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40話 雨降れば乙女温まる

第40話 雨降れば乙女温まる


 秋津ミノルの一番古い記憶は、およそ40年前――終戦の頃に遡る。

「ただいま、ミノル」

 そう言って帰ってきた兄――イサオの笑顔は、太陽のように眩しかった。

「おかえり、イサオお兄さん」

「元気だったか?ちょっと見ねえ間に、大きくなったなぁ」

 幼いミノルを抱き上げた腕の温もりは、戦争中の飢えも凍えも溶かしていった。ミノルは、兄の大きな身体をぎゅうっと抱き締めた。

「おかえり、兄貴」

 ミノルと共に地元に残っていた下の兄2人――ススムとタケルも、長兄が生きて帰ってきたことを心から喜んだ。

 家ではケンカばかりの兄弟だったが、この時ばかりは4人の心が一つになったことを、ミノルはよく覚えている。

 ――イサオお兄さんは、僕たちの太陽だ。

 イサオの帰還と共に、疲弊した大羽の地にも、ようやく『戦後』が訪れようとしていた。



 ミノルたち4兄弟の両親は、ミノルが幼いうちに他界した。

 特に一番下のミノルには、親の記憶がほとんどない。父親代わりとなったのは、一番上の兄であるイサオだった。

「ほれミノル、本買って来てやったぞ。いっぱい読んで勉強しろ」

 14歳下のミノルに対し、イサオはとことん優しかった。家は貧しかったのに、ミノルにいつも色々な本を買って来てくれた。恐らく、本屋の店主をかき口説くか、ほとんどかっぱらうようにして本を持ってきたのだろう。

 尤も、イサオの言う『勉強』は社会一般のそれとはかなり違ったが。

「おい兄貴、これみんなエロ本じゃないか」

 次兄・ススムは雑誌をぱらぱらめくって「どうやって手に入れたんだか」と苦笑した。

「いいだろ。男が一番知っておくべき知識だべ」

「それは、俺も否定はしないけど。ミノルにはまだ早いんじゃないか?」

「なに、ミノルだって嫌いじゃねえだろ?なっ」

 イサオに肩を叩かれ、ミノルは「うん!」と笑顔で頷いた。

 そういうわけでミノルはイサオの薫陶の元、大いに勉強(?)に励み、小学生の頃には雀荘に出入りするようになっていた。

 ――学校なんか行ったって、つまらない。

 ミノルはかなり幼い頃から、自分の知恵を学校の勉強に使うのは勿体ないと感じていた。それは、自由奔放な兄たちの影響もあったのかもしれない。

 幼いミノルが兄たちの遊び先について行って、一番面白かったのが雀荘だった。学校をサボったお陰で、ミノルの頭はすぐに麻雀のルールを覚えた。

 ――麻雀でなら、兄ちゃんたちに勝てる。

 父親代わりのイサオはともかく、既に地元で様々な商売に手を出していた次兄・ススム、そして何かあればすぐにミノルを殴る三兄・タケルに、負けたくないという意識がミノルの中に芽生えつつあった。

 勿論、男兄弟にあって、年の離れた兄たちに腕っぷしで勝てるはずがない。ススムのような商才も、タケルのような腕力も持ち合わせていないミノルにとって、麻雀で稼ぐことだけが、兄たちに追いつく術だった。

「イサオ兄ちゃん。僕また勝ったよ」

「おおっ。やったな、ミノル」

 ミノルが雀荘から幾ばくかの金を握って帰れば、イサオは誰よりも喜んでくれた。

 イサオが褒めてくれるのが嬉しくて、ミノルは学校もそっちのけで、麻雀の腕を磨いた。

 次兄・ススムは「不良街道まっしぐらだな」と笑ってくれたが、唯一、三兄・タケルだけはそっけなかった。

「皆、ガキ相手だから手加減してるだけだろ」

 5歳上の三兄とは、一番年が近いこともあってケンカが絶えなかった。タケルもまた地元の不良たちを率い、ミノルとは違う意味で不良街道まっしぐらだった。

 タケルの批判とは裏腹に、ミノルはめきめきと麻雀の腕を上げていった。バクチで稼いだ金でよその雀荘を渡り歩き、やがて、東京の雀荘でも負けないほどになった。

 イサオ率いる秋津一家に入ったのは、ミノルが15歳の時だった。

「ミノル、お前の麻雀の腕は本物だ。俺に力を貸してくれ」

 イサオは、地元で比類なき統率力を誇る極道となっていた。29歳にして大羽のヤクザを統一し、カタギも惚れる侠の中の侠と称された。

 秋津一家の看板を下げた兄が目指したのは、県内を制することではなかった。イサオの眼はこんな田舎ではなく、遠い首都へと向けられていた。

「俺たちは、朱雀組の傘下に入る。東京さ行くぞ、ミノル」

 戦後しばらくは、国内のヤクザは小さな組が群雄割拠する状態にあった。高度経済成長と共にヤクザ同士の統合が進み、当時、二大勢力となりつつあったのが、青龍会と朱雀組だった。

 東京を主な縄張りとする青龍会に対し、朱雀組は東京を拠点としながらも、関西や九州など、地方の組を中枢に据えているのが特徴だった。

 だが、朱雀組の直系組織に東北の組はいない。東京から遠く、経済的地盤でも劣る東北の組は、どうしても都会に後れを取っているのが現状だった。

「俺は、そこが狙い目だと思ってる。大羽には、青龍会も朱雀組も手をつけてねえ。使える土地だってワンサカある。青龍会に対抗したい朱雀組にとって、美味いエサになるはずだ」

 何より、とイサオはミノルの肩を叩いた。

「生まれも育ちもバラバラの奴らの集まりである朱雀組には、東京でやっていける代打ちがいねえ」

「麻雀は、地方によってルールも様々ですからね。関西の三麻には、僕も驚きました」

 ミノルは日本中の雀荘を渡り歩き、各地の麻雀を吸収した。地方は都会に比べて麻雀でも遅れている事実を、この目で確認している。

「それに引き換え、青龍会の代打ちたちは時代の最先端の麻雀を打ってる。これから先、ヤクザの世界も麻雀がバクチの華になる。でかい勝負は、必ず麻雀で決める時代が来る」

 そこで、イサオはミノルを引っ提げて、朱雀組に入ることにしたわけだ。

 兄の先見の明にはミノルも感服したが、不安材料はあった。

「東北人に対する都会の目は、かなり厳しいですよ、お兄さん。口を開けば笑われ、生まれを言えば蔑まれる」

 それは、ミノルが全国を旅して幾度となく実感したことだった。東北の出というだけで、東京は勿論、関東でも関西でも「田舎者」と見下される。上下の意識が強い裏社会では、猶更だ。

 すると、イサオは大きな瞳でミノルの瞳を覗き込んだ。

「でも、勝ったんだろ?」

「えっ?」

「田舎とか都会とか関係なく、ミノルは麻雀を打ってきたじゃねえか。俺は、ミノルの雀力を信じてる」

 イサオのその言葉は、あまりにも力強く、若いミノルの胸を打った。

「…イサオお兄さんには、敵いませんね」

 イサオなら、本当に田舎と都会の壁を壊せるかもしれない。ミノルは、イサオの朱雀組入りに全力を尽くすことを誓った。

 イサオは朱雀組傘下の組に根回しし、当時の朱雀組組長に「麻雀で勝ったら秋津一家を朱雀組の直系組織に迎える」という約束を取り付けた。ただし、負けたらイサオが1千万円払うという条件つきだ。

