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36話 奧さまは家出魔女

第36話 奥さまは家出魔女


 青空の下、ずらりと並んだ車たちが、眩しく陽光を照り返している。

 ピカピカと光るボディは新車と見紛うほどだが、ここは中古車即売会。いずれも車種や年数などを列記した紙が貼られており、ディーラーと商談中の客の姿も見受けられる。

 ――ただし、値段がその辺の国産車よりバカ高い。

 冬枝の目を眩ませるのは、頭上に輝く真夏の太陽ではなく、フロントガラスに躍る数字の数々だった。いずれも中古車というのが信じられないぐらい、高い。

 それもそのはず、中古車即売会といっても、ここに並べられているのはベンツにシボレー、ポルシェにフォルクスワーゲンなど、海外の高級車ばかりなのだ。中古でも家が買えるような値段のものばかりで、冬枝はすこぶる居心地が悪かった。

「おーい、冬枝。これなんかどうだ」

 タバコをくわえたまま表情筋が固まった冬枝とは対照的に、榊原がにこやかに手を振った。

「はい。何がですか?」

「これだよ。ほら、ろくに走ってないし、傷もない。ほとんど新品同然だ」

「はあ。いいですね」

 覚えられないようなメーカー名とご立派な車体よりも、冬枝は目玉の飛び出るような値段のほうが気になって仕方なかった。

 そんな冬枝の気も知らず、榊原はにこやかに問いかけた。

「それでこの値段なら、悪くないだろ?買うか?」

「誰がですか?」

「お前に決まってるだろ、冬枝」

 榊原に真正面から言われ、冬枝はゴホゴホとタバコの煙にむせた。

「冗談でしょう。こんな高級車、盗んでくれと言わんばかりじゃないですか」

「そうは言っても、お前が乗ってるカローラ、あれ、いつの車なんだ?言っちゃ悪いが、ボロボロじゃないか」

「すみませんね、ボロボロで」

 冬枝の愛車は、何年か前に知り合いの業者から安く買った中古のカローラである。中古だけあって揺れるしエンジンがかかるのも遅いが、もうすっかり慣れてしまった。

「俺は構わないが、さやかはあれで文句言わないのか?」

「さやかは…車になんかこだわらないでしょう、あいつは」

 代打ちの仕事でさやかを車に乗せることも多いが、さやかがガタガタ揺れるカローラについて感想を言っているのを冬枝は聞いたことがない。

 榊原が、意味ありげに笑って冬枝の肩を叩いた。

「デートなら、もうちょっと格好いい車のほうがいいんじゃねえか?」

「榊原さん。何言ってんですか」

「はは、照れるなって。今の若い奴らなんて、みんなポルシェやワーゲンに乗ってるぞ。さやかをよその男に取られてもいいのか?」

「そりゃ、まあ…」

 確かに最近、景気が良いせいか、街で見かける高級車はみんな、乗り手が毛も生えないような若造ばかりだ。背伸びしたガキが高すぎるオモチャを見せびらかしているみたいで冬枝は気に入らないし、そんなガキにさやかがナンパされるのも御免だ。

 ――あいつ、結構ミーハーなところあるからな。

 冬枝には近頃、特に憎々しく見える吉川は、さやかをメロメロにさせる『晃司さん』だ。吉川みたいな若者に、都会的な高級車で誘われたら、さやかだって満更ではないだろう。

「だけど、俺にゃ無理ですよ。こんな高い車買ったら、破産しちまいます。朽木じゃあるまいし」

 悠々とジャガーを乗り回す朽木は、デリヘルとソープで稼ぎまくる組きっての女衒だ。冬枝が高級車に良いイメージがないのは、多分にあの悪趣味な男のせいもある。

 すると、榊原が目を丸くした。

「なんだ、それでさっきから仏頂面だったのか。今日は俺が買ってやるから、心配しなくていいぞ」

「俺が買ってやるって…ええ!?榊原さんが!?」

「ああ」

 にっこり笑う榊原には、冗談を言っているつもりはなさそうだった。

「冬枝には何かと世話になってるからな。このぐらいは当然だよ」

「いや、こんなの買ってもらったら釣りが来ちまいます。さやかを美味い焼肉にでも連れて行ってもらえりゃ十分ですよ」

 冬枝は心からそう言ったのだが、榊原は乗り気だ。

「そう遠慮するなって。金のことなら、霜田にも相談したから大丈夫だ」

「え…霜田さんにも?」

「あいつ、ケチだからなあ。俺は新車がいいって言ったのに、組を潰す気かって怒られたよ」

 榊原は呆れ気味に言うが、冬枝は心の中で霜田に同情した。

 ――そりゃ、霜田さんのほうが正しいって。

「霜田には、冬枝に車を買ってやること自体を反対されたんだが……あんなボロボロの車じゃさやかが可哀想だろって俺が言ったら、霜田も納得してくれたよ」

 榊原は恐らく多分に冬枝に気を遣った表現をしたのだろうが、冬枝には霜田の厭味ったらしい声が聞こえてくるかのようだった。

『まあ確かに、あんな廃車同然のみすぼらしい車に乗っていられたのでは、白虎組には金がないと吹聴して回るようなものですからね。冬枝には少しはマシな車を与えるべきでしょう、ただし中古で十分!!!』

 それにしても、ケチで冬枝に好感情を抱いてはいないはずの霜田にしては、かなりの譲歩だ。

 ――まさか、例のクーデターをマジでやるつもりなんじゃ……。

 榊原を新組長として担ぎ、今の組長を降ろす。その霜田の陰謀に、冬枝はうっかり協力を約束してしまった。

 ――まあ、今は秋津一家や『アクア・ドラゴン』でそれどころじゃねえだろ。

 そこで冬枝は、現組長・熊谷雷蔵のいけ好かないタヌキ面を思い出した。

「俺に車なんか買ったら、親分がいい顔しないんじゃないですか」

「ああ…。親分か…」

 そう言ったきり、榊原の表情が翳った。

 ――ん?

 榊原の反応に妙な重さを感じて、冬枝が首を傾げていると、榊原はすぐに明るい表情を取り繕った。

「だから、そう心配しなくていいんだって。こんなことなら、さやかも一緒に来てもらえば良かったな」

 今日の中古車即売会は高級車のオーナーだけを招待したものらしく、冬枝は榊原の口利きで特別に入れてもらった。さやかは家で留守番、弟分たちは会場の外で、廃車になろうとしているカローラの中で待機している。

 榊原は、深紅のスポーツカーに目を留めた。

「おっ!これもいいんじゃないか?真っ赤でカッコいいぞ」

「こんなの、それこそ若い奴が乗る車でしょう」

「冬枝、昔はこういうの好きだったじゃないか。今もイケるって」

 冬枝は若い頃、真っ赤だの真っ青だの、ド派手な原色系の服ばかり着ていた。榊原の中では、7歳下の冬枝の印象は『南の国の珍しい鳥』だった頃で止まっているのかもしれない。そう思うと、冬枝は恥ずかしくてしょうがなかった。



 帰りの車中は、勿論、ガタガタ揺れるカローラである。

「えーっ。兄貴、結局、若頭に車買ってもらわなかったんスか?」

 助手席の土井が、サングラスをかけた顔をぐいっと振り向いた。

 冬枝は、後部座席で「当たり前だろ」とタバコをくわえた。

「あんな高い車、俺にゃ不釣り合いだ。肩書きもねえのに」

「オレ、エンジン音のカッコいい奴がいいなー。ブオオオン!って鳴るの」

「兄貴の家はマンションだぞ。近所迷惑だろ」

 と苦笑気味に突っ込んだのは、運転席の高根である。

「でも、憧れるよなぁ。高いベンツかポルシェで、夜の高速をドライブ!とか」

 くたびれたシートに身をもたせて、土井が夢見るような口調で言った。

「……」

 そりゃ、冬枝だって高くて格好いい車が嫌いなわけではない。むしろ、若い頃はそれこそ、海外の真っ赤な車や真っ青な車に憧れたものだ。

 ――高級車でさやかとデート、か。

 確かに、夜の高速をドライブとか、海までデート、とかに、このオンボロカローラは似つかわしくない。年季の入った、肌触りの悪いシートでは、盛り上がるものも盛り上がらないだろう。

 ――いっぺん、さやかに相談してみるか。

 もしもさやかが高級車に乗り気だったら、それはそれで困るのだが、話してみたい。冬枝との高級車デートを夢想する、幸せそうなさやかの顔が見たいだけかもしれない。

 冬枝たちがマンションの扉を開けると、室内は暗かった。

「あれ?さやかさん、まだ帰ってないんスかね」

 と土井が言うのも、別に珍しいことではない。平日はたいてい『こまち』で打っているさやかは、『こまち』が閉まる18時以降に帰宅することが多い。

 照明をつけ、弟分たちが夕飯の支度を始める中、冬枝は着替えに洗面所へと向かった。

 その途中で、冬枝ははたと足を止めた。

「……ん?」

 さやかの部屋から、何やら声が聞こえる。忍び笑いのような、ひそやかな笑い声だ。

「フフ……フフフ……」

「…もう……クスクス……」

 しかも、声はさやか一人のものではない。誰かがいる。

 何よりも気になるのは、声がやけに色っぽいことだ。まるで、部屋でよからぬことでも行なわれているような、ただならぬ気配がする。

 ――これ、俺が見てもいいやつか?

 右を見たり左を見たり、冬枝は無意味に逡巡したが、気になって仕方がないのでドアを開けることにした。

 ――ええい、ここは俺んちだ、俺が法律だ!

