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30話 あなたの灯になりたい

第30話 あなたの灯になりたい


 早朝。

 湿り気を帯びた朝もやの中を、さやかはジャージ姿でひた走っていた。

 ――動いていないと、頭がどうにかなっちゃいそう。

 普段、こんな時間に起きることは滅多にない。さやかの実家がある東京と違って、この彩北市は夜明けが遅く、しかも朝が寒い。

 昨夜は、ほとんど眠れなかった。冬枝のこと、エミコのこと、笑太郎のこと――それらが、組長に首を絞められたことによって、より重大な事実としてさやかに圧し掛かっていた。

 ――何十年も昔のことが、今も冬枝さんたちを苦しめてる。

 エミコのことを金目当てではないか、と言ったさやかを叩いたのは、エミコへの愛情だけではあるまい。エミコの父である笑太郎を斬ったという負い目が、冬枝にはあるのだ。

 エミコが久しぶりに冬枝の前に現れたのも、恐らく、過去の事件が関係しているはずだ。

 さやかは知りたい。冬枝の代打ちとして、冬枝の傍にいる人間として、過去に何があったのかを全て知らなければならない。

 ――きっと、あの人なら教えてくれる。

 公園のベンチで一息つきながら、さやかはあの人の元へと向かう道筋を思い浮かべた。こんな朝早くから、ジャージ姿で訪問しては、さすがに失礼かな、とさやかが思った時だった。

「おはよう」

「……源さん!」

 さやかの思考を読んだかのように、そこに『あの人』――源清司が立っていた。

 ジャージ姿の源は、さやかに缶ジュースを差し出した。

「ありがとうございます」

「おう。真夏だからな、水はしっかり飲んでおけよ」

 源はさやか同様、ジョギングをしていたようだが、汗一つかいていない。

「源さんは、いつもこの時間に走ってるんですか?」

「ああ。朝と晩、散歩程度に20キロ走ってる」

「…ずいぶん長いお散歩ですね」

 白虎組先代組長の親衛隊長をしていた源は、今でも鬼神のような強さを誇る。51歳には見えないわけだ、とさやかは納得した。

「早起きは三文の徳、ってのは本当だな。こんな時間に、さやかに会えた」

 源に微笑みかけられて、さやかは何故か泣きそうになった。

「……僕も、源さんにお会いしたいと思っていたんです」

「そうか。だったら俺たち、両想いだな」

 いつの間にか隣に腰かけ、さりげなく肩を抱いてきた源に、さやかは真剣な目付きで言った。

「源さん。冬枝さんとエミコさんの間に何があったのか、教えてもらえませんか」

「………」

 源はじっとさやかの目を見つめ「分かった」と頷いた。

「ただし、その前に聞きたいことがある」

「なんでしょうか」

「その首、誰にやられたんだ」

 さやかは、思わずサッと首元に手をやった。

 組長に絞められた首は、赤黒い痕が残っていた。職質されては敵わないので、首にタオルを巻いて隠していたのだが、源にはお見通しらしい。

 さやかが答えあぐねていると、源に顎を掴まれた。

「言いたくないなら構わない。その口、俺が塞いでやる」

「みっ、み、源さん!?」

 言うや否や、源の顔がどんどん迫ってくる。青みを帯びた切れ長の瞳を見つめていると、吸い込まれてしまいそうだ。

 唇と唇が触れ合う寸前で、さやかは慌てて白状した。

「くっ、組長に、絞められました」

 すると、源の形のいい眉が歪んだ。

「ああ?組長って、熊谷か」

「は、はい…」

 源は「ちっ」と舌打ちを一つした。

「あのタヌキ親父、本当にろくなことしねえな」

「でも、大丈夫ですよ。冬枝さんが助けてくれましたから…」

 さやかは、血だらけになった冬枝の手を思い出した。冬枝は素手で車のガラスを叩き割り、さやかを助けてくれた。

 ――僕はいつも、冬枝さんに守られてる。

 さやかが少しほっこりとした気持ちになったところで、いきなり源から首筋にキスされた。

「ひゃっ!?」

「さやか。俺の店に来ないか。ちょっと、話が長くなりそうなんでな」

「は、はい…」

 さやかは胸がドキドキして、すっかり夢見心地だった。

 源に連れられるがまま、さやかはタクシーに乗って『せせらぎ』へと向かった。



 嘉納笑太郎は、白虎組先代組長・石動志道の右腕だった。

 というより、腐れ縁といったほうがお似合いかもしれない。朝まで女と遊び回り、金に困れば眉を八の字に下げて泣き付くような笑太郎は、およそ極道らしからぬ男だった。

 女と酒とギャンブルが好きな遊び人で、この世界に足を踏み入れたのも、単純に金目当てだったらしい。いつも冗談ばかり言って笑っていて、本名の『正太郎』に、自分で「笑」という字をつけたほどだ。

 遊び人だけにトラブルも絶えなかったが、天真爛漫で人懐っこい笑太郎のことが嫌いな人間はいなかった。当時、日本は戦後の荒廃から抜け出し、石動率いる白虎組もめきめきと勢力を拡大していた。この成長の時代を、笑太郎は全身で謳歌していた。

 その笑太郎の一人娘が、嘉納笑美子――エミコだった。

 死んだ母親に似て美人で、父の明るさと笑顔を受け継いだ女だった。笑太郎はエミコを目に入れても痛くないほど可愛がり、女に学問はいらないと言われた時代に、エミコを大学にまで入れてやった。

 笑太郎から大切に育てられ、芯の強い気質だったエミコに、不良らしいところは微塵もなかった。それだけに、自分とは真逆の冬枝を放っておけなかったのかもしれない。

 冬枝は両親を早くに亡くし、義理の親の下で不遇の少年時代を過ごした。源の弟分になってからも自堕落で捨て鉢で、自分を好いてくれる女を何人悲しませようが平気でいる。源はこの頃、冬枝を何回殴ったか覚えていない。

 そんな冬枝を、エミコは根気強く支えた。冬枝のメインの女が自分ではない時でさえ、常と変わらぬ笑顔で冬枝に接した。

 自ら不安定を好んでいたかのようだった冬枝にとって、いつも変わらない居場所であり続けたエミコは、少しづつ特別な存在になっていった。

 エミコのほうが5歳下だったが、まるで母と息子のような関係だった。源に言わせれば、それだけ冬枝がガキだったのだが。

 笑太郎の盟友だった熊谷、そしてその弟分だった榊原にも、冬枝とエミコの仲は筒抜けだった。というより、笑太郎が誰にでも喋るから、組の関係者で2人の仲を知らぬ者はいなかった。

 だから断言できるが、冬枝とエミコは誰が見ても分かるほどの恋仲だった割に、深い仲にまではなっていなかった。

 狭いアパートで父と2人暮らし、しかも門限付きだったエミコを連れ込むのは、手の早い冬枝でも至難の業だったというのが一つ。また、エミコはいつもニコニコしていたが、大学で学びながら己の将来を真摯に見据えていた。恋に溺れて、簡単に身持ちを崩すような女ではなかったのだ。

 何より、そんなことになれば、あっという間に周囲に知れ渡ってしまう。冬枝もエミコも、それを嫌ったのだろう。

 それだけ、2人は互いを尊重していた。冬枝は冬枝なりに、年下ながら真面目に生きているエミコを尊敬していた。エミコもまた、孤独を好む冬枝の自由を侵そうとはしなかった。そうして、冬枝の歴史上では奇跡ともいえる、清らかな純愛が実現したのだった。

 もっとも、源はそこまではさやかに言わなかった。冬枝とエミコが清い関係だったと言っても信じてもらえるか、というのもあるが、清い関係だったとしても、さやかにとって愉快な話ではないことに変わりはないからだ。

 実際、抱けない女であるがゆえに、エミコは冬枝にとって特別な存在たりえた。釣った魚に餌はやらないタイプの冬枝は、一度抱いた女は途端に扱いが雑になる。源にしてみれば、女は抱いた後が肝心なのだが、自分さえ満足できればいい冬枝は理解しなかった。

 自分本位だった冬枝も、エミコといれば変わるのかもしれない。そんな予感を源に抱かせた2人の純愛も、しかし、18年前に終わりを告げた。

 笑太郎が麻薬の密売に手を出した。

 白虎組は県内最大勢力に成長し、今や街では怖いもの知らずとなった。若頭から組長代行へと昇格し、誰もがひれ伏す立場になった笑太郎は、完全に天狗になっていた。

 薬は、白虎組の御法度だった。笑太郎は幹部会議で糾弾され、石動から破門処分を言い渡された。

 笑太郎と親しかった熊谷ですら、笑太郎を庇えなかった。それだけ、笑太郎の増長は度を越していたのだ。

 笑太郎は、激しく抵抗した。自分は組の立役者だぞ、誰のおかげで石動はこんなに偉くなれたんだ、などと喚き散らし、それはもう見苦しいものだった。

 元々、良くも悪くも感情を我慢できないのが笑太郎という男だ。相棒である石動に、もはや自分を許す気はなく、親友の熊谷すら助けてくれない。絶望し、逆上した笑太郎は、懐から拳銃を抜いた。

 狭い料亭の一室に、銃声が響き渡った。

 源の仕事は、石動志道を守ること。笑太郎が放った4発の弾丸は、全て源が盾となった。

 そして、冬枝が刀を抜き、笑太郎を斬った。

「笑太郎!」

 熊谷が笑太郎を呼ぶ声が、遠のいていく源の耳に微かに聴こえた。



 源が病院のベッドで目を覚ました時、事件は既に片付いていた。

 冬枝はすぐに警察の手に捕まり、刑務所行きが決まった。

 冬枝に斬られた笑太郎は、辛うじて一命を取り留めた。その後、笑太郎もまた、薬の密売や源への発砲の罪で獄中へと送られた。

 これらの事態の責任を取って、石動志道は引退を表明した。代わりに、若頭だった熊谷が白虎組組長を襲名することに決定した。

 事件がある前から、熊谷と源は反りが合わなかった。案の定、熊谷は源が入院しているのをいいことに、勝手に源を組から除籍した。

 源は生死を彷徨う重傷だったため、もう現役には復帰できないだろう、というのが表向きの理由にされた。熊谷の専横は業腹だが、源が今度の事件で、極道に嫌気が差したのも事実だった。

