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31話 小夜時雨、輝き

第31話 小夜時雨、輝き


 小雨がぱらつく通り道に、白、黒、赤の傘が仲良く並んだ。

「淑恵さまのお料理教室、大盛況だったわね。まあ、もっぱら、源のおじさまの独壇場でしたけど」

 お料理教室は盛り場じゃなくってよ、と言って、マキが源に皮肉な笑みを向けた。

 黒の蝙蝠傘の源は、真顔でマキに言った。

「参加者の中で男が俺一人しかいなかったから、仕方がない。マキには、寂しい想いをさせちまったかもしれねえが」

「してませんわよ。ねえさやか、この方、誰に対してもこんな感じなの?」

 マキに眉をひそめられ、赤い傘のさやかが苦笑した。

「すみません。こういう人なんです」

 今日のさやかは、マキに誘われて淑恵主催の料理教室に参加した。聖天高校の生徒やOGがエプロン姿でグループを組む中、さやかと共に参戦したのが源だった。

「榊原さんの奥さん、お料理教室をやってるんですって。僕も行ってみようかな」

 と、さやかがたまたま『せせらぎ』で雑談ついでに話したところ、源が前のめりになって「俺も行く」と言い出したのだ。

 源が目立ったのは、言うまでもない。参加者で唯一の男性というだけでなく、長身に端整な顔立ち、凛とした佇まいに、女性たちの間からため息が漏れた。

 しかも、源は料理の腕前も玄人はだしだった。今日は初心者向けのレッスンのため、せいぜい野菜を切ったりハンバーグをこねたりする程度の簡単な調理しかしなかったのだが、それでも源の手並みは際立っていた。

 源が料理上手なのはさやかも知っていたが、今日の源はいやに気合が入っていた。特に本気が感じられたのは、淑恵がそばにいる時だった。

「お久しぶりです、源さん。まさか、こんなところでお会いできるなんて」

 淑恵に柔らかく微笑みかけられ、源の眼差しに熱がこもった。

「淑恵に会えるなら、地球の裏側からだって飛んで来るさ」

「ふふ。お元気そうで良かった」

 源が女性を口説くのはいつものことだが、淑恵に対しては一段上の情熱を感じた。

 マキもそう感じたようで、白い傘を不満げに回した。

「淑恵さまには、れっきとした旦那さまがいらっしゃるのよ?呆れちゃうわ」

「大した旦那じゃない。俺のほうが男前だ」

「どこから来るのかしら、その自信」

 源は、じっとマキを見下ろした。

「俺があと20歳若けりゃ、マキの相手に選んでもらえたか」

「30年遅かったですわね、おじさま」

 マキはつんとそっぽを向いた。

 やがて、バス停の前に白のロールスロイスが停まった。マキの迎えの車だ。

「じゃあ、わたくしはここで。さやか、本当に一緒に帰らなくて大丈夫?」

 マキはさやかの傘の下に入ると、耳元で声をひそめた。

「あのオジサン、典型的な送り狼よ。危ないわ」

「ははは…。源さんは口はお上手ですけど、根は優しい人ですから。大丈夫ですよ」

「もう、お人好しなんだから」

 マキはさやかを軽く肘で小突くと、「またね」と言って車に乗り込んでいった。

 ロールスロイスを見送ると、源がぽつりと呟いた。

「いい女だな」

「まだ高校生ですよ」

 さやかが一応、忠告すると、源がふっと遠い目をした。

「出会った頃、淑恵もまだ高校生だった」

「源さん、そんなに前から淑恵さんとお知り合いだったんですか?」

 さやかはふと、マキから聞いた話を思い出した。

 淑恵は、聖天高校在学中に榊原と恋に落ち、結婚した。灘議員の娘という出自とあいまって、淑恵と榊原のドラマティックな恋物語は、今でも聖天の女学生たちに伝説として語り継がれているそうだ。

 源は、淑恵と榊原のロマンスに立ち会っていたらしい。

「こんな小雨の日だった。俺はちょうど、傘を女に貸したところで、軒下で雨宿りしてた」

 23年前。源は28歳、花から花へ、あちこちの美女を渡り歩く男盛りだった。

 雨宿りしていた源の前に、突然、ふわり、と白い蓮の花が咲いた。

「どうぞ。良かったら、お使いになって」

 真っ白な傘を広げて佇んでいたのは、制服姿の美少女――16歳の淑恵だった。

 雨の中でも光を帯びているような淑恵の美しさに、源は目を奪われた。

「俺はいい。嬢ちゃんが濡れちまうだろ」

「平気です。もうすぐ、迎えが来ますから」

 お優しいんですね、と微笑まれた。たったそれだけで、源の世界から淑恵以外の全てが消えた。

 淑恵の手は細くて柔らかそうで、淑恵が持つとただの傘ですら蓮の花に変わった。傘を受け取るついでにその手に触れた瞬間、源に電流が走った。

 ――俺の運命の女だ。

 この女になら、どれほど人生を狂わされても構わない。この女のために燃え尽きることができたなら、どんなにいいだろう。

 出会って1秒で、源は淑恵に惚れた。

「俺は源清司。嬢ちゃんの名前を教えてくれないか」

 いきなり名前を聞かれたというのに、淑恵は嫌がることなく答えてくれた。

「まあ、丁寧な方。私、灘淑恵と申します。聖天高校の2年生です」

 源の頭の中には既に、淑恵を口説き、自分のものにする道筋が明確に見えていた。淑恵が頷いてくれるまで、百夜通いする覚悟すら出来ていた。

 しかし、無粋なエンジン音は、源にその時間を与えなかった。

「榊原さん」

 甘く匂うような微笑は、運転手が淑恵の恋人であることを如実に語っていた。

 ――榊原だと?

 源の嫌な予感は的中し、車の窓から顔を覗かせたのは、源のよく知る男だった。

 性悪熊谷の腰巾着。爽やかぶった、いけ好かない優等生面。

 榊原忍は、源より先に淑恵の心を射抜いていたのだった。

「………」

 さやかは、源の述懐を聞いて絶句した。

 ――源さんに、響子さんのことを知られたらまずい。

 冬枝は源の前で響子の話をしないが、それは若頭のプライベートを秘しているだけではなかったのだ。こんなにも淑恵に惹かれている源が、今の淑恵の境遇を知ったらどうなることか。

 ――響子さんは情緒不安定だし、朽木さんにも諦める気がなさそうだし、これ以上、状況をややこしくしたくない。

 さやかはこの間、竿燈の夜に偶然、響子と遭遇した。

「あんな人と…あんな人と、若頭を一緒にいさせるわけにはいかない」

 そう言って、榊原と淑恵は別れるべきだ、と響子は主張した。

 さやかが知る限り、淑恵はとても優しい女性だ。榊原とも仲が良く、互いに愛し合っているように見える。

 ――淑恵さんには、僕が知らない何かがあるのかもしれない。

 さやかがマキの誘いに応じたのは、淑恵の人となりをもう一度、観察するためだった。お料理教室の最中も、さやかはこっそり、参加者に包丁の握り方や調理の手順を教える淑恵を盗み見た。