 ガチャッと扉を開けると、中から「きゃあ」という、華やかな声が返ってきた。

「あら、冬枝さん、おかえりなさーい。もしかして、さやちゃんが気になって見に来ちゃった?」

 と言って意味ありげに笑っているのは、見覚えのある巨乳の美女だ。黒いバンドでまとめた茶髪が、明るい笑みによく似合っている。

 ――確か、嵐のかみさんの……。

 そして、その横で凍り付いたように立ち尽くしているのは、我らがさやかだった。

「冬枝さん……」

 そうだ、確か鈴子って名前だった、と巨乳の美女の名前を思い出したのと同時に、冬枝は2人がブラジャーとパンティーしか身に着けていないことにようやく意識が到達した。

「さやちゃんと通販で下着買ったから、2人でファッションショーしてたところなのよ。ほらほら、冬枝さん、さやちゃん可愛いでしょ?」

 固まったさやかを、鈴子が笑顔で冬枝の前に押し出す。

「………」

「………」

 冷凍状態のさやかと、ニコニコ顔の鈴子の前で、冬枝は呆気に取られた。

 白いレースの下着がほとんど直線を描いているのに対し、黒の下着のほうはあちこちが急カーブを描いている。

 さながら山と丘、いや、富士山と平地……と考えてしまった冬枝の目線を、凄腕の雀士は見逃さなかったらしい。

「……っ!出てけーっ!」

 さやかがぶん投げた『近代麻雀』は、綺麗に冬枝の額にクリーンヒットした。



「嵐とケンカした?」

 暑がりの冬枝のために高根が買っておいた冷却シートは、『近代麻雀』が直撃した額を冷やすのにも役立った。

 興味津々な弟分たちともども、冬枝はリビングで鈴子から事情を聞いた。

「よくある夫婦喧嘩よ。嵐がいつまでもいじけてるから、もう、うっとうしくって。家出しちゃった」

 鈴子はソファに座って、膝の上に寝せたさやかの髪を撫でながら話した。勿論、2人共、服は着ている。

「ケンカの理由って、何スか?まさか、嵐の旦那が浮気したとか?」

「詮索するなよ、土井」

 前のめりになる土井を、高根が横からたしなめた。

 鈴子はさやかの頬をふにふにと触りながら「まあ、色々ね」と答えをぼかした。

「ねえ、冬枝さん。今夜はここに泊めてくれないかしら」

「えっ…!?泊まるって、本気で言ってんのか」

 泡を食う冬枝に、鈴子は上目遣いで迫った。

「いけない?さやちゃんはいいって言ってくれたわよ」

「さやか、お前、勝手に決めるなよ」

「……」

 さやかは鈴子の膝枕の上で、無言で寝返りを打った。どうやら、さっきの件を根に持っているらしい。

 不愛想なさやかと対照的に、鈴子はウフフと笑った。

「泊めてもらうからには、サービスするわよ。お背中、流してあげましょうか」

「んなこと言われたって…嵐が黙ってねえだろ」

 嵐のヤクザ嫌いは、冬枝も承知している。さやかを通じて何だかんだで腐れ縁のようになってはいるものの、流石に嫁をヤクザの家に泊めるのは許せないだろう。

「だから、あいつのことは気にしなくていいってば。今は戦争状態なんだから」

 と言ってから、鈴子は「あ、もしかして」と手を口元に当てた。

「冬枝さんったら、嵐が怒るようなことがしたいの?もう、しょうがないわね。一宿一飯の恩っていうし、一晩ぐらい相手になってあげるわ」

「違ぇよ!なんで夫婦そろって脳みそにお花が咲いてんだ!」

 冬枝は、早くも厄介なことになったと悟り始めた。下ネタ連発の嵐に負けず劣らず、鈴子もかなりマイペースだ。

 ――まあ、さやかがいなけりゃ、そういうのも悪くなかったかもしれねえが……。

 という本音は、無論、さやかの前では言えない。冬枝の本性をよく知る弟分たちは、疑いの眼差しを隠そうともしなかったが。



 結局、鈴子に押し切られる形で、鈴子を泊めることになってしまった。

 鈴子が、やる気満々でシャツの袖をまくった。

「せっかくだから、今日は私が晩ご飯作ってあげる」

「わあ、いいんですか」

「女の人の手料理なんて、何年ぶりだろう」

 露骨に色めき立つ弟分たちに、冬枝は顔をしかめた。

「お前ら、サボれるから嬉しいだけなんじゃねえか」

 とはいえ、日頃、男の作るものばかり食っている冬枝も、満更ではない。あらかじめ持参していたのか、エプロン姿で台所に立つ鈴子の姿は、まさに奥さまの貫禄満点だった。

 ――こりゃ、またさやかを妬かせちまうかもしれねえな。

 冬枝がちょっとした極楽気分を味わえたのは、しかし、この時までだった。

「はい、さやちゃん。あーんして」

「あーん」

「美味しい?」

「はひ。おいひいでしゅ」

 鈴子の焼いた鳥の手羽先を、はむはむと食べるさやか。手ずから食べさせているせいか、鈴子との距離はやけに近い。

「あーん、やっぱりさやちゃんに食べてもらえると幸せだわ。普段は嵐ぐらいしか食べさせる相手がいないから、作り甲斐がないのよね。ライオンに餌あげてるみたいなもんだもの」

 鈴子がさやかをぎゅっと抱き締めると、さやかも柔らかそうな胸元にすりすりと頬を寄せた。

「えへへ。何だか、こうしてお家で鈴子さんと一緒にいると、不思議な気分です」

「あら。それってどんな気分?」

「まるで、鈴子さんが僕のお嫁さんになってくれたみたい」

「きゃっ。私、春野鈴子じゃなくて、夏目鈴子になっちゃおうかしら」

 いちゃつく女2人からは、台所中を染め上げるような濃いピンク色のオーラが出ている。それに引き換え、エアコンで冷え冷えとしたダイニングで待つ男3人は、さながらモノクロの世界だった。

「前から思ってたんスけど、さやかさんと鈴子さんって、仲良すぎません?」

「バカ、土井。女友達なんて、あんなもんだろ」

 そう言う高根も、「まあ、自分もちょっとそう思うが」と付け加えた。

「………」

 冬枝も、この居心地の悪さのようなものが、普段はいない女がいるせいだけではないことに勘付き始めていた。

 ――まさか、あいつらデキてんのか……?

 思えば、さやかの部屋で下着のファッションショーとやらをしていた時も、何やら怪しげな雰囲気だった。冬枝たちが帰って来る時間も忘れるほど、2人は部屋で、あんな格好でいちゃついていたのだろうか。

 眉間に皺が寄っていることに気付いた冬枝は、慌てて首を左右に振った。

 ――女相手に、あれこれ気を揉んでどうする。

 大体、女2人でナニをどうするというのだ。何か、源に聞けば具体的な答えが返ってきそうな気もするが、とにかく、さやかが鈴子とそんな仲になっているなんて、あり得ない。

 ――さやかには、俺っていう男がいるんだからな。

「鈴子さん、僕、そのスープも味見したいな」

「いいわよ。さやちゃんには多めにあげましょうね」

 鈴子の背中に抱き付いて甘えるさやかは、いつもとは別人のようだ。女友達の前でリラックスしている、というのを通り越して、子猫みたいに鈴子に甘えている。

「………」

 ――俺の前でも、めったにあんな顔しねえくせに。

 複雑な気分で迎えた夕食だったが、鈴子の手料理は普通に美味かった。弟分たちもうまいうまいと喜んでいたし、冬枝も悪い気はしなかったが、ちゃっかり隣同士で座っているさやかと鈴子を見ていると、やはり考え込んでしまうのだった。

 ――なんか、とんでもねえ女を招き入れてしまったような……。



 シャワーを浴び、さて晩酌でも、と台所に向かった冬枝は、相変わらずじゃれ合っているさやかと鈴子に遭遇した。

「あら冬枝さん、もう上がったの?こっちもちょうど後片付けが終わったところよ」

「あ、ああ…客にんなことやらせちまって悪いな」

「いいのよ。泊めてもらうんだから、このぐらいしなくっちゃ」

 鈴子の口ぶりは殊勝なのだが、2組セットで売られているのか、というぐらいさやかとぴったりくっついているのが冬枝は気になった。

「あのよ…」

「ああ、晩酌するのね。私がついであげるわ」

「いや、そこまでせんでも」

 笑顔でウィスキーとグラスを掲げる鈴子に、冬枝は面食らった。サービス精神が旺盛すぎて、まるでコンパニオンだ。

 横からさやかも「そうですよ!」と口を尖らせた。

「鈴子さんは、これから僕と一緒にお風呂に入るんでしょ?」

「そうだったわね。ウフフ、冬枝さん、さやちゃんが入ってるからって、絶対覗いちゃダメよ」

 鈴子は腰に抱き付くさやかをよしよしと撫でながら、「今のは『覗いてもいい』って意味だからね」と言ってウィンクした。

 冬枝は、大胆を通り越してアケスケな鈴子にほとほと呆れた。

「覗かねえよ…お前、ホントに嵐とおんなじだな」

「やだ、あのお子様と一緒にしないで。これでも私のほうが年上なんだから」

 そして、さやかと鈴子は本当に、連れ立ってバスルームへと入ってしまった。

 ――おいおい、マジで一緒に風呂入るのかよ、あいつら。

 そろりそろりと忍び足で後を追うと、脱衣所には女2人の下着が脱ぎ捨てられ、バスルームのすりガラスの向こうから、黄色い声が聞こえてきた。

「よぅし、今日は泊めてもらうお礼に、さやちゃんを全身洗ってあげる!」

「きゃあ、くすぐったいです、鈴子さんっ」

 絡み合う肌色のシルエットを見ているうちに、冬枝の胸にじわじわと危機感が迫ってきた。

 ――さやかの奴、いつの間にあんなに大胆に…。

 それにしても、同じ形なのにずいぶんサイズの違う下着が、仲良く脱衣所に転がっている。無論、下ではなく上に着けるほうの話だ。

 ――これなら、どっちがどっちのか一目瞭然だな。

 鈴子が無敵の巨大戦艦なら、さやかはさながら、さまよえる小舟サイズである。冬枝は何だか健気に思えてきて、しげしげとさやかのブラジャーに見入ってしまった。

「やだ!冬枝さん、私たちの下着を漁ってるわよ」

「ちょっと、何やってるんですか、冬枝さん」

 バスルームからさやかの難詰するような声が聞こえ、冬枝は慌ててブラジャーを手放した。

「違ぇよ、シャンプーの予備あったかなーって確認してただけだって!」

「いいのよ、もっと堂々と見に来て。ここの家主は冬枝さんなんだから、今なら私たちを好き放題にできるわよー」

「冗談じゃねえ!」

 慌てて退散する冬枝の背中に、鈴子がきゃははと笑う声が響いた。



 冬枝が気分直しにウィスキーをちびちび飲んでいると、女2人が上機嫌でバスルームから出てきた。冬枝は、思わずリビングの時計を睨んでしまった。

 ――湯船にじっくり浸かる季節でもあるまいに、やけに長風呂だったな。

 あらかじめ持参していたのか、鈴子は自前の黒いパジャマを着ている。冬枝がいなければ、女たちのパジャマパーティーといった雰囲気だ。

 ――これじゃまるで、俺のほうがお邪魔虫みたいじゃねえか。

 和気あいあいとしたパジャマ姿の若い女2人の前では、43歳中年男は影にならざるを得ない。居心地の悪さを誤魔化すように、冬枝は冷えたウィスキーを呷った。

 ――まあ、こいつらもそろそろ寝るだろうから、あと少しの辛抱だ。

「さやちゃん、今日は一緒に寝ましょうね」

「はーい。えへへ」

 なんてことないように笑い合う鈴子とさやかに、冬枝は思わずウィスキーを噴き出しそうになった。

 ――この女がさやかと一緒に寝るだって!?

