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34話 麻雀小町vs麻雀マリア

第34話 麻雀小町vs麻雀マリア


 スナック『パオラ』の扉に、「休業中」の張り紙が貼られている。

 張り紙の下の方には、小さく「風邪引いたので治るまで休みます。ゴメンネ!」とマーカーで書き添えられていた。

「………」

 白虎組若頭補佐・霜田は張り紙をしばらく見つめた後、くるりと踵を返して、夜の街へと消えていった。



 翌朝、朽木は愛車のジャガーを古いアパートの前に乗りつけた。

「……」

 ビニール袋を片手に、カンカンと音を立てて鉄骨の階段を上ると、角部屋のドアをノックした。

「姐さん。朽木です」

「はーい。開いてるわよ」

「邪魔します」

 部屋に入った朽木は、靴を脱ごうとしてぎょっとした。

 ――誰の靴だ!?

 狭い玄関に、明らかに男物の革靴が脱ぎ散らかされている。大きさからいって、この部屋に来る男のものではない。

「姐さん、誰か来てるんですか?」

 と言いながらのれんをくぐった朽木は、畳の上で堂々とあぐらをかくピンクの革ジャン姿を発見して、度肝を抜かれた。

「ああ!?なんでてめえがここにいるんだ、春野嵐!」

「お前こそ、なんで美佐緒ママの部屋に勝手知ったる顔で入ってきてるんだよ。この間男!」

 春野嵐は、「美佐緒ママは俺が守る!」と言って、布団の上にいた美佐緒をしっかと抱いた。

「間男じゃねえ!俺は、霜田さんからの見舞い品を持ってきただけだ!」

 朽木は嵐を突き飛ばすと、「どうぞ、姐さん」と言って美佐緒にビニール袋を差し出した。

「ありがとう、お兄ちゃん」

 美佐緒はガサガサと袋を探って、「あの人ったら、またミカンと栄養ドリンクなのね」と言って苦笑した。

 この部屋の主である美佐緒は、身体がとても小さい。朽木と嵐のでかい図体に囲まれたら、すっぽり隠れて見えなくなってしまう。

 それでいて、その存在感は決してひけをとらない。それもそのはず、美佐緒は白虎組若頭補佐・霜田の元妻にして、今でもスナック『パオラ』を経営する敏腕ママなのだ。

 ――美人だよな、美佐緒姐さんは。

 嵐が「間男」という表現を使うのも無理はない。美佐緒の存在感は、多分にその美貌と、小柄ながらスタイルの良い肉体から発せられている。

 霜田より3歳下のはずだから、美佐緒は今年で46歳になる計算だが、とてもそうは見えない。店の女たちも、美佐緒の若さの秘訣をしょっちゅう聞いているぐらいだ。

 ――女ってのは、男にゃ分からねえ魔法が使えるんじゃねえか?

 美佐緒に限らず、鳴子を見ていても朽木はそう思う。女たちの美しい笑みは、時に愛想笑いや営業などという次元を超えて、どこか人間離れして見える。男には手の届かない世界で、ひらひらと舞っている蝶のようだ。

 女なんて跨るものでしかなかった朽木に、愛おしいという感情を教えたのは鳴子だった。それこそまるで魔法のように、鳴子は朽木の世界を変えた。

 女の魔法に魅せられたのは、朽木だけではない。霜田は美佐緒と別れた今でも、身体の弱い妻への気遣いを欠かさない。ビニール袋の中には、霜田からの現金も入っていた。

 ――なんだかんだ言って仲いいよな、霜田さんと姐さんは。

 美佐緒はミカンの皮をむくと、「はい、嵐ちゃん」と言って嵐に手ずから与えてやった。

「う~ん。おいちいよ、美佐緒ママ❤」

「っていうか、なんでてめえがここにいるんだ。姐さんと知り合いなのか」

 と言ってから、朽木は先日のバレーボール大会のことを思い出した。

 若頭・榊原の不倫を知っていた嵐を問い詰めたところ、嵐はこう答えた。

「さあ、なんでだべか。壁に耳あり障子に目あり、夜のお店に嵐ありってところかしらん」

 あれは、嵐が美佐緒の店――『パオラ』に出入りしているという意味だったのだ。朽木は、嵐の情報網に舌を巻いた。

「姐さん。こいつに若頭のこと喋ったんですか」

「喋ったもなにも、うちの店で知らない人はいないわよ。榊原さんも響子ちゃんもモテるもの」

 美佐緒はしれっと答えて、自分もミカンを一粒ぱくっと食べた。

 確かに、容姿が良くて金もある榊原の愛人の座を狙う女は多いし、店でもトップクラスの美女である響子を狙う客も、これまた数知れない。注目の的同士がデキたのだから、周囲に漏れないわけがなかった。

 ――いや、そんなことはどうでもいい。

 この際、周囲に関係が知れ渡ってしまったほうが、榊原も響子も後に引けなくなるだろう。名家の令嬢である淑恵は、いつまでも寝取られ妻の汚名に耐えられまい。そうなれば、霜田の思惑通りになるわけだ。

 問題は、何故、今ここに春野嵐がいるのかのほうだ。

「美佐緒姐さんの部屋に入るなんて、霜田さんにバレたらナマスにされるぞ。何のつもりだ」

「大好きな美佐緒ママのお見舞いに来たんじゃねえか。美佐緒ママには嫁が世話になったしな」

「…ああ、春野鈴子か」

 嵐の妻・鈴子は、鳴子の姉にあたる。鳴子と時期は違うが、姉妹揃って美佐緒の店で働いていたことは朽木も知っている。

 ――だが、このタイミングでこいつが美佐緒姐さんに接触したのには、必ず何か魂胆があるに違いねえ。

 春野嵐は元刑事で、周囲には好青年を気取っているようだが、朽木はその人格を全く信用していない。鳴子が彩北にいられなくなったのは、ひとえにこの嵐のせいだからだ。

「てめえ、美佐緒姐さんに何させようってつもり…」

 朽木が嵐を問い詰めようとしたところで、美佐緒が「うーん」と伸びをした。

「なんか、お腹すいちゃった。シャワー浴びてご飯食べるわ」

 と言うや否や、美佐緒はその場でパジャマをぱっぱと脱ぎ始めた。ピンクのパジャマの下から、溌溂としたボディラインが現れる。

「キャー、美佐緒ママったらダイタン」

「こらっ、てめえ、春野嵐!美佐緒姐さんを見るんじゃねえ!」

 朽木が嵐の頭を押さえつけ、男2人が土下座しているような格好になっている上を、美佐緒の細い素足が軽やかなステップで飛び越していった。

「お兄ちゃーん、あたしのパンティー取って!バタフライのやつ」

 風呂場から美佐緒に呼ばれ、朽木は仕方なく箪笥から言われた通りのパンティーを取ると、目を片手で覆いながら美佐緒に渡した。

「ありがと、お兄ちゃん」

「どういたしまして。じゃ、俺はこれで失礼します」

「ねえ、お兄ちゃん」

 全裸の美佐緒から呼び止められ、朽木は背を向けたまま「はい?」と聞いた。

 美佐緒は、ぷーっと頬を膨らませた。

「可愛い妻が夏風邪で寝込んでるっていうのに、パパは来てくれないの?いつもは一度ぐらい顔を見せてくれるじゃない」

「それは……」

 霜田とて、美佐緒のことが心配ではないわけがない。長年、霜田夫妻と家族同然に過ごしてきた朽木には、霜田の気持ちが良く分かる。

「そりゃ、無理な相談だべさ」

「…春野嵐!」

 嵐が正面から堂々と脱衣所に向かってきたため、朽木は慌てて嵐の進路を体で塞いだ。

 朽木のバリケードもものともせず、嵐はしつこく朽木の肩越しに美佐緒を覗こうとした。

「今日は白虎組の親分の、還暦祝いパーティーがあんだろ?その準備で、ここ数日パパさんは寝てる暇もなかっただろうよ」

「てめえ、なんでそれを知って…」

「パパったら、あたしより組長が大事なわけ?まあ、組長にはお世話になってるから仕方ないけど」

 美佐緒がぷりぷりと怒って拳を振ると、その下で形のいいバストがぷるぷると揺れた。

 うっかり目で追ってしまいそうになり、朽木はすぐに顔を背けた。

「姐さん。霜田さんには俺からも伝えておきますから、今は養生してください」

「そうね。後で、あたしからも組長にお花贈ってあげなくっちゃ」

「あ、それは霜田さんが代わりにやっておきましたよ」

 朽木がそう言うと、美佐緒は急に眦を吊り上げて、「何なのよ、パパは」と金切り声を上げた。

「パパはもう『パオラ』とは何の関係もないじゃない。勝手にお店とあたしの名前使わないで、って言っておいてちょうだい」

「は、はい」

 この通り、霜田と美佐緒は仲はいいのだが、2人とも気が強いため、しょっちゅうケンカになる。間に挟まれる朽木としては、たまったものではない。

「お兄ちゃん。悪いけど、布団上げておいて」

「あ、はい」

 結局、朽木は布団を上げるついでに、美佐緒の部屋の掃除もしてしまった。霜田夫妻と共に『パオラ』の手伝いをしていた頃の癖で、つい雑用をこなしてしまう。

 その間に、美佐緒はシャワーを終えて着替えていた。

「組長が還暦かぁ。あたしもパパも年取るわけよね」

 美佐緒は霜田から贈られたミカンにマーカーをキュッキュと走らせて、「よし、できた」と笑みを浮かべた。

「見て、お兄ちゃん。パパにそっくりでしょ?」

「勘弁してくださいよ、姐さん」

 ミカンに描かれた顔は、確かに眼鏡といい目つきといい、怒った霜田によく似ていた。そのミカンをぽんぽんとお手玉のように弄びながら、美佐緒は遠い目をした。

「お金くれるよりも、パパが会いに来てくれたほうがいいのに…」

 朽木は、美佐緒の小さな身体が帯びる影の暗さに、少し切なくなった。

 ――昔からこうだった。

 霜田の優しさは、美佐緒の求める愛情といつもすれ違う。だから、相手を嫌いになったわけでもないのに、2人は離婚届に判を押したのだ。

「ほらほらー、見て美佐緒ママ。怪獣クチッキー」

「きゃー、嵐ちゃんったら上手。お兄ちゃんの特徴がよく出てるわ」

 落書きをしたミカン片手にはしゃぐ嵐に、朽木は怒鳴りつけた。

「てめえはとっとと失せやがれ、春野嵐!」



 夏の日差しが、早くも空に照りつける朝――。

 冬枝のマンションは、いつもよりちょっと慌ただしい雰囲気だった。

「兄貴。ネクタイ、これでいいっスか?」

 そう言って振り向いた土井は、黒い背広に黒いネクタイ、黒いサングラス、と上から下まで真っ黒だった。

 冬枝は「バカ野郎」と叱りつけた。

「それじゃ葬式だろうが。お前らはいつも通り、普通のネクタイ締めてりゃいいんだ」

「いやでも、緊張するんスよ。今日は若頭や補佐の他に、会社のお偉いさんもいっぱい来るんでしょう?」

「何せ、親分の還暦祝いパーティーだもんな」

 土井と共に鏡の前で身だしなみをチェックしていた高根は「格好を気にするなら、まずサングラス外せよ」と苦笑した。

 冬枝自身もいつもの枯れ葉色の背広ではなく、シックなダークグレーのスーツだ。

 珍しくネクタイなど締めながら、冬枝はこっそり嘆息した。

 ――何が悲しくて、あのタヌキ親父のお誕生日パーティーなんかに出なきゃいけないんだか。

 白虎組組長・熊谷雷蔵とは、色々と因縁がある。18年前、熊谷の盟友だった笑太郎を冬枝が斬った事件から始まり、最近では組長がさやかを巻き込んで秋津一家に拉致されるという騒動が起こった。

