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33話 冬枝の雲隠れ

第33話 冬枝の雲隠れ


 冬枝がいない。

 一人きりのマンションで、さやかは溜息を吐いた。

 ――冬枝さん、もう3日も帰って来ない。

 いつも通り、朝出掛けていったきり、冬枝は一度も家に戻って来なかった。今まで、冬枝がこんなに家を空けたことはない。

「冬枝さん、まだ帰って来ないんですか?」

 初日、冬枝が夜になっても帰って来ないことに不審を覚えたさやかがそう尋ねると、家にあわただしく戻ってきた土井が――高根は何故かいなかった――しどろもどろになって答えた。

「あ、えーっとですね、兄貴は当分帰って来れないと思います。ちょっと急用で」

「急用って…何かあったんですか」

 時期が時期だけに、秋津一家や青龍会と何かあったのか、とさやかは不安になった。さやかが組長と共に秋津一家に拉致されてから、そう経っていない。

 土井は「さやかさんが心配するようなことじゃないっス!メシはいつも通り高根が作るんで、安心してくださいね!」と早口にまくしたてると、あれこれと荷物を抱えて外へと出て行った。

 ――あの様子だと、冬枝さん、どこかに泊まるのかな。

 先日の玉榧での会合のように、よそで集まりでもあるのだろうか。同居しているとはいえ、代打ちに過ぎないさやかには言えない用事もあるのかもしれない。

「冬枝さん、いつになったら帰って来られそうですか?」

 2日目の朝、さやかが何気なくそう尋ねたところ、食卓を囲んでいた高根と土井が気まずそうに顔を見合わせた。

「いつ……ですか」

「えーっとですね、ちょっとデリケートな案件でして、いつ帰って来れるってはっきり言えないんスよ」

 土井の必死な言い訳に、さやかは「…そうですか」と頷くしかなかった。

 そして現在、3日目の夜である。冬枝からは何の音沙汰もないまま、時間だけが過ぎてゆく。

 ――どうしちゃったんだろう、冬枝さん。

 用事があったにしても、冬枝ならさやかに一言言っていきそうなものだ。高根たちの説明が妙に曖昧なのも、気にかかる。

 ――もしかして、よそで女の人と会ってるとか……。

 真っ先に考えたのがそれだったが、それならもっとうまく誤魔化すだろう。最近、冬枝が外で飲み屋の女たちとよろしくやっているらしい、とさやかは薄々勘付き始めたが、冬枝はしれっとしていた。弟分たちも、冬枝の素行がさやかにバレないよう、うまく動いているのだろう。

 それに比べると、今回は随分アタフタしている。恐らく、弟分たちにとっても想定外の事態が起こっているのだろう。冬枝がいつ帰って来られるか分からない、というのは、2人にとっても正直な見解だったのではないか。

 ――まさか、病気になっちゃったんじゃ…。

 あり得る話だ。冬枝は43歳、酒豪で大食い、しかもヘビースモーカーである。極道というストレスの多い身の上であることも考慮すれば、あらゆる病気のリスクが高い。

 ――こんな、顔も合わせられないまま離れ離れになっちゃうなんて嫌だ。

 さやかは不安のあまり、中森山動物園で撮った冬枝との2ショットを見つめながら、めそめそと枕を濡らしもした。

 それでも日は昇り、冬枝がいない4日目の朝がやってくる。

 冬枝の不在に落ち込んでばかりもいられない。今日は、先日お流れになった響子との麻雀が控えているのだ。

 玄関のドアが開き、さやかは思わずはっと顔を上げた。

「おはようございます、さやかさん」

「おはようございまーっす」

「…おはようございます、高根さん、土井さん」

 やはり、今日も冬枝はいない。落胆しつつ、さやかは同じ質問をした。

「あの、今日も冬枝さんは帰って来ないんですか…?」

「ああ、その…まだ、帰って来られそうにないですね」

「じゃあ、せめて電話ぐらいできないでしょうか」

 さやかがそう言うと、高根が「電話…。電話ですか…」と難しい顔で腕を組んだ。

 洗濯物をまとめていた土井が、ひょいっと顔を出した。

「じゃ、兄貴にそう伝えておきますよ!さやかさんが寂しがってるから、声ぐらい聞かせてあげてくださいよーって」

「…よろしくお願いします」

 さやかはちょっと赤面したが、土井の能天気な返事を聞いて少しホッとした。

 ――この感じだと、行方不明だとか、意識不明になってるとか、そういう深刻な状況ではなさそうだな。

 高根と土井と共に朝食を済ませたさやかは、響子との麻雀に出向いた。

「この間は、すみません。せっかく約束したのに」

 響子のマンションでさやかが謝ると、響子が首を横に振った。

「とんでもないです。むしろ、夏目さんこそ大変な目に遭いましたね。可哀想に」

「いえ…。組長も一緒でしたし、どうってことないです」

 秋津一家に拉致された後、さやかが冬枝に事の次第を話すと、冬枝はカンカンに怒った。

「何だかんだ言って、結局、さやかを危ない目に遭わせてるじゃねえか、親分は」

「組長には、何か目的があるみたいでしたけど」

 自分一人じゃ釣れない魚――組長は、そう表現していた。さやかを使って秋津一家を引き付け、自分たちを誘拐させることで、組長は何かを実現しようとしているらしい。

 冬枝はぷんすかと息巻いた。

「何が目的だろうと、さやかを利用させてたまるか。お前は俺の代打ちなんだから」

「……はい」

 ――そこは、『俺の女』って言ってほしいんだけど。

 冬枝が怒ってくれるのは嬉しいが、ちょっと物足りなさも感じてしまう。いつの間にかワガママになった自分に、戸惑いつつも幸せを噛み締めた。

 響子も、榊原から組長とさやかの誘拐事件について聞いているらしい。

「あんなに怒っている若頭は、初めて見ました。勿論、自分たちの組長を拉致されたら、誰だって許せないでしょうけど…若頭は特別だと思います」

「…そうですね」

 組長と榊原の絆は、さやかも聞いている。娘の名前を組長に付けてもらうほど、榊原は組長のことを慕っているのだ。

「こんな話、夏目さんはあまり聞きたくないかもしれませんけど…秋津一家では、今度のお詫びに関係者全員の指を送ってきたそうです」

「えっ…指を?!」

 ヤクザが罰として指を詰める、という文化は知っているが、この昭和61年にそんなことを本当にするなんて、さやかは信じられなかった。

 ――秋津一家って、ずいぶん過激なんだな…。

「でも、若頭は指をすべて送り返したそうです。指を詰めたぐらいでは、若頭のお怒りは収まらなかったんでしょうね。一歩間違えれば、組長も夏目さんも命を落としていたかもしれませんから…」