 冬枝はグラスを置くと、さやかと鈴子の間に割って入った。

「おい、嵐の嫁。お前、奥の空き部屋に泊まるんじゃなかったのか」

「あら、私がさやちゃんと一緒に寝ちゃダメ?冬枝さんったら、ヤキモチかしら」

 ぐっ、と冬枝は言葉に詰まった。

 これが嵐なら「うるせえ」と一蹴できるところだが、美人で明るい鈴子の笑みの前だと、何を言っても柳に風だ。

 鈴子は「ああ!」と両手をパンと叩いた。

「そっか、いつもは冬枝さんがさやちゃんと一緒に寝てるのね。枕が変わったら眠れないって言うものねー。さやちゃんならきっと、抱き心地バツグンだわ」

 そう言ってさやかを抱き寄せて頬擦りする鈴子に、冬枝は「んな訳あるか!」とやっと突っ込んだ。

「なーにが抱き心地バツグンだ、こんな上にも下にも肉のねえ麻雀牌を抱き枕にしたところで、硬くて眠れやしねえよ。米俵でも抱いて寝たほうがマシだ」

 鈴子の笑顔があまりにも堂々としていたせいか、照れ臭さが冬枝に憎まれ口を叩かせた。

 ――ハッ。ちょっと言い過ぎたか…?

 と冬枝が我に返った時には、既に遅かった。

「………」

 さやかはウィスキーグラスの氷よりも冷たい眼差しで冬枝を一瞥すると、くるりと背を向けた。

「僕の部屋に行きましょう、鈴子さん。テレビもおやつもありますから」

「いいわね。眠くなるまで2人で楽しみましょ」

 冬枝が「おい、さやか…」と言い終わらないうちに、さやかが硬い声で告げた。

「おやすみなさい、冬枝さん」

 バタンと閉じた扉からは、終始、女たちの笑い声が響きっ放しだった。

 冬枝は、自分のほうが女の国に迷い込んだはぐれ者のように思えてならなかった。



 ――静かになったらなったで、気になりやがる。

 冬枝がいつもより多めの晩酌を終えた頃、さやかの部屋からは声がしなくなった。もういい時間だから寝たのだろうが、冬枝はどうしても鈴子が気になって仕方がなかった。

 ――あいつら、今頃ベッドでよろしくやってるんじゃ…。

 我ながら女相手に的外れな邪推をしている自覚はあるのだが、あの鈴子の大胆さと、さやかの懐きっぷりが、無性に冬枝を焦らせる。

 ――こうなったら、この目で確かめてやる!

 俺は酔っ払ってるんだ、と理論武装して、実際はウィスキーを7杯飲んだくらいでは酔ったうちにも入らないのだが、とにかく冬枝はさやかの部屋へと向かった。

 この家に来た時から、さやかが自室に鍵をかけていた試しがない。居候だから遠慮しているのか、冬枝を信頼している表れなのかは分からないが、不用心なのは間違いない。

 ――これで今日は鍵をかけてたら、確実にクロだな。

 ドアノブを捻った感触は、いつも通りだった。あっさり開いたドアの向こうは、ただ暗くて静かなさやかの部屋が広がっているだけだった。

「………」

 昔取った杵柄で、足音を立てずに歩くのは冬枝の得意技だ。抜き足差し足で枕元に近寄ると、女2人が仲良く一つのベッドに寝ていた。

 ――俺の思い過ごしか。

 そうだよな、いくら仲が良いつったって、女同士でナニをどうするわけねえよな…と安心しかけた冬枝は、ふと違和感に気付いた。

「ん!?」

 これまた昔取った杵柄で、冬枝は夜目が利く。シーツから覗く鈴子の肩に、パジャマどころかブラジャーのワイヤーすら見当たらないことに、すぐ気付けるほどに。

 ――まさか、さやかも…!?

 冬枝が思わずシーツをガバッとめくると、鈴子が「キャーッ」と小さな悲鳴を上げた。

「冬枝さんのエッチ。ホントに夜這いに来たのね」

「何だよ、ホントにって」

「さやちゃんと2人で話してたのよ。冬枝さん、下着ドロの次は、夜這いに来るんじゃないかって」

「誰が下着ドロだ!あんまりばしこくとしばくぞ」

 というか、鈴子は平然としているが、冬枝には突っ込まなければならないことがあった。

「ていうかお前、なんで素っ裸で寝てんだ!そんなに暑いなら、自分の部屋で寝りゃいいだろうが」

「私、普段から裸で寝てるのよ。嵐もそうよ」

 鈴子から当たり前のように言われ、冬枝は返す言葉もなかった。

 ――宇宙人だ……。

 照明をつけたらさぞかし眼福なのだろうが、冬枝はそんな気になれなかった。何せ、鈴子の腕の中でさやかがグースカ寝ているのだ。

「さやちゃんも脱いじゃえば?って誘ったんだけど、恥ずかしがって脱いでくれなかったのよ。冬枝さんが夜這いに来る、って分かってたのかしら」

「だから、夜這いじゃねえって」

「じゃあ、何しに来たのよ」

 鈴子の当然の問いに、冬枝は「………見回り」と、間の抜けた返事しかできなかった。

 そこで、鈴子の裸の胸の中で寝息を立てていたさやかが、眉間に皺を寄せた。

「うーん…」

「あらやだ、冬枝さんが嘘つくから、さやちゃんが起きちゃった」

「嘘じゃねえ!お前といたらさやかの貞操が危ねえ、って俺の本能が告げてんだ!」

「ウフフ、そうね、このままさやちゃんを食べちゃおうかしら。悪いおじさんに食べられちゃう前に、味見しちゃおうかな」

「ねむいでしゅ…」

 寝ぼけ眼のさやかの頬に、鈴子がチュっとキスをした。

 ブチッ!

 その直後、悪いおじさん、つまり冬枝の中で堪忍袋の緒が切れた。

「だーっ、もう我慢できねえ!さやかは俺のもんだ!」

「やっと本音が出たわね」

 鈴子の憎たらしい笑みも見ず、冬枝はムニャムニャしているさやかを抱きあげた。

「人妻は人妻らしく、ここで大人しく寝てろ!いいな!」

 そう吐き捨てると、冬枝は足でドアを閉めて、大股に自分の部屋へと向かった。

「……ふにゃ?」

 ドサッと冬枝のベッドに寝かせられたさやかは、そこでようやく目を覚ました。

「あれ?冬枝さん…?」

「………」

 真っ暗な室内で、冬枝と目と目が合ったさやかは――何故か、突然に、状況を理解した。

 ――僕、冬枝さんのベッドにいる!?

 しかも、冬枝はやけに真剣な目付きでさやかを見下ろしている。自室で寝ていたはずなのに、どうして冬枝の部屋にいるのかとか、前後の脈絡が全く思い出せないが、とにかくさやかの心臓は急スピードで高鳴った。

「ふ、冬枝さん?」

「………」

「あの、僕……あの…」

 冬枝が何も言ってくれないせいで、さやかの中で、気まずさが気恥ずかしさへと変わっていく。

 ――これって、これってつまりそういうこと……!?

 さやかが口では言えないような解を導き出したところで、冬枝の顔が一気に近付いた。

「さやか」

「ひゃっ!?」

 何を言われるのか、というか、何をされるのか、とドキドキしているさやかに対し、冬枝は低い声で言った。

「……寝る時ぐらい、部屋の鍵閉めとけよ」

「えっ?」

「今夜は俺の部屋で寝ろ。朝まで出るんじゃねえぞ」

「はあ…?」

 呆気に取られるさやかに背を向け、冬枝はブランケットを1枚引っ提げて、そのまま部屋を出て行ってしまった。

「………」

 ――何が、どうなってるんだろう……。

 どうしてさやかが冬枝の部屋で一人で寝なければならないのか、ちんぷんかんぷんだ。しかし、追いかけて詳細を問いただすには、冬枝は近寄りがたい気配を発していた。

「………」

 暗い室内を、さやかは見るともなく見回した。冬枝の部屋は普段は立ち入り禁止のため、中に入るのは久しぶりだ。

 ――あの刀……。

 暗闇に目を凝らせば、ダイヤル式の金庫の隣に、細長い布袋が立てかけてあるのが微かに見えた。袋の中身がぬらりと光る日本刀であることを、さやかは知っている。

 あの頃は、冬枝がかつて恋人の父を斬ったことも、このマンションが源から譲り受けたものであることも、さやかは何一つ知らなかった。

 今もなお、さやかより24歳も年上の冬枝には、さやかの知らない秘密が色々あるのかもしれないが――過去を知る前も今も、さやかの気持ちは変わらない。

 さやかは部屋を眺めるのをやめ、ベッドに身を沈めた。

 ――冬枝さんのベッド、大きくて気持ちいいな。

 このベッドも源の趣味なのだろうか、とか、冬枝さんの匂いがしてドキドキするな、などと思いを巡らせているうちに、さやかはまた寝入っていた。



 冬枝の眠りが浅いのは、中年になったせいだけではない。

 反りの合わない養子先で育てられたせいで、夜に安心して眠るという習慣は冬枝の中に根付かなかった。ヤクザになったらなったで、夜はケンカと襲撃で気の休まる暇などなく、グッスリ眠れるのは酒をたらふく飲んだ後か、女を抱いた後ぐらいだ。

