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39話 さやかと危険なホスピタル

第39話 さやかと危険なホスピタル


 最近、さやかに元気がない。

「そうっスか?別に普通に見えますけど」

 弟分の土井が、呑気にタバコをくわえながら「おっ、これいいかも」と言って、売り場に並んでいたクリーム色のシャツを手に取った。

 試着室のカーテンから、ごそごそやる音と共に冬枝の声が返ってくる。

「んなこたねえよ。いつもよりブルボンの減る量が少ねえし、夜食用に買っといたカップ焼きそばだって、まだ3つも残ってる。もう水曜日だってのに」

「さやかさん、いつもそんなにおやつ食ってるんスか」

 土井が呆れ気味に言うと、傍で直立していた高根にぴしゃりと後頭部を叩かれた。

「晩酌の時だって、いつもは一人でアーモンド半分は平らげるくせに、近頃じゃ勧めてもあんまり食わねえんだ」

「遠慮してるんじゃないですか?ダイエットしてるとか」

 高根の常識的な予想に、冬枝がパッと試着室のカーテンを開けた。

「なら、いいんだけどよ。夏バテでもしてなきゃいいんだが」

「もう秋っスよ、兄貴」

「兄貴、それ似合ってますね」

 高根の褒め言葉に、冬枝は満更でもなさそうに柄シャツの襟元を広げた。

「まあな。たまにはいいだろ?」

 冬枝は、駅前のデパートに私服を買いに来ていた。休日用の服を新調するなんて、何年ぶりだろうか。

 ――四十過ぎてから、自分が着るものなんざどうでもよくなってたな。

 そんな冬枝が、今日はついでに弟分たちの服も買ってやろうかと考えている。服選びが面倒臭くない、どころか結構楽しいのは、さやかの若さが伝染ったのかもしれない。

 ――さやかから、オッサンだと思われたくねえからな。

 冬枝がデートに誘ったら、さやかはどれだけ喜ぶだろう。いつもはちょっと澄ましているさやかが、冬枝とのデートの時だけは顔じゅうでニコニコ笑うことを、冬枝は中森山動物園でのデートで知った。

 さやかの笑顔を想像するだけで、冬枝の顔も自然と緩む。以前だったら若作りだと敬遠した派手な柄シャツでさえ、さやかと並ぶんだったらこのぐらい派手じゃねえと、と躊躇なく買ってしまう。

「このまま着て行くから、金払っといてくれ」

「分かりました、兄貴」

 ――これで、ちったぁさやかが元気出してくれりゃいいな。

 先日、さやかの旧友だった三船が、青龍会の手先としてさやかに襲い掛かった。表向きは気丈に振る舞っているが、三船に友情以上の想いを抱いていたさやかにとって、辛い出来事だっただろう。

 そこで冬枝は、さやかの19歳の誕生日祝いも兼ねて、さやかをデートに連れ出すことにした。誘うのはこれからだが、デート場所の選定やら服選びやら、今から下準備を進めている。

 ――そうだ。さやかにも、服を買ってやろうかな。

 誕生日プレゼントには既に口紅を贈ってあるが、女にはいくらプレゼントをしても足りることはない。さやかには以前も何度か服を買ってやったことがあるが、やはり若い女が着飾るのは、見ているほうも気分がいい。

