表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
41/54

41話 パンチドランカー・ララバイ(その1)

第41話 パンチドランカー・ララバイ(その1)


 東京。

 秋晴れの空を突き刺す、高層ビルの群れ。

 その中の一つ、建設中のホテル『セレスト・キャッスル』の最上階に、スーツ姿の男4人が集まっていた。

 顔に大きな傷跡のある、褐色の肌をした男が不機嫌そうに口を開いた。

「昼間っから、何の集まりだ。こっちだって暇じゃないんだぞ」

 七三分けの男が、それに答えて高慢そうな笑みを浮かべる。

「どこかの誰かさんがヘマをしたせいだろう」

 視線を向けられたオールバックの精悍な男は、悪びれもせずにこう言った。

「うちの女が向こうで捕まっちまったんですよ。田舎のサツもバカにできませんねぇ」

「キサマが『アクア・ドラゴン』のガキたちに好き放題させすぎたせいだろう。いくらノロマな田舎の警察でも、よそ者に縄張りを荒らされれば警戒する」

「おっ、流石は桃華組の組長さん。地元だから詳しいってか?」

 オールバックの男に揶揄され、七三分けの男――桃華組組長は、露骨に眉をひそめた。

「地元じゃない。あんな田舎」

「とにかく、これは竜宮城計画の危機です」

 静かに声を発したのは、一見すると上品な紳士のように見えるロマンスグレーの男だ。

 男の言葉に、残る若手3人は口をつぐんだ。

 ここにいるのは、青龍会の中でも四天王と呼ばれる男たちだ。

 組織規模の大きい青龍会では、特に有力な組の組長4人を若頭に指名して、配下の統率を分担させるという、異様な体制を敷いている。

 それぞれに年齢も出身も異なる男4人は、四天王と呼ばれてはいても、互いに野心や企みを抱えている。ややもすれば火花を散らしかねない間柄ではあったが、4人に共通しているのはただ一つ。

 ――青龍会会長、海堂への絶対的な畏怖。

 オールバックの男が、場の緊張を崩すように鼻からフンと息を抜いた。

「竜宮城計画の危機、ってのは大げさじゃないですか、藤浪さん?たかが女一匹が捕まっただけでしょう」

「難波さん。お宅のお嬢さんを警察に引き渡したのは、どうやら白虎組の者らしいですよ」

「それが?」

 オールバックの男――難波には、田舎の警察に田舎の組が女を引き渡した、というだけではピンとこない。

 ロマンスグレーの男――藤浪は、難波の鈍い反応にも笑みを浮かべたまま、こう告げた。

「白虎組には、夏目さやかがいます。夏目さやかは柘植雅嗣を動かせる」

「あっ、そういうことか。夏目さやかが、竜宮城計画についてロリコン伯爵に告げ口したら…」

「夏目さやかの元同級生を使ったのが仇になりましたね。女は2人以上になると、たちまち口が緩くなる」

 藤浪に失敗を指摘されたが、難波は「あっちゃー」とわざとらしく額に手を当てるだけだった。

 どこか他人事のような態度に、七三分けの男――桃華組組長が眉を吊り上げた。

「『あっちゃー』で済むか!もし竜宮城計画を朱雀組に邪魔されたなんてことになったら、会長がどれだけお怒りになることか」

「なんだ、ビビってんのか?お坊ちゃん」

「ビビってるとか、そういう問題ではない!現にこうして我ら四天王が呼び出されたんだから、キサマはもっと危機感を持て!」

 言っているうちに感情が激してきたのか、桃華組組長はビシッと人差し指を難波に突き付けた。

「だいたいキサマ、『アクア・ドラゴン』に薬の売買まで許しているそうじゃないか!そういう油断から、竜宮城計画に綻びが生じるのだぞ!」

 桃華組組長に耳元で怒鳴られ、難波はわざとらしく耳の穴に指を突っ込んだ。

「そんなにピリピリしなさんな。ロリコン伯爵だって、田舎のゴタゴタに関わってるほど暇じゃないでしょう。まして、白虎組と秋津一家は犬猿の仲って言うじゃないですか」

 秋津一家の名が出て、桃華組組長の眉がピクリと動いた。

 難波は続けた。

「朱雀組4代目・秋津イサオの死で、秋津一家と朱雀組の仲も切れかかってる。ロリコン伯爵にとっちゃ彩北はもう、完全にアウェイですよ」

「とはいえ、柘植雅嗣の動きは看過できません。柘植雅嗣率いる柘植組の資金力は青龍会全体に比肩する、或いは上回るとも言われています。却って、死んだ秋津イサオよりも厄介な相手です」

 藤浪が言うと、難波も揃ってうーんと腕を組んだ。

 ずっと黙っていたスカーフェイスの男が、焦れたように口を開いた。

「結局、どうするんだ。竜宮城計画の邪魔をしないよう、柘植雅嗣に脅しでもかけるのか」

「柘植雅嗣は我々の脅しに屈するような相手ではありませんよ、成滝さん。ヘタに刺激しては、つまらないことになりかねません」

「だったら、どうする。その、夏目さやかとかいう小娘を始末するのか」

 すると、そこで桃華組組長が、バサッとコートの裾を翻した。

「だったら、ボクに任せてくれたまえ」

「おう?お坊ちゃん、どうするつもりで?」

「キサマのところの三船亜弓とかいう女、ボクが回収してやる」

 桃華組組長は「向こうには伝手があるんでな」と言って、窓の外に広がるビル街に目をやった。

「ついでに、夏目さやかのこともボクが押さえておこう。あの忌々しい成金5代目の好きにはさせん」

 はーっはっは、と高らかな笑い声を残して、桃華組組長は一人、その場を去っていった。

「………」

 残された3人に、しーんと静寂が降りる。

 難波が、ふと口を開いた。

「…お坊ちゃん、よくうちの女の本名なんか覚えてたなぁ。俺はすっかり忘れてたぜ」

「ハゲタカと呼ばれるぐらいの女好きだからな。どうせ、下心があるんだろ。他人の女にまでたかるなんざ、意地汚え野郎だ」

 顔に傷痕のある男――成滝が吐き捨て、藤浪がまとめた。

「桃華組組長なら土地勘もあるでしょうし、今度のことは彼に任せておくのが得策でしょう。何があろうと、竜宮城計画は遂行せねばなりません」

「へーい」

「ああ」

 工事中のため布をかけられ、乱雑に置かれた調度品やオブジェが、真昼の室内に不気味な影を落とす。

 誰も口にはしなかったが、この場にいた男たちには、それが青龍会会長・海堂のように見えてならなかった。


 一方、彩北でも男たちが、青龍会の話題で酒を飲んでいた。

 ただし、こちらは真夜中、料亭の奥の間で開かれた、極秘の会合である。

 何しろ、参加者は白虎組若頭・榊原と若頭補佐・霜田――そして、地元警察幹部である。

 白虎組と地元警察とは、常につかず離れずの間柄にある。互いに利益を受けつつも、ミイラ取りがミイラになるのを防ぐため、一線を引いて付き合っている形だ。

 そのため、特に親しい榊原とその警察幹部の仲であってさえ、人前でおおっぴらに酒を酌み交わすわけにはいかない。しかも今夜の話の中身は、余人には絶対に洩らせないものだった。

「警視庁から、俺たちは『アクア・ドラゴン』に手を出すな、と釘を刺された」

 警察幹部は、もう何杯目になるか分からない日本酒を苦々しげに飲んだ。

「ごちゃごちゃ御託を並べ立ててはいたが、要するに『田舎の警察は出しゃばるな』ってことだ。東京者が舐めやがって」

「どこも同じだな。青龍会は俺たちを見下してるし、警視庁はお前らを見下してる」

 榊原の同情に、警察幹部は「見下されてるなんてもんじゃねえ。ガキ扱いもいいとこだ」と嘆いた。

「『そちらにヘタに手出しをされて、ややこしいことになっては困る』とまで言われたんだぞ、はっきり。俺たちの縄張りで暴れられてるのに、手出すなってのはどうなってんだ」