 とんでもない話を笑顔で語る兄に、ミノルは溜息を吐いた。

「それって、打つのは僕なんですよね?」

「んだ。他に誰がいるんだ」

 まだたったの15歳のミノルには、かなりの大任である。年若い弟に組の命運を託す兄も、相当なバクチ打ちだ。とてもじゃないが、正気の沙汰ではない。

「俺が負けたら、一家心中だな。ユタカはススムにでも預けるか」

 イサオは、わざとらしく幼い息子の写真を見つめた。4人目にしてやっと授かった長男を、イサオは目に入れても痛くないぐらい溺愛している。

 ミノルは、苦笑いして首を横に振った。

「全く、縁起でもない。お兄さんたちに心中なんてさせませんよ」

「できるか?ミノル」

「できます。雀卓では、僕は魔法が使えますから」

「おっ、出たな。うちの魔法使い」

 イサオに指差され、ミノルはゆったりと微笑んだ。

 ミノルは12歳の頃から、全国の雀荘で猛者たちと闘ってきた。ローカルルール、イカサマ、反則、脅しなど、何でもありの雀界を生き抜いてきたのだ。

 ――僕の『魔法』で、必ずイサオお兄さんを朱雀組に入れてみせる。

 東北に秋津一家あり、大羽に秋津イサオありと、朱雀組の男たちが思い知るのはそれから間もなくのことである。

 同時に、弱冠15歳にしてヤクザの代打ちを降した少年のことを、人々は信じられないという気持ちを込めて『魔法使い』と呼んだ。



 それから30年――ミノルは、イサオの右腕として裏社会を生きてきた。

 ただの代打ちから、人の心を読める眼を買われ、最高顧問という肩書きを得た。兄の七光りと揶揄する声もあるが、それならススムやタケルと3人で分け合っているようなものだから、さしずめ兄の二光り強というところだ。

 日本のみならず、海外でも事業を展開する実業家の次兄・ススムと、大羽の若者たちの絶対的なシンボルとして君臨する三兄・タケルも秋津一家に合流し、それぞれ相談役、若頭という地位を得た。

 4兄弟は性格も考え方もバラバラで、口を開けばケンカすることに変わりはなかったが、イサオの下で存分に腕をふるえることに、全員が満足していた。イサオが朱雀組4代目を襲名した時には、故郷に錦を飾れたと、4人で喜び合ったものだ。

 県内最大勢力である白虎組ですら、自分たちより小規模のはずの秋津一家に手が出せない。秋津一家には、朱雀組の後ろ盾があるからだ。

 イサオは戦わずして、大羽の地を守る力を手に入れた。ミノルは、心から兄を誇りに思った。

 ――イサオお兄さんがいなければ、今の僕はなかった。

 だからこそ、あの真冬の悲劇は、ミノルの魂に深い傷を残した。街を白く覆い尽くす雪のように、イサオの死はミノルの髪から色を奪った。

 あの夜、イサオは、ミノルの目の前で事切れた。兄の身体がどんどん冷たくなっていったのを、今でもミノルは覚えている。

 瞼の裏に焼き付いているのは、血だらけになった兄の赤く染まった身体と、それと反比例して白く舞っていたモンシロ蝶。

 思い出す度に、ミノルの五指が手のひらに食い込む。兄を失った悲しみと同様か、それ以上に強く胸を搔きむしる憎しみ。

 それは、銃撃されて倒れるイサオとミノルを見下ろす、少女の長い髪に結ばれていた白いリボンだった。

 ――夏目さやか。

 兄を殺した少女は、東京を出て白虎組の元に身を寄せた。傷の治療を終えたミノルは今、ようやく兄の仇と至近距離にまで迫ることができた。

 ――いつでも彼女を殺せる近さに。

『秋津の魔法使い』の名は伊達ではない。幼い時分から麻雀で相手の心理を読み続け、相手の考え、次に切る牌まで手に取るように見ることができるミノルには、年端も行かない少女の心を操るぐらい、造作もなかった。

 ――冬枝君がいなければ、もっと早く彼女に近付けたのですが。

 冬枝誠二は、今の白虎組では最も戦闘能力が高い。『人斬り部隊』と呼ばれる組長直属の親衛隊で、最前線で抗争を闘ったこともある。血生臭い時代の当事者であり、生き証人だ。

 恐らく、ミノルが夏目さやかに手を出そうとすれば、冬枝は躊躇なくミノルを殺す。冬枝の目は、人殺しに何の抵抗もない男の目だと、ミノルは出会った時から見抜いていた。

 ――だから、これは絶好のチャンス。

 夏目さやかは入院し、家族でもない冬枝が、常時張り付いていることはできない。今こそ、ミノルがさやかに最接近する好機だった。

 ――5代目の手が夏目さやかに及ぶ前に、何としても僕が……。

 朱雀組5代目・柘植雅嗣が夏目さやかと親しいことは、ミノルも聞いている。柘植は遅かれ早かれ、夏目さやかを白虎組から引き離そうとするだろう。もう一刻の猶予もない。

「………」

 一刻の猶予もないのだが、現在、ミノルは病院の中庭で、ぼんやりとコーヒーを飲んでいた。

 ふう、と溜息を吐けば、何だか自嘲の笑みがこみ上げてくる。ミノルは、自分で自分に問いかけた。

 ――どうして動けないのでしょうね、僕は。

 何だかずっと、この平和な木漏れ日が差す中庭に立っていたい気分だ。さやかを捕える絶好のチャンスなど、本当はどうでもいいとばかりに。

 ――あんなに瞳を輝かせて麻雀を打つ人を、久しぶりに見た気がします。

 さやかが倒れる直前まで、雀卓に夢中になってかぶりついていたのを思い出す。その熱が、今でもミノルの中に残っているような気がした。

「………」

 ――続き、打ちたいですね。

 雀士としての本音を洩らせば、また苦笑が浮かぶ。亡き兄を想う気持ちとは裏腹に、雀士としてのミノルは、さやかとの勝負に心を奪われたままだった。



 病室の扉が閉まり、源とさやかの母の足音が遠ざかると、冬枝はもぞもぞとさやかのベッドから抜け出た。

「…なんか、悪いな。源さんが」

「いえ…。そんなことより冬枝さん、どうして僕のベッドにいるんですか?」

 さやかから露骨に白い目を向けられ、何やら後ろめたくなった冬枝は「なんだよ、俺がいちゃ悪いか」と開き直った。

「悪いですよ。僕がいる時ならともかく、誰もいないはずなのにベッドがあんなにモッコリしてたら変でしょう。母さん、気付かなかったかな…」

 お前の母親には全部バレてるぞ、と冬枝は言おうとしたが、口をつぐんだ。

「…源さん、なんで戻ってきたんだ」

「ああ…。戻ってきたというか、ずっと病院にいたみたいですよ。秋津一家や『アクア・ドラゴン』の人間がいないかどうか、確認していたそうです」

「あのカッコでか?」

 ウィッグを被った長い黒髪に、長身痩躯をすっぽり覆うマオカラーのチャイナドレス。あんな派手に女装して院内をうろつくなんて、冬枝は改めて兄貴分の神経の太さに感服した。