 アクセサリーでもいいかもしれない、と冬枝がデパートの宝飾品売り場を頭に思い浮かべたところで、『こまち』のマスター・中尾がばたばたと飛んできた。

「オーナー。大変です」

「どうした、中尾。こんなとこまで来て」

 中尾が青ざめた顔で告げたのは、衝撃的な報せだった。

「夏目さんが対局中に倒れて、救急車で病院に運ばれました」

「なんだって!?さやかが…!?」

「兄貴ー、このベルトも買っていいっスか?」

 レジにいた土井が能天気に言ってきたので、冬枝は怒鳴り返した。

「んなもん後にしろ!高根、車出せ!」

「は、はい!」

 高根は慌てて店員から釣銭を受け取ると、大きなバックルの目立つベルトを名残惜しそうに見ている土井の首根っこを引っ張り、冬枝の後に続いて紳士服売り場を後にした。



 冬枝がバタバタと足音も荒く病院に入ると、待ち構えていたように嵐が受付カウンターの柱にもたれかかっていた。

「待ってましたよ、ダンディ冬枝」

「嵐。お前もいたのか」

「俺と打ってる最中だったんですよ。さやかが腹が痛いって言って、そのまま倒れ込んじまったの」

「腹?」

 冬枝は、腕を組んで考え込んだ。

「今朝のベーコンエッグに使った卵が古かったか?いや、ベーコンのほうか…」

「兄貴って、さやかさんの健康度合いを食いもんで測ってるんスか?」

 遅れて駐車場からやって来た土井がのんびりと言い、高根にべしっと頭を叩かれた。

 嵐は柱から身を起こし、神妙な顔つきで告げた。

「さやかの病名は、ズバリ」

「ズバリ?」

「おめでたです」

 嵐が、冬枝の眼をじっと見つめた。

 シ――――ン……。

 一瞬、冬枝も高根も土井も、言葉を失って凍り付いた。

「バカなこと言ってんじゃないわよ、嵐」

 嵐の後ろから現れた鈴子が、ぐいっと嵐の頭を押し下げた。

「もー、うちの夫がすみません。さやちゃんじゃなくって、こいつの頭をお医者さんに診てもらったほうがいいわね」

「いや、それより……さやかは一体、なんで倒れたんだ?」

 嵐と鈴子に緊張感がないせいで、状況を忘れそうになる。冬枝は、くらくらしそうになる頭を押さえた。

「胃炎ですって」

「胃炎?」

「胃炎とは言えん。なんちって」

 嵐のダジャレは無視して、冬枝は「病室はどこだ」と尋ねた。



 病室の扉を開けると、ちょうどさやかがベッドに半身を起こしていた。

「さやか!」

「あ…、冬枝さん」

 冬枝は、ベッドに齧りつくようにしてさやかの顔を覗き込んだ。

「さやか。具合はどうだ」

「薬のおかげで、今は落ち着いてます。倒れた時にぶつけたおでこのほうが痛いぐらい」

「どれ。どの辺だ」

「もう、大丈夫ですって」

 さやかの顔を両手で包んで確認しようとする冬枝を、さやかは恥ずかしそうにかわした。

「僕は平気なんですけど…、先生からは、念のために今日は入院していくようにと言われました」

「入院?」

 言われて冬枝が目をやると、ベッドの傍らには水色の入院着と、入院に関する書類が置いてあった。

「それと、冬枝さん…」

 さやかは、ちらちらと気忙しそうに壁の時計を見上げた。

「実は今日、母がこっちに来るって言ってまして…」

「ハハ?」

 さやかの入院という非常事態に続けて言われたものだから、冬枝には「ハハ」も何らかの異常現象のように聞こえた。

 さやかは、困ったようにもじもじと指先を組み合わせた。

「僕の誕生日だから、直接プレゼントを届けたいって言うんですよ。ついでに、僕の下宿先にもご挨拶がしたい、なんて…僕はいいって言ったんですけど、母さん、聞かなくって」

「マジかよ。お袋さん、いつ来るんだ」

「お昼にはこっちに着く、と倒れる前に電話がありました」

「昼!?」

 冬枝は、バッと時計を振り仰いだ。正午まで、あと30分もない。

「隠すわけにもいかないので、入院することはさっき、公衆電話で伝えました。案の定、母はものすごくうろたえちゃって…」

「そりゃそうだろ」

「母さんは、とびっきりの心配性なんです。あれじゃ、無事に病院まで来られるかどうか」

「そんなにか」

 さやかは小さく溜息を吐いた。

「本当は、僕が駅まで迎えに行ってあげられればいいんですけど…お医者さんからは安静にしてろって言われてるので、動けないし」

「ああ、お前は大人しく寝てろ。お袋さんのことは、俺が迎えに行ってやる」

「ダメです!」

 さやかに強い語調で言われ、冬枝は鼻白んだ。

「なんでだよ。俺のとこに居候してるって、お袋さんには言ってあるんだろ」

「冬枝さんの名前と住所は、確かに母にも伝えてあります。ですが、母の中で冬枝さんは、還暦超えのおじいちゃんです。子供たちは独立して、奥さんにも先立たれて今は一人暮らし、という設定の」

「お前、そんな大ボラをお袋さんに吹き込んでたのかよ」

 冬枝は、いつの間にか自分が20歳近く年を取ったうえ、いもしない家族を捏造されていたことに呆れた。

「しょうがないでしょう。独身のおじさんと2人っきりで暮らしてる、なんて言ったら、東京に連れ戻されちゃいます」

「まあ、それはそうだが」

 さやかは、ビシッと人差し指を冬枝の鼻先に突き付けた。

「だから、冬枝さんは絶対に母の前に姿を見せないでください。冬枝さんの正体が母にバレたら、僕は代打ちを辞めなきゃいけなくなります」

「う~ん…。分かったよ」

 冬枝が渋々、といった表情で頬杖をついたので、さやかは肩をすぼめた。

「…すみません。ご迷惑をおかけした上に、こんな注文までつけちゃって…」

「あ、いや、そりゃ別にいいんだが…俺は」

 冬枝は、じっとさやかの顔を見つめた。

「…俺は、お前の体のほうが心配なんだよ。今日といわず、ひと月ぐらい入院したほうがいいんじゃねえのか」

 さやかが近頃、元気がなかったのは、体調が悪かったせいだったのだ。冬枝には、シーツにすっぽり包まれたさやかの身体が、いつもより小さく見えた。

「冬枝さん…」

 さやかがぽっと頬を染めたところで、2人の間に嵐が割って入った。

「そうですよねえ。さやかを1カ月ぐらい病院に押し込んどけば、ダンディ冬枝は好きなおねーちゃんを部屋に連れ込み放題!ってわけだ」

「そうそう……って、違ぇよ、バカ!」

 冬枝のツッコミなどどこ吹く風とばかりに、嵐はジト目になったさやかに肩を寄せた。

「さやか、お袋さんのことなら、ワイルド嵐クンに任せとけ。元警察官が傍にいるってわかれば、心配性のママだってひと安心!」

「しません。こんなピンクの革ジャンなんか着たヒゲ面の怪しい30代が娘の傍にいるって知ったら、母さん、目を回しちゃいます」

 さやかから露骨に蔑むような目を向けられ、嵐が唇を尖らせた。

「えーっ。じゃあ、どうするんだよ」

「当てはあります。さっき、鈴子さんにお願いしておきました」

「なんだよ。鈴子に迎えに行かせるのか」

 嵐の問いに、さやかは「いえ」と窓の外に目をやった。



「さやちゃん、大丈夫かしら…」

 夏目しづかは、駅前のバスターミナルで一人呟いた。

 秋が訪れた彩北は、東京よりも冷たい風が吹く。さやちゃんは寒くないかしら、さやちゃんはいつも我慢しちゃうから…と、しづかの胸に心配が次から次へと押し寄せる。

 ――早く、さやちゃんのところに行ってあげなくちゃ!