 表面上は一応、親分として接しているものの、冬枝は決して組長に気を許してはいない。組長のほうも同様で、未だに冬枝をヒラ組員としてこき使っている。

 ――俺のことはともかく、さやかにどうこうするのは許せねえ。

 東京から来た青龍会傘下『アクア・ドラゴン』がシマを脅かす中、組長はさやかを秋津一家との取り引きに利用しようと企んでいるらしい。今日のパーティーだって、組長をはじめ街の権力者たちの思惑が十重二十重に絡んでいるに違いない。

 そんなところにさやかを連れて行くなんて冬枝は気が重かったが、さやかも『関係者様』としてパーティーに招待されてしまったから仕方ない。

「すみません。お待たせしました」

 ガチャ、と扉が開き、さやかが部屋から出てきた。

 清楚なペールグリーンのワンピースは、冬枝がわざわざ今日のために買ってやったものだ。朽木じゃないが、組長にまで「さやかに服も買ってやらない貧乏人」と思われては、敵わないからだ。

 さやかの耳にはキラキラとイヤリングが揺れ、淡く化粧した顔が、いつもより大人びて見える。冬枝は、ちょっとだけ見惚れた。

 ――おめかしされると、こいつも年頃の女だって思い出しちまうな。

「あの…僕、変じゃないですか?冬枝さん」

 照れ臭そうに髪を耳にかけるさやかに、冬枝は「おう」と答えた。

「パーティーに来る人間の誰も、お前が代打ちだなんて思わねえだろうよ」

「…それ、褒めてくれてるって思っていいんですか?」

「当たり前だろ」

 冬枝がぶっきらぼうに言うと、さやかが嬉しそうに口紅を手に持った。

「ふふっ。源さんに買ってもらった化粧品のお陰ですね」

「ああ?源さん?」

「この間、僕の代わりに源さんがマキさんと一緒に西武でお買い物してきてくれたんです。その時に、源さんがアイシャドウとか口紅とか買ってくれて…。僕はお金払いますって言ったんですけど、源さんがいらないって言うから、お言葉に甘えることにしました」

 それはさやかと源の身体が入れ替わるという、超常現象が起こった時の話だ。源が選んだ化粧品はどれもさやかによく似合って、さやかが自分で選ぶよりもセンスがいいぐらいだ。特に明るいピンク色の口紅は、さやかのお気に入りだ。

 すると、冬枝がさやかの手から口紅を奪った。

「あっ、冬枝さん?」

「ほー。いい色じゃねえか」

 冬枝は口紅の蓋を開けると、いきなりぐりぐりと自分の唇に塗ったくった。

「あーっ!ちょっと」

「ふん。ほれ、塗ってやる」

 続けて、冬枝は口紅を、さやかの唇にぐいっと真一文字に引いた。

「何するんですかぁ」

「おー、似合ってる似合ってる」

 ポン、と口紅を手の中に投げ込まれ、さやかはむっと唇を尖らせた。

 ――もう、子供みたいなことするんだから。

 冬枝に塗られたせいか、ほんのり色づいた唇が熱く感じる。源に買ってもらった口紅なのに、すっかり冬枝の色に塗り替えられてしまった。

 冬枝は、さやかの肩をポンと叩いた。

「さやか。今日は親分の還暦祝いパーティーだが、招待客なんか大勢いるし、どうせつまんねえ集まりだ。あんまり気張らなくていいぞ」

「いいんですか?そんなこと言って」

「いい、いい。オッサン同士が仲良しこよしするのが目的みたいなもんだから、誰も俺たちなんか気に留めやしねえよ。今日は、美味い飯を食いに行くようなもんだ」

 確かに、組員である冬枝たちはともかく、さやかが招かれたのは「関係者」としてである。代打ちとしても日の浅いさやかは、招待客の中でも単なるおまけに過ぎないだろう。

 そろそろ出ようとしたところで、土井が「うわっ」と驚きの声を上げた。

「兄貴、唇まっピンクっスよ」

「げっ。マジかよ」

 唇を慌てて手の甲でゴシゴシ拭う冬枝の背中に、さやかは苦笑した。



 キャンドルホテル内のパーティー会場は、既に大勢のスーツ姿で埋め尽くされていた。

 ――ここにいるの、みんな街の大物ってことか…。

 よく見れば、さやかが代打ちとして闘った相手もちらほら見える。お盆の麻雀では、地元企業の代打ちとして、東京から来た企業重役の相手をすることも多かったため、よく覚えている。

 そんな大物たちがあちこちのテーブル席で談笑している様は、まるで政治家か大手企業のパーティーのようだ。さやかは、改めて白虎組の権力を実感した。

 ――冬枝さんの席、ここからはよく見えないな。

 組員たちの席は、前方を固める地元企業の重役たちの席を包むように配されている。会場でもっとも後方に位置するさやかの「関係者席」からは、冬枝の背中すら見えなかった。

「さやか。冬枝が気になるのか?」

 隣から艶のある声で呼びかけられ、さやかは冬枝の姿を探すあまり、自分が椅子から腰を浮かせかけていたことに気付いて赤面した。

「…はい。どうしてるのかなーって、ちょっとだけ」

 さやかが照れつつ椅子にストンと腰を下ろすと、隣席からは微笑が返ってきた。

「今頃、冬枝もさやかを探しているさ。バカみたいに後ろをキョロキョロ見回して、周囲から不審がられてる」

「もう。源さんったら」

 さやかの隣にいたのは、アンバーブラウンのスーツ姿も凛々しい、誰であろう源清司だった。

「今日は、源さんに来てもらうことにした」

 と冬枝が明かしたのはついさっき、ホテルに向かう車中でのことである。

「えっ。源さん、パーティーに招待されてるんですか?」

「なわけねえだろ。無理言ってチケットを譲ってもらったんだよ」

 さやかが配された「関係者席」のテーブルは、白虎組の代打ちや組員の知り合いなど、組の身内で占められている。さやかの隣には、最古参の代打ちである岩淵が座る予定だった。