 失礼な感想を抱く冬枝とは逆に、さやかは源の行動に素直に感謝していた。

「源さん、僕のことを心配してくれたんだと思います。母のこともなんだかんだ言って、面倒を見てくださってるし…まあ、ちょっと仲良くしすぎだけど」

「気をつけろよ。俺は、お前の父ちゃんが源さんにすげ代わるのは嫌だぞ」

「安心してください。ああ見えて、母は父にベタ惚れですから。押しには弱いけど、ことそっちの方面に関しては、押されたことはありません」

「へえ」

 冬枝とさやかはベッドに並んで腰かけ、さやかの母が買ってきた缶コーヒーを一緒に飲んだ。

「さやちゃんは素直じゃないところもあるけど、本当は寂しがり屋さんだから……いっぱい一緒にいてあげてくださいね❤」

 さやかの母の、頼りないが芯は強そうな声がふと冬枝の耳に蘇った。

 冬枝の手にある甘ったるい缶コーヒーは、こんな病院のベッドなんかじゃなくて、どこか見晴らしの良い公園ででも飲むべき代物だ。冬枝は、窓の外の青空を見つめた。

「さやか。元気になったら、デート行かねえか」

「えっ」

 さやかは、目を真ん丸にして冬枝を見つめた。

「デートって、僕と冬枝さんが…ですか?」

「お前の中で、デートってのは一人で行くもんなのか。ん?」

「い、いえ…だって、冬枝さんのほうから誘ってくれるなんて」

 そわそわと急に落ち着きをなくしたさやかを横目に見ながら、冬枝はわざとぶっきらぼうに言った。

「お前だってその気だったんじゃねえのか。お袋さんに、東京で服買って来てくれって頼んだんだろ」

「なっ、なんでそれを…!冬枝さん、母さんと話したんですか!?」

「まあな」

 さやかは冬枝と母が何を喋ったのか聞きたそうだったが、冬枝が今話したいのはそちらではない。

 冬枝は、さやかの頬をプニプニとつついた。

「見てえなー。さやニャンが東京でどんな服買ってもらったのか、見てえなー」

「…冬枝さん、ふざけてません?」

「見せてくれよー、さやニャーン」

「………」

 さやかは照れ臭そうにむっとしていたが、やがてはにかんだように俯いた。

「…言われなくても見せますよ。そのために頼んだんですから…」

 次の瞬間、冬枝にがばっと抱き締められたさやかが、「わっぷ」と声を上げた。

「ふ、冬枝さんっ」

「お前、公園のボート乗ったことあるか?俺が漕いでやるよ」

「…ホントですか?」

「ああ。天気が良けりゃな」

 さやかの頬がぽっと温かくなったのが、冬枝の胸にも伝わる。さやかの小さな幸せが、冬枝にも明るい夢を見せる。

 ――女のためにボートを漕ぐなんて、若い頃でもしたことねえな。

 むしろ、若い頃のプライドが高い冬枝だったら、外で女とボートに乗るなんて、絶対に御免だっただろう。それが今は、さやかとボートに乗る日を楽しみに思っている。

 高まる期待がつい身体にも出たのか、冬枝の腕にぎゅうぎゅうと絞められたさやかがうめいた。

「…ふっ、冬枝さん。ちょっと、苦しいです…」

「あ、すまねえ。病人だったな」

 冬枝がぱっと両手を広げて解放すると、さやかが「ふう」と息を吐いた。

「悪い。大丈夫か」

「はい。冬枝さん…」

 さやかは、恥ずかしそうに冬枝を見つめた。

「…元気になったら、もう1回抱き締めてくれますか」

 ここが個室ではなく、集団病室であることが、これほど憎らしく思えた瞬間はない。ありがたいことに、奥のベッドで井戸端会議に興じるオバサンたちの笑い声が、嫌になるぐらい冬枝の頭に冷水を浴びせてくれた。



「わあ。とっても広いお宅なんですね」

 冬枝のマンションに案内されたしづかが、大きな瞳を瞬かせた。

 源にとっても、ここはかつて住んでいた部屋だ。勝手知ったる、というわけで、悠々としづかをエスコートした。

 バスルームに入ったしづかが、「あっ」と声を上げた。

「このシャンプー。さやちゃん、こっちでも同じの使ってるのね」

 源も目をやれば、冬枝のトニックとさやかのブローコロンが、仲良くバスルームに並んでいる。

 ――あいつ、結構な暮らししてるじゃねえか。

 43歳中年男には似合わぬ、初々しい同棲生活っぷりだ。これで洗面所に歯ブラシが仲良く並んでいれば完璧、と思って確認したところ、妙なものが目に入った。

「……?」

 冬枝のシェービングクリームに『ヒゲそり』とマジックででかでかと書いてある。源は一瞬、冬枝がボケたのかと思ったが、すぐに合点がいった。

 ――さやかは、朝が弱いからな。

 朝は寝惚けて赤ちゃんのようになってしまうさやかのことだから、歯磨き粉と間違えて冬枝のシェービングクリームを使ってしまうことがあるのだろう。よく見れば、洗顔フォームにも『せんがん』と大書してあった。

 実の母は、すぐにマジック書きの意味を理解したらしい。感心したように、シェービングクリームを見つめた。

「冬枝さんって、さやちゃんにとっても優しくしてくれてるんですね」

「さやかは、東京でもねぼすけだったのか」

「はい…。さやちゃん、寝惚けてるとおかあしゃんおかあしゃんって甘えてきて、すっごく可愛いんです❤ずーっと抱き締めていたくなるんですけど、そうするとさやちゃん、二度寝しちゃうんですよね」

 しづかは本当に、さやかが可愛くて仕方ないのだろう。源が『しづかをオトせば、可愛い妻と娘が一気に手に入る』などとよこしまなことを考えているとはつゆとも知らず、しづかは「あっ、あっちがさやちゃんのお部屋ですか?」とドアを指さした。

 さやかは、自室に鍵をかけていないらしい。ドアはあっさり開いた。

「さやちゃん、ちゃんと片付けてるのね。えらいわ。あとでいい子いい子ってしてあげなくっちゃ」

 さやかがこの部屋に引っ越してから半年が経とうとしているはずだが、物の少ない部屋である。以前、源と入れ替わった時と、さほど変わっていない。

 だが、少ない品からも、母親の目には娘の生活が色濃く伝わってくるらしい。しづかは、嬉しそうに本棚に並んだ『近代麻雀』を手に取った。

「思い切って、ここにお邪魔してよかった。本当はお宅に押し掛けるなんて、冬枝さんにもご迷惑だろうし、さやちゃんも嫌がるかなーって思ったんですけど…」

 そこでしづかは、思いもよらない話を始めた。

「実は、病院で自販機を探していたら、銀髪の男の人が売店まで案内してくれたんです」

「銀髪の男?」

「とっても親切な方で、私が娘のお見舞いに来たんですって言ったら、娘のお部屋を見に行ったらどうか、っておっしゃってくれたんです。忘れ物があるかもしれないし、って」

 そこで、源の頭に電流が走った。

「しまった。罠か…」

「ミナさん?」

「しづか。野暮用を思い出した。すぐ戻るから、ここで待っててくれないか」

「は、はい」

 源が別れ際、さやかとそっくりな形のしづかの額にキスをすると、しづかが「きゃっ」と小さく声を上げた。

「学さん以外の人にチューされちゃった…」

 はあ、としばらくうっとりしていたしづかだったが、目の端に気になるものが映った。

「…あら?これは…」

 手に取った写真立てには、動物園を背景にした2ショットが収められていた。



 コツコツと廊下を鳴らす靴音が、妙に耳に障る。

 ミノルは思わず、途中ではたと足を止めてしまった。

 ――僕は、何を苛立っているのでしょう。

 秋津一家の荒くれ者たちの心を一つにし、東京で活躍する朱雀組にあってさえ、対内・対外問わず人事の調整を手がけている。ミノルにとっては人の心を操ることなど、麻雀牌の流れを読むよりも容易い。