 ――でも、特におかしなところはなさそうなんだよな。

 淑恵は誰に対しても分け隔てなく、親切に接していた。さやかの不格好な肉じゃがも、丁寧に作られていてとてもいい、と褒めてくれた。

 さやかは一応、源にも探りを入れておくことにした。

「淑恵さんって、若い頃から素敵な人だったんですね。欠点を探すほうが難しいです」

 すると、源が微かに口角を上げた。

「なんだ、さやか。妬いたか」

「…違います。あまりにも非の打ちどころがないから、何だか信じられなくって」

「そうだな。淑恵の欠点なんて、俺じゃない男と一緒になったことぐらいだ」

 源は、淑恵への未練を隠そうともしない。いっそ清々しいな、とさやかは呆れた。

 ――やっぱり、淑恵さんが原因じゃない。

 響子や霜田らが榊原夫婦を別れさせようとするのは、他に理由がある。ひょっとして、とさやかが考えかけたところで、源に流し目を送られた。

「淑恵には振られちまったが、俺とさやかの赤い糸はまだ繋がってる」

「もう…。赤い糸どころか、僕、源さんのことは敵だと思ってますから」

 源が、怪訝そうに眉根を寄せた。

「敵?」

「ええ。源さんは、僕のライバルです」

 さやかは、真っ直ぐに源を見上げた。

「源さんは気付いてないかもしれませんが、冬枝さんは源さんのことが好きです。それも、かなり」

 源の切れ長な瞳が、ぱちぱちと瞬いた。

 先日、さやかは18年前に冬枝と源の間にあった事件のことを知った。

 組幹部だった嘉納笑太郎が麻薬の密売に手を出し、幹部会議で糾弾された結果、逆上して先代組長めがけて発砲した。

 先代を庇った源は重傷を負い、冬枝はその場で笑太郎を斬った。

 笑太郎の娘であるエミコと冬枝が、別れるきっかけになった悲しい事件である。同時に、さやかはこの話から、冬枝と源の強い絆を感じた。

「冬枝さんの言葉や行動は、源さんにそっくりです。冬枝さんの心の中で、一番大きな席を占めているのは、源さん。それが、僕の解です」

「………」

 源は、凍り付いたように無言になっていた。

「源さんに勝たない限り、僕は冬枝さんの一番にはなれません。そこで、僕も料理の腕を磨くことにしたわけです」

 えっへん!とさやかが胸を張ったところで、頬に源の大きな手が触れた。

「ひゃっ」

「さやか。俺は、女相手なら大概のことは大目に見てやるが、流石に冬枝とどうこうって言われるのは我慢がならねえ」

「源さん…?」

 源の顔が、ずんずんさやかに迫ってくる。今にも、さやかの赤い傘が源の蝙蝠傘に押し潰されてしまいそうだ。

「お、怒ったんですか…?」

「そりゃ怒るさ。俺はこんなにさやかを想ってるのに、さやかは俺を見ようともしないんだから」

 直接伝えたほうがいいか、と言って、源が一気にさやかとの距離を縮めた、その直後だった。

 甲高いブレーキ音と共に、車のライトが乱れた軌道を描いた。

「!」

「源さん!」

 黒い傘と赤い傘が、雨空に舞った。

 一瞬の出来事だったため、さやかも何が起こったのか分からない。車が猛スピードで迫ってきて、源がさやかを抱えて飛び退いたのだ、とは後から思い出したことだ。

 この時はただ、雨粒の冷たさと、源の腕の強さだけが、さやかが感じた全てだった。

「………」

「………」

 気を失っていた、と分かったのは、頭上に広がるアーケードをハッと見上げた時だった。

 ――いったい、何がどうなったんだっけ……。

 車にぶつかりそうになって、それで……と思い出していくうちに、さやかの意識がはっきりしてきた。

 と同時に、自分を見下ろす女の子の顔がくっきりと目に映った。

「……ん?」

 鏡にしては、やけに立体感がある。まるで、目の前にさやかがもう一人いるみたいだ。

「さやか。怪我はねえか」

 しかも、もう一人のさやかは喋った。さやかはぎょっとすると同時に、アスファルトに触れる自分の体の表面積がやけに大きいことに気が付いた。

 ――なんか、身体が大きくなったような……。

 スーツに包まれた自分の腕を動かし、これまた大きな手を握っては開いてみた。最後に、自分の頬にぺたりと触れて、さやかはこれが夢ではなく、現実なのだと悟った。

「入れ替わってる…!?」

「その通りだ」

 もう一人のさやか――もとい、さやかの身体に入った源が、こくりと頷いた。

 さやかは、ゆっくりと起き上がった。傍らに正座する源――自分の身体が、とても小さく見える。

「まさか…こんなことが本当に起きるなんて」

「とりあえず、そこのサ店にでも入ろう。ここは人目につく」

「あ…そうですね」

 アーケード街で座り込む大の男と女に、道行く人がちらちらと視線を向けている。さやかは源の言う通り、近くの喫茶店に入った。

 さやかは、窓に映る自分の姿――源の端整な横顔――を見て、改めて事態の異様さに驚嘆した。

「やっぱり、車を避けた時にぶつかったことが原因でしょうか」

「かもしれないな。51年生きてきたが、こんなことは初めてだ」

 さやかとて、人と人の人格が入れ替わった実例なんて、見たことも聞いたこともない。

「これから、どうしましょう。まずは、冬枝さんに説明したほうがいいでしょうか」

「いや。俺とさやかが入れ替わったなんて話、言ったところで信じねえだろう」

「確かに…。僕だってまだ、自分の身に起きたこととは思えないぐらいですから」

 正直、あまりにも突然のことすぎて、さやかの理解が追い付かない。源が冷静で助かった、とさやかは目の前の自分――源に、改めて感服した。

 源は、唇の前に人差し指を立てた。

「このことは、俺たちだけの秘密にしよう」

「えっ…でも、隠し通せるでしょうか」

「難しいことじゃない。俺がうまいこと冬枝を誤魔化すから、さやかは俺の家に閉じこもっていればいい。夕飯は今、一緒に帰って作っておく」

 確かに、冬枝との付き合いが長い源なら、冬枝に対する振る舞い方を熟知しているだろう。さやかはなるべく人に会わないようにして、源の家で打開策を考える、ということになった。

「分かりました。よろしくお願いします」

「ああ。心細いかもしれないが、なるべくさやかに会いに行く。2人で、この状況を乗り切ろう」

 源に手を重ねられ、さやかは勇気づけられた。

「…はい!源さんと一緒なら、何とかなりそうです」

「フフ…。入れ替わった相手が、さやかで良かった。これが冬枝とかだったら、今頃気が変になってたところだ」

「でも、男の人同士なら、入れ替わっちゃってもそんなに問題は…」

 と言いかけて、さやかは重大な問題に気付いた。

「あっ!み、源さん」

「どうした」

「お、お手洗いはどうしましょう」

 流石に、元通りになるまで一度もトイレに行かないというのは不可能だ。先代組長の親衛隊だった源なら、あるいはそういう特殊な訓練も受けているかもしれないが、さやかの肉体ではまず無理だ。

 源は、何の不安もなさそうな笑みを浮かべた。

「問題ない。さやかの好きにしていい」

「そ、そう言われても…僕、男の人の身体でやったことがないので」

 源は目を丸くして「それもそうか」と言った。

「じゃあ、それも家に帰ったら教えよう」

「よ、よろしくお願いします…」

 ――ん?身体は源さんだけど、『出す』のは僕なわけで…あれ?

 何か大事なことを見落としている気がしたが、さやかはそれより自分の身体が気になった。

「源さんは、何か分からないことはありますか、僕の身体で」

「特にない。自分の身体より、女の身体のほうが多く見ているぐらいだ」

「……そうですか」

 気のせいか、源は何だかこの状況を楽しんでいるように見える。自分自身の顔をしているためか、さやかはいつもより源の感情が読めるようになっていた。

 とはいえ、源はやはり頼もしい。さやかを自宅に連れ帰ると、家の鍵や電話など必要なものの置き場所や、訪問者への対応など、事細かに教えてくれた。

 夕飯もとびきり美味しいチャーハンを作ってくれたし、朝食用にと鶏そぼろと豚汁まで用意してくれた。

「明日の昼飯は、俺が来て作ってやる。さやかは、ここでのんびりしてればいい」

「はい。ありがとうございます、源さん」

 てきぱきとした源を見ていると、恐れることなど何もないように思えてくる。これなら、明日には解決策を考える余裕ができそうだ。

「おやすみ、さやか」

「おやすみなさい、源さん」

 自分の姿をした源に話しかけるのにも、すっかり慣れてしまった。源を見送り、家の鍵を閉めてから、さやかは「あっ!」と声を上げた。

 ――しまった!源さんが僕の身体ってことは、アレを見られる……!