「岩淵さん、よく席を譲ってくれましたね」

「あの人も、昔はよく源さんと麻雀打ったりしてたからな。事情を説明したら、分かってもらえたよ」

「事情って?」

 そもそも、さやかは何故、冬枝が源をパーティーに来させたいのかが分からない。組長と源はあまり仲が良くなかった、と聞いていたからだ。

 冬枝は、先日の秋津一家による組長・さやか拉致事件を取り上げた。

「こないだ、秋津の連中と色々あっただろ。今度のパーティーだって、お偉いさんがわんさか来るんだ。何が起こったっておかしくねえ」

 しかし、冬枝の席はさやかから遠く、事が起こってもすぐにはさやかを守れない。そこで、さやかの隣に源をねじ込むことにしたのだ。

「源さんがいりゃ、とりあえず安心だろ」

「そうですね。冬枝さん、ありがとうございます」

 冬枝の気遣いがさやかは嬉しかったが、冬枝自身は難しい顔をしていた。

「源さんが口説いてきても、相手にするなよ。テーブルの下で足とかすり寄せてきたら、思いっきり踏んづけてやれ」

「源さんだって、組長の誕生日パーティーでそんなことしませんよ」

「分かってねえな。あの人が女落とすのに場所なんか選ぶかよ」

 そして現在、源は本当にさやかの隣にいる。

 源は涼しい顔をしているが、源が組を辞めた経緯を思い出せば、本当は組長の還暦祝いパーティーになんて来たくなかっただろう。さやかは謝った。

「すみません。今日はわざわざ源さんに来ていただいて」

 源は「いや」と首を横に振った。

「冬枝に言われなければ、俺のほうから来てたところさ。秋津一家は、良くも悪くも昔気質の組だからな。死んだ初代のためとなれば、またどんな無茶をするか分からねえ」

 源の言う「初代」とは、秋津一家初代総長にして、朱雀組4代目組長・秋津イサオのことだろう。イサオが東京で殺害されたのは、今年の1月のことだ。

「………」

 さやかの面持ちが暗くなったのを見て、源がすかさず「安心しろ」と言った。

「さやかをさらった米倉って若頭は、既に更迭されてる。事件に関わった他の若い連中も、全員総長からボコボコにシメられた挙句、組から破門されたそうだ」

 さやかの脳裏に、鋭い眼差しで組長に銃を突き付けた男、米倉の姿が思い出された。

「覚えておけ。4代目の恨み、秋津一家が必ず晴らす」

 ――あの人はあの人なりに、組のために行動したんだろうけど…。

 それでも、秋津一家の現総長・秋津タケルの怒りは凄まじかったらしい。制裁後に立って歩けたのは、米倉ぐらいだったという。

「そんなに厳しいんですか、今の総長さんって」

「ゴリラみたいな野郎さ。噂じゃ、闘犬を殴り殺したことがあるらしい」

 と、さやかの前で物騒な話をしたのを反省したのか、源は急に冗談めかして言った。

「どんな野郎が来ようと、俺の敵じゃねえ。さやかのことは俺が必ず守るから、大船に乗ったつもりでいてくれ」

「ありがとうございます、源さん。ところで…」

「ん?」

 ――なんか、源さんの脚がやたら僕の脚にすりすりしてくる気がするんだけど、気のせいかな。

 真っ白なクロスが敷かれたテーブルの下で、源の長い脚が今にもさやかの脚に絡みつこうとしている。さやかは、どうしたものかと赤面した。

 源は素知らぬふりで、さやかの顔を覗き込んだ。

「俺が選んだ口紅、つけてくれたんだな」

「あ、はい…。源さん、口紅選ぶのすっごくお上手ですね」

 そう言いつつ、さやかの脳裏によぎるのは、マンションで交わした冬枝とのやり取りのほうだった。

 ――間接キス、なんて子供みたいだけど。

 さやかが一人で頬を染めている頃、冬枝は源の予想通り、椅子からうーんと背伸びをして、後方のさやかの姿を探していた。

「兄貴、こっからさやかさん見えるんスか?」

「若い女は少ねえからな、目立つんだよ、あいつ。ただ、ちっちぇから埋もれちまうんだよな」

「目立つのか目立たないのか、どっちなんスか」

「こら、土井」

 高根が土井の額をぴしゃりと叩いたところで、冬枝の向かいの席にいた朽木がにやにやと頬杖をついた。

「授業参観日の小学生か、てめえは。そんなにママが気になるか、ん?」

「うるせえな。ほっとけ」

 比喩がその通り過ぎて、ちょっと照れ臭くなった冬枝は、誤魔化すようにタバコに火をつけた。

「麻雀小町はさておき、招かれざる客がいるようだが…てめえの差し金か?」

「さあ。何のことだか」

 やはり、源は目立つらしい。冬枝は、すっとぼけてタバコを吸った。

「俺様はどうでもいいが、霜田さんが目を三角にしてるぜ。めでてえ日だってのに、わざわざ水差すようなことしやがって」

「んなつもりねえよ。ありゃさやかのボディガードだ。補佐様が気にするほどのもんじゃねえ」

「ほー、ようやく麻雀小町に護衛をつける余裕が冬枝にもできたか。出世したこって」

 朽木の軽口はどうでもいいが、確かに幹部たちが集うテーブルに目をやれば、『めでてえ日』だというのに、眉間を寄せる補佐様――霜田の姿が確かにうかがえた。

「どうして源がいるんです」

 霜田が小声でぼやくと、隣にいた若頭・榊原が苦笑した。

「そう文句を言うなよ。源が元気そうでよかったじゃないか」

「あの男が組長の還暦を祝いに来るわけがないでしょう。冬枝め、何のつもりで」

 霜田がギロっと睨み付けると、別のテーブルにいた冬枝はわざとらしくそっぽを向いた。

 榊原は、手元から席次表を取り出した。

「源の席、さやかの隣だろ?きっと、さやかの護衛につけたんだろう」

「源を?麻雀小町の護衛に?ハン、冬枝の奴、昔の兄貴分を顎で使うようになりましたか」

「仕方ないさ。さやかはこの間、親分と一緒に誘拐されたばかりだ。今日は冬枝とはバラバラの席になっちまったし、心配なんだろ」

 そこで霜田は「その件ですが」と声をひそめた。

「結局、組長は麻雀小町を秋津一家との駆け引きに利用しましたね」

「おい、よせよ。こんな日に」

「若頭だって、組長と麻雀小町がたまたま一緒にいて、たまたま秋津一家に拉致された、などと本気で思ってはいないでしょう?」

「………」

 霜田の言う通り、榊原とて先日の秋津一家による拉致事件が、組長の策略によるものだったのではないか、と考えないわけではなかった。

 あの時、榊原たちが駆けつけるのが間に合わなければ、組長のみならずさやかの命も危なかっただろう。

 さやかの身を案じる冬枝や響子、淑恵のことを考えると、榊原は暗澹たる気持ちになった。

「…とにかく、今日は親分の還暦を祝おうぜ。ややこしい話は後だ」

「…ええ、そうですね」

 榊原の気持ちを察したのか、霜田もそれ以上は言わなかった。

 やがて、組長が会場前方の金屏風の前に姿を現し、司会の音頭で乾杯となった。



 地元企業の顔役らによる祝辞が終わると、パーティーは意外と早くお開きになった。

 ――還暦祝いなのに、結構あっさりしてるんだな。

 何より、今日の主役であるはずの組長が、最初の挨拶ぐらいでしか姿を見せなかったのがさやかは引っかかっていた。

 ――やっぱり、『アクア・ドラゴン』や秋津一家を警戒しているんだろうか。

『アクア・ドラゴン』は未だに不気味な沈黙を保っているが、先日、さやかと組長が誘拐された廃工場に放火したことから見ても、決して勢いは衰えていない。秋津一家とて、白虎組との間のわだかまりが完全に解消されたわけではないだろう。

「さやか。ちょっと、付き合ってくれねえか」

 源に促され、さやかは「どちらへ?」と尋ねた。

「野暮用だ」

 源の長い足がすたすたと向かった先は、パーティー会場からほど近い控室だった。

「………」

 アラベスク模様が描かれた深紅の絨毯の上で、源が足を止めた。

「どうしたんですか?源さん」

「…さやか」

 源は、そっとさやかの手を取った。

「手、握らせてくれねえか」

「はあ…。か、構いませんけど」

 源の手が、さやかの手をぎゅっと握り締めた。源の大きな手に、さやかの手はほとんど隠されてしまった。

 手を握る強さに、何か切実なものを感じて、さやかは源の瞳を見上げた。

「大丈夫ですか…?」

「ああ。力加減を確かめてるだけさ」

「力加減?」

「これから会う奴を、ぶん殴らなくていいように」

 その言葉で、さやかはこれから源が会おうとしている人物に見当がついた。

 ドアの前を固める若い衆に源が名乗ると、ほどなくして中へと通された。

 控室で待ち受けていたのは、白虎組若頭――榊原だった。

「久しぶりだな。源」

 榊原が鷹揚に微笑みかけたのに対して、源は氷のような鉄面皮だった。

「やっぱり、嬢ちゃんと源は知り合いだったんだな」

「ええ、まあ」

 榊原は、さやかと源が入れ替わっていた際に、さやかの姿をした源に会っている。その時に、何かあったのかもしれない。

「淑恵も喜んでたよ。源が元気そうでよかったって」

 源と淑恵とは、先日の料理教室の時に顔を合わせている。

「……」

 淑恵の名前が出て、源の眉が一瞬、ぴくりと持ち上がったが、すぐにいつもの真顔に戻った。

 ――源さん、まさか榊原さんと響子さんの不倫について糾弾しに来たんじゃ……。

 さやかが一番に案じたのはそこだ。源に響子のことがバレたというのは、冬枝から聞いている。今でも淑恵を強く想っている源が、榊原の不貞を許せるはずがない。

「街の大物集めて還暦祝いなんて、熊谷もずいぶん偉くなったもんだな」

 開口一番、源はいきなりケンカ腰だった。

 榊原は、落ち着いて受け流した。

「親分のお陰で、白虎組はここまで大きくなれた。今日の会は、俺が無理言ってやらせてもらったんだ」

「そうなんですか」

 と言ったのは、さやかである。

「ああ。親分がいなきゃ、俺も白虎組も今の立場にはなかった。今日のパーティーは、ささやかな恩返しってところさ」

 遠くを見るような榊原の瞳は、どこまでも澄み渡っていた。

 ――榊原さんは、本当に組長のことが好きなんだな。

 いわば、パーティーは榊原の親孝行だったのだ。『アクア・ドラゴン』や秋津一家の脅威の中であっても、組長の還暦という節目を祝いたかったのだろう。

「恩返しか…」

 源は低く口にすると、蒼く切れ長な瞳で、真っ直ぐに榊原を見据えた。

「なら、冬枝はてめえらに何も貢献してねえって言うのか」

「!」

「笑太郎の件を忘れたわけじゃねえだろ」

 嘉納笑太郎――かつて白虎組の若頭だった男のことは、さやかも話に聞いていた。

 18年前、組の禁忌である麻薬の密売に手を出し、破門を命じられた笑太郎は、逆上して先代組長に発砲した。先代を庇った源は重傷を負い、冬枝がすかさず笑太郎を斬った。

 この事件で、笑太郎は一命を取り留めたものの、冬枝は塀の向こうへ送られることとなった。

「冬枝が笑太郎を斬ってなければ、あの場で死人が出てもおかしくなかった。そうなりゃ、てめえも熊谷も今の立場にはいなかっただろうよ」

「………」

「組のためにムショ勤めをしてきた奴に、熊谷は何の見返りも与えなかった。本来なら、冬枝がてめえの席に座っていてもおかしくねえんだぞ」

 源は、長い指で傲岸に榊原の椅子を指さした。

「………今日は、その話をしに来たのか」

 榊原の声は、重く低かった。

 源は、整った横顔をずいと榊原に近寄せた。

「俺の弟にいつまで冷や飯食わせてやがる。タヌキ親父の還暦祝いなんかより、優先すべきことがあるあろうが」

 背後にいたさやかにも、源の冷たい怒りのオーラが見えるかのようだった。

 ――源さん、冬枝さんのために……。

 恐らく、源はずっと冬枝の境遇を気にかけてきたのだろう。自らは引退し、冬枝だけ組に置き去りにしてしまった、という負い目もあるのかもしれない。

「………」

 榊原はしばらく、真っ直ぐに源の視線を受け止めた後、「わかった」と頷いた。

「次に冬枝が手柄を立てた時には、必ず相応の報いをしてやる」

「信じていいんだろうな」

「約束する」

 しばし、榊原と源は、互いの真意を確かめ合うかのように、じっと見つめ合った。

 やがて、源がふっと視線から力を抜いた。

「空手形だが、今は信用してやる。さやかっていう証人がいるからな」

 源はポンとさやかの肩を叩くと、そのまま振り向かずに控室を後にした。

 ドアを開けた途端、見慣れたスーツ姿と紋付き袴が同時に並んでいたものだから、さやかはぎょっとした。

「冬枝さんに、組長…!?」

「おう」

「よく来たねえ、さやかちゃん」

 居心地悪そうに立ち尽くす冬枝とは対照的に、袴姿の組長はニコニコと相好を崩した。

「………」

 組長の姿を見た途端、仏頂面になった源を、組長は横目で見上げた。

「ほらね、さやかちゃん。こういう二枚目って、たいてい性格が悪いんだよ」

「はあ」

「何もこんな控室まで乗り込んで、榊原をいじめることねえだろうに。女々しいと思わねえのかね」

 源が「うるせえ」と低く唸った。

「てめえに言ったところで話が通じねえから、榊原に話したんだろうが」

「おぉ、怖。笑太郎の事件がどうとか言ってたけど、何年前からタイムスリップしてきたんだろうね、こいつ」

「止まってるのはてめえの頭じゃねえのか、爺」

 美貌を歪ませる源に対し、組長もサングラスの奥の目が笑っていない。両者の間に飛び散る火花に、さやかはひやひやした。

「まあまあまあ」

 一触即発となった源と組長の間に、冬枝が割って入った。

「もうパーティーも終わりましたし、俺らは引き揚げましょう。な、さやか」

「は、はい。そうですね」

「失礼します、親分」

 さやかと冬枝は、まだ何か言いたそうな源を両側から引きずるようにして、組長の前をあとにした。

「あんた、わざわざケンカしに来たんですか、源さん」

 ホテルの廊下を歩きながら冬枝が小声でぼやくと、源は「別に」と答えた。

「てめえがいつまでも使いっ走りのままじゃ、さやかが気の毒だと思っただけだ」

「余計なお世話ですよ」

 迷惑そうに吐き捨てつつ、冬枝は密かにホッと溜息を吐いた。

 ――淑恵さんのことで修羅場になってるんじゃなくて良かったぜ。

 それ以前に、冬枝はパーティー会場からいつの間にかさやかと源が消えているのを見て、源がさやかを連れ込んだのだと早合点し、それらしい場所をしらみつぶしに当たっていたら組長と遭遇したのだが、それは言わないでおいた。

「源さん、かっこ良かったですよ。僕、感動しました」

 口が悪い冬枝をフォローするわけではないが、さやかは心からそう言った。

 源は、今でも冬枝のことを弟のように大事にしている。自分ではなく冬枝のために怒った源に、さやかは胸を打たれた。

「さやかが傍にいてくれたからさ。さやかの手を握った手で、人を殴ることはできねえ」

 源は、いつの間にかまたさやかの手を握り締めていた。源の熱い視線にさやかがちょっとどぎまぎしたところで、冬枝がさりげなく源の手を払った。

「………」

 冬枝はふと、榊原の控室の前で組長に言われたことを思い出した。

「どうやら、魔法使いがさやかちゃんの周りをうろついてるらしいよ。気をつけな、冬枝」

 紋付き袴姿で「魔法使い」なんて言われると胡散臭いが、いつも飄々としている組長にしては珍しく、本気の忠告のようだった。

 ――魔法使いと言ったら、秋津一家の最高顧問の……だが、どうしてそんな奴がわざわざさやかの前に?

