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32話 さやかのくまさん

第32話 さやかのくまさん


 秋津一家本部・赤陽館。

 鷹の羽紋の旗をなびかせた、武家屋敷のような佇まいは、見る者を威圧せずにはおかない。町を睥睨する展望台も有し、赤陽館は鄙びた田舎町でひときわ存在感を放っている。

 今は亡き秋津一家初代総長にして朱雀組4代目組長・秋津イサオが築いたこの大邸宅に、秋津ミノルは8ヶ月ぶりに戻ってきた。

 愛車のモーリスから降り、ミノルは青空を突き刺す赤陽館の切妻屋根を見上げた。

 ――もっと、万感の思いが胸に迫るものかと思っていましたが。

 どうやら、帰郷に感極まるには、まだ早いらしい。それもそのはず、長兄であるイサオの死は、まだ終わっていない。

 ――これでようやく、本腰を入れて動き出せそうです。

 赤陽館に入ったミノルは、杉の香りが清々しい廊下を歩きながら、ふと疑問を口にした。

「何だか、ずいぶん人が少ないようですが」

 尤も、大仰な出迎えを断ったのはミノルのほうである。朱雀組及び秋津一家最高顧問・秋津ミノルの復帰は、それだけで『アクア・ドラゴン』や白虎組を刺激する。そのため、病院からここまでの道すがらは、ミノルと側近の栗林だけでひっそりと戻ってきた。

 ところが、いざ赤陽館に来てみれば、出迎えどころか2~3人の当番しかいない。

 事務所である赤陽館には、いつも十数人の組員が常駐している。主に若い衆で、館の掃除や先輩の御用聞きなど、こまごました雑用に精を出しているのが常だった。それが今は、蜘蛛の子を散らしたかのようである。

「もしかして、総長のご機嫌がよろしくないのでしょうか」

 とにかく厳格な三兄、秋津タケルは、組の内外から恐れられている。武術をものするタケルの制裁は凄まじく、組の法度を破った組員は、タケルに知られるのを恐れて自ら警察に出頭するほどだ。

 ミノルの軽口に、栗林が無表情に「いえ、そうではありません」と言った。

「若い連中は、白虎組のシマに潜り込んだそうです」

「おや。僕のお出迎えなら、すれ違いになってしまいましたねえ」

 という今度の軽口も、流石に笑い事では済まされない。ミノルは笑顔のまま「悪い冗談です」と続けた。

「白虎組のシマで『アクア・ドラゴン』とケンカにでもなったら、目も当てられませんよ。秋津一家はバカの集まり、と喧伝するようなものです」

 白虎組の縄張りで揉め事を起こしたとなれば、今後の駆け引きで不利になるのは明らかだ。白虎組組長・熊谷雷蔵が、秋津一家――その上にいる朱雀組と青龍会との争いを、虎視眈々と眺めているのはミノルも知っている。

 ――熊とは名ばかりのあのタヌキおじさんに、付け入るスキを与えたくはありません。

 栗林は「若い者の気持ちも汲んでやっていただけませんか」と控えめに言った。

「亡くなられた4代目を始め、秋津の四兄弟の皆さんは、我々にとって精神的支柱です。それが4代目をあのような形で亡くし、ミノルさんまで忍従の時を余儀なくされた」

 栗林の横顔に、暗い影が差した。

「しかも、その張本人と目される青龍会――『アクア・ドラゴン』が、目と鼻の先で好き放題している。自分のシマが荒らされているというのに、白虎組は手をこまねくばかりで何もしない。『アクア・ドラゴン』と闘えないなら、せめて敵情視察がしたい。というわけで、若い衆はミノルさんの出迎えと称して、白虎組のシマに行きました」

「真夏の修学旅行ですか」

 ミノルはふうと一息吐いて「言語道断です」と断じた。

「今すぐ、頭に血が上ったおバカさんたちを呼び戻しなさい。事と次第によっては、僕でも庇いきれなくなりますよ」

 若者たちが純粋に秋津四兄弟を慕い、『アクア・ドラゴン』及び白虎組に業を煮やしていることは、ミノルとて承知している。

 だからこそ、そんな若者たちが、怒った兄によって袋叩きにされる様は見たくない。

「それに、そんな目つきの悪い若者たちが街をうろうろしていたら、秋津一家は『アクア・ドラゴン』と五十歩百歩の半グレ集団と思われてしまうじゃないですか。女の子の好感度は下げたくありませんねぇ」

「…どなたの話をしてるんです?」

 栗林の言わずもがなの問いに、ミノルは敢えて答えてやった。

「夏目さやかさんですよ」



 今日の昼食は、冬枝特製カレーライスだ。

 冬枝のマンションで、冬枝・さやか・高根・土井がカレーライスを囲んだ。

「ひえー!兄貴のカレー、美味いんだけど辛いなぁ。口の中が火事になってるみたい」

「バカ土井、兄貴がせっかく作ってくれたんだから、文句言うなよ」

 そう言いつつ、高根も水をがぶ飲みしている。土井も水を一口飲んでから、おしぼりでサングラスの下を拭った。

「これ、さやかさんには辛いんじゃないっスか?」

 しかし、さやかは汗一つかかずに「美味しいです」と頬張っている。

「冬枝さんが作ってくれたカレー、初めて食べました」

「そうか。前作った時は、卵焼きとかだったもんな」

「えっ、兄貴、さやかさんに飯作ってあげてるんですか!?」

 高根と土井の頭上に、エプロン姿で甲斐甲斐しくさやかにご飯を作ってあげるホームパパ・冬枝の姿が浮かんだ。

「バカ野郎、いっつも高根が作ってるだろ。俺はたまーに、ほんのちょこっと、作ってやるだけだ」

 以前はさやかをねぎらうために作ったが、今回は――点数稼ぎ、といったところである。

 ――源さんにさやかの胃袋を掴まれちゃ、たまんねえからな。

 先日、さやかと源の心と身体が入れ替わるという超常現象が起こった。その際、源の家に泊まっていたさやかは、三食源製の食事だったという。

 源が武術のみならず料理も達人であることは、冬枝が一番よく知っている。そして、源が手製のグラタンやケーキやクッキーで、女たちの歓心を買ってきたことも。

 ――さやかには、俺の味でしっかり餌付けしておかねえと。

 選んだメニューは、伝家の宝刀・カレーライス。あざといとは思ったが、子供から大人まで大好きなカレーの力をもってすれば、さやかの舌の上の源を封殺できると踏んだのだ。

 一方、さやかは冬枝のカレーを美味しく食べながら、内心複雑な気分だった。

 ――冬枝さん、ほんとに料理うまいなぁ。

 これでは、淑恵の料理教室に行ったのも付け焼き刃にしかならない。焦りとは裏腹に、カレーをぱくつく手を止められないさやかだった。

 隣に座る冬枝が、さやかの顔を覗き込んだ。

「うめえか?さやか」

「とってもおいひいです」

「んだか」

 冬枝から嬉しそうに笑われると、さやかのささやかな対抗意識も消し飛んでしまう。

 カレーライスが美味しくて、隣で冬枝が微笑んでいる。

 幸せ――。

「カレーよりも熱く見つめ合うふたり」

「バカ土井、冷やかすなよ」

 そこで高根がふと「あれ、さやかさんのカレー、自分たちのと色が違いませんか」と気が付いた。

「あれ、言われてみればそうですね。冬枝さん、僕のカレーだけ違うんですか?」

「ああ。俺たちのはちょっと辛いからな。さやかのは別で作ったんだ」

「兄貴、さやかさんには甘いよなぁ。さやかさん、それ一口食ってみていいっスか?」

 土井がぶしつけに伸ばしたスプーンを、冬枝がぺしりと叩いた。

「ダメだ。おかわりが欲しけりゃ鍋から取って来い」

「ちぇー。兄貴のケチ」

「僕、冬枝さんたちのカレーが気になります」

 さやかのカレーも甘いというほどではなく、レトルトカレーの中辛ぐらいだ。高根と土井が顔を真っ赤にしながらがっついているカレーは、どんな辛さなのだろうか。

 すると、冬枝が自分のカレー皿を差し出した。

「ほれ、ちょっと食ってみろ」

「わぁ、ありがとうございます」

「兄貴、やっぱりさやかさんには甘いなー」

 土井の冷やかしを聞き流し、さやかは冬枝のカレーを一口食べてみた。

 途端、火のような熱さが口の中に広がった。

「ん~~~~!」

 一気に毛穴が開き、汗が噴き出す。口の中には辛さと共に、スパイスの旨味が濃厚に染み出して、香りが鼻へと抜けていく。

「ハハハ。辛ぇだろ」

「辛いけど、すっごく美味しいです!」

「気に入ったんなら、もっと食っていいぞ」

 さやかが目をキラキラさせて食べるものだから、冬枝もついカレーを与えてしまう。

 だが、ふと気付けば、さやかがキラキラしているのが目だけではなかった。

 キラキラ光る汗の滴が、さやかの首筋から胸元まで、素肌を輝かせている。ピンク色に染まった目元が、やけに色っぽかった。

 赤く濡れた唇がスプーンをついばむ様ですら、妙になまめかしい。冬枝だけでなく、高根と土井もちょっと見入っていた。

「あっ、冬枝さんの分なのに、いっぱい食べちゃいました!すみません」

「…別に、いいけどよ」

「はぁー、こっちもすごく辛いけど、美味しいですね!汗かいちゃいました」

 さやかは手の甲でぱたぱたと顔を扇ぐと、再び自分のカレーを食べて「こっちも美味しい」と言って笑った。

 弟分たちの鼻の下が伸びていることに気付いた冬枝は、無言で2人の頭に拳骨を振り下ろした。

「いってえ!」

「うっ!」

「ところでさやか、午後は響子さんの所に行くんだったな」

「はい」

 榊原から頼まれ、さやかは響子のマンションで一緒に麻雀を打つ約束をしていた。

 ――響子さん、ちょっとは気晴らしになるといいけど。

 榊原との関係はともかく、響子は真っ直ぐで粘り強い打ち回しをする。今日は、ややこしい話は抜きで、ただの雀士として響子と打てたら良いな、とさやかは思った。

「気を付けろよ。『アクア・ドラゴン』の奴らがまだうろついてるからな」

 と冬枝が言うと、土井が「でもあいつら、最近大人しいっスよね」と口を挟んだ。

 高根も頷く。

「それっぽい奴らがウロチョロしてるのはたまに見かけるんですけど…、特に何もしないんですよね。なんか、しらーっとしてて、気味が悪いっていうか」

「警察の目を気にしてるんじゃないですか?竿燈が終わったとはいえ、まだ夏休み中ですし」

 東京から来た半グレ集団に目を光らせているのは、白虎組だけではない。帰省や観光客の増加もあり、警察による厳重な警戒が続いている、とさやかはマキから聞いていた。

 さやかたちの会話を聞きながら、冬枝は別のことを考えていた。

 ――『アクア・ドラゴン』には、別の狙いがあるんじゃねえのか?