「結局、警視庁は自分たちが手柄を上げたいだけなのさ。こんな田舎町がどうなろうと、どうだっていいんだろ」

 榊原が思わず吐いた溜息も、あながち、警察幹部に合わせただけでもない。

 義父である灘議員をはじめ、東京の政財界の大物と関わっていると、都会の人間たちの特権意識を嫌というほど思い知らされる。東京にいる人間にとって、東北の片隅の一都市など、しょせん遠い遠い背景に過ぎないのだ。

「やっぱり、彩北は俺たちが守らなきゃならねえ」

 榊原の心の底から出た言葉に、酒を食らっていた警察幹部も「おう」と力強く頷いた。

「県警は、白虎組の『アクア・ドラゴン』に対する一切の暴力を容認する!」

「本気か?」

 榊原の問いに、警察幹部はきっぱり「ああ」と返した。

「非公式だが、他の幹部連中も同意した。『アクア・ドラゴン』を煮るなり焼くなり、お前らの好きにしてけれ」

「いいのか?」

「いいも何も、東京から来た悪ガキ共がどうなろうが、俺らの知ったこっちゃねえ。警視庁が手出すなって言ってるってことは、じゃ、『アクア・ドラゴン』が困ってても、俺たちゃ助けなくてもいいってこったろ」

 榊原は「拡大解釈だな」と言って、苦笑いした。

 会合は終始、和やかだった。極道と警察という立場の違いはあれど、東京から来た『アクア・ドラゴン』及び青龍会を憎む気持ちは一緒なのだ。

 駐車場で警察幹部を見送った後、憮然としていたのは霜田である。

「なんだよ、霜田。そんな顔して」

「私は気に入りません」

 飲みの席で黙っていた反動か、霜田は堰を切ったように滔々と喋った。

「我々は極道です。警察の許しなどを乞う立場にはありません。それをあの男、何を偉そうに」

「ただの言い方だろ。お前もよく知ってる相手じゃねえか」

「若頭は人が良すぎます!あんなの、愚痴を装ったていのいい脅しですよ。愚連隊とのケンカだろうと、いざとなればお前らを逮捕できるんだぞ、という」

 小柄な肩を怒らせ、霜田はぷりぷりと拳を上下させた。

「だが、少なくとも『アクア・ドラゴン』相手に関しては見て見ぬふりをしてくれる、ってのは本当だろう。それだけで俺たちの面倒は減る」

「そこですよ、若頭!警察は、我々をうまく使って『アクア・ドラゴン』を駆逐しようと目論んでいるのですよ!己の手は汚さずに!」

 霜田は「我々は、警察の猟犬ではありません!」と歯軋りした。

 霜田の眼鏡の奥の瞳が、悔しげに歪められているのを見て――榊原は、思わず笑ってしまった。

「やっぱり、お前がいて良かったよ。霜田」

「はぁ?」

「俺なんか、サツから情報を得て、サツがこっちの好きにさせてくれるってだけで、満足しちまうところだった。これじゃお前の言う通り、飼い慣らされた犬も同然だな」

「どうして、そんなことを嬉しそうに言うんです」

 訝しげに眉をひそめる霜田に、榊原はにっこりと微笑みかけた。

「お前とこうして同じ景色を見てるってだけで、俺は嬉しいんだよ。霜田と仲直りできて、本当に良かった」

「……!」

 霜田は頬を赤らめると、ぷいっと榊原から顔を背けた。

「……そのような、呑気なことを言っている場合ではありません。『アクア・ドラゴン』の蛮行の数々、お耳に届いているでしょう」

「ああ。だからこそ、サツも俺たちの尻を叩きに来たんだろ」

 先日も、白虎組が経営するキャバレーからホステスがさらわれそうになったことがあった。幸いにも朽木が撃退したが、犯人は明らかに東京の若者――『アクア・ドラゴン』だったという。

 先ほどの警察幹部からも、『アクア・ドラゴン』による若い女の拉致未遂が報告されている。ナンパのふりをして声をかけたり、強引に連れ出そうとしたり、と手段は様々だが、『アクア・ドラゴン』は組織的に女を集めているらしい。