 ――短い人生、野郎同士の命の取り合いで擦り減らすなんて勿体ねえ。

 気がかりなのは、冬枝とエミコのことだった。組から除籍され、なお怪我の治療が続く源には、獄中の冬枝にしてやれることがほとんどなかった。父と恋人を一度に失ったエミコに至っては、まだたったの20歳だった。

 冬枝が獄中送りになってまもなく、エミコは彩北を離れ、上京して堅気の男と一緒になった。悲劇から立ち直り、己の力で幸せを手にしたエミコを、源は立派だと思っている。

 刑期を終えた冬枝を迎えたのは、冬枝の境遇に同情した榊原だけだった。源はもう引退した身であり、冬枝のために何もしてやれなかったことを思えば、会わせる顔もなかった。

 源がしてやれたことと言えば、せいぜい住んでいたマンションと、シノギにしていた雀荘『こまち』を冬枝に譲ってやることぐらいだった。

 榊原に拾われた冬枝は、そのまま白虎組に出戻った。冬枝は親分に銃を向けた笑太郎を斬り、それゆえに刑務所に送られたのだから、手厚く迎えられるのが筋というものだが、勿論、熊谷はそんな筋は無視した。冬枝は未だに平の組員のまま、現在に至る。

「…話してくださって、ありがとうございました」

 さやかは、『せせらぎ』のカウンタースツールで頭を下げた。

 窓から差す澄明な光が、さやかの頬を蒼白く照らし出す。

「もう18年も前の話だ。冬枝もエミコも笑太郎も、今はそれぞれの人生を生きてる。俺も、この通りピンピンしてるしな」

 源は平然と言うが、18年前の事件で源は4発もの銃弾を受けたのだ。さやかは、少し心配になった。

「お怪我はもう、大丈夫なんですか…?」

「ああ。見るか?」

「えっ?」

 言うや否や、源は躊躇なくジャージを脱ぎ出した。さやかは、慌てて後ろを向いた。

「みっ、源さんっ」

「さやか。ここだ」

 源に肩を引かれ、さやかは仕方なく、両手で目を覆いながら、指越しに見た。

「肩に一発、腹に一発、脚に2発食らった。脚の銃弾は貫通して、後ろにも痕が残ってる」

「あ…確かに」

 18年前とはいえ、源の傷跡は生々しかった。こんな大怪我をして、よく生還できたな、とさやかは改めて源の超人っぷりを実感した。

「今も痛むんですか…?」

「幸い、骨には当たらなかったし、今はもう何ともねえ」

「そうですか…」

 この重傷が癒えるには、長い年月と忍耐が必要だったことだろう。さやかはつい、弾痕をしげしげと見つめてしまった。

 源が、ふと思いついたように言った。

「いや。やっぱり、今も時々、傷が痛むことはある」

「そうなんですか?」

「ああ。こんな風に朝、運動したりすると、シクシクと痛み出す…」

 源は物憂げに目を伏せると、そっとさやかの手を取った。

「さやかに撫でてもらえば、この痛みも和らぐかもしれない」

「はあ…。こうですか?」

「ああ」

 さやかは、言われるがままに源の傷跡を手で撫でた。触ってみるとより一層、傷の大きさ、深さがわかる。

 ――大切な人がこんな大怪我して、平気でいられるわけがない…。

 冬枝が笑太郎を斬ったのは、石動志道の親衛隊として、だけではなかっただろう。目の前で源が銃弾に倒れ、平静ではいられなかったのではないか。

 と、そこで、さやかは今更に、源がほぼ全裸状態であることに気が付いた。何なら、自分がかなり際どいところを触らされていたことに気付き、慌てて手を引っ込めた。

「みっ、みなっ、源さんっ!!!」

「ハハハ。さやかに撫でてもらえるなら、この傷も立派な勲章だな」

「ふっ、服を着てくださいっ!!」

 慌てるさやかをよそに、源はその格好のまま、さやかを抱き締めた。

「源さ…っ!?」

「さやか」

 源の声が、さやかの耳元に甘く響く。

「昔、何があったって、俺も冬枝も今、この場所で生きてる。今、目の前にいる女はお前だけだ」

「源…さん…」

「お前も、昔のことにとらわれるな。人生はあっという間だ。目の前の人間を真っ直ぐ見つめねえと、逃げられちまうぞ」

 源に髪を撫でられ、さやかは「…はい」と頷いた。

「今日は、竿燈だろ?見に行くのか」

「…はい。冬枝さんも誘ったんですけど、一緒に行ってくれるかな…」

 エミコのことがあった上、さやかが組長に首を絞められたことで、冬枝はかなりピリついている。もはや、竿燈デートなんてロマンティックな雰囲気ではない。

 源が微かに笑う気配がした。

「冬枝がダメなら、俺が一緒に行ってやる。あいつに断られたって、気にするな」

「…源さんがそう言ってくれると、何だか心強いです」

 源の気遣いはありがたいが、裸で密着されるのは恥ずかしくて仕方ない。さやかが源の腕の中から抜け出せたのは、それからたっぷり10分くらい後のことだった。



 さやかが帰宅すると、ダイニングで冬枝が朝食を摂っているところだった。

「おはようございます、冬枝さん」

「おはよう。お前、こんな朝っぱらから、どこ行ってたんだ」

 態度は素っ気ないが、いつも通りの冬枝だ。さやかはホッとした。

「ちょっと、ジョギングしてきました。運動不足を解消しようと思って」

「ふーん」

 冬枝は、いかにも興味なさげに新聞のページをめくった。

「………」

 さやかは意を決すると、冬枝に向かって頭を下げた。

「すみませんでした!」

「ん?」

「ゆうべは、その…エミコさんのこと、何も知らないのに失礼なことを言ってしまって。本当にすみません」

「………」

 冬枝は、じっとさやかのつむじを見下ろした。

 実のところ、冬枝は朝、さやかが家にいないのを見て、ちょっと肝を冷やしていた。

 ――まさか、家出しちまったんじゃ……。

 さやかは昨夜、冬枝にビンタされた上、組長に首を絞められたのだ。文字通りの『暴力』団に愛想を尽かしても無理はなかった。

 そのため、さやかが普通に帰ってきてくれて、安心したというのが冬枝の正直なところだ。自分があれだけ危ない目に遭ったというのに、エミコのことで謝るさやかの生真面目さには、呆れてしまうぐらいだ。

 ――図太さじゃ、エミコよりお前のほうが勝ってるよ。

 冬枝は、さやかの頭にポンと手を置いた。

「分かった。もういい」

 冬枝はさやかの顔を上げさせると、そっと頬に触れた。

「顔、腫れてねえみたいだな。良かった」

 すると、さやかが小さく苦笑した。

「…叩かれたの、そっちじゃないです」

「えっ?あっ、左だったか」

「冬枝さん、右手で相手の右の頬を叩くのは難しいと思いますよ」

 そう言いつつ、さやかは冬枝の手にすりすりと頬を寄せた。さやかを助けるために車の窓を割った手は、絆創膏だらけだった。

 冬枝もまた、さやかのふっくらした頬の感触にホッとして――ついでに、アレの存在を思い出した。

「そうだ、さやか。いいもんあるんだ」

 冬枝は自室から、昨日、広瀬と共に選んだ浴衣を持って来た。

「わあ。これ、僕が着ていいんですか?」

「他に誰が着るんだよ。ほら、下駄とかんざしもあるぞ」

「すごい。嬉しいです、冬枝さん」

 浴衣を身体にあててはしゃぐさやかを見ていたら、冬枝の気も和んだ。

 ――なんか、さやかが笑ってるだけで、他のことなんかどうでもよくなっちまうな。

「楽しみだな、竿燈」

「はい!」

 えへへ、と照れ笑いするさやかに冬枝もほのぼのとしていたが、ふと、さやかから妙な匂いが漂ってきた。

「ん?さやか、ちょっとこっち来い」

「?はい」

 さやかを間近に抱き寄せた冬枝は、自分のものではないタバコの匂いを嗅ぎ取った。

「お前、なんか源さんくせえぞ!」

「……なんで源さんって分かるんですか」

 さやかは軽く引いていたが、冬枝はそれどころではなかった。

「おい、こんな朝から源さんと何やってたんだ。変なことされてねえだろうな」

「されてません。ちょっと、その……弾痕を見せてもらっただけです」

「ダッ…!?」

 さやかの爆弾発言に、冬枝は血相を変えた。

「おまっ、やっぱり変なことされてるじゃねえか!そこまでいったら、見せてもらうだけじゃ済まねえだろ!まだ嫁入り前なのに、親になんて言うつもりだ!?」

「ちょ、ちょっと待ってください!そのダッ…じゃありません!」

 冬枝にとんでもない誤解をされていることに気付き、さやかは赤面した。

「じゃないなら、他に何があるっていうんだよ」

「えーと、た、弾のほうです」

「タマ!?」

 やっぱり見てんじゃねえか、このスケベ女、と冬枝に罵られ、さやかの頭に血が上った。

「~~~~~冬枝さんの変態っ!」

 冬枝がさやかにビンタされるシーンは、ちょうどやって来た弟分たちによって、ばっちり目撃されたのだった。



「さやか、今日は随分ご機嫌じゃねえか」

「そうですか?」

 雀荘『こまち』で打っていたさやかは、対面の嵐から顔を指差された。

「いつもより、鼻の穴がでかい」

「!」

 反射的に鼻を手で隠そうとして、さやかは勢い余って鼻の頭をペチンと叩いた。

 嵐がニヤニヤと腕を組む。

「今夜は竿燈デートです、って顔に書いてあんぞ~?」

「…ええ、そうです。僕は今、有頂天です」

 嵐のからかいに対して、まともに反応していたらきりがない。さやかは開き直った。

「嵐さんは?竿燈、鈴子さんと見に行くんでしょう」

「そりゃ勿論。外は混むからさ、今年は知り合いのビルの屋上借りて見ることにしたんだ。せまーい地上でぎゅうぎゅう詰めの皆さんを優雅に見下ろしながら飲むビールの味、今から楽しみだぜ」