 下心もなく大人しくしている不良など、冬枝の知る限り、存在しない。獲物となる堅気や若い女たちが暑さで無防備になっているこの時期に、狼たちが狩りもせずに息を潜めているということは、裏にもっと大きな目的があるのではないか。

「もしかして、秋津一家がこっちに来てるんじゃないっスか?夏休みだから」

「バカ土井、秋津の連中がこっちに来てたりしたら、すぐ『アクア・ドラゴン』とケンカになるぞ。朱雀組と青龍会は、犬猿の仲だからな」

 というか、田舎の小さな組に過ぎない秋津一家のことなど、『アクア・ドラゴン』は歯牙にもかけていないだろう、と冬枝は思う。

 ――『アクア・ドラゴン』に加えて秋津までうちに来られたら、たまったもんじゃねえよ。

 秋津一家の今の総長、秋津タケルが白虎組を嫌っているのは周知の事実だ。その上、仇敵ともいえる『アクア・ドラゴン』がいる彩北市に、遠路はるばる訪れるほど秋津一家も暇じゃあるまい。

「冬枝さんたちは、これからゴルフ場に行くんですよね」

 さやかの言う通り、冬枝たちは午後から、郊外にあるゴルフ場に向かうことになっていた。

 榊原の義父・灘議員の接待で、榊原と霜田は朝からゴルフに勤しんでいる。冬枝たちも午後から交流し、夜の飲み会まで付き合う予定だ。

 ――榊原さんも、お舅さんに頭が上がらねえな。

 とはいえ、大物国会議員との付き合いをアピールすることで、白虎組、ひいては榊原の権力を内外に知らしめることができる。そんな場に野良犬じみた自分が同席するなんて、おかしな気分だった。

 隣のさやかが、ふふっとほくそ笑んだ。

「僕の日焼け止め、冬枝さんにも貸してあげましょうか?」

「いらねえよ、バカ」

 オッサンだらけのゴルフ場より、目の前にさやかがいる、このカレー臭いリビングが良い。冬枝は、名残惜しむようにさやかの前髪をくしゃくしゃと撫でた。



 ――秋津一家、か。

 響子との待ち合わせ先である駅に向かいながら、さやかは昼間の会話を思い出していた。

 土井は冗談のつもりで言ったのだろうが、『アクア・ドラゴン』が秋津一家を警戒して動きを抑えている、という可能性は十分にある、とさやかは考えていた。

 もし本当に秋津一家が彩北に来ているとしたら、白虎組と抗争になってしまうのだろうか。

 或いは、『アクア・ドラゴン』はそれを待っているのかもしれない。白虎組が秋津一家の相手で手いっぱいになったところに、『アクア・ドラゴン』が強襲をかける。あっという間に、この県まるごと青龍会の手に落ちる。

 ――そうならないために、白虎組と秋津一家が手を組む道はないんだろうか。

 地元同士、協力して東京から来たよそ者を締め出す。王道のルートだが、冬枝から聞くところによると、組長にはその気がないらしい。

 さやかは、思わずぽつりと呟いた。

「組長って、一体何を考えてるんだろうなぁ…」

「俺が何?」

 横からいきなり声をかけられ、さやかは驚いた。

「組長!?」

「こんにちは、お嬢ちゃん」

 白い麻の背広にサングラス、いつも通りの一張羅の組長、熊谷雷蔵が、鷹揚に手を上げた。

 組長の足元には、白毛の秋田犬もいる。さやかも別荘で会ったことがある、組長の愛犬・トラだ。

 組長は、さやかと並んで歩き始めた。

「これからお出かけ?」

「はい…。友人と駅で待ち合わせしてるんです」

「何時?」

「2時です。友人の知り合いと4人で、麻雀することになってて」

「ははっ、お嬢ちゃんってホントに麻雀好きだねえ」

 組長は腕時計をちらりと見ると、いきなりさやかの肩に腕を回した。

「ねえ。休みの日ぐらい麻雀じゃなくて、デートでもしたら?」

「はあ。デートする相手もいませんから」

「そうだねえ。冬枝は、榊原と一緒にゴルフに行っちゃった頃か」

 そうだ、とさやかは違和感に気付いた。灘議員の接待ゴルフに、若頭と補佐が揃って随伴しているというのに、肝心の組長が行かなくていいのだろうか。

「組長は、今日のゴルフは…?」

「暑気あたりしたんで、お休みしまーすってことにしたんだ。灘先生には、榊原がついてりゃ十分だからね」

 そう言いながら、組長はどんどん、駅とは違う方向へとぐいぐい歩き始めた。さやかは困惑した。

「あの、組長。どちらに…?」

「鈍いねえ、お嬢ちゃん。今日は、俺とデートするって決まったの」

「えっ!?」

 さやかは蒼白になった。組長から首を絞められたのは、つい先日のことである。

「あの、僕、約束があるんですけど…」

「いいじゃない、そんなの。どうせ、あの響子って女でしょ」

「……ご存知なんですか、響子さんのこと」

 榊原と淑恵の結婚を取り持ったのは、組長だ。組長の手前、響子の存在は榊原も冬枝も秘してきたはずだ。

「あんなに堂々とマンション通いしてて、バレないわけないじゃん。俺にも、細かいことを知らせてくれる下っ端ぐらいはいるんでね」

「そうですか…」

「別に、榊原が若い女の子と遊ぶぐらい、いいけどね。問題なのは霜田だよ」

 そこで、組長の声が一段、低くなった。

「榊原の弱味につけ込むなんて、卑怯じゃねえか。参ってるところに美味そうなエサまかれりゃ、誰だって食いつく」

 ――参ってるところ?

 響子と出会う前、榊原の身に何かあったのだろうか。それで、愛妻家だった榊原は道を踏み外してしまったのか。

「霜田は忠臣面してるけど、榊原がするはずじゃなかった不倫なんかさせて、何がお神酒徳利よ。俺はさ、霜田の面見るたびに、八つ裂きにして犬に食わせてやろうかって思うよ」

 サングラス越しにも、組長の瞳からバチバチと怒りの火花が飛んでいるのが見える気がした。

 ――組長は、全部お見通しだったんだ。

 しかし、それなら何故、組長は霜田を「八つ裂きに」しないのだろうか。組長の威光で霜田を処し、榊原と響子の関係を終わらせることだって、不可能ではないだろう。

 さやかの強張った頬に、組長が顔を寄せた。

「そんな暗い顔しないで。こないだ榊原にメチャクチャ怒られたからさ、お嬢ちゃんにはもう何にもしないよ」

「…榊原さんが?」

 確かに榊原は、さやかが首を絞められた翌日、組長に「もう二度とこんなことはしないでくれ」と諫言した、と言っていた。

 組長は、ビルの隙間に広がる青い空に目を向けた。

「俺はさ、榊原のためなら何でもするんだ。あれでも霜田は榊原の可愛い後輩だし、榊原が、響子とかいう女をそれなりに気に入ってるのも分かってる。俺が邪魔したところで、野暮なだけだってね」

 つまり、組長は榊原のためを想って、敢えて霜田や響子のことは放置しているというのだ。さやかは、ちょっと意外な気がした。

「組長は、本当に榊原さんのことがお気に入りなんですね」

「俺は、お嬢ちゃんのことも気に入ってるよ」

 トラが、飼い主に呼応するかのように「ワン!」と鳴いた。

「『お嬢ちゃん』ってのも他人行儀だねぇ。これからは、さやかちゃんって呼ぼうか」

「はあ」

「さやかちゃんも俺のこと、『熊さん』って呼んでいいよ」

「…熊さん、ですか?」

 流石に、彩北を牛耳る白虎組の組長に対して、そんな馴れ馴れしい口の利き方はできない。

「榊原さんに叱られちゃいます」

「じゃあ、2人っきりの時だけにしよっか。今日は『熊さん』と『さやかちゃん』。ね?」

「…はい、熊さん」

 そうこうしているうちに、さやかたちはどんどん駅から離れ、川べりへと近付いていた。

「人が多いねえ」

「夏休みですものね」

「秋津一家にも、夏休みってあるのかな」

 組長の言葉は、さやかの背中に氷を落としたかのようだった。

「…いつから尾けられていたんですか」

「おお、さやかちゃんは話が早い。今日から極道としてやっていけるよ」

 組長は、おどけるように言って肩をゆすった。

 ――まさか、本当に秋津一家が彩北に来ていたなんて。

 辺りを見回してみれば、数人の男がさやかたちを囲むようにして、距離を置いてついて来ている。『アクア・ドラゴン』のような殺気こそないが、こちらに向けられた視線は痛いほどだ。

 ――秋津一家に捕まったら、ただじゃ済まない。

 組長はともかく、秋津イサオ殺害事件に関わっているさやかは、秋津一家にとって仇敵にも等しいはずだ。秋津一家の憎悪を思うと、さやかは頭がくらくらした。

 そこで、組長がさやかの手をぎゅっと握った。

「えっ?」

「逃げよっか、さやかちゃん」

 組長は笑みを浮かべると、そこから全速力で駆け出した。

 尾行していた秋津一家があっと驚く気配がしたが、それもすぐに遠ざかる。

 組長の足が速すぎて、さやかは宙に浮いているような錯覚すら覚えた。びゅんびゅんと景色が飛ぶさまは、真夏の白昼夢のようだった。

「ぜえ、はあ、はあ…」

 さやかの息が上がるのと同時に、河川敷に到着していた。

 飼い主と共に走り回ったトラは、ご機嫌そうに「ワン!」と鳴いた。まだまだ元気があり余っているようだ。

「ふんふんふーん…」

 組長は軽い足取りで川辺の船を物色すると、手近に停泊していたジェットボートにひらりと飛び乗った。

「おいで、さやかちゃん」

「は…、はい」

 組長に手を引かれ、さやかもボートに乗り込んだ。

 ――これ、犯罪じゃないかな。

 尤も、ヤクザの組長に言っても馬の耳に念仏だろう。元漁師というだけあって、組長は他人のボートをあっさり動かした。

「秋津一家に船乗りはいるかな?捕まえたけりゃここまでおいで」

 若者揃いの秋津一家は、あっという間に川辺まで追いついていた。そこにわざわざ挑発するようなセリフを吐いて、組長は船を発進させた。

 耳を聾するエンジン音と波の音が、さやかを逃避行へと連れ去っていく。

「あの、組…熊さん」

「俺、これでも一級船舶免許だから。海までだって逃げられるよ」

 荒い息を吐くさやかの足元に、トラがすりすりと鼻先を寄せた。飼い主同様、危機感というものがまるでない。

 さやかは呼吸を整えると、気になっていたことを口にした。

「熊さんは、わざと秋津一家に見つかったんじゃありませんか」

「んー?」

「白昼堂々、白虎組の組長が警護も連れずに街の真ん中をうろついている。若頭や幹部は灘議員の接待で不在。血気にはやる秋津一家なら、何も考えずに食いつくでしょう」

「いいねえ、さやかちゃんは利口で。榊原と喋ってるみたい」

 組長はタバコを口に挟みながら、慣れた手つきでハンドルを操縦した。

「さやかちゃんの言う通り。白虎組の親分と、秋津一家が今、喉から手が出るほど追い求めてる『夏目さやか』が一緒に歩いてれば、あのノータリンたちはすぐに勘違いする。『やっぱり、白虎組と夏目さやかはグルで、俺たちをコケにしてるんだ』って」