「それじゃ…白虎組と秋津一家は、完全に敵対してしまったんですか?」

 いくら組長の策略とはいえ、『アクア・ドラゴン』が街に潜んでいる今、秋津一家とまで角を突き合わせるのは得策ではない。さやかは案じた。

 ところが、響子によるとそうでもないらしい。

「組長の提案で、組長と秋津一家の総長が、お二人で会われたそうです。そこで、内密の取り引きがされたとか」

「取り引き…ですか」

「流石に、具体的なことまでは教えてもらえませんでしたけど…とりあえず、秋津一家とは今まで通り、敵でも味方でもない関係のままみたいです」

 つまり、組長の命懸けの『釣り』は成功したということだろうか。さやかは、頭上で黒雲のように謀略が蠢いているような気がした。

「…ごめんなさい。夏目さんにも一応、教えておいたほうがいいかと思ったのだけれど…まだ早かったかもしれませんね」

 さやかが考え込んだのを見て、響子が心配そうに言ってくれた。

 響子が入れてくれたレモンティーを一口飲んで、さやかは首を横に振った。

「僕はもう、大丈夫です。教えてくれてありがとうございます、響子さん」

 本当は、響子とはもっと別の話をすべきなのかもしれない。榊原のこと、淑恵のこと、竿燈の夜に喧嘩していた、響子の恋人のこと。

 ――でも今は、ただの友達として響子さんと一緒にいたい。

 さやかが秋津一家に拉致された日、さやかが待ち合わせ場所に来ないことを案じた響子は、わざわざゴルフ場の冬枝に連絡してくれたという。

 榊原とのことは、所詮さやかが口を挟める話ではない。さやかと響子の間にあるものは、穏やかな友情だけだ。少なくとも、今この時は。

「今日来る娘たちは、2人ともお店の麻雀巧者なんですよ」

「わあ、凄いですね。ホステスさんって、みんな麻雀がお上手なんですか?」

「フフ、どうかしら。うちは美佐緒ママが強かったから、その影響だと思います」

 美佐緒――確か、白虎組若頭補佐・霜田の別れた妻だ。響子が勤めている『パオラ』という店のママらしい。

 ほどなくして、響子の友人2人がやって来た。いずれも響子と同世代の美人で、さやかにも屈託なく接してくれた。

 接客業だけあって皆、話がうまく、さやかは心から麻雀談議で盛り上がることができた。

「うわー!今の三萬切りはお見事でしたね。凄い判断です」

「夏目さんこそ、凝った打ち方するのね。お店のお客さんたちと違って、全然手牌が読めなかったわ」

 普段は酔客相手に打っているはずだが、響子も友人たちも、イカサマを一切しない。それでいて硬軟自在の打ち回しをするところを見ると、彼女たちの師匠である『美佐緒ママ』は本当に強いのだろう。さやかは感心しきりだった。

「女の人たちだけでこんなに熱い麻雀ができるなんて、夢みたいです」

「こちらこそ。いつもはわざわざ私たちだけで打ったりしないから、夏目さんのおかげで面白い勝負ができたわ」

「えっ。皆さん、こんなに麻雀がお上手なのに」

 やはり、仕事以外では打たないのだろうか…というさやかの予想とは裏腹に、響子たちの答えは至って当たり前の内容だった。

「そりゃ、女同士で集まったら、ショッピングしたりご飯を食べたりして過ごすもの。麻雀はなかなかやらないわ」

「あ…それもそうか」

 響子も友人たちも、雀士である前に、女友達である。さやかは、休日でも麻雀しか頭にない自分がちょっと恥ずかしくなった。

「家に自動卓があれば、休みでも打とうかなって気になるわよね。響子は、素敵なパトロンがいて羨ましいわ」

「フフ…」

 このマンションも自動卓も、榊原が響子に買い与えたものだ。友人たちに冷やかされ、響子は控えめに笑った。



 響子のマンションを出る頃には、すっかり日が暮れていた。

 ――あー、楽しかった。

 響子たちとの対局は、おじさんと打つ麻雀とはまた違う緊張感があった。さやかは終始トップだったが、彼女たちの打ち回しから学ぶところも多かった。

 ――今日の麻雀ノートは、長くなっちゃうな。

「お前、いつ受験勉強してるんだ?」

 さやかがリビングで麻雀ノートを書いていると、よく冬枝から呆れられたものだった。

 ――ちゃんと受験勉強だってしてるから、安心してください。

 実際、竿燈の後に受けた模試も、志望校合格に問題のない成績だった。さやかが模試の結果を見せたら見せたで、今度は「お前、いつ寝てるんだ?」と驚かれたが。

 黄昏の街角で、さやかは足を止めた。

 ――気が付くと、冬枝さんのことを考えてる。

 冬枝のことを忘れていられたのは、対局中ぐらいだ。響子の友人がタバコを吸うところを見れば、「タバコタバコ…あっ、空じゃねえか」とポケットから出したキャスターの箱を逆さに振る冬枝の姿を連想したし、対局の合間に柿の種をつまめば、冬枝がいつも晩酌の時、さやかに柿の種をピーナッツ多めに分けてくれることを思い出した。

 ――冬枝さんがいる時だって、こんなに思い出さないのに。

 冬枝と4日も会えていないせいで、記憶の中でいいから冬枝に会いたくなってしまうのかもしれない。さやかは、何だか切なくなった。

 ――冬枝さん、僕、美女3人に囲まれて麻雀打ったんですよ。羨ましいでしょう?

 夕空に自慢してみても、返事は帰って来ない。さやかは、溜息を吐いた。

 ――どうせ冬枝さんもいないし、今夜は徹夜で打とうかな。

 この寂しさを紛らわすには、麻雀しかない。さやかは、『こまち』へと足を向けた。

 そこで、鈴を転がすような声音に呼び止められた。

「さやかお姉さま。こんばんは」

「マキさん!こんな時間に会うなんて、珍しいですね」

 ちょうど『こまち』の前に佇んでいたのは、聖天高校に通う女子高生、汐見マキだった。

 といっても今日はお嬢様スタイルではなく、赤いスタジャンに口紅をキリリと決めた、不良少女の格好だ。

 その出で立ちにふさわしく、マキは口調を変えた。

「ねえ、さやか。今夜、麻雀小町にお願いしたい勝負があるんだけど」

 マキの強い眼差しから、真剣勝負の気配を感じる。にわかに、さやかの血が騒ぎだした。

「どんな勝負でしょう」

「詳しくは、車で話すわ。乗って」

 マキはタクシーを止めると、さやかと共に乗り込んだ。

「夏休みはみんな、男と浮かれちゃうのよね。お嬢様学校って言っても、所詮は若い女の集まりだから。エネルギーがあり余ってるのよ」

 聖天高校の生徒会長らしく、マキは夏休み中の生徒たちの身の安全を心配していた。そして案の定、マキに泣き付いてきた下級生がいた。

 マキは、事情をかいつまんで説明した。

「ダンディでちょっとワルなおじさまだと思ったら、うちの生徒を何人も愛人にして囲ってたってわけ。その人数、ざっと16人。立派なハーレムよ」

「最低ですね」

 さやかはバッサリと切り捨てた。女子高生を16人もたぶらかすなんて、卑劣極まりない。

「世間知らずでプライドが高い娘ほど、年上のおじさまにのぼせちゃうのよね。あっ、さやかのことじゃないわよ」

「…ええ、まあ」

 否定もできず、さやかは誤魔化すように車窓を眺めるしかなかった。

「このおじさまがまた厄介で、甘い言葉やプレゼントで女の子たちを繋ぎ止めて、ハーレムがバレても別れようとしないのよ。それで女の子たちもなかなか踏ん切りがつかなくて、自分たちが食い物にされてるって分かってても、ハーレムから抜けられずにいるの」