 嵐は「人がゴミのようだ!」と言って笑った。さやかより、よほど有頂天である。

「さやかも来ていいんだぜ?今なら、酒を飲まないさやかのために、りんご味のアイスとアップルジュースと、県産のフルーツ果汁を使った美味しいシャーベットもついてくる」

「それ、全部同じじゃないですか。嵐さんち、一体いくつりんごジュースを冷凍してあるんですか?」

「あれ、美味いんだぞ?」

 それから、嵐は「元警官のワイルド嵐から、うかれ小町にアドバイス」と言って指を立てた。

「一つ、夜道は一人で歩かないこと。祭りじゃ、スリやチカンがうようよ出るからな。二つ、ダンディ冬枝からホテルに誘われても断ること。私にはワイルド嵐という、将来を誓った男の人がいます、ってはっきり言うんだぞ」

「最初のアドバイスだけ、ありがたく肝に銘じておきます」

 さやかがクールにツモ牌を切ると、嵐が不満そうに口を尖らせた。

「なんだよ。いくらナツいアツだからって、ハメ外しすぎんなよって言ってんじゃねえか」

「それを言うなら『アツいナツ』でしょ?ていうか、僕は嵐さんに将来を誓った覚えはありませんから」

「んだったって…」

 そこで、マスターの中尾が青ざめた顔で卓に飛んできた。

「夏目さん。若頭がいらしてます」

「榊原さんが?」

 直後、緑のスーツに身を包んだ榊原自ら、若衆を引き連れて卓までやって来た。

「嬢ちゃん。今日も打ってるな」

「榊原さん。お疲れ様です」

 さやかが折り目正しく礼をすると、隣の嵐が「あ!」とわざとらしい声を上げた。

「風林火山だ!」

「?」

 首を傾げる榊原に、嵐が何か言おうとしたのでさやかは遮った。

「榊原さん、今日はどういったご用でしょう」

「ちょっと、話がしたいんだ。今、いいか」

 榊原は、ちらっと卓に目をやった。さやかの麻雀狂いは、榊原も熟知している。

 さやかが「構いませんよ」と言おうとしたところで、横からぐいっと嵐に引っ張られた。

「不倫若頭に、さやかは渡せませーん。お帰りくださーい」

「ちょっ、嵐さん!?」

 榊原が、微かに眉をひそめた。さやかは慌てたが、嵐はお構いなしに続ける。

「さやかの飼い主はダンディ冬枝でしょ?ダンディ冬枝はいいって言ったんスかー?」

「…冬枝には言ってない。ダメか?嬢ちゃん」

 いい、と言おうとしたさやかの口は、嵐の分厚い手によって塞がれた。

「ダメでーす。さやかは風林火山の3号にはなりませーん」

「……お前、さやかの何なんだ?」

 流石の榊原も、ピンクの革ジャン男の度重なる暴言に声が険しくなった。周りの若衆も、厳しい目つきで嵐を睨んでいる。

 険悪な雰囲気など意にも介さず、嵐は敬礼の形に手を上げた。

「春野嵐、32歳!さやかの未来の旦那さんです!」

「違います!」

 ようやくさやかは嵐の手から抜け出したが、再度、口を塞がれた。

「もごっ」

「うだてぇうだてぇ、ヤクザの若頭が一体、さやかに何の用だべか。まーた、さやかの首でも絞めるつもりだべか」

「……!」

 さやかは首にスカーフを巻いてきたのだが、嵐の目は誤魔化せなかったらしい。

 榊原が、少し動揺した。昨夜の件は、榊原にとっても気まずいものだったのだろう。

「…さやかに危害を加えるつもりはねえ。話がしたいだけだ」

 嵐がまた何か言おうとしたので、さやかは全力で振り払った。

「行きます!榊原さん、さっさと行きましょう!」

「おい、さやか」

 嵐が引き留めようとしたが、さやかは「シャアッ!」と言って威嚇した。

 いくら榊原が温厚でも、これ以上、嵐の好き放題にさせたら若い衆が黙っていない。嵐と榊原が『こまち』で衝突なんてしたら、エミコの件で既に手いっぱいの冬枝が、パンクしてしまう。

 榊原と共に『こまち』を出たさやかは、何度も頭を下げた。

「すみません。僕の知人なんですが、その、脳みそにウジが何匹も湧いているような男で…嵐は、誰に対してもあんな調子なんです。無礼星からやって来た無礼星人なんです」

 榊原は、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。

「いいさ。悪い男じゃねえんだろ。目を見りゃ分かった」

「はあ…」

「俺が誰だか分かっててあんな口利くなんて、相当肝が据わってる。嬢ちゃんは、いいボーイフレンドを持ったな」

 あんまりボーイフレンドと仲良くしてると冬枝が妬くぞ、と榊原に言われ、さやかは赤面した。

「違います。嵐さんは、その…麻雀のライバルですから」

「ははっ、ライバルか。嬢ちゃんのライバルになれるなら、相当の打ち手なんだろうな」

 外に停まっていたプレリュードに乗ると、すぐに榊原から頭を下げられた。

「…昨夜は、あんなことになっちまって済まなかった。この通りだ」

「榊原さん…!謝らないでください」

 思わぬ成り行きに、さやかは狼狽えた。相手は彩北市の顔役、白虎組若頭なのだ。

「榊原さんのせいじゃありません。榊原さんは、止めてくれたじゃないですか」

「…だとしても、もっと強く止めるべきだった。冬枝が来てくれなかったら、さやかを親分に殺させちまうところだった」

 榊原の声には、苦渋が滲んでいた。

 ――榊原さんの立場じゃ、止めたくたって止められないだろうな。

 妻・淑恵との結婚をはじめ、榊原は組長の後ろ盾によって今の地位を得た。真面目な性格ともあいまって、組長に盾突くのは難しいだろう。

 ところが、さやかの予想に反して、榊原は意外なことを言った。

「昨夜の件は、俺から親分に『もう二度としないでくれ』って言っておいた」

「えっ…」

「親分も、了承してくれた。まあ、あの人のことだから、どこまで本気かわからねえが」

 苦笑する榊原に、さやかは呆気に取られた。

「あの…ありがとうございます。僕なんかのために、わざわざ」

「当たり前のことだ。嬢ちゃんの扱いについては、霜田も前から文句を言ってたんだ」

「霜田さんが?」

 榊原は「ああ」と頷いた。

「霜田に言われて、俺も目が覚めたよ。組のために打ってくれてる嬢ちゃんを虐めてたら、白虎組の名が廃る。いくら親分でも、していいことと悪いことがあるってな」

 ――お神酒徳利って、こういうことか。

 さやかは、榊原と霜田が仲が良い、と言われる理由がわかった気がした。2人は、互いに足りないところを補っているのだ。

「冬枝もカンカンだったろ?あいつ、今にも親分のことを殺しそうな目をしてた」

「はは…」

 昨夜の冬枝の凄まじい殺気を思い出すと、何だかさやかまで怖気づいてしまう。

 榊原は、スーツのポケットからタバコを取り出した。

「今日はもう一つ、嬢ちゃんに礼を言いたくて来たんだ」

 榊原が切り出したのは、この間のバレーボール大会のことだった。

「響子のこと、淑恵に黙っててくれて助かった。ありがとう」

「いえ、そんな…」

 その件に関しては、礼を言われても嬉しくない。不倫の片棒を担いでくれてありがとう、と言われているのと同じだからだ。

 ――淑恵さんには、全部バレてるだろうし。

 榊原と響子の関係も、さやかがそれに一枚噛んでいることも、淑恵は全て承知のうえで、知らないふりをしてくれている。それだけ榊原のことを愛しているからだと思えば、さやかは胸が痛かった。

 だが、榊原が口にしたのは響子のことだった。

「やっぱり、心細いんだろうな。響子は母一人子一人で、何かと苦労してる。家と金の面倒を見てやるぐらいじゃ、安心できないんだ。俺が、もっと一緒にいてやれればいいんだろうな」

 嬢ちゃんもまた、響子と麻雀打ってやってくれ、と榊原に言われ、さやかは「はい」と頷くことしかできなかった。

 ――響子さんの言ってた意味が、今なら分かる。

 榊原はいい人だ。響子のことも、心から案じているのがさやかにも伝わる。だがそれは、父親の優しさでしかない。

 さやかまで憂鬱になったのは、響子の境遇が他人事とは思えないせいだろう。

 ――僕も、冬枝さんにとっては娘みたいなものなのかな。

 エミコという本物の恋人が――冬枝がかつて愛していた人が現れた今、さやかは自分がちっぽけに思えてならなかった。

 源から聞いた冬枝とエミコの過去は、紛れもなく悲劇ではあったが、同時にドラマティックな悲恋でもあった。互いに想い合っていたのに、抗えない運命によって引き裂かれたのなら、その想いは一層強く焼き付いたのではないだろうか。

 榊原と別れ、さやかは一人、アスファルトに佇んだ。

 真夏の太陽を照り返して、2階の窓ガラスが白く光っている。そこには『こまち』の3文字が、燦然と輝いていた。

 それを見上げるうちに、さやかの眦がキッとつり上がった。

 ――過去がなんだ!悲恋がなんだ!