 その自分が、今は制御できない小さなさざ波を心に抱えている。ミノルは、そっと胸に手を当てた。

「ミノル。人の心は、どこにあると思う?」

 東京で死んだ兄――イサオの声が、今でもくっきりと思い出せる。記憶の中の兄は、いつだって太陽のような温かな笑みを浮かべていた。

 ――その後に、「こう言えば、ねえちゃんの胸を自然に触れるんだよ」というセリフが続くんですが。

 底抜けに明るくて、女好きだった兄。ミノルのような小細工を弄さずとも、人の心を自然と引き付けてしまう男だった。

 ――そうか。春野嵐は、イサオお兄さんに似ているのかもしれませんね。

 イサオと違って青二才のくせに、嵐は時々痛いところを突く。若者が年寄りを煙たがるように、年寄りにとっても若者の真っ直ぐさは疎ましいものなのだと、この年になって分かってきた。

「ホントにそう思ってる?」

 なんてことない嵐の言葉が、ミノルの胸に引っ掛かっている。そのせいで、ミノル自身も自分が分からなくなっていた。

 ――僕は、夏目さやかさんを心配……しているのでしょうか。

『こまち』での対局中、さやかが目の前で倒れた時――ミノルは何故か、とっさに反応できなかった。

 嵐の腕の中で苦しげに顔を歪めるさやかを見ながら、ただ呆然としている自分が、ミノルには理解できなかった。

 いつものミノルならば、それらしくさやかを心配し、介抱してやることも、或いは兄の仇を冷ややかに見下ろすこともできた。できるはずだった。

 だが、実際にはミノルは何もできなかった。あれではまるで、さやかが倒れて本当に動揺したかのようだ。

 そこまで考えて、ミノルはふっ、と笑った。

 ――僕だって、目の前で女の子が倒れたら、取り乱しますよ。

 ミノルは、そっとスーツの胸から手を離した。

 代わりに、手にしたステッキを強く握りしめる。

 ボルドーレッドのスーツに似合う、漆黒のステッキ。素人の目には、ちょっとした洒落にしか見えないだろう。

 ――僕の心は、イサオお兄さんと共にある。

 ミノルは、病室の扉をガラリと開けた。この時間は医師の回診もなく、他の患者たちはカーテンの向こうで、テレビや編み物に夢中になっている。

「………」

 入口に近いベッドで、さやかは仰向けになって寝ていた。

 瞼を閉じたさやかの顔を見下ろすミノルの瞳が、すうっと細くなる。

 手にしていたステッキに指をかけた、その時だった。

「ミノルさん」

 眠っていたと思われたさやかが、瞼を開けた。

 ゆっくりと首を動かし、こちらを向いたさやかの唇から――さやかとは全く違う、別の誰かの声がして。

 その瞬間、時間が止まった。

「南三局からだぞ、ミノル。待ってろよ」

 秋津イサオの笑みが、真夏の太陽のようにそこで輝いていた。

「えっ?」

 ――イサオお兄さん?

 カランカランと音を立てて、ミノルの手からステッキが落ちた。

 そこにいたのは、紛れもなく夏目さやかだった。こちらを見つめて、どこか悲しげに微笑んでいる。

 ミノルは思わず、さやかの華奢な肩に手をかけた。

「さやかさん。君は今、なんて……」

 そこで、ミノルの首に強烈な圧迫感が襲った。

「!」

 背後に回り込んだ男に気付かなかったのは、男が凄腕の襲撃者だからか。或いは、ミノルが束の間の白昼夢に、気を取られてしまったせいか。

 男の腕は、今にもミノルの首をへし折りそうだ。ミノルは、おどけた仕草で両手を上げた。

「おやおや。僕はただ、さやかさんのお見舞いに来ただけですよ」

「てめえは女への見舞いに、エモノ持って来るのか」

 冬枝誠二の双眸は、氷のように冷たい。こんなに殺気がダダ洩れでは、警備員を呼ばれるのは冬枝のほうだ、とミノルは内心で苦笑した。

「ただのステッキですよ。ちょっと古風ですか?」

「…お前、こないだ嵐と会ってた奴か」

 冬枝は、不審者の正体が、パチンコ屋で嵐との喧嘩を止めてくれた男だとようやく気付いた。

 季節外れのダブルのスーツに、時代がかった中折れ帽とステッキ。波打つ長い銀髪と丸眼鏡が、浮世離れした雰囲気を醸し出している。出で立ちだけ見れば、骨董品が好きな上品な紳士のようだ。