 ゆえに、嗅ぎ慣れない匂いの女にぴったりと寄り添われて、細い指先で意味深に身体をなぞられた瞬間、冬枝は即座にブランケットをはねのけて起き上がっていた。

「!?何してんだ、てめえ」

「しーっ。大きな声出さないで、冬枝さん。さやちゃんが起きちゃう」

 春野鈴子は、冬枝に寝る時間すら与えないつもりだろうか。どうやら服は着ているようだが、グラマラスな肢体に密着されただけでいかがわしい雰囲気が漂ってしまう。

「何だ。トイレなら風呂場の隣だぞ」

「夏なのに頭までブランケットかぶって寝るなんて、冬枝さんったら寒がりなのね。こんなリビングのソファなんかじゃなくて、自分の部屋でさやちゃんと一緒に寝ればいいのに」

 何か言おうとした冬枝の口を、鈴子の指が止めた。

「そんなに真面目じゃ、色々と気苦労が多いでしょう?さやちゃんを汚したくない!っていうなら、私が相手になってあげてもいいわよ」

「ああ…?」

「私、年上好きなの。冬枝さんなら、バッチリ守備範囲内よ」

 あまりにも自然に首に腕を回され、あまりにも心地よい弾力が膝の上に乗っかったせいで、冬枝は一瞬、そのまま流されそうになった。

 ――そりゃ、俺だって胸のでかい女が嫌いなわけじゃねえし……。

 鈴子の柔らかそうな身体に手を伸ばしかけた冬枝の脳裏に、上にも下にも肉のない、抱き心地の悪そうな女の冷ややかな眼差しが蘇った。

 ――ダメだ!

 冬枝は鈴子をぐいっと自分の上からどかし、ソファに横になってブランケットを引っ被った。

「どうしたの?冬枝さん」

「やめとけ。お前、その調子じゃ旦那も友達もいなくなるぞ」

 ソファの背もたれに向かってもごもご喋った冬枝の言葉に、鈴子がクスッと笑った。

「年長者だけあって、痛いとこ突いてくるのね。ヤクザにお説教されたのは初めてよ」

 どこか寂しげな笑みを残して、鈴子はすたすたとさやかの部屋へと戻っていった。

 ――助かった…。

 鈴子があっさり引き下がったから良かったものの、ごり押しされていたら、冬枝の理性がどこまで保ったかは分からなかった。美人で胸のでかい鈴子を拒む理由など、男としての冬枝の中にはほとんどないのだ。

 ――説教なんかできるのは、自分がバカみてえな失敗ばっかしてきたからだ。

 女に見境のなかったヤクザは現在、同じ屋根の下にいる、麻雀牌みたいな小さくて硬い女を気にして、魅力的な美女を振った。年長者だと威張れるほどでもない、と冬枝は自覚していた。

 ――だが、これ以上あの女に居座られたら、まずいことになる。

 このままだといずれ、冬枝かさやかのどちらかが、鈴子と一線を越えてしまう。どちらにせよ、冬枝とさやかの仲はそこでジ・エンドだろう。

 ――夫婦喧嘩は、当事者同士で解決させるしかねえ。

 冬枝は、あの暑苦しいピンクの革ジャン男のヒゲ面を思い浮かべ、一人で顔をしかめた。



 翌日の雀荘『こまち』の喫茶スペースには、朝から3人の男女が顔を突き合わせていた。

「………」

 緊張気味に夏物のブラウスの肩をいからせている女――夏目さやか。

「………」

 ニコニコと朝日よりも眩しい笑みを浮かべている女――春野鈴子。

「今朝も、いいお天気ですねえ」

 そして、ボルドーレッドのダブルスーツを着込んだ銀髪の男、ミノルである。

「つまり、嵐君とその細君…鈴子さんが喧嘩をして、家出した鈴子さんが、さやかさんの居候先に押しかけているんですね」

「…はい。僕は別に、鈴子さんがいたってちっとも迷惑じゃないんですけど…」

 本心を口にしているはずなのに、さやかの視線は下を向いた。

 ――なんか、今朝の冬枝さん、様子が変だった。

 朝、鈴子は朝食にお手製の『鈴子スペシャルトースト』をご馳走してくれた。高根と土井にも笑顔を振りまく鈴子はいつも通りだったが、冬枝は広げた新聞に顔を突っ込んだまま、さやかとも鈴子とも目を合わせようとしなかったのだ。

 昨夜、さやかをいきなり自室で寝かせたことと何か関係があるのだろうか。そう考えたさやかは、不穏な可能性に辿り着いた。

 ――まさかゆうべ、冬枝さんと鈴子さんの間に何か……。

 さやかを冬枝の部屋に移動させたのは、さやかが邪魔だったからではないのか。普通に考えれば、さやか自身の部屋に寝かせておいたほうが手っ取り早い気もするが、不自然な出来事同士は結び付けたくなってしまう。

 そんなさやかの内心を察したのか、ミノルがくすりと笑った。

「いくらお友達でも、自分以外の女性が彼氏の傍にいるのは、心穏やかではないでしょう。君は困って当然の立場だと思いますよ、さやかさん」

「ミノルさん…」

「そして今、最もお困りなのは、麗しの細君に家出された嵐君にほかならないでしょうが……いかがお考えでしょうか、鈴子さん?」

 ミノルがにこやかに顔を覗き込むと、鈴子は更に華やかな笑みで答えた。

「そうね。旦那とケンカしてる最中に、ミノルさんみたいに素敵なオジサマから口説かれちゃったら、ぐらっとしちゃうかも」

「おや。これはまたとない巡り合わせですね」

「ちょっと、ミノルさん」

 ミノルが満更でもなさそうなので、さやかは慌ててボルドーレッドの袖を引いた。

 ミノルはくすっとイタズラっぽく笑った。

「安心してください。僕は独り身ですから」

「そうじゃなくって…ミノルさんには、鈴子さんたちの夫婦円満のために力を貸してください、とお願いしたはずですけど?」

「ああ…そういえばそうでした」

 ミノルはわざとらしく中折れ帽を押さえて、「僕としたことが、可愛い女の子からのお願いを忘れるところでした」と言った。

 やはり、ミノルから見ても鈴子は魅力的なのだろう。さやかでさえ、姉のように優しい鈴子にずっと傍にいて欲しい、と思ってしまうぐらいだ。

 ――だけど、このままじゃ、僕たちも鈴子さんたちも破局しちゃう。

 ミノルは、椅子をくるりと回して鈴子と向かい合った。

「夫婦喧嘩は犬も食わない、というじゃありませんか。嵐君も奥さんに家出されてすっかり肝を冷やしたでしょうし、そろそろ寛容なところをお見せになってあげてもよろしいかと」

「でも私、もうちょっとさやちゃんと一緒にいたいのよねー。やっぱりいいわね、女の子は」

「鈴子さん…」

 鈴子の柔らかな頬と胸に包み込まれると、さやかも気持ちがふわっと浮かび上がってしまう。

 実の姉妹のように、というか恋人同士のように寄り添うさやかと鈴子の姿に、ミノルはため息をこぼした。

「こんなに美しい細君がいたら、嵐君はさぞ気苦労の絶えないことでしょう」

「そうなのよ。あいつ、普段はガサツで能天気な癖に、変なところデリケートで困っちゃう」

「つまり、今回は鈴子さんが、嵐君の地雷を踏んでしまった、と」

 ミノルの言に、鈴子は肩をすくめた。

 さやかには、思い当たるところがあった。

「もしかして、この間、キャンドルホテルで源さんに会ってもらったせいですか」

 先日、キャンドルホテルで榊原の妻・淑恵と、淑恵に想いを寄せる源が遭遇したことがあった。源を撤退させるべく、さやかは鈴子を呼び出して、源をおびき寄せた。

 鈴子は乗り気だったものの、妻をダシにされた嵐は不機嫌そうだった。嵐のことだから、どうせすぐに忘れるだろうとさやかはタカをくくっていたのだが――。

 ――まさか、こんなおおごとになっちゃうなんて。

 あの時は、榊原家の平和を守るのに必死で、それどころではなかった。さやかは、今更ながらにばつが悪くなった。

「すみません。僕のせいで、嵐さんとケンカになってしまって…」

「やだ、さやちゃんのせいじゃないのよ。強いて言うなら、源さんの車がかっこよすぎたせいかしら」

「あのスカイラインですか?」

 源の愛車は、さやかも『せせらぎ』に行った際に何度か目にしている。田舎町にあって一際眩しい、鮮やかなブルーのスカイラインだ。

 さやかが淑恵と響子の間を行ったり来たりしていたあの日、鈴子たちはカフェでお茶をした後、帰りの駐車場で源の愛車を見たのだという。

「きゃーっ、源さんの車、すっごくカッコいいわね。お高いんじゃない?」

「このぐらいの車じゃねえと、いい女を乗せられねえだろ?」

 源の自信満々な笑みは、まさに高級車と釣り合っている。源とスカイラインが並ぶ光景は、地方の一都市ではなく、都会のホテルの一角のようだ。

 それに引き換え、と鈴子は春野家の愛車を見つめた。嵐が独身の頃から乗っている中古車は、見た目も中身もオンボロの時代遅れだ。そこだけ、20年前にタイムスリップしたかのように思えてしまう。