「………」

 とんだ『デート』に誘われたものだ。秋津イサオ殺害に関与したうえ、昼間から白虎組の組長に肩を抱かれて歩くさやかの姿は、秋津一家には稀代の悪女にしか見えなかっただろう。

 ――まして、こんなに必死で逃げたりしたら、ますますクロだと思われる…。

「まあ、秋津はどうでもいいんだけどね」

 組長の意外な言葉に、さやかは「え?」と顔を上げた。

「俺一人じゃ釣れない魚なんでね。どうしても、さやかちゃんを使いたかった」

「……?」

「でも、榊原からはさやかちゃんをいじめちゃダメって言われてるでしょ?だから、俺も道連れ。ヘタ打ったら、恋人同士みたいに心中しちゃうね。ハハハ」

「…笑えませんよ、熊さん」

 よく分からないが、組長は秋津一家を引き付けて、何かを仕掛けるつもりらしい。灘議員の接待を欠席してまで成し遂げたいとなると、余程のことだろう。

 ――組長は一体、秋津一家に何をさせるつもりなんだろう……。

 組長は海までだって逃げられると豪語していたが、ボートに揺られていたのは存外、短い時間だった。

 ボートは徐々に減速し、秋津一家を挑発した河辺からさほど離れていない、街はずれに着岸した。

「ここで降りるんですか?」

「そ。残念だけど、燃料切れ」

 組長の言を、どこまで信じていいものか。さやかは、自分だけ筋書きを知らない芝居を演じさせられている気分だった。

 ボートを降りると、組長は背広から名刺と万年筆を取り出した。

「この万年筆、去年の誕生日に榊原がくれたんだよ。いいでしょ?」と笑って、組長は名刺の裏にサラサラと何かを書き始めた。

「ん。さやかちゃんも書いて」

「SOSですか」

「そう。名前も書いておいてね」

 組長に言われた通り、さやかも名刺の裏におおよその現在地と、『SOS 夏目さやか』と書き込んだ。

 組長は名刺を受け取ると、トラの首輪に挟み込んだ。

「さ、トラ。事務所までお使いに行っておいで」

「ワン!」

 いつも微笑みを浮かべているかのような顔のトラは、今度も元気良く、組長に送られて車もまばらなアスファルトを駆けていった。

「用意周到ですね、組長。トラちゃんに助けを求めさせるなんて」

「どうかな。秋津一家のいる大羽には、こんな昔話があるらしいよ」

 昔、マタギの男に飼われているシロという犬がいた。

 ある日、男が狩りの免許を忘れて来てしまい、役人に捕えられそうになった。男はシロに免許を持って来るよう命じたが、家にいた男の妻はシロの目的が分からず、シロは虚しく男の元に戻って来るしかなかった。男は再びシロに免許を取りに行かせたが、やはり妻には何のことか分からなかった。そんなことを3回繰り返した後、妻はようやく免許のことだと気付き、シロに免許を託した。

 が、時すでに遅し。男は役人に捕えられ、処刑されていた――。

「…なんで今、そんな話をするんですか」

「俺たちはこうならなきゃいいねって教訓」

 さやかと組長は、汗だくになった秋津一家の組員たちに四方を囲まれていた。



 さやかと組長は、小さな工場跡に連行された。

 そこで待っていたのは、数名の若者に囲まれた50がらみの男だった。どうやら、この男が若者たちの頭目らしい。

 組長が「あれぇ?」と声を上げた。

「米倉じゃん。何やってんの、こんなとこで」

「………」

 米倉と呼ばれた男は、低い声で「ご無沙汰しています」と言った。

「へーえ。秋津一家の若頭は、自分のシマとよそのシマの区別もつかないんだ」

 うちの榊原とは大違い、と組長は鼻で笑った。

 周りの若い衆が声を荒らげた。

「黙れ、この表裏者が」

「てめえら、裏で青龍会と通じてるんだろ」

 やはり、秋津一家は白虎組が『アクア・ドラゴン』に対して曖昧な態度を取っているのが気に入らないらしい。憎き白虎組の組長を前にして気持ちが止まらなくなったのか、若者たちは堰を切ったように叫び続けた。

「青龍会を野放しにしてるんだったら、てめえらも同罪だ」

「白虎組さえいなくなりゃ、彩北は秋津一家のものだ」

 若いだけあって、激した男たちには話も通じそうにない。荒々しい咆哮が渦を巻き、流石のさやかも立ちすくんだ。

 ――怖い。

 冬枝さん、と念じてぎゅっと目を閉じたさやかの手を、組長が握った。

 ――熊さん…?

 そっと組長の顔を伺うと、サングラスの奥の瞳が怖いぐらいに光ってみえた。

「うるせえ!」

 次の瞬間、雷鳴のような一喝が発せられた。

 四方八方から吠えたてていた若者たちをしんと静まり返らせたのは、他ならぬ組長だった。

「うちの可愛い代打ちがビビってるじゃねえか。キャンキャン犬っころみたいに喚くんじゃねえ」

 そう言って組長が周囲を睥睨すれば、粋がっていた若者たちが気まずそうに目を逸らす。身体から発せられる殺気の濃さが、組長と若者たちではまるで違っていた。

「………」

 米倉が、組長に少し気圧されたように控えめに口を開いた。

「どうしてここに連れて来られたか、分かってんだろ」

「そりゃ、未だに秋津イサオ殺しの犯人を捕まえられない、てめえらの能無しのせい」

 秋津イサオもあの世で泣いてるね、と言って、組長は笑った。

 ――なんで、火に油を注ぐようなことを言うんだ!

 さやかは生きた心地がしなかったし、実際、しょげていた若者たちに再び火が付いた。

「死ね、極悪人が!」

「若頭、こんなクソ野郎、とっとと殺しちまいましょう!」

 轟々と響く罵声の中、組長が小さく「うるせぇなぁ」と笑み混じりに呟いたのが、なぜかさやかの耳にくっきりと届いた。

「待て」

 全身から湯気を発している若者たちを、米倉が静かな声で制した。

「…上に確認する。お前らを尋問するのは、それからだ」

 態度こそ若者たちよりは穏やかだが、米倉もやはりさやかと組長を敵視しているということは、こちらを睨む眼差しから伝わってきた。



 組長とさやかは後ろ手に縛られ、2階にある事務所のような部屋に閉じ込められた。

 何らかの機材がぎっしり詰まった大きな棚を背に、組長と2人で床に座り込む。

 さやかは、窓から覗く木々の青さに目を細めた。

「トラちゃんは、組事務所に着いたでしょうか…」

 忠犬シロの逸話ではないが、何らかの事情でトラが組事務所に到着できなかったり、到着しても助けを求められなかったりすれば、さやかたちはこのまま秋津一家の手に落ちる。あの雰囲気では、まず命はないだろう。

「組長。いざとなったら、僕を盾にして逃げてください」

 秋津イサオ殺害事件に関わったのはさやかであり、言わば身から出た錆だ。そのせいで秋津一家に処刑されるなら、仕方がないと思っている。

 榊原と霜田の間で複雑な思惑が飛び交っている現在、組長の身に何かあったら、白虎組は立ち行かなくなる。自分はともかく、組長だけでも助けたい。

「秋津一家の狙いは僕です。組長は、ご自分の命を優先してください」

 組長は、じっとさやかの瞳を覗き込んだ。

「さやかちゃんの目は綺麗だね」

「は?」

「嘘ついてる人間はさ、身体の奥から腐ってくる。だから、目が死んだ魚みたいに濁るのさ」

 組長は、およそ30年前の話をさやかに聞かせた。



 面白い学生がいる、と言って、榊原を紹介したのは笑太郎だった。

 ある晩、笑太郎がいつものように女と飲み歩いていると、馴染みの店が貸し切りにされていた。ビリヤード台やピアノもある結構上等な店だったのだが、そこでパーティーをしているのが羽振りのいい堅気でも同業のお仲間でもなく、学生のサークルと知って、笑太郎は驚いた。

 聞けば、ある大学のテニスサークルが、最近飛ぶ鳥を落とす勢いなのだという。ずば抜けた統率力で資金を調達し、今はそのサークルが主催するパーティーには、学生だけでなく事業家も顔を見せるほどだとか。

 そのサークルを率いていたのが、榊原だった。

「榊原くん、こいつが昨日喋ったうちの若頭、熊ちゃん。よその組長やってたんだけど、俺がスカウトしたんだぞ」

 ナイトクラブで熊谷と向かい合った榊原は、硬い面持ちで「どうも」と言った。

 スポーツマンらしい引き締まった身体つきに、すらりと長い足。熊谷よりちゃっかり背が高いし、若者は羨ましいねえなんて思ったが、要するに榊原は想像通りのお坊ちゃんだった。

「この熊ちゃんがさ、榊原くんにうち来て欲しくてしょうがねえんだよ」

 笑太郎が勝手なことを言い出したが、笑太郎の虚言癖は今に始まったことではない。熊谷は放っておいた。

「うちはケンカっ早い連中ばっかで、榊原くんみたいに口と頭が利く奴がめっぽういねえんだ。それでいて奴らときたら、上の言うことを全然聞かねえ。榊原くんが、うちの若いのをグイーッと引っ張ってくれれば助かる。って、熊ちゃんが言ってた」