「田舎の娘など集めて、青龍会はどういうつもりでしょう。まさか、ハーレムでも作ろうって腹じゃありますまい」

「そのセンも捨てきれねえな。青龍会が巨大な風俗企業『アラビアン・ナイト』を率いてるのは有名な話だ」

 ホステスからソープ、デリヘル、ストリッパー、果てはポルノ女優まで、ありとあらゆる女の売買を担う青龍会のカルテル――通称『アラビアン・ナイト』。

 『アラビアン・ナイト』は青龍会のハーレムとも言われ、組幹部の愛人が数多囲われている、という噂もしきりだ。

 東京の『アラビアン・ナイト』に、彩北の女たちを『輸出』しようとしているのだとしたら、捨て置くことはできない。

「女たちは貴重な金づるですからね。東京者に渡すわけにはいきませんよ」

「霜田。お前って奴は、どうしてそういう言い方ばっかするんだ」

 組きっての紳士として榊原がたしなめたが、霜田は肩をすくめた。

「極道が紳士ぶっても仕方がないでしょう。夜の女たちはともかく、堅気の女たちに手出しされるのは厄介ですね。我々にはどうしようもない」

「確かにな…」

 堅気の女たちにとっては、白虎組も『アクア・ドラゴン』も同じようなものだろう。ヤクザにすぎない白虎組が、街の女を『アクア・ドラゴン』の魔の手から守るのは困難だ。

 分かり切ったことだが、榊原は妻や娘たちのことを思うと暗い気持ちになった。

 ――淑恵や俺の娘たちに手を出したら、ただじゃおかねえ。

 霜田にはああ言われたが、榊原は普段から、紳士を気取っているつもりも、善人ぶっているつもりもない。自分が許せないことをした相手は、徹底的に潰すだけだ。

「美佐緒ちゃんのことは、お前が守ってやれよ。霜田」

 元妻の名を出され、霜田は露骨に嫌そうな顔をした。

「ご冗談を。あんな大年増、『アクア・ドラゴン』の小僧たちだって狙いやしませんよ」

「あーっ、言ったな。美佐緒ちゃんに言いつけてやろ」

「全く、若頭には付き合いきれません」

 呆れつつも、霜田の頬にも自然と笑みが浮かんでいた。

 ――若頭といると、恐れるものなどないような気がしてしまうから困ります。

 都会の黒い思惑が街を覆っていようと、榊原と霜田の頭上に今あるのは、明るく輝く満月だけだった。



 雀荘『こまち』のスタッフルームを覗き込んだ嵐が「あーっ!」と声を上げた。

「おサルさんが、パソコンなんか使ってる!わあー、しったげお利口さんだべ!」

「誰がおサルさんだ、ぶっ飛ばすぞ、てめえ!」

 白い大きな箱のようなモニターから振り返った冬枝が、拳を振り上げた。

「ていうか、勝手に入って来るんじゃねえ。ここは関係者以外、立ち入り禁止だぞ」

「俺とダンディ冬枝の仲じゃないっスか。さやかも『入っていい』って言ってましたよ」

「…あいつ、ホントにそう言ったのか?」

 疑問顔の冬枝に、嵐は「ウン。言ったヨ」とトボけた笑みを浮かべた。

「俺との勝負でどん詰まりになってうんうん悩んでいるさやかに『入っていい?』って言ったら、『ご自由にどうぞ』って」

「そりゃ、てめえの話を聞いてねえだけだ!打ってる最中のあいつに、話なんかまともに通じるかよ」

 時計を見れば、もう午後をとっくに回っている。嵐がここへふざけに来たということは、今日もさやかは嵐に勝てなかったのだろう。冬枝は溜息交じりに聞いた。

「…さやかの奴、今どうしてんだ」

「恒例の一人反省会。卓を占領して、牌をいじくりながら一人でぶつぶつやってますよ」

「営業妨害だな、あいつ」

「いいじゃないっスか!この店、どうせそんなに儲かってない!」

「大きなお世話だ!」

 と、冬枝に怒鳴られてから、嵐がモニターをひょいと覗き込んだ。

「でも、そんな大赤字・火の車・焼け野原の『こまち』がいきなり文明開化なんて、どういう風の吹き回しで?」

「うちは大赤字でも火の車でも焼け野原でもねえ。今時、ビジネスにパソコン使うのなんざ、当たり前だろ」

「おお?ダンディ冬枝から横文字が飛び出した!」

 嵐はそこでにやりと笑った。

「ははーん。さては、負け犬小町におねだりされたな」

「負け犬小町って呼ぶんじゃねえ!そうだよ、言い出しっぺはさやかだ」

 今時、ビジネスにパソコンを使うのは当たり前だ――というのは、さやかの受け売りである。

 さやかが『こまち』にパソコンを導入しようと言い出した時、冬枝は乗り気ではなかった。

「いらねえだろ、パソコンなんか。何に使うんだ」

 それでなくても『こまち』はテレビの買い替えに、さやかのごり押しによる自動卓の導入で、今年だけでかなりの出費をしている。さやかが代打ちとして稼いでいるからどうにかなっているものの、冬枝としては、場末のオッサンしか来ないような店にここまで金を使うのは、本意ではなかった。

 だが、テレビや自動卓の時と違って、今度のさやかの購入動機は、冬枝も思わず食いつくようなものだった。

「裏帳簿の管理は、データで行なったほうが安全です」

「何?」

「源さんの代からつけている裏帳簿、もうかなりの量になってるじゃないですか。あれ、フロッピーディスクにすれば今の100分の1のスペースで済みますよ」

「そうなのか?」

 裏帳簿の件に関しては、かねてから冬枝も悩みの種だった。さして広くもない『こまち』のスタッフルーム、その更に奥の管理人室に隠してあるのだが、そろそろ帳簿の置き場がないと中尾に泣き付かれていたところである。

 それが一気に解決される上に、更なるメリットをさやかは提示した。

「万が一、警察に家探しされそうになっても、フロッピーディスクならすぐに破壊できます。水をかけるだけで事足りますから」

「おお!そりゃいいな」

 という次第で、めでたく『こまち』にパソコンがやって来たわけである。

 勿論、裏帳簿のデータ化のため、などという事情は、元おまわりの嵐には明かせない。キーボードを打っていた『こまち』のマスターの中尾が、あらかじめプリントしておいた紙を嵐に見せた。