 しかし、普段は夫や子供たちと一緒に来る異郷の地は、一人では右も左も分からない。まして、さやかのことで頭がいっぱいな今のしづかには、駅前ですら迷宮のように見えた。

 ――確か、さやちゃんが迎えの人をお願いしてくれた、って言っていたけれど……。

 そこに、ひときわ目を引く青のスカイラインが颯爽と乗り付けた。

「お待たせしました。夏目しづかさん……ですか」

「は、はい」

 スカイラインから降りてきたのは、しづかより遥かに長身の――チャイナドレスに身を包んだ、目の覚めるような美女だった。

 ――まぁ……。

 しづかが思わず、瞳いっぱいに美女の姿を映して見上げていると、美女がフッと微笑んだ。

「母娘ですね。さやかにも、同じリアクションをされた」

「あっ、あっ、すみません。私ったら」

 美女から蒼い湖のような眼差しで見つめられただけで、しづかはドキドキしてしまった。気を取り直して、しづかはぺこっと小柄な身体を折りたたんだ。

「いつも娘がお世話になっております。夏目さやかの母です。えーっと…」

 美女の名前は電話でさやかから聞いたはずだが、娘の入院に動転していたしづかの記憶には残っていなかった。

 それを察したのか、美女が先に名乗ってくれた。

「ミナです」

「あ、ミナ、さん…。ええと、娘とはどういう…?」

「さやかとは、前世からの縁だと思っています」

 しづかがきょとんとしたので、ミナは咳払いを挟んだ。

「冬枝の…」

「あっ、さやちゃんがお世話になってる大家さんですね。じゃあ、ミナさんは…」

 答えを促すようなしづかの目に、ミナの眉根が歪んだ。

「冬枝の……マッ……ンマッ…」

「ま?」

 ミナはしづかから顔を背け、絞り出すような声で言った。

「……妻です」

「まあ、奥さんですか!でも、冬枝さんにはご家族がいたんじゃ…」

「……後妻です」

 全てはさやかのため、さやかのためだと言い聞かせ、源は震える拳を抑えた。

「あっ、ごめんなさい、私ったら、立ち入ったことを聞いてしまって…。ミナさん、今日はよろしくお願いします」

「…はい。さあ、行きましょう」

 ミナが手を差しのべると、しづかは戸惑いながらも、あまりにも揺るぎないミナの姿勢に気圧されて、おずおずと手を重ねた。



 正午が近くなっても、未だに冬枝はさやかの病室でいちびっていた。

 我が物顔で『入院のしおり』をめくっている冬枝に、さやかはベッドの上で声をあげた。

「もう。冬枝さん、いつまでここにいるつもりですか」

「だって、しょうがねえだろ。また青龍会やら秋津一家やらが襲って来ねえとも限らねえし、やっぱり俺が一緒にいたほうがいいんじゃねえか」

「母さんにはなんて説明するつもりですか」

 冬枝はちょっと天井を見上げ、「近所のおじさん」と答えた。

 さやかががっくりと肩を落とした。

「適当。何も考えてませんね、冬枝さん」

「んだよ。俺はな、お前のこと心配して言ってんだぞ」

「気持ちは嬉しいですけど…」

 お世辞でなく、冬枝が心配して傍にいてくれるのは嬉しい。だから、さやかも出て行ってと強くは言えずにいたが、もうすぐ時間だ。

「…そろそろ、12時ですね。冬枝さんも、お昼食べに行ったらどうですか」

「いいよ、飯なんか。俺はここにいる」

「冬枝さん。他の患者さんもいるんですから、いったん帰ってください」

 さやかがいるここは、集団病室だ。さやかの他にも数名の患者が、カーテンで仕切られたベッドでめいめいに過ごしている。じき、看護婦がそれぞれに昼食を運んで来るだろう。

 冬枝は、ポンとさやかの頭に手を置いた。

「わーったよ。昼が終わったら、また来る」

「いいですよ。僕は大丈夫ですから」

「俺が落ち着かねえっつの。何か不便なことあったら、すぐ言えよ。俺が医者に掛け合ってやる」

 照れ隠しなのか、冬枝はさやかのほうを見ずにそう言った。さやかの頬に、温かくてむずむずするような笑みがこみ上げる。

「先生を脅さないでくださいね。通報されちゃいますよ」

「ん」

 名残惜しむように、冬枝がポンポン、とさやかの頭を撫でた、その時だった。

「さやちゃん、大丈夫!?」

「か、母さん!?」

 冬枝さん、隠れて――と言う暇もなかった。

 さやかの母、夏目しづかは病室の扉からぱたぱたと駆け出すと、さやかの身体をむぎゅっと抱き締めた。

「可哀想に。きっと、一人暮らしで頑張りすぎちゃったせいね。さやちゃん、頑張り屋さんだから」

「か、母さん…。僕なら大丈夫だって」

 目に涙すら浮かべている母をよしよしと宥めながら、さやかは冬枝のことが気になった。

 さっきまで、すぐそこにいたはずだが――冬枝の姿は、一瞬のうちに影も形もなくなっていた。

 ――冬枝さん、一体どこに……?

「…って、ん?」

「どうしたの?さやちゃん」

「いや…」

 何やら、シーツに隠れた下半身がやけに温かい気がする。何なら、あらぬところに息遣いを感じて、さやかの顔に血が上った。

 ――冬枝さん、僕のベッドの中に隠れたのっ!?

 若い頃は武闘派で鳴らした冬枝らしく、目にも止まらぬ早業だ。身体を微動だにさせず、「さやかのベッドの中の謎のモッコリ」に徹している。

 ――いや、誤魔化しきれてないって!

 長身の冬枝が下半身にまとわりついているせいで、さやかの上に道路工事の看板でも置いたのかといわんばかりに、シーツが盛り上がってしまっている。

 細身のさやかがどんな体勢を取ろうと、ここまで下半身が肥大化することはない。さやかは、慌てて籠の中の『入院のしおり』や入院に関する書類を引っ張り出すと、ベッドの上を覆った。