「………」

 榊原は、黙って熊谷を見つめていた。

 こちらを見極めようとする目つきは、いかにも大人に反抗心を抱く若者らしい。だが、芯の通った眼差しには、若さだけではない強さを感じた。

 やがて、榊原は笑太郎に向き直った。

「お声がけ頂いて恐縮ですが、俺はヤクザになる気はありません。このお話、お断りします」

「ええっ!?そんな~、ご無体な」

 笑太郎の大げさなリアクションは、熊谷でも時々どこまで本気なのか分からなくなる。或いはこの能天気に、冗談と本気の区別などないのかもしれない。

 わざとらしい笑太郎とは対照的に、榊原は真面目に言った。

「これからも、俺たちは好きなようにやらせてもらいます。白虎組の言いなりにはなりません」

 当時、世の中は任侠映画が花盛りだった。肩で風を切って歩く極道は男の憧れで、不良もエリートも、声をかければあっさりヤクザになるような時代だった。

 しかし、榊原には銀幕上のまやかしは通じなかったらしい。笑太郎がいくら口説いても、榊原の返事は変わらなかった。

 榊原が席を辞すと、笑太郎はあからさまに不機嫌になった。

「ふん、とんだ見込み違いだなや。さかしらな男だと思って声かけてやったっていうのに、お高くとまったボンボンだったわ」

 ぐびぐびと酒を呷る笑太郎に、熊谷はひらひらと手を振った。

「そりゃそうでしょ。ああいうエリートはさ、いい会社入って、出世して、ピンと張ったお高い背広でも着てるのがお似合いなんだって。所詮、俺らとは住む世界が違うんだよ。ほら、金魚を海に放しても死んじまうだろ?」

「えっ、金魚って海じゃ生きてけねえのへ?」

 笑太郎には伝わらなかった例えだが、熊谷の本心でもあった。妻を殺して牢屋に入った熊谷にとって、罪など犯したことがなさそうな榊原の清々しさは、別世界のものだ。

 ――ただ、嫌な奴だとは思わなかったんだよねえ、不思議と。

 それから数日が経ち、榊原のことなど忘れかけていた頃だった。

「熊ちゃん。あの金魚、アラとケンカして親分に捕まったんだと」

 居酒屋で飲んでいたら、若い衆から連絡を受けた笑太郎がそんなことを言い出した。

 熊谷は、皺の寄った眉間をトントンと叩いた。

「金魚がアラとケンカして親分に。って、何?隠語?」

「アラがよ、酔っ払って店のオーナーさ因縁つけたんだと。で、そこさあの金魚が来て、やめれって言ったもんだから、アラが頭来て金魚殴って、金魚が殴り返して、で大騒ぎ」

 アラとは、親分――石動志道の側近の一人、荒巻のことだ。派手好きの親分に気に入られるだけあって華のある男ではあったが、それをいいことに最近では増長していた。

 天狗になったアラに食ってかかった『金魚』の姿を想像した時、熊谷の頭に浮かんだのはあの、榊原の顔だった。

 ――なるほど、『金魚』ね。

 ヤクザの若頭である熊谷が相手でも、榊原は少しも媚びなかった。あの真っ直ぐすぎる坊主なら、荒巻相手に食ってかかるのも頷ける。

「じゃ、金魚はやられちまったんだ」

「それが、アラの大敗だってよ。ほら、あの金魚、背がこーんな高かったべ?あっさりアラを打ち負かして、店から追い出しちまったんだと」

 それが昨夜の出来事で、大学生相手に負けた荒巻は、悔しさのあまり親分に泣き付いた。そして今夜、親分ともどもお礼参りに行った、という次第らしい。

 事態を理解した熊谷は、紫煙で煙る席から立ち上がった。

「なした、熊ちゃん。便所だか」

「うんにゃ。ちょっと、親分のとこ行ってくるわ」

 笑太郎が、酒で赤くなった目を丸くして熊谷を見上げた。

 親分と荒巻たちは、その夜も馴染みの店にいた。気の利く店長とお気に入りの女がいて、何をやっても大抵のことは外に洩れない店だ。

「どうだ?坊主。そろそろ、アラにすみませんでしたって言える口になったか?」

 親分から冷たく見下ろされても、榊原の眼は少しも怯んでいなかった。

「謝らねえ。俺は何も間違ったことはしてねえ」

「彩北じゃ、白虎組に逆らうことが間違いなんだ。俺とお前じゃ住んでる世界が違うんだよ、お坊ちゃま」

 荒巻はそう言って、榊原の顔にタバコの煙を吐きかけた。

「そうだな。ヘドロの浮かんだ海じゃ、美味い魚は釣れねえ」

「…若頭!」

 深紅のカーテンを割って熊谷が姿を現すと、視線が一気に集まった。

「………」

 榊原が、黙ってこちらを見上げる。既に散々殴られたのだろう、顔が腫れ上がっている。痣だらけの顔の中で、瞳だけがやけに澄んで見えた。

 熊谷は、榊原の前に立った。

「親分。この坊主、俺に預けてもらえませんか」

 熊谷の言葉に、組員たちが目を見合わせる。

 親分は、傍らに控えていた源に火を点けさせて、タバコを深く吸った。

「なんだ、熊谷。お前がやんのか」

「はい。綺麗に三枚おろしにして、どこに出しても恥ずかしくねえ男にしましょう」

 組員たちが、露骨にざわめきだした。後ろについてきていた笑太郎も、「本気かよ、熊ちゃん」と声を上ずらせている。

「ダメだ!よそ者が口出すんじゃねえ」

 周囲を静まらせたのは、荒巻の金切り声だった。

 荒巻の発言は、その場にいた組員の総意でもあっただろう。港町で稲玉組の組長だった熊谷は、笑太郎に誘われ、そのまま白虎組の若頭となった。白虎組の組員からしてみれば、いきなりよそ者に若頭を名乗られたわけで、反感を抱かれているのは熊谷も知っていた。

 ――だから、笑太郎は俺に子飼いを世話しようとしたんだよね。

 笑太郎が榊原に言った「若い者が言うことを聞かなくて困っている」というのは、つまり熊谷の今の境遇そのものだった。熊谷は別に困っていなかったが、熊谷を白虎組に引き入れた張本人としては、誰か良い弟分を、と思ったのだろう。

「ピーピーうるせえなあ。耳がキンキンすらあ」

 熊谷が睨み付けると、荒巻は自慢の美貌を引きつらせた。

 自身が伊達男だったせいか、親分は自分の周囲を二枚目で固めていた。源しかり、荒巻しかり。背広も車も値の張るものを好み、カッコ良くなけりゃ男じゃねえ、が口癖だった。

 親分には悪いが、熊谷は荒巻のことも源のことも大嫌いだった。極道が役者みたいにお綺麗な面下げて、何の役に立つというのか。

 尤も、余計なことは喋らない分、源のほうがマシだったかもしれない。荒巻はしつこく食い下がった。

「親父、俺は納得できません。ここであのガキを許したら、俺のメンツが丸潰れです」

 潰れてどうにかなるメンツなんかてめえにゃねえだろ、と熊谷は心の中で吐き捨てた。

「そうだな。俺たちに盾突いた奴を簡単に許してちゃ、示しがつかねえ」

 親分はそう言うと、おもむろにソファから立ち上がった。

 親分の意を察した組員たちが、床に這いつくばっていた榊原を両側から掴んで立たせた。

 親分と榊原は、至近距離で見つめ合った。

「なあ、坊主。ここで利口な判断ができる男が、俺は好きだぜ。意地張ってケガするなんざ、堅気のすることじゃねえ。親からもらった身体を大事にしてくれ」

 親分らしい、慈悲深い言葉だったが、榊原は首を縦には振らなかった。

「…自分を裏切ったら、死んじまうのと同じだ」

 かすれた声で、それが榊原の答えだった。

 親分は「そうか」と言って、ぐっと拳を握り締めた。

 素人なら、三間向こうに吹っ飛ぶだろう。極道でも、失神ものの一撃だった。

 それをもろに喰らってなお、その場に立っていられたのは――夫婦喧嘩で鍛えられたお陰かな、と熊谷は懐かしく思い返す。

 代わりに、サングラスがヒューンと飛んでいった。パキリとレンズが割れる音は、熊谷と親分の睨み合いの終わりを告げる合図だった。

「お前も、誰かのためにそんな瞳をするんだな。初めて素顔を見た気分だぜ」

「男前すぎて、惚れちまいましたか」

 熊谷の軽口に、親分はハハハと豪快に笑った。

 うるさい荒巻を宥め、親分は組員たちを連れて帰って行った。幕が下りた後の舞台のような店内に、熊谷と榊原だけが残された。

「大丈夫?」

 熊谷は床に座る榊原の顔を覗き込み、「あーあ、男前が台無しだ」と言って笑った。

「…あんたこそ、大丈夫か」

「大丈夫じゃねえよ。口ん中切っちまった」

 誰かを庇って殴られたのなんて、この時が最初で最後だった。思いのほか痛いから、人助けは割に合わない。

 榊原は、怪訝そうに熊谷を見上げた。

「あんた、なんで俺のために殴られたりしたんだ」

「さあ。やっと生きてる魚を釣れたってとこかな」

 この世は死んだ魚みたいな男ばかりだ。奪い、騙し、自分の手を汚した水を、うまいうまいと啜っていくうちに、人の眼は濁っていく。熊谷自身が、そうであるように。

 榊原の瞳は、透き通っていた。腐った魚に食わせるには、ちょっと惜しいと思うほどに。

「さーて、病院でも行くかね。坊ちゃん、保険証持ってる?」

 熊谷が冗談がてらそんなことを口にすると、榊原は静かに口を開いた。

「…榊原。榊原忍です」

 あなたの名前は――と榊原に聞かれたが、2人でゆっくり話している暇はなかった。

 それから間もなく、先輩を心配した霜田と、霜田が連れてきた警察官が店になだれ込んできたからだ。

 この状況では、榊原をボコボコにしたのが熊谷だと誤解されかねない。熊谷は、名刺だけを榊原に渡して、その場をあとにした。

 綺麗な瞳の大学生が組事務所を訪れたのは、その翌日のことだった。



「榊原はそれからずっと熊谷さん、熊谷さんって言って俺についてきてさ。俺も榊原が可愛くなっちゃって、組には入れたけど、大学もちゃんと卒業させてやったんだ」

 過去に想いを馳せる組長の口調は、楽しげだった。

「淑恵ちゃんとの結婚を灘先生から反対された時も、俺が間に入ってやった。それを榊原はいたく恩に感じたみたいでさ、子供の名前つけてくれって言い出したんだよ」

「えっ…熊さんが、榊原さんのお子さんの名前をつけたんですか?」

 さやかは、淑恵に招かれて榊原邸で見た家族写真を思い出した。榊原と淑恵には、淑恵に似て楚々とした長女と、榊原に似て活発そうな次女がいる。

「子供の、しかも女の子の名前なんて考えたこともないから、途方に暮れたよ。結局、上の子は水無月生まれだから瑞恵ちゃん、下の子は七月生まれだから奈々恵ちゃん、ってつけた。淑恵ちゃんと似た名前にすれば、榊原は一生大事にするでしょ?」