 摩訶不思議な異名通り、『魔法使い』は秋津一家の司令塔、参謀として名高い。「洗脳」とすら呼ばれる人心掌握で人を巧みに操ることで知られる男が、よその縄張りを自らうろつくとは思えなかった。

 源と別れた後、冬枝はホテルの前でさやかに向き直った。

「さやか」

「はい?」

「知らねえ奴についてくなよ」

 冬枝は一応、真剣に言ったのだが、さやかからは首を傾げられた。

「…僕、子供じゃありませんよ」

「何言ってやがる。俺より24も下なんだから、十分ガキだ」

「冬枝さんは、『ガキ』を代打ちにしてるんですか?」

「あんだと?」

 冬枝が目を剥いたところで、さやかがくすっと笑った。

「分かってますよ。この間のこともありますし、周囲には十分気をつけます」

「…おう。なら、いいんだ」

 青空から吹き抜ける風が、さやかの髪を揺らす。さやかの微笑みの前だと、『魔法使い』も所詮は田舎の中年親父、恐れるに足らずといった気がしてきた。

 ――魔法使いだろうが何だろうが、さやかに近付く奴は俺がぶっ飛ばしてやる。

 冬枝が内心で意気込んだところで、さやかがじっと冬枝の顔を凝視した。

「なんだよ」

「…ホテルの照明だと気付かなかったんですけど…冬枝さん、唇まだピンク色ですよ」

「えっ。嘘だろ」

 さやかが差し出したコンパクトミラーに顔を近づけた冬枝は、確かに口紅がまだ残っているのを見て、天を仰いだ。

 ――どうりで親分がニヤニヤしてたわけだ。

 いつもの含み笑いにしては、肩がプルプル震えていると思った。言われてみれば、源も何か言いたげにこちらを見ていた気がする。

 頭を抱える冬枝に、さやかが「お湯で洗えば落ちますよ」とアドバイスしてくれた。



 公園を囲むように広がるお堀に、陽光と子供たちの笑い声がキラキラと反射する。

 傍らの松の木を見上げれば、昼下がりの青空から爽やかな風が吹き抜けた。通りの向こう側には、キャンドルホテルのロビーの豪奢なシャンデリアが垣間見えた。

「あそこでヤクザの還暦パーティーやってるなんて、ここにいる誰も知らねえだろうな」

 嵐が、欄干に半身を預けて呟いた。

「そう言う君は、ずいぶん事情通のようで」

 ミノルがのんびりと言うと、嵐は「そうでもないぜ」と答えた。

「真夏のスーツおじさんが、なしてさやかのお友達面してるのかが分からねえ」

「おや。いけませんか、真夏にスーツは」

「暑くねえんスか?ぶっちゃけ」

 嵐は身を乗り出しかけてから、「あ、そっか」と言って手を口で覆った。

「年取ると、暑ぃのも感じづらくなるって言いますもんね。秋津の四男坊って、実は年齢サバ読んでたんだ。ひょっとして、還暦組長よりオッサン?」

「こんな見た目ですが、僕は今年で46ですよ。君より年嵩なのは事実ですがね」

 ミノルは苦笑気味に、肩で結んだ銀髪を軽く手で払った。

 不惑を過ぎたとはいえ、総白髪になるような年齢ではない。黒かったミノルの髪から色を奪ったのは、真冬の夜の惨劇だった。

 凍えるような記憶の冷たさから目を背けるように、ミノルは話を変えた。

「僕には、君のほうが謎めいて見えますよ。春野嵐君」

「お?俺って、そんなにイイ男?」

「君はなぜ、夏目さやかさんにそこまでこだわるのでしょう。聞くところによれば、たいそう美人な細君がいるそうですが」

 実のところ、ミノルは今日も、パーティー帰りのさやかに接触するつもりでいた。と言っても、世間話をしようと思っただけだが。

 そこに先回りするようにいたのが、このピンクのジャケットを着た男――春野嵐だったのだ。

 嵐は、わざとらしくいきり立った。

「そら見たことか!ヤクザはみんな胸のでけえ美人が好きなんだ!ジェントル秋津も、スーツの中身はスケベ親父だ!」

「否定はしませんが…『ジェントル秋津』って、まさか僕のことですか?」

 面食らうミノルをよそに、嵐はうーんうーんと腕を組んで唸り始めた。

「なしてだか。ダンディ冬枝もジェントル秋津も巨乳好きのくせに、なっして乳無き子のさやかに構うんだか」

「女性に対してその表現は、失礼だと思いますよ」

 口ではたしなめたものの、ちょっと面白かったのでミノルも笑ってしまった。

「俺は、さやかをヤクザから引き離してえんだ。ペチャパイ乙女がヤクザの還暦祝いパーティーに出席するなんて、どうかしてる」

 不意に、嵐の口調は真剣になった。その眼差しは、道路沿いにあるキャンドルホテルに注がれている。

「正義感…ということですか」

 嵐が元警官だということは、ミノルも知っている。明朗闊達、非常に優秀な刑事だったとも。

「でしたら、僕も君の敵ということになるのでしょうか」

 ミノルは「君は、僕の素性をご存知なのでしょう?」と告げた。

 雀荘『こまち』で初めて会った時、嵐はミノルの着けているバッジをさりげなく指摘した。

 銀色に輝く鷹の羽紋――秋津一家の代紋であることは、地元の警察なら知らぬ者はいない。

 嵐は、「だども」と肩をすくめた。

「ジェントル秋津が俺の敵にならねえよう、既に手は打ってある」

「ほう?」

「さやかは、ヤクザの代打ちから足を洗う。せば、ジェントル秋津がさやかをつけ回す理由もなくなる。だべ?」

 つけ回す、という表現もまた、不本意だが否定はしづらい。それよりも、ミノルは嵐の自信満々の予言が気になった。

「君には、何か策があるのですか」

 嵐は「ある!」と言って、無駄に偉そうに胸を張った。

「俺には嫁以外にも、胸のでかい美女の知り合いがいるんでね」

「ほほう。それは羨ましい」

 ミノルは割と本気でそう言ったのだが、嵐は詳しくは語らなかった。

「まあ、ジェントル秋津はそのエロ眼鏡で見物してるこった。どうせ、さやかの動向を24時間見張ってるんだろ?」

「流石に、そこまではしていませんよ」

 さやかが外にいる時ならともかく、自宅には冬枝がいる。下手に見張ろうとすれば、こちらの存在が冬枝にバレるだろう。

 何にせよ、嵐の作戦には純粋に興味を惹かれる。ミノルは嵐の言う通り、今回は傍観に徹することにした。

「君は、なかなか愉快な男ですね」

「ヤクザに褒められても、嬉しくねえなあ」

 あー腹減った、と言って、嵐はタバコ片手に白昼の街へとぶらぶら歩いて行った。

「いいんですか?口止めをしなくて」

 すぐ傍で会話を聞いていた側近の栗林が、遠ざかっていくピンク色の背中を心配そうに見つめた。

 嵐は、ミノルの正体をさやかにばらすかもしれない。だが、ミノルは首を横に振った。

「構いませんよ。むしろ、彼がどう出るのか楽しみです」

 嵐の思惑は、白虎組や秋津一家の利害からは大幅に外れている。それでいて、奇想天外なことをしでかしてくれそうな予感がする。

 ――つまらない邪魔をするより、彼の好きにさせたほうが面白そうです。

 何より、もしミノルの正体を知っても、さやかはミノルから離れない。自惚れかもしれないが、ミノルにはそんな確信があった。

 ミノルがふと目をやると、お堀の噴水には、いつしか小さな虹がかかっていた。



 数日後の夜、さやかはあの裏社交場で、再びミノルと遭遇した。

 低く音楽が流れる遊技場には、高レートの賭博に勤しむ紳士淑女がたむろしている。薄暗いスーツやドレスの群れの中でも、さやかにはボルドーレッドのスーツの背中がひときわ輝いているように見えた。

「ミノルさん。こんばんは」

「さやかさん。おひとりですか」

 さやかは「はい」と答えると、ミノルのいる卓を見下ろした。

「盛り上がっているみたいですね…」

 さやかはそっと腰をかがめ、小声で「独壇場じゃないですか」とからかうように笑った。

「分かりますか?」

「ええ。まるで、牌がミノルさんに吸い寄せられているみたい」

 ミノルは、ただ強いというだけではない。牌の切り方、手の作り方に至るまで、常に変化と可能性に富んでいる。ミノルが目には見えない糸で手繰り寄せようとしているのは、あっと驚くような展開だ。

 だから、さやかはミノルの捨てた牌、手牌を見ているだけで、胸がわくわくする。これはこういう戦略だろうか、ここからどう手牌を作っていくのだろうか、と、心を奪われてしまう。

 結局、その場はミノルの圧勝だった。品の良い対戦相手たちは、いずれも苦笑いして紙幣を卓上に置いていった。

「ああ、楽しかった」

 さやかが思わず感嘆混じりに呟くと、ミノルが不思議そうに瞳をひらめかせた。

「麻雀小町のお眼鏡に適う打牌ができたでしょうか」

「だって…こう言っちゃ悪いですけど、ミノルさんとお相手の皆さんじゃ、雀力が違いすぎます。普通だったら、つまらないワンサイドゲームになるところです。なのに、こんなに熱い対局に練り上げることができるなんて」