「それで、僕の出番というわけですね」

 マキは「その通りよ」と人差し指をさやかに向けた。

「今夜の勝負に負けたら、女の子たち全員と別れるよう、奴と話をつけたわ。こっちが負けたら、あたしが新しい愛人になるって条件でね」

「そんな…!マキさん、いくらなんでもそれは無茶です」

 しかし、マキはぺろりと舌を出して笑った。

「さやかは、あんなスケベ親父に負けないわ。平気よ」

「でも、自分の身体を張るなんてダメです。僕はマキさんに何かあったら嫌です」

 さやかがマキの手をぎゅっと握り締めると、マキは嬉しそうに白い歯を見せた。

「そう言ってくれるさやかだから、あたしは安心して賭けられるのよ。負けたって悔いはないわ」

「マキさん……」

 マキの潔い笑顔を見て、さやかも決心が固まった。

 ――そうだ。僕は絶対に負けない。

 雀卓の上では、誰だって一人だ。その信条は変わらないが、自分を信じてくれる誰かがいることで見える世界もあると、さやかは冬枝と出会ったことで知った。

 タクシーは、街中にある一見、マンションのようなビルの前に到着した。

 薄暗い室内に蛍光色のネオンが瞬き、ルーレットやパチンコに興じる人々のさざめきが華やかに満ちる。

 ビルのワンフロアをまるまる使った裏社交場は、かつて冬枝と共に仕事で来たことがある場所だった。

「ここ…、僕とマキさんが最初に会ったところですね」

「そうよ。覚えててくれたのね」

 以前、朽木と勝負して負けそうになったマキを、さやかが助けたことがあった。それ以来、さやかとマキは不思議な友情で結ばれている。

 ――今夜も、何かが起こりそうな気がする。

 マキの案内で雀卓が並ぶエリアに向かうと、先導していたマキが「…あら?」と声を上げた。

「どうしました?」

「もう始まってるみたい。ハーレム親父の卓に、もう人がついてる」

 それどころか、『ハーレム親父の卓』の周りは、人だかりができていた。

 ――この卓で、何かすごいことが起こってる。

 さやかは、観衆の熱気で察した。名勝負には、自然と人を引き付ける力があるのだ。

 そして、卓を支配している人間は、気配でおのずと分かる。さやかは人混みをかき分け、卓を囲む面々を見回した。

 胸元を大きく開けたイタリアンシャツの中年が、恐らく『ハーレム親父』だろう。横には仲間と思しきカラーシャツの中年、そして30代ぐらいの落ち着いた青年がいる。

 ――あの人だ!