「素敵なお話ですね。熊さんと榊原さん、本当の父子みたいです」

 組長と榊原は、単なる上下関係ではない。互いを本当に支え合っているのだ。

 組長は、すっと目を細めた。

「そうだね。俺が何かを遺してやるとしたら、相手は榊原しかいねえ」

「遺す?」

「榊原には、一番でけえ白虎組を譲ってやりてえんだ」

 組長の瞳には、さやかには見えない遠い何かが映っているかのようだった。

 外の木々のざわめきが、2人の間にできた静寂を満たした。

 組長が、うーんと伸びをした。

「あーあ、若い娘と2人っきりってのはいいねえ。ずーっとこうしていたくなる」

「ずっとってわけにはいきませんよ……って、熊さん!?」

「ん?」

 組長の両手が、自由を満喫するようにひらひらと頭上を舞っている。さやかと同様に、ワイヤーで後ろ手に縛られていたはずなのに。

 組長はこともなげに笑った。

「ここ、ガラスの破片がいっぱい落ちてるでしょ?さやかちゃんと喋ってる間に、一仕事してたってわけ」

「はあ、流石ですね…」

 しかし、その『一仕事』がそう簡単ではなかったことは、組長の手が赤いもので汚れているのを見れば分かる。

 ――やっぱり、熊さんは覚悟が違うんだ。

 飄々としていても、常に戦場に身を置いている。自分の大事なものが何かを分かっているからこそ、迷いなく行動できるのだ。

 組長は、血だらけの手でさやかのワイヤーを解いた。

「あらら、さやかちゃんの手、ワイヤーが刺さって血が出てるじゃん。冬枝が見たらブチギレるかもね」

「かすり傷です。どうってことありません」

 組長がふと、思い出したように言った。

「さやかちゃんってさ、なんで冬枝がいいの?」

「えっ?」

「腕っぷしのある用心棒なら誰でもいい、って娘には見えないんだけど。俺の見込み違い?」

 組長に瞳を覗き込まれ、さやかは、ちょっと真面目に考えた。

「…うまく説明できません。僕の場合、麻雀もそうなんですけど、言葉にできないから、夢中になってしまうんだと思います」

「ふーん」

 組長はさして興味もなさそうな返事をすると、足元に散らばる大きな破片をひとつ拾った。

「冬枝が好き?」

「えっ。す、好きか嫌いかと言われれば、好きですけど…」

 組長の顔が、ずいとさやかに近付いた。

「死ぬほど好き?」

「し、死ぬほど?は、はい…」

 さやかの脳裏に、あの竿燈の夜が蘇る。思い出す度に胸が高鳴るあの夜は、さやかと冬枝だけの秘密だ。

「じゃ、死んでみよっか」

 組長の笑みの下で、ガラスの角がキラリと輝いた。



 ゴルフクラブのティーラウンジで、冬枝はべったりとテーブルに突っ伏した。

「あー、こえだ」

 冷房で冷えたテーブルが肌に気持ちいい。炎天下でのゴルフ接待なんて、ゴルフに何の興味もない中年には、灼熱の太陽に焼かれるだけの時間でしかなかった。

「海行った時より焼けたんじゃねえか」

「こんなことなら、さやかさんから日焼け止め借りれば良かったっスね、兄貴」

「バカ土井。日焼け止めなんか兄貴が使うかよ」

 そう言う高根と土井も、年寄り議員たちの球遊びに付き合わされてぐったりしていた。若い弟分たちは、退屈すぎて疲れたのだろう。

 そこに、つかつかと高慢な足音が響いた。

「だらしねえな、冬枝。てめえ、本当は43じゃなくて53なんじゃねえか」

 ブランド物のポロシャツに、ご自慢のピカピカロレックス。日焼けとは無縁そうな血色の悪い、悪人面の朽木である。

 冬枝はテーブルにひっついたまま、口だけで反論した。

「てめえに言われたかねえよ。うちの組の誰一人として、てめえが36だなんて思ってねえぞ」

「おーおー、年寄りの声はか細くて聞こえねえなあ。今回のメンツじゃ最若手の俺様に、嫉妬が止まらねえか?」

 朽木の発言に、26歳の土井と高根が顔を見合わせた。

「朽木さん、自分のこと25歳だと思ってんのかな」

「バカ土井。下っ端は数に入ってないだけだ」

「カナシー」

 ボソボソ言い合う弟分たちは無視して、朽木は「ところで」と言った。

「若頭はどこ行ったんだ」

「榊原さんなら、灘さんとこだろ」

「あぁ?まさか、お義父さんのお背中でも流してやってるんじゃねえだろうな」

 猛暑のゴルフですっかり汗まみれになった白虎組のメンツを尻目に、灘議員と取り巻きたちは、優雅にシャワーを浴びているところだった。

 午後から合流した冬枝たちと違って、榊原は朝からこの接待を取り仕切っている。甲斐甲斐しく灘議員の世話をする姿を、朽木は皮肉ったのだろう。

 冬枝は、むくりとテーブルから起き上がった。

「てめえ、榊原さんに何か用か」

「俺様じゃなくて、霜田さんがな。帰りの道路が思ったより空いてるみたいだから、予定より遅く出発しても良さそうだってよ」

「細けえな、あの人も」

 ――政治屋なんかに、なんでそこまで気を使わなきゃならんかね。

 朝っぱらから働く榊原に同情したわけではないが、冬枝は何となく気が向いた。

「じゃ、俺が榊原さんに伝えて来る」

「なんだ、気が利くじゃねえか、冬枝。頼んだぜ」

 朽木はあっさり冬枝に伝言を託すと、自身はさっさとラウンジから出て行った。

 空気を読むほうの弟分、高根が椅子から腰を浮かせた。

「兄貴、自分が行きましょうか」

「いい。お前らも立ちっぱなしだったんだから、休んどけ」

「オレらの兄貴は日本一~」

 空気を読まないほうの弟分、土井にひらひらと手を振られ、冬枝は榊原を探しにロビーへと出た。

 ――年寄りの行水も、そろそろ終わった頃だろ。

 朽木の言うように背中を流してやってはいないだろうが、荷物持ちにお茶くみにと、榊原はあれこれやらされているに違いない。

 冬枝は初めて灘議員の接待に参加したが、議員たちの鼻持ちならなさは想像以上だった。こちらを当然のようにアゴで使う態度は、まるでお貴族様だ。

 ――榊原さん、よく辛抱してるよな。

 今日の接待中、冬枝だったら灘議員を殴っていたと思われる場面が100回ぐらいあったが、榊原は終始笑顔を絶やさなかった。

 義父であり、組の後援者でもあると思えばこそ耐えるのかもしれないが、榊原が逆らわないのをいいことに、灘議員はますます図に乗っているのではないだろうか。

「ハハハ…」

 などと考えているうちに、冬枝はVIP客専用の休憩スペースの近くまで来ていた。平均年齢の高い笑い声は、紛れもなく灘議員とその取り巻きたちのものだ。

 ――榊原さんもいるかな。

「田舎のゴルフクラブはいいですなあ。うるさい記者どもがいませんし」

「そうそう。あいつら、ヤクザとゴルフに行っただけで大騒ぎですからな」

 単なる茶飲み話かと思いきや、話は思いもよらない方向に転じた。

「こんな辺鄙な田舎町のヤクザのことなんか、週刊誌だって記事にしやしませんよ。白虎組なんて、東京で誰が知ってるというんですか」

「確かに。青龍会や朱雀組ならともかく」

 タバコの煙の中に響く笑い声に、冬枝は顔をしかめた。

 ――よくもまあ、人のシマで言えるもんだな。

 どうやら、この場に榊原はいないようだ。尊大な議員たちが、表面上はこちらにへつらっている(つもり)なのは、冬枝も知っている。

 よそを探すか、と冬枝が踵を返そうとしたところで、議員の一人がこんなことを言ったのが耳に入った。

「それにしても便利ですなあ、義息がヤクザの若頭というのは。灘先生は、いい御用聞きを婿に迎えられた」

 すると、灘議員はふんと笑い声をひとつ洩らした。

「あんなどこの馬の骨とも知れぬもの、息子だと思ったことはありませんよ。娘をやった以上、こちらに奉仕するのは当然の務めでしょう」

 ――おい、おい、おい。

 ゴルフ場では「忍君みたいな良い夫に恵まれて、淑恵は幸せ者だ」だの「忍君のお陰で、私も安心して羽を伸ばせるんだよ」だのと言っていたではないか。

 わざとらしかったおべんちゃらも、本音を知れば嘘以上の毒だと分かる。冬枝は、流石に頭にきた。

 ――てめえにとっちゃ馬の骨でも、俺らにとっちゃ立派な若頭なんだぞ。

 そこで、冬枝は肩をポンと叩かれた。

 ハッとして振り返ると、そこにいたのは――榊原だった。

「榊原さん…!」

「………」

 榊原は、無言で微笑った。

 今の罵詈雑言を、榊原も聞いていたのだろうか。冬枝の疑問に答えるように、榊原は冬枝を外へと連れ出した。

「お疲れさん。今日は、無理言って悪かったな」

 榊原が、自販機からウーロン茶を買って渡してくれた。

「…ありがとうございます。俺より、榊原さんのほうがお疲れでしょう」

「ハハハ。冬枝に気を遣われるってことは、俺も年を取ったんだな」

 早くも傾きかけた夏の陽ざしの中で、榊原の明るい笑みが眩しい。

 冬枝は、気まずい思いで缶を握り締めた。

「榊原さん。さっきの話…」

「ああ。もう慣れたさ」

 榊原の反応は、あっさりしていた。どうやら、灘議員から陰口を叩かれていることは、とっくに知っていたらしい。

「頭にこないんですか。あそこまで言われて」

「そりゃな。けど、怒ったってしょうがねえだろ。相手は上級国民だ。住んでる世界が違う」

 淑恵と結婚した時から、榊原の戦いは始まっていたのだろう。結婚から20年以上経った今、榊原は達観しているようだった。

「淑恵の親父さんであり、今は瑞恵と奈々恵の祖父さんでもある。大事な人なんだ、あれでも」

「はあ……」

 榊原のお人好しっぷりに、冬枝はほとほと呆れた。

 ――淑恵さんだけかっ攫って、灘さんとは縁切りゃいいのに。

 勿論、そんな簡単な話ではないことは、冬枝も分かっている。出世すればするほど、不愉快なしがらみが幾重にもまとわりついてくるのは、政治の世界も極道の世界も同じだ。

 ――何せ、親分が取り持った縁だもんなあ。

 榊原と2人、夕陽に照らされる芝生を眺めながら、冬枝はウーロン茶をグビグビと飲んだ。

 ――こうしていると、確かに年取ったって気がしてくるな。