「僕のほうが若くて可愛い!」

 今の自分は、勝てない相手を前にして、雀卓から逃げ出そうとしているに等しい。闘わなければ、いつまで経っても勝てないのに。

 冬枝とエミコに美しい悲恋の過去があるなら、それを凌駕するぐらい、さやかと冬枝の間で素敵な思い出を作ればいい。東場で負けたって、南場で勝って逆転することだってできるのだ。

「よし!」

 と青空の下で拳を握ってから、さやかは「あっ!日焼け止め塗ってない!」と気付いて、慌てて『こまち』の中へと駆けこんだ。



 今日の源はツイている。

 朝、さやかに会えたと思ったら、今度は昼に嘉納笑美子――エミコが、18年ぶりに訪ねてきたのだ。

「お久しぶりです。源さん」

 エミコは、昔と変わらず美しい。いやむしろ、冬枝と付き合っていた18年前よりも、幼さが剥がれ、内側から光り輝いているように見える。

「綺麗になったな、エミコ」

 源が正直な感想を口にすると、エミコがぎこちなく笑った。

「変わりませんね、源さんは。何だか、ホッとしました」

 開店前の『せせらぎ』のカウンターで、源とエミコは向かい合った。

「…今更ですけど、18年前に父がしたこと、本当に申し訳なく思っています。今まで謝ることもできなくて、本当にごめんなさい」

 エミコが、深々と頭を垂れた。

「エミコのせいじゃない。俺は仕事しただけだ」

「でも、もっと早くお詫びするべきでした。私、自分のことで手いっぱいで…」

「気にしなくていい。どうせ、熊谷が俺に会うなって言ったんだろ」

 熊谷のやり口は気に食わないが、エミコを事件から引き離し、未来へ向かわせたのは正しかったと源も認める。どのみち、極道と決別し、堅気の道を生きたほうがエミコは幸せになれたからだ。

「俺はもう大丈夫だ。若くて可愛い恋人もいる。今朝だって、傷痕を撫でてもらったところだ」

 源が本心でそう言うと、エミコが「あら」と笑った。

「冬さんも源さんも、若い娘に夢中なんて。2人とも、おじさんになりましたね」

「そうか。エミコはさやかに会ったのか」

 どうりでさやかが真剣だったわけだ、と源は一人納得した。女装した源にすら嫉妬したさやかだから、冬枝の本物の『元恋人』であるエミコ相手にさぞ狼狽したことだろう。

 緊張していたさやかとは対照的に、エミコはのほほんとしていた。

「真面目そうで、可愛いお嬢さんでした。私が冬さんの元恋人です、って言ったら、おめめまんまるにしてましたよ」

「冬さんったら、どうやってあんな娘を捕まえたんでしょう?」とエミコは首を傾げた。

 それは、源も純粋に疑問だ。自分のほうが早くさやかに出会っていれば、と口惜しいことこの上ない。

「冬枝とは話せたか」

「…はい。冬さんも、元気そうで良かったです」

 ただ、とエミコは寂しそうに笑った。

「振られちゃいました」

「振られたのか」

 エミコから事情を聞いた源は「冬枝らしいな」と頷いた。

 エミコは、スカートの上に置いた手をぎゅっと握り締めた。

「私、諦めません。冬さんには、私よりもずっと幸せになって欲しいですから」

「あいつの幸せなんかより、エミコが今日も明日も笑顔でいられることのほうが大事だ」

 エミコが去年、夫を亡くしたことは源も聞いている。頼りになる男が今すぐにでも欲しいはずだ、そう、自分のような、と源はアピールしたが、エミコはつれなかった。

「源さんって、未だに独り身なんですね。何だか責任感じちゃいます」

「そうだな。エミコのことが忘れられなくて、婚期を逃したのかもしれない」

「違いますよ、怪我のせいかなって言っただけです。その調子だと、源さんはお元気過ぎて独り身みたいですね」

 去り際、エミコは「源さん、いい人見つかるといいですね」と笑って言った。

「いい人、か…」

 一人、真昼のバーカウンターに残された源は、さやかの顔を思い浮かべていた。



「冬枝さん!僕、着替え終わりましたよっ」

 さやかは、部屋からぴょこっと姿を現した。

 冬枝が買ってくれた浴衣は、白に朝顔模様が爽やかで、さやかも一目で気に入った。浴衣姿の自分はいつもより大人っぽく見えて、ちょっとこそばゆい。

 ――我ながら、結構いけてると思うんだけど。

 リビングからやって来た冬枝が「おー、似合ってるじゃねえか」とのんびりと言った。

 わざとらしいスローモーションは、さやかを驚かせるための演出である。案の定、さやかが口をあんぐり開けた。

「あーっ!冬枝さんも浴衣着てる!いつの間に!?」

「ハハハ。お前の着替え、長いんだよ」

 さやかだけでなく、冬枝も自分用の浴衣を買ったことは、さやかには内緒にしていた。

 実際、若い娘とのデートにめちゃくちゃ張り切っているおじさん、になりそうで、直前まで着るかどうか迷っていたのだが、さやかがはしゃいでいるのを見たら、躊躇しているのもバカらしくなった。

 さやかはトコトコと冬枝に近寄ると、ポーッとした瞳で冬枝を見上げた。

「どうだ?爺臭えか?」

「そんなことないです。すごくかっこいいです」

 さやかの真ん丸い頬が、つやつやとピンク色に光っている。すっかり冬枝に夢中な様子のさやかを見ていたら、冬枝は段々、出掛けるのが億劫になってきた。

 ――もう、家ん中でいちゃついてたほうがいいんじゃねえか。

 弟分たちには「今日は竿燈だから、もう帰っていいぞ」と言って、良い兄貴分面をして帰らせた。今は、誰の目を気にすることもなく、さやかと2人きりだ。

 自然、冬枝の目は、さやかの小さな唇とか、細い腰なんかに、吸い寄せられてしまう。

 おもむろにさやかの肩に手をかけると、赤黒く残る首の痣が目に入った。

 ――せっかくの浴衣だってのに、これじゃ可哀想だな。

 というか、これで2人で外を歩いたら、冬枝がさやかの首を絞めたように思われそうだ。今更ながらにその可能性に気付いて慌てる冬枝をよそに、さやかは、思わせぶりな仕草で首の痣に触れた。