 目が吸い寄せられたのは、ボルドーレッドのスーツに身を包んだ、銀髪の男だった。

「………」

 眼鏡をかけ、長い髪を束ねた男は一見、銀髪のせいで初老のように見えるが、よく見ると印象よりも若い。冬枝と同じぐらいか、とさやかは見積もった。

 眼鏡をかけた目元は、卓にいる誰よりも穏やかだ。だが、その瞳の奥に、計り知れないほどの知略が高速で渦巻いているのが、さやかには見えるような気がした。

 さやかは何とか前の方に出て、卓の状況を確認した。

 ――やっぱり、この人がトップ。

 南4局、既にオーラスだ。ここで、勝負が決まる。

 卓を覗き込んださやかは、銀髪の男の手牌を見て驚いた。

 ――もうイーシャンテン。

 まだ4巡目だというのに、驚異的な速さだ。これまでの点棒のやり取りから見ても、まぐれではあるまい。

「………」

 その後も、さやかを含めた一同が固唾を飲んで場の成り行きを見守った。

 銀髪の男は所作も上品で、いささかも威圧的なところはない。それなのに、この場を焦がす緊張感は、明らかに銀髪の男から発せられている。だから、誰もが目を離せないのだ。

 さやかも、最早『ハーレム親父』のことなど頭から消え去っていた。やがて、その『ハーレム親父』が牌を切った時、さやかは銀髪の男の筋書きが成就したことを悟った。

「ロン」

 銀髪の男が、静かに牌を倒した。微笑みすら浮かべながら、その姿勢はあくまでも真剣だった。

 ハーレム親父が、がっくりと肩を落とす。遅れて、観衆がおおっと声を上げた。

「せっかくのメンゼンを崩して、あんな安手で上がるなんて」

「しかも、全局トップのロン和了り」

「今回は、スピードの勝利だな。まるでF1のサーキットを見ている気分だったよ」

 口々に対局の感想を言い合う観衆に混ざりたい気持ちもあったが、さやかはただ黙って立ち尽くしていた。

 ――彩北に、こんな雀士がいたなんて。

「……」

 銀髪の男が、こちらに軽く微笑みかけた気がした。それでさやかは思わず、「あの」と声をかけた。

 銀髪の男は、ゆっくりと椅子を回して、さやかに向き直った。

「こんばんは、お嬢さん。いえ……麻雀小町、とお呼びしたほうがよろしいでしょうか」

「…僕のことを、ご存知なんですか」

「ええ。お噂はかねがね」

 銀髪の男は、この裏社交場の常連なのだろうか。腕前から察するに、表の社会の人間ではあるまい。

 男は、さやかの後ろにいるマキににっこりと微笑んだ。

「君たちの欲しいものは、これで手に入りましたよ」

「えっ?」

「そちらの彼に、誓約書を書かせました。これでもう、悪さはしないでしょう」

 銀髪の男が差し出した紙には、確かに女子高生16人と縁を切る旨、ハーレム親父の署名と捺印つきでしたためられていた。

 ハーレム親父に目線をやると、力なくうなだれている。雀士としても人間としても、銀髪の男の力量に気圧されたのは明らかだった。

 マキが誓約書をぎゅっと胸に抱いた。

「ありがとうございます、おじさま。これで女の子たちを解放してあげられるわ」

「ええ。もしもそこの彼が約束を守らないようでしたら、怖いお兄さんたちがすぐに駆けつけますからね。そこのところは、きちんとお話しておきましたから」

 銀髪の男が微笑み交じりに視線をやると、ハーレム親父がびくっと肩を震わせた。

 ――もしかして、この人もヤクザなんだろうか。

 もっとも、ボルドーレッドのダブルスーツがよく似合う、英国紳士のような佇まいは、『極道』とか『暴力』といった血生臭い言葉からは程遠い。

 子飼いのヤクザがいる企業の重役かもしれない、とさやかは思った。

 マキに引っ張られるようにして、さやかは銀髪の男と共にバーで並んで座った。

「本当に、なんてお礼を言ったらいいか分からないわ。せめて、お名前だけでも教えていただけないかしら」

 マキがそう尋ねると、銀髪の男は「名乗るほどのものではありませんが」と前置きした。

「名前がないのも不自由でしょうから、僕のことはミノルと呼んでください」

「ミノルさん…ですか」

「ええ」

 銀髪の男――ミノルは、落ち着いた見た目に似合わず、テキーラを1杯口にした。

 マキが、興味津々といった様子で尋ねた。

「ミノルさんは、どうしてあの男と勝負なさっていたの?」

「悪評というものは、津々浦々まで響き渡るものです。いたいけな少女たちを慰み者にしている王様気取りのおじさんを許せないのは、君たちだけではありません」

 ミノルの口調は淡々としているが、言葉の底には熱いものを感じる。

 じっとミノルに見入っていたさやかは、マキの声で我に返った。

「せっかくさやかに来てもらったのに、先を越されちゃったわね」

「えっ?ああ…いいんですよ、僕は。マキさんに賭けをさせずに済んで良かったです」

 それよりも、とさやかは身を乗り出した。

「さっきの勝負、5巡目で四萬を見送ったのは大胆でしたね。あくまで、相手に振り込ませるつもりだったんですか」

「おっしゃる通り。単なるツモ和了りでは、相手の心を折ることはできませんから」

 それでさやかは、あの勝負の異様な熱気の理由が分かった。

 ――ミノルさんは、こう見えてかなりの勝負師なんだ。

 ミノルが対決していたのは、相手の牌だけではない。相手の心底まで揺さぶろうとしていたから、その力強さに誰もが引き込まれたのだ。

「わざわざメンゼンを崩して鳴いたのは、牌をずらすためですね。相手に有利な牌を引かせないように」

「ふふ、長年麻雀をやっていると、何となく牌の流れが見えてくるんですよ。1000点の和了りでも、相手の役満を蹴れば1万点の和了と同じ価値になるでしょう?」

 相手の妨害と、相手に振り込ませること。この双方を、ミノルは常人離れしたスピードでやってのけた。牌がすべて透けて見えているのではないか、と疑ってしまいたくなる。

 ――この人、ものすごく面白い!