 アレの存在は、同居している冬枝や、洗濯を担当している土井にバレないように、厳重に隠してきた。誰にも気付かれないまま、こっそり目的を遂げるためだ。

 さやかがあんなものを着けていることが知られたら、恥ずかしくて生きていけない。さやかは今すぐにでも源を追いかけたい衝動に駆られたが、ふと冷静になった。

 ――男の人には、アレが何だか分からないか。

 アレは一見、普通の下着にしか見えない。源もきっと、何の疑問も持たないだろう。心配することないか、と思い直して、さやかは源が敷いてくれた布団に入った。



「着けるだけでバストアップ、サイズ補正スペシャルブラジャー」

 さやかの机に隠してあった説明書を読み上げて、源は「なるほど」と頷いた。

 さやかが簡素なものを好むとはいえ、やけに色気のないブラジャーだと思った。これはおしゃれや男に見せるためのものではなく、影の努力の証だったのだ。

「言われてみれば、前よりも大きくなったような……」

 風呂上がり、洗面所の鏡の前で、源は胸をむにむにと揉んでみた。手のひらにすっぽり収まるサイズに変わりはないが、確かな手ごたえを感じる。

 ――冬枝は果報者だな。

 さやかの華奢な身体を隈なく見尽くし、これを己がものにできるかもしれない弟分が、源はつくづく憎らしくなった。

 淑恵といい、源が惚れた女は大抵、既に他の男のものになっていた。思えば、母の時点でそうだったな、と源は己の人生に想いを馳せた。

 さやかは、源の母によく似ている。最初に出会った時、まるで死んだ母が目の前にいるようで、本当に驚いたものだった。

 ――俺がさやかに惚れてるから、そう見えるのかもしれないが。

 最愛の女の面影を重ねてしまうぐらい、さやかは源の心を掴んでいる。源はつい、鏡に映るさやかをうっとりと眺めてしまった。

「ふあーあ……って、うわっ!?」

 そこに、欠伸をしながら冬枝がやって来た。

「………」

 源は「おはようございます、冬枝さん」と型通りの挨拶をした。

「おまっ、き、服着ろよ!湯冷めするぞ!」

「ご心配どうも」

 忠告を無視して、源は床に引っ繰り返っている冬枝へと近付いた。

「………」

 ――こいつ、本当に老けたな。

 若いさやかの身体で見るからそう思うのかもしれないが、まばゆい朝日の中で見る冬枝は、本当にくたびれた中年だった。源より8つも年下のはずなのに、並んだら冬枝のほうが年上に見えそうだ。

 ――ムショ暮らしで苦労したせい、と同情してやるべきなんだろうが。

 それにしても、朝っぱらから老けた親父の寝起き顔を見るのはきついものがある。さやかにはこれが魅力的に見えているのだから、恋は盲目とはよくいったものだ、と源は一人感心してしまった。

「だから、服を着ろって言ってんだろ!!寝惚けてんのか!!」

 さやかが全裸で見下ろしてくることに耐えかねたのか、冬枝は着ていた黒の寝間着を脱いで、源にバサッと羽織らせた。

 ――オッサン臭ぇ……。

 とはいえ、少々冬枝にサービスし過ぎたかもしれない。さやかの身体になって気付いたが、女の肉体は、本人の目で見るより、外から見たほうがあちこち見やすい。これでは、源よりも冬枝のほうが得をしてしまう。

 源は冬枝の寝間着を脱ぎ捨てると、籠に入れておいたさやかの服に手早く着替えた。

「冬枝さん」

「何だよ」

 刺青の入った背中をこちらに向けたまま、床に正座している冬枝に源は告げた。

「部屋の掃除と洗濯はもう済ませてあります。それと、朝食はテーブルの上に作っておいたので、適当に食べてください」

「え……ああ?」

 冬枝はきょとんとして「お前、何時から起きてたんだ?」と間抜けな声を出した。

「4時です。軽く、外を走ってきました」

 身体はさやかのものだが、いつもの習慣をやらないと落ち着かない。普段通りに10キロ走ろうと思ったが、さやかの脚が悲鳴を上げ始めたため、5キロほどで断念した。

 冬枝は、驚いたような、呆れたような調子で言った。

「……お前、なんか年寄りみてえだな」

 こういう一言多いところも、さやかは愛しているのだろうか。源は蹴りを入れてやろうかと考えたが、冬枝は動体視力がいい。さやかのパンティは源だけが見ればいいので、弟分の余計な発言は聞き流すことにした。

 一方、呆気に取られながら食卓に向かった冬枝は、そこに本当に朝食が作られているのを見て仰天した。

 しかも、鮭の塩焼きに根菜の煮物、だし巻き卵に味噌汁までついている。朝からこんなに手の込んだものを作るなんて、冬枝でもやらない。

「料理教室に行ったからって、何もいきなりこんな気合を入れなくても……」

 と言いつつ、冬枝は満更でもなかった。雀キチのさやかがお嬢様方と一緒に料理教室なんて、どういう風の吹き回しかね、と訝っていたが、実際に飯を作られてみると、何だかいい気分になった。

 ――将来は俺の嫁さんにでもなるつもりかね、あいつ。

 さやかの手料理なんて、美輪子が来た時に肉じゃがを作られて以来だ。見たところ、あのいびつな肉じゃがよりも急激にレベルアップしているようだが、淑恵の料理教室はよほどのスパルタだったのだろうか。

「…ん!?」

 味噌汁を一口、口にした冬枝は、眉根を寄せた。

 美味い。というか、懐かしい。

 この味は、冬枝の青春時代そのものだ。そう、これは…。

「これ、源さんが作ったんじゃねえだろうな…」

 冬枝がぽつりと聞くと、向かいで食べていたさやかが「は?」と顔を上げた。

 冬枝は煮物を一口食べ、それから鮭とだし巻き卵も食べて、確信を深めた。

「やっぱり、源さんが作ったやつとおんなじ味じゃねえか!お前、本当に淑恵さんのとこに行ってたのか?まさか、源さんのところに行ってたんじゃ……」

 疑惑の目つきを向けてくる冬枝に、源はおぞけをふるった。

 ――こいつ、なんでこんなに『源さん』『源さん』なんだ。

 さやかが源のことをライバルだと言った時は、恋する女特有の可愛らしい独占欲だと思っていた。しかし、どうやらさやかが抱いていたのは、もっと切実な危機感だったらしい。

 確かに、冬枝を弟分にしてからしばらく、源が飯の面倒を見てやったのは事実だ。冬枝に料理を教えたのも源だし、冬枝が源の作るものを気に入っていたのも知っている。

 ――だが、もう兄離れしろ。

 男から、しかも43歳のオッサンから慕われたところで、気色が悪い。ましてさやかから冬枝を巡るライバルだと思われるなんて、迷惑もいいところだ。

 冬枝はしばらくごちゃごちゃ言っていたが、源は静かに遮った。

「……冬枝さん」

「あ?」

「僕、源さんを素敵な人だと思ってるから、お料理の味も自然と似てしまうのかもしれませんね」

「あんだと!?」

 源はくすくす笑って「冗談です」と言った。

「だけど、冬枝さんがあんまりしょうもないことを言うようなら、僕も心変わりしてしまうかもしれません。気を付けてくださいね」

 冬枝は、その時のさやかの微笑み方が源そっくりに見えて、ぞっとした。

 ――こいつ、なんか今日おかしいぞ。

 ただ向き合っているだけなのに、異様に緊張する。さやかの小さな身体から発せられているとは思えないぐらい、巨大な威圧感が漂っているからだ。

 それに、朝4時から起きてジョギングして、掃除・洗濯・飯の支度をこなすなんて、あの赤ちゃんさやかには無理だ。淑恵のところで料理教室ではなく、洗脳でも受けたのではないか。

 ――まるで、源さんが乗り移ったみたいな……。

 いや、あり得ない、と冬枝は首を横に振った。というか、そんなおぞましいことはあって欲しくない。

 ――見た目がさやかで中身が源さんなんて、悪い冗談だぜ。

 だが、やはり朝食は源が作ったとしか思えない味がするし、さやかの一挙手一投足が、いつもよりもやけにチャキチャキしていて落ち着かない。

 ――俺の可愛いさやかは、どこに行っちまったんだ。

 あのロマンティックな竿燈の夜から、まだ何日も経っていない。「出掛けてきます」と無表情に言ってスタスタと去っていくさやかを見送りながら、冬枝は途方に暮れた。



 雀荘『こまち』で打っていると、源の肩をポンと馴れ馴れしく叩く手があった。

「よっ、さやか!今朝は随分早いじゃねえか」

「…おはようございます、嵐さん」

 個性的なピンクの革ジャン姿は、忘れようがない。さやかにおかしな呪いをかけた男、春野嵐だ。

 馴染みなのか、源の対面にいた客が、嵐に席を譲った。嵐は「サンキュー」と言って、どっかりと腰を下ろした。

「『こまち』のテレビ、やっと新しくなったんだな。カラーテレビを初めて買った時みたいな感動だぜ」

 嵐は天井近くに据え置かれているテレビを見上げて「さやかがダンディ冬枝を口説き落としたんだろ?麻雀小町様様だな」と言った。

「それで、どうだった?竿燈は」

「上首尾でした」

 竿燈の夜、さやかが冬枝と盛り上がったであろうことは、料理教室で熱心に包丁を握る姿からも明らかだった。

 もっとも、源の見るところ、2人は行くところまで行った、という訳ではなさそうだ。

 ――冬枝の奴、エミコだけじゃなくて、さやかともプラトニックを貫くつもりか?

