけた。

「冬枝さん、佳代さん。これ、すっごく美味しかったです」

「おーっほっほっほ。これが佳代の、いいえ、佳代とおじさまの実力ですわ。わからず屋のお嬢さん、よろしくて?」

「か、佳代さん…」

 冬枝はハラハラしてさやかを見たが、さやかはただ笑っていた。

「分かりましたよ。佳代さんはすごいです」

 さやかは「ごちそうさまでした」と言って、再び外に出て行った。冬枝とさやかが同居していることが佳代にバレたら面倒なので、『こまち』にでも打ちに行ったのだろう。

「………」

 やけにあっさり引き下がったさやかに、冬枝は拍子抜けしてしまった。

「おじさま、どうかなさいまして?」

「あ、いや…」

「さ、わたくしたちもいただきましょう❤」

 冬枝の中では目を三角にしていたさやかは、現実では仏のような笑みを浮かべていた。佳代と作った料理はどれも美味いのに、冬枝は何だか物足りなかった。


「お待たせしました!嵐さん、鈴子さん」

「僕たちの初めての合作…ぜひ、召し上がれ」

 さやかとミノルがにっこり満面の笑みを浮かべる中、嵐と鈴子、そして栗林は、食卓でごくりと固唾を呑んだ。

 さやかに甘い鈴子と、ミノルに逆らえない栗林に代わって、嵐が口を開いた。

「あのー、お二人さんは何を作ってたんでしたっけ?」

「ビーフストロガノフですよ」

 さやかは自信満々だが、嵐には目の前のものがビーフストロガノフには見えなかった。

「…ビーフストロガノフって、ビーフシチューの親戚みたいな奴じゃなかったか?」

「そうとも言えますね」

「この、タマネギが丸ごと1個入ってるのは何かのジョーク?」

 嵐が皿からごろっとタマネギを持ち上げると、さやかが「わあ」と声を上げた。

「すごい。タマネギを切らずに入れるなんて、天才の発想…!」

「ってことは、これはミノルさんの仕業っスか」

「レシピには、『タマネギを切れ』と書いてありませんでしたから」

 栗林が無言で頭を抱えるのを横目で見ながら、嵐はそうっと席を立とうとした。

「俺、ちょっと腹の調子が…」

「嵐。せっかくさやちゃんとミノルさんが作ってくれたんだから、食べましょうよ」

「え~っ。鈴子ぉ」

「ほら、みんなで手を合わせて。いただきまーす」

 鈴子に促され、嵐は仕方なく「いただきまーす」とスプーンを手に取った。

 さやか、ミノル、嵐、鈴子、栗林が、揃ってビーフストロガノフを口に入れた。

「………」

「………」

「………」

「………」

「………」

 一拍置いて、全員が舌を突き出した。

「まずい!」

「まずいですねぇ」

「うげーっ!」

「あっはっは、まずいわね」

「おうっ……」

 リアクションこそ様々だが、慌てて麦茶をぐびぐび飲んだのは全員同じだった。

 麦茶を飲み干し、ミノルは優雅に銀髪を払った。

「びっくりするほど美味しくありませんねぇ。嵐君、この味を端的に表現してくれませんか?」

 まずさのあまり食卓に突っ伏していた嵐が、うめくように答えた。

「生野菜のブランデー煮込み」

「矛盾してませんか?」

「野菜に全然火が通ってねえんだよ。特にこのタマネギ!」

 嵐がまるっと入ったタマネギをフォークで突き刺すと、ミノルがゆったりと笑った。

「僕はレアぐらいが好きなもので」

「それはお肉の話でしょーッ!?肉はむしろ煮込まれ過ぎてガッチガチ!」

「靴底噛んでるみたいね」

 鈴子も同意し、一同はそれ以上、ビーフストロガノフを食べる手が進まなかった。

 ミノルは、紫色の液体に浸かった野菜がゴロゴロ入った皿を手で示した。

「どうします?さやかさん。これ、彼氏に食べさせてみますか?」

 ミノルは「きっと、愛を試せますよ」と言って笑った。

「あー、これ食うんだったらダンディ冬枝は確実に男だべ。さやかに文字通り命捧げてる」

 嵐がフォークで野菜をつつきながら言ったが、さやかは苦笑いして答えた。

「…やめときます」

 こんなものを冬枝に食べさせたら、愛を試すどころか、永遠に愛が遠ざかるだろう。

 さやかは、春野家の古びた天井を見上げた。

「なんか、つまんないことで意地張ってました」

 佳代は佳代、さやかはさやかだ。どんな娘が冬枝の前に現れようと、さやかが変わる必要はない。つまり――。

「僕に料理は向いてません!僕は麻雀で勝負します!」

「諦めるの早っ!それでいいのかよ!」

 嵐は思わず突っ込んだが、ミノルはにっこりと頷いた。

「いいんじゃありませんか。女の子は笑顔が一番、さやかさんには麻雀が一番です」

「ミノルさん、さっそく僕と打ちませんか。この間の勝負が途中でしたよね」

 先日、さやかは念願叶ってミノルと麻雀が打てたのだが、途中でさやかが倒れて救急車で運ばれてしまい、中断していた。

 ――あの時の続きを、もう一度……!