 ミノルの中には、底が見通せないほど深い麻雀の森がある。そこから溢れる豊かな知見に触れたくて、さやかはあれもこれもとミノルに質問してしまった。

「もう、さやかったら。いつまで麻雀の話してるのよ」

 麻雀談議に夢中になるさやかの背中を、マキがとんとんとつついた。

「あ…すみません、マキさん。僕、つい興奮しちゃって」

「ミノルさんがかっこいいからって、浮気?おじさまに言いつけちゃうわよ」

 マキににやにやとからかわれ、さやかは赤面した。

 ミノルが「おやおや」とのんびりした声を上げた。

「さやかさんには、もう意中の方がおありでしたか」

「そりゃもう、さやかとお似合いの二枚目のおじさまよ。残念だったわね、ミノルさん」

「ま、マキさん!恥ずかしいですっ」

 照れるさやかとは対照的に、ミノルは楽しそうに「フフ」と笑った。

「でしたら、僕もさやかさんのパトロンに仲間入りさせていただきたいですねぇ」

「もう、ミノルさんまで…。ミノルさんみたいな凄い人、僕なんかじゃお付き合いできませんよ」

 結局、1時間ほど3人で盛り上がり、さやかたちはミノルと別れた。

「またお会いしましょう、さやかさん」

「はい!今度はぜひ、僕とお手合わせしてほしいです」

 さやかが意気込んで言うと、ミノルは「喜んで」と微笑み返してくれた。

 その笑みの下に、銀色のバッジがキラリと輝いていることにさやかはようやく気付いた。

 ――変わった形のバッジだな。

 一見、ハートマークにも似ているその紋章は、鷹の羽根を2枚組み合わせた鷹の羽紋だ。スーツに合わせるには随分変わったセレクトだが、何かこだわりがあるのかもしれない。

 マキと共にタクシーに揺られながら、さやかはずっとミノルのことを考えていた。

 ――ミノルさんとは、また会えそうな気がする。

 裏社交場で会った人間と、外で再会することなどまずない。だが、「またお会いしましょう」というミノルの言葉は、社交辞令ではなく予言のようにさやかには響いた。

 ――なんて言ったら、冬枝さんが拗ねちゃうかもしれないけど。

 とはいえ、その冬枝はやはり今夜も帰っていなかった。一人きりのマンションに、さやかは虚しく帰宅した。

「ただいまー…」

 冷蔵庫には「夕飯作ってあります」という高根のメモが貼られていた。さやかが雀荘から帰って来ないのはいつものことなので、高根も土井もすっかり慣れたものだ。

 高根が作ったグラタンを食べ、テレビを何となく眺めても、さやかはうつろな気持ちのままだった。

 ――響子さんのこととか、ミノルさんのこととか、冬枝さんに話したいことがいっぱいあるのに。

 届かない言葉たちは宙に浮いて、今にも風船のように空へと飛んでいってしまいそうだ。さやかもまた、腰が据わらないようで落ち着かない。

 さやかは、自室の引き出しからオルゴールを取り出した。以前、旅館に泊まった際、冬枝から買ってもらったものだ。

 ネジを巻くと、『月の砂漠』がゆっくりと流れ出した。物悲しいメロディが、今のさやかの気持ちにぴったりと寄り添う。

 ――どこ行っちゃったのかな、冬枝さん。

 今のさやかは、まるで一人きりで夜の砂漠を彷徨っているかのようだ。冬枝を探す日々は、果てしなく続く。

「あんまり帰って来ないと、本当に浮気しちゃうんだから…」

 そう呟きながらも、オルゴールの鏡に映るさやかの顔は寂しげだった。



 冬枝が帰ってこないまま、5日目の朝を迎えた。

「僕、事務所に行こうと思います」

 朝食の席でさやかがそう切り出すと、高根も土井も仰天した。

「事務所って、組の事務所ですか?」

「そうです」

「な、なんでまた事務所に?兄貴は事務所にはいないっスよ」

 さやかは「分かってます」と答えた。

「でも、冬枝さんが5日も帰って来ないなんて、やっぱりおかしいです。お二人がわけを説明してくれないなら、事務所にいる誰かに聞きます。榊原さんとか」

「ちょ、ちょっと待ってください、さやかさん!」

 高根が慌てて椅子から立ち上がった。土井も続く。

「今、事務所はちょっとゴタゴタしてるんで、行かないほうがいいっスよ。若頭も、こないだの件でだいぶピリピリしてますし」

「そ、そうです。事情は兄貴がその…帰れるようになったら、ちゃんと説明しますから」

 眉を八の字にして止める2人に悪気がないことぐらい、さやかにだって分かる。それでも冬枝から何の連絡もない120時間は、さやかを疑心暗鬼にさせた。

 ――どうして、何も教えてもらえないんだろう…。

「僕、冬枝さんに嫌われるようなことしちゃったかな…」

 さやかがうなだれると、高根と土井が「とんでもありません!」と声を揃えた。

「決して、決してさやかさんのせいじゃないです。兄貴がさやかさんのことを嫌いになるなんて、ありえません」

「そうっスよ!兄貴だって、本当はさやかさんに会いたくて仕方ないんですから」

「本当ですか?」

 高根と土井は「本当です!」と力強く答えた。

「………」

 高根たちを困らせるのは、さやかの本意ではない。2人が嘘をついているとも思えないし、さやかは引き下がるしかなかった。

「僕、今日も『こまち』で打ってます。冬枝さんが帰って来られそうだったら、電話してください」

 力なくコーヒーカップに目を落とすさやかを、高根も土井も心配そうに見つめていた。



 ――まあ、組事務所に行くなんて、流石に勇み足だとは思ったけど。

 さやかは『こまち』の喫茶スペースで、ぼんやりと頬杖をついた。

 高根たちには打つと言ったものの、まだ9時だ。こんな朝っぱらから打つ気になれない。

 というか、考えれば考えるほど、冬枝が帰って来ない理由が分からなくて、麻雀に集中できそうにない。さやかは、苦いコーヒーに口をつけた。

「あっれー?さやか、珍しい時間にいるじゃねえか」

「…嵐さん。おはようございます」

「おっはモーニン!」

 嵐はさやかの隣の席にどかっと腰を下ろすと、さやかの顔をじっと覗き込んだ。

「何だよ、麻雀小町が卓に着かねえで。元気ねえな」

「僕にだって、そんな日ぐらいありますよ」

 と答えたものの、誤魔化すのも面倒臭かった。さやかは、正直に冬枝が帰ってこないことを話した。

「そりゃ、他の女のトコだな」

 嵐は、きっぱりと断じた。

「嵐さんも、そう思いますか」

「だって、でなきゃさやかに隠す必要なんかねえだろ。さやかに知られちゃまずい理由って言ったら、コレしかねえ」

 小指をピンと立てて、嵐はうんうんと頷いた。

 さやかは、コーヒーカップを静かに置いた。

「…冬枝さんが女の人のところにいるんだったら、それでもいいんです」

「お?」

「別に僕たち、恋人同士ってわけじゃありませんし。冬枝さんのプライバシーは尊重します」

 ただ、とさやかは言った。

「何だか僕だけ置き去りにされたみたいで、気持ちのやり場がないんです」

 稼業のことでも人間関係のことでも、冬枝がさやかに隠していることがあるのは当たり前だ。それぐらいはわきまえている。

 ただ、5日間も全く会えずにいると、寂しさだけが募って――さやかはこのまま、押し潰されてしまいそうだった。

 さやかのセンチメンタルを、嵐は「よっしゃー!」という雄叫びで粉砕した。

「よっしゃあ?」

「さやかもようやく理解したようだな。これが、ヤクザおじさんと付き合うってことの本質だ」

「本質…」

 嵐は、ずいっとさやかに顔を近寄せた。

「不倫若頭の例があんだろ?ヤクザなんてみーんな、女なんか乗って嬉しい、集めて楽しい、車とおんなじだと思ってんだよ。いうなれば、ハーレムの王様気取りだ」

「ハーレム…」

 さやかは、昨夜闘うはずだった『ハーレム親父』のことを思い出した。

「世間知らずでプライドが高い娘ほど、年上のおじさまにのぼせちゃうのよね」

 マキの言葉が脳裏をよぎり、さやかは暗澹たる気持ちになった。

 そこに、嵐が横からガバッとさやかの肩を抱いた。

「ダンディ冬枝と付き合ってたって、お前は一生、第2夫人か第3夫人だ。今回みたいに理由のわからねえ留守なんて、これからゴロゴロ出てくるぞ」

「…そうかもしれませんね」

「こんなくだらねえことで悩むぐらいなら、さやかを一番に愛してくれる男と一緒になったほうがいいと思わねえか?例えば、俺とか」

 図々しくヒゲ面を指差す嵐に、さやかは首を横に振った。

「嵐さんよりだったら、僕は鈴子さんと一緒になりたいです」

「何だよ!人のモン狙うなよ!」

「ほらね。嵐さんだって結局、僕を一番に愛したりなんかできませんよ」

 さやかは嵐の暑苦しい腕をぱっぱとほどき、自嘲の笑みを浮かべた。

「どうせ、僕は世間知らずのうぬぼれ屋です。男の人にのぼせ上がって、弄ばれるのがお似合いなんですよ」

「何だ?いじけ小町か?」

「冬枝さんのハーレムの一員としての決意を新たにしたまでです」

 嵐が「おいおい」と声を上げたところで、夏の日差しには似合わない、深く静かな声がかかった。

「悲観するのは早いと思いますよ。さやかさん」

「…ミノルさん!?」

 真夏だというのにボルドーレッドのダブルのスーツをきっちり着込み、波打つ銀髪を一つにまとめ、丸眼鏡の奥に柔和な笑みをたたえたミノルの姿がそこにあった。

「……」

 嵐が、怪訝そうに顔を上げた。

 昨夜、裏社交場で会ったミノルと、もう再会できるなんて。さやかは驚きを隠せなかった。

「ミノルさん、どうしてここに?」

「フフ…、せっかく彩北に来たので、雀荘をはしごしようかと思いまして。ここ、駅から近いでしょう?」

 ミノルは「不躾ながら、お話を聞かせていただきました」と言った。

「さやかさんのボーイフレンドが、ずいぶん長らく所在が知れないそうで」

「な、長らくっていっても…5日、連絡が取れないだけなんですけど」

 改めて他人から冷静に説明されると、自分が取り乱しすぎていた気がして、さやかはちょっと恥ずかしくなった。

「十分、長い時間だと思いますよ。織姫と彦星じゃあるまいし、人はそんなに辛抱強くはなれません。さやかさんの不安はごもっともです」

「ミノルさん…」

「ですが、彼が他の女性にうつつを抜かしている、と決めつけるのは、少々早計ではないでしょうか。さやかさんも本当は、そうお考えなのでは?」

「…はい」

 ミノルから穏やかに尋ねられると、さやかも冷静に答えることができた。

 冬枝が他の女性と一緒にいる、という仮定は、一見説得力があるように思える。つい、そう片付けてしまいたくなるが、それにしては気になる点がいくつもあった。

「女の人と一緒にいるんだったら、5日も僕の前に姿を現さないのは、かえって不自然だと思うんです」

「僕の経験則から言っても、そうですね。僕だったら、いつも通りにさやかさんと会って、やましいことは何もしていないとアピールするでしょう」

 どうやらミノルも遊び人の気配がするが、さやかは聞き流した。

「だから…多分、他に理由があると思うんです。でも、高根さんたちの様子を見てると、事件に巻き込まれたとか、そういう深刻な状況ではなさそうなんですよね」

「おや。さやかさん以外の方は、彼に会っているんですか」

「そうみたいです。僕だけ会わせてもらえなくて、居場所も教えてもらえないんです」

 ――やっぱり僕、冬枝さんに嫌われちゃったのかな…。

 もしかして冬枝は、さやかと距離を置きたくなったのではないか。いきなりさやかを追い出すのは忍びないから、会わないことで「察しろ」とアピールしているのではないか。

 冬枝は、さやかのどこが嫌になったのだろう。居候でありながら平気で朝寝坊しているところか、家事全般を高根たちに任せっきりなところか、冬枝のおやつやつまみを多めにもらっている図々しいところか――。それとも、単純に飽きられてしまったのか。

 ブルーな想像が渦を巻き、さやかは今すぐこの世から消えたくなった。

 ミノルは「つまり」と話を整理した。

「さやかさんのボーイフレンドは、さやかさんにだけ姿を隠している。そういうことになりますね」

「…はい」

 事実を再確認すると、居たたまれなくなる。さやかは、膝の上に置いた手をぎゅっと握り締めた。

 そこで、ミノルが意外なことを言った。

「もしも、さやかさんが彼の立場だったらどうでしょう」

「えっ?」

「好きな人から5日も身を隠さなければならない理由……どういったものが考えられるでしょうか」

 ミノルは、丸眼鏡の奥の聡明そうな瞳で、さやかをじっと見つめた。

 ――僕が、冬枝さんに会いたくないとしたら……。

 さやかは冬枝に会いたくて、常に一緒にいたくて仕方ない。その気持ちに反して会いたくないのだとしたら、理由は一つしか考えられない。

「…自分の姿を、見られたくない時です」

「ほう」

「物凄く太っちゃった時とか、肌荒れしちゃった時とか…とにかく、今の自分を見られるのが恥ずかしい時です」

 思えば、さやかが源と入れ替わってしまった時もそうだった。あの時は冬枝に会いたくても、源の姿で会う訳にはいかなかった。

 ――冬枝さんも、僕に見せたくないような格好になっちゃったってこと?