 だが、冬枝に本気で殺意を向けられても、ここまで落ち着き払っていられるとは只者ではない。ミノルが柔らかな笑みを浮かべていても、冬枝は腕を緩める気になれなかった。

「冬枝さん。彼を放してあげてください」

「さやか」

 さやかは、ベッドの上から笑み混じりに2人を見上げた。

「彼は僕のボーイフレンドです。お見舞いに来てくださっただけですよ」

「でもよ…」

「冬枝さん。今の状況、人に見られたらどうなるか分かってますよね」

「…わーったよ」

 冬枝が渋々、腕を放すと、銀髪の男は「どうもありがとう」と微笑んだ。

「さやかさん、具合はいかがですか」

「薬を飲んだので、だいぶ良くなりました。お騒がせしてしまってすみません」

「とんでもない。君の元気が戻る日を、僕も心待ちにしています」

「あの…」

 さやかは少し半身を起こすと、ミノルの手をぎゅっと握った。

 さやかの思わぬ行動に、ミノルがちょっと目を丸くする。

「…僕、必ず元気になりますから。また、僕と打ってください」

「…ええ。勿論」

 それから、まるで番犬みたいな冬枝に追い立てられるように、ミノルはさやかの病室をあとにした。

 病室の外で待っていた栗林に、ミノルは笑みを浮かべた。

「フフ…久しぶりに、女の子に手を握ってもらいました」

 怪訝そうな栗林を連れて、ミノルはのんびりと歩き出した。さやかの小さな手の感触が、消えていくのを惜しむかのように。



 夏目さやかの番犬は、1匹ではなかったらしい。

 ミノルが神妙に病院を去ろうとしたのに、モーリスの行く手を真っ青なスカイラインが遮ったのだ。

 不安げな栗林を車中に残し、ミノルは単身、車を出た。

「これはこれは。僕に何かご用でしょうか」

「………」

 スカイラインから出てきたのは、見上げるような長身の女――いや、女と見紛う美貌の男だった。

 男は、青みがかった切れ長の目をぎろりとひらめかせた。

「てめえこそ、俺の女に何の用だ」

「俺の女?」

「麻雀好きでとびきり可愛い女だ。知らねえとは言わせねえぞ」

「ああ、さやかさんのことですか」

 流石は大の女好きで知られた男だ。弟分の恋人だろうと、この男の長い腕からは逃れられない運命らしい。

 チャイナドレスの長い裾を翻し、男はつかつかとミノルに近寄った。

「てめえ、彩北の人間じゃねえな。どこから来た」

「引退しても、鼻は衰えていないようですね。君の縄張りで女の子と仲良くするのは、難しいようです」

 ふう、とミノルはため息を吐いた。

 何だか、少し疲れた。病院なんてところに来たせいで、自分がこの間まで、重傷を負って治療を受けていた身だということを思い出してしまったのかもしれない。

 忌まわしい真冬の惨劇――あの夜、夏目さやかも確かにミノルと同じ場所にいた。

 ミノルは、ふっとほろ苦い笑みを浮かべた。

「隠居した君になら、教えてもいいかもしれませんね」

 ミノルは「これは極秘事項なのですが」と前置きをしてから、きっぱりと告げた。

「朱雀組4代目、秋津イサオを殺したのは、彼女です」

 ミノルの言葉に、男の形の良い眉が微かに動いた。

 暮れていく黄昏の空が、ミノルの丸眼鏡のレンズに反射する。

「弟として、朱雀組最高顧問として…彼女を、このままにはしておけません」

「…そうか。てめえ、『秋津の魔法使い』だな」

 ミノルは、無言で肯定の笑みを浮かべた。

 派手で押し出しの強い兄3人と違って、若い頃から年がら年中麻雀に明け暮れてきたミノルは、公の場に出ることが少なかった。そのため、最高顧問という地位のわりに、ミノルの顔はあまり知られていない。

 男の長い髪が、風にさらさらと靡いた。

「てめえ、さやかをどうするつもりだ」

「さやかさんは僕に逆らいません。たとえ僕の正体を知ったとしても、彼女は僕から逃げない」

 冬枝誠二の存在や、白虎組の動きという不確定要素はあるものの、ミノルの計画は失敗しない。ミノルはそう確信していた。

 男は、蔑むようにフンと鼻を鳴らした。

「それは、お得意の洗脳か」

「これは、人聞きの悪い。僕は、洗脳なんてしたことはありませんよ」

 相手が求める言葉を喋り、相手が求める人物像を、その都度、演じてきただけだ。麻雀という究極の心理戦を闘っていくにあたって身についた技能が、稼業でも役立った。

 もっとも、今日はそんなミノルでも手を焼く相手が続いている。破天荒な春野嵐に眼光鋭い冬枝誠二、そして今、チャイナドレスで仁王立ちしている目の前の男。

「その格好、けっこう似合ってますよ。源清司君」

 去り際の挨拶にも、男――源清司は眉一つ動かさなかった。

 いい年こいた中年の癖に、あっさりチャイナドレスを着こなす源のほうが『魔法使い』と呼ばれるミノルより人間離れしていると思うのだが――それは言わないでおいた。



「さやか。ちょっといいか」

 源が呼び出すと、さやかは「はい」と言ってベッドの上で読んでいた『近代麻雀』をぱたりと閉じた。

 さやかはまるで、源が何の用で呼び出したかを知っているかのようだった。エレベーターの中で見るさやかの横顔は、凪いだ海のように静かだった。

 源とさやかは、屋上にやって来た。

 洗濯された白いシーツが、くすんだ紫色に染め上げられている。さやかは、沈んでいく夕陽に目を細めた。

「間に合いませんでしたね。夕焼け」

「…なあ、さやか」

 源は「秋津イサオを殺したのは、お前なのか?」と聞いた。

 さやかの華奢な身体には大きく見える入院着が、風に揺れる。さやかは、フェンスの向こうに広がる空から振り返った。

「はい。その通りです」

「…事実か」

「イサオさんが死んだのは僕のせいです。僕には、冬枝さんの傍にいる資格はない」

 さやかは俯きそうになった顔を、すぐにキッと上げた。

「イサオさんの件は、僕が必ずケリをつけます」

「どうしても、さやかがやらなきゃならねえのか」

「はい」

 さやかの瞳は、遠くを捉えて揺るがない。さやかの小さなシルエットは、そのまま黄昏の中に溶け込んでしまいそうだった。

「そうか」

 後はただ、シーツが風になびく音だけが響いた。



 その夜、冬枝は雀荘『大七星』にいた。

 今夜は賭場――本来であれば、さやかが代打ちとして腕をふるったはずの勝負である。

 ――さやかの奴、しったげ来たがってたっけな。

 思い出すのは面会時間も終わりが近付いた頃、帰ろうとした冬枝を引き止めた時のさやかの眼差しだ。

「冬枝さん…」

 さやかから潤んだ瞳で見上げられ、冬枝の中に一瞬、躊躇いがよぎった。

 ――そんなに名残惜しいんだったら、いっそベッドの下に張り付いて、一晩中さやかの傍にいてやろうか。

 冬枝の血迷った考えは、次の瞬間に玉砕した。

「今夜は、賭場ですよね…」

「……ああ」

 さやかが惜しんでいるのは、冬枝ではなく今夜の麻雀だった。冬枝は、目の前にいるのが可愛い女の皮を被った雀キチだということをつくづく痛感せずにはいられなかった。

「俺が代わりに出るから、気にすんな」

「いいえ。這ってでも行きます」

「ダメだ」

 冬枝が即座に却下すると、さやかがむうと頬を膨らませた。

 案の定というか、こうなることは分かり切っていた。胃炎で倒れようと、実の母が東京から飛んでこようと、さやかの麻雀好きの血は抑えられないらしい。

 さやかが冬枝を説得するロジックをあれこれと考えている気配がしたので、冬枝は心を鬼にして言った。

「今のお前が来たって、たいして役に立たねえ。今夜は大人しく寝てろ」

「……分かりました」

 さやかはしゅんとしていたが、やがて、ふと思い出したように顔を上げた。

「冬枝さん」

「ん?」

 いつものように「負けないでくださいね」だの「ちゃんと本気で打ってくださいね」だの、励ましなのか皮肉なのか分からない言葉が待っているかと思いきや、さやかは全然違うことを言った。

「僕が打てないからって、嵐に浮気しないでくださいね」

「ああ!?なっ、なんで俺が嵐と浮気するんだよ!」

 嫁のほうならともかく、あのヒゲ面男と浮気なんて冗談じゃない。冬枝は泡を食った。

 やはり、さやかはまだ胃の具合が悪いのだろうか。ナースコールを押すか、と冬枝が目を白黒させていると、さやかは「だって」と唇を尖らせた。

「僕は、未だに嵐に勝ったことがありませんから。……僕が入院してる間に、嵐を代打ちになんかしないでくださいね」

「あ、ああ、浮気ってそういう意味か…」

 さやかがおかしな表現をするせいで、変な汗をかいた。とはいえ、さやかが代打ちとしての責任感を持っていることが分かって、頼もしくはある。

「心配すんな。俺の代打ちはお前だけだ」

「冬枝さん…」

 と、なんだかんだでさやかとはいいムードで別れただけに、冬枝は今の状況が気まずくてならなかった。

「ローン!うふふっ、今夜は『麻雀マリア』の一人勝ちね❤」

 上機嫌な声と共に、パタパタと牌が倒された。

 美佐緒の華やかな笑みの下では、牌も白く輝くジュエリーのように見える。何なら、小柄な体格とは裏腹に、ぷるぷると揺れるバストが実に目の保養、いや目の毒で――隣に座る冬枝は、なるべく美佐緒を直視しないようにしなければならなかった。