 冬枝がしみじみ思っていると、榊原の若い衆と、高根と土井が揃ってやって来た。

「若頭。事務所から電話が入ってます」

「おう。どうした」

「それが、緊急の用事だそうで…」

 何やら深刻そうな顔をした若い衆たちと共に、榊原がロビーのほうへと向かっていく。

 一方、弟分たちの用事も電話だった。

「兄貴、お電話が入ってます」

「さやかか」

 何だよあいつ、俺が帰って来るの待ちきれねえのかよ、と冬枝が浮かれかけたのもつかの間、真面目な高根が「いえ、違います」と真顔で否定した。

「響子さんです」

「あん?響子さん?」

 響子は、榊原の愛人だ。響子の自宅でさやかと共に何度か麻雀を打ったことはあるが、付き合いはそのぐらいしかない。

 冬枝は、首を傾げながら受話器を取った。

「もしもし」

「こんばんは。響子です」

 響子は「今日、夏目さんと麻雀を打つ約束をしていたんですけど、夏目さんがいらっしゃらなくて」と言った。

「さやかが?」

 ――あの麻雀バカに限って、麻雀の約束をすっぽかすなんてありえねえ。

 恐らく、響子もそう考えたのだろう。電話越しでも、心配しているのが伝わった。

「夏目さん、今日の麻雀をすごく楽しみにしてくださってたんです。ですから、夏目さんに何かあったんじゃないかって…」

「分かりました。すぐにさやかを探しに行きます」

 冬枝が電話を切ると、ちょうど榊原が青い顔で飛んできた。傍らには、同じく青ざめた霜田もいる。

「冬枝。すぐに引き上げるぞ」

「どうしたんですか、榊原さん」

「今、事務所から連絡があった。親分が、秋津一家に拉致された」

「親分が?」

 とんでもない事態に、冬枝は仰天した。

 何でも、組長がトラの散歩に出たきり帰って来ないので、事務所にいた組員たちが心配していたところ、トラだけが事務所に帰ってきたという。

 トラの首輪には、組長の名刺が挟まれていた。そこに書いてあったのは――。

 霜田が付け加えた。

「組長だけではありません。そこには、麻雀小町からのSOSも添えられていたそうです」

「何ですって!?」

 どうやら、さやかと組長は共に秋津一家に誘拐されたらしい。さやかのメモとトラの案内により、組長とさやかが監禁されている場所のおおよその見当はついているという。

 ――年寄りの接待なんかしてる場合じゃねえ!

 灘議員に事態を報告しに行く榊原、撤収の支度をする霜田たちに続いて、冬枝も帰ろうとしたところに、「あの、冬枝様でしょうか」と控えめに声をかけられた。

「ああ?」

「クラブのオーナーでございます。春野嵐様より、お電話が入っておりますが」

 ――嵐が?

 どうして嵐がゴルフ場の番号を知っているのかなど、もはや考えなかった。このタイミングで嵐が電話をかけてくるということは、間違いなくさやか絡みだ。

「もしもし」

「ダンディ冬枝、事件です。そっちの親分とさやかがよそのヤクザに連れて行かれたって通報が、何件も入ってます」

「ああ。こっちにも連絡が入った」

 元警官というだけあって、嵐には警察の動きを逐一知らせてくれる人間がいるようだ。侮れない男だが、さやかのことを心底思っていることだけは確かだ。

 更に、嵐は重要なことを教えてくれた。

「地元の人間からこんだけ通報されてるってことは、『アクア・ドラゴン』にも今回の誘拐事件がバレてるでしょう。奴らが、この騒ぎに便乗しないはずがねえ。用心してくださいよ。アテンション冬枝」

「サンキュー、恩に着る。ワイルド嵐クン」

 嵐の笑みを最後に、冬枝は電話を切った。

 ――とにかく、一刻も早くさやかを助け出す!

 秋津一家だろうと『アクア・ドラゴン』だろうと、さやかに傷一つでもつけたなら、完膚なきまでに叩きのめすまでだ。

 冬枝は自らハンドルを握り、愛車の中古カローラのアクセルを踏んだ。



「きゃああああっ!」

 工場跡に、さやかの悲鳴が響き渡った。

 米倉率いる秋津一家の組員たちが、何事かと駆けつける。

 2階へ上り、ドアを開けた面々は、その場に広がる光景を見て凍り付いた。

 ガラス片から滴る血――。

 夏目さやかが、血を流してうつ伏せに倒れていた。その傍らには、凶器であろう血のついたガラス片を握った熊谷雷蔵が立っている。

「おい。何してるんだ」

 米倉が足を踏み入れると、熊谷が「ハハハ!」と笑った。

「一足遅かったね。ご覧の通り、刺しちゃったよ」

「刺したって…、どうして、そんな真似を」

 熊谷の足元に倒れたさやかは、ピクリとも動かない。夏物のワンピースの胸が、赤く染まっているのがわずかに見えた。

 熊谷は、ガラス片を無造作に床に捨てた。

「俺じゃないよ。なんで、俺が可愛いさやかちゃんを殺すのさ」

「何?」

「秋津一家はにっくき夏目さやかを拉致し、拷問して、挙句の果てに殺しちまった。誰が見たってそういう状況だろ」

 熊谷の発言に、米倉の背後に控える組員たちが顔を強張らせた。

「秋津一家じゃ、堅気の女子供に手を出すのはご法度だったねぇ。この不始末、秋津タケルは許してくれるかな?」

 熊谷のサングラスの奥の瞳が、米倉を飲み込む果てしない闇のように見えた。

 ――許されるはずがねえ。

 それどころか、今回の熊谷・夏目さやかの拉致自体、米倉の独断専行だ。蛮行とも呼べる米倉の行動を、総長が許すなどとは最初から思っていない。

 その上、夏目さやかが命を落としたとなっては、完全に米倉の手落ちだ。秋津一家の法度を侵したのは勿論、秋津イサオ殺害事件の真相も迷宮入りしてしまう。総長どころか、本家――朱雀組の怒りを買うのは必至だろう。

 ――総長に累が及ぶようなことになっちゃならねえ。

 米倉は、キッと眦を決した。

「だったら、てめえらにも道連れになってもらう」

「ああ?」

「拉致なんてなかった。俺たちはてめえらに会ってない。てめえらは、ここで『アクア・ドラゴン』に殺された――総長にはそう報告する」

「浅知恵だねえ」

 どこに隠していたのか、熊谷は天井から外したと思われる蛍光灯を1本、構えた。

「俺を殺すって言った以上、死ぬ覚悟はできてんだろうな」

「この人数相手にやれるもんなら、やってみろ」

 熊谷の無言の笑みが、戦闘開始の合図となった。

 古い工場跡を、無数の男たちの足踏みが揺らす。飛び交う怒声が、室内の温度を5度も10度も上げたかのようだった。

 ――熊さん、ホントに一人で闘うつもりなのかな。

 さやかは、頭上で展開される戦闘の激しさに、背筋がひりひりした。

 死んだ、というていのため、顔を上げることもできない。組長がさりげなく前に立ってくれているため、足蹴にされる心配はないが、それにしても不安は募る。

 組長は、蛍光灯1本で秋津一家の組員たちを薙ぎ払っていた。

「秋津じゃ、チャカも持たせてねえのかい?それでどうやって東京者とケンカするのさ」

 素手で向かってくる秋津一家の組員たちは、組長の前では赤子同然だった。蛍光灯に鳩尾を衝かれ、或いは割れて尖った先端で顔面を狙われ、近付くことすらままならない。

 音だけでも、組長の戦いぶりはさやかにも伝わった。

 ――これなら、本当にうまくいくかもしれない。熊さんの作戦…。

 組長の作戦は、こうだった。

「いい加減、ここにいるのも飽きちゃったから、出よっか」

「出るって…。外には見張りもいますよ。それも、かなり大勢」

「んなもん、強行突破に決まってるでしょ。ただ、俺はいいけど、さやかちゃんには死んでてもらうね」

「…足手まといになるからですか」

「ま、そうだね。俺はともかく、さやかちゃんのことは絶対に逃がしたくないでしょ、連中。さやかちゃんを守りながら戦うなんて映画みたいな真似、俺には出来っこねえから、そこで死んだふりしててちょうだい」

 そう言って、組長は躊躇いなく自身の腕をガラス片で切り、血をさやかになすりつけた。

「死体が綺麗じゃ説得力ないからね。せっかくのおめかしなのに汚して悪いけど」

「いえ…。僕よりも、組長のお怪我のほうが心配です」

「『かすり傷』だから平気、平気。榊原からさやかちゃんを絶対に傷付けるなって言われてるんだから、こうするしかねえのよ」

 それにしてもちっちゃいねえ、と、血をなすりつけるついでに笑いながら胸を揉まれたのは腹立たしいが、緊急事態なのでさやかは我慢することにした。

 というわけで、現在に至るわけである。

 ――だけど、熊さんって意外と短気なんだなぁ。

 自ら秋津一家に拉致されておいて、あっさり飽きて乱闘なんて強硬手段に出た。飄々としているように見えて、かなり向こう見ずだ。

 ――もしかしてこの人、根は結構単純なのかも。

 と、その時、さやかの頭上で何かがパリンと割れる音がした。

「!」

 足元のガラス片が踏まれて割れるような、そんな軽い音ではない。まるでビール瓶でも割れたような、鈍い音だった。

「ってえなあ。サングラスが割れちまったじゃねえか」

 一昨年の誕生日に榊原がくれた奴なのに、と言って、組長は割れたサングラスを胸ポケットにしまった。

 思わずさやかがそっと見上げると、組長の額から血が流れている。どうやら、ビール瓶で殴られたらしい。

 額だけでなく、よく見ると麻の背広も毛羽立ち、あちこち血がついている。唯一の武器である蛍光灯もとっくに半分の長さに折れていた。満身創痍だ。

 ――やっぱり、このままじゃまずい!

 冬枝さん、早く助けに来て!と祈りかけてから、さやかは首を横に振った。

 ――僕が、何とかしないと!

 乱闘の隙を見て、さやかはそろりそろりと這い始めた。自分だけでも脱出し、外に助けを求めなくては。

 ところが、部屋の外から秋津一家の組員が慌てて飛んできたものだから、さやかは危うく踏まれそうになった。

「若頭!大変です!」

「どうした」

「火事です!1階から火の手が上がってます!」

「何!?」

 米倉はじめ、組長と乱闘していた組員たちが凍り付いた。

 ――火事!?