「か、母さん。入院するにあたって、色々書類を書いてもらわないといけないんだ。ほら、身元保証人のところとか」

「あっ、そうね、分かったわ。ちゃんとね、ハンコも持ってきたのよ。お母さんはもう何も持たずにそのままお家を飛び出しそうになったんだけど、たっくんが止めてくれて」

 東京にいる兄の怜悧な横顔が頭に浮かんで、さやかは顔をしかめた。

「たっくんなら、僕が入院するって聞いても全然、驚かなかっただろうね。どうせ、不摂生だの、体調管理も出来ないのかだの、嫌味言ってたんでしょ」

「そんなことないわよ。さやちゃんが慣れない一人暮らしでご飯を食べすぎちゃったんじゃないか、って、たっくんもすごく心配してたんだから」

「わー、お兄ちゃんが心配してくれて嬉しーい」

 さやかが棒読みで吐き捨てたところで、母の後ろにいる源――女装した『ミナ』が顔を出した。

「さやか」

「みなもっ……ミナさん。すみません、今日は無理を言ってしまって」

「いいんだ。それより、顔色が悪いんじゃねぇか」

 長身を屈め、そっとさやかの額に手を当てる。ウィッグだろうが、艶やかな長い髪がサラサラと音を立て、うっとりするような影を落として源の美貌を彩った。

 ――やっぱり、源さんってものすごく綺麗だなあ。

 それでなくても美形なのに、化粧と女装が加わって、人間離れした雰囲気を醸し出している。出会ったばかりの頃、この美しさにどれだけ嫉妬したことか、とさやかは思い出した。

 源が、ふっと唇をほころばせた。

「…母娘だな」

「えっ?」

「いや、こっちの話だ。さやか…」

 源は、さやかの不自然に膨らんだ下半身にちらりと目を落としたが、何も言わなかった。

 しづかはようやくさやかから身を離すと、にこにこと源を見上げた。

「ここに来るまでにね、ミナさんから色んなお話をうかがったのよ。ミナさん、とーってもさやちゃんと仲が良いんですってね」

「えっ、うん…まあ」

「さやかとは女同士、何も包み隠さず暮らしている。そうだろ?」

 源と入れ替わった時のことを思い出し、さやかはちょっと赤面しながら「…まあ、そうですけど」と口ごもった。

 女装していようが、しづかに大噓をついていようが、源は堂々としている。

「入院の世話も、出来る限り見ます。さやかは、恋人みたいなものですから」

「まあ、恋人?」

「ちょっ、みなっ…ミナさん!」

 突っ込もうとしたさやかと同調したのか、さやかの下半身にくっついている冬枝も何か言いたげにもぞもぞ動いた。

「!うっ…」

 わざとではないだろうが、冬枝が動いた拍子にさやかの身体の変なところに当たった。何なら、冬枝のせいで全体的に温かい。じわじわと羞恥心がこみ上げ、さやかは我慢ならなくなった。

「バカ!」

 小声で言うと、さやかはポカッと冬枝の頭あたりを叩いた。冬枝が不満そうにピクッと動いたが、それきりまた動かなくなった。

 そんなことをしている間に、源はしづかの手を握っていた。

「さやかに、こんな綺麗なお袋さんがいたなんて知らなかった。駅にいるのを見たとき、てっきり姉妹かと思ったぐらいだ」

「よく言われます」

 と、答えたのはさやかである。しづかは若く、というか童顔な上に、さやかよりも背が低いため、さやかの姉どころか、妹に間違われることもしょっちゅうだ。

 源は真顔のまま、しづかに顔を迫らせた。

「今日は、どこに泊まるんだ?もし良ければ、うちに泊まって行っても」

「ミナさん!」

 さやかは源を母から引っぺがすと、しづかに向き直った。

「母さん、ごめん。喉乾いちゃったから、何か買って来てくれる?」

「分かったわ。さやちゃん、何飲みたい?」

「何でもいい」

 しづかがとことこと病室を出て行くと、さやかはふーっと息を吐いた。

 源が、にやりと笑って肩の上の黒髪を払った。

「妬かせたか?さやか」

「妬いてません。母は押しに弱いので、口説かないでくださいっ」

「そうですよ。女装してる時ぐらい、色ボケするのは控えたらどうですか。今のアンタ、まんま変態ですよ」

 ベッドの中にいる冬枝が、さやかの上に腹這いになったままでもごもご喋った。さやかが赤面した。

「冬枝さん。その体勢で喋らないでくださいっ!」

「あ、あぁ、悪い。今出る」

 と、冬枝がベッドから頭を出しかけたところで、ガラガラと扉が開いた。

「さやちゃん。ジュースとお茶、どっちがいい?」

「お茶!」

 さやかは慌てて冬枝をシーツごと抱きかかえ、母から見えないように隠した。

 エビのように丸まったさやかを見て、しづかが心配そうに眉を八の字に下げた。

「さやちゃん、お腹痛いの?大変、今お医者さんを呼んで来るわね」

「だ、大丈夫!それより母さん、自販機の場所分かる?」

「分からないけど、看護婦さんに聞いてみるわ。待っててね」

 扉が閉まると、シーツごとさやかに抱きかかえられた冬枝が「さやか」と声をかけた。

「てめえ、俺を殺す気か」

「あっ、す、すみません!苦しかったですか」

「ていうか、のぎいよ。まあ、悪ぃ気はしな……」

「さやちゃん、お菓子はいる?」

 再び扉が開いて、しづかが顔を出した。さやかは、シーツごと冬枝の上に圧し掛かるようにして隠した。

「さやちゃん?」

「あはっ、びょっ、病院のベッドっておっきくて気持ちがいいなあ!なーんて、ちょっとはしゃいでみたり……」

 流石に今度のごまかしは苦しかったのか、しづかは不思議そうに眼を瞬かせている。

 何ともいえない空気が漂う母と娘の間に、源がスッと割って入った。

「…しづか。入院について、しづかも医者から説明を聞いたほうがいいんじゃないか」

「あっ、そうですね。お支払いのこともあるし」

「いいよ、お金なら自分で払えるから」

 源がさりげなく母のことを呼び捨てにしているのは気になるが、さやかは突っ込まないことにした。

 しづかはずいっとさやかに顔を寄せた。

「さやちゃんはそんな心配しなくていいの。ちゃんとお父さんからお金はもらってきたから、今はゆっくり休んで。ね?」

「…分かった。ありがとう」

 さやかがたどたどしく言うと、しづかはくすっと笑った。

「『ありがとう』なんて。親なんだから当然じゃない」

 よしよしと頭を撫でられ、不意にさやかは緊張の糸が切れた。

 ――やばいな。ちょっと泣いちゃいそう…。

 心配性で、さやかより背も気も小さくて頼りないのに、やはり母は母だ。母が来て、母の匂いに包まれた途端、自分が異郷の地でいかに肩肘を張っていたのか、思い知らされた気がした。