 ――なんで、美佐緒さんが俺の代打ちになんかなっちまったんだ……。

 こうなったのも、すべてはあのピンクの革ジャン男、常に頭に虫が湧いている雀ゴロのせいである。

 冬枝は、「よっ、美佐緒ママ!抱いてー!」などと手を叩いている嵐を横目で睨んだ。

「てめえ、ピーピーうるせえんだよ。今夜は大事な勝負なんだ、いい加減出てけ」

「あら、いいじゃない、嵐ちゃんがいたって」

「美佐緒さん」

 美佐緒は睫毛の上がった美しい目を細めて、にっこりと笑った。

「今夜はお天気がいまいちでお店もヒマだし、勝負に誘ってもらえて本当に良かったわ。ありがとね、嵐ちゃん」

「俺も愛してるよ、美佐緒ママ❤」

「愛してるとは言ってなーい」

 美佐緒は、無遠慮に唇を突き出す嵐を笑顔で押しのけた。



 その数時間前、雀荘『こまち』で今夜の勝負の打ち合わせをしていた冬枝の元に、嵐がふらりと現れた。

「ダンディ冬枝、今夜は賭場でしょ?」

「よく知ってるな。どこで嗅ぎつけた」

 というセリフも、もはや挨拶代わりでしかない。この元警官が神出鬼没、壁にも障子にも目と耳があるような男なのだということを、冬枝は嫌というほど知っていた。

「そんなもん、どこだっていいじゃないですか。それよりダンディ冬枝、さやかは入院中だし、俺を代打ちにしてくださいよ」

「やなこった」

 冬枝は、吐き捨てるように言った。さやかの心配は、見事に的中したわけだ。

 嵐が何故か、不思議なことに、神のイタズラとしか思えないのだが、麻雀の腕がめっぽう立つ。嵐の腕前は、冬枝も承知している。

 だが、この男の目的はヤクザの片棒を担ぐことなどではない。嵐はなんだかんだ言ってさやかに代打ちを辞めさせ、冬枝から引き離すのが狙いなのだ。そんな男に大事な勝負を任せることなどできない。

 すると、嵐は馴れ馴れしく冬枝の腕に腕を回してきた。

「ええーっ、俺とダンディ冬枝の仲じゃないっスかー。さやかより俺がイイって言って!」

「やめろ、放しやがれ。俺はヒゲ面の男とくっつく趣味はねえ!」

 これでは、本当に『嵐と浮気』が実現してしまう。嵐にじょりじょりと頬擦りされ、冬枝はおぞけをふるった。

 ――小さくても硬くてもいい、俺はさやかがいい!

 思わず冬枝の手がピンポン玉を握るような形になったところで、嵐が「じゃあ、巨乳の美女ならどうっスか?」と言った。

「あ?」

「麻雀小町がダメなら、麻雀マリアの出番っス。麻雀の腕もおっぱいの大きさも、さやかとは桁違いですよ」

 そう言って、嵐は本当に『麻雀マリア』――嫣然と微笑む美佐緒を連れて来たのだった。

 冬枝は決して、美佐緒の色気に目が眩んだわけではない。白虎組若頭補佐・霜田の元妻であり、冬枝も昔は世話になった相手だから、断り切れなかっただけだ。決して、紫色のドレスの胸元から覗く谷間に、理性を落っことしたなんてことはないのだ。

 ――今夜のことは、さやかには内緒にしねえとな。

 これでは、嵐を代打ちにするよりもばつが悪い。しかも美佐緒は今のところ圧勝で、非の打ちどころがないときている。

 東場が終わったところで、タバコを吸おうとした冬枝の手元に、美佐緒がスッとライターを構えた。

「はい、どうぞ」

「あ、すみません」

「うふふっ。ねーえ、冬さん…」

 美佐緒が、甘い声を出して冬枝の肩にしなだれかかった。

 冬枝はぎょっとしたが、美佐緒の猫のような大きな瞳と目が合った瞬間、ばちんと静電気でも走った気がして、動けなくなった。

 美佐緒は、冬枝の胸元をくるくると人差し指でなぞった。

「今夜の勝負、勝ったら何かご褒美くれない?」

「ご褒美って……金なら、勿論渡しますよ」

「やだ、お金なんかいらないわよ。そ・れ・よ・り…」

 美佐緒の艶やかな唇が、冬枝のすぐ近くに迫る。じっと見てしまったが最後、吸い込まれてしまいそうで、冬枝は目を逸らした。

 美佐緒はその唇を、冬枝の耳元に寄せた。

「『パオラ』に来て、いっぱい飲んでちょうだいね❤あっ、麻雀小町ちゃんも一緒にね」

「……はい。ぜひ」

 うふふっという笑い声すら、冬枝の耳をくすぐる。冬枝は、思わず手のひらを開閉させた。

 ――さやかがピンポン玉なら、こっちはさしずめサッカーボール、いやバスケットボールぐらいはあるか……。

 腕に当たった柔らかさと重みの感触を反芻していた冬枝は、カシャカシャという耳障りな音で我に返った。

「…あ?嵐、てめえ何してんだ」

「撮影ですよ。ダンディ冬枝が、今夜は勝負だからーと嘘ついて、実は美佐緒ママといちゃついてました、ってさやかに見せるための証拠写真です」

「んだと、このデバガメ野郎!」

 デバガメという表現も違う気がしたが、とにかく冬枝は椅子を蹴り、嵐の手からコンパクトカメラを奪い取ろうとした。

 嵐はカメラを構えたポーズのまま、憎たらしいほど軽快なステップで後ずさる。

「ダンディ冬枝、そんなに慌てるなんて、さやかに見られちゃまずいって自覚があるんだ?」

「うるせえ!てめえがはんかくせことしてるのが気に入らねえだけだ!」

 雀卓そっちのけでバタバタと追いかけっこを始めた冬枝と嵐に、勝負相手の男2人が顔を見合わせた。

「もー、嵐ちゃんも冬さんも、喧嘩しないでちょうだい。こちらのお二人が困ってるじゃない」

 美佐緒は卓から立つと、気まずそうにしている相手2人にビールを注いだ。

「ごめんなさいね、うちの人たちがうるさくって。もう、野良犬みたい」

「ああ、いえ…」

「野良犬といえば…今日の勝負って、猫ちゃんが原因なんだったかしら」

 美佐緒が水を向けると、対戦相手の男はおずおずと「ええ、まあ」と答えた。

 ある日、男の家に一匹の野良猫が迷い込んだ。男がエサをやると、次の日も、また次の日も猫が来るようになった。

 可愛らしい猫だったし、男によく懐いたため、男は猫を自分の家で飼うことにした。そこで、男は猫を病院に連れて行き、去勢手術を受けさせた。

 ところが、野良だと思っていた猫には飼い主がいた――しかも、飼い主は白虎組傘下のヤクザだった。

 双方、散々に揉めた挙句、麻雀で対決することになった。ヤクザ側が用意した打ち手が、白虎組の冬枝と美佐緒だったわけである。

「そういう事情だったのね。じゃあ、争う必要なんかないじゃない」

「えっ?」

 美佐緒はビール瓶を脇に置き、勝負をずっと黙って見守っていたもう1人の男――去勢されてしまった猫の飼い主に、そっと近寄った。

「もう、今度のことは水に流しましょ。タダで去勢手術ができたと思えば、安いものじゃない」

「そういう問題じゃねえっすよ。俺のフトマキが、勝手に女にされちまったんですよ。気が強かったあいつが、手術のせいでこんなに大人しくなっちまって…」

 フトマキという名の猫は、男の膝の上で退屈そうに寝転んでいる。

 美佐緒は「まあ、可愛い」と言ってフトマキを抱き上げた。

「あたしも昔、猫を飼ってたんだけど、男の子ってお年頃になるとあっちこっちにオシッコして大変なのよ」

「えっ、そうなんですか?」

「そうよ。飼い主も大変だけど、お年頃になってイライラする猫のほうも可哀想だわ。家じゅうメチャクチャにしたり、他の猫とケンカして、大怪我したりするのよ。それこそ、あの人たちみたいにね」