「冬枝さん。この痣なんですけど…」

「うん」

「チューしてくれませんか」

「うん…ん!?」

 何かの聞き間違いかとも思ったが、冬枝の耳に届いた通りの意味であることは、さやかの大赤面からも明らかだった。

「み、源さんはしてくれましたよ」

「ああ!?源さんが!?」

 やはり、朝のあれこれは冬枝の予想が的中していたらしい。あの源が、女をたらし込むのに朝も夜も選ばないことぐらい、冬枝が一番よく知っていた。

 その源に、一人でノコノコ会いに行ったさやかも憎たらしい。お前の男は俺だろうが、と思えば、『チュー』だけで済ませてやる気にはなれなかった。

「っ!?ひゃん」

 首筋に歯を立てられ、さやかが変な声を上げた。

「ふ、冬枝さんっ」

「お前がしろって言ったんだろ」

 さやかの潤んだ瞳と、視線が絡み合う。互いの吐息の熱さと、湿った肌の感触で、頭がいっぱいになった。

 無機質なエアコンの音が、やけに遠くに聞こえた。

「………」

「………」

 しばし見つめ合った2人は、同時に同じ結論を出した。

「よし!外出るか、さやか!」

「そ、そうですね!そろそろ行かないと、竿燈、始まっちゃいますね!」

『このまま2人っきりでいたらまずい』――それが、冬枝とさやかが本能で出した解だった。

 ――俺、別荘でどうやってさやかと寝てたんだっけ。

 さやかと同じ布団にいながら、理性と自制心を総動員できた夜のことが、冬枝は思い出せなくなっていた。



 竿燈が行なわれる大通りは、すっかり人でごった返していた。

「さやか。手、離すなよ」

「はい」

 家を出てからほとんどずっと、冬枝が手を繋いでくれるのが嬉しい。互いに浴衣姿で手を繋いで歩いているなんて、本当に恋人同士みたいだ。

 身体の奥がむずむずしてくるのは、暑さのせいだろうか。あのまま部屋で見つめ合っていたら、どうなっていたのだろうか、という想像が、さやかの脳裏で明滅している。

 ――こんなこと、母さんには絶対に言えないや。

 ヤクザと麻雀を打っているよりも、ずっといけないことをしている気がする。今にも、紫色の宵闇にさらわれてしまいそうだ。

 さやかは、通りから続く竿燈の列に目をやった。

「冬枝さん」

「ん?」

「この竿燈って、何本あるんですか」

 観客の歓声の中、はっぴを着た精悍な男性が竿燈を手や肩の上に乗せ、見事な技を繰り広げている。竿燈は次から次へとやって来て、途絶えることがない。

「あー…。300本ぐらいだな」

「そんなにあるんですか」

 天を突くような巨大な竿燈が、300本も街をパレードするなんて壮大だ。

「町内とか色んな企業が、それぞれ作ってるんだよ。ここだけの話だが、うちの組でも出してる」

「そうなんですか」

「ああ。確か、榊原さんのお舅さんの、灘議員も見に来てるはずだぜ」

「あの提灯全部数えたら、1万個ぐらいにはなるだろうな」と言って、冬枝は絵や家紋の描かれた提灯を指差した。

 さやかは、遠目に見える小さな提灯たちが、見慣れたアレに見えた。

「すごいな。まるで、1万個の麻雀牌が空に浮いているみたい」

「お前、竿燈まで麻雀牌に見えるのかよ」

 江戸時代から続く伝統行事に対して、憤慨されそうな例えである。さやかにしてみれば、褒め言葉のつもりらしいが。

「冬枝さん。僕には、麻雀牌もキラキラ光って見えるんですよ」

 期待、執着、油断や恐怖など、一牌にありったけの人の想いが込められている。だから、薄暗い卓上でも、牌は煌めきを放って見えるのだ。

「竿燈も同じです。あの提灯一つ一つに、彩北に住む人たちの想いが灯されている。それが、夜空をこんなに明るく照らしているんです」

 さやかは、にっこりと笑った。

「何だかあったかいですね、冬枝さん」

「ていうか、のぎぃよ。ずーっと手繋いでるせいで」

 照れ隠しに、冬枝は自ら水を差すようなことを言った。

「冬枝さん、僕の手をあっためてくれてるんでしょう?うちの壊れたトースターみたいに」

「まだ壊れてねえよ」

「僕の手はあったかいですか?」

 さやかの指が冬枝の手に絡み、ぴたっと密着する。

 揺らめく稲穂の光が、暗闇からさやかの顔を照らし出す。冬枝は、時が止まったように見惚れた。

 ――きれいだな……。

 広瀬が選んでくれた浴衣のお陰だろうか。こいつこんなに美人だったっけ、と不思議になるぐらい、さやかの全てが瑞々しく見える。

 いや、顔だけは綺麗な女だと、出会った頃から認めてはいた。瞳は透き通っているようで、見ているほうをたじろがせるし、ちょっと才走ったところなんかは、冬枝のタイプじゃないと思っていた。

 今は、知ってしまった。さやかが麻雀となると見境を失くす雀キチであることも、真面目でひたむきな性格も、朝が弱くて未だにパンツ一丁で冬枝の前に起きてくることも、冬枝を慕ってくれていることも、全部。

 天からの贈り物みたいに、さやかは全て揃えて冬枝の前にいた。

 ――いつの間に、こんなに情が移っちまったんだろう。

 たった4ヶ月、一緒にいただけなのに。麻雀の強い東京娘は、冬枝にとって代打ち以上の存在になっていた。

 竿燈の光が、暗闇を夢の中のように彩る。もうどうなってもいいか、という衝動に冬枝は身を委ねようとした。

「あっ!」

 最高にいい雰囲気になったところで、さやかが出し抜けに声を上げた。

「あ?」

「すみません、僕ちょっと抜けます!」

「あっ、さやか!?」

 繋いだ手がするりとほどけ、さやかは人混みへと駆け出してしまった。

「おい……」

 置き去りにされた冬枝は、ハシゴを外された気分だった。

 ――やっぱり俺、さやかに手玉に取られてんのか?

 田舎の独身中年が、東京から来た小娘に弄ばれているだけなのだろうか。まあ、冬枝のほうがさやかに色々悪さをしている自覚があるので、被害者面をする気はないが。

「冬さん」

 さやかと入れ替わるように、冬枝の背に女の声がかかった。

 顔を見るまでもなく分かる。そこにいたのは、黒髪を夜風に揺らしたエミコだった。

「エミコ。どうしたんだよ」

「あの話、冬さんに『うん』って言ってもらうまでは、帰れません」

「またかよ。もう終わった話だろ」

 冬枝はそっぽを向いたが、エミコは「いいえ」と真剣な声で引き止めた。

「私と冬さんの未来に関わる話です」



 一方、さやかは大慌てで通りの向こう側へと駆けつけた。

 ――確か、この辺りだったはず……。

 宵闇の中、ちらっと見ただけだったが、あの美貌を見間違えるはずがない。何より、物憂げな横顔は、祭りに浮かれる人々とは明らかに一線を画していた。

「…響子さん!」

 薄暗い路地裏で、響子は若い男と揉み合っていた。

「待って。私の話を聞いてちょうだい」

「話すことなんて何もねえだろ。お前がそんな女だったなんて思わなかった」

 ヒステリックな叫びと共に、男は縋り付く響子を振り払って去って行った。

「………」

 後には、悄然と立ち尽くす響子だけが残された。さやかは、おずおずと声をかけた。

「響子さん…。大丈夫ですか」

「…夏目さん!どうしてここに…」

 響子はハッとしたように目を見開くと、取り繕うように先ほどの説明を始めた。

「あの人は、お店のお客さんです。ちょっと揉めてしまって…」

「…そうですか」

 ――嘘だな。

 恐らく、あの若い男は響子の恋人だろう。今になって、さやかは「響子に恋人がいる」という発想がなかった自分に呆れた。

 ――響子さんみたいな美人に、恋人がいないほうがおかしいのに。

 響子は、恋人がありながら榊原の愛人になった。恋人のことも、榊原のことも裏切っているのだ。

 かといって、響子だけを責める気にはなれない。悪いのは恋人がいる響子に愛人という仕事を持ちかけた朽木らであり、淑恵という妻がいながら響子を見初めた榊原だ。

 ――やっぱり、響子さんと榊原さんの関係は断ち切るべきだ。

 響子が恋人と揉めたのは、榊原のことが原因だろう。恋人がヤクザの愛人をしているなんて、普通は許せるものではない。

「…響子さん」

 気まずそうにしている響子に、さやかはおもむろに語り掛けた。

「僕は今まで、響子さんの気持ちを全然分かってませんでした」

「えっ?」

「時が経てばおのずと答えが見えてくる、なんて。綺麗事ですよね」

 組長の別荘で響子に苦悩を吐露されたさやかは、そう言って響子を励ました。今になってさやかは、自分がいかに能天気だったかを思い知った。

 ――エミコさんが現れただけで、あんなに苦しくなるなんて。

 冬枝の昔の恋人相手に、さやかは嫉妬した。淑恵という、絶対に倒せない恋敵がいる響子の辛さは、さやかの比ではない。

 すると、響子は「夏目さんはそんなことを言わないでください」と言った。

「私にとっては綺麗事かもしれないけれど、夏目さんはまだ自分を信じていいんです。夏目さんはまだ、誰のことも裏切ってないんですから…」

 そう言って、響子は悲しげに目を伏せた。

 榊原がいる別荘にふらりと現れたり、榊原の愛人をやめたいと言いつつ辞められなかったり、淑恵の前に姿を現してしまったり――響子の一連の行動は、全て、榊原と恋人との板挟みになったせいだったのだろう。

 響子の苦しみにここまで触れておきながら、見て見ぬふりはできない。さやかは、単刀直入に告げた。

「響子さん。やっぱり、榊原さんとは別れましょう」

「夏目さん…」

「こんなの、響子さんのためになりません。もう、自分を苦しませるようなことは終わりにしませんか」

 さやかは真っ直ぐに響子を見つめ、響子もまた、さやかの想いを正面から受け止めてくれた。

 だが、響子は首を横に振った。

「…いいえ。若頭とは別れられないわ」

 どうして、と言おうとしたさやかは、響子の手が震えていることに気が付いた。

「あんな人と…あんな人と、若頭を一緒にいさせるわけにはいかない」

「響子さん…?」

「若頭と奥様は、別れるべきなんです。パパが言ってたことは正しかったんだわ」

 響子の言う『パパ』とは、若頭補佐・霜田のことだ。そもそも、榊原と淑恵を別れさせるために響子を差し向けたのは、霜田である。

 響子の横顔は、憤りに歪んでいる。さやかは、響子や霜田がそこまで淑恵を引き離そうとする理由がわからなかった。

 ――淑恵さんには、僕が知らない何かがあるのか?

 さやかは淑恵と少し話したぐらいだが、淑恵が優しく、そしていかに榊原を愛しているかは、十分に伝わった。それも所詮は、うわべだけのものだったのだろうか。

 沈黙を恥じたのか、響子は苦い笑みを浮かべた。

「…ごめんなさい。取り乱してしまったわね」

「いえ…」

「若頭の奥様は、きっと素晴らしい方なんでしょうね。若頭を見ていれば分かるわ。でも、奥様とは別れたほうがいいんです。それが、若頭のためだから」

 響子は「また一緒に打ちましょうね、夏目さん」と言って、暗い路地裏へと吸い込まれていった。

「………」

 ――淑恵さんのこと、もっと探った方がいいのかもしれない……。

 響子が榊原と別れたくないのは、榊原への恋心以外にも理由があるようだ。さやかはしばらく、先の見えない暗闇をじっと見つめてから、そこに背を向けた。

 ――冬枝さんのところに戻ろう。

 男と揉めている様子の響子を見つけたさやかは、つい飛び出してしまった。せっかく冬枝といい雰囲気だったのに、とさやかはちょっと口惜しくなる。

 もっとも、ムードが盛り上がり過ぎて、怖気づいたのも確かだ。冬枝の瞳があまりにも強くさやかを捉えて、そのまま見つめられていたら、動けなくなってしまいそうで――さやかは、見えない奈落に落ちていく錯覚にとらわれた。

 ――やっぱり、冬枝さんって大人の男の人なんだな。

 普段はのんきに同じ屋根の下で暮らしているから、ほとんど意識していなかった。飲み込まれそうになって初めて、さやかは冬枝の引力の強さを知った。

 人混みを何とかかき分け、ようやくさやかは元いた場所に戻った。

「冬枝さ…」

 と言いかけて、さやかは冬枝が一人ではないことに気が付いた。

 ――エミコさん。

 エミコの真剣な声が、少し離れたさやかの元にまで届いた。

「私、再婚したいんです。幸せになりたいんです。だからお願い、冬さん」

 エミコに手を握られ、冬枝は狼狽えている様子だった。

 ――冬枝さんとエミコさんが…結婚…!?