 今度こそしづかが出て行くと、カーテンの仕切りの中にさやかと源だけが残された。

「良かったな、冬枝。さやかとたっぷり密着できて」

 冷やかすような源の声に、冬枝がガバッとシーツを払い除けた。

「好きでこうしてたわけじゃありませんよ!さやかのお袋さんが急に来たから、ここに隠れるしかなかったんです」

「どうだか。随分、居心地が良さそうだったじゃないか。次は、俺と代わってくれないか」

「やなこった。あんたの図体じゃ、ベッドからはみ出しちまいますよ」

「冬枝さん。今のうちに、外へ」

 さやかが言うと、冬枝は「ああ」と言ってベッドから降りた。

 そこで、冬枝の買ったばかりの柄シャツを見た源が、眉をひそめた。

「てめえ、なんだその格好」

「は?」

「南国の毒ガエルかと思ったぜ」

『南の国の珍しい鳥』と評されて約20年、源からのファッション評価は『南国の毒ガエル』へと進化、いや退化した。

 冬枝は、腹いせにバンと音を立てて扉を閉めてやった。

「大きなお世話です!」

 冬枝が去ると、源がベッド横の椅子に腰を下ろした。

「可愛い女だな、しづかは」

「まだ言いますか、源さん」

「しづかは、さやかのことを心の底から愛してる。いいお袋さんだな」

 源に優しく言われ、さやかはちょっと首の後ろがむず痒くなった。

「…過保護なんですよ、母さんは」

「さやかみたいな可愛い娘がいたら、俺だって過保護になるさ。しづかの旦那になって、可愛い嫁と可愛い娘に囲まれるってのもいいな」

「あいにく、うちの父はまだ健在ですので。あと、ひねくれ者の兄もいますから」

 源自身も女性と見紛うような美貌の持ち主の癖に、どうしてこうも見境がないのか。さやかは呆れを通り越して、何やら感心してしまった。

「源さんなら、うちの母を狙わなくたって、女の人に困らないでしょう」

「そうでもない。淑恵にはフラれっぱなしだ」

 さやかは先日、淑恵が夜『せせらぎ』で源と2人っきりでいたのを思い出した。

 あの時は、見てはいけないものを見たような気でいたが――2人の間にただならぬことが起こっていたにしては、さやかに対する淑恵の態度は至って普通だった、と今になってさやかは気付いた。

「淑恵の中で、『男』は今でも一人しかいねえ。俺はまあ、良くて兄貴ぐらいだな」

「……源さんは、今でも本気で淑恵さんのことを?」

「ああ。結婚しようが、子供が生まれようが、一度惚れた女の値打ちは下がるもんじゃねえ。困ったことにな」

 さやかは、源が決定的に失恋する前の――若き源と淑恵と榊原の三角関係に想いを巡らせた。

「…淑恵さんって、どうして源さんや榊原さんのような極道の人たちと関わりを持ったんですか?名家のお嬢様なのに」

「当時……もう20年前か。熊谷は、灘議員に近付こうとして、酒の席や女の世話をしていた。その護衛をしていたのが榊原だ」

「灘議員って…淑恵さんのお父さんですね」

「ああ。高校生だった淑恵は、父親が外に女を囲っていると気付いて、とっちめてやろうとしたらしい。灘議員の周りをうろうろしていたところを、榊原に捕まえられた」

 つまり、それが今でも聖天高校で語り継がれる、お嬢様と極道のラブロマンスの始まりだったというわけだ。父の不倫を調べていた少女と、議員の護衛をしていたヤクザは、互いに一目で恋に落ちた。

「淑恵は正義感の強い女で、極道相手だろうと怯むまいと気を張っていた。さやかと同じだな」

 意味ありげにさやかに流し目を送ってから、源はまた20年前の恋を回想した。

「一途な女だから、俺に靡かないのはハナから分かっていた。それでも、惹かれちまうんだな」

 さやかも、源と淑恵の出会いは聞いていた。源と出会った時、淑恵は既に榊原と恋に落ちていたのだ。

 もし、自分が源と同じ立場だったら――と考えて、さやかは切なくなった。

「自分のことを好きにならないって分かってるのに、恋してしまうものですか?」

「恋する女は太陽みたいなもんなんだ。頭のてっぺんから手足の先まで、光を放ってる」

 さやかもな、と言って、また源はさやかに視線を向けた。

 源のモーションはさておき、源と淑恵の間には本当に何もないのだろう。先日、あんな時間に2人っきりで『せせらぎ』にいたのは、恐らく平和な理由だ。

 安心する一方、さやかは、報われない想いを抱き続ける源に、少しだけ同情した。

「…片想いって、つらいですか」

「男なら、つらいとは言わないさ。いい女と巡り会えたってだけでツイてる」

 源は、本心からそう言っているようだった。その横顔の清々しさに、さやかは溜息を吐いた。

「…かっこいいなぁ、源さんは」

「さやかからそう言ってもらうために生きてる」

 茶目っ気を見せてから、源はふと真剣な目付きになった。

「だが…片想いの重さに耐えられねえ奴もいる」

 どこか遠くを見るような源の眼には誰か、特定の相手が見えているらしい。

「そういう奴は恋の不幸に溺れて、やがて、自分の影に飲み込まれる。そうなる前に、悪い恋から目が覚めりゃいいんだがな」

「…そうですね」

 源が誰のことを語っているのかは分からないが、さやかには他人事とは思えなかった。

 ――僕は、叶わない想いを抱えたままでも、源さんみたいに強くいられるかな?