「だから、売っちゃったのよ、あの車」

 あっさりと言う鈴子に、さやかは度肝を抜かれた。

「ええっ!?あの、嵐さんの許可は取ったんですよね…?」

「取ってないわ。源さんが紹介してくれた業者だったから、私のサインとハンコだけで話が済んだの。源さんのお陰で、相場よりかなり高く買い取ってもらえたのよ」

 源さん様様ね、と鈴子は嬉しそうに言ったが、さやかは頭がくらくらした。

 例えるなら、さやかの麻雀卓を(実際には持っていないが)、別の女にそそのかされた冬枝が売り飛ばしたようなものだ。想像しただけで、さやかは血管が切れそうになった。

 ――そりゃ、いくら嵐さんでも怒るに決まってる。

 だが、実際には家出したのは嵐ではなく、鈴子のほうである。さやかはあれっと思った。

「タイミングが悪かったのでしょう」と言ったのは、ミノルだった。

「鈴子さんは、今後の夫婦生活のために車を買い替えようと考えたのでしょう?つまり、嵐君のためにやったことなのに、嵐君からは激怒された、と」

「そうなのよ。どこかのバカと違って、ミノルさんは話が分かって助かるわ」

 鈴子は、ふと目を細めた。

「嵐だってまだ若いんだから、今のうちにカッコいい車を買わなきゃどうするの、って思ったのよ。あいつは源さんがどうのってプンスカしてたけど、使えるコネは使わなくっちゃ」

 鈴子は鈴子なりに、良かれと思って車を売ったというわけだ。さやかは、ちょっぴり切なくなった。

 ――鈴子さんは、嵐さんのために色々考えてるんだ…。

 スカイラインとまではいかないまでも、嵐を少しは見栄えの良い車に乗せてやりたい、という妻心だったのだ。鈴子のほうが年上なぶん、年下の嵐を思いやるところもあったのかもしれない。

 嵐に無断で車を売ってしまったのはともかく、さやかはそこまで鈴子から愛されている嵐が少し羨ましくなった。

 ミノルはコーヒーの残りを飲み干すと、静かに椅子から立ち上がった。

「では、僕が嵐君と話をしてきましょう」

「えっ…、ミノルさんが?」

「麗しの細君を間男に取られた、と頭に血が上っている彼に鈴子さんが今の話をしても、嫉妬でまともに聞かないでしょう。ここは、暇なおじさんに任せてください」

「でも、嵐さんがどこにいるか分かるんですか?」

 そこで鈴子が「あいつの行き先なんて3つしかないわよ」と指を3本立てた。

「家か雀荘かパチンコ屋」

「なるほど。僕の見立て通りです」

 ミノルが苦笑すると、鈴子がふとミノルとさやかを交互に見やった。

「何だか、さやちゃんとミノルさんって似てるわね」

「えっ…。そうですか?」

「フフ、見た目は全然違うけど、ハートが同じって気がするわ。賢いところとか、意外とおせっかいなところとか」

 鈴子は「前世で双子の姉妹だったのかもしれないわね」と言って、頬杖をついた。

 さやかは思わず、しげしげとミノルの横顔を見上げてしまった。

 ――僕とミノルさんが、似てる……。

「…麻雀好きなところも、僕とミノルさんの共通点かもしれませんね」

 さやかはそう言ってちらりとミノルを見たが、ミノルは何故か悲しそうな笑みを浮かべていた。



 市内にあるパチンコ店には、今日も銀玉を打つ客の背中がずらりと並んでいる。

 席は客同士の肩と肩がぶつからんばかりの狭さだが、耳を聾する遊技台の轟音と、視界を曇らせるタバコの煙は、まるで透明な壁がそこにあるかのような錯覚を抱かせる。誰もが自分の台に夢中なこともあり、他人の視線など一切、入らない空間がそこにはあった。

「………」

 だから、借り物らしいブカブカのスカジャン姿も落ち着かないその若者も、台の隙間に針金をねじ込むぐらいはバレやしない、と勘違いしてしまったのだろう。露骨に台を叩いたりするのと違って、余程のヘマをしない限りは音も立たない。

「やめときなって、兄ちゃん」

 不正行為に熱中していた若者が一発でハッと振り返ったのは、元警官ならではの、慣れた肩の叩き方のせいか。

 さらに次の瞬間には、相手のド派手なピンクの革ジャンと、むやみやたらに明るい笑みに、若者は呆気に取られてしまった。

 ピンクの革ジャンの男は、親指で後ろを指さした。

「この店、おっかねえヤクザが用心棒についてんだ。イタズラするならよそにしな」

 同情するような笑みの向こう側には、背筋の凍るような眼差しでこちらを睨む、枯れ葉色のスーツの男が仁王立ちしていた。

 脱兎の如き勢いで逃げ出す若者の背中を、冬枝と嵐はパチンコ屋の駐車場で並んで見送った。

「元おまわりの癖に甘いな、てめえは」

「あれぐらいは大目に見てやりましょうや。雑誌か何かでやり方覚えて、真似してみたくなっただけでしょうから」

 いつの間に奪い取ったのか、嵐は若者が使っていた針金を手の中でくるくると回した。

 意外と冷静な様子の嵐を見て、冬枝は単刀直入に切り出すことにした。

「嵐。てめえの嫁がうちに来てるんだが」

「さやか目当てですよ、鈴子は。ダンディ冬枝に惚れたわけじゃありません」

 先刻までの余裕はどこへやら、嵐は急にぶっきらぼうな口調になって、ズボンのポケットに両手を突っ込んだ。

「誰目当てでもいいから、とっとと連れて帰れ。てめえの女房だろうが」

「元はと言えば、さやかが悪いんですよ。うちの嫁をツツモタセに使ったりして」

「てめえ、いつまで根に持ってやがる。源さんとは何もなかったんだろ」

 と言いつつ、源ならとっくに鈴子と一線を越えていてもおかしくない、と冬枝は若干不安になった。

 嵐は駐車場に転がる小石をブーツのつま先でいじった。

「ダンディ冬枝がハーレムおじさんなら、さやかはハーレム小町だ」

「はあ?」

「鈴子にナルシー源に、マキって女子高生もいたな。あと美貌の極妻と不倫若頭と、俺とダンディ冬枝。あ、最近は新メンバーも増えたんだったな…」

 指折り数える嵐に、冬枝は「何ぶつぶつ言ってんだ」と呆れた。

「とにかく、さやかは男女構わず弄ぶ、魔性の女なんですよ。鈴子がナルシー源とイチャつくのも、全部さやかのせいっス」

「お前、言ってることがメチャクチャだぞ。夫婦喧嘩をさやかのせいにするんじゃねえ」

 しかし、嵐の罵詈雑言は止まらない。

「やっぱり、東京の女はスレてますねえ。ヤクザとほいほい同棲し、田舎の純朴な男女を次から次へと魔の手にかけ…。あんなちっちゃいおっぱいのくせして、とんだアバズレ!」

「いい加減にしやがれ。アバズレってんならてめえの嫁のほうじゃねえか」

 嵐があまりにも暴言を吐くので、冬枝も頭にきてしまった。

 丸まった背中を見せていた嵐が、くるりと振り返った。

「ああ?今なんて言ったんスか、ダンディ冬枝」

「亭主のある身で俺やさやかにしなだれかかってきやがって。あの女、どうかしてんじゃねえのか。てめえが役立たずだから、嫁も見境無くすんだろうが」

 嵐は足元の小石を蹴り飛ばすと、冬枝に迫った。

「それ以上言うと、後悔しますよ。ダンディ冬枝」

「やれるもんならやってみやがれ。ポリ公くずれが」

 冬枝も嵐も既に、互いの胸倉を掴み、殴り合う準備はできていた。

 爆発寸前にまで高まった2人の緊張を崩したのは、パンパンという拍手だった。

「お2人とも、口喧嘩はそこまで」

「誰だ、あんた」

 鼻白む冬枝に、ミノルはにっこりと「暇なおじさんです」と名乗った。

 真夏にボルドーレッドのダブルのスーツ、という非現実的な格好のせいか、はたまた銀色の髪から覗く、穏やかだがゆるぎない眼差しのせいか。ミノルの笑みに、何故か冬枝は反抗する気が起こらなかった。

「………」

 子供のように口を尖らす嵐と並んで、3人は駐車場の片隅に腰を下ろした。

「女性の悪口を言い合うなんて、男の値打ちが下がりますよ。言葉のはずみでしょうが、言っていいことと悪いことがあることぐらい、君たちにも分かるはずでしょう?」

 ミノルの買ってきてくれた缶ジュースが、手のひらに冷たい。熱くなっていた冬枝と嵐の頭も、自然と冷めていった。

「………」

「………」

 冬枝とて、鈴子を罵倒するために嵐に会いに来たわけではない。嵐が本心からさやかを詰っているわけではないことも、本当は分かっていた。

「こいつ、嫁のことになると急にガキみてえになるんですよ」

「………」

 冬枝が顔を指さしても、嵐はむすっと口をへの字に結んだままだった。

「それだけ、奥さんを大事にしているということでしょう。相手のことが好きすぎるあまり、素直になれない。男心とはそういうものです」

「そういうもんですかね」

「そういうもんなんです。ですが嵐君、いつまでも拗ねていると、鈴子さんから本当に子供扱いされてしまいますよ」

「俺の気持ちなんか分かりませんよ!独身のジェントルあ……」

 ブシャーッ!