「……!」

 反射的に、さやかは回れ右してその場から逃げ出していた。



 その少し前、『大事な話』をし終えたエミコは、冬枝にこう告げた。

「私がおばあちゃんになって、何もかも忘れてしまっても、今までのことはなかったことにはなりません。嬉しいことも悲しいことも、今までの全てがあったから、今の私がいるんですもの」

 そこには、喜びも悲しみも正面から受け止め生きていく、というエミコの覚悟があった。

 だから、とエミコは言った。

「冬さんは、私のこともお父さんのことも、忘れていいんですよ」

「…エミコ」

「私たちはもうとっくに、別々の道に進みました。そろそろ、終わりにしましょう」

 冬枝は、源を撃った笑太郎を許せなかった。恋人の父だと分かってはいても、肉親にも等しい源が倒れた様を見たら、身体が勝手に動いていた。

 エミコは、父を斬った冬枝を許せなかった。父に非があると分かってはいても、この世でたった一人の肉親を斬った恋人を許してしまったら、この先一生、心から笑えなくなる気がした。

 言葉にせずとも、2人は互いの気持ちを悟った。だから、エミコは冬枝の刑期明けを待たずに上京し、冬枝はそれを責めなかった。

 冬枝とエミコは、もう二度と交わらない道の上に立った。

「冬さんが幸せになってくれることが、あの頃の私たちへの一番のはなむけです」

 そう言ったエミコは、とても優しい笑みを浮かべていた。

 2人の間にあった葛藤も愛情も思い出も、全てを優しく洗い流すような、そんな微笑み方だった。

 エミコの言葉は、いつもストンと冬枝の腑に落ちる。だから、冬枝は自然とこう口にしていた。

「…大事な女ができた」

「あの娘でしょ」

 さやかちゃん、と名指しされ、冬枝はちょっと照れ臭くなった。

「あーあ、冬さんもギャル好きのオジンになっちゃいましたかあ」

「お前な」

「いいんじゃないですか?今の冬さん、幸せそうです。そんな顔、できたんですね」

 にやにやと顔を指さされ、冬枝はそっぽを向いた。

「私も、子育てが終わったらいい人探そうかしら」

「再婚すんのか」

「刑務所に行かなくて、早死にしない男の人を、死ぬまでに見つけます」

 エミコの表情には、希望がみなぎっている。己の人生から逃げないエミコの強さが、冬枝は眩しかった。

「お前ならすぐに見つけられるさ。美人なんだから」

「冬さん。本命以外の女に、そういうことを言っちゃダメですよ」

 エミコはぴしっと冬枝の鼻先に指を突きつけた。

「よそ見してると、逃げられちゃいますよ。今時の女の子は、はしっこいですから」

 エミコがくすくすと笑い、冬枝の胸も平和な気持ちで満たされていった。

 ――俺たちは、いい意味で他人になれたんだな。

 エミコと、一時でも恋人でいられて良かった。後悔でも未練でもなく、そう思えるようになった。きっとそれは今、冬枝を想ってくれる女がいるからだ。

「だ、か、ら」

 エミコはくるっと一回転すると、冬枝の手をぎゅっと握った。

「私、再婚したいんです。幸せになりたいんです。だからお願い、冬さん」

 アレを受け取って欲しい、とエミコに再度迫られ、冬枝は泡を食った。

「いや、んなこと言われても…」

「冬さんだって、あの娘と幸せになりたいでしょう?これでもう、本当に終わりにするんです。私たちの18年を」

 と言ってから、エミコが「あ」と目を見開いた。

「さやかちゃんです」

「えっ?」

 言われて振り向いた冬枝の目には、人混みに消えていく白い浴衣の背中が小さく見えた。

 ――しまった、エミコと一緒にいるところを見られた!

「やべっ、行ってくる!」

「冬さーん、アレ、冬さんちに置いて行きますからねー」

「ああもういいよ、好きにしろ!」

 冬枝がバイバイと雑に手を振ると、エミコも笑顔で振り返した。



 感情のままに走っていたさやかは、やがて、勢い良く転倒した。

「きゃっ」

 慣れない下駄のせいか、派手に転んでしまった。真っ白な浴衣が、路面に擦られる。

 祭りを楽しむ人々の笑い声の中、アスファルトの冷たい感触が、さやかを惨めにさせた。

 ――何やってるんだろう、僕。

 また、逃げ出してしまった。これでは、台無しになった海デートの二の舞だ。

 ――ちゃんと闘う、って決めたのに。

 雀卓から逃げ出していたら、雀士失格だ。本気で冬枝のことが好きなら、修羅場上等、正面切ってエミコとケンカするぐらいでなければダメなのに。

「いてて…」

 膝をすりむいたかもしれない。よろよろと立ち上がったところで、さやかは路地裏へと腕を引かれた。

「よう、麻雀小町」

「…朽木さん!」

 朽木の悪人めいた笑みが、ほの暗い中にぼんやりと見えた。

「てめえ一人か?冬枝はどうした」

「…僕に何か用ですか」

 朽木の手を握る強さに、さやかは何か尋常ならざるものを感じた。

 朽木は、スーツを着た肩をさやかに寄せた。

「てめえに会いたいって言ってる人がいるんだよ。今から来ねえか」

「…誰なんですか、それ」

「ここじゃあ言えねえ。秋津イサオの事件に関わる話、って言やあ、分かるだろ?」

「……!」

 秋津イサオ、の名を聞いてさやかの背筋が粟だった。

 閃光のように脳裏に瞬いたのは、雀卓と、太陽のように暖かかったあの人の笑顔だった。

 さやかの反応を見て、朽木が笑みを深めた。

「麻雀小町。秋津イサオを殺ったのは、てめえだろ」

「………!」

 さやかは言葉を失った。

 朽木がぐいっ、と腕を引いた。

「分かったら行くぜ。お偉いさん方がお待ちかねだ」

「…放してください!」

 さやかは硬い声を上げたが、朽木は聞く耳を持たない。

「そう警戒すんなって。こんなお祭りの日に、てめえを取って食いやしねえよ」

「嫌です、僕は行きません!」

「分かんねえ奴だな」

 朽木はさやかの手を放すと、ビルの壁に突き飛ばした。

「うっ…」

「ちょっとぐらい痛い目に遭わせたっていいんだぜ?無傷で連れて来いとは言われてねえんでな」

 そう言って朽木が、さやかの胸倉を掴み上げた時だった。

 死神の鎌のように長い脚が、朽木の首に振り下ろされた。

「ぐはっ!」

 蹴られて宙を舞う朽木に、とどめとばかりに更に2、3発、目にも止まらぬ速さで蹴りがお見舞いされた。

 ドスン、と音を立てて、朽木の身体がゴミ捨て場に叩きつけられた。それきり、朽木はピクリとも動かない。

「………」

 呆気に取られるさやかに、すっと大きな手が差し伸べられた。

「立てるか。さやか」

「…源さん!」

 源の冴え冴えとした美貌が、真顔のままでさやかを見下ろしていた。

 さやかは源の手を取り、よろよろと立ち上がった。

「…ありがとうございます。助かりました」

 さやかがようやくそれだけ言うと、源がぎゅっと手を握った。

 その手の温もりと力強さに、さやかの目から何故か涙が零れた。

「あれっ?す、すみません」

「………」

「ごめんなさい。泣くようなことじゃないんですけど」

 さやかは、今更ながらにすりむいた膝がじんじん痛むのを感じた。

「久しぶりに転んだら、痛かったんです。そのせいです」

 片手でぎこちなく涙を拭おうとしたさやかは、源に抱き寄せられた。

「源さん…?」

「さやかに泣かれると、俺も辛くなる」

 源は、いつもと変わらず優しい。さやかは、小さく笑ってしまった。

「源さんに優しくされると、僕は泣きたくなります」

「だったら、好きなだけ泣けばいい。俺がずっとそばにいてやる」

 おなじみの口説き文句も、今は温かくさやかの首筋に降り注ぐ。言われるがままに甘えたくなるのは、さやかの父と年が近いせいだろうか。

 ――こんなにカッコいい人を、父さんと一緒にしたら失礼かな。

 源に「おじさん」という形容は似合わない。額に一筋かかる前髪がやけに色っぽいし、彫りの深い目元なんて、嵐や朽木から『平安美人』と評されるさやかには羨ましいぐらいだ。

 というか、さやかがしげしげと観察できるぐらい、源の顔が近い。星のない夜空みたいな瞳の蒼さが、さやかの眼に流れ込んでくるようだ。

 祭りの喧騒が、別世界のように遠くなる。さやかと源の上だけに、静寂が舞い降りた。

 そのまま時が流れたなら、さやかは源に引き込まれていただろう。

 甘い時を壊したのは、ビルの壁に楔のように打ち込まれた蹴りだった。

「……えっ?」

 一拍遅れて、パラパラと壁の破片が地面に落ちる。コンクリートを粉砕せしめた脚は、壁にめり込んだ下駄を蹴飛ばし、空中でひょいと履いた。

「………」

「…冬枝さん」

 逆光になっているのに、冬枝の瞳が冷たく光っているように見えた。

 冬枝が蹴った場所は、ちょうど源の頭があった位置だった。すんでのところで避けた源は、弟分をじっと見据えた。

「おい。てめえ、どこに目つけてんだ」

「すみませんね。暗いもんで、あんただって分からなかったんですよ」

 冬枝の声は、ぞっとするほど低かった。

 ――冬枝さんって、夜目が利くんじゃなかったっけ。

 響子の部屋に襲撃者たちが押し入った時も、『アクア・ドラゴン』との闘いの時も、冬枝は暗闇をものともせずに相手をのしていた。先代組長の親衛隊だった頃、夜の仕事が多かったのだろう。