「メニュー表やイベントのお知らせなども、パソコンで打ったほうが便利なので」

「おー、なるほどなぁ。でもこの店、そんなにイベントなんかやってましたっけ?」

 嵐の疑り深い目つきに、冬枝はちょっと視線を泳がせた。

「あー、イベントは随時募集中だ」

「じゃあ、脱衣麻雀大会・こまち杯やりましょうよ!麻雀小町のペチャパイだけじゃ客呼べねえだろうから、美佐緒ママも呼んで!」

「誰が脱衣麻雀なんかやるか!さやかはともかく、美佐緒さんにんなことさせたら、今度こそ霜田さんに殺される!」

「さやかはいいんだ」

 嵐がニマッといやらしく目を細めたので、冬枝はうっと言葉に詰まった。

「…いいんだよ、さやかは。負けねえから」

「どうかな~?もしも今日の勝負が脱衣麻雀だったら、今頃さやかはすっぽんぽんでっせ」

「っだぁ、うるせえな、てめえは!そろそろ出禁にするぞ!」

「やぁん、ダンディ冬枝のイケズぅ。もっと優しくしてえ」

「気色悪いことを言うな!」

 などと冬枝と嵐がじゃれ合っていると、店のほうが何やら騒がしくなってきた。

 わあっと人がどよめくような気配、何かが倒れるような物音。続けて、慌ててその場を逃げ出す靴音。

「!」

 冬枝と嵐は互いに示し合わせたわけではないが――ただならぬ気配を感じて、嵐は逃げた男のほうへ、冬枝は店のほうへと飛び出した。

「どうした!何の騒ぎだ」

「あっ、冬枝さん!さやかちゃんが…」

 常連客の加茂が示す先では、さやかが呆然と床に倒れ込んでいた。

 赤くなった左頬を押さえ、口の端からはわずかに血が滲んでいる。冬枝は、すぐにさやかの元へと駆け寄った。

「さやか。誰にやられた」

「冬枝さん。それが…よくわからないんです」

「よくわからない?」

 さやか自身、突然のことに意識が追い付いていないらしく、ぽかんとしていた。



 加茂やその場に居合わせた客たちに話を聞いたところ、冬枝にも事態の異様さが分かった。

 嵐に負けた後、雀卓で『一人反省会』をしていたさやかの元に、若い男がふらりと近寄ってきた。

 大学生風で、ひょろりとした軟派っぽい男だった。特に目立つ容姿でもなく、どこにでもいそうな若者だった、と加茂は証言している。

 その男がどこからともなくやって来るや否や、いきなりさやかに平手打ちしたのだ。

 雀卓に集中していたさやかは、男の接近に気付いていなかったらしく、すぐには何が起こったのかわからなかったという。

 周りの客たちが驚きどよめく中、男は何も言わず、逃げるように走り去ったという。

「さやか。その男、知り合いか」

「…いえ。逃げる後ろ姿をちらっと見ましたが、知らない人だと思います」

 さやかは中尾が冷蔵庫から持って来た氷のうを頬に当てていたが、「冷たい」と言って外した。

「いきなりぶたれてびっくりはしましたけど、そんなに強く殴られたわけではないです。朽木さんに殴られた時のほうがよっぽど痛かった」

「本当か?無理すんなよ」

 冬枝は心配してくれたが、さやかとしても心配してもらうのが申し訳ないぐらいの、妙な事件ではあった。

 さやかが呆然としたのも、不意をつかれたというのもあったが、『触る』と『ぶつ』の中間ぐらいの力で叩かれたため、相手の意図をとっさにはつかめなかったせいだった。

「多分、犯人はあまり人を殴り慣れてないと思います。恐らく、カタギです」

 ひょっとして、犯人は誰かにさやかを殴るよう頼まれたのかもしれない。『こまち』で騒ぎを起こすのが目的か、はたまた、冬枝を怒らせようと考えたのか。

「嵐の奴、なかなか戻って来ねえな」

 と冬枝が呟いたところで、『こまち』の扉が勢い良く開いた。

「兄貴!!!」

「ん?高根、土井、どうした、てめえら」

 出てきたのはピンクの革ジャンの嵐ではなく、黒スーツの弟分2人だった。冬枝が中尾と一緒にパソコンと睨めっこしている間、休憩に行かせてやっていたはずだ。

 高根と土井は転がるように店内に入ってくると、真っ青な顔で口々に叫んだ。

「兄貴!若頭がぶち切れてます!」

「組事務所で緊急会議です!」

「…お、おう」

 弟分2人の剣幕に、冬枝は若干気圧されつつも、急いだほうがいいということだけは理解した。

 冬枝はすっくと立ち上がると、隣で座っているさやかを促した。

「さやか。お前も一緒に来い」

「え…いいんですか」

 今や組トップクラスの代打ちとはいえ、若くて歴も浅いさやかが組事務所に行くことは滅多にない。

 冬枝は、そっとさやかの頬に触れた。

「もう二度と、お前をこんな目に遭わせたくねえ。今日は、俺がずっとそばにいてやる」

「冬枝さん…」

 正直、さやかとしては「襲われた」というより、意味の分からないイタズラをされたぐらいの気持ちなのだが、冬枝の言葉に胸がじんと熱くなった。

 ――僕って、世界で一番幸せな代打ちかもしれない。

「中尾!帳簿付け、あとは頼んだぞ」

「はい」

 パソコンを中尾に託し、冬枝とさやかたちは、カローラに乗って『こまち』を出発した。



 少し前、高根と土井は近くの喫茶店で優雅なアフタヌーンティーを楽しんでいた。

「いや、何がアフタヌーンティーだよ。タバコ吸ってコーヒー飲んでるだけじゃないか」

 高根のツッコミに、土井はちっちっちと指を振った。

「今日は日曜日っしょ?もしかしたら、その辺のお嬢さんから逆ナンされちゃうかも」

 確かに、店内には『アフタヌーンティー』を楽しむ若い女子の姿も多い。高根は苦笑した。

「俺だったら、サングラスかけた怪しい奴には声かけないけどな」

「何だよ。サングラスに黒いスーツ!十分、大人の男の魅力じゃなくって?」

「兄貴ならともかく、お前には無理だって」

「兄貴といえばさ、こないださやかさんが倒れた時……」

 と身を乗り出しかけた土井の口が、開いたまま固まった。

「………」

 いつの間にか、2人の席はスーツ姿の男たちによって囲まれていた。

 いずれも背が高く、眼光鋭い男ばかりだ。圧迫感、そして緊張感に、高根も土井も言葉を失った。

 その中のリーダー格と思しき精悍な男が、静かに口を開いた。

「冬枝さんのところの衆か」

「は…はい」

「我々は、若頭のお付きの者だ」

「わ…若頭の!?」

 どうりで、揃いも揃って優秀そうな面構えばかりなわけだ。高根と土井は、呆然と男たちを見上げた。

 白虎組若頭・榊原直属の親衛隊となれば、白虎組の中枢も同然。聡明な榊原の人選であれば、眉目秀麗、文武両道の青年たちが集められていた。

 歴も腕っぷしも自分たちとは比べ物にならないような精鋭に囲まれ、高根と土井は縮こまった。

「わ、若頭直属のお兄様たちが、オレらに何のご用で?」

 土井が震える声で尋ねると、リーダー格の男が微かに眉根を寄せた。

「若頭のお嬢さんが、路上で何者かに襲われた」

「若頭のお嬢さん…?」

「若頭の次女、奈々恵さんだ。お嬢さんは聖天高校付属大学に通っていらっしゃるんだが、今しがた、その帰り道を襲撃された」

「襲撃って…相手は」

 高根が思わず尋ねると、リーダー格は首を横に振った。

「仲間たちが手分けして調べている。幸いにも、お嬢さんは軽傷で済んだが、若頭は非常に、非常にお怒りだ」

 リーダー格の男が強調したのは、決して大げさではあるまい。街に行けば肩で風を切って歩くような男たちが心底恐れている相手こそ、白虎組若頭・榊原なのだ。

 土井が、気まずそうに口を開いた。

「あのー、その奈々恵ちゃんが襲われた件で、どうしてオレらが…」

「!」

 次の瞬間、四方八方から伸びてきた手が、土井の口を塞いで取り押さえた。

 ぎょっとする高根の横で、土井は布団圧縮機に入れられた布団のように、寄ってたかってソファに押し付けられていた。

 ずれたサングラスから覗く両目を白黒させる土井に、リーダー格の男が震えながら迫った。

「…いいかい?坊や。若頭は、ご家族をたいへん大切にしていらっしゃる。俺たちみたいな下っ端が、みだりにご家族の名前を口にするなど、畏れ多いことだぞ」

「おっ、おっ、お兄様方、もうちょい分かりやすく…」

 土井が裏返った声で言うと、リーダー格の男が耳元で囁いた。

「お前如きが軽々しくお嬢さんの名前を口にするな。さもなきゃ命の保証はしない」

「めっちゃくちゃ分かりやすくなったー…」

 親衛隊の拘束が解けると、土井はげほげほと咳き込んだ。

 親衛隊の剣幕に怖気づきつつも、高根が状況をまとめた。

「…つまり、若頭のお嬢さんを襲った犯人は未だ逃走中なんですね」

「そうだ。犯人は、お嬢さんが白虎組若頭の娘だと知ったうえで襲った可能性もある。よって、これから組事務所で緊急会議が開かれることになった。急ぎ、冬枝さんに連絡して欲しい」

「分かりました。すぐに行きます」

 高根はオーダー票を持つと、「土井、行くぞ」と促した。

 土井は、ちらちらと親衛隊を上目遣いにうかがった。

「ち、ちなみになんスけど、もし若頭の奥さんの名前なんか口にしちゃったら、どうなる…」

 土井が言い終わらないうちに、黒光りする銃口がいくつもこちらに向けられていた。

 土井の首筋に、つつーっと冷たい汗が流れた。

「いいかい?坊や。俺たちはそんな軽はずみなことをする奴を見たことがないし、これからも見ることはない」

 リーダー格の男は口元に笑みを浮かべていたが、目が笑っていなかった。

 昼間に聞くには重すぎるフレーズに、土井は何だか、かえって信じられなくなってしまった。

「そ、そ、そんなに?若頭の奥さんって、めちゃくちゃ美人で優しそうな人じゃないっスか。ファンになっちゃったりとか……」

 すると、リーダー格の男はさらに柔らかな笑みを浮かべた。

「……最近、若頭は狩りがご趣味でな。猟銃の免許も取って、ご自宅にライフルもお持ちでいらっしゃる。俺もお側で拝見させていただいたが、かなりの腕前だぞ」

 トン、と、リーダー格の男が、長い人差し指を土井の眉間に当てた。

 指先から伝わる冷気は、紛れもなく、男の向こう側にいる榊原から発せられている殺気だった。

「じゃあな。冬枝さんに、よろしく伝えておいてくれ」

 榊原の親衛隊が足並み揃えて颯爽と去っていくと、高根と土井はぐったりとソファにへたり込んだ。

「おっかねえ。おっかねえよお、高根」

「…ああ。とにかく兄貴のところに急ぐぞ、土井」

 白虎組のナンバー2が激怒した以上、もはやただごとでは済まない。大事件の予感に急かされるようにして、2人は冬枝の元へと走った。



 冬枝とさやかが組事務所に着いた時、既に会議は始められていた。

「………」

「………」

 組員たちが揃って緊張した顔つきで俯いているのを見て、冬枝は全てを察した。

 ――こりゃ、もうドッカーンと噴火した後だな。

 本人の顔を見るまでもない。普段は温厚なだけに、若頭・榊原を怒らせると怖いのだ。

 皮膚まで痺れるようなピリピリした空気の中、若頭補佐・霜田が口を開いた。

「えー、緊急事態だというのに遅刻した者もいるようですから、改めて説明します」

 わざわざ冬枝たちへの嫌味から始める辺り、霜田らしい。冬枝はちょっと顔をしかめたが、続く説明を聞いて仰天した。

「今日の朝から現在にかけて、街にいる女が見知らぬ男にいきなり平手打ちされるという事件が複数発生しています。ターゲットはもっぱら女で、いずれも犯人との面識はないとのこと。うちのシマでも、学生からホステス、パチンコ屋の店員など、数名の女が被害に遭っていますが、いずれも軽傷です」