 いきり立った嵐の顔面に、ミノルの持った缶から勢い良くコーラが噴射された。

「失礼。少し振り過ぎたようです」

 言葉とは裏腹に、ミノルは丸眼鏡の奥の瞳で静かに牽制している。嵐は、仕方なく口をつぐんだ。

「……あの車には、思い出がいっぱいあるんです。鈴子と2人で海行ったり、ハレー彗星を見に行ったり」

「あの車?」

「鈴子さんが売ってしまったという車ですね」

 ミノルが簡単に事情を説明すると、冬枝はうーんと腕を組んだ。

「そりゃ、お前の嫁が悪いな」

「だども、あんなにあっさり、思い出の車を売っちまうなんて……やっぱり鈴子、俺のことなんか好きじゃねえのかな」

 嵐が不意に弱気なことを言い出したので、冬枝はちょっと珍しく思った。

「お前、嫁のことになるとホントにガキみてえだな」

「そりゃ、ガキの頃から鈴子ひとすじだったからですよ!鈴子は昔っから美人で、胸がでかくて…5歳下の俺から見たら遙か遠くの存在、それこそハレー彗星みたいな女だったんです」

「おいおい、向こうだってお前が好きで結婚したんだろ。もっと自信持てよ」

 嵐があまりにも悲壮感を漂わせているので、冬枝は柄にもなく励ましてしまった。

 だが、嵐は首を横に振った。

「鈴子が俺と結婚してくれたのだって、ホントは俺に同情しただけなんです」

「ああ?」

「俺が色々あって警察辞めて落ち込んでたら、鈴子が言ってくれたんです。結婚してもいいわよって」

 失意のどん底にいた嵐にとって、鈴子のプロポーズは生きる希望になったのだろう。だから、今でもこんなに鈴子に依存しているのだ。

 嵐は、がばっと勢い良く立ち上がった。

「でもやっぱり、鈴子は年上のオジサンが好きなんだ!それか、鳴子みたいな年下の女がいいんだ!俺はもう、玉手箱でも見つけて早急に老けるか、可愛い女の子に生まれ変わるしかねえんだあ!」

「どちらも無理だと思いますよ、嵐君」

 ミノルは中身の減ったコーラをごくごくと飲むと、ふうと息を吐いた。

「嵐君。君は鈴子さんが何故、車を売ろうとしたか知っていますか」

「ええ?そりゃ、ナルシー源にそそられて、もう車も旦那も乗り換えちまおう!って考えたんじゃないですか」

 ミノルは、首を左右に振った。

「思い出の車も大事ですが、夫婦の未来には、もっと新しい車のほうが相応しいのではありませんか」

「えっ…」

「例えば、今後家族が増えた場合、広くて大きな車のほうが良いでしょう?鈴子さんは、将来のことを考えて今度の行動に至ったのではないでしょうか」

 ぱちくりと瞳を瞬かせる嵐に、ミノルはすっと手を伸ばし、遠い空の向こうを示した。

「嵐君は過去を、鈴子さんは未来を見ていた。ですが、お2人の目指す先は一緒です」

 ミノルの手に誘われたかのように、優しい風が3人の頭上を吹き抜ける。

 さらさらと靡くミノルの銀髪が、冬枝には仙人のそれのように見えた。

 ――こいつ、ただのオッサンじゃねえな。

 よく見れば、ミノルは白髪の割にはそこまでの老齢というわけでもなさそうだ。ひょっとすると自分と同じくらいか、と冬枝が思い至ったところで、男3人の前にスカート姿が2つ並んだ。

「鈴子!」

「あんたたち、3人揃ってなーに座り込んでるのよ。放課後の高校生じゃあるまいし」

 鈴子は小首を傾げて苦笑いした。

「うちのバカのために、おじさま方が2人がかりで出張ってくれたのね。ありがとうございます」

「いいんですよ。僕はあくまで、鈴子さんと可愛いガールフレンドのために来たまでですから」

 ミノルにちらりと視線を投げられ、さやかは軽く微笑み返した。

 そこでふと、ミノルのスーツの襟にいつもの銀色のバッジがないことにさやかは気付いた。

 ――今日はあのバッジ、してないんだな。

 鈴子が、屈んで嵐の顔を覗き込んだ。

「ねえ、嵐。まだいじけてるの?」

「別に、いじけてなんかいねえし…」

「私が悪かったわ。2人のものなのに、勝手に売っちゃダメよね」

 鈴子はぽんぽんと嵐の頭を撫で、「あの車、買い戻すことにしたわ」と言った。

「えっ…。いいのかよ」

「今のところ、家族が増える予定もないし。まだあのオンボロ車でも十分でしょ」

「そ、そんな理由で…?」

 複雑そうに眉をしかめる嵐に、鈴子はカラカラと笑った。

「オンボロでも、嵐が初めて買った車だもんね。昔、嵐があの車に乗せてくれた時、お子様だった嵐が立派になったもんねーって、私、ちょっと感動したのよ」

「だろ!?鈴子、あの時もそう言ってくれたべ!」

 嵐は立ち上がると、ぎゅっと拳を握った。

「俺は、鈴子が喜んでくれて嬉しかったの!」

「ふふふっ」

 子供のように言い募る嵐に、鈴子も顔を綻ばせている。

 すっかり和やかになった2人を見て、ミノルが中折れ帽を深くかぶり直した。

「どうやら、僕たちはお邪魔なようですね」

「あの…、今日はありがとうございました。いや、今日も、かな…」

 さやかがそっと声をかけると、ミノルからは思いもよらない返事が返って来た。

「水を差すようですが、恐らく、もう一悶着ありますよ」

「えっ?」

「僕もできうる限りのことはしますが…、さやかさんも、お気は抜かずに」

「では、失礼」と言って、ミノルは駐車場から足早に去って行った。

「………」

 ――ミノルさんは麻雀だけじゃなくて、現実の二手三手先も見据えているんだ。

 ミノルの丸眼鏡には、さやかには見えない先の先まで映っているのかもしれない。

 ボルドーレッドの背中を呆然と見送っていると、さやかの肩を冬枝がポンと叩いた。

「あ、冬枝さん」

「おう。こっちは片付いたみたいだし、俺はまた出掛けるぞ」

「はい。鈴子さんも、今日はお家に帰るって言ってましたから、ひとまず一件落着ですね」

「何だよ、ひとまずって」

 ミノルに言われたことをさやかが教えようとした時、豪快なエンジン音と共に駐車場に車が停まった。

 鮮やかな青のスカイライン――冬枝がハッとしたのと前後して、車から颯爽と源が降りてきた。

「源さん。どうしたんですか、こんなところで」

「鈴子に会いに来たんだ。『こまち』に行ったら誰もいなくて、中尾からここにいるって聞いたんでな」

 このタイミングで、源が鈴子に会いに来た。さやかは嫌な予感がしたが、案の定、悪い予想は的中した。

「例の車、売れたって業者から連絡が来た。それで、鈴子に伝えようと思って」

「えーっ!!!?」

 その場にいる全員から大合唱され、源が真顔で首を傾げた。

「何か問題でもあったか」

「大アリっスよ、ナルシー源!あの車、やっぱり売らねえって今決めたとこなんです!」

「そうか」

 源は眉一つ動かさず「そいつは残念だったな」と告げた。

「わーん、ダンディ冬枝~!やっぱりこの人、夫婦の仲を破壊する悪魔っス!」

「…かもしれねえな」

 冬枝は額に手を当てた。一難去ってまた一難、である。

「車、もう新しい買い主のトコに行っちまったんですか」

「いや。今日は話が決まっただけで、契約はこれかららしい」

「じゃあ源さん、その業者に連絡して、今の話を伝えてもらえませんか」

「それは無理な相談だな。業者は明日から出張とかで、今は空港に向かってる最中だろう」

「えーっ!!!?」

 本日二度目の大合唱にも、源はやはり表情を変えない。

 嵐が源に食って掛かった。

「それなら、ナルシー源がそのスカイラインで追いかけてくださいよ!今度の騒ぎの張本人なんですから!」

「知るか。俺はこれから女と逢う約束がある。邪魔する奴は殺す」

「なんですとー!?」

 なお食い下がろうとする嵐を、冬枝が渋い顔で制した。

「やめとけ、嵐。女との逢い引きに関しては、源さんはマジだ」

「ナルシー源の恋路を邪魔する奴は、馬じゃなくてナルシー源に蹴られて死ぬってことっスか?」

「そういうことだ」

 冬枝は腕時計をちらりと見下ろし、「10時か…」と呟いた。

「行くぞ、嵐。まだ間に合うかもしれねえ」

「さっすがダンディ冬枝、話が早い!やっぱり、うちの嫁がお邪魔してたんじゃ、さやかとラブラブイチャイチャできねえってことっスか~?」

 嵐がニヤニヤと小突くと、冬枝は「何がイチャイチャだ」と苦り切った。

「別に俺は、てめえの嫁が何日いようが構いやしねえよ。美人だし、飯も美味いし」

「胸もでかいし?」

「そうそう」

 と嵐の言にうっかり頷いてしまってから、冬枝はさやかの冷ややかな目線に気が付いた。

「いやほら、さやかと比べてでかいって言ってるんじゃねえぞ。でかけりゃいいとも言ってねえし…」

「墓穴を掘ったわね、冬枝さん」

 鈴子がくすくすと笑い、さやかの仏頂面に頬を寄せた。

「この間も、私のランジェリー姿にじっくり見惚れてたものね。私って、冬枝さんの好みのタイプなのかしら」

「何っ!?そんたことがあったのか!?」

 嵐が今にも冬枝に噛み付こうとしたところで、源が「じゃれ合ってる暇、ねえんじゃねえのか」とツッコミを入れた。

「うるせえなあ、元はと言えばナルシー源のせいですよ!」

「とにかく行くぞ、嵐。さやか、お前は留守番してろ。代打ちの仕事が入るかもしれねえからな」

「はい。冬枝さん、お気をつけて」

「嵐、冬枝さんに迷惑かけちゃダメよ」

 鈴子が冗談っぽく言うと、嵐が「ハイ!」とこれまたふざけて敬礼のポーズを取った。

 ――迷惑なら、とっくにかけられてるっての。

 冬枝は、ほとほと呆れながら運転席に着いた。

 カローラに乗り込む冬枝たちを見送るさやかに、源が肩を寄せた。

「さやか」

「はい?」

「冬枝たちの他に、ここにもう1人、男がいなかったか」

 こちらをじっと見下ろす源の蒼い瞳を、さやかは正面から見つめ返した。

「いえ。冬枝さんと嵐さんだけでしたよ」

「…そうか」

 源はポンとさやかの頭を撫でると、また颯爽と青いスカイラインに乗り込んでいった。

「……」

 駐車場に佇むさやかの背に、嵐たちを送り出した鈴子から「さやちゃーん。私たちも帰りましょ」と声がかかった。



 日中の田舎道は、さほど混んではいない。全速力で駆け抜ければ、業者より先に空港に辿り着ける可能性は高い。

 ――これなら、余裕で追いつけるな。

 源から、業者の名前と車のナンバーは聞き出してある。冬枝は、タバコをくわえながらフロントガラスの向こうを眺めた。

 助手席の嵐も、タバコの煙をふーと吹いた。

「にしても、しったげ揺れますねえ、この車。俺の車といい勝負だ」

「ほっとけ。車なんか、ただ走りゃそれでいいんだよ」

 そう言っている間にもハンドルを握る冬枝の手に振動が伝わるが、もう慣れてしまって意識もしない。

「ひょっとして、この車もダンディ冬枝にとっては思い出の車だったりします?この車でさやかと星を眺めたとか、さやかとチューしたとか」

「バカ言え。車に乗る時は大抵、高根と土井がいるから、んな空気になりゃしねえよ」

 今日は、弟分たちは別用で出払っている。美人で気立ての良い鈴子が冬枝のマンションにいてくれることに特に疑問もなさそうな弟分たちに、「鈴子に冬枝かさやかが誘惑されると困るから、嵐を説得してくる」などとは言えないため、今日は冬枝自ら運転した次第だ。