 小さな不安がすーっと冷たく胸を吹き抜けるのを、さやかは気付かなかったことにした。

「…ちょっと、母さん探してきますね。母さん、方向音痴だから心配なんです」

 ベッドから起き上がろうとしたさやかを、源がそっと制した。

「さやかは寝てろ。しづかのことなら、俺に任せてくれ。少しばかり戻って来るのが遅いかもしれないが、心配はいらない。しづかと、今後のことをじっくり話しているだけだ」

「源さんはもう帰ってもらっても大丈夫です。お疲れ様でした」

 母への下心を隠そうともしない源を追い出し、さやかは一人、病室を出た。



 ――冬枝さん、今頃どうしてるかな。

 冬枝が帰ったのは分かっていても、もしかしたらまだ中にいるかも、と、廊下のそこかしこを見回してしまう。さやかの期待とは裏腹に、見渡す限り白衣ばかりの病院に、あの派手な柄シャツ姿はいない。つい冬枝を探す自分に、さやかは一人苦笑いした。

 ――やっぱり僕、ちょっと弱ってるのかな?

 まさか『こまち』での対局中に倒れてしまうなんて、自分でもショックだった。確かに最近、調子の悪さを感じてはいたが、入院が必要なほどとは思わなかった。

 皮肉屋の兄に嫌味を言われるまでもない。体調管理もできないなんて、代打ち失格だ。

 ――せめて、対局が終わるまでは耐えきってみせたかった。

 何せ、今日の対局の相手は嵐だけではなく、あの人が……。

「あっれー?こんなとこで何してんの、さやかちゃん」

「…組長!それに、榊原さんも」

 外来患者が行き交う1階で、白い背広姿の組長が、鷹揚に手を上げていた。後ろには、緑のスーツ姿の若頭・榊原も控えている。

 組長は指先でサングラスを押し下げ、さやかの入院着姿を上から下までしげしげと眺めた。

「さやかちゃん、冬枝に何されたの?」

「…違います」

 組長は、相変わらず冬枝に好感情を抱いていないようだ。或いは、さやかをからかいたいだけなのか。サングラスの奥の飄々とした笑みは、相変わらず真意を測らせない。

「ただの胃炎です。大したことありません」

「胃炎?」

 組長は「お揃いだね、俺たち」と言って、パンと手を叩いた。

「お揃い…?」

「嬢ちゃん」

 そこで、組長を遮るように、榊原がさやかを覗き込んだ。

「胃炎なんて、大変だな。一人で大丈夫か?」

「はい。1日入院すれば治るそうなので、問題ありません」

 若い女というだけで頼りないのに、胃炎ごときで入院しているなんて、代打ちをクビにされかねない。さやかは、努めて毅然として背筋を伸ばした。

「後で、見舞いを寄越すよ。しっかり休むんだぞ」

「お大事にね、さやかちゃん」

 長身の榊原に守られるようにして、組長はひらひらと手を振りながら去っていった。

「………」

 ――『お揃い』って、どういう意味だろう。

 てっきり2人共、誰かの見舞いかと思ったが、そうではないのだろうか。

 それに、さやかは組長の姿を久しぶりに見た。先月の還暦祝いパーティーでも、肝心の主役であるはずの組長は、ほんの少ししか会場に現れなかった。

 ――もしかして、組長の体に何か異変が…?

 青龍会や秋津一家との間で緊張が続いている今、組長の身に何かあったら一大事だ。榊原はあえて口止めしなかったが、今ここで組長と会ったことは誰にも言わないほうがいいだろう。