 美佐緒は、取っ組み合いをしている冬枝と嵐を目線で示した。床の上で転がり合い、互いの服をホコリまみれにしている中年2人の姿は、醜いことこの上ない。

 美佐緒はフトマキを飼い主の腕に戻すと、飼い主の強面の顔に頬を寄せた。

「それに、相手は一応、堅気だっていうじゃない。そんな人たちから慰謝料むしり取ったって、たいした額にならないわよ」

「そうは言っても、俺の気が収まらねえっていうか…」

「バカね。あそこにいる冬枝さんは、男前だけど結構がめついのよ。賭場料だバクチ代だって言って、ぼったくってくるわよ」

「ええっ?もう50万払わされたのに、まだむしられるんスか?」

 本当にぼったくってたんかい、という内心のツッコミはさておき、美佐緒は「そうよぉ」としたり顔で頷いた。

「あたしが間に入ってあげるから、気が変わったって言って今日の勝負はナシにしちゃいなさい」

「えっ、でも…」

「迷子になってたフトマキが元気に帰ってきただけで、御の字でしょ?相手のお兄さんたちもあなたに脅されて肝が冷えただろうし、これ以上、麻雀なんかしてたって時間のムダじゃないかしら」

 いつの間にか美佐緒は男の膝に乗っかり、男の首に腕を回していた。

「それより、一緒にお酒でも飲まない?あなたが来るなら、うちのお店開けてもいいわよ。美佐緒、2人っきりで飲みたいわ


 美佐緒の胸が男に当たり、芳しい香りに身も心も包まれる。蕩ける理性そのままに、男の鼻の下が緩みきった。

 美佐緒がとどめとばかりに男の頬にキスをしたところで、『大七星』の扉がバンと開かれた。

 続いて、その場にいる全員の耳をつんざくような金切り声が響いた。

「冬枝ーッ!これは一体、何の騒ぎですかーッ!」

「げっ。霜田さん…」

 嵐の胸倉を掴んでいた冬枝の手から、ずるりと力が抜けた。

 グレーのスーツの肩を怒らせ、オールバックにした頭から湯気を出さんばかりに怒り心頭の白虎組若頭補佐・霜田のご登場だった。

 その背後でアルマーニ姿の悪人面がニヤニヤしているのを見て、冬枝はハッとした。

「朽木!てめえ、霜田さんにチクったな!」

「さぁーて、何のことやら」

 朽木は口角を吊り上げて、わざとらしく肩をすくめた。冬枝に嫌がらせをすることにかけては、この男の右に出る者はいない。

 朽木に食ってかかろうとした冬枝の前に、霜田の小柄な体がずんずんと迫った。

「ふ~ゆ~え~だ~」

「…霜田さん、こんちは」

 冬枝の間の抜けた挨拶を、霜田の怒声が遮った。

「今は『こんばんは』の時間です!お前は一体、何をやっているのですか!」

「見ての通り、麻雀です。今夜は100万賭けてます


 冬枝が雀卓を示すと、卓に残された堅気2人が気まずそうに肩をすぼめた。

 霜田が鼻から息を抜いた。

「ほーう。お前はいつから、人の女房を代打ちに使うようになったんですか」

「あー、いや、その、これにはわけが…」

「そうよ、パパ!ダンディ冬枝は決して、ピンポン玉おっぱいのさやかが入院中だからって、美佐緒ママのバレーボールおっぱいをモミモミしようなんて考えたわけじゃないのよーッ!」

 嵐の芝居がかった裏声に、冬枝と霜田が同時に振り返った。

「嵐、てめえなんでそれを…」

「冬枝…」

 霜田はずいっと背伸びして、冬枝に顔面を迫らせた。

「こんの色情狂の恥知らずの若作りのチビの出っ歯のうらなりの…」

「霜田さん、後半ほとんど口から出まかせじゃないですか」

「うるさいッ!カエルの子はカエル、源の弟分だったお前も源と同様、とんだ破廉恥漢です!もう許さな……」

「ちょっと、うるさいわよパパ」

 冬枝と霜田の間に、美佐緒がピョンと割って入った。

「今夜の勝負はナシよ、ナシ。本人たちにやる気がなくなったんだから」

「ええっ?」

 美佐緒は、呆然とする冬枝に冷たく命じた。

「冬さん、もらったお金は返してあげなさいね。50万はぼりすぎよ」

「ちょ、ちょっと、美佐緒さん…」

「悪だくみはするもんじゃねーなぁ、冬枝」

「てめーにだけは言われたくねえよ、朽木!」

 後ろから肩を叩いてきた朽木を振り払おうとした冬枝の腕は、あっさり避けられて空を切った。

 霜田は、代紋バッジの光るスーツの襟を直した。

「とにかく、今夜の落とし前はいずれ必ずつけさせます!覚えておきなさい、冬枝!」

「はあ」

 朽木のせいで、また霜田の恨みを買ってしまった。ツイてねえ、と冬枝は肩を落とした。

 美佐緒は顔をしかめて首を左右に振った。

「もー、パパったらガミガミうるさいわよ。アタマ痛くなってきちゃうわ」

「美佐緒!お前もこんな時間にそんな薄着で出歩くんじゃありません!また風邪を引いたらどうするんです!」

 霜田がスーツのジャケットを脱いで羽織らせると、不機嫌そうだった美佐緒がニッコリ笑った。

「あら。ありがと、パパ❤」

「ふん。ほらほら、今夜の賭場はこれでお開きです!お前たちはさっさと帰りなさい!今夜のことは他言無用ですよ!」

 霜田がパンパンと手を叩き、フトマキの飼い主も堅気の男たちも、呆気に取られながらも三々五々帰り支度を始めた。

 結局、美佐緒の指示で金は返したため、今夜の冬枝のもうけはゼロ、どころかマイナスである。『大七星』の店主に、あらかじめ店を借りる代金を支払っていたからだ。

 結局、すべては嵐の作戦だったのか。コンパクトカメラも奪い損ねたが、冬枝は取り戻す気になれなかった。

 ――なんかもう、アホらしくって付き合いきれねえ。

『大七星』を出る頃には、冬枝は何もかもどうでもよくなっていた。秋の夜空には星もなく、ただ冷たい風が身に染みるだけだ。

 ――やっぱり、さやかがいないと話にならねえな。

 背広のポケットに突っ込んだ手が、やけに寂しい。さやかの手でもつかめりゃいいのにな、と冬枝は思った。



 ――ゆうべの麻雀、どうなったかな。

 冬枝は勝てただろうか。きっかけは迷い猫を巡るトラブルとはいえ、当事者同士はやれ訴訟だの、やれ慰謝料だのと相当揉めた挙句、冬枝に解決を求めたのだ。上手く事を運ばなければ、冬枝の沽券にかかわる。

 ――やっぱり、僕が自分で打ちたかった。

 どんな些細なトラブルでも、たとえ身内同士の遊びの麻雀であろうと、さやかがこの手で打ち、この目で勝負を見極めたかった。さやかは改めて、体調管理の重要さを肝に銘じた。

 ――今後は、身体も心も強い代打ちになります。冬枝さん!