 冷え冷えとした冬枝の眼と、ブラックホールのような源の眼が、音もなくぶつかり合う。

 さやかはただ、固唾を呑んで2人を見守っているしかなかった。

「…ふん。今夜は、てめえに花を持たせてやるか」

 源はさやかから身を離すと、名残惜しむようにさやかの髪を撫でた。

「冬枝。さやかが怪我してるから、てめえがおぶって歩けよ」

「…はい」

 うるせえ、とっとと消えろ、を敬語にした結果「はい」になったとでも言うような、冬枝のぶっきらぼうな返事だった。

 すっと通りへと出て行こうとした源に、我に返ったさやかは「あの!」と声をかけた。

「源さん。さっきは本当に、ありがとうございました」

「…ああ。気を付けて帰れよ」

 源の長身が、光と闇がひしめく人混みの中に紛れて見えなくなった。

 源が去っても、まだ冬枝の全身からピリピリと火花が散っている。さやかは、おずおずと声をかけた。

「あの…冬枝さん」

「………」

「冬枝さん!」

 冬枝が彫像のように動かないので、さやかは思い切って冬枝の手を握り締めた。

 そこで、ようやく冬枝から殺気が解けた。

「さやか。お前、大丈夫か」

「僕は、何ともないですよ」

「つったって、怪我してるんじゃねぇのか」

「ああ…」

 さやかは足元を見下ろして「ちょっとすりむいただけです」と言った。

 すると、冬枝がさやかの足元に跪いた。

「どの辺だよ。ちょっと見せてみろ」

「えっ?あの…膝の辺りですけど…」

 冬枝から視線で催促され、さやかは仕方なく、少しだけ浴衣の裾から膝を見せた。

 朝顔模様の白い浴衣を割って、薄桃色の素肌が覗く。目の前にある細い脚に、冬枝はまじまじと見入ってしまった。

 冬枝から何やらよこしまなオーラが出ていることに気付き、さやかは慌てた。

「あっ、あの、もういいですかっ」

「いや、こう暗いと、よく見えねえなあ。もうちょっと近くで見せてもらわねえと」

 わざとらしく言いながら、冬枝の指が浴衣の隙間に伸びてくる。ぞくぞくと羞恥心が這い上がってきて、さやかは身をよじらせた。

「ふ、冬枝さん!」

「冬枝。こんな所でいちゃついてたら、通行人に丸見えだぞ」

「あんた、なんでまだいるんですか、源さん!」

 冬枝が突っ込むと、源が口辺に笑みを浮かべた。

「スケベなことして誤魔化すのは、冬枝の常套手段だからな。流されるなよ、さやか」

「…そうなんですか?」

 さやかが、汚いものでも見るかのような目で冬枝を見下ろした。

「違いますよ!俺は純粋にさやかの怪我を心配して…」

「本音は?」

「こいつ、ちゃんと下に穿いてんのかなって気になったもんで」

「なるほど」

 ハハハ、と笑い合うおじさん2人に、さやかはわななく拳を握り締めた。

「冬枝さんも源さんも、変態!」

 冬枝ともども食らったビンタを手土産に、今度こそ源は帰って行った。



 祭りの盛り上がりとは裏腹に、冬枝は静かな場所が恋しくなってきた。

 さやかも同じ気持ちだったらしく、どちらからともなく、人でごった返す通りを避け、帰り道へと足を向けた。

 源に言われたおんぶではなく、並んで歩いたのは、顔を見て話がしたかったからだ。

「さやか」

「はい」

「俺の話、聞いてくれねえか」

 エミコの件だと察したのだろう。さやかは、黙って頷いた。

 冬枝は、人気のない夜道にタバコの煙を吐き出した。

「……俺、エミコに仕送りしてたんだ」

「…そうだったんですか」

 出所してから18年間、冬枝はエミコに毎月、決まった額を仕送りしていた。

 冬枝が獄中にいる間にエミコが上京し、結婚したことは知っていた。だからと言って、自分が償いを終えたとは思えなかった。

 エミコのため――というより、けじめをつけたかったのかもしれない。エミコからは何の音沙汰もなかったが、冬枝は黙々と金を送り続けた。

 さやかは、内心で納得した。

 ――どうりで、いつもお金に困っていたわけだ。

 冬枝は昔の揉め事で朽木に慰謝料を払い続けていただけではなく、エミコにまで仕送りをしていたのだ。ヒラの組員という立場では、とても賄いきれなかっただろう。

「エミコが俺に会いに来たのは、その金の話だ」

 夫の死を機に、エミコは18年前の事件を終わらせることを決意した。つまり、冬枝からの仕送りを、耳を揃えて返しに来たのだ。

「本当は、もっと早くお断りするか、お返しするべきだったんでしょうけど。やっぱり私、心のどこかでまだ、冬さんのことを許せなかったんです」

 喫茶店『異邦人』で会った時、エミコはそう語っていた。

「だけど、夫に言われたんです。もう冬さんを許してあげていいんだよ、って。冬さんを許しても、私は私のままだから、大丈夫だよって」

 夫は、わかっていたのだ。エミコが本当に許せないのは冬枝ではなく、冬枝の罪を許したい自分自身だったのだと。

 今はもういない夫の想いをなぞり、エミコの瞳が潤んだ。

「その時は、すぐに決断できなかったんですけど…。夫が亡くなって、空の上にいるあの人に、これ以上、心配をかけちゃいけないって思ったんです」

 そうして、エミコは過去を清算するために、彩北市へと帰って来た。

 だが、送られた金を返したいというエミコの申し出を、冬枝は突っぱねた。エミコのために送った金を、今更自分のものにする気にはなれなかったのだ。

「なんつーか、気持ちの整理がつかなかったんだ。エミコにそんなこと言われるなんて、思ってなかったから」

 だから、さやかにエミコが金の話をしに来たんじゃないかと言われた時、思わず手を上げてしまった。エミコへのすまなさと戸惑いが、とっさに出てしまったのだ。

「…じゃあ、お金を返す、っていう話は断ったんですか」

「の、つもりだったんだがな。結局、あいつに押し切られちまった」

 天国にいる夫が呆れるぐらい幸せになるのだと、エミコは笑っていた。冬枝との関係を終わらせ、子育てに専念したら、いつかは新しい伴侶を見つけるとも言っていた。

「エミコさんが『再婚』って言ってたのって、そういう意味だったんですか」

「そういう意味だったんだよ」

 お前、紛らわしいところだけ聞きやがって、と冬枝に指差され、さやかは赤面した。

 ――色眼鏡かけちゃってたな。

 18年前の事件や、夫の死という悲劇に襲われても、エミコは希望を捨てなかった。とても立派な女性なのに、さやかは色々と誤解してしまっていたようだ。

 ――でも、治らないだろうな、きっと。

 これからも、嫉妬と邪推はさやかについて回るだろう。それが、冬枝を好きだという気持ちの証なら、大事に胸に抱いていよう。

 冬枝は、エミコに言われたことを語った。

「父がああなったのは、自業自得。今なら、素直にそう思えます」

 冬さんの償いは、ずっと前に終わっています、とエミコは言った。

「ありがとう。それから、ごめんなさい。これからは、自分の力で生きていくから、心配しないでください」

 エミコは、真っ直ぐに冬枝を見つめた。

「あのお金は、冬さんが自分の人生のために使ってください」

 自分の人生――。

 エミコにそう言われて、冬枝は、自分がかりそめの人生を生きてきたことにようやく気が付いた。

 両親を早くに亡くし、義理の親とは反りが合わず、荒れるままにヤクザになった。源が笑太郎に撃たれたのを見て、衝動的に刀を取った。出所してからも、源と榊原の厚意に、もたれかかるようにして生活していた。

 今まで、自分に起こるほとんどのことを成り行き任せにしてきた。自分の意志で何かを決めたことなんて、数えるほどしかない。

 そんな冬枝に、エミコが「自分の人生」という選択肢を示したのだ。

「…受け取れねえよ」

 それでも、まだ冬枝は踏ん切りがつかなかった。

 失うものがほとんどなかった自分はともかく、エミコは恋人に裏切られ、父を斬られた。そして、平和な大学生活を中断せざるを得なくなったのだ。エミコの人生を狂わせておいて、おめおめと幸せになるわけにはいかない。