 どこもかしこも錆び、使われなくなって久しいこの工場跡に、自然発火するようなものなどあるまい。さやかの脳裏に浮かんだのは、東京から来た愚連隊だった。

 ――『アクア・ドラゴン』の仕業だ!

 秋津一家がさやかと組長をあっさり発見、捕獲したぐらいだ。『アクア・ドラゴン』にこの動きが伝わっていないはずがない。連中は期せずして、秋津一家と白虎組を一度に葬る絶好のチャンスを手に入れたのだ。

 1階から上ってきた白煙は、地べたを這いずるさやかの目にまで見えた。

 ――これって、まずいんじゃない?

 突然の事態に逡巡している米倉たちに、組長が急かすように蛍光灯で床をドンと突いた。

「もうやめんのかい?つまんねえなぁ」

「何だと、この親父」

「ぶっ殺すぞ」

 組長の挑発に顔を赤らめる組員たちを、米倉が「よせ!」と一喝した。

「相手にするんじゃねえ。ずらかるぞ」

「でも、若頭」

「ここで全員焼け死ぬつもりか。いいから退け」

 若い衆がぱらぱらと退散していき、後には米倉だけが残った。

「何?ここで、一騎打ちでもする?」

 組長の問いに、米倉は「いや」と言って、スーツの懐に手を入れた。

 黒く光る拳銃が、ぬっと姿を現す。

「てめえをここから逃がすわけにはいかねえ。悪いが、ここで死んでもらう」

「映画の悪役みたいなセリフだねえ。かっこつけやがって」

 チャキッ、と銃の安全装置を外す音が聞こえた瞬間、さやかはとっさに立ち上がっていた。

「待ってください!」

「!?お前…」

 死んだと思っていたさやかが動いたものだから、米倉の顔に驚きが走った。

 さやかは、組長の前に両手を広げて立ちふさがった。

「僕は生きています。ですから、ここで組長を殺す必要はありません」

 米倉の指は、依然として引き金にかけられている。一歩間違えればさやかが撃たれかねない状況だが、恐れている余裕はなかった。

「銃で撃てば、必ずアシがつきます。警察もバカじゃありませんから、いずれあなたたちに辿り着くでしょう」

「………」

「ここで潰し合ったところで、『アクア・ドラゴン』が得をするだけです。ですから、僕たちの間には、何もなかった。そういうことにしませんか」

 さやかが必死に言い募ると、米倉の目つきが少しだけ緩んだ。

「…まるで、うちの最高顧問みたいだな」

「えっ?」

「てめえの言い分は道理だ。今は退いてやろう」

 そう言うと、米倉は一発、バンと発砲した。

 轟音にさやかは思わず首をすくめたが、背後の組長は微動だにしなかった。

 硝煙の向こうに、米倉の冷たい目が光っていた。

「だが、覚えておけ。4代目の恨み、秋津一家が必ず晴らす」

 そう言い捨てると、米倉は足早に1階へと去っていった。

「はあ……」

 さやかは、へなへなとその場に腰をついた。

 後ろから、組長がポンと背中を叩いた。

「お手柄だね、さやかちゃん。後で金一封あげるよ」

「あ、ありがとうございます…」

「ま、生きて帰れたらだけどね」

 組長がそう言った直後、廊下に面した窓ガラスがパリンと割れた。

 熱気が押し寄せるのと同時に、ギイッと何かが軋むような嫌な音がした。

「え……」

 背後にあったスチール棚が、熱風に押されてぐらりと傾く。

 全てがスローモーションのようにはっきりと見えるのに、疲れ果てたさやかの身体はとっさに反応できなかった。

 ――倒れる!

 ドスン、という重い地響きと共に、スチール棚がさやかの頭上に倒れた。

「うっ…」

 重い――が、予想よりも痛くない。

 それは、組長がさやかの上に覆い被さってくれたからだった。

「…熊さん!」

「ぺったんこに見えても柔らかいね、さやかちゃんは。このままずっと乗っかってたいぐらい」

 組長の背後で、スチール棚がギイと軋んだ。

「けど、俺もトシだからさ。この体勢、結構キツいのよ。何とかして出られる?」

「は、はい」

 さやかを潰さないよう、組長は自分の身体だけで棚の重さを支えているのだ。そうと気付いたさやかは、そろりそろりと組長の身体の下から這い出した。

「はい、お上手。これでちょっと楽になるよ」

 と言うや否や、スチール棚がガタンと音を立てて、組長の上に倒れた。

「熊さん!」

「あーらら、ちょっと苦しいかも」

 他人事のような組長をよそに、さやかは慌ててスチール棚に手をかけた。

「ううっ!重い…!」

「無理だよ、さやかちゃんじゃ。この棚、100キロはあるもん」

「待っててください、熊さん。今助けますから」

 自力では無理でも、てこの原理を駆使すれば何とかなるかもしれない。さやかは先ほどまで組長が武器にしていた蛍光灯を拾い上げると、棚と床の間に噛ませようとした。

 そうこうしている間に、煙が部屋の中にまで入り始めた。組長が退屈そうに言った。

「さやかちゃん、逃げれば?俺はいいからさ」

「よくありません!それより熊さん、下手に動かないでくださいね!危ないですから」

 割れた蛍光灯と重い棚を相手に悪戦苦闘しているうちに、さやかの手に血が滲んだ。汗を垂らし、顔を真っ赤にしながら、何とか棚を持ち上げようとしている。

 そんなさやかを見上げているうちに、組長は苛立ち始めた。

「さやかちゃんがいい子なのは分かったからさぁ。そろそろ逃げてくれないと、ホントに俺と心中しちゃうよ」

「心中なんかさせません!2人で必ず脱出します!」

 さやかは折れた蛍光灯を放り投げ、うーんと唸りながら必死で棚を押した。さやかの細い腕は、組長には蛍光灯よりよほど頼りなく見えた。

 このままでは、本当に2人揃って焼け死んでしまう。組長は、思いっきり怒鳴りつけた。

「わかんねえ嬢ちゃんだな。いいから逃げろつってんだろ。俺なんか助ける義理はねえ」

「義理ならあります!」

 さやかも、負けじと叫び返した。

「熊さん…組長が僕を代打ちとして認めてくれたから、僕は今ここにいるんです。組長は僕にとっても親分なんです!」

 さやかは再び棚に挑みかかって、手にビリッと走る痛みに顔をしかめた。

「熱っ…」

 スチール棚が、火傷しそうなほど熱くなっている。気が付けば、炎の気配はすぐそこにまで迫っていた。

 ――冬枝さん、僕に力をください!