 弱い相手に合わせて、わざと手加減しているのとも違う。ミノルは常に、最善の手、最強の手を、136枚の牌から作り上げようとしている。

 ミノルは対戦相手の向こう側、もっと大きな麻雀の宇宙へと手を伸ばしている。さやかには、そんな風に思えてならなかった。

「フフ…、どうせ打つなら、面白いほうがいいじゃありませんか」

 ミノルは、穏やかな笑い声の奥にも、どこか熱いものを秘めている。さやかは、そんなミノルが格好いいと思った。

「ミノルさんの打牌を見てると、子供の頃に初めて麻雀が楽しいって思った時の気持ちが蘇るような気がします」

「おや。さやかさんは、そんなに前から麻雀をたしなんでいらっしゃるんですか」

「はい。小学生の時、兄が消しゴムで麻雀牌を作ってくれたんです」

 麻雀が好きという気持ちは、あの頃と変わらないつもりでいたが――大人相手に肩肘を張っているうちに、麻雀に対する純粋さを忘れていたのかもしれない。

 ――もちろん、代打ちの時は『楽しい』って気持ちだけじゃダメなんだけど。

 だが、ミノルならきっと、真剣さと純粋さを両立させることができるのだろう。ミノルの領域に達するには、さやかはまだまだ経験不足だ。

 さやかが兄の話をすると、ミノルも「僕にも兄がいまして」と言った。

「兄が3人いるんですけどね。いずれも身の丈と腕力は僕より優れていますが、麻雀となると3人揃ってからっきしなんです」

「じゃあ、ミノルさんも、お兄さんたちへの唯一の対抗手段が麻雀だったんですね」

「その通り」

 ミノルは、卓上の牌を1つ、指でつまみ上げた。

「これのお陰で、横柄な兄たちからも少しは一目置かれるようになりました。男兄弟というのは、なかなかに上下関係が厳しいものですから」

「ミノルさんの麻雀は、特別ですよ。ミノルさんの麻雀に痺れない人なんていないです」

 実際に打っていないさやかですら、傍で見ているだけで胸が熱くなったのだ。ただ強いだけでは出せない魅力が、ミノルの麻雀にはある。

「そこまで言われてしまうと、何だかこそばゆいですね。どうです、ドリンクでもご馳走しましょうか」

「わあ。いいんですか」

 さやかは、素直にミノルの誘いに乗った。

 バーカウンターに着くと、ミノルはまたテキーラを、さやかはオレンジジュースを頼んだ。

「さやかさんは、お酒は飲まないんですか」

「僕、まだ18なので」

「真面目ですねえ。僕が君ぐらいの年の頃なんて、朝まで飲まない日はありませんでしたよ」

「聞かなかったことにします」

 麻雀もそうだが、ミノルは穏やかな物腰とは裏腹に、かなりのギャンブラー気質だ。銀色に靡く髪でさえ、常識に反したお洒落のように思えてくる。

 ミノルは、まるで紅茶を口にするかのような優雅さでテキーラを口にした。

「ところで、雲隠れしていた彼氏とはあれから再会できましたか」

「はい!ミノルさんのおかげです」

 以前、冬枝が5日も音信不通になり、ミノルがさやかの相談に乗ってくれたことがあった。ミノルの助言でさやかの不安は晴れ、雲隠れしていた冬枝を帰宅させることができた。

「さやかさんの花嫁姿、美しかったですねえ。君の彼氏は幸せ者です」

「そんな…、どうでしょうか」

 さやかは、照明を反射するマホガニーのスツールに目を落とした。

「彼氏と、何かありましたか?」

 さやかの躊躇いを、ミノルはさりげなく拾い上げてくれた。

 ミノル相手に愚痴をこぼすのも申し訳ない気がしたが、さやかは正直に打ち明けることにした。

「別に、ケンカしたとかいうわけじゃなくて……本当に、何もないんです。ただ…」

「ただ?」

「……僕にはあの人しかいないけど、向こうはそういう訳じゃないから…」

 さやかは、冷えたグラスをぎゅっと両手で包み込んだ。

 今の自分の心は、このグラスよりも小さくて狭い気がする。今までは耐えられた冬枝の朝帰りが、無性に我慢できなくなるなんて。

 ――別に、僕たち、付き合ってるわけじゃないし。

 何度も呪文のように言い聞かせても、胸の内で暴れる嫉妬と不安をどうすることもできなかった。そんな自分と向き合いたくなくて、さやかは夜の街へと逃れた。

 来たばかりの頃は、すぐ眠りに就く田舎町だと思っていた。それが今では、夜明けを知らない裏社交場に一人で出入りするようになってしまった。

 不良を気取っているわけではない。冬枝以外の男と遊ぶつもりもない。ただ、麻雀を打ちたいだけだ。

「打っている時だけは、僕が好きな僕でいられるんです」

 すると、黙って聞いていたミノルが、眼鏡の奥の瞳をにっこりと細めた。

「僕もです」

「ミノルさんは…いつだってカッコいいじゃないですか。聡明で、冷静で」

「そう言ってもらえるのはとても嬉しいのですが、生憎、僕もただの凡人です。いたずらに人を憎んだり、疑ったりしてしまう時もあります」

「…ミノルさんにも、そんな時があるんですか」

 ミノルは「ええ」とどこか寂しげに笑った。

「先ほどもお話しした通り、僕は他の何を取っても、上の兄たちには遠く及びません。ですが、雀卓では最強でいられる」

 さやかさんは僕のことを魔法使いみたい、と言いましたが――とミノルはさやかを見つめた。

「僕ではなく、雀卓が魔法をかけてくれるんですよ」

「雀卓が…魔法を」

「さしずめ、麻雀ではなく、『魔雀』ですかね。フフフ」

 空中でくるくると字を書くミノルの仕草は、やはり杖を振る魔法使いのようだった。さやかも、つられて小さく笑った。

「言われてみれば、僕も雀卓に魔法をかけられてるのかもしれません。街で会ったら怖いおじさんにも、雀卓でなら強気に出られますから」

「それなら、さやかさんも立派な魔法使いですよ。ああ、この場合は『麻法使い』とでも書けばいいでしょうか」

 ミノルがまた空中を指でなぞり、さやかはくすくすと笑った。

 ミノルとのたわいない会話が、さやかの心の空白を埋めていく。パチパチと弾けるソーダのような時間は楽しくて、終わりが名残惜しくなる。

「魔法が解けたら、どうすればいいんですか?」

 縋るようなさやかの問いに、ミノルは優しいまなざしで答えてくれた。

「己の弱さを知ってこそ、人は強くなろうと努力します。君も僕も、今までもそうやって少しずつ、強くなっていったのではありませんか」

「あ…」

「牌を引いた時と同じです。今は不要牌でも、間違いなく場を成立させる136枚のひとつです。同様に、どうしようもなく苦しい時間も、もっと大きな何かに繋がっている。そう思えば、少しは気が楽になるのではないでしょうか」

 ミノルが「おじさんの助言は、お説教臭いですか?」と首を傾げたので、さやかはぶんぶんと首を横に振った。

「とんでもないです!僕、ミノルさんと話してると、自分の中で埋もれてた何かが、はっきり見えてくるような気がします」

「フフ…それは良かった」

 ミノルは「でも」と言って、タバコにマッチで火をつけた。

「君を悲しませるような彼氏なら、潔く捨てるのも手だと思いますよ。不要牌は不要牌ですから」

「ははは…」

「さやかさんなら、引く手数多でしょう。例えば、『こまち』にいたピンクの革ジャンの彼とか」

「嵐さんですか!?」

 やはり、冬枝のような中年ならともかく、中途半端に若い嵐とさやかが一緒にいると、傍目にもそれっぽく見えてしまうのだろうか。さやかは顔をしかめた。

「僕のタイプじゃありません。あの人、結婚してますし」

「これは手厳しい。さやかさんは潔癖で、大いに結構です」

 そういえば、とミノルは思い出したように言った。

「さやかさんは、『麻雀マリア』をご存知ですか」

「麻雀マリア…?」

 首を傾げるさやかに、ミノルが説明してくれた。

「僕も実際にお会いしたことはありませんが、何でも非常に強い打ち手だそうです。しかも、打倒麻雀小町を掲げているとか」

「えっ…それって、僕のことですか?」

「他にはいないかと」

 ミノルは意味ありげに笑うと、くいっとテキーラを飲んだ。

「『麻雀マリア』は今、自分の店で色々な客と打って、腕ならしをしているそうですよ。そして、ゆくゆくは麻雀小町を倒すのだと」

「その人、雀荘を経営してるんですか?」

「いえ。恐らく、雀卓のあるスナックの類でしょう」

『麻雀マリア』と名乗っているということは、女性だろう。それでスナックの経営者となると――さやかの頭には、ある人物の名前が浮かんでいた。

 ――でも、どうしてあの人が僕を倒そうだなんて……?

 会ったこともない『麻雀マリア』に、『打倒麻雀小町』と敵視されるような覚えがさやかにはない。あるいは、噂が独り歩きしているだけだろうか。

「麻雀小町と麻雀マリアの対決……個人的にも、勝負の行方が気になるところです」

 冗談交じりに言うミノルに、さやかは苦笑いした。

 さやかは、ちらっと腕時計を見た。ミノルの麻雀を最後まで観戦したのもあって、時刻は深夜2時を回っていた。

「ミノルさんと喋ったら、元気出ました。今日は、そろそろ帰ります」

「それがよろしいでしょう。夜更かしは美容によくないですからね」

 ミノルは、裏社交場のあるビルの出入り口までさやかを送ってくれた。こんな深夜に、こんないかがわしい場所で大の男と2人でいるというのに、さやかは不思議と緊張しなかった。

 ――ミノルさんといると、何だかすごく素直でいられる。

 ミノルはさやかより遥かに年上だが、友人のような、家族のような、とにかく何でも話せるような気持ちになってしまう。ミノルの懐の深さによるものだろうか。

「じゃあ、また」

「ええ。またお会いしましょう、さやかさん」

 ミノルに手を振り、さやかは軽やかな気持ちで真夜中のビルを出た。

 そして――目の前に見慣れた中古のカローラが停まっているのを見て、心底驚いた。

「えっ…冬枝さん?」

「………」

 運転席の冬枝が、無言で乗るようさやかに促した。さやかは、ばつの悪い気持ちで助手席のドアを開けた。

 ――なんだか、夜遊びしてたのを父親に見つかった気分……。

 さやかが助手席に乗り込むと、案の定、冬枝は説教調だった。

「さやか。お前、こんな時間まで何やってたんだ」

「麻雀打ってました」

 答えるさやかもつい、つっけんどんな言い方になってしまう。

 予想通り、冬枝は「あのな」と声を上げた。

「お前が雀キチなのは分かってるが、女一人でこんな夜遅くにほっつき歩いてたら、危ねえだろうが。また秋津の奴らにさらわれたらどうするんだ」

「…すみません」

「たまたまこの店のオーナーが俺に電話してくれたから良かったが、でなきゃ俺は今頃、お前を探して一晩中走り回ってたぞ」

「ご心配をおかけして…」

 すみません、と言いかけたさやかの唇は、しかし別の形に歪んだ。

「嘘つき」

「あ?」

「僕を探して一晩中走り回るなんて、そんなの嘘です。だって冬枝さんは、僕じゃなくて別の……」

 さやかは、そこでぐっと堪えた。

 さやかさんも立派な魔法使いですよ――。

 冬枝を見つめているうちに、ミノルの言葉がさやかの中でこだました。ここで嫉妬心をぶちまけてしまったら、さやかは『麻法使い』ではなくなるような気がした。

 ――冬枝さんから、不要牌だと思われたくない。

 今にも涙が零れそうな、さやかの危うい眼差しは、冬枝の目にはどう映ったのだろう。さやかは、そっと冬枝から顔を背けた。

「おい、さやか」

「…すみません。僕が軽率でした。今後は気をつけます」

 実際、冬枝は本当にさやかを心配したから、ここまで迎えに来てくれたのだろう。灰皿には、タバコの吸い殻が山になっていた。

 冬枝の優しさが、今はさやかの胸を真っ二つに引き裂く。

 ――清一色、混一色、緑一色、字一色……。

 麻雀牌でも思い浮かべて心を鎮めようと瞼を閉じたら、涙が一筋、さやかの頬を伝った。暗い車内で冬枝にそれが見えたかは分からないが、冬枝はもう何も言わずに車を発進させた。