「それよりダンディ冬枝、さっきの話なんですけど」

「ん?」

「鈴子の下着姿を拝んだって話ですよ。ダンディ冬枝、まさか鈴子と…」

「違ぇよ!俺だって別に見たくて見たわけじゃねえし、さやかだってその場にいたんだぞ」

 嵐からはしつこく追及されるかと思ったが、返ってきたのは意外な言葉だった。

「…すみません。鈴子の奴、昔っからああなんです」

「ああ…って?」

「鈴子、あんまり家族に恵まれなかったせいなのか、親父みたいな年上のオジサンが大好きなんです。人懐っこさのセクシーバージョンというか、モラルがちょっぴり緩いというか…」

 嵐が真剣に頭を下げているので、冬枝のほうが居心地が悪くなった。

「てめえの嫁とは本当に何もなかったんだから、そこまで気にすんな。駐車場では、ちょっと言い過ぎた」

「いやその…鈴子はマジで、前科百犯なんで。美人で巨乳でモテるだけに、不倫相手に困らねえから…」

 普段はおちゃらけている嵐にしょんぼりされると、調子が狂う。冬枝は思わず声を上げた。

「んなこと言うな。てめえが選んだ女だろ」

「冬枝さん…」

「不倫好きだろうが何だろうが、全部ひっくるめて背負ってやれ。てめえが惚れた女に、誰にも文句なんか言わせるんじゃねえ」

 嵐は呆然と冬枝の言葉を聞いていたが、やがて、白い歯を見せて笑った。

「そうっスよね!ペチャパイだろうと雀キチだろうと、ダンディ冬枝が惚れた女ですもんね、さやかは!」

「おい、いつの間に俺の話になったんだ。今はてめえの……」

 ボスン!

 突如として響いた、車全体を揺るがすような音に、冬枝と嵐は顔を見合わせた。

「ダンディ冬枝、盛大にこきました?」

「バカ、んな訳あるか」

 などと言っている間にカローラはどんどん減速し、ほどなくして、完全に停止した。

「おい、嘘だろ」

 冬枝が何度エンジンをかけ直しても、車はうんともすんとも言わない。

 嵐が神妙な面持ちで告げた。

「ご臨終です」

「畜生、よりによって今くたばるかよ。こんなことなら、榊原さんに車買ってもらうんだった」

 冬枝は腹立ち紛れにアクセルを蹴ったが、車からは沈黙しか返ってこなかった。

 嵐が、ギシッと軋むシートから身を起こした。

「しょうがねえから、タクシーでも捕まえますか」

「そうだな……って、ん?」

 車を降りようとした冬枝の視線の先に、何やら気になるものが映った。

 路地裏から、コソコソと出てくる若者2人。新品らしく色鮮やかなスカジャンなんて、この田舎町では滅多に見かけない。悲しいかな、ヤングファッションにさほど感心のない冬枝にすら分かるほど、こちらと比べて東京の人間は垢抜けていた。

「『アクア・ドラゴン』か」

「んだすな」

 嵐が即座に断じ、すぐさま冬枝と共に車から降りた。

 若者たちもちょうど目と鼻の先に車を停めており、そそくさと乗り込もうとしていた。

「ちょうどいい、あいつらの車ガメるぞ」

「あっ、ダンディ冬枝、ちょっと……」

 嵐が何か言おうとしたが、冬枝がひらりとガードレールを飛び越えるほうが速かった。

「よう、兄ちゃん。イカした車乗ってるじゃねえか」

「なんだよ、オッサン」

「オレたち、急いでんだけど」

 明らかにヤクザと分かる冬枝に絡まれても、まるで普通の若者ですと言わんばかりにしらばっくれる。面の皮の厚さが、パチンコ屋で冬枝にビビって逃げた若者とは大違いだ。

 勿論、冬枝も図々しい相手にはそれなりの礼儀で答える。運転席にいた若者の胸倉を引っ掴み、シートから尻が浮くほど持ち上げてやった。

「てめえら、よくもまあ堂々と人のシマうろつけたもんだな。青龍会じゃガキの躾もしてねえのか」

「お前っ…放せ!警察呼ぶぞ!」

「サツ呼ばれて困るのはてめえらじゃねえのか。ああ?」

 冬枝が凄むと、若者は顔を引きつらせて助手席の相方と目線を交わした。

「オッサン、何が狙いだ。オレたちを白虎組にでも突き出すつもりか」

「そうしたいのはやまやまだが、こっちも暇じゃねえんだ。今日のところは見逃してやる」

 ただし車は置いていけ、と言うと、若者2人は少し逡巡していたが、大人しく車から降りた。

「兄ちゃんたち、小遣い稼ぎもほどほどにしとけよ。警察も白虎組も、いつまでも兄ちゃんたちの悪さを許すほど甘くねえ。こんな田舎で死んだって、青龍会は花も手向けちゃくれないぜ」

 嵐が忠告したが、若者たちはただ曖昧に互いの顔を見合うばかりで、小走りにその場を去っていった。

 さっさとエンジンをかける冬枝に続いて、嵐も車に乗り込んだ。

「やさがねなぁ。ヤクザの下請けなんかやってると、目の前の小銭、目の前の楽しみで頭がいっぱいになっちまう。空はこんなに青いのに、奴らと来たら日陰にばっかり隠れてる」

「おセンチなら後にしろ。今はてめえの車の回収だ」

「んだすな。ダンディ冬枝、レッツゴー!」

「ていうか、てめえが運転しろよな」

 流石は東京の悪ガキたちで、『アクア・ドラゴン』の若者たちから奪った車は、冬枝のカローラとは比べ物にならない乗り心地の良さだった。

 ――まだ間に合うか?

 気は急くが、警察に呼び止められては厄介なため、法定速度ギリギリで走る。冬枝の中古車とは加速の早さも異なり、乗っているうちに、冬枝はこれはこれでいいなという気がしてきた。

 ――やっぱ、新しい車はいいな。

『アクア・ドラゴン』のガキ共が、でかい面をしてシマをうろつくのも頷ける。速くてカッコイイ車に乗っていると、それだけで気が大きくなってしまう。

 ――今なら、何でもできそうだ。

 やはり、さやかをデートに誘うなら、中古のカローラよりも断然新車だ。流石に榊原が勧めてくれるような高級車はやり過ぎだが、などとちょっとニヤけていた冬枝の背に、嵐が「あのー」と声をかけた。

「ん?てめえ、さっきから何やってんだ」

 元はと言えば、春野家の家庭平和のために働いているというのに、嵐はさっきから後部座席に回って何かごそごそ探し回っている。

 新車の乗り心地にうっとりしていた冬枝だったが、今になって嵐の行動の意味に思い至った。

 ――チャカを持ち歩いてる『アクア・ドラゴン』が、車にまともなモン積んでるわけがねえ。

 案の定、嵐がしたり顔で後部座席から引っ張り出したのは、袋に入った白い粉と注射器だった。

「あと、シートの後ろに葉っぱもありますね」

「冗談だろ!?あいつら、なんてモン持ってうろついてんだ」

「警察もナメられたもんっスね。すげえな、この量」

 嵐は袋を両手に掲げ、肩をすくめた。

「大方、最初は仲間同士で回していたのが、欲を出して商売始めることにしたんでしょう。どうせ東京じゃ当たり前にやってたことだから、少しぐらいバレねえと思ったんじゃないっスか」