 なんと、ビンタ男に遭遇したのはさやかだけではなかったのだ。事態の大きさに、冬枝とさやかは思わず視線を交わした。

「まさか、『アクア・ドラゴン』の犯行か?」

「僕が見た男は、あまり東京者っぽくありませんでしたが……『アクア・ドラゴン』に頼まれた、または脅されてやらされている可能性はあります」

「でも、女なんかビンタして回って、あいつら何のつもりだ」

「さあ…」

 さやかの時と同様、ビンタ男は出会った女をビンタすると、すぐにその場を逃げ去ったという。女の拉致や売春を営む『アクア・ドラゴン』にしては、妙な事件ではあった。

 榊原は、全身から怒りの炎をメラメラと燃やしていた。

「サツは未だに犯人を捕まえられていねえ。てめえら、草の根分けても絶対に犯人をとっちめろ。生死は問わねえ」

 榊原の過激な発言に、一同にどよめきが走った。街でもトップクラスの権力者でありながら、普段の榊原はなるべく暴力を避ける穏健派だからだ。

 ――榊原さん、お嬢さんを殴られたのがよっぽど頭にきてるんだな。

 榊原が娘を溺愛しているというのは、冬枝も知らぬではない。父親としては当然の感情だろうが、組をあげて犯人を処刑する、というのは流石にやり過ぎのような気もする。

 そう思ったのは冬枝だけではないらしく、隣の若頭補佐・霜田も渋い表情になった。

「若頭、お気持ちはわかりますが、ここはもう少し穏便にいきましょう。若いのの中には加減を知らぬ者もいるのですから」

「加減なんかする必要ねえ。俺たちのシマで好き勝手した奴を野放しにしておけるか」

「しかし……」

 霜田としてはよっぽど『たかが縄張り内の女をビンタされたぐらいで、殺人なんて危険を冒すのは割に合わない』と言いたいところだろう。

 だが、榊原の実の娘が被害に遭っている以上、それを言ったら生死不問になるのは霜田のほうである。

 ――霜田さんも、苦労するな。

 もどかしそうに口元をモニョモニョさせる若頭補佐の姿に、冬枝はちょっとだけ同情した。

 と、そこに「大変です!」と言って朽木が飛び込んできた。

 いつものアルマーニのスーツから、お高そうな香水の匂いをプンプン撒き散らしながら部屋に入ってきた朽木は、真っ直ぐに霜田の前に馳せ参じた。

「例のビンタ男が『パオラ』に現れて、姐さんがケガをしたそうです」

「何ですって!?」

『パオラ』は霜田の元妻・美佐緒がママを務める店だ。朽木たちと共に店の掃除をしていたところに男がふらりと現れ、美佐緒を襲ったのだという。

「すぐに追いかけましたが、途中で見失いました。今、子分たちに行方を探させてます」

 朽木は、無念そうに肩を落とした。

 霜田は、小柄な総身から「お前たち!」と雷のような大声を発した。

「これは、我らが白虎組に対する挑戦です。犯人を逃すようなことがあれば、男の恥。何としても犯人を捕まえ、我々をコケにしたことを後悔させてやりなさい!」

 霜田は「殺しても構いません!そんなクズに情けをかける必要はなしッ!」と叫び、組員たちは勢いにつられておおっと声を上げた。

 ――完っ全に私情じゃねえか……。

 霜田の手のひら返しには呆れたものの、さやかをビンタされた冬枝としても、犯人には痛い目を見せなければ気が済まない。

『絶対に犯人を見つけ出し、血祭りに上げる』という榊原と霜田の意向が一致したところで、会はお開きとなった。

「若頭。私は少し出てきます」

「美佐緒ちゃんのところだろ。よろしく伝えといてくれ」

「はい。すぐに戻ります」

 霜田が足早に出て行き、それを追おうとした朽木を、冬枝は出入り口で呼び止めた。

「おい、朽木。美佐緒さんのケガはどうなんだ」

 冬枝が問うと、朽木はいつものような皮肉を口にすることもなく、真剣な調子で「ああ」と答えた。

「いきなり知らねえおっさんにビンタされて、美佐緒姐さんはすぐに相手が普通じゃねえって気付いたんだろうな。ちょうど捨てるとこだったビール瓶で相手の頭をぶん殴ったんだが、割れた破片を掃除してる時に、指を切っちまったんだ」

「………怪我って、それだけか?」

 それだと、美佐緒よりも犯人の怪我のほうが深刻なのではないか。極道の妻をしていただけあって、美佐緒はタダでは殴られなかったというわけだ。

「美佐緒姐さんに殴られて、犯人は頭が割れて血を流していた。あのケガだと恐らく、包帯かなんかを頭に巻いてるだろ」

「なるほど。そりゃいい目印になるな」

「ところで、そこのおかめもビンタ男に殴られたのか?」

 おかめ呼ばわりされたさやかが「…ええ、まあ」と不愛想に答えた。犯人に叩かれた頬が、時間が経って腫れ始めているようだ。

「冬枝。てめえ、自分の女が殴られたってのに、こんなとこで油売ってていいのか」

「うるせえな、これからとっちめに行くんだよ。てめえこそ、手柄取られて吠え面かくなよ」

「おうおう、年寄りがさえずるじゃねえか。俺様は美佐緒姐さんのところに戻るから、てめえらはせいぜい汗かいて働けよ」

 そう言うと、朽木はそそくさと霜田の後を追って行った。

 憎まれ口を叩いていても、姉貴分である美佐緒を殴られた朽木の悔しさは冬枝にも伝わった。

 ――女を殴って回るなんて、男の風上にも置けねえ野郎だ。何としてもとっ捕まえてやる。

「よし。さやか、俺たちも行くぞ」

「冬枝さん。その前に僕、行きたいところがあります」

「ん?」

 美佐緒も心配だが、さやかはずっとある人のことが気にかかっていた。

 彼女に会いに行きたいとさやかが言うと、冬枝は目をぱちぱちと瞬かせた。



「えっ。夏目さんも殴られたんですか」

「はい…」

 さやかは、ちらちらと後ろを気にしながら頷いた。

 ここは白亜の大邸宅、榊原邸である。

 榊原の次女・奈々恵が襲われたと聞いて、さやかはいても立ってもいられず、見舞いに駆け付けたのだ。

 さやかが先日、奈々恵と会った件については榊原も知っているらしく、あっさり訪問を許可してくれた。

「嬢ちゃんの顔を見れば、奈々恵も元気づけられると思う。嬢ちゃんも大変だったのに、悪いな」

「いえ。僕が奈々恵さんに会いたいだけなので」

 実際、さやかの頬はたいして腫れてもいない。殴られたという認識も薄いぐらいで、さやかは自分より奈々恵のほうが心配だった。

 きりりと結ばれたポニーテールも真っ直ぐに、奈々恵は毅然としていた。

「私も、たいしたことないんです。友達と歩いてたら、不審な男の人が下級生に近寄っていくのが見えて。危ないって思って間に入ったら、いきなりペチンってやられたんです。あっという間に逃げられちゃったので、正直、犯人の顔や服装はよく覚えてないんですけど」

「奈々恵さん。犯人は奈々恵さんより年上でしたか?それとも、若そうでしたか?」

 奈々恵は顎に人差し指を添えてちょっと考えてから、「たぶんですけど」と言った。

「私とそれほど変わらないぐらいの、若い男だったと思います。少なくとも、おじさんって感じではありませんでした」

「そうですか。では、僕はこれで」

 さやかはぺこりと頭を下げると、「お大事に」と言ってその場を去ろうとした。

「あれっ、もう行っちゃうんですか。外は危ないですし、もう少しお話しして行きましょうよ」

「あ、ありがとうございます、奈々恵さん。でも、後ろがつかえてるみたいなので…」

 さやかが恐る恐る後ろを振り返れば、急かすような目つきでこちらを睨む少女たちが、何人も列をなしていた。

 ――奈々恵さんって、ホントに聖天の王子様なんだな。

 麗しのプリンスが下級生を庇って不審者に殴られた、という知らせは、瞬く間に聖天高校を駆け抜けたらしい。色とりどりの花束を抱えた少女たちが、奈々恵王子のお見舞いに詰めかけていた。

 現に、奈々恵の周囲は既に受け取ったお見舞いの花束の数々で、身動きもとれないほどになっている。グラジオラスや胡蝶蘭を背に立つ奈々恵の姿は貴公子そのもので、さやかは本当に王子様と謁見しているような錯覚を起こしそうになった。

 さやかの後ろでまだかまだかと王子様への拝謁を待つ少女たちから、こんな囁きが聞こえてきた。

「あの方、どこの学校の方かしら…」

「私たちの奈々恵お姉様と、あんなに親しそうに…」

 好奇と羨望の視線が、さやかの背中をちくちくと刺す。気まずいことこの上ないので、さやかはそそくさとその場を去ろうとした。

「きゃああっ!」

 そこで、背後の玄関付近から少女たちの悲鳴が上がったので、さやかは思わずばっと振り返った。

 ――まさか、またビンタ男!?