 さやかは瞳をキラキラさせて迫ったが、ミノルは首を横に振った。

「魅力的なお誘いですが、今日は遠慮しておきます」

「ええーっ」

 露骨にがっかりするさやかに、ミノルは麦茶をゆったりと飲みながら言った。

「気分じゃない時は打たない主義なんです」

「かっこいい……」

 ポッと頬を染めるさやかに、嵐が「そうかぁ?」と首を傾げた。

 ミノルは、紫色のビーフストロガノフを見下ろした。

「今はこのまま、さやかさんとの楽しいひとときを噛み締めさせてください。僕は、一度打ちだしたら、前後のことはパーッと吹き飛んでしまうので」

「僕もです!」

「フフフ。お互い、業が深いですね」

 さやかとミノルは、顔を見て笑い合った。

 ミノルは「お料理ですが」と言って、一つアドバイスしてくれた。

「ライバルに勝つためではなく、ご自分の好きなものを作ったほうがうまくいくと思いますよ」

「僕の好きなもの……」

「あら、さやちゃんに恋のライバルが現れたの?」

 鈴子は棚をごそごそ探ると、女性向け雑誌を取り出した。

「そうだわ、さやちゃん。恋のライバルと闘うなら、これなんかおススメよ」

「それは…?」

 鈴子と並んで雑誌を覗き込んださやかから「おお……」という感嘆の声が洩れた。



 台所で、ミノルと栗林が揃って皿洗いをしている。台所を汚した責任を取りたい、と自ら申し出たのだ。

 ついでに、ビーフストロガノフ改め生野菜のブランデー煮込みも、ミノルたちが引き取ることになった。

 ――あんな毒々しいものを持ち帰るなんて、ヤクザらしく落とし前つけるってとこか。

 タバコをふかしながら台所を眺めていた嵐は、ふと、隣で女性雑誌を熟読しているさやかに声をかけた。

「なあ、さやか」

「はい?」

 さやかは未だに、すこぶる無邪気にミノルを慕っている。さやかがミノルの正体を知っているのか、ミノルの目的を知っているのかは、嵐にも分からない。

 ――もしも、さやかがジェントル秋津の正体を知った上で、こうしてるんだとしたら…。

 嵐は、核心に踏み込んでみることにした。

「ミノルさんはさ…」

 だが、何故か言葉が出てこない。テーブルに広がるこのアホ臭い失敗料理のせいか、さやかが女性雑誌のあらぬページを広げているせいか。

「………」

 深刻な事情とは裏腹に、今、ここに流れているのは、笑ってしまうほど平和な時間だった。さやかはただの恋する麻雀娘で、ミノルはただの世間知らずの麻雀おじさんだ。

 嵐は、タバコの煙を深く吐いた。

「ミノルさん、童貞だと思う?」

「は!?」

 さやかは顔を真っ赤にすると、読んでいた雑誌を嵐の頭に投げつけた。

「バカ!」

「………」

「失礼ですよ、そんな話!」

 ぷいっとそっぽを向くさやかに、嵐は頭を抱えた。

「あーっ、うだてぇ!なして俺がこんた、フクザツな思いせねばなんねのさ!」

「どうしたのよ、嵐」

 トイレから戻ってきた鈴子を、嵐はガバッと押し倒した。

「宇宙船春野嵐号、おっぱい星雲に突入します!」

「キャハハ!何よ、もう」

「あーっ、いいなぁ。僕も」

 嵐が鈴子の胸に顔を埋めると、さやかが羨ましそうに指をくわえた。



「ただいまー」

 さやかがマンションに帰ると、冬枝の革靴の隣に、見慣れない白のローファーが玄関に置かれていた。

 ――佳代さんか。

 そういえば、冬枝が佳代に料理を教えてやるんだと言っていた。台所を覗いてみれば、冬枝と佳代が並んで料理に励んでいるところだった。

「おう、さやか。ちょうどよかった、今できたとこだぞ」