 あのひねくれた弟分に限って、そんな殊勝な心意気はあるまい。エミコとの関係が清かったのだって、父親である笑太郎の存在が面倒臭かった冬枝と、身持ちの固いエミコの利害が一致したからだ。エミコはともかく、冬枝のほうは崇高な精神愛など持ち合わせてはいなかった。

 源、もとい『さやか』が即答したのを聞いて、嵐が口笛を吹いた。

「東京娘はませてんなぁ。もうオジサマを手玉に取ってんの」

「そう言う嵐さんは、鈴子さんと竿燈を見たんですか」

 あの笑顔とバストが魅力的な鈴子が、小学生から脳みそが進化していないようなこの春野嵐の女房だということが、源は今でも信じられない。

 嵐は、よくぞ聞いてくれました、とばかりに頬を持ち上げた。

「良かったぞぅ、2階からの眺めは。竿燈を見ながら、鈴子の上から下まで、触り放題!ムフフ!」

「それは羨ましい」

 源はうっかり本音を口に出してしまったが、嵐は訝る素振りもなかった。

「お前な、鈴子のおっぱいを私物化すんなよ。鈴子のおっぱいひと揉みにつき、さやかのおっぱい3揉みで支払ってもらうからな」

「不公平じゃありませんか」

「お前、自分の乳見たことねえのかよ」

 女の値打ちは胸じゃない。大きければ大きいなりの、小さければ小さいなりの良さがあるというものだ。そう思ったが、源は反論しないでおいた。

 ――この鼻たれ坊主には、まだ分からねえか。

 と、窓の外から「キャッ!」という女の悲鳴が聞こえた。

「!」

 源はすぐに卓から立ち上がると、窓を開け、外へと飛び降りた。

「おい、さやか、乳の小ささを指摘されたからって早まるな!」

 嵐の放言など、耳にも入らない。源は1階にある店の屋根に降りると、そこから地上へジャンプした。

 悲鳴の主は、路上で片足立ちになっていた。波打つ黒髪が何とも色っぽい、妙齢の美女だ。

「何か、お困りですか」

 源がすかさず声をかけると、美女が「あら、あなた、この間の」と顔を上げた。

「それがね、靴のヒールが折れちゃったの。これから人と会うのに、ついてないわ」

 源は跪いて、うやうやしく美女の脚を取った。

「それなら、僕があなたに似合う新しい靴を買ってきましょう。その間、そこの店で待っていていただけますか」

 源は、お茶代にと1万円札をそっと手渡した。

 美女は、「あ、ありがとう」と引きつった笑みを浮かべた。さりげなく名前を聞き出したところ、美女は美輪子というらしい。

 ――おおかた、冬枝の女だな。

 長い睫毛に縁取られた美しい眼差し、均整の取れた体つきは、冬枝のタイプだ。勿論、源の好みでもある。

 源はすぐに駅前のデパートで新品のハイヒールを見繕い、『こまち』で待つ美輪子にプレゼントした。

 美輪子は源の買って来たハイヒールを履いて「ぴったり。それに、すごく私の好み」と言って、喜んでくれた。

「どうもありがとう。えーと、さやかちゃんだったかしら」

「はい」

「さやかちゃんのお陰で買えたあの麻雀牌、お客さんからもすごく好評よ。私、冬さんはいいガールフレンドを持ったわね、って、会う度に褒めてるんだから」

 美輪子とさやかが面識を持ったにも関わらず、冬枝は構わず美輪子と会っているらしい。さやかという本命が出来たくせに、別の女にふらふらするクセは未だに抜けないようだ。

 美輪子のほうも満更でもないらしく、「冬さんに、またお店に来てね、って伝えておいてちょうだい」と言って、『こまち』を去って行った。

「さやか。お前、いきなり飛び降りたから、たまげたぞ」

 嵐が「ロケットみたいに飛び出すなよ」と言って、しげしげとさやかを見下ろした。

「………」

 小柄なさやかの身体だと、ほとんどの男に見下ろされる形になる。普段は見下ろす側なだけに、これは愉快じゃねえな、と源は思った。

 ――さやかは、こんな小さな身体で野郎たちと渡り合ってるんだな。

 さやかの気丈さに感心すると共に、その健気さを守ってやりたいとも思う。安心できる止まり木があってこそ、小鳥はどこまでも羽ばたいて行けるというものだ。そう、つまりさやかには、源のような頼もしい男がいたほうが――。

 などと考えていたところに、「さやかお姉さま!」という晴れやかな声がかかった。

「マキ…さん」

「ごきげんよう。昨日はお料理教室、楽しかったわね」

 白とブルーのマリンワンピースの上で、マキのくっきりとした目鼻立ちが眩しい。マキもまた、さやかと同じく芯の強さを感じさせる女だ。

「ねえさやか、これから西武で新しい口紅を買いに行くんだけど、一緒に来ない?」

「喜んで」

 これは僥倖だ。さやかとマキ、2人の女に似合う口紅を、いっぺんに選んでやれるなんて。

 白のロールスロイスに乗り込み、源とマキは駅近くにある西武へと向かった。



「………ふにゃあ」

 その頃、さやかはようやく目を覚ました。

 もそもそとベッドから起き上がり、顔でも洗おうと、洗面所を探してさまよった。

 ――あれ?洗面所が見つからないにゃぁ……。

 それに、何だか部屋が狭い気がする。いや、天井が低いのか。

 などとやっているうちに、さやかはハッと覚醒した。

 ――そうだ!今、僕は源さんなんだった!

 部屋が狭いのではなく、源の身体が大きいのだ。目線も、いつもよりずっと高い。

 ――昨夜は意識してなかったけど、男の人のお家なんて、ちょっと緊張するかも…。

 冬枝のマンションだって「男の家」に変わりはないのだが、4ヶ月も同居してしまうと、もはや意識しなくなる。

 こぢんまりとした源の家は、和室に最低限の家具が簡素に並べられている。源らしい、さっぱりとした佇まいだった。

「そうだ。新聞取りに行かないと…」

 郵便受けを覗き込むと、新聞だけでなく、大量の手紙がごっそり挟まっていた。

 ――どれも、女の人からっぽいな。

 宛名書きの筆跡から、何となくそれと分かる。中には、薔薇の香りがする封筒もあった。

「こんにちはー。お届けものでーす」

 しかも、立て続けに宅配便まで届いた。お米や果物、高級な海の幸、花束など、どれも想いのこもった贈り物ばかりだ。

 ――源さんって、引退した今もすごい人気みたい。

 女性からのラブレターのみならず、送り主が男性の贈り物も多い。何でもできて面倒見のいい源のことだから、行く先々で人助けをしていたのかもしれない。

 ――僕のことも、何かと気にかけてくれるぐらいだもんなぁ。

 お昼のニュースを見ながら、さやかは源が『朝食用に』作ってくれた鶏そぼろご飯と豚汁をもぐもぐ食べた。

 退屈なテレビからふと視線を逸らすと、食卓からすぐ見える位置に、写真立てが飾ってあった。

 ――古そうな写真だな。

 人間離れした戦闘力と美貌のせいで忘れそうになるが、源は51歳と聞いている。白黒のポートレートは、源が生まれた時代の遠さをさやかに教えた。

 ――この人たち、源さんのご両親かな。

 眼差しに力のある精悍な男性と、源によく似た和服姿の美しい女性。そして、少年時代の源と思しき、怜悧な顔立ちの少年が、並んで一枚の写真に収まっていた。

 写真には、下に名前が添え書きされていた。

『源勝 清子 清司』

 清子――『サヤコ』だ。さやかは、出会った時に源が『さやかは母に似ている』と言っていたのを思い出した。

 ――やっぱり、あれってお世辞だよね。

 名前はともかく、源の母と見た目が似ているなんて思えるほど、さやかは図々しくない。平安美人と評されるさやかと違って、源の母は現代でもすれ違った10人が10人振り返るほどの美女だ。

 源の父は、確か東京で施設に入っていると聞いた。『サヤコ』――源の母は、亡くなったと聞いていたが…。

 そう思ったところで、玄関の扉が開く音がした。

「さやか。起きてたか」

「源さん!お疲れ様です」

 源はちらりと食卓を見て「昼飯…は、まだいらないみたいだな」と言って笑った。

 ――源さんには、僕が遅起きなのもバレバレか。

 さやかは照れ隠しに「あの、お手紙が届いていましたよ」と言って、卓上から手紙の山を手渡した。

「ああ。ありがとう」

 源は傍らの机に着くと、早速、手紙を開き始めた。手早く、だが真剣に、一通一通に目を通している。

 さやかが洗い物をしている間に、源は筆を取って、それぞれの手紙への返事を書いていた。

「源さんって、筆まめなんですね」

 返事の早さもさることながら、源はどこの書道教室に行っても恥ずかしくないぐらい、姿勢も筆の持ち方も真っ直ぐだ。クールに見えるが、根っから人付き合いが好きなのかもしれない。