 ミノルはにこやかに「そうですね」と頷いた。

「他にも彼がさやかさんに会いたくない理由はあるかもしれませんが、いずれにせよ、彼が心変わりした…というのは、可能性の一つに過ぎないということです」

「…はい」

 ――ミノルさん、僕を安心させるために、一緒に考えてくれたんだ。

 ミノルの笑みに、さやかの不安もほどけていく。さやかは、ミノルの優しさに心から感謝した。

「それと、彼の現在の居場所ですが…さやかさんはご存知ないのでしたね」

「ええ。聞いても、すぐに帰って来るからって話をそらされるばかりで…」

「案外、そう遠くには行っていないと思いますよ。恐らく、彼とお会いしている人たちの家にでも居候しているのでしょう」

「あっ…確かに、そうかもしれません」

 貧乏性の冬枝が、さやかの目を逃れるために5日もホテルに籠っているとは考えにくい。冬枝は高根たちのアパートにいるのではないか、とさやかは今更に気付いた。

 ミノルと話したことで、さやかの中で思考の筋道がくっきりと輝きだした。さやかは、ミノルに深々と頭を下げた。

「ありがとうございます。ミノルさんのお陰で、解が見えました」

「フフ、それは良かった。女の子は笑顔が一番です」

 早速、高根たちのアパートに行ってみようと意気込むさやかに、ミノルがもうひとつアドバイスしてくれた。

「5日も連絡しないというのは、流石に不精が過ぎますねえ。こちらを散々心配させた分、彼にはあっと驚くようなしっぺ返しを用意すべきかと」

「しっぺ返し…ですか」

「ええ。よろしければ、僕がとっておきの秘策を授けますよ」

 ミノルに小声で耳打ちされ、さやかはぱあっと顔を輝かせた。

「わあ!いいんですか、本当に」

「ぜひ。僕の趣味と実益も兼ねて」

 ミノルの悪戯っぽい笑みは、さやかの心までくすぐるかのようだった。

「ミノルさんって、魔法使いみたいですね」

「フフ…。よく言われます」

 ミノルが、眩しげに目を細めた。

「そこの小粋なロマンスグレー」

 ずっと黙っていた嵐が、不意にミノルを呼び止めた。

「随分、イカしたバッジつけてるじゃん」

 嵐の鋭い視線の先には、ミノルのジャケットの襟に留まった銀色のバッジ――鷹の羽紋が輝いていた。

 ミノルは、そっとバッジに触れた。

「ありがとう。なかなかイケてるでしょう?」

「………」

 さやかとミノルが連れ立って『こまち』を出て行くのを、嵐はじっと見つめていた。



 冬枝が高根と土井のアパートで寝起きするようになって、6日が経った。

「兄貴、そろそろさやかさんのところに帰ってあげたらどうですか」

 朝、冬枝が布団の上でもそもそと鮭茶漬けを食べていると、高根が困り果てた様子で言い出した。

「またか。この分なら明日か明後日にゃ帰れるから、それまで黙っとけ」

「でもさー兄貴、さやかさんを誤魔化すのもそろそろ限界、つーか最初っから無理ありますって。オレ、兄貴はよその女のところに泊まってますぅーってウソつこうかと思っちゃいましたもん」

 土井が鮭茶漬けを自分の盆に置きながら、そんなことを言った。

「バカ、ふざけたこと言うんじゃねえ。本気にされたらどうすんだ」

 実際には、冬枝は6日もこのアパートで寝起きしていたのだ。高根と土井が暮らしているこの6畳二間では、女のおの字も拝めない。

 土井は、自分も鮭茶漬けをがぶがぶと飲んだ。

「そんなにさやかさんに言いたくないんスか?ぎっくり腰で動けなくなったって」

「うるせえな。胸張って自慢するようなことでもねえだろ」

 こうして起き上がって飯を食えるようになるまでに、6日もかかった。つい数日前までは、自力でトイレに行くのもままならなかったのだ。

 ――とてもじゃねえが、さやかに会えるような状態じゃねえ。

「でも、さやかさん心配してますよ。兄貴が今どこでどうしてるのか、さっぱり分からないから」

「う……」

 それに関しては、冬枝も悪いと思っていなくもない。腰の激痛で身動きも取れなかった初日はともかく、翌日以降は電話はできる程度にはなっていたのだ。

 それでも、さやかに事情を告げる気にならなかったのには、理由がある。

「あの火事のせいでぎっくり腰になったなんて言ったら、さやかが気にしちまうだろ」

 それは先日、さやかと組長が白昼堂々、秋津一家に拉致された事件のことだった。

 さやかと組長が監禁されていた工場跡に『アクア・ドラゴン』が放火し、炎上。棚の下敷きになった組長を冬枝や榊原ら4人で救出し、さやかも連れて命からがら脱出した。

 冬枝がぎっくり腰で人事不省に陥ったのは、それから数日後のことだった。

 恐らく、2時間もゴルフ場で立ちっぱなしだった後に、あの100キロはあっただろう重い棚を持ち上げたことで、腰に疲労が溜まったのだろう。なんてことない話だが、さやかが聞いたら自分のせいではないか、と気にする恐れがあった。

 ――あの時、さやかを抱えて走ったからな。

 あの燃え盛る廃工場からどうやって脱出したのか、あまり記憶にない。ただ、冬枝にしがみついているさやかの感触だけは絶対に手放すまいと、それだけに集中していた気がする。

 さやかの身体など重いうちにも入らないが、このタイミングで冬枝がぎっくり腰を起こしたなんて言ったら、誤解を招きかねない。こうして、冬枝は6日も雲隠れを決め込む次第となったのだった。

「まあ、兄貴が美輪子さんのお店の電球替えてる最中にギックリになったってのは、さやかさんには言わないほうがいいっスもんね」

「それだけは、絶対言うんじゃねえぞ」

 冬枝が前のめりになって念を押すと、土井が「ラジャー」と敬礼した。

「ただ、さやかさん、兄貴が帰らなくなってから、ずっと早起きしてるんスよ」

「えっ。あのさやかがか」

「はい。自分たちが朝、お伺いするとさやかさん、必ず起きてるんです。ちゃんと着替えて、意識もはっきりしてて」

 高根も、普段の『赤ちゃんさやか』の朝の弱さを知っているだけに、感慨深そうだった。

「さやかさん、今日こそ兄貴が帰ってくるんじゃないかって、それで早起きして待ってるんじゃないですか」

「………」

 ――あいつ、そんなに俺のこと待ってんのか…。

 冬枝だって、6日間も高根の顔と土井のサングラスと、アパートの天井だけ見つめていて楽しかったわけではない。さやかのことを思い出さない時などなかった。

 ちゃんと飯は食ってるのかとか、ちゃんと寝てるのかとか、夜遅くまで雀荘で打ってるんじゃないかとか――動けない分、いつも以上にさやかのことばかり考えていた気がする。

「兄貴もさやかさんのことが心配なら、オレらにもっと夜遅くまで一緒に居させてくれればいいのに。夜7時にはマンションを出ろって言われたんじゃ、さやかさんと晩飯も食えないっスよ」