「…そろそろ、母さん戻ってきちゃうかな」

 一人呟いて、さやかは自販機のある売店へと足を向けた。



 その頃、病院のすぐ外にあるバス停では――2人の男が対峙していた。

「冬枝君に止められるならともかく、君に止められるのはどういうことでしょう」

 ボルドーレッドの中折れ帽の下で、銀髪が秋風になびく。昼下がりの陽光が、キラリとレンズに反射してミノルの眼差しを隠した。

 対するは、オールシーズン着ているピンクの革ジャンをピカピカと光らせている男、春野嵐である。

「今日のジェントル秋津はダークな匂いがプンプンするんでね。胃炎小町には近寄らせねえぜ」

「おや。さやかさんは胃炎でしたか。お気の毒に」

 ミノルのしんみりとした言い方も、今日はどこか空々しい。嵐は、じとーっと目を細めた。

「ホントにそう思ってる?」

「思っていますよ。だって、さやかさんは僕との対局中に倒れたんですよ?あんなに苦しそうな顔をして…」

 そこだよ、と嵐はびしっと人差し指をミノルに突き付けた。

「さやかが倒れたの、ジェントル秋津のせいじゃないんスか?」

「僕のせい?何故でしょうか」

 街路樹が揺れて、ミノルの面差しに蒼い影を落とす。そのせいか、嵐にはますますミノルの笑みが胡散臭く見えてしょうがなかった。

「『秋津の魔法使い』なら、いたいけな乙女の胃を脅かすぐらいできるんじゃねえの?」

「まさか。さやかさんは僕の大事な、可愛いガールフレンドです。そんなことはしませんよ」

 嵐には、ミノルがまるで真逆のことを言っているように聞こえる。嵐は、核心に迫った。

「あんたの存在は、さやかにとってプレッシャーになってるはずだ。何せ、あんたはあの秋津イサオの実の弟なんだからな」

 事実を突き付けても、目の前にいる銀髪の男――秋津ミノルは、一向に笑みを崩さない。

「3人いる弟のうちの一人にすぎませんよ。それも、一番下」

「俺、ずっと不思議だったんですけど、『秋津の魔法使い』はいつから髪の毛がそんなまっしろけになっちまったんですか?まだ50前じゃありませんでしたっけ」

 そこで、ミノルはふと瞳を翳らせた。

「仮に、僕のせいでさやかさんが体調を崩されたというのなら……さやかさんは、僕に何かやましいことがあるのでしょうか」

「ジェントル秋津。あんた、まさかさやかのことを……」

 疑ってるのか、と言おうとして、嵐はやめた。さやかが思っているよりずっと腹黒いであろう『秋津の魔法使い』を、これ以上、刺激する必要はない。

 2人の沈黙の間で、ざわざわと木の葉が鳴る。嵐は、じっとミノルを見つめた。

「…ジェントル秋津。いや、魔法使いさん?」

「何でしょう」

 嵐はそこで、両手を頭の上に上げて、人差し指でツノを立てた。

「ダンディ冬枝はおっかねぇぞ。気をつけな」

「……ご忠告、どうも」

 ぶらぶらと去って行くピンクの革ジャンの背中を、ミノルはいつまでも見つめていた。



 冬枝は、もぬけのからになったベッドを見下ろした。

「なんだ。さやかの奴、どっか行ってんのか」

 さやかの母がいないタイミングを見計らって病室に来たつもりが、母だけでなく娘も留守だった。どうやら、行き違いになったらしい。

 冬枝は、ふーと溜息を吐いた。

 ――やっぱり、なーんか落ち着かねえ。

 さやかの病状が軽いのは、さやかの様子を見ても分かった。そこまで心配するほどのことではないと、頭では分かってはいるのだが、冬枝はどうしてもさやかの顔が見たくなって、病院に戻ってきてしまった。

 ――これじゃ、お袋さんより俺のほうが過保護だな。

 見舞いに花でも買って来るんだったな、と冬枝がズボンのポケットに手を突っ込んだ時だった。

「さやちゃーん」

「!!!」

 ガラガラと扉が開き、さやかの母の小さな身体がぴょこんと病室に入って来た。

 何の自慢にもならないが、冬枝は身を隠すのが巧い。勿論、昔やっていたような夜の襲撃には敏捷さが必要だったからであって、付き合っていた女の旦那と遭遇した時とか、二股がバレそうになった時とかにとっさに身を潜めた、などという経験を重ねた末の特技ではない。間男呼ばわりされたら昔の冬枝はぶん殴っていたし、二股なんてしたことがない。たいてい三股からだ。

 それはさておき、ふわりとシーツが舞い上がる残像すら見せずにさやかのベッドに隠れるなんて、自分はまだ衰えていないな、と喜んでいる暇もない。というかむしろ、衰えは肉体よりも頭にきているようだった。

 ――せめて、ベッドの下に隠れりゃよかった。

 頭隠して尻隠さず。これでは冬枝の姿は隠せても、『娘のベッドに不審者が潜り込んでいる』という異常事態を全く隠せていない。

 ――やっちまった……。

 いっそ出ようかとも考えたが、今の冬枝は『南国の毒ガエル』――ド派手な柄シャツ姿である。

 つまり、どう見てもチンピラにしか見えないファッションであり、娘のベッドから飛び出してきたら確実に通報される格好だ。

 ベッドの中で頭を抱える冬枝に、さやかの母が「あのう」と声をかけた。

「もしかして……さやちゃんの、ボーイフレンドさんですか?」

「!?……」

 驚く冬枝に、さやかの母の小鳥のような笑い声がシーツ越しに聞こえた。

「うふふっ。さっきも、さやちゃんのベッドに潜っていたでしょう?恥ずかしがり屋さんなんですね」

「………」

 やはり、冬枝の図体でさやかのベッドに身を潜める、というのは無理があったらしい。恥ずかしいやら情けないやらで、冬枝は顔を上げられなかった。

「さやちゃん、あなたがベッドの中でくっついてても、ちっとも嫌がってなかったわ。さやちゃん、あなたのことが大好きなんですね」

「………」

 流石は母親というべきか、さやかのことをよく見ている。冬枝としても返事の一つもしたいところだが、声を出したら『さやちゃんの彼氏さん』が中年親父だとバレてしまう。

 無言の冬枝に対し、さやかの母は弾んだ声で続けた。

「今日はね、ホントはさやちゃんに、お誕生日プレゼントを届けに来たんです。それがね、うふふっ…」

 そこでさやかの母は、いたずらっぽい笑み混じりに言った。

「今年はさやちゃんからね、珍しくお誕生日プレゼントのリクエストがあったんです。東京で、可愛いお洋服を買って来て欲しいって」

「………」

「さやちゃんったら、きっとあなたに見せたかったのね…うふふっ❤」

 デートに向けて張り切っていたのは、どうやら冬枝だけではなかったらしい。冬枝に隠れてこっそり母親にリクエストするあたりがさやからしくて、冬枝は苦笑した。

 ――めんけえ女だよ、あいつは。

「さやちゃんに素敵な彼氏がいるみたいで、私も嬉しいです。ねえ、彼氏さん…」

 そこでしづかは、シーツの中にいる冬枝にそっと顔を寄せた。

「さやちゃんはとってもいい子です。だけど、危ないことに巻き込まれてしまうことがあるの」

「………」

 そこで、さやかの母は声をひそめた。

「あなたも知ってるかもしれないけど…さやちゃんは、今年の入試に行けませんでした。前の夜に右腕を骨折して、入試どころじゃなかったの」

「………!?」

 さやかが入試前夜に骨折したなんて、冬枝は初耳だった。

 ――あいつ、まだ隠し事してやがったな!