「今日は鬼気迫る打ちっぷりだな、さやか」

 翌日の雀荘『こまち』で、嵐がそう言ってさやかの肩を叩いた。

「……どうも」

 さやかは嵐を振り返りながら、片手で点棒を受け取った。客からむしっていると思われてもおかしくないような、乱勝だ。

 だが、嵐が「鬼気迫る」と形容したのは、さやかの荒っぽい勝ち方のほうではないだろう。さやかは、きつくなった自分の眉間を指でなぞった。

 ――ミノルさんみたいに、いつでも平常心でいられたらいいんだけど。

 きっと、ミノルだって人並みに悩んだり苦しんだりしているのだろうが、穏やかな笑みからは決してそれを悟らせない。ミノルの境地に至れたら、こんな八つ当たりみたいな麻雀をしなくてもいいのだろう。

 ――僕はワガママだ。

 冬枝と一緒にいられて、冬枝が優しくしてくれて、それ以上に何を望むというのか。あのピンクの口紅を塗るたびに、さやかの中で独占欲が膨れ上がっていく気がした。

 さやかの乱打に恐れをなして、客が次から次へと卓から抜けていく。やがて誰もいなくなった卓に、嵐がどっかと腰をおろした。

「むしゃくしゃしてるみてえだな」

「…別に」

「ストレス解消したいなら、いい勝負、紹介してやるぜ」

 紫煙の向こうに、嵐の不敵な笑みが揺れた。

「麻雀マリアって知ってるか」

「…聞いたことがあります。確か、僕と勝負したがっているとか」

 さやかは、ミノルから聞いた話を思い出した。

「せば、話が早い。その麻雀マリアと対決させてやるよ」

 どうやら、嵐は『麻雀マリア』と知り合いらしい。さやかは、思い切って尋ねてみることにした。

「『麻雀マリア』って、ひょっとして……」

「大変です、夏目さん」

 さやかを遮り、蒼い顔で飛んできたのは『こまち』マスターの中尾だった。

「どうしたんですか、中尾さん」

「補佐がいらしてます」

「補佐って……霜田さんが?」

 そうこうしているうちに、若い衆のぞろぞろとした足音と共に、グレーのスーツ姿の霜田が姿を現した。

「霜田さん。お疲れ様です」

「昼間っから麻雀ですか。いいご身分ですね」

「はあ…」

 霜田はちらっと嵐に目をやったが、ピンクの革ジャン姿のヒゲ面男にニコーッと不気味な笑みを浮かべられたため、すぐに顔を背けた。

「…ところで、麻雀小町」

「はい?」

「『麻雀マリア』などという、ふざけた噂は聞いたことがありますか」

 ちょうど、嵐とその話をしていたところだ。さやかが目を丸くしたのと同時に、嵐が横から口を挟んだ。

「知ってるぜ。『麻雀マリア』は麻雀がめっぽう強い巨乳の美人で、麻雀小町と対決したがってるってな」

 嵐は訳知り顔で、ぐいっと身を乗り出した。

「で、自分が勝ったら、白虎組の若頭補佐のヒミツを暴露するって言ってるらしいぜ」

 ビシッと嵐の指が差す先には、まさにその若頭補佐――霜田のしかめっ面があった。

「霜田さんの秘密って……」

 今や、白虎組は押しも押されぬ彩北の番人だ。華麗な還暦祝いパーティーを開いた組長をはじめ、政財界に顔が利く若頭・榊原、そして若頭補佐たる霜田も、さやかが知っている以上に権力を持っているだろう。当然、そこには賄賂や買収、その他、人に知られればまずい秘密も絡んでいるはずだ。

 だが、それ以上にさやかをハッとさせたのは、響子のことだった。

 ――まさか、『麻雀マリア』は響子さんが霜田さんの差し金だって榊原さんにバラすつもりなんじゃ!?

 さやかの推理が当たっていれば、『麻雀マリア』は響子とも顔見知りだ。もしも響子が、榊原と淑恵を別れさせるために霜田が差し向けた女性だと榊原が知ったら――榊原と霜田の信頼関係も、響子の叶わぬ想いも、全てが崩壊してしまう。

 無論、いつかは何らかの形で明らかになることだ。その前に、榊原と響子の関係が自然とフェードアウトしていけばベストだとさやかは考えているが、響子の恋着と霜田の執着ぶりを見る限り、それは難しい。

 ――こんな形で響子さんのことがバレてしまうのは、少なくとも最適解じゃない。

 どうして『麻雀マリア』が霜田の秘密を暴露するなどと言っているのかは不明だが、彼女には彼女なりの思惑があるのかもしれない。さやかは、意を決した。

「分かりました。僕がその、『麻雀マリア』と闘います」

「よっ、麻雀小町!日本一!」

 嵐が横ではやし立てたが、霜田は眉を吊り上げた。

「何を勘違いしているのです!私は、そんなくだらないものを相手にするな、と忠告しに来たんですよ」

「えっ?そうなんですか?」

「秘密を暴露するなんて、ありふれた脅しです。そんなものにいちいち恐れをなしていては、補佐は務まりませんよ」

「でも、僕が個人的に『麻雀マリア』と勝負するのは構いませんよね?」

 さやかの問いに、霜田は「はあ?」と眼鏡の奥の顔を思いっきり歪めた。

「補佐である霜田さんを脅すなんて、放っておけません。この僕が、『麻雀マリア』を黙らせてきますよ」

「ですから、余計な世話だと言ってるでしょう。お前は大人しく命じられた勝負だけを粛々とやっていればいいんです」

「安心してください。僕、負けませんから」

「人の話を聞きなさい!!」

 金切り声を上げて地団駄を踏む霜田に対し、さやかは終始笑顔だった。

 ――やっぱり、麻雀に関わってる時が一番楽しいや。

 出入口にかけられた風鈴が、ちりんと涼しげな音を鳴らした。



 その夜、さやかたちは早速『麻雀マリア』の根城であるスナック『パオラ』までやって来た。

「ここ、霜田さんの奥さんの店じゃねえか」

 さやかの話を聞いてついて来た冬枝がそう言ったので、さやかは「やっぱり」と思った。

 麻雀巧者で、しかも霜田の秘密を知っているとなれば――『麻雀マリア』の正体は、あの人しかいない。

 貸し切りの札が下ろされた店内には、他の客の姿はない。ピンク色のライトに照らされ、彼女は悠々と店の奥から姿を現した。

「いらっしゃい。待ってたわよ、麻雀小町ちゃん」

 睫毛の長い大きな瞳と、しなやかな細い脚は、どこか子猫を思わせる。それでいて、紫色の光沢のあるドレスに包まれた豊満なボディと、嫣然とした微笑みは、むせ返るような色香をたたえていた。

 ――ちっちゃいな。

 彼女の目線はちょうどさやかの胸元ぐらいだ。ハイヒールを履いてこの身長なら、彼女は相当小柄なのだろう。何となく猫を連想させるのも、身体の小ささから来るのかもしれない。

「あなたが『麻雀マリア』ですね。お噂はかねがね」

 夏目さやかです、とさやかが名乗ると、『麻雀マリア』もにっこりと笑った。

「『麻雀マリア』こと、美佐緒よ。こっちも『麻雀小町』の評判は聞いてるわ。うちの女の子でも一番巧い響子ちゃんを降したってことは、麻雀小町の名に偽りはなさそうね」

 打倒麻雀小町、という噂とは裏腹に、美佐緒からは敵意は感じられなかった。だが、油断はできない。

 ――響子さんたちの師匠なら、相当の実力者だ。

 響子やその同僚ホステスたちは、酔客の相手をさせるのが勿体ないぐらいの麻雀巧者だった。腕前もさることながら、麻雀に対する姿勢や牌の切り方がとても良い。彼女たちを育てた美佐緒は、一流といっていいだろう。

 早速、店の奥にある雀卓に案内され、さやかの血が騒ぎ始めた。

 ――何だか、久しぶりに腕が鳴る。

 夏場は企業重役相手の接待麻雀ばかりだったから、猶更だ。美佐緒の真意も、勝負する意義もよく分からないが、純粋にこの勝負が嬉しくて仕方ない。

「さやかー、グッイブニーン」

「えっ?嵐さん?」

 雀卓で先に待っていたのは、嵐だった。冬枝も「なんでお前がここに」と面食らっている。

 美佐緒が、細い腕を嵐の首に巻き付けた。

「あたしが呼んだのよ。今日は嵐ちゃんに頼まれて打ってあげるんだから、嵐ちゃんも一緒に打ちなさい、って」

「え…嵐さんが?」

 何やら、話が急にきな臭くなってきた。つまり、嵐が美佐緒を『麻雀マリア』として担ぎあげ、さやかをこの勝負の場に駆り出したということか。

「嵐、お前まさか…」

 冬枝が言うと、案の定、嵐が「イエス」と頷いた。

「今夜の勝負、美佐緒ママが勝ったら、『麻雀小町』は引退してもらうぜ」

「最近言わねえなと思ったら、まだ諦めてなかったのかよ」

 冬枝の呆れ気味のツッコミに、嵐は「諦めません、勝つまでは」と冗談ぽく拳を突き上げた。

「さやか、こんな勝負受けるこたねえ。帰るぞ」

 冬枝がさやかの半袖ブラウスの袖をくいくいと引いたが、さやかは首を横に振った。

「いえ。この勝負、受けて立ちます」

「はあ!?なんでだよ」

「僕が勝負を受けないと、美佐緒さんによって霜田さんの秘密がバラされてしまうんです」

「霜田さんの秘密…?」

 冬枝が怪訝そうに視線をやると、美佐緒が華やかな笑みでひらひらと手を振った。

「そりゃ、元奥さんなんだから、霜田さんの秘密ぐらい知ってるだろうが…放っておけよ」

「そういうわけにもいかないんです。もしかしたら、美佐緒さんは響子さんのことを榊原さんに打ち明けるつもりかもしれません」

 さやかが事情を説明しても、冬枝はまだ納得していない風だった。

「それ、そんなに必死で隠すようなことか?いいじゃねえか、響子さんの背後に霜田さんがいたって」

「霜田さんたちの狙いは、榊原さんと淑恵さんを別れさせることです。もしそれを榊原さんが知ったら、せっかく軟化した霜田さんとの関係が、再び険悪になりかねません」

「なんで、霜田さんが榊原さんたちを別れさせようとするんだよ」

 と言ってから、冬枝の脳裏に、ゴルフ場での灘議員――淑恵の父親――の、傲岸不遜な振る舞いが思い出された。

 ――もしかして、霜田さんは榊原さんを灘議員から切り離したいのか?