 源は「俺はモテるからな」と真顔で胸を張った。

「世界中の女と愛し合うには、人生はあまりにも短い。限られた時間の中で、目の前の女と、いかに悔いのないように付き合えるかが重要なんだ」

 つまり、返事が早くて丁寧なのは、そういう理由らしい。動機は不純だが、源は真面目なんだな、とさやかは感心した。

 結構な量の手紙だったが、源は20分ほどで返事を書き終えた。封書のものもあるが、ほとんどはハガキで返事を出しているようだ。

「想いを全て手紙にしようと思っても、とてもじゃないが書き切れねえ。それに、手紙で全部言っちまったら、会う理由がなくなるからな」

「…なるほど」

「勿論、相手の想いの強さに応じて、俺も同じぐらいの強さで答えるさ。例えば、気の利いた贈り物をくれた場合」

 宅配便で届いた果物や海の幸のことかと思ったら、源が封筒から取り出したのは、紫色のレースのパンティーだった。さやかはのけぞった。

「そっ…、それ、相手の方が送って来たんですか」

「ああ。健気なもんだろ?」

 源も自分のパンツを送ってあげるのだろうか、とさやかは驚愕の思いで見ていたが、源はそこまでは明かさなかった。

「そうだ、源さん。そこに飾られてる写真なんですけど…」

 さやかが家族写真を指さすと、源が「ああ」と頷いた。

「親父と母さんと俺だ。確か、俺が中学に入った時の写真だったかな」

 この写真を撮ってから2年後に母が亡くなったのだと、源は教えてくれた。

「戦争で親父がいない間、疎開先で母さんがずっと俺を守ってくれた。だから、大人になったら親孝行してやりたかったんだがな」

「源さんは、今でもお母さんのことが大好きなんですね」

 源はにっこり笑って「ああ」と言った。

「母親好きの男は、今の女に嫌われるか?」

「そんなことないです。源さんを見てれば、お母さまがどれほど素敵な人だったか、僕にもわかる気がします」

 さやかがそう言うと、源は眩しそうに目を細めた。

「それに、僕も母さんっ子ですから、気持ちはよく分かりますよ」

 さやかは、東京にいる母に想いを馳せた。

「僕の母さんは心配性で、気弱で、どちらかというと頼りないタイプです。時々、見ていてイライラするぐらい」

 だが、母はいつでもさやかの味方でいてくれた。母が寄り添ってくれたから、勉強も麻雀も頑張れたのだと、離れた今なら分かる。

「正直、こっちに来たばかりの頃は、ちょっとホームシックになったりもしました。冬枝さんには内緒ですけどね」

「言えばいい。さやかに甘えてもらえたら、冬枝だって喜ぶぞ」

「ダメですよ。僕は冬枝さんの代打ちです。母さん恋しさに泣いてる代打ちなんて、頼りないじゃないですか」

「泣いたのか」

 からかうような源の問いに、さやかは「ちょっとだけ」と正直に答えた。

「でも、もう大丈夫です。母さんが恋しくなったら、鈴子さんに甘えることにしましたから」

「それは妙案だ」

 鈴子のほうも妹である鳴子がいなくて寂しいのか、さやかが甘えれば存分に可愛がってくれる。春野家を訪れる度に、さやかは鈴子とじゃれ合っていた。

「…だけど、それも今の状態だと難しいですね」

 一晩経っても、さやかと源は身体と心が入れ替わったまま、元に戻らなかった。源の身体に慣れ始める一方、さやかは焦りを感じていた。

「もし、ずっとこのままだったら…」

「さやか」

 さやかが弱気になったところで、源がさやかの手に手を重ねた。

 こうして触れ合っていると、今感じているのが源の手なのか、さやかの手なのか分からなくなる。さやかはハッとした。

 源は言った。

「改めて、さやかの眼で冬枝を見たら、びっくりするほど老けてたんだが」

「…はあ」

「老けた分だけ、あいつはいい面構えになった。きっと、さやかや弟分たちの面倒を見ているお陰だ」

 女に甘え、漂うように生きていた昔の冬枝とは違う、と源は言った。

「誰かに世話されるより、誰かの世話をするほうが、あいつの性に合ってるんだ。俺じゃ、飯は人の分まで作っちまうし、家のことも全部やっちまう。そうやって甘やかすと、あいつは頭も心も止まっちまうだろう」

 昨日、雨の中でさやかが「源はライバル」と言ったことへの答えなのだと、さやかはようやく気が付いた。

「…冬枝には、さやかが必要だ。さやかも、冬枝の代打ちでいたいなら、絶対元に戻るんだ。いいな」

 そう言うと、源は口紅をさやかに手渡した。日中、マキと一緒に買ったものだという。

「これを塗って、綺麗な姿でまた冬枝に会おう」

「…はい!」

 ――そうだ。僕はまた、冬枝さんの下で麻雀が打ちたい!

 せっかく、竿燈の夜に最高の思い出を作ったばかりなのだ。超常現象などに負けてはいられない、とさやかは気合を入れた。

 源は、さやかの頭をよしよしと撫でた。

「晩飯、作っていく。何がいい?」

「そうだなぁ、僕は…」

 ポークケチャップかな、それともカレーライスとか――と考えたさやかは、そこで重大な事実に気が付いた。

「あーっ!しまった!」

「どうした」

「今夜は、賭場があるんです!」

 竿燈も終わったため、白虎組の賭場が再開されることになった。地元の資産家や帰省した事業家などを相手に、白虎組は接待や賭博で稼ぐ意向だ。

 さやかとしても、久しぶりの勝負に腕が鳴る思いだったが――この状態では、勝負に出られない。

 すると、間髪入れずに源が「任せろ」と胸を叩いた。



 今夜の賭場は、夏季休暇期間中ということもあって、真剣勝負というよりも遊びの賭け麻雀といった趣が濃い。言ってしまえば、秘密のパチンコ感覚だ。

 とはいえ、東京から来た企業の重役は、田舎の代打ちとの意外な白熱した勝負にいたく感動したようだった。目を輝かせてまくしたてた。

「凄いなあ、白虎組の代打ちは。こっちの麻雀といえば、東京より10年も20年も遅れてるのが相場なのに、この娘なんてプロ並みの腕前じゃないか。一体、どうやってこんな金の卵をスカウトしたんだい?」

「ははは。お褒めにあずかり光栄です。実を言うと、この娘も東京から来たんですよ」

 と答えたのは、白虎組若頭・榊原だ。実のところ、今夜の相手は榊原の義父・灘議員の人脈だった。

 ――まさか、さやかの身体でこいつに会うことになるなんてな。

 さやかの振りをして愛想笑いを浮かべながら、源は横目で榊原を観察した。

 榊原は源の1つ下だから、今年で50歳だ。年相応に老けはしたが、引き締まった身体つきといい、男らしい面差しといい、淑恵をさらったあの頃とほとんど変わらない。

 榊原の出世ぶりは、引退した源の耳にも届いている。元々人を束ねるのが得意な男だったが、そこに灘議員の後ろ盾も加わって、今では地元のほとんどの企業に顔が利くようになった。