「よかったわね、今日で退院できて」

 母に顔を覗き込まれ、さやかはハッと我に返った。

 ここはまだ病室――入院中の最後の食事となる、朝食中だった。

 あまり美味しくないご飯に箸をつけながら、さやかは母に謝った。

「ごめんね、母さんにも心配かけちゃって」

「いいのよ。それよりお母さん、もうちょっとこっちにいようかしら。さやちゃんはまだ病み上がりなんだし、一緒にいてあげたいわ」

「えっ…いいよ、そこまでしなくて」

 すると、母――しづかが、クスっと笑みを浮かべた。

「そうね。お母さんがいたら、さやちゃん、彼氏さんと2人っきりになれないものね…うふふっ❤」

「か、母さん!?」

「さやちゃんの彼氏さんって、けっこう年上さんなのね。さやちゃんったら、お母さんに似て年上好きになっちゃったのかしら…❤」

 さやかは、しづかが自分の部屋を訪れたことを思い出し、赤面した。中森山動物園で冬枝と撮った写真を、部屋に飾ったままだったのだ。

「でも、お母さん安心したわ。さやちゃんのベッドにまでぴったりくっついてくれるなんて、とっても優しい人なのね❤」

「か、母さん、気づいてたんだ…」

 いや、あの状況では気付かないほうがおかしいだろう。さやかは昨日の自分たちの茶番っぷりを思い出し、また恥ずかしくなった。

「ミナさんも、とっても親切な方で良かったわ。昨日はお母さんのこと、車でホテルまで送ってくださったのよ。あんなにカッコいい男の人がいたら、さやちゃん、目移りしちゃうんじゃない?」

「母さん、ミナさんが男だって分かってたの?」

「?ええ」

 当然のように頷く母を、さやかはちょっと見直した。

 ――母さん、頼りなく見えても結構しっかりしてるんだなぁ…。

 しづかは「でも」と頬に手を添えた。

「女装した男の人を奥さんにしてるなんて、冬枝さんのご家庭って色々と複雑なのね。あまり詮索しちゃダメよ、さやちゃん」

「………う、うん」

 決して頭が悪いわけではないのだが、母はこのように、どこか抜けている。苦笑しつつも、いつも通りの母がちょっと嬉しいさやかだった。



 夏目しづかは娘同様、小柄な体と大きな瞳が愛らしく、すこぶる魅力的な女だった。源としても、駅のホームまで送ってやりたかったのだが、生憎それは叶わなかった。

 ――ま、今日は母娘水入らずのほうがいいだろ。

 しづかとまた会えることを願いつつ、源がこれから会いに行くのは別の女である。

 小雨がぱらつき始めた道路を走り抜け、青のスカイラインは駅前のデパートビルに辿り着いた。

 先日も、源は鈴子と嵐の夫婦喧嘩そっちのけで、女に逢いに行った。

 あの時は鈴子を手に入れる絶好のチャンスだったが、二兎追う者は一兎をも得ず、ということわざにならったのだ。尤も、源はこのことわざが好きではないが。

 ――どうやら、あまり時間がなさそうだからな。

 秋津ミノル、そしてさやかが衝撃的な告白に至ったのは、まさに「決着の時」が近いことを示している。源も、ぐずぐずしてはいられない。

 ――彩北にいる間に、どうしても救いたい女がいる。

 喫茶店『ペア』でコーヒーを飲んでいる間も、源はカップの水面に映る影に、その女を想わずにはいられなかった。

 コーヒーの温もりが消える頃、約束の時間より5分早く、女は姿を現した。

「よう。今朝は冷えるな、響子」

「………」

 2度目のデートにも関わらず、響子の表情が硬いのは――きっと雨のせいだと、源は前向きに考えた。



 母の常として、汽車の出発時間ギリギリまでさやかとの別れを惜しんだ。

「さやちゃん、やっぱりお母さん、もうちょっとさやちゃんと一緒にいる」

「お家のことならお父さんとたっくんがいるから大丈夫だもの。さやちゃんを一人にしておけないわ」

「さやちゃんがまた倒れちゃったらどうしましょう。そんなことになったら、私…」

 などなどなどと、目に涙を浮かべてゴネる母をなだめすかし、さやかは母を新幹線に押し込んだ。

「…もう。母さん、ホントに心配性なんだから…」

 と言いつつ、母を乗せた新幹線が去った後のホームが寂しく感じられるのも事実だった。じわりと瞳を濡らす涙を、さやかはそっと手の甲でぬぐった。

 ――ダメだなぁ。母さんといると、僕までただの子供に戻っちゃう。

 もう身体には問題ないし、今日からまた、『代打ち・夏目さやか』として生きるのだ。背筋を伸ばしてホームに背を向けたさやかは、改札口の向こうに毒々しい色のシャツ姿を見つけて、目を見開いた。

「…冬枝さん!?」

「よう」

 冬枝は片手を上げて「お袋さんは帰ったか」と聞いた。

「はい。冬枝さんにくれぐれもよろしく、と」

「おう」

 母の中では「さやちゃんの年上の彼氏」と「女装した男を奥さんにしている大家・冬枝」の2人が存在しているのだが、それは言わないでおいた。

「さやか。具合はどうだ」

「もうへっちゃらです。冬枝さんの言う通り、ちゃんと休んで良かったです」

「そうか」

 頷くと、冬枝は「じゃ、これからちょっと出掛けねえか」と言った。

 さやかは、「えっ」と驚いて冬枝の横顔を見上げた。

「それって…デートのお誘い、と思っていいんですか?」

「おう。そんな遠くまでは行かねえけどな。病み上がりなんだから」

 さやかの足のつま先から、胸いっぱいに喜びがこみ上げる。さやかは我慢しきれずに、ぴょこんと冬枝の腕に抱き付いた。

「おい、くっつくなよ。恥ずかしいだろ」

「えへへ。冬枝さんの腕、あったかーい」

 照れ臭そうにしながらも、冬枝はさやかを振りほどかない。そのまま駅を通り抜けると、出入り口の向こうは雨が降っていた。

「さいっ。やっぱ降ってきたか」

「雨天中止、なんて運動会みたいなこと言わないでくださいね」

 腕をぐいぐい引くさやかに、冬枝は「わーってるよ」と言って、黒の蝙蝠傘を開いた。

「さやか、お前も傘持ってるだろ、差せよ。濡れるぞ」

「僕、このままでいいです」

 1日離れていただけなのに、冬枝の傍にいられるのが嬉しくて仕方ない。雨のおかげでぴったり冬枝にくっついていられるから、さやかは上機嫌だった。

 ――雨が降ってて、ちょっとラッキーだったかも。

 通勤バスが出発した後のバスロータリーは、辺りを行き交う傘の影もまばらだ。冬枝は、おもむろに傘を持ち直した。

「こりゃ、ボートは無理だな」

「大丈夫ですよ。午後にはやむって天気予報で言ってましたから、じきにあがります」

 と言ったさやかの瞳は、次の瞬間、冬枝の灰色の眼差しに飲み込まれた。

 大きな蝙蝠傘の中で、2人の影が一つになった。

「俺は、もうちょっと降っててくれてもいいけどな」

「…はい」

 恥ずかしくて、冬枝の顔をまともに見られない。冬枝の肩に顔を埋めると、温もりと一緒に、嗅ぎ慣れたタバコの匂いがさやかの胸に届いた。

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