 土井が愚痴をこぼすと、高根が「こら、土井」と小さくたしなめた。

「仕方ないだろ。さやかさんが19時に帰って来ることなんてめったにないし、晩飯なら作っておけばさやかさん一人でも食べられるんだから」

「でも、さやかさん一人で飯食ってんの、侘しくない?」

「うるせえな。てめえらとさやかだけで夜一緒にいるなんて、ダメに決まってんだろ」

 冬枝に言われて、土井が「オレら、信用なーい」と首をすくめた。

 弟分たちと話していたら、冬枝もさやかの顔が見たくなってきた。

 ――あの寂しがり屋が、6日も一人でいて平気なわけがねえよな。

 さやかと会ったら、あの華奢な身体を抱き締めてやりたい。頭を撫でくり回して、頬をむにむにして、瞳と瞳を見て笑い合いたい。

 はぁーっとタバコの煙を吐いた息が、思った以上に深くなった。煙は扇風機に回されて白くちぎれても、さやかへの想いは消えない。

 ――そろそろ、潮時か。

 自力で風呂もトイレも行けるようになったし、もう帰宅しても平気かもしれない。腰の具合をさやかに誤魔化すのは難しいが、湿布でも貼れば乗り切れるだろう。

 冬枝が帰宅に前向きになったところで、アパートのドアがノックされた。

「はーい。なんスかー?」

「珍しいな、こんな朝早くに」

 土井がのそのそと玄関に向かい、高根が不思議そうに首を傾げた。

 ドアがぱっと開かれた瞬間、冬枝にとっては馴染み深い、懐かしくも忌まわしい緊張感が朝の空気を貫いた。

 ――この気配は!

「冬枝、いるだろ」

「源さん!」

 源の切れ長の瞳が、朝日の中で冴え冴えとした光を放った。

 土井が「ひえ~っ」とのけ反る横を通り抜け、源は悠々と靴を脱いで上がった。

 冬枝は盆を片付け、高根が座布団を源に譲って場所を作った。

「源さん。なんでここに…」

「さやかに頼まれて来た」

「さやかが?」

 冬枝は「お前ら、俺がここにいるってさやかに言ったのか」と尋ねたが、高根も土井も首を左右に振った。

 源はどっかと腰を下ろすと、手にしていた大きな封筒を卓上に置いた。

「それは?」

「さやかから預かった。中は、俺もまだ見てねえ」

 冬枝に見せるように頼まれたそうだが、源も弟分たちも一緒に見る気満々だ。

 ――さやかの奴、一体何を…?