 以前、小池という同級生と再会した時、さやかは簡単に入試前夜の出来事を語った。入試の翌日、さやかが「腕に包帯をして登校した」という小池の証言に対し、さやかは「凡ミスに苛立ってトイレの壁を殴ったせい」と釈明したが、あれは嘘だったのだ。葵山学院で最恐の生徒会長として君臨していたさやかの嘘を、小池は突っ込めなかったのだろう。実際は、冬枝や嵐に語った以上の大怪我だったというのに。

 入試前夜――すなわち、東京で朱雀組4代目・秋津イサオが殺された夜だ。同じタイミングで、さやかが骨折という大怪我をしたというのは、偶然ではあるまい。

 ――あの日、さやかに何があったんだ。

 さやかは、どんな形で事件に関わったのか。さやかが笑顔の裏に隠した暗闇が、冬枝には果てしなく深く思えた。

「何があったのか、さやちゃんは何も言わなかった。だけど、すごく落ち込んでいて…私も、そんなさやちゃんが痛々しくて、何も聞けなかった」

 さやかの母の声は、心なしか震えていた。

「さやちゃんはしっかりしてるから、前を向くって決めたみたいで…腕が治って少ししてから、彩北にやって来たの。そして、あなたに出会った」

 雀荘『こまち』に現れた、つんと澄ました可愛げのない東京娘。ヤクザ相手でも一歩も退かない、真っ直ぐな気性の女。寝起きはでしゅましゅ口調の赤ちゃん娘。そして、冬枝の大事な代打ち。

 傷だらけの道を経て、さやかは冬枝と巡り会ったのだ。

「強くて賢いさやちゃんが、大好き。だけど、もう二度とあんな風に傷付くところは見たくない」

 さやかの母の声に、涙が滲んだ。

「お願い。さやちゃんを守ってあげて」

 雀荘通いでヤクザとまで関わる娘を、母はどれだけ心配したことだろう。それでも母が娘を信じ、自由に生きさせてやったからこそ、さやかはあんなに澄んだ真っ直ぐな瞳をしているのだ。

 そんな母心に対して、無言で返すのは男ではない。冬枝は、声を絞り出した。

「……はい」

「さやちゃんは素直じゃないところもあるけど、本当は寂しがり屋さんだから……いっぱい一緒にいてあげてくださいね❤」

 さやかの母の茶目っ気たっぷりな声の余韻が冬枝の耳に残ったところで、ガラガラと病室の扉が開けられた。

「あ、母さん。ここにいたんだ」

「あら、さやちゃん。それに、ミナさんも」

 シーツに潜っていた冬枝も背中越しに源の気配を感じ、密かにぎょっとした。

 ――源さん、まだいたのかよ。

 さやかも源も、ベッドに冬枝がまた潜り込んでいることに気付いたはずだが、何も言わなかった。

「母さんを探してたら、みな…ミナさんと合流したんだ…って、母さん、ジュース何本買ったの?」

「だって、さやちゃんが喉乾いたらたいへんって思って。それに…」

 そこで、冬枝はシーツ越しにさやかの母の視線を感じた。

「…飲み物がたくさんあったほうがいいと思って❤ふふっ」

 応援してくれるのはありがたいが、恐らく、さやかの母は娘のベッドに潜り込んでいるのが、背中に彫り物のある中年親父だとは思っていないだろう。冬枝は、こそばゆいやら心苦しいやら、複雑な心情になった。

 そこで、さやかの母がぱんと手を叩いた。

「そうだわ!ミナさん、私、さやちゃんが住んでるお部屋に行ってもいいですか?」

「えっ!?僕の部屋!?」

「さやちゃんがこっちでどんな暮らしをしてるのか、ずっと気になってたの。相変わらず、麻雀の本がいっぱい置いてあるのかしら。ふふっ」

 源は、ぽんとさやかの母の肩に手を置いた。

「分かった。すぐに案内しよう」

「みっ、みなも…ミナさん!」

「安心しろ。部屋の鍵なら俺も持ってる」

「そ、そういう問題じゃなくて…」

 冬枝から見てもさやかの部屋は綺麗だが、やはり、実の母親に見られるのは抵抗があるらしい。

 ――お袋さんの前だと、こいつも年相応のガキって感じだな。

 などと、感心している場合ではない。さやかの部屋よりも、自分の部屋のほうが見られるとまずいものがたくさんあることに、冬枝は今更気付いた。

 ――高根と土井、変なものをその辺に置きっ放しにしてねえだろうな。

 凶器、はないにしても、カートンで買ってるタバコとか、吸い殻が山のように積もった灰皿とか、どっさり買い込んであるウィスキーとつまみなんかを見られると、娘を預けるには不安な相手だと思われかねない。

 きっと、源なら何かあっても上手いこと誤魔化してくれるだろう。かけた股の数なら冬枝の倍以上、女との修羅場は口八丁と寝技で潜り抜けてきた兄貴分だ。かなり世間知らずと見えるさやかの母を丸め込むぐらい、訳もないだろう。

「じゃあさやちゃん、すぐ戻るから、おとなしく休んでるのよ」

「うん。母さんこそ、ミナさんに迷惑かけないでよ」

「フフ…しづかにかけられる迷惑なら、むしろ歓迎だ」

 微笑を浮かべた源がさやかの母の肩を抱いて出て行くさまが、シーツを被っている冬枝の目にも見えるようだった。

 ――源さん、さやかのお袋さんを口説いたりしねえだろうな……。

 人妻だろうが子持ちだろうが、自分が女装していようが、源には関係ないことを冬枝はよく知っていた。



 セミの声を、いつの間にか聞かなくなった。

 ミノルは、木々の緑から洩れる陽光に目を細めた。太陽はこんなに眩しいのに、季節は順調に過ぎ去っていく。

「もうすっかり秋ですねぇ…」

 あれから、8カ月が経ったということだ。ミノルは、時の流れの早さを思った。

 朱雀組4代目・秋津イサオが殺害され、ミノルの髪から色が失せたあの事件。東京に降る乾いた雪を好きになれないまま、兄はこの世を去った。

 兄の死は、秋津一家と朱雀組のみならず、裏社会に少なからぬ衝撃を与えた。青龍会も不穏な動きを見せる中、ミノルはこれ以上、手をこまねいているわけにはいかない。

 ――そろそろ、動き出さなければいけませんね。

 ミノルは、ボルドーレッドのスーツのポケットから、あるものを取り出した。

 あの惨劇の夜、血溜まりの中に残されていた麻雀牌。

『百搭』――この二文字を、ミノルは何度、目でなぞったことだろう。

 ――彼女もきっと、これと同じものを……。

 ミノルの見上げる先には、さやかの入院する市立病院が白く聳え立っていた。

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