 ところが、群れをなす少女たちがモーセの奇跡のように2列に割れ、道を開けた相手は――不審な男などではなく、姫君のように可憐で美しい女性だった。

「姉さん!」

 奈々恵がぱあっと顔を輝かせ、女性の元に駆け寄った。

「ナナちゃん!」

 姉さんと呼ばれた女性は、レースの白いスカートをふわりと揺らしながら、奈々恵をぎゅっと抱き締めた。

 カーディガンの袖から覗く腕が、白く細い。女性は、そっと奈々恵の顔を覗き込んだ。

「怖かったでしょう、ナナちゃん。今日はずっと、私がそばについてるからね」

「私なら大丈夫だよ、姉さん。こんなの、かすり傷だから」

 波打つ長い髪もたおやかな『姉さん』に抱き締められ、背の高い奈々恵の凛々しさがいっそう際立つ。まさに、2人は美しい姫とカッコイイ王子だった。

 さやかは、抱き合う2人の姿に、榊原と淑恵の姿を思い浮かべた。

 ――そうか。この人は、榊原さんの上のお嬢さんの……。

「卒業した瑞恵お姉さまよ」

「なんてお綺麗なのかしら。聖母マリア様が舞い降りたのかと思ったわ」

 女学生たちの黄色い声も、あながち大げさではない。女性――瑞恵は、母の淑恵そっくりな、優しげな美貌の持ち主だった。

 瑞恵は、奈々恵の隣にいるさやかに気付いて「あら」とはにかむように微笑んだ。

「こんにちは。ナナちゃん…奈々恵の姉の、瑞恵です」

「夏目さやかといいます。お父様にはいつもお世話になっています」

 さやかが頭を下げると、瑞恵はふとさやかの頬に目を留めた。

「あなた、その顔…もしかして」

「…はい。多分、奈々恵さんを襲ったのと同じ男だと思います」

 瑞恵はそっとさやかの頬に触れ、悲しげに瞳を潤ませた。

「おつらかったでしょう。そうだわ、もし良かったら、今日はうちにお泊まりになって」

「えっ…ここにですか?」

「私もね、お父さんに呼ばれてここに来たの。外は危ないから、今日はうちに泊まって行きなさいって」

「ええっ!?姉さん、今日は泊まって行くの!?」

 奈々恵が、ぱあっと顔を輝かせた。

 瑞恵が結婚して、奈々恵は一時期、大学も休むほど落ち込んでいた。それだけ、瑞恵は奈々恵にとって敬愛してやまない姉なのだ。

 奈々恵が嬉しそうに小躍りするのを横目に、さやかは苦笑いした。

「…ありがとうございます。お気持ちはとてもありがたいですが、僕はここでおいとまさせていただきます」

「そう…。夏目さん、どうかお気をつけてね。一人で外を歩いちゃダメよ」

「はい」

 瑞恵は本当に、容姿から話し方まで淑恵にそっくりだ。榊原が溺愛するのも頷ける、とさやかは納得した。

「瑞恵お姉さま!生徒手帳にサインしてくださいませ!」

「奈々恵お姉さま、お見舞いのパンプキンパイです!」

 さやかが列から抜けた途端、女子高生たちが怒涛のように榊原姉妹に押し寄せた。

 ――お嬢様って、なんかすごい。

 むせ返るような乙女たちの香りは、ここがヤクザの若頭の邸宅であることを忘れさせる。或いは瑞恵と奈々恵の人徳が凄いのかもしれないが、とにかく、乙女たちのパワーに圧倒されるさやかだった。



 外に停めたカローラの中で、冬枝は暇そうにタバコをふかした。

 ――さやかの奴、いつの間に榊原さんの娘とお近付きになったんだか。

 榊原の愛娘は、父のみならず女学生にも人気らしい。榊原邸の周囲は、奈々恵の見舞いに来た女学生たちの家の車で行列ができ、さながら、テーマパークの駐車場のようだった。

 ――これだけ人がいりゃ、ビンタ男も現れねえだろ。

 榊原の配下の衆は、ビンタ男を探す部隊と、榊原邸の警備の二手に分かれている。白虎組の中でも精鋭揃いの男たちが固めているとなれば、いざ何かあっても安心だろう。

 ――ま、油断はできねえが。

 榊原は娘を、霜田は元妻を、そして冬枝はさやかを、いずれも自分の縄張りの中で殴られたのだ。もしも場所と相手を狙ってやったのだとしたら、犯人は命知らずと言っていい。

 白虎組のみならず、警察や嵐も犯人を追っているはずだが、未だに犯人の素性すら掴めていない。犯人の狙いも不明な以上、用心するに越したことはなかった。

 冬枝が何本目かのタバコを灰皿に落としたところで、外から悲鳴が聞こえてきた。

「きゃああっ!放してっ!」

 ――またビンタ男か!

 冬枝はすぐさま車から飛び出すと、声のしたほうへと一直線に駆け出した。

 見れば、ひときわ立派なロールスロイスの前で、一人の女学生が男から逃げようと身をよじらせている。

「てめえ、その娘を放せ!」

 冬枝はすぐさま男に飛び掛かると、瞬く間に相手をねじ伏せた。

 ドン、とアスファルトが揺れ、男の身体が路面に叩きつけられる。

 相手の腕を捻り上げた冬枝は、足元に這いつくばる男の顔を見て「ん?」と思った。

 ――あれ?こいつ、どっかで見たような……。

「ふ、冬枝さん、自分です」

「あっ!榊原さんとこの……」

 男は、冬枝も何度か会ったことがある、榊原の親衛隊のリーダー格だった。周りを見回せば、他の親衛隊の男たちも、困惑顔で冬枝を取り囲んでいる。

 冬枝は慌てて飛び退くと、男を放した。

「すまん。女の悲鳴が聞こえたもんだから、つい」

「いてて…」

 一体、何がどうなっているのか。ちんぷんかんぷんな冬枝に、悲鳴の主がずいっと近寄った。

「おじさま、とーってもお強いのですね!わたくし、思わず見惚れてしまいましたわ❤」

「はあ…?」

 キラキラした瞳で見上げられ、冬枝は思わずのけ反った。

 縦ロールに巻いた髪に大きなリボン、白いパフスリーブのドレス。まるで、お人形のような少女だ。

「おじさま。どうかわたくしに、貴方さまのお名前を教えてくださいませ」

 よく見れば、おっとりとした印象の太い眉に、いつでも微笑んでいるような垂れ目で、品の良い顔立ちをしている。こちらを見つめるピュアな眼差しに、冬枝はちょっと心がぐらっとした。