「とにかく、『アクア・ドラゴン』や秋津一家とゴタゴタしている今、身内で揉めるようなことはあってはいけません。僕が美佐緒さんを黙らせます」

 意気込むさやかに、冬枝はふと遠い目をした。

「…お前がそんなにごちゃごちゃ考えるようなことじゃねえよ」

「えっ?」

「組のことをそこまで真剣に考えてる奴、組員の中にもいねえよ。お前はただの代打ちなんだから、自分のことだけ心配してりゃいいんだ」

「冬枝さん…」

 スナックの薄暗い照明の下でも、冬枝が向ける眼差しの温かさがわかった。さやかは、胸がいっぱいになった。

 ――冬枝さんには、敵わないな。

 冬枝はいつも、さやかのことを一番に心配してくれている。自分一人の頭の中で思考をこねくり回しているさやかより、ずっと器が大きい。

 ――秋津一家を彩北に引き込んでしまったのは、僕なのに。

 喉元までせり上げたそのセリフは言わずに、さやかは笑みを作った。

「…僕がそうしたいから、そうしてるだけです。『麻雀マリア』と闘いたいっていうのも、本心ですから」

 さやかは「冬枝さん、僕と一緒に打ってくれませんか?」と言って、冬枝に手を差し出した。

「…わーったよ。その代わり、絶対負けんなよ」

 冬枝に力強く手を握られ、さやかは「はい」と笑顔で答えた。



 さやかと冬枝の意気込みとは裏腹に、東場は『麻雀マリア』――美佐緒が制する形となった。

 しかも2位は嵐。さやかは3位、冬枝がウマという、あまり良くない状況だ。

 ――まずいな。

 美佐緒も嵐も終始笑顔で、世間話などしながら打っている癖に、場を見る目が非常に鋭い。さやかも冬枝も油断はしていなかったが、完全に先を越される形となった。

 ――美佐緒さんだけでも強いのに、嵐さんと組まれたらたまったものじゃない。

 響子たちの師匠というのは偽りなく、美佐緒からは経験に裏打ちされた強さを感じる。さやかや冬枝がどんな手で来るかを、かなり正確に読んでいるようだった。

 美佐緒と嵐の力量は、さやかと冬枝の雀力をわずかに上回っている。冬枝は「たいした点差じゃねえ。南場で取り返す」と言ってくれたが、さやかには厳しい勝負であることがはっきりと分かっていた。

 ――たった少しの点差が、永遠に埋まらないことだってある。

 美佐緒と嵐の強さは、そういう強さだ。圧倒的な力でねじ伏せてくる相手よりも、かえってかわすのが難しい。

 ――でも、僕は負けない。負けたくない。

 霜田のため、響子のためというのもあるが、さやかは、冬枝の隣にいながら負けるなんてことはしたくない。

 冬枝に「負けんなよ」と言われたら、さやかは勝つしかないのだ。

「…美佐緒さんは、どうして僕と勝負しようと思ったんですか?」

 休憩ムードになったところで、さやかはずっと疑問に思っていたことを切り出した。

 美佐緒はさやかのグラスにジュースを注ぎながら「面白そうだったから」と答えた。

「面白そうだったから…ですか?」

「麻雀小町ちゃんが強いって噂は、あたしも組のみんなや響子ちゃんたちから聞いてたわ。純粋に一度手合わせしてみたかったのよね」

「僕もです。響子さんたちが美佐緒さんから麻雀を教わったと聞いて、僕も美佐緒さんの腕前を一度拝見したいと思ってました」

「あら。あたしたち、同じ気持ちだったってわけね」

 美佐緒がきゃらきゃらと笑うと、周囲にキラキラと光の粒が舞うかのようだった。

 美佐緒の笑みには、屈託がない。霜田の妻だったと聞いているが、さやかにはとても若く見えた。

「じゃあ、霜田さんの秘密をバラす、というのは…?」

「ただの脅しよ。そのぐらい言わなきゃ麻雀小町ちゃんとは勝負できない、って嵐ちゃんが言うから」

 美佐緒はあっけらかんと種明かしをした。

「てめえ、美佐緒さんを使って霜田さんを脅すって何考えてんだ」

 冬枝が睨み付けても、嵐はどこ吹く風とばかりに口笛を吹いた。

 つまり、さやかに代打ちを辞めさせたい嵐の作戦に、美佐緒は興味半分で乗っただけ、というところらしい。

 ――なんだか美佐緒さんって、霜田さんとは真逆の人だな。

 潔癖な霜田は「麻雀マリアなんてくだらないものは相手にするな」と言っていた。あの語調だと麻雀マリアが自分の元妻だと知っていたのだろうが、霜田の横柄さと、目の前にいる美佐緒の無邪気さとはまるで対極だ。

「あ、お菓子食べる?冬さんも嵐ちゃんも、今夜はじゃんじゃん飲んでいいわよ」

 美佐緒は皿にチョコレートや柿の種を出して、何の躊躇もなく雀卓の上に置いた。

「さやかちゃんは何飲む?ビール冷えてるわよ」

「いえ、僕は…」

 さやかが控えめに断ろうとすると、美佐緒が「あら」と言った。

「この世界に入ったんだったら、お酒ぐらい飲めなきゃダメよ」

「はあ」

「若いうちから飲み慣れておいたほうがいいわ。でないと、悪い男に酔わされちゃうから」

 美佐緒は「はい、どうぞ」と言って、勝手にさやかのグラスにビールを注いだ。

「………」

 さやかがまだ躊躇していると、美佐緒が「ふうん」と意地悪な笑みを浮かべた。

「『麻雀小町』は麻雀はお得意でも、所詮はお子様なのかしら」

「…別に、麻雀とお酒は関係ないと思いますけど」

「そうかしら。組の代打ちがお酒も飲めない、タバコも吸えないっていうんじゃ、舐められても仕方ないんじゃない?」

「…確かに」

 美佐緒の蟲惑的な笑みは、まるでさやかをちょっとしたイタズラに誘っているかのようだ。挑発されたからというより、悪い遊びに乗るような気持ちで、さやかはビールを口にした。

「冷たい。美味しいです」

「良かったわ。遠慮しないでガンガンいってちょうだい」

 ワインもあるわよ、バーボンもあるわよ、と言って、美佐緒は次々に酒瓶を雀卓の上に並べていった。

 強い酒は鼻にツンと突き抜けて、さやかはほとんど一口飲んだだけでやめた。だが、ウィスキーだけは頑張って飲み干した。

 ――ウィスキーは冬枝さんもよく飲んでるし、僕も飲めるようにならなきゃ。

「おい、さやか、大丈夫か?」

 隣から冬枝に肩を掴まれ、さやかは「らいじょうぶれす」と答えた。

「美佐緒ママー、麻雀は?」

 嵐がじれったそうに牌で積み木遊びをしているが、美佐緒は気にもかけなかった。

「後でやるわよ。ねえねえ、さやかちゃん。冬さんと同棲してるってホント?」

「ほんろれすよー」

 さやかが赤い顔で答えると、美佐緒が「まあ!」と手を叩いた。

「あの目つきが悪くて不愛想で源さんに怒られてばっかりいた冬さんにも、やっと奥さんができたのね」

「奥さんじゃありませんって」

 どうやら、美佐緒は冬枝や源と長い付き合いらしい。冬枝が、困り顔でグラスに口をつけた。

 さやかは「そうれすよ、奥さんじゃありましぇん」と言った。

「僕は第四夫人、いや第五夫人れす」

「ブッ!」

 冬枝がウィスキーを噴いたのと同時に、嵐が口笛を吹いた。

「ヒュー。噂のハーレムおじさんって、ダンディ冬枝のことだったんだ」

「俺じゃねえ。なんだよ、ハーレムおじさんって」

「やだ、冬さんったら、クミコちゃん以外にもまだ女の子と付き合ってたの?」

 美佐緒から疑惑の目を向けられ、冬枝は慌てて手を振った。

「違いますよ、あいつとはもう別れました」

「だれれすか、クミコちゃんって」

 呂律の怪しいさやかに絡みつかれ、誤魔化そうとした冬枝より先に美佐緒が「昔、冬さんが付き合ってた女の子よ。うちで働いてたの」と説明した。

「色白でおっぱいがおっきくて、料理上手で気立ての良い子だったわよ。お店のお客さんたちにもモテモテだったんだけど、皆、相手が冬さんじゃ仕方ないかーって諦めちゃって。でも冬さん、クミコちゃんの他にも女の子が」