「わたくしとおじさまの、初めての共同作業ですわ❤」

 白いフリルのついたエプロンを着た佳代が、うっとりとして出刃包丁に頬を寄せた。

 食卓に並んだのは、アジの照り焼きにじゃがいもの煮っ転がし、野沢菜の味噌汁だ。

 どれも美味しそうだが、さやかはアジの照り焼きに目を引かれた。炒りゴマの乗ったツヤツヤのアジは、光り輝いてすら見える。

「ほれ、さやか。食ってみてくれ」

「どうぞ、召し上がれ❤」

「…いただきます」

 冬枝とさやかの両方に勧められ、さやかは早速、アジに箸をつけた。

 ぱくっ。

「……美味しい」

 思わずぱくぱくと箸を進めるさやかに、冬枝と佳代が顔を綻ばせた。

「だろ!?」

「良かったぁ。わたくしとおじさまの共同作業、見事、大成功ですわね❤」

 エプロン姿の佳代に絡みつかれ、冬枝は照れ臭そうに頭をかいた。

「いやあ、佳代さんが頑張ったからですよ。俺が教えることなんか、何にもなかった」

「そんなことありませんわ。わたくし、おじさまのおかげで自信がつきました」

「なら、良かった」

 冬枝も佳代も、楽しそうだ。さやかは、それを穏やかな気持ちで眺めることができた。

 ――このアジ、すごく美味しい。

 アジだけでなく、煮っ転がしも味噌汁も、店で出て来てもおかしくないレベルだ。さやかは、佳代の料理の腕前に素直に感心した。

 ――これは、不戦敗だな。

 ミノルと作ったビーフストロガノフでは、相手にならない。あのビーフストロガノフのまずさを思い出せば、佳代の料理は美味しすぎて涙が出るぐらいだ。持ってこなくて良かった、とさやかはホッと溜息を吐いた。

 ――佳代さんは、本当に努力家なんだ。

 さやかより年下なのに、これだけの料理を作れるのは、日頃の成果だろう。佳代のすごさが分かるようになったのは、ミノルと一緒に料理したおかげだ。

 生野菜のブランデー煮込みしか作れなかったさやかには、佳代に嫉妬する資格はない。さやかは、きゃいきゃいと語り合う冬枝と佳代に微笑みかけた。

「冬枝さん、佳代さん。これ、すっごく美味しかったです」

「おーっほっほっほ。これが佳代の、いいえ、佳代とおじさまの実力ですわ。わからず屋のお嬢さん、よろしくて?」

「か、佳代さん…」

 冬枝はハラハラしてさやかを見たが、さやかはただ笑っていた。

「分かりましたよ。佳代さんはすごいです」

 さやかは「ごちそうさまでした」と言って、再び外に出て行った。冬枝とさやかが同居していることが佳代にバレたら面倒なので、『こまち』にでも打ちに行ったのだろう。

「………」

 やけにあっさり引き下がったさやかに、冬枝は拍子抜けしてしまった。

「おじさま、どうかなさいまして?」

「あ、いや…」

「さ、わたくしたちもいただきましょう❤」

 冬枝の中では目を三角にしていたさやかは、現実では仏のような笑みを浮かべていた。佳代と作った料理はどれも美味いのに、冬枝は何だか物足りなかった。



 夜、さやかは一人、脱衣所の鏡の前に立っていた。

「こう、かな……いや、こうか?」

 鈴子が春野家で見せてくれたのは、女性雑誌のバストアップ特集だった。補正ブラジャーや食事など様々なバストアップ方法が載っていたが、中でもさやかが目をつけたのがマッサージである。

 今夜も冬枝は佳代の護衛に行っているため、誰かに見られる心配はない。さやかは早速、風呂上がりに実践してみた。

 胸をぐにぐにと揉みながら、さやかは顔をしかめた。

 ――これ、結構痛いんだけど……胸の大きい人は痛くないのかな?