 ――悪くねえな。

 結構タイプかもしれない、などと冬枝がよこしまなことを考えかけたところで、榊原の親衛隊から「お願いですよ、佳代さん」と声がかかった。

「我々は、佳代さんの護衛を若頭に命じられてるんです。どうかご一緒に」

「嫌ですわ!いくら榊原の叔父さまの部下だからって、貴方がたのような野蛮な男の人たちに付きまとわれるなんて、お断りですことよ。田舎臭さがうつっちゃう」

 少女――佳代は、どうやらかなり高飛車な性格らしい。

「結構タイプかもしれない」という冬枝の評価は、早くも引っ繰り返った。

 ――前言撤回!なんだこのガキ、可愛くねえな。

 この縦ロールお嬢様に比べたら、さやかは謙虚で控えめで、なんと可愛らしいことか。

 ――胸は小さくても、器はでけえんだ、さやかは。

 本人にバレたら怒られそうなことを考えた冬枝に、再度、佳代が迫った。

「ねねねね、おじさま!わたくし、こんな人たちじゃなくって、おじさまに護衛をお願いしたいわ。良かったら、わたくしのボディーガードになりませんこと?」

「って言われたって…」

 冬枝は、佳代の素性すら知らないのだ。榊原の親類となれば、冬枝がおいそれと関わるわけにはいかない。

 佳代は、人差し指をぴんと立てた。

「佳代のボディガードになってくださったら、年収1千万をお約束しますわ」

「1千万!?」

「お望みなら、もっと払って差し上げてもよくってよ」

 白いレースの手袋をした佳代のほっそりとした指に手を握られ、冬枝は揺らいだ。

 ――このお嬢様を守るだけで1千万か。こりゃ、一生楽して暮らせる……。

「……何してるんですか、冬枝さん」

「ぎゃっ!?さ、さやか!?」

 冬枝の夢想を打ち破いたのは、謙虚で可愛いさやかの冷ややかな声だった。

 さやかは、冬枝の手を握っている少女をじっと見据えた。

 ――なんだ、この女。

 見知らぬ美少女に手を握られ、露骨に鼻の下を伸ばす冬枝。榊原邸を出てすぐその光景に出くわしたさやかは、むっとするのを隠せなかった。

 さやかを送りに来た瑞恵と奈々恵が、「あら、佳代ちゃん」と揃って声を上げた。

 ――『佳代ちゃん』って、まさか……。

 さやかは、その名前に聞き覚えがあった。確か、奈々恵と初めて会った時、奈々恵の昔話に出てきたいとこの女の子が、そんな名前だった。

 そこでさやかは、美少女の正体に気付いて愕然とした。

 ――灘議員の孫娘だ!

「はじめまして。わたくし、灘佳代と申します。どうぞ、佳代…と呼んでくださいませ、おじさま❤」

 少女――灘佳代に上目遣いに見つめられた冬枝が、満更でもなさそうな表情をしているのは気のせいか。わなわなと震える拳を握り締めるさやかは、自分がビンタ男になってしまいそうなのを必死で堪えた。



「わたくし、おじさま以外のボディガードなんていりませんわ。好みじゃありませんもの」

 東京から来た灘議員の孫娘――灘佳代は、そう言って夕方までゴネた。

「困りますよ、お嬢さん。今、街には変質者がうろついていて、お嬢さんを一人で出歩かせるわけにはいかないんです」

 叔父である榊原がつけた親衛隊たちが懇願したが、佳代はつんとそっぽを向いて、相手にしなかった。

 榊原邸の庭にしつらえられたティーテーブルで、佳代は冬枝に頬を寄せた。

「ねね、おじさま。せめて、お名前だけでも佳代に教えてくださいな」

「…冬枝です」

 佳代は白虎組若頭・榊原の姪であり、大物議員・灘孝助の孫娘だ。邪険に扱うわけにもいかず、冬枝は困っている様子だった。

 佳代は、睫毛の長い瞳をぱちぱちと瞬かせた。

「冬枝さん?下のお名前は、なんておっしゃるの?」

「誠二です。はい、名刺」

 冬枝がぶっきらぼうに名刺を手渡すと、佳代はうっとりと頬を染めた。

「まあ…❤ねえ、おじさま。おじさまのこと、誠二さんって呼んでいいかしら」

「なっ…!」

 佳代の申し出に鼻白んだのは、庭のテーブルで向かいに座っていたさやかである。

 ――せ、せ、『誠二さん』だと…!?

 さやかでさえ、冬枝のことを名前で呼んだことがない。それをこんな、ぽっと出のお嬢様が呼ぶなんて。

 さやかの憤りが伝わったわけでもないだろうが、冬枝は瞳をうるうるさせて迫る佳代から目を逸らした。

「勘弁してください。名前で呼ばれるの、あんま好きじゃないんです」

「あら、そうですの?」

「あの、佳代さんはどうしてこちらにいらしたんですか」

 これ以上、冬枝と佳代が会話しているのを聞いていられない。さやかは、無理矢理2人の間に割って入った。

 佳代は、にっこりと――良家の者にしか出来ない、見事なアルカイックスマイルを浮かべた。

「ごきげんよう、庶民のお嬢さん。わたくしは、こちらの街にある聖天高校の運動会で、ご挨拶を申し述べるために参りましたのよ」

「運動会…?」

 そこで、さやかの隣に座る奈々恵が説明してくれた。

「佳代ちゃんは、お祖父ちゃんの…灘議員の代理で、運動会の激励に来てくれたんです。灘議員は色んな学校の催し物に祝辞やメッセージをくれるんですけど、今年は佳代ちゃんが東京の学校で生徒会長になったのもあって、代理を務めることになったんです」

「はあ」

 女子高生が国会議員の代理で地方の高校の運動会に赴くなんて、聞いたことがない。流石は、代々議員を務める灘家の令嬢というべきか。

 スケールの大きな話にさやかが呆気に取られたところで、畳みかけるように佳代が告げた。

「つまり、わたくしは灘孝助の意志でここにおりますの。わたくしの言葉は灘孝助の言葉、わたくしを軽んじることは灘孝助を軽んじるのと同じこと。どうぞ、よろしくお心得になって」

 佳代の言葉に冬枝も、榊原の親衛隊も、しーんと静まり返った。

 ――それって、脅しじゃん。

 さやかは内心、佳代の露骨な特権意識に呆れたが、口には出さなかった。

 佳代は、隣席に座るいとこ、榊原奈々恵を振り返った。

「ところで、奈々恵お姉さま。こちらの庶民のお嬢さんは、奈々恵お姉さまのお知り合い?」

「ああ、うん。お父さんの仕事の関係でお世話になってる、夏目さやかさん」

「…どうも」

 奈々恵に紹介され、さやかは仕方なくお辞儀をした。

 佳代が「まあ」と目を見開いた。

「あなた、おチビさんに見えるけれど、随分腕が立つのね。居合術でもやっていらっしゃる?」

「…いえ。僕は、組員ではありません」

 佳代のほうがさやかより背が低そうに見えるのだが、或いは「おチビさん」はスタイルのことを言っているのだろうか。

 佳代のバストの膨らみはドレスのドレープか詰め物に違いない、とさやかが邪推していると知ってか知らずか、佳代は「ふぅん」と品定めするような目を向けた。

「榊原の叔父さまのお仕事に関することでしたら、深くは聞きませんわ。ところであなた、おいくつ?学校はどちらで?」

「…19歳。葵山学院の出身です」

「葵山学院!?」

 そこで佳代が、白鳥の羽根のような白い扇子を広げて高笑いした。

「おーっほっほっほ、葵山学院ですって?あのちゃらんぽらんで世間知らずの生徒たちばかりが通っているっていう」

「ちょっと、佳代ちゃん」

 奈々恵がさりげなくたしなめたが、佳代の勢いは止まらない。

「それで、葵山学院を卒業してこんな田舎にいらっしゃるということは、進学はなさらなかったのかしら」

「…ええ、まあ」

「あーら、お気の毒。大丈夫ですわ、世の中にはいろんな方がいるって、佳代、分かってます。わたくしのように名門高校に通い、学年首席でいられるのは、とーっても恵まれたことだって、わたくしはちゃーんと理解しておりますわ」

「………」

 ――こいつ、僕が大学にも行けないようなビンボーかバカだって言いたいのか…?