 お手本通り、順風満帆な人生だ。源としては面白くもない話だが、それで淑恵が不自由なく暮らせているのなら、文句を言う理由はない。

 ――昨日は、少し元気がないように見えたが。

 料理教室で会った淑恵は、18年ぶりとは思えないぐらい美しく、可憐だった。天使だった少女時代から、若頭の妻という威厳が加わって、女神へと進化を遂げたかのようだ。

 だが、その女神の微笑みにどこか翳りが見えたのは、源の横恋慕による色眼鏡だろうか。

 企業の重役は麻雀談議でひとしきり盛り上がると、ご満悦で車に乗り込んでいった。

 見送りを終えたところで、榊原に声をかけられた。

「嬢ちゃん。ちょっといいか」

「…はい」

 ちらりと冬枝に視線をやると、行って来いというふうに顎をしゃくられた。

『こまち』の喫茶スペースの隅で、源と榊原は冷たいコーヒーを口にした。

「今夜は、よく打ってくれた。向こうも満足したみたいだし、上々だろう」

「恐れ入ります」

「実はな、嬢ちゃんと打ちたいってお偉いさんがまだ大勢いるんだ。模試もあるってのに悪いが、今月は頑張って欲しい」

 そういえば、さやかは浪人生だった。さやかが普段、麻雀と冬枝のことしか口にしないため、源ですらさやかが受験勉強中の身であることを忘れていた。

 ――こういう目配りができるところは、伊達じゃねえな。

 代打ちの身の上を案じる極道など、普通はいない。榊原の娘がさやかと同世代というのもあるだろうが、細かいところにまで思いが及ぶのが、榊原の出世の一因だろう。

 ――瑞恵と奈々恵も、すっかり大きくなっただろうな。

 源が最後に会った時、瑞恵は4歳、奈々恵は2歳だった。淑恵によく似て清楚な瑞恵も、榊原に似て活発だった奈々恵も、源は自分の娘のように可愛く思っていた。

 淑恵、そして成長した美しい娘2人に囲まれて暮らす榊原が、改めて憎らしくなってきた。何故か、天はこの男ばかりを贔屓しているらしい。

 源が榊原一家に想いを馳せたところで、榊原が声をひそめた。

「忙しいところに重なっちまって済まないんだが、また響子とも打ってやってくれねえか」

「……はあ」

「俺も今は灘さんがいるし、瑞恵と奈々恵も帰って来てるから、そうそう会ってやれねえんだ。そのせいか、響子からはしょっちゅう会いたいってごねられるんだが、こればっかりは」

 源の全身に、ざわざわと冷たいものが広がっていった。

 ――こいつ、何の話をしているんだ。

 きっと二度と巡り会えない、最高の女。血を吐く想いで諦めたのは、淑恵を幸せにしてやれるのが自分ではなく、この男だと認めたからだった。

 それが今、重大な裏切りを犯している。源に対しても、淑恵に対しても。

「盆が終わったら、もっと響子と一緒にいられる時間を増やす。嬢ちゃんからも、そう伝えておいてくれないか」

「………」

 肉体が砕けて吹き飛びそうなほどの衝動を抱えながら、源は「…はい」と返事をした。

 ――さやかの手で、こいつを殴るわけにはいかねえ。

 ただ、源は「榊原さん」と最後に呼び止めた。

「僕からも、伝言があります」

「ん?何だ」

「源清司とした約束、覚えてますか」

 源の名前を口にされ、榊原が目を見開いた。

「…どうして、それを」

「答えてください」

 源の――『さやか』の眼差しの強さに、榊原はたじろいだ。

 榊原には、目の前にいるのがさやかではなく、まさにその男――源清司に見えてならなかった。

「…ああ。忘れてなんかいねえさ。そう、伝えておいてくれ」

 ――嘘つきめ。

 内心ではそう吐き捨てつつ、源は「はい」とさやかの顔で頷いた。

「さやか。お前、顔真っ青だぞ」

 榊原が帰ると、冬枝が心配そうに声をかけてきた。

 ビッグバンにも匹敵するこの怒りは、さやかの身体に抱えさせるには大きすぎるのだろう。くらくらする頭を鎮めるのに、目の前にちょうどいいサンドバッグがいた。

「冬枝さん。さっきの勝負中、気が抜けている時がありましたよ」

「えっ。な、何だよ、藪から棒に」

「いくらお偉方のご機嫌取りの麻雀だからって、あからさまに遠い目をしないでください。確実にオトせると分かった女相手でも、最後まで油断するなと言った…言われたでしょう」

「お前、なんでそれ知ってんだよ!」

 と言ってから、しまったとばかりに冬枝は自分の口を叩いた。

 そこに、入口の扉をバンと開いてピンク色のものが飛び込んできた。

「グッイブニーン!ダンディ冬枝、やってるー?」

「嵐!てめえ、今夜は貸し切りだって札出てるだろうが」

 冬枝が叱ったが、嵐は「不倫若頭が帰るまで、待っててやったじゃーん」と悪びれもしない。

「………」

 このヒゲ面の坊主にまで知られているようでは、淑恵にバレていないはずがない。淑恵の心痛を思うと、源は胸が張り裂けそうだった。

「なぁなぁさやか、これから家来ねえか」

「おい、もう深夜だぞ。こんな時間に行くわけねえだろ」

「夏休みだから特別に、ダンディ冬枝も来ていいっスよ。今夜も勝ったみたいだし、うちでパーッと飲みましょうや」

 嵐から「鈴子がしったげお前に会いたがってるぞ」と耳打ちされ、源は前向きになった。

「行きましょう。冬枝さん」

「えーっ…。面倒臭えなあ…」

「いっスよ、来ないなら来ないで。俺と鈴子でさやかをムフフフン!しちゃいますから」

 鈴子はともかくてめえはいらねえ、と源は内心で思った。

 結局、冬枝の車で嵐の家に向かうことになった。冬枝の弟分、高根と土井のおまけつき。

「さやちゃ~~~ん!こんな時間に会えるなんて、珍しいわねっ」

 玄関に上がって早々、鈴子に抱き締められた。窒息しそうなほどの胸の膨らみは、源をこれ以上なく幸福にさせた。

 ――桃源郷ってのは、ここにあったんだな。

 鈴子の薄着は、素肌の弾力を色濃く伝えてくれる。夏に感謝、さやかに感謝、そして鈴子に感謝だった。

「嵐の旦那の家、ボロいっスねー…」

「バカ土井、雀ゴロやってる嵐さんがまともな暮らししてるわけないだろ」

「高根っちも土井ちゃんもお口慎んでッ!ビールあげねえぞ!」

 嵐がビール瓶とグラスを両手に掲げると、弟分2人は素直に「すみません、嵐さん」と相好を崩した。

 ――なるほど、鈴子が旦那にしてるわけだ。

 さやかを呪ったと聞いた時にはとんだ唐変木だと思ったが、春野嵐には天性の明るさがある。人たらしに長けたタイプだ、と源は内心で舌を巻いた。

「ダンディ冬枝、がっこ食います?飯もありますよ」

「お前んち、なんでこんなに冷蔵庫がパンパンなんだよ」

「イヤーッ、俺の冷やしてるパンツ見ないで」

「げっ、本当にパンツ冷やしてやがる…きったねえな!」

 冬枝ですら、嵐相手に無邪気にじゃれ合っている。これはこれで悪くない関係だろう。

 テレビをつけて酒盛りを始めた男どもを見ていると、源もちょっとうずうずしてきた。

 ――酒、飲みてえな…。

 さやかの身体になってから、タバコも酒もやっていない。さやかはどちらもやらないからだ。

 さやかのためならいくらでも我慢できるが、目の前でシュワシュワと冷たいビールを注がれ、タバコの煙が充満しだすと、誘惑に負けそうになる。

 ――さやかが突然、タバコと酒を嗜みたくなったって設定で押し切れねえか。

 血迷いそうになった源の背に、鈴子の柔らかな胸が当たった。

「ね、さやちゃん。男たちは騒いでるし、私たちもあっちで飲みましょ」

 鈴子に手を引かれて、源は春野家の縁側にやって来た。

 冷たい夜風に、虫の声が耳に心地よい。しかも隣にいるのが鈴子とあっては、タバコだの酒だのの誘惑も霞と消えてしまう。

「さやちゃんはお酒飲まないから、りんごジュースね。もう飽きちゃったかしら」

「いえ。いただきます」

 源と鈴子はコップを合わせて「乾杯」と言った。

「そうだ、さやちゃん、こないだ言った通販のカタログ、届いたから見てみて」

 鈴子は身をよじって、部屋の隅から分厚いカタログを引っ張り出した。

 ページを開くと、見渡す限り女のイラストと写真が広がっている。それも、大半が素肌とレースの共演だ。

 大きく『ランジェリー特集』と見出しされたページで、鈴子が身を乗り出した。

「あっ!これ、さやちゃんに似合いそうじゃない?」

「いいですね。僕もそう思います」

 スリムなシルエットながら、ふんだんにあしらわれた小花模様が品の良いブラジャーだ。シンプルなものを好むさやかにも、こういう一張羅的な下着があってもいいだろう。

 ――まあ、『勝負下着』は既に持ってるようだったが。

 源が着替えのためにさやかのクローゼットを物色した際、明らかに他の下着とはレベルが違う、白のレース模様のついたブラジャーとショーツを発掘した。

 実際に試着したところ、レースからもれなく素肌が透けた。つまり、男に見せる用の下着にほかならない。

 ――榊原だけじゃなく、冬枝まで神様に愛されてるみたいだな。

 あの真面目で麻雀一徹のさやかを、『その気』にさせたのだ。源が知る限り、冬枝の最大の偉業かもしれない。

 しかし、運なら源も負けてはいない。今日はマキと西武で買い物ができたうえに、こうして鈴子と下着選びまでできたのだ。

「鈴子さんにはこれと、これが似合うと思いますよ」

「やだ、さやちゃんったら大胆!さやちゃんが言うなら鈴子、買っちゃうわ❤」

 鈴子は「3万円以上頼むと送料無料になるから、一緒に買いましょうね」と言って、注文用紙にすらすらと商品番号を書き込んでいった。はしゃいでいる鈴子の隣にいると、源も唇が緩んだ。