 或いは、少しでもバストを大きくしたいという気持ちで、力を入れ過ぎているのかもしれない。フリフリのエプロンの上からも明らかだった佳代の豊満なバストを思い出すと、つい力が入ってしまうのだった。

 ――別に、こんなマッサージ、信じてるわけじゃないけど……けど…。

 懸命に胸をこねくり回していたさやかは、へっくしゅんとくしゃみした。

 ――流石に、ちょっと寒いかな。

 今のさやかはパンティー一枚のため、そろそろ湯冷めしてしまう。服を着ようか、と思いつつ、もうちょっとやろうかな、とさやかが鏡と睨めっこしながら胸をいじっていると、急に脱衣所の扉が開いた。

「えっ?」

「んっ?」

 タバコをふかしながら入ってきたのは誰であろう、冬枝だった。

 冬枝の足と、胸をマッサージしていたさやかの手が、同時に止まった。

「………」

「………」

 一拍の沈黙を置いてから、さやかが「きゃあああっ!」と悲鳴を上げた。

「変態っ!スケベっ!出てけ!」

「いって、おい、物を投げるのはやめろ!」

「いいから出てけーっ!」

 さやかに雑誌やらハンガーやらを投げつけられ、冬枝はすぐに脱衣所から退散した。

 ――ふ、冬枝さんに見られた……!

 一体、一人で胸をいじくり回すさやかの姿は、冬枝にどう思われただろうか。考えると、さやかは顔から火が出そうだった。



 着替えたさやかが恐る恐る、リビングに出ると、冬枝がウィスキーをグラスに注いでいるところだった。

「…冬枝さん、帰って来たんですか?」

「いや、またすぐ戻る。俺は酒飲みに戻ってきただけだ」

「晩酌のために、わざわざ?」

「おう」

 呆れるさやかに対し、冬枝は平然と答えた。

 冬枝は氷を入れたグラスに、とくとくとウィスキーを注いだ。相変わらず、水は申し訳程度にしか入れない。

 ウィスキーをぐるぐる混ぜる一方で、冬枝はタバコもスパスパと忙しなく吸った。

「榊原さんちで酒飲むわけにいかねえだろ。タバコも吸えねえし、欲求不満なんだ、こっちは」

「佳代さん、まだ高校生ですものね」

 若頭の姪とはいえ、そこまで佳代に気を遣う冬枝にさやかは感心した。女の子の前でタバコを遠慮する男など、めったにいない。

 ――佳代さんからあれだけチヤホヤされてるのに、冬枝さんは謙虚なんだな。

 というか、痩せ我慢は冬枝の習い性なのかもしれない。なまじ佳代が自分を慕ってくれるだけに、格好つけられるだけ格好つけてしまうのだろう。

 さやかは、ポンポンと冬枝の肩を叩いた。

「お疲れ様です、冬枝さん」

「ああ。なんか腹減ったな」

「榊原さんのところで食べなかったんですか?」

「食ったけどよ。酒のアテに何か食いてえんだよ」

 そう言うと、冬枝はトコトコと冷蔵庫へと向かった。

「おっ。このキャベツ、ちょうどいいな」

「あっ、それ…」

 冬枝はラップのかかったキャベツをレンジで温め、ぱくぱくと食べ始めた。

「うん。なかなかうめえな」

「…そうですか」

 さやかはおずおずと、「それ、僕が作ったんです」と言った。

「ん?そうなのか?」

 てっきり高根が作ったんだろうと思ってバクバク食べていた冬枝は、つと箸を止めた。

 さやかは、ちょっと照れながら説明した。

「お腹が空いたから、夜食にラーメンでも食べようかなーと思って、ラーメンの具にするためにキャベツをにんにくとバターで炒めたんです。でも、やっぱりラーメンはやめて、キャベツだけに」