「美佐緒さん、それ以上はちょっと」

 美佐緒を止めようとする冬枝を押しのけて、さやかが「うがーっ」と吠えた。

「いいもん、いいもん。僕、第六夫人でもいいもん」

「おい、さやか」

「結婚なんて人生の墓場れす。美佐緒さんもそう思いませんか?」

「お前、美佐緒さんに絡むなよ」

 前のめりになったさやかを、冬枝が席に押し戻した。

「そうねぇ…」

 美佐緒はグラスに入った氷を指先でくるくると回した。

「あたしね、20歳の時にパパと出会ったの。パパはまだ大学生だった」

 パパ、とは霜田のことだ。店では美佐緒もホステスたちも、霜田のことを『パパ』と呼んでいるらしい。

「パパはあたしに一目惚れして、毎日バラの花を一輪、贈ってくれたわ。あたしもいつの間にかパパのことが好きになっちゃって、それで結婚したの」

「へー…」

 ――あの沸騰したヤカンみたいなオッサンにも、そんな頃があったんだな。

 霜田と美佐緒のなれそめは、冬枝も初めて聞いた。

 華やかで美人な美佐緒と、地味で神経質な霜田の組み合わせはかなりギャップがあるとは思っていたが、霜田のほうから熱烈にアタックしたとは。

「どうして離婚しちゃったんれすかー?」

 だいぶ出来上がってきたさやかが、至極無邪気に尋ねた。

「よせよ、さやか」

 冬枝はさやかを止めたが、美佐緒はあっけらかんと答えた。

「色々あったのよ。まあ一番は、子供ができなかったことかしらね」

 嵐が「ああ」と気まずそうな声を出した。

「あたしは小さい頃から親も家族もいないようなものだったから、パパと家族が作りたかったの。だけど全然ダメで、そのうち、パパは『もういい』なんて言い出して」

「あっ」

 嵐の手の中で、積み上がっていた牌がバラバラと崩れた。

「もう、頭にきちゃうわよね。『子供なんていらない』って、バカにしてるのかしら。パパの子供を産んでいいのはあたしだけなのに」

「美佐緒さん、飲み過ぎじゃないですか」

 さやかもだが、美佐緒も相当酔っ払っている。冬枝はこっそり美佐緒のグラスを退けようとしたが、横から奪い返された。

 グビグビと酒を呷る美佐緒に、さやかが「そうれすよねえ~」と素っ頓狂な声を出した。

「やっぱり、おろこのひとなんてみんにゃかってなんれすよ。女の気持ちなんてぜーんぜん、ぜーんっぜん、わかってにゃいんでしゅから」

「言われてますよ、ダンディ冬枝」

 嵐にニヤニヤと肘で小突かれ、冬枝は「うるせえ」と口を尖らせるしかなかった。

「でもね…」

 美佐緒は、揺らめくバーボンの水面をしんみりと見つめた。

「真冬に素っ裸でいても、パパと抱き合ってる時が一番安心したの。もうこのまま死んでもいいって思えるぐらい」

「美佐緒しゃん…」

 さやかは、ぼーっと唇を半開きにして美佐緒を見つめた。

「………」

 照明を反射して、グラスがキラキラと光る。このまま永遠に、時間がアルコールの中に溶けてしまうかのような静けさだった。

「よし!南一局、始めるわよ!」

 突然、これまでの酔っ払いっぷりが嘘のように、美佐緒がはっきりと宣言した。

「えっ。まだやるんですか」

「当然でしょ。勝負はまだついてないわよ」

「うにゃー…勝負れす…」

 急にしゃっきりした美佐緒に対して、さやかは赤い顔でうつらうつらしている。冬枝は焦った。

 ――まずい。

 ただでさえ、美佐緒と嵐のタッグは強力無比だ。今の酔っ払いさやかでは、3位・4位という現在の状況を引っ繰り返すことはできない。

 美佐緒はともかく、嵐はしつこい。負けたらさやかに代打ちを辞めさせるという約束を反故にしたくとも、そう簡単には引き下がらないだろう。

 冬枝は、ちゃきちゃきと理牌する美佐緒におずおずと声をかけた。

「美佐緒さん。もういい時間ですし、続きは今度ってことで」

「何言ってるのよ。冬さん、昔は源さんたちと夜明けまで麻雀してたじゃない」

「そうよ、ダンディ冬枝。ここで逃げたら『麻雀小町』の名が廃るわよぉ」

「うるせえんだよ、てめえは」

 わざとらしくしなを作る嵐を、冬枝は手で押しのけた。

 結局、南場が始まってしまった。さやかは明らかに船を漕いでいるし、美佐緒と嵐は戦意マンマンだ。もはや、冬枝が孤軍奮闘するしかなかった。

 ――この2人相手に、俺だけで勝てるのか?

 案の定、美佐緒が「ロン!」と言って、さやかの牌で和了った。

 ――やられた!

 このままでは、追いつけないぐらい点差を開けられてしまう。冬枝が頭を抱えたところで、嵐が眉を八の字に下げた。

「ママ、それフリテン」

「えっ?あらやだ、ホントだわ」

 美佐緒は手にした牌をむーっと睨み付け、「麻雀小町の陰謀ね」と呟いた。

「そうれす、まーやんこまちのいんぼうれす。ひっく」

「いやお前、何も考えてなかっただろ…」

 何はともあれ、命拾いした。さやかのみならず、どうやら美佐緒も見た目より酔っているようだ。

 ――これなら、こっちにもチャンスがある。

 しかし、そんな冬枝の希望も次の局で打ち砕かれた。あまりにも手牌が悪いのだ。

 ――しかも、あいつらは和了るのが早そうなんだよな。

 美佐緒はさっさと鳴き、手を固めにかかっている。嵐は悠々とそんな美佐緒のサポートに徹している。

 それに引き換え、冬枝は完全に手詰まり、さやかは眠そうに牌をこねくり回すばかり。もはや、初心者が熟練相手に打っているような状態だ。

 ――こんなバカみたいな麻雀で、さやかを辞めさせてたまるか。

 冬枝にできることは、美佐緒たちの妨害だけだ。口の中のタバコを嚙みながら、冬枝は慎重に牌を切った。

「あー」

 それを見てさやかが間延びした声を上げたのと同時に、美佐緒が「ロン」と言って牌を倒した。

「げっ…」

 冬枝の口から、ぽろっとタバコが落ちる。

「ほっほっほ、今度はフリテンじゃないわよー。冬さん、ごちそうさま…」

 高笑いした美佐緒の身体が、直後、ふっと雀卓から消えた。

「!?」

 一体、何が起こったのか。

 観葉植物の影に吸い込まれるように消えた美佐緒を追って、視線を背後にやれば、そこにはいつの間にか見慣れたグレーの三つ揃えのスーツ姿があった。

「まったく、言わんこっちゃない」

「霜田さん!」

 白虎組若頭補佐・霜田だ。その傍らには、困り顔で美佐緒を見下ろす朽木もいた。

「何よパパ、今対局中よ。邪魔しないでちょうだい」

 小柄な霜田よりも更に華奢な美佐緒が、霜田の腕の中でぷんすかと拳を握った。どうやら、高笑いした拍子に椅子が引っ繰り返ったらしい。

 霜田はそんな美佐緒を一瞥してから、冬枝たちに向き直った。

「今夜の勝負は、これで終いです。せいぜい、夜道に気をつけて帰りなさい」

 冬枝にとっては渡りに船の申し出だったが、美佐緒は眉を吊り上げた。

「はぁ?何言ってんのよパパ、勝手に終わらせないでよ」

「誰が勝手なものですか。こんなに熱がある癖に、麻雀なんかやってる場合ですか」

「平気よ、このぐらい」

 額に当てられた霜田の手を、美佐緒はペシッと振り払った。しかし、その仕草はどこか弱々しい。

「お兄ちゃん!パパには内緒って言ったじゃない」

 美佐緒に恨みがましく見上げられ、朽木は困り切った様子で美佐緒を支えた。

「姐さん、今夜は帰りましょう。どうせ麻雀小町は年中無休のコンビニみたいな女ですから、いつだって打てますよ」

「まーやんこまち、いいきぶんれーす」

 両頬に人差し指をあててご機嫌なさやかを、冬枝が横から小突いた。

 霜田の手が、そっと美佐緒の髪を撫でた。

「本調子じゃない時に勝負したところで、悔いが残るだけでしょう。布団を敷いてやりますから、帰って寝ますよ」

 霜田が小さな子に言い聞かせるように優しく宥めると、美佐緒のつり上がった目がふっと緩んだ。

「じゃあパパ、今夜は一緒に寝てくれる?」

「バカ言うんじゃありませんよ。いい年して甘えるんじゃありません」

「えー、パパの意地悪」

 口ぶりとは裏腹に、霜田の胸元にぐりぐりと頬を寄せる美佐緒は幸せそうだった。

「冬枝。言うまでもありませんが、今夜のことは他言無用ですよ」

「はい」

 これで今回の勝負はチャラだ。冬枝としても、願ってもない話だった。

「それと…」

 霜田の眼鏡の奥の瞳が、牌でお手玉のように遊んでいるピンクの革ジャン男を睨んだ。

「春野嵐…とか言いましたか。命が惜しければ、二度とこの私を陥れようなどと考えないように」

 霜田の脅しにも怯まず、嵐は「ええーっ」と子供のように駄々をこねた。

「パパのイケズぅ。俺はぁ、ただ美佐緒ママに楽しい勝負をさせてあげたかっただけでぇ」

「お前のパパになった覚えはありません!とにかく今後一切、美佐緒に近付かないように!さもないと、ここの朽木が毎朝、お前の家にモーニングコールをかけますよ」

「うえっ、地味にうだてぇ嫌がらせ!」

「俺だってやりたくねえよ、そんなこと!」

 朽木と嵐がやいのやいの言っているうちに、やがて場はお開きになった。

「霜田さん、美佐緒さん、今夜はお騒がせしました」

「ううん、いいのよ。冬さんもさやかちゃんも、また一緒に打ちましょうね」

 霜田の腕の中が定位置になった美佐緒がニコニコと手を振ると、さやかも「あーい!」と子供のように元気良く手を上げた。



 ――なんか、みょんけた夜だったな。

『パオラ』からの帰り道、さやかの千鳥足が危なっかしいため、冬枝はさやかをおんぶして歩いた。

「うー…」

 酔っているせいか、背中越しに触れるさやかの体が温かい。寝たかな、と冬枝が思ったところで、さやかが「冬枝しゃん」と声を上げた。

「ん?」

「霜田しゃんと美佐緒しゃん、いい夫婦でしたね」

「ああ…そうだな」

 霜田と美佐緒はもう離婚しているが、確かに2人は「夫婦」だった。

 子供に恵まれなかったことが原因でケンカ別れしたと言っていたが、美佐緒は霜田の子供がどうしても欲しかったのだろうし、霜田は恐らく、身体の弱い美佐緒に無理をさせたくなかったのだろう。雀卓から引っ繰り返った美佐緒を支える霜田は、まるでワガママな妹に手を焼く兄のようだった。

 ――結局、互いのことが好き過ぎて別れたってことかね。

 冬枝には分からない世界だが、キンキン声で怒鳴りつけるばかりの守銭奴だと思っていた霜田にも、人並みに女を想う気持ちがあったということだ。不思議なものである。

「いいにゃー…」

 さやかは夢見心地に呟いたかと思うと、突如、冬枝の背の上でがばっと起き上がった。

「冬枝しゃん!僕をお嫁さんにしてくだしゃい!」

「あ…ああ!?何言ってんだ、お前!」

 意味分かって言ってんのか、と冬枝は真夜中の路上で泡を食った。

 しかし、さやかはすぐにふふっ、とシャボン玉のような淡い笑みを浮かべた。

「じょ~だんれすよ、じょ~だん」

「何だよ…驚かせんなよ」

 冬枝がホッと息を吐いたところで、さやかが静かな声で呟いた。

「結婚なんかしなくていいから、ずっと一緒にいてくだしゃい」

 そう言うと、さやかはまたぴったりと冬枝の背中に頬を寄せた。

「………」

 虫の声が、暗闇に響く。冬枝とさやかの前に広がる静かな夜道は、果てもなく続いていくような気がした。

 ――このままずっと、お前と歩いていけたらいいのに。

 冬枝と霜田には、1つだけ共通点がある。自分にとってかけがえがない女のことを、どうすればいいのか分からないのだ。

 ――俺は、お前をどうしたらいいんだろうな。

 さやかに何の約束も与えてやれないことが、やるせない。さやかと一緒にいられるこの時間が、永遠に続くはずがないと分かっているのに。

 同時に、さやかを傷付けたくない、さやかから何も奪いたくないという感情が、冬枝にブレーキをかける。冬枝が自分以外の女と遊び歩く理由など、さやかは知る由もないだろう。

 ――大事過ぎて抱けねえなんて、言えるかよ。

 夜に2人っきりでいたら、さやかに何をしてしまうか分からない。それが怖くて他の女と過ごしているなんて、我ながら臆病すぎていいお笑い草だ。

 いつしか、さやかの寝息が聞こえてきた。無防備な寝息もすっかり聞き慣れてしまって、冬枝は一人苦笑いしてしまった。

「なんか、前におぶった時より重いぞ。お前、夜遊びばっかしてっから太ったんじゃねえか?」

 小声で毒づいても、一度寝ると梃子でも起きない質のさやかには届かない。やれやれ、と溜息交じりにさやかを背負い直し、冬枝は車のライトが交差する街へと一歩踏み出した。

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