 ――いいな、女友達ってのは。

 男どもとタバコをふかしているより、鈴子と一緒にいるほうが、よほど心が洗われる。

 とはいえ、本来はさやかが享受すべき時間なのだと思い出せば、流石にばつが悪くなった。

 ――そろそろ、本気で解決策を考えねえといけねえな。

 鈴子がカタログの最後の方のページをちらっと見せて「さやちゃんにはまだ早いかしら」とほくそ笑んだ。

 源は初めて見たが、男向けの雑誌にも似たようなページはある。要するに、夜に使う道具の通販だ。

「それもぜひ、買いましょう」

 鈴子と2人、眠くなるまで盛り上がったのは言うまでもない。



 翌朝。

 冬枝が目を覚ますと、台所で朝食の支度をしている音が聞こえた。

 枕元の時計は、午前6時を指している。昨夜は春野家で夜明け近くまで酒盛りをしていたため、『赤ちゃんさやか』が起きるような時間ではない。かといって台所番の高根が来る時間でもない。

 ――やっぱり、さやかの奴、なんか変だ。

 というか、ドア越しにも伝わるこの感覚。朝の空気にピアノ線を1本張ったかのような、透明な緊張感。これは、源の気配そのものだ。

 ――さやかに、源さんの生霊が取り憑いたってか。

 バカバカしいとは思うが、一笑に付せない自分がいる。それというのも、昨夜の酒盛りで、嵐も今のさやかに違和感を抱いていると聞いたからだ。

「ダンディ冬枝って、セクシー源とデキてるんスか?」

 テーブルが空いた皿で埋まり、弟分たちがすっかり酔い潰れた頃、嵐がいきなりそう切り出した。

 冬枝はぼりぼりときゅうりの漬物を噛み砕いた。

「お前、かみさんに布団敷いてもらったらどうだ。酔っ払って幻見えてるぞ」

「幻じゃなくて、現実の話っスよ。今日のさやか、なんかセクシー源みたいじゃないっスか?」

「…お前もそう思うか」

 実際、冬枝は『こまち』での対局中も、さやかが隣にいるというのに、何だか果てしなく遠いような気がしていた。そこにいるのが、どうしてもさやかとは思えないのだ。

 嵐も、さやかが源に見えるという。

「元刑事、ワイルド嵐の推理はこうです。ダンディ冬枝とセクシー源は、実は、おじさん同士、身も心も兄弟の契りを交わした、汗臭ぁい関係なんです。それに嫉妬したさやかが、『ガラスの仮面』ばりの演技力で、セクシー源の真似をしている、と」

「何が元刑事の推理だ!てめえ、二重にも三重にも失礼だぞ!」

 源とそんな関係になるぐらいなら、腹を掻っ捌いて自裁する。冬枝は、嵐の頭をベシッと叩いた。

「でなきゃ、セクシー源があの世から祟ってるとか」

「こん、ばかげ。源さんは生きてるっての」

 そういえば、源本人には会っていない。源に会えば、このおかしな現象も解明されるだろうか。

 嵐は、雑誌や新聞が雑然と積まれた山の中から、黒いマーカーペンを取り出した。

「だども、やっぱりわかんねっスよ。さやかの奴、竿燈でスケベ冬枝とスケベナイトを過ごしたばっかなんだから、もっとピンクのオーラがムンムンの筈でしょ?」

「てめえ、日本語喋れよ」

 冬枝のツッコミにも構わず、嵐はマーカーで高根と土井の顔に落書きを始めた。

「それがさあ、今のさやかはピンクどころか、なんていうの?ブラック?ブルー?シルバー?とにかくなんか、鋼鉄の鎧着てるみたいなんですよ。朝なんか、『こまち』から飛び降りたりするし」