「とんでもねえこと企みやがって。彩北をシャブ漬けにするつもりか」

「そういや、白虎組じゃヤクはご法度なんでしたっけ」

「ったりめえだ」

 薬の密売に手を出し、冬枝によって斬られた笑太郎のことを思い出し、冬枝の横顔に影が差した。

 ――『アクア・ドラゴン』を野放しにはできねえ。

「ダンディ冬枝の正義感には素直に感動しますけど、どうも怪しい雲行きですよ」

 嵐の声に冬枝がハッと我に返ると、嵐がチョイチョイと指で窓の外を指さした。

「『1キロ先検問中』…?だと!?」

「この状況だとまんず、ダンディ冬枝のモノにしか見えないでしょうね。コレ」

 嵐は『御禁制の品』をぷらぷらと揺らした。白虎組ご法度のブツは、勿論、警察に見つかれば一発アウトである。

「畜生、『アクア・ドラゴン』のガキ共のせいでサツに捕まってたまるか」

「このままだと、俺までお縄にかかっちまうな。嫌だなあ、ダンディ冬枝と一緒にヤク吸ってたなんて思われるの」

 中年ヤクザとヒゲ面の元警官が、仲良く一緒にラリっている不気味な図が嵐の脳内に浮かんだ。

「俺だって御免だ。こうなりゃ、この車を捨てるしかねえ!」

 冬枝はハンドルを切ると、車を来た方向へとUターンさせた。

「さっすがヤーさん。車の不法投棄は慣れたモンっスか」

「うるせえ。こんな車、その辺に乗り捨てるわけにいかねえだろうが」

 田舎町には珍しい、ピカピカの高級車が仇となった。こんな車から出てくるところを見られただけで、悪目立ちしてしまう。

 業者が向かっているであろう空港とは真逆の方向に駆け抜ける車に、嵐が頬杖をついた。

「ダンディ冬枝ー。俺の車はー?」

「後で考える!」

 昔取った杵柄で、警察の目につかないルートは頭に叩き込まれている。周囲の車を警戒しつつ、冬枝はハンドルを切った。

 住宅街、郊外、大型トラックが行き交う国道をひた走り、やがて、冬枝たちは海沿いへと辿り着いた。

 波音しか聞こえない、断崖絶壁。眼下では、白い泡が岩に当たって砕けていた。

「ダンディ冬枝、こんなもんでいいっスか?」

 周辺に転がっていた漬物石のような大きさの石を、嵐がひょいと持ち上げる。

「ああ。あとは、これをこうして…」

 石をアクセルの上に置くと、冬枝は車を出て扉を閉めた。

 無人の車はよろめきながら前進し、崖の先端で一度、つんのめりそうになったが――。

 バシャーン――。

 車は吸い込まれるように、鉛色の海へと消えていった。

「………」

「………」

 嵐と2人、車が落ちた海を呆然と見下ろしていた冬枝だったが、ふと思い出したように言った。

「いいのかよ」

「ん?」

「車の不法投棄」

 すると、嵐は不敵に口角を上げた。

「東京から来た悪ガキ共のアシを1本へし折ってやっただけっスよ。まんず、いいでしょ」

「だな」

 冬枝たちは、海に背を向けた。

「さて、これからどうします?」

「タクシーでも捕まえるしかねえだろ。街まで歩くか、公衆電話を探すか…」

「ダンディ冬枝、金持ってるんスか?」

「バカ言うな。財布ならここに…」

 と言って背広の内側を探った冬枝は、空をかく指先に目を丸くした。

「…しまった。車ん中に置いてきた」

「あいしか。ダンディ冬枝の全財産が、海の藻屑に」

「違ぇよ!あっちじゃなくて、俺の車だ」

 エンストしたカローラは、今頃駐禁の札を貼られているか、レッカー車でしょっぴかれたところか。冬枝は、財布の行方を思うと頭が痛くなった。

「そう言うお前は金持ってんのか」

 冬枝が聞くと、嵐はハハッと笑って両手を広げた。

「生憎、パチンコ屋でスッちまいました。宵越しの金は持たねえ主義なんで」

「なに江戸っ子気取ってやがる!元おまわりが聞いて呆れるぜ」

 つまり、文無し男が2人、街外れにぽつんと取り残されたわけである。冬枝は溜息を吐いた。

「嵐。諦めて新車に買い替えろ」

「そうっスねえ。でもその前に、俺たちどうやって帰ります?ヒッチハイクでもしますか」

「野郎2人を乗せてくれる奇特な奴がいればいいけどな」

 一体何がどうして、こんなことになってしまったのか。最悪、20キロは歩くことになるか――頭の中で計算し、冬枝は途方に暮れた。

 ――そんなに歩いたら、膝やっちまうぜ。

 目の前を行き交う車は冬枝たちなど目にも留めず、無情にも通り過ぎていく――と思いきや、王冠のマークがついたタクシーが1台、冬枝たちの前に停まった。

 開いた扉から現れた人影を見て、冬枝は仰天した。

「冬枝さん。ここにいたんですね」

「さやか!お前、どうしてここに…」

 さやかはこともなげに「冬枝さんたちを追跡していたんです」と答えた。

「途中で見失ってしまったので、追いつくのに時間がかかってしまいましたが…見つけられて良かった」

 ホッとしたように笑うさやかが、冬枝には女神様のように見えた。

「さっすが俺の代打ちだ。何でもお見通しなんだな、さやかは」

「えへへ」

 照れ笑いを浮かべつつ、さやかはミノルの先読みに舌を巻いていた。

 ――本当に、ミノルさんの言う通りだった。

 もはや、ミノルには未来を見透かす力があるのではないかとすら思えてしまう。そんな内心は隠して、さやかは「さあ、空港に向かいましょう」と言って、冬枝たちと共にタクシーに乗り込んだ。



「そっか。さやちゃんのお陰で、私たちの車を取り返すことができたってわけね。ありがとね、さやちゃん❤」

 鈴子にぎゅっと抱き寄せられ、さやかはちょっとはにかんだ。

「いえ、僕はたいしたことはしていませんよ。頑張ったのは冬枝さんと嵐さんです」

 ――そして、ミノルさん。

 さやかの脳裏には、ボルドーレッドのスーツ姿のミノルの穏やかな笑みが浮かんでいた。

 あの後、タクシーを急がせたものの、冬枝たちの追跡に手こずったこともあり、さやかたちが空港に到着したのはギリギリの時間だった。

 ――そろそろ東京行きの便が出発しちゃう時間だけど、間に合うだろうか。

 そんなさやかたちの不安を吹き飛ばすかのように、絶好のタイミングで業者は現れた。

 空港に飛び込んださやかたちとぶつかる形で、業者がラウンジからゆったりと歩いてきたのだ。

「そこでたまたま、クルマ好きの人と遭遇しまして。車の改造の話で、ひとしきり盛り上がりましたよ」

 映画に出てくるイギリス紳士みたいな銀髪の男だった、と聞いて、さやかはすぐにぴんときた。

 ――ミノルさんが、業者を足止めしてくれたんだ。

 ミノルはさやかに忠告しただけでなく、自ら出向いてくれたのだ。さやかは改めて、ミノルの先読みに感服した。

 ――ミノルさんって、ホントに魔法が使えるのかも。

「そういえば、源さんのデートの相手って誰だったのかしらね」

「えっ?」

 鈴子の声で我に返ったさやかは、あの日、源が春野家の危機よりも、『女と逢う約束』を優先したことを思い出した。

 真っ青なスカイラインは、明らかに女ウケを意識していた。足早にデートへと向かっていった源の背中が目に浮かび、さやかはちょっと不安になった。

 ――まさか、淑恵さんじゃないよな。

「んなことより、てめえはなんでまだうちにいるんだ」

 キッチンにいた冬枝が、淹れたてのコーヒーを片手に戻ってきた。

「あら、私とさやちゃんの仲だもの。嵐とケンカなんかしてなくたって、いつも一緒よ」

 鈴子がさやかの頬にチュッと口づけると、さやかがぽっと赤くなった。

 コーヒーをズズッと啜りながら、冬枝が渋い顔をした。

「せっかくより戻したんだから、旦那の傍にいてやれよ」

「いいのよ、あいつはあいつで雀荘行ったりパチンコ屋行ったり、好き勝手やってるんだから。ね、さやちゃーん」

「あう…」

 鈴子にまたプチュプチュとキスされ、さやかがとろりと目元を緩める。苦り切った冬枝は、ドンと音を立ててマグカップをテーブルに置いた。

「俺の立場も考えろ。人様の女房連れ込んでるなんて思われたら、外聞が悪いだろうが」

「あら。こんな若くて初心な女の子と同棲してるほうが、よっぽど人聞きが悪いと思うけど?」

 得意げに言ってさやかの髪に顔を埋める鈴子だったが、意外とあっさり引き下がった。

「じゃ、そろそろ冬枝さんにさやちゃんを返してあげますか」

「鈴子さん、帰っちゃうんですか?」

「ええ。このままだと、ダンディ冬枝のジェラシーが大爆発しちゃうから」

 夫の口癖を真似て頭にツノのポーズを取ると、鈴子は軽やかな足取りで冬枝のマンションを後にした。

 冬枝が、ふーっと息を吐いてソファに身を沈めた。

「やれやれ、これでやっと一件落着だな」

「そうですね」

「夫婦喧嘩は犬も食わねえって言うし、周りのためにも夫婦円満であって欲しいもんだ」

「それ、ミノルさんも言ってましたよ」

「誰だよ、ミノルって」

 さやかはしまった、と自分の口を押さえた。

 冬枝の猜疑心たっぷりの眼差しに耐えかね、さやかは仕方なくこう答えた。

「…僕の、ボーイフレンドです」

「ああ?ボーイフレンド?」

「ただの男友達です。詮索しないでくださいね、僕にだってプライバシーがあるんですから」

 冬枝はまだ何か言いたげだったが、ふんとそっぽを向いた。

「しねえよ、詮索なんか。どうせ、麻雀好きの道楽親父だろ」

「まあ、間違ってはいませんけど」

 窓の向こうを見つめていた冬枝は、ふと、パチンコ屋で出会ったあの銀髪の男のことを思い出した。

 ――そういや、結局、あのオッサンは何者だったんだ?

「思い出の車も大事ですが、夫婦の未来には、もっと新しい車のほうが相応しいのではありませんか」

 ミノルの言葉が脳裏に蘇り、冬枝は、榊原と一緒に行った中古車即売会のことをまださやかに話していなかったと気付いた。

「なあ、さやか」

「はい?」

「お前、俺の今の車、どう思う?」

 エンストした挙句、路上に放置された冬枝の中古カローラはその後、高い罰金と修理代と引き換えに帰って来た。つくづく、今回の春野家の夫婦喧嘩では損しかしていない。

 さやかは、何の気負いもなくこう言った。

「あの車、僕は結構気に入ってますよ。初めて冬枝さんと会った日は、ドキドキしながら乗ってたのに、今は僕の生活の一部になっていて……そう思うと、なんだか幸せな気がするんです」

「…そうか」

 ちょっと色褪せた中古カローラで過ごす日常が、ピカピカの都会的なポルシェの魅力をいつまで上回れるのかは、冬枝にも分からない。

 ただ今は、自分たちはこれでいいのだという感慨が――コーヒーの温もりと共に、冬枝の腹にストンと落ちていった。

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