 さやかが高熱の棚に手をかけた、その時だった。

「親分!」

「組長!」

「組長!」

「さやか!」

 火をかき分け、ポロシャツ姿の男4人が部屋に駆けつけた。

 榊原、霜田、朽木、そして――冬枝だ。

「冬枝さん…!」

「何、お前ら。わざわざ4人で来たわけ?」

 組長は目を丸くして「今ここで全員死んだら、うちの組はおしまいだね」と嘆息した。

 榊原は、霜田と共に手早く棚の左右に回った。

「親分、今助けます。冬枝、朽木、そっち側持ってくれ」

「はい!」

 男4人は「せーの!」と声を揃え、棚を持ち上げた。

「組長!大丈夫ですか」

「ああ、うん。何とかね」

 さやかは「良かった…」と呟いた。ホッとしたら、涙が零れた。

 榊原が、さっと組長の前に跪いた。

「親分、俺の上におぶさってください」

「えーっ、いらねえよ。自分で歩ける」

「組長、今は歩かないほうがいいと思います。足を長い間圧迫されていたので、クラッシュ症候群の恐れがあります」

 さやかがそう告げると、組長は「よくわからねえが、急いだほうが良さそうだ」と言って、火の手の上がる1階方面を見据えた。

「ねえ榊原、サングラス割れちゃったよ」

「俺が後で、親分に似合うのを見つけてきます」

 榊原は組長を背負うと、先頭に立って一同を率いた。

「さやか、お前こそ大丈夫か。血塗れじゃねえか」

 冬枝に心配され、さやかは苦笑した。

「僕は平気です。組長が守ってくれましたから」

「はあ…。とにかく、ここから逃げるぞ」

 と言って、冬枝は横からさやかを抱きあげた。

「ふっ、冬枝さん!?僕、自力で歩けます!」

「うるせえな、てめえの鈍足で逃げ遅れられたら困るんだよ!行くぞ!」

 1階までの道中は、立ち込める煙と熱気で、さやかは目も開けていられなかった。火をものともせずに進んで行く男たちが、それこそスーパーヒーローのように思える。

 ――やっぱり、この人たちはすごいんだ。

 と感動しかけたところで、先を行く朽木と霜田が金切り声を上げた。

「熱っちい!熱いですよ霜田さん!」

「こんなところにまでそんな金ぴか時計を着けて来るからです、バカ!」

「だって、霜田さんが若頭を追っかけて飛び出すから、俺もついてきたんじゃないですか!」

「補佐たる私が、若頭を一人で火の中に行かせるわけにはいかないでしょう!」

「おい、お前らうるせえぞ!煙吸うから喋るんじゃねえ!」

 榊原の一声で、霜田と朽木は口をつぐんだ。

 さやかもハンカチを口に当てながら、ひっそりと呆れた。

 ――スーパーヒーローっていうか、命知らずなだけかも。

 そして、もう一人の命知らずが、さやかを抱えて黙々と出口を目指している。さやかは、その身体にぎゅっとしがみついた。



 さやかは軽傷だったものの、秋津一家との乱闘で負傷した組長は入院することになった。

「トラは名犬だったねぇ。トラがいなかったら、俺もさやかちゃんも死んでたよ」

 トラにいい肉あげといて、と組長が命じると、若い衆が「はっ」と頷いた。

「あ、あと、さやかちゃんに金一封あげるって約束したんだった。よろしくね、榊原」

 組長は平然としていたが、収まらないのは榊原だった。

「よくも、親分に手を出しやがったな。秋津の山猿共に思い知らせてやる」

 秋津一家から届いた侘び文を、榊原はビリビリに引き裂いた。

 普段は温厚なだけに、榊原の憤怒は凄まじい。その剣幕に、傍に控えていた若い衆は皆縮み上がった。

 隣にいた霜田も、ここまで怒る榊原は初めて見た。

 ――よもや、このまま秋津一家と抗争になるのでは…。

 榊原は今にも大噴火を起こし、辺り一帯を火の海に変えてしまいそうだ。

 それを、ベッドの上から組長がまあまあと宥めた。

「榊原。そうカッカしなさんな」

「ですが、親分にケガさせられて、黙っていられません」

 組長を慕う榊原の真っ直ぐさは、出会った頃と何ら変わらない。組長が許せば、本当に秋津一家と抗争だってしかねないだろう。

 ――ホント、可愛い息子だよ。

 燃え盛る工場跡に突っ込んできた榊原ら4人も、細腕だけで組長を助けようとしたさやかも、バカで愉快な組長の子供たちだ。

 可愛い息子に、組長は手紙を書くように命じた。長い長い手紙は、その日のうちに榊原自ら、大羽まで届けに行った。



「先手を取られましたねえ」

 大羽にある赤陽館で、秋津ミノルは溜息を吐いた。

 執務室に集まったのは、総長・タケル、若頭・米倉、そして最高顧問・ミノルの3人だ。

 事態の張本人である米倉は、無言で俯いている。その左手には、包帯が巻かれていた。

「榊原君を怒らせたのはまずいですねえ。白虎組の去就は、今や榊原君が決めると言っても過言ではない」

 ミノルは、榊原が手ずから届けた手紙を卓上に広げた。

 手紙は巻物のように長く、書状と呼んだほうが相応しい。白虎組組長・熊谷雷蔵の祐筆とも称される榊原らしく、字は達筆だったが、内容は荒れに荒れていた。

 熊谷雷蔵を拉致及び監禁、更に乱暴狼藉に及んだ秋津一家への猛烈な抗議。毛筆の一文字一文字に、榊原の怒りが滲んでいるかのようだった。

 長々と秋津一家への批難を綴った書状は、大胆不敵な要求で締めくくられていた。

 ――かくなる上は、総長、秋津タケルと熊谷雷蔵との、一対一での面会を希望するものなり。

 ミノルが書状を読み上げると、米倉がバッと頭を下げた。

「申し訳ありません。全責任は俺にあります」

「いいんですよ、米倉君。君にはもう、落とし前をつけてもらいましたから」

 米倉始め、今回の一件に関係した組員たちは皆、タケルの指示で指を詰めていた。また全員、即時の破門処分が決まっている。

 ――まさか、若頭である米倉君が暴走してしまうとは。

 若者たちだけならともかく、若頭の独断専行とあっては、ミノルでも擁護できなかった。秋津四兄弟への忠誠心が強い米倉は、若頭という立場を擲ってでも、白虎組と夏目さやかに一泡吹かせたかったのだろう。

 ――それだけ、イサオお兄さんの死は重い。

 ミノルにできることは、米倉たちの再出発先として、傘下の組への紹介状を書いてやることぐらいだった。

 米倉の忠誠心は美談だが、組長を拉致監禁された白虎組は怒り心頭だ。詰めて送った指は、書状と一緒に送り返された。

「こんなもので済むなら、うちの親分はあと9回はさらわれるって都合か。舐めるんじゃねえ」

 榊原の怒声に、書状と指を受け取った栗林はすっかり青くなっていた。

 ミノルは、黙って鎮座している兄、タケルに視線を向けた。

「どうします?総長」

「会う」

 米倉たちの指詰めと破門を決めた時と同様、タケルの判断は早かった。

「こちらの不始末である以上、侘びを入れるのが礼儀というもの。例えそれが、いかに気に入らない相手であろうと」

 タケルの瞳には、今頃ベッドの上でほくそ笑んでいるであろう、熊谷雷蔵のタヌキ面が憎々しく浮かんでいた。

「すみません、総長。すみません…」

 嗚咽混じりの米倉の侘びが、虚しくこだまする。それを無視して冷酷にその場を去る兄を見送りながら、ミノルは熊谷雷蔵の狙いに思いを馳せた。

 ――さて、あのタヌキおじさんはどう出るつもりでしょうか。



 白虎組組長・熊谷雷蔵と、秋津一家総長・秋津タケル。

 県を二分するトップ同士の会合は、白虎組のシマ・彩北市にある料亭『金なべ』で行なわれた。秋津一家が完全に譲歩する形である。

 むろん、白虎組・秋津一家双方ともに、多数の護衛を従えている。店の中は勿論、近所にまでその緊張感は伝わり、閑静な住宅街には通行人の影もなかった。

 側近も連れず、部屋には熊谷とタケルの2人きりだった。

「おたくのおかげで、今夜は酒が飲めるよ。医者からは止められてんだけどね」

 熊谷は、そう言って盃を呷った。その額や腕には、まだ包帯が生々しく巻かれている。

 タケルは、潔くその場で頭を下げた。

「先般の不始末、謹んでお詫び申し上げる」

「いいって、いいって。秋津にゃモノの道理も知らねえバカ猿しかいないって、うちの街で知らねえ奴はいねえんだから。気にしねえこった」

「………」

 普通なら半殺し、どころか殺しているレベルの暴言にも、タケルは顔を上げることさえできない。若頭という組のナンバー2に掟破りをさせてしまった罪は、それだけ重い。

 ――だがこの男、気に食わぬ。

 熊谷雷蔵という男への不信感、不愉快さは、静かにタケルの中に降り積もった。

「ツラ上げな。別に、あんたをいじめるために呼び出したわけじゃねえんだ、こっちも」

「………」

 言われてタケルが顔を上げると、熊谷はにこやかにサングラスを持ち上げた。

「見て、このサングラス。うちの榊原がさ、新しいの買ってくれたんだ。似合う?」

「…さあ」

 腹の底の知れぬ男。ふざけたふりをしていても、熊谷が夏目さやかをエサに、米倉らを釣り上げたことはタケルの弟――ミノルが見抜いていた。

「今回の一件は、僕たちの動きを読んだ熊谷組長の策略です。僕たちにわざと不始末をしでかせ、償いとして何かを要求するつもりでしょう」

 熊谷の狙いよりも、タケルは夏目さやかが利用されていることが気になっていた。

「今日は、こちらからも話がある」

「ん?何?」

「貴様らは、夏目さやかを代打ちという名目で拘束している。その身柄、こちらに引き渡す気はないか」

 タケルが直截に述べると、熊谷は「はぁ?」とわざとらしくとぼけた。

「夏目さやかは青龍会に狙われている。貴様らが拘束していたところで、益はなし。これは朱雀組と青龍会の問題だ」

 夏目さやかは秋津一家が引き受ける、とタケルが言ったところで、熊谷がドンと盃を卓上に置いた。

「夏目さやかはもう俺の娘だ。俺の娘を、右から左へはいどうぞってわけにはいかねえよ」

「………」

 サングラスの奥から望む瞳には、冗談でない殺気が稲光のように閃いていた。

 その視線を真っ直ぐに受け止め、タケルはうむと一つ首肯した。

「承知した。夏目さやかの身柄については、また日を改めて申し入れる」

「何度来たって同じだよ」

 熊谷は、開けた障子から夜空を見上げた。

「ほら、見てごらんよ。いい月だねえ」

「…」

「おたくの5代目も、この月を見てるかな」

 5代目――その名を出されて、タケルの手がぴくりと動いた。

 白虎組、青龍会、そして――タケルが今、最も忌まわしく思っているもの。

 熊谷雷蔵は、はっきりと告げた。

「朱雀組5代目組長、柘植雅嗣。おたくらの今の親分だ」

 柘植に会わせろ――それが、この不愉快な対談の目的であり、熊谷雷蔵の要求だった。



 会談後、赤陽館でタケルから結果を聞いたミノルは、ほうと頷いた。

「なるほど。5代目ですか」

「分からん。熊谷は、何の用があってわざわざ5代目を呼びつける」

 まさか今更、朱雀組の傘下に入りたいというわけではあるまい。熊谷雷蔵はそんな殊勝な男ではないと、タケルは断じていた。

「そうですね。確かに、普通なら『アクア・ドラゴン』に参った白虎組が、朱雀組に助けを求めて傘下に入ることを望む、という流れなんですが……」

 それなら、わざわざ秋津一家に熊谷雷蔵拉致事件を起こさせるまでもない。秋津一家に頼んで、朱雀組と渡りをつけさせたほうが余程早いし、穏便だ。

 己が身を危険に晒してまで秋津一家に失態を演じさせたからには、絶対に5代目に会わなければならない理由が熊谷にはあるのだ。命と引き換えにしてでも得たい何かが、熊谷と5代目の間にはある。

 ――あのタヌキおじさんに、命を賭けるほど熱望するものがあるとは思えませんが。

 何せ、熊谷雷蔵は、若い頃に妻とその浮気相手を殺しているような男だ。夏目さやかに対しても、今回含め3回ほど危害を加えていることを、ミノルは調べ上げている。

 兄と二人で首を傾げたところで、バタバタとあわただしい足音が響いた。

「タケル、ミノル、大変だ」

「おや、相談役。こちらにお戻りでしたか」

 涼しげなブルーのスーツに穏和な眼鏡姿、言われなければ誰も極道だとは思わないだろうその男は、ミノルの2番目の兄――秋津ススムだった。

 亡くなったイサオのすぐ下の弟であり、順番で言えばタケルではなくススムが秋津一家を継いでいてもおかしくはない。

 だがこの次兄は、その容貌通り、ケンカよりも実業家が肌に合っていた。今や国内のみならず海外にも事業を展開し、幅広い人脈と資金で組を支えている。そのため、ミノルと同様に、ススムも秋津一家と朱雀組の相談役を兼任していた。

 仕事上、東京にいることの多いススムが、このタイミングで赤陽館に戻ってきた。ミノルは、背筋がざわつくのを感じた。

 ――まさか……。

 続くススムの発言は、まさにミノルの予感と呼応するものだった。

「5代目が、こっちに来ると仰ってる。すぐに支度してくれ」

 熊谷雷蔵が5代目に会わせろと言った直後に、5代目自ら東京を出立――。

 ――これは偶然でしょうか。

 それとも、夏目さやかが2人を巡り合わせたのか。熊谷の目的は不明だが、5代目がここに来る理由はそれしか思いつかない。

 ミノルはふと、破門された若頭・米倉が言っていたことを思い出した。

「夏目さやかは、ミノルさんに似ていましたよ」

「おや…、僕に?」

「はい。穏やかだが頭が切れて、何よりも人の命を重んじる。拳銃を突き付けられた状況で、なお相手と交渉しようとするなんて、まるでミノルさんを見ているようでした」

 そこで、米倉はハッとして「…すみません。口が過ぎました」と言って、ミノルに頭を下げた。夏目さやかが、イサオの仇かもしれないと思い出したのだろう。

 だが、ミノルもまた、夏目さやかは自分に似ているような気がしていた。

 ――君に会えば、確かめられるでしょうか。

 一刻も早く――5代目よりも先に、夏目さやかに会わなければならない。ミノルは、自身が動くべき時が来たことを悟った。

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