 この程度の挑発にいちいち乗っていたら、『ちゃらんぽらんで世間知らずの生徒ばかり』の葵山学院で生徒会長など務められなかった。その自負を以てしても、さやかは愛想笑いが歪んでいくのを押さえられなかった。

 ――落ち着け、僕。ムキになるような相手じゃない。

 相手はそれこそ世間知らずのお嬢様、しかも年下だ。そんな相手にマジになるのは、さやかのプライドが許さない。

 佳代はさやかに飽きたようで、甘えるように冬枝にしなだれかかった。

「ねえ、おじさま。明日、わたくしに彩北を案内してくださいな」

「ちょっ…」

 さやかが口を挟む間も与えず、佳代は「ねえ、いいでしょう?」と冬枝にねだった。

「あー…」

 佳代の高飛車っぷりに、冬枝も思うところがあったのだろう。答えを濁そうとした冬枝に、佳代が不意に悲しげにうなだれた。

「…わたくし、東京では自由な時間がほとんどないんです。習い事は毎日あるし、灘家の娘として、勉学で人に後れを取ることは許されません。街を歩けば、週刊誌の記者に付きまとわれることだってあります」

 佳代は瞳を潤ませ、「でも」と言った。

「お祖父さまの故郷であるこちらなら…白虎組が守っている彩北なら、わたくしはただの女の子でいられます。どうか、佳代にひとときの安らぎをくださいませ」

 涙ながらの佳代の話に、冬枝が同情したのは明らかだった。

「…分かりました。俺で良ければ、ぜひ」

「まあ!佳代、嬉しい❤」

「冬枝さん!」

 さやかが思わず声を上げると、佳代が「あら」と首を傾げた。

「夏目さんは、おじさまとお知り合いなのかしら」

「いや…その」

 冬枝の代打ちであることを、どこまで佳代に話してよいものか。言い淀むさやかに、佳代はにっこりと微笑みかけた。

「庶民のお嬢さん、よくお聞きになって。佳代は灘孝助の孫娘です。議員の一族として、一般市民の皆さんを危険に晒すわけにはいきませんの」

「…はあ?」

「ですから、明日はわたくしとおじさまだけで出掛けます。庶民のお嬢さんは、どうぞご安心くださいませ」

 ――それってつまり、冬枝さんを独り占めするってこと……!?

 もはや、これは宣戦布告に他ならない。さやかの中で、何かがブチッと切れた。

「…佳代さん」

「はい?」

「ちょっと、冬枝さんになれなれしいんじゃありませんか…?」

「おい、さやか」

 冬枝に名前を呼ばれたが、さやかの目線の先には佳代しかいなかった。

「冬枝さんだって暇じゃありません。街の案内なら、そこの親衛隊の皆さんにお願いすればいいじゃないですか」

 さやかは佳代の背後に並ぶ榊原の親衛隊を手で示したが、佳代は一瞥もしない。

 代わりに、にっこり笑って冬枝の腕をぎゅっと抱き寄せた。

「あら。おじさまはいいって言ってくださったわよ?ねえ」

「ええ、まあ…」

 曖昧に頷く冬枝を遮るように、さやかは佳代に食ってかかった。

「冬枝さんはあなたの使用人じゃないんですよ。会ったばかりでいきなりボディガードだの街案内だの、いい加減にしてくださいっ!」

「さやか、落ち着けって」

 冬枝の制止は宙を漂い、今度は佳代が反撃に出た。

「庶民のお嬢さんは、どうしてわたくしとおじさまが仲良くするのに口出しするのかしら。あなたこそ、口の利き方をお勉強されたほうが良いのではなくって?」

「佳代さんは一体、何様のつもりですか?もうすぐ21世紀だっていうのに、とんだ時代錯誤ですね


「さやか、やめろよ」

 ヒートアップしていくさやかと佳代に、冬枝のみならず、瑞恵と奈々恵もおろおろしている。

 佳代はふん、と鼻でせせら笑った。

「白虎組の人間は自由に使っていいって、榊原の叔父さまが言ってたもの。おじさまも、組員でしょう?」

「まあ、そうですけど」

 冬枝がぎこちなく認めると、奈々恵も助け舟を出した。

「佳代ちゃんがこっちで不自由しないように、って、お父さんが気を遣ったんだと思います。佳代ちゃんは、灘議員の代理で挨拶するっていう大任を任されてるから…」

 いとこからの援護射撃に、佳代が「ほーらね!」と勢いづいた。

「そういうことですわ、庶民のお嬢さん。わたくしは大事なお役目があってここに来ましたの。あなたのような暇人とは違いますことよ」

「僕は暇人じゃありません」

「あらぁ?大学にも行かず、就職しているご様子もないのに、どんな用事でお忙しいのかしら?」

「それは……」

 代打ちをしていることを明かすわけにもいかず、さやかは言いあぐねた。

 そんなさやかの様子を見て、佳代が露骨に溜息を吐いた。

「は~あ。庶民のお嬢さんは、お気楽でいいですわね。わたくしの肩の荷を分けて差し上げたいぐらい」

「結構です」

 さやかと佳代はティーテーブルを挟んで、バチバチと火花を散らした。

「大任を仰せつかった以上、わたくしにはわたくしを守ってくださる方が必要ですわ。そう、こちらのおじさまのような❤」

 にっこり笑顔で冬枝に絡みつく佳代に、さやかは前のめりになって迫った。

「それなら、冬枝さんじゃなくたっていいでしょう。あなたのワガママに冬枝さんを付き合わせる義理はな…」

 すうっと、レースの手袋をした佳代の指が、さやかの鼻先に突き付けられた。

 メトロノームのように揺れる指先から、佳代の花のような笑みが覗く。

「どうか、ご理解くださいませ。分からず屋のお嬢さん」

「……っ!」

 ――この……!

 完全に小馬鹿にされ、さやかが思わず手を上げそうになった――その時だった。

「佳代ちゃん。遅くなってすまない」

 若衆を引き連れ、ゆったりと庭を訪れたのは、白虎組若頭・榊原だった。

 さやかとのケンカなど忘れたかのように、佳代がぱあっと可愛い姪っ子の顔を作った。

「叔父さま。お久しぶりです」

「しばらく見ない間に、すっかり大人っぽくなったな。見違えたよ」

「ありがとうございます。叔父さまもお元気そうで何より」

「ところで、佳代ちゃんがうちの護衛を断ったって聞いたんだが…」

 榊原は、佳代に嫌われ遠ざけられ、後ろで立ち尽くしている親衛隊を見て苦笑した。

「だって」

 そこで佳代は、年相応の幼げな唇を、つんと尖らせた。

「佳代はまだ、16ですのよ?それなのに、こんな目つきの怖い男の方たちに囲まれて過ごすなんて、無理ですわ」

「うーん。なるべく、うちの衆でも若いのを選んだつもりだったんだが…」

「それがダメなんです!わたくし、もっと落ち着いた、大人の男性に守っていただきたいですわ。たとえば、こちらのおじさまとか❤」

 佳代に腕を引っ張られ、冬枝が無言で顔をしかめた。

 佳代の意外な発言に、榊原もぎょっとした。

「えっ、冬枝か?」

「はい❤このおじさま、とってもお強いのよ❤佳代、おじさまと一緒じゃなくっちゃ、不安で夜も眠れませんわ」

 ――夜も、冬枝さんと一緒にいるつもりか!?

 さやかが背後で目を剥いているとも知らず、榊原は姪っ子のワガママに腕を組んだ。

「…うーん。それで佳代ちゃんが安心するんだったら、俺は構わないが…冬枝、頼めるか?」

「はい」

 相手は若頭の姪で、灘議員の孫娘だ。冬枝に拒否権はないも同然だった。

「きゃあっ、佳代嬉しい。おじさま、わたくしを放さないでくださいませ」

「は…はい」

 佳代にぎゅうっと抱き付かれ、冬枝の顔がちょっと緩んだ。何なら、冬枝の腕に佳代のバストの膨らみがバッチリ当たっているのが見えて、さやかのまなじりはつり上がった。

 ――『今日は、俺がずっとそばにいてやる』って言わなかったっけ…!?

 般若の如き形相のさやかと、天使のように無邪気な佳代に挟まれ、冬枝は頭を抱えることしか出来なかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