「さやか、そんなことしてたのか」

 いくらさやかが雀キチでも、いきなりビルの2階から飛び降りるほど破天荒ではない。早朝ジョギングといい、さやかがやらないことばかりだ。

 嵐は「よし、できたべ」と言って、寝ている高根と土井の顔面を冬枝に見せた。それぞれ、『祝!甲子園勝利!』『目指せ優勝!』などと書いてある。

「俺が虫封じした時みたいに、今回も、ダンディ冬枝がさやかにチューすりゃ元に戻ったりして」

「さあな」

 耳をすませば、縁側のほうから鈴子たちの笑い声が聞こえた。何故か、冬枝にはやはり、さやかが途方もなく遠くにいるように思えてならなかった。

 昨夜の会話を思い返し、冬枝は目を開いた。

 ――嵐のくだらねえ仮説に、いっちょ賭けてみるか。

 冬枝はベッドから起き上がると、台所へと向かった。

「冬枝さん。おはようございます」

 足音を聞きつけたのか、冬枝より先にさやかが振り返った。まな板の上には、綺麗に切られたじゃがいもが並んでいる。

 冬枝は、おもむろにさやかの肩に手をかけた。

「冬枝さん?」

「さやか…」

 渾身の色気を込めて、さやかを見つめる。こちらを見上げるさやかの瞳はガラス玉みたいだったが、冬枝はめげずに顔を近づけた。

 あのロマンチックな竿燈の夜ならば、そのまま柔らかい唇に迎えられたはずだった。

 だが、次の瞬間、さやかの腕が冬枝の頸動脈を締め上げていた。

「いでっ!いでででっ!」

 それは綺麗なスリーパー・ホールドが、見事に決まった。さやかの細腕に締められているだけだというのに、冬枝は一瞬で意識が飛びそうになった。

 冬枝が迫ってもポーっとせず、この露骨過ぎる拒絶反応。冬枝は、ようやく確信した。

「あんた、さやかじゃなくて源さんでしょう!」

「ほう。やっと気付いたか」

 さやか――源はふっと一息吐くと、冬枝を解放した。

「ぜえ、はあ、ぜえ、はあ…」

 少しの間、締め上げられていただけだというのに、すっかり息が上がっている。さやかの身体だというのに、源の体術は万力のようだ。

「朝っぱらから気色の悪いもん見せられて、つい手が出ちまった。俺としたことが」

「悪かったですね、俺だって好きこのんであんたに迫ったりしませんよ」

 源相手に『チュー』するところだったのかと思うと、ぞっとする。冬枝は一刻も早く、さやかに会いたかった。

「源さん。本物のさやかはどこにいるんですか」

「見てわからねえか。俺がさやかなんだから、さやかは俺だ」

「げっ……」

 見た目が源で、中身がさやか――。

 51歳のオッサンの身体に入れ替わってしまったさやかを思うと、冬枝は泣きそうになった。

「さやかが可哀想じゃないですか。何とかならないんですか」

「何とかするしかねえだろ。とりあえず、飯食ったらさやかの所に行くぞ」

 源が作った朝食を食べながら、冬枝は、さやかと源が入れ替わった経緯をかいつまんで聞いた。

「何か、にわかにゃ信じられない話ですね」

「信じられねえのは、榊原のほうだ。てめえ、俺に黙ってたな」

 正体が源だと分かった途端、可愛いさやかの面相が般若に見える。冬枝は内心、汗だくになりながらも、どうにかしらばっくれた。

「さあ~?何のことだか」

「とぼけるんじゃねえ。淑恵を悲しませるようなことに、さやかまで巻き込みやがって」

 源に鋭く迫られ、冬枝は口をつぐむしかなかった。

 昨夜、『さやか』は榊原と何やら話していた。榊原は、相手が源だとは知らずに、響子のことを喋ってしまったのだろう。

「しょうがないでしょう。榊原さんには世話になってるし、断れないですよ」

「…だろうな。悪いのは榊原だ」

 語調は静かだが、源からは確かな怒りを感じる。冬枝は焦った。

「源さん。もう隠居した身なんですから、あんま出しゃばらないでくださいよ。それでなくても今、うちは色々とややこしいことになってるんですから」

「分かってる。だが、これで希望が出来た」

「希望?」

 源は、曇りのない瞳で言った。

「ある夜、淑恵が『滅茶苦茶に抱いて』と言って、俺の元を訪ねてくる希望」

「……懲りないですね、あんたも」

 さやかの身体で、あまりよこしまなことを企まないでほしい。と考えた冬枝は、ハッとあることに気付いた。

「あんた、まさか見たんじゃないでしょうね」

「見たって、何を」

「さやかの身体になったんだから、その……あっちとかこっちとかですよ!」

 すると、源は意味ありげに笑った。

「なんだ。先を越されたって思ってるのか?」

「あーっ、嫌だ、これだからあんたのこと嫌いなんですよ!さやかはまだ嫁入り前だってのに…!」

 兄貴分を殺したい衝動に駆られる冬枝に、源は淡々と言った。

「冬枝。俺に限らず、さやかを狙う奴はたくさんいるぞ」

「はあ?」

「マキはさやかに懐いてるし、鈴子もさやかを愛してる。街を歩きゃナンパもされた。てめえみてえな親父が、いつまでもさやかを独り占めできると思うなよ」

 つまり、とっとと手を出しちまえ、既成事実を作っちまえと、この最低な兄貴分はけしかけている。冬枝は、怒りを通り越してほとほと呆れた。

 ――源さんが優しいのは上っ面だけだぞ、さやか。

 その源と共に、冬枝はさやかが待っている源の自宅へと車で向かった。



「ふにゃー…ふにゃー…」

 なるほど、確かにさやかと源の入れ替わりは事実らしい。

 源にあるまじき寝息と寝汚さを見て、冬枝は改めて納得した。

「ちょっと来るのが早かったな」

 さやかを甘やかす気満々の源は無視して、冬枝は寝ている源――もとい、さやかの耳元に顔を近づけた。

「起きろ、さやかーっ!」

「にゃおん!」

 びくっと全身を跳ねさせると、さやかはもぞもぞとシーツに潜り込んだ。

「いやにゃー……まだ寝てるにゃー…」

「源さんの声でにゃーにゃー言うんじゃねえ!背筋がゾワゾワする!」

「むう……」

 さやかはしばらくのたうち回り、寝返りを繰り返していたが、やがてガバッと起き上がった。

「冬枝さん!?」

「おはよう」

 源の顔で「冬枝さん」などと呼ばれて悪寒が走るのと同時に、ようやく本物のさやかに会えた、という実感が冬枝の胸に満ちた。

 冬枝はすぐにでもさやかを元に戻すための儀式をあれこれ試みるつもりだったが、源の意志により、さやかの朝食が優先された。

「いただきます、源さん」

「ああ。おかわりあるからな」

「………」

 姿だけ見ていると、さやかが甲斐甲斐しく作った朝食を、源が旦那面して食べているようだ。冬枝は内心複雑な気分になったが、無邪気に卵焼きを頬張るさやかを見ているうちに、気にならなくなった。

「そうですか、ゆうべは勝ったんですね。源さん、流石です」

「さやかが出るまでもない相手だったさ。だろ?冬枝」

「まあ、そうですね。しばらくは接待麻雀だ、さやか」

「構いませんよ。普通の雀荘じゃ打てないような方の相手ができるだけで、光栄です」

 違和感はあるものの、さやかも源も落ち着き払っているせいで、冬枝もこの異常な状況に慣れてしまいそうになる。

 ――こいつら、昨日はグルになって俺を騙してたんだな。

 無用な混乱を避けるために黙っていた、と源は説明したが、この兄貴分がそんな殊勝な気遣いをするものか。最低でも24時間は、さやかの身体を堪能したかったに違いない。

 ――ゲスめ。ゲスオールバックめ。ハゲちまえ。

 冬枝の呪詛が伝わったのか、さやか――ではなく源が、バチンと冬枝の額を指で弾いた。

「いってえ!」

「大丈夫ですか、冬枝さん」

 しかも、源の顔と声をしたさやかから心配された。冬枝は、気が狂いそうになった。

「源さん。さやかも飯食い終わったし、とっとと何かやりましょう!」

「冬枝、俺はこっちだ」

「あ、そうだった。ああもう、ややこしい!」

 冬枝は嵐の提案した「冬枝とチューすれば戻る説」を一応唱えてみたものの、これは冬枝自身も源も、もうやる気がなかった。

「今の状態じゃ、どっちにするにしても源さんにチューすることに変わりねえ。地獄だ」

「それはこっちの台詞だ」

 さやかが「はい」と手を上げた。

「ゆうべ、一晩考えてみたんですが…僕と源さんが入れ替わった時の状況を、再現してみるのはどうでしょう」

 つまり、さやかと源が、もう一度頭をぶつけてみればいいのではないか。

 源は「なるほど」と頷いたが、冬枝はちょっと心配だった。

「源さんの石頭に頭突きされたら、さやかの額が割れちまうんじゃねえか…?」

「力加減ぐらいする」

「信用できませんよ!俺が昔、あんたに頭突きされて、何回血噴いて引っ繰り返ったと思ってるんですか」

 さやかは冬枝と源の間に割って入ると、「とにかく、やってみましょう」と強く言った。

 さやかと源が、冬枝の前で向かい合う。

「み、源さんからどうぞ。今の僕の背丈だと、本当に怪我をさせてしまうかもしれないので」

「ああ。分かった」

 緊張して瞼をぎゅっと閉じているさやかを見ていると、冬枝は妙な気分になった。

 ――まるで、これからキスシーンが始まるみたいだな。

 いや、あの最低な兄貴分なら、本当にやりかねない――と冬枝が気付いたところで、さやか(源)が、背伸びしてさやかにキスをした。

「あーっ!ちょっと…」

 その瞬間、風が吹いて、カーテンがふわりとめくれ上がった。

 窓から差す真っ白な光が、部屋中にあふれ出した。

「………」

「………」

 カーテンがそよそよとなびき始めたのと同時に、さやかと源がしげしげと見つめ合った。

「源さん…?」

「ああ。元に戻ったな、さやか」

「やったー!!」

 両手を上げて飛び上がろうとしたさやかが、「ぐっ!」と呻いてその場にうずくまった。

「どうした、さやか」

「か、身体が…。全身痛くて、動けません…」

 源が「悪い」と言って、さやかの元にしゃがみ込んだ。

「昨日と今朝、5キロ走ったんだ。さやかは、筋肉痛がすぐ来るんだな。羨ましい」

「ご、ごきろも…」

 日頃、雀卓にへばりついているさやかの身体では、源の運動量についていけるはずがない。さやかは、「ふにゃぁ」と鳴いて冬枝にもたれかかった。

「とにかく、元に戻って良かったぜ。あー、めんけ!」

 冬枝は、うりうりとさやかに頬擦りをした。むにむにとした柔らかい頬の感触も、「やめてくだしゃい」と照れて目を細めるリアクションも、正真正銘、冬枝のさやかだ。

 ――やっぱり、本物が一番だ。

 さやかにべたつく冬枝に対抗意識を刺激されたのか、源もさやかに顔を近づけた。

「さやか。これで俺たちは、何も隠し事のない仲になったな」

「え…」

「互いの身体の外から中まで、全て知り尽くしたんだ。こんな経験、どこの恋人同士だってしたことがないだろ?」

 さやかが、赤面して俯く。冬枝は、源から隠すようにさやかを抱え込んだ。

「やめてくださいよ、源さん!オッサンに気持ち悪いこと言われて、さやかが困ってるじゃないですか!」

「うるせえ。てめえこそ、俺が作った飯の味なんかいつまでも覚えてるんじゃねえ。俺はてめえのお袋じゃねえんだぞ」

「なんで、今その話になるんですか!?」

 源は、冬枝の腕からちらっと顔を出したさやかを見つめた。

 ――やっぱり、俺とさやかは運命だな。

 母や淑恵と同様に、さやかとも、男と女としては結ばれないのかもしれない。若い頃は、自分は理想が高すぎるのかとか、好きな女が多すぎるのかとか、源も人知れず悩んだものだった。

 だが、さやかと入れ替わり、一日を過ごしたことで、源は何となく答えが見えた気がした。

 ――きっとこれが、俺の愛し方なんだろう。

 愛する女が幸せなら、それが自分の腕の中でなくとも、源は心から祝福できる。親子ほどに年の離れたさやかに惹かれるうちに、素直にそう認められるようになった。

 ――まあ、隙あらば狙うがな。

 己を理解したところで、源は男として死んだわけではない。父性愛では満足できない部分も、まだまだある。

 源の想いを知ってか知らずか、さやかは微かに笑っているように見えた。

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