 冬枝が封筒を開けると、中には革の表紙の薄いアルバムが入っていた。

「お見合い写真とか入れるやつみたいっスね」

 土井がそう言うのを聞きながら、冬枝はアルバムをゆっくりと開いた。

 そこには――。

「!」

「えっ!?」

「おお…」

「な…」

 源、高根、土井、冬枝が、三者三様に言葉を失った。

 そこには、真っ白なウェディングドレスに身を包み、幸せそうに微笑むさやかの写真が収められていた。



 ばたばたと4人分の足音が、扉越しにも騒々しく聞こえてくる。

「あ。来たかな」

 さやかは麻雀雑誌を閉じて、ソファから立ち上がった。

 玄関に向かうと、さやかが鍵を開けるか開けないかのタイミングで、ドアが引っ張られるようにして開いた。

「さやか!」

「冬枝さん!おかえりなさい」

 冬枝の顔を見た途端、さやかの胸が喜びで弾けた。

 冬枝の胸に飛び込み、ぎゅうっと抱き付く――つもりが、その直前で肩をがしっと掴まれた。

「うえっ」

「さやか!お前、何だよあの写真!」

「えっ?ああ、あれですか」

 冬枝の後ろにいた高根と土井も、口々に「さやかさん、結婚したんですか!?」「お相手は?まさか、嵐の旦那っスか?」と、芸能リポーターのように質問した。

 ――流石に、嵐さんはないって。

 さやかは苦笑しながら、玄関先で前のめりになる男4人に道を開けた。

「とりあえず皆さん、中に入りましょう。暑いですし…」

 一同をクーラーの効いた室内に招き入れたさやかは、最後尾にいた源を見てぎょっとした。

「み、源さん!?どうしたんですか!?」

「………」

 源は、だくだくと流れる涙をそっと手の甲で拭った。

「…気にしないでくれ。淑恵の結婚式を思い出しちまっただけだ」

「淑恵さんの…あっ」

 榊原の妻である淑恵は、かつての源の片想い相手だった。榊原と淑恵の結婚式には冬枝も来ていたそうだから、源も列席していたのかもしれない。

 源は、遠くを見るような眼をした。

「淑恵の花嫁姿は、目も開けていられないほど眩しかった。あれが俺のものじゃないって悔しさで、胸から血が噴き出そうなぐらいに…」

「血じゃなくて涙が出てますけど」

 小声で突っ込む土井の頭を、高根が無言でぴしゃりと叩いた。

 さやかは、慌てて源にハンカチを差し出した。

「す、すみません。辛いことを思い出させてしまって…」

「いや、いいんだ。さやかはいつか俺と同じ苗字になる。そうだろ?」

 源がハンカチごとさやかの手を握ったところで、リビングから冬枝が怒鳴りつけた。

「いつまで喋ってるんですか、源さん!あんた、もう帰っていいですよ!」

「誰に口利いてんだ、てめえ。騒いでる暇あったら茶ぐらい入れたらどうだ」

「偉そうなお客さんだなー…」

 小声で呟く土井の頭をまたも高根がぴしゃりと叩き、2人で冷たい麦茶をグラスに注いだ。

「冬枝さん、腰の具合、もう大丈夫なんですか」

 心配顔で切り出すさやかに、冬枝はまたも驚いた。

「お前、誰から聞いたんだ」

「そんだけ湿布臭けりゃ、俺でも分かる」

 源に横から指摘され、冬枝は「そんなに臭うか?」と腰の左右を見下ろした。6日間も湿布の世話になっていたせいで、鼻が麻痺してしまったらしい。

 さやかは、並んで座ったソファの上でつつっと冬枝に身を寄せた。

「僕に会えないぐらい腰の具合が悪かったなんて…大変でしたね」

「いや、別に大したことねえよ。もう平気だ」

「我慢しちゃダメですよ。痛かったら無理しないでくださいね」

 さやかがそっと寄り添うと、6日ぶりの柔らかな感触が冬枝に伝わった。

 ――なんだよ、めんけえ奴だな。

「おいおい、年寄り扱いすんなよ」

「だって冬枝さん、電話もしてくれなかったじゃないですか」

 さやかの小さな指が、冬枝の膝の上でくるくると円を描く。

「冬枝さんがあんまり帰って来ないから、僕、寂しくって……夜、一人でいけないことしてたんですよ?」

「いけないこと?」

 途端、男4人の頭に、あんなことに夢中になっているさやかや、こんなことにふけっているさやかの姿が浮かんだ。

 自分以外の3人も鼻の下を伸ばしていることに気付いて、冬枝は慌ててさやかに耳打ちした。

「おい、さやか。そんなこと、この場で言うこたねえだろ。後で、俺にだけこっそり言ってくれりゃ…」

「まあ、恥ずかしいですよね。夜、一人でサッポロ一番食べてたなんて…」

「サッポロ一番?」

 さやかは、もじもじと指先を組み合わせた。

「冬枝さんがいないと、深夜のおやつタイムもないから…高根さんが作ってくれた晩ご飯ももちろん食べてるんですけど、何だかお腹がすいちゃって…」

「お前、俺の晩酌のことを、深夜のおやつタイムって呼んでるのかよ…」

 冬枝の頭から、いかがわしい妄想が蒸発四散していった。この麻雀狂いに、そんな色気などあろうはずがなかったのだ。

 さやかは、上目遣いに冬枝をうかがった。

「冬枝さんが何にも言ってくれないから、僕のお腹もすくんです。どうして、電話してくれなかったんですか?」

「そりゃ、お前に心配かけたくなかったからだよ。ギックリ腰で起き上がれねえなんて、恥ずかしいじゃねえか」

 すると、さやかの声がすうっと冷たくなった。

「へえ。美輪子さんとじゅんこさんとなおみさんには腰のことを教えたのに、僕だけ仲間外れですか?」

 さやかが口にしたのは、冬枝が最近、電話した女の名前だった。

 冬枝の顔から血の気が引いた。弟分2人も、真っ青になって顔を見合わせる。

「お前、なんでそれを…」

「だから、冬枝さんが電話の一本も寄越さないからでしょう?冬枝さんのなじみのお店に片っ端から電話をかけたら、そのお三方が教えてくれたんです」

 さやかの眼が、猫のように緑色に光って見える。冬枝は、怖くて目を合わせられなかった。

「いや、その、なんていうか……しばらく店に行けねえが、俺はこの通り元気だからって、それだけ伝えとこうと…」

「ふーん。僕には何にも、なんっにも言ってくれなかったくせに、他の女の人たちには連絡したんだ。傷付いちゃうな」

 さやかは「僕はさしずめ第四夫人か…」と吐き捨てて、そっぽを向いた。

「お前な、俺だってお前に意地悪して言わなかったんじゃねえんだぞ」

「じゃ、どうして僕にだけ連絡くれなかったんですか」

「だからなあ…」

 頭を抱える冬枝に代わって、源がずいと前に出た。

「さやか。冬枝だって男なんだ。男には、見栄ってもんがある」

「見栄…ですか?」

「ああ。冬枝はな、惚れた女に弱味を見せたくねえんだ」

 源の発した『惚れた女』という単語に、さやかの頬がポッと赤くなった。

 何か言おうとした冬枝を肘鉄で黙らせ、源は続けた。

「命を賭けてもいいと思った女に、ギックリ腰で弟分の家で寝込んでる、なんて言えねえ。かといって、下手な嘘で誤魔化すのも、仁義にもとる。冬枝に出来たのは、沈黙を貫くことだけだったのさ」

 源は「不器用な奴だからな」と言って、いい感じに話を締めくくった。

 ――源さん!

 冬枝は、この傲岸不遜で自惚れ屋で威張りん坊の兄貴分がいて良かった、と初めて思った。口八丁で女を丸め込むことにかけては、源の右に出るものはいないのだ。

「そういうことなら、仕方ないですけど…」

 すっかりピンク色に染まったさやかに、もう冬枝を疑う気はなさそうだ。冬枝は、あの革のアルバムを取り出した。

「それよりさやか、この写真は何なんだ。説明しろ」

 冬枝がさやかのウエディングドレス姿の写真を掲げると、さやかが顔を綻ばせた。

「ふふっ。自分で言うのもなんですけど、結構よく撮れてるでしょう?それに、このドレス。僕、本番でもこんなドレスが着たいなあ」

「本番って…じゃあ、これはリハーサルっスか?」

 土井が「結婚式にもリハーサルってあんのかな」と言うと、さやかが「違いますよ」と笑った。

「キャンドルホテルの結婚式場で、ウエディングドレスの試着キャンペーンをやってたんです。写真も、そこで撮影してもらいました」

「そういうことだったのか」

 さやかが「驚いてくれましたか?」と言って顔を見上げると、冬枝はため息を吐いた。

「お前みたいな雀キチ、どこの物好きが嫁に貰ったのかと思ったぜ」

「僕、こう見えて引く手あまたですから。冬枝さんも、僕のお婿さん候補に入れてあげましょうか?」

「なんだと?」

 眉を吊り上げる冬枝に、さやかは「冗談です」と言って笑った。

「冬枝さんに6日間も心配させられたから、仕返しにびっくりさせようと思ったんです」

 ――ミノルさんのアイディアだけどね。

 ミノルに連れられて行った会場で、うっとりするほど綺麗なウエディングドレスを選んでいるだけで、さやかの心は浮き立った。ドレスを手に取るたびに、夢想が溢れて止まらない。

 ――いつかこんなドレスを着て、冬枝さんの隣に立てたら……。

 冬枝は、綺麗だと言ってくれるだろうか。いやむしろ、冬枝の花婿姿にドキドキしすぎて、それどころではなくなってしまうかもしれない。

 そんなたわいない妄想も、本物のウエディングドレスと、本物の結婚式場の前だと、リアルな未来予想のように思えてくる。プロのカメラマンによって撮影された写真を見て、一晩中にやついてしまったものだ。

「俺も、さやかの婿候補に入れてくれねえか」

 さやかの花嫁写真にしげしげと見入りながら、源が真顔で言った。

 冬枝は、麦茶を渋い顔で飲んだ。

「あんたねえ、自分の年齢数えたことありますか?さやかは戦後生まれですよ」

「源さんと結婚式を挙げたら、僕、世界中の女の人から嫉妬されちゃいます」

 さやかが満更でもなさそうに言ったので、冬枝は麦茶を噴き出しそうになった。

「おい、さやか!」

「いいじゃねえか。綺麗な女は嫉妬されるもんだ」

「さやか、冗談でも源さんの前でそんなこと言うんじゃねえ。このオッサンが本気にして、夜這いしてきたらどうするんだ」

「誰がオッサンだって?」

 ぎゃあぎゃあ言い合う冬枝と源を横目に、さやかはそっと花嫁姿の写真を見下ろした。

 ――冬枝さん、一言ぐらい褒めてくれたっていいのに。

 だが、さやかのウエディングドレス姿が、雲隠れしていた冬枝を引っ張り出したのは事実だ。冬枝がさやかの花嫁姿を見て、慌てて飛んできたことを思えば、自然と顔が笑ってしまう。

 そこで、冬枝が横からぐいっとさやかを引き寄せた。

「俺の目が黒いうちは、さやかを嫁になんかやりませんからね」

「てめえのせいでさやかが嫁き遅れたら、どう責任取るんだ」

「それは…ごにょごにょ…とにかく、この写真は俺が預かっとくからな、さやか!」

 右手にさやかを、左手にさやかの写真をしっかと抱える冬枝に、さやかは笑顔で「はい」と頷いたのだった。

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