「ほー。お前が夜のラーメンをやめるなんて、珍しいじゃねえか」

「そこですか、褒めるところは」

 実のところ、さやかの夜食を止めたのは、やはり佳代である。

 都会に住むお嬢様ならば、食生活も庶民のそれよりかなりゴージャスなはずだ。それなのに、佳代はスリムでスタイルが良かった。

 ――ここでサッポロ一番を平らげてしまったら、完全に僕の負けって気がする……。

 キャベツならヘルシーだ、とさやかは己に言い聞かせ、夜食はキャベツのにんにくバター炒めだけにした。それも、作ったうちの半分は明日の朝食用に残した。

 その朝食も、冬枝の胃袋へと消えてしまった。冬枝は「うん」と一人頷いた。

「美味かった。ごっそさん」

「…どうも」

「さやかも、一人でこんなもん作れるようになったんだな。成長したな」

 まるで父親みたいにしみじみする冬枝に、さやかは唇を尖らせた。

「お料理ぐらい、僕だってできますよ。佳代さんみたいに立派なものは作れませんけど」

「………」

 冬枝はカラリとグラスの氷を鳴らすと、急にさやかの膝の上に倒れ込んだ。

「わっ。ど、どうしたんですか」

「ちょっと寝る。おやすみ」

「おやすみって……」

 冬枝は、それきり何も言わない。さやかの膝の上で、本当に寝始めてしまった。

「………」

 ――これじゃ僕、動けないんだけど…。

 膝の上にある冬枝の重みと温もりが、くすぐったい。じわじわと、恥ずかしさがさやかを襲った。

 ――こ、こんなの…こんなの……。

 このむずむずした感情を、うまく表す言葉が見つからない。とりあえず、さやかはリモコンを手に取って、テレビを消した。

 ――冬枝さんも、疲れてるのかな。

 仮にも護衛を引き受けた以上、佳代と一緒にはしゃぐわけにはいかないのだろう。さやかには楽しそうに見えた佳代とのデートだって、冬枝は気が抜けなかったのかもしれない。

 そう思うと、さやかは冬枝が愛おしくなった。

 ――今日は一日、お疲れさまでした。

 さやかは、そっと冬枝の髪を撫でた。自分の髪とは全然違う硬い感触に、少しドキドキしながら。

 ――今は、僕だけの冬枝さんですよね。

 佳代に護衛が必要なことも、佳代がそれなりに魅力のある少女だということも、さやかは理解した。それでも、さやかにだって譲れないことがある。

 さやかは、眠る冬枝に小さな声で囁いた。

「僕だって、ヤキモチ焼いてるんですからね……」

 冬枝に、さやかの気持ちは届いただろうか。それとも、今の冬枝は東京から来た魅惑の美少女で頭がいっぱいで、さやかなど入る余地がないだろうか。

 ――でも、こうして僕のところに帰って来られちゃうと、ちょっぴり期待しちゃうな。

 ここが冬枝の自宅なので当然なのだが、もしかして顔を見に来てくれたのかも、なんて思ってしまう。ちょっと図々しいかな、とさやかは一人苦笑いした。

 というさやかのセンチメンタルを吹き飛ばす勢いで、突然、冬枝がガバッと起き上がった。

「わっ。ふ、冬枝さん、おはようございます」

「……」

 冬枝はさやかに背を向けたまま、しばらく無言でソファに座っていた。

「………」

 ――冬枝さん、どうしたのかな。

 水でも持ってこようか、とさやかが考えかけたところで、冬枝はすっくと立ち上がった。

「そろそろ戻る。護衛がいつまでも抜けてちゃ、まずいからな」

「あ…そうですか。お気をつけて」

「ああ」

 冬枝は身支度を整えると、さっさと玄関へと向かった。

 革靴を履きながら、冬枝はぽつりと言った。

「さやか。キャベツ、ご馳走さん」

「あはは…大したものじゃないですけど」

「お前もぐぐと寝ろよ。おやすみ」

「おやすみなさい、冬枝さん」

 バタン、と扉が閉まると、さやかは急に部屋が寒くなった気がした。

 ――あのまま、ずっと、冬枝さんに膝枕していたかったな。

 誰もいなくなったリビングが、やけに広々として見える。冬枝に膝枕していた時間が、ほんの刹那の夢のように思えた。

 ――明日が終わったら、冬枝さんと一緒にいられる。

 佳代が灘議員の代わりに出席する聖天高校の運動会は、明日だ。運動会が終われば、佳代は東京へ帰り、冬枝のボディガード業も終わりとなるだろう。

 ただ、さやかには一つだけ懸念があった。

 ――ビンタ男がまだ見つかってない。


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