 すると、エミコは「あら、そうですか?」とあっさり引き下がった。

「だったら、あのお金、そこのドブにでも捨てておきましょうか」

「バカ、やめろって!勿体ねえ」

 冬枝が思わず止めると、エミコがくすっと笑った。

「冬さん。ちゃんと幸せにならなきゃ、ダメですよ」

 冬さんが不幸でいることで、悲しむ人がいるんですよ。忘れないでくださいね――エミコは、そう言って微笑んだ。

「…エミコさんなら、きっと、誰よりも幸せになれますね」

 冬枝の話を聞き終えて、さやかは静かに呟いた。

「冬枝さん。別荘でした話、覚えてますか?」

「ん?ああ、流れ星がどうだって話か」

 組長の別荘で、冬枝とさやかは屋根に上って夜空を見上げた。

 冬枝としては、邪魔も入らない屋根の上でしっぽりしけ込むつもりだったのだが、虫の多さにビビったさやかによって、すぐに降りる羽目になった。

 その時、地上から夜空を見上げたさやかが「あ、流れ星」と言って空を指さした。

「冬枝さん、流れ星に願い事を3回唱えると、どうして願いが叶うのか、知ってますか?」

「そりゃ、まじないみたいなもんだろ」

「一瞬で3回言えるぐらい、強く願ってるからです。それほど強い願いなら、叶えるために自然と行動しますから。願いを叶えるのは、星じゃなくて人の想いなんですよ」

 エミコの想いも必ず星に届く、と言って、さやかは遠い星空を見上げた。

「…ああ。そうだな」

 エミコが言っていた通り、これまでにあった良いことも悪いことも、なかったことにはならない。だが、その先に、さやかとの出会いがあったのだ。

 見渡す限り広がる夜空に、過去も現在も未来も、星で繋がっているように見えた。

「………」

 冬枝は、さやかの肩に手をかけた。

「はい?」

「エミコから、幸せになっていい、ってお墨付きをもらったからな」

 だから変態とか言うなよ、と言って、冬枝はさやかに口付けた。

 冬枝の星は、さやかの瞳の中にある。キラキラ輝く星々は、瞼に閉ざされて隠れた。



 マンションの前まで着くと、さやかがおもむろに「冬枝さん」と言った。

「ん?」

「好きな人と同じ家に帰れるって、いいですね」

 ちょっとどもり気味だったが、さやかはえへへ、と嬉しそうに笑った。

「なーに言ってんだ、お前は」

 繋いだ手と手がこそばゆい。南の国の珍しい鳥だった頃なら突っぱねていたむず痒さが、年寄り臭い浴衣が似合うようになった今は、悪くないと思える。

 自宅のドアの前に到着した冬枝は、そこにボストンバッグが2個鎮座しているのを見て顔をしかめた。

「あいつ、マジでここに置いて行きやがったのかよ…」

「見たところ、盗まれたりはしていないみたいですよ」

 さやかは、ボストンバッグの中身をその場であらためた。現金の入った封筒が、いくつも詰まっている。

「これ、いくらぐらいあるんですか?」

「18年分だから……ざっと、1千万ぐらいだな」

 さやかに持たせるには重いため、冬枝はよっこらしょとボストンバッグ2つを両手に持って家に入った。

「どうします?冬枝さん、お金持ちですよ」

「お前な」

 真面目な話をしたばかりだというのに、と冬枝は呆れたが、さやかの目がちょっと不安げなのを見て、真意を察した。

「別に、金持ちになったからって、お前をクビにしたりしねぇよ。お前みたいな代打ち、そうそういねえんだからな」

「…ありがとうございます」

 恥ずかしそうな笑みは、金では買えない。返された1千万よりも、目の前の幸福のほうが空恐ろしいぐらいだった。

 冬枝は、どっかとソファに足を組んだ。

「そうだな。この金で、どっかに家でも買って、可愛い嫁さんとのんびり暮らすかな」

「…そうですか」

「何、赤くなってんだよ」

 冬枝がにやにやすると、さやかは「…何でもないです」と言って、つんとそっぽを向いた。



 夜景を映す大きな窓に、竿燈の明かりが小さく見える。

 2階建ての料亭に、スーツ姿の男たちが肩を並べていた。

「そろそろ、祭りも終わる頃か。今夜は、淑恵たちも見に来ているのかな」

 上席にいる男は、地元出身の大物国会議員――灘議員だ。

 灘議員の傍らに座す榊原が、恭しく頷いた。

「はい。娘夫婦と一緒に、通りで観覧するそうです」

「そうか。忍君のお陰で、淑恵も何不自由なく過ごしているようで、何よりだよ」

 今夜は、竿燈を見る灘議員の接待である。灘議員の義息である榊原、そして組長と霜田ら数名の組員が、傍らに控えている。

 先月の衆議院議員総選挙において、白虎組も灘議員の当選のために暗躍した。関係各所への圧力は勿論、裏金の調達や選挙活動の支援、警護など、榊原が率先して行っている。

 それらへのねぎらいや祝いの意も込めて、今夜の会合となったのだった。

 夜が深まり、長い宴もお開きになった。灘議員の車を先導するため、榊原は先に外で車の準備をしに向かった。

「朽木の奴、出ると言ったきり帰って来ませんね。一体どこで油を売っているのやら」

 口では文句を言いつつ、霜田は念のため、店内を隈なく回って朽木を探した。

 今夜は、白虎組の貸し切りとなっている。最も眺めの良い部屋を灘議員ら幹部たちで使い、他の部屋でも、灘議員の関係者たちがめいめいに酒を楽しんでいた。

 帰り支度に急ぐざわめきの中で、障子越しに酔った男たちの声が聞こえてきた。

「灘先生、いつまであんな田舎ヤクザと付き合うつもりだろうな」

「しょうがないだろ、地元なんだから。あいつら、この辺じゃ肩で風切って歩いてるって話だぜ」

「ヒュウ、笑えるな。揃いも揃って家も学歴もない、ゴロツキだってのによ」

 灘議員が連れてきた、子飼いの若手議員たちの声だ。霜田は、黙って唇を噛み締めた。

 ――所詮、エリートぶったガキ共の戯言に過ぎません。

 この手のことは、初めてではない。代議士たちは皆、表向きは揉み手をして、猫撫で声でこちらに縋り付いてくる癖に、裏ではヤクザだなんだと悪口三昧だ。二枚舌が職業の連中だと思えば、いちいち腹を立てるのもバカバカしい。

 だが、これらの陰口を耳にする度に、霜田は腸が煮え繰り返る。初めてそれを知ったのは、確か選挙前、今年の春のことだっただろうか。

 霜田の記憶に呼応するように、張本人が若手議員たちの部屋に訪れた。

「お前たち。まだぐずぐずしていたのか、もう帰るぞ」

「すみません、灘先生」

「灘先生は、若頭の車でお帰りになるので?」

 若手議員に聞かれた灘議員は、鼻で笑い飛ばした。

「まさか。あんなヤクザと同じ車になんて乗っていたら、週刊誌に撮られていい物笑いの種だ。どうせ撮られるなら、女との密会のほうがいい」

 どっ、と場に笑いが起こる。

「灘先生、そんなことおっしゃっていいんですか?娘さんの旦那さんなんでしょう?」

「勿論、いいところはたくさんある。真面目で忠実で、何でも私の言うことを聞いてくれる。呼べば飛んで来る犬みたいにね」

 最後の言葉で、また若手議員たちに爆笑が巻き起こった。

「………っ」

 これだ。今年の春、灘議員の手伝いのために向かった事務所で、霜田はたまたま耳にしてしまった。

 嘲笑。聞くに堪えない罵詈雑言。それも、霜田が最も敬愛する榊原に対して、義理の父である灘議員その人が、である。

 元々、灘議員が淑恵と榊原の交際に反対していたことは、霜田も知っている。それを組長が白虎組と灘議員の縁組みにすり替え、白虎組と組む利を説いたことで、何とか結婚に漕ぎつけたのだ。

 だが、灘議員は今でも、榊原を始めとする白虎組を下賤の者とみなし、蔑んでいる。榊原が灘議員のために、数々の裏工作を行なってきたにも関わらずだ。

「パパ……」

 低く抑えられた声にハッとして振り返れば、そこには響子がいた。

 榊原の傍にいたい、と響子が聞かないため、霜田は仕方なく、別の部屋の接待役として響子を付けた。ホステスとして灘議員本人を接待したこともある響子もまた、灘議員が榊原を貶めるところを何度も耳にしている。

 青ざめた顔で灘議員らの影を見つめる響子の肩を、霜田はそっと叩いた。

「…帰りますよ。お前も疲れたでしょう」

 響子は今夜、途中で何度か休憩と称して抜けていたが、朽木と違ってちゃんと戻ってきた。榊原を想う気持ちは強いが、響子には自制心がある、と霜田は思っていた。

 ――必ず、あの汚らわしい政治屋から若頭を解放する。

 そのためには、どんな手段を使ってでも、榊原と淑恵を別れさせる。霜田と響子は、一つの暗い想いを抱えながら、狭い廊下を渡っていった。



 翌日の昼間、さやかの部屋で3人の男がひしめいていた。

「…よし。つけるぞ」

 冬枝が恐る恐るツマミを回すと、パッとお昼のワイドショーが画面に映った。

 高根と土井が「やった!ついたー!!」と言って、手を取り合って喜んだ。

 冬枝、そして高根と土井の3人がかりで説明書と睨めっこした結果、ようやくテレビの配線が終わったところである。

「ありがとうございます、冬枝さん、高根さん、土井さん。お疲れさまでした」

「ふーっ。ったく、なんでお前ら、どっちも電気に弱ぇんだよ」

「兄貴もじゃないっスか。最初に兄貴が言ってた繋ぎ方、全部間違ってたし」

「こら、土井。いいじゃないか、3人で力を合わせたら、何とかうまくいったんだから」

「3人揃えば文殊の知恵、ですね」

 達成感に包まれて、男たちは当事者であるさやかよりも嬉しそうだ。3人に麦茶の入ったグラスを渡しながら、さやかは苦笑した。

 グビグビと麦茶を飲みながら、冬枝がさやかの肘をつついた。

「これで『晃司さん』見放題だな、さやか」

「うるさいなぁ、おじさん」

「んだと?」

 冬枝とさやかは、顔を見合わせて笑った。

「これで、この間買った家電は全部揃いましたね」

「ああ。前の冷蔵庫、結構いい値段で下取りされてラッキーだぜ」

 エミコから多額の金を返されたというのに、冬枝の貧乏性は治らない。だが、さやかはそんな冬枝が好きだった。

 ――ひとつずつ、僕らは未来に向かってるんだ。

 こうして過ごしている今はいつか思い出に変わり、優しい色に褪せていくのだろう。そして、また新しい未来に塗り替えられていくのだ。過去よりも、鮮やかな色で。

 昼食の支度をしに行った高根が、台所で悲鳴を上げた。

「兄貴!この炊飯器、説明書が中国語でしか書かれてません!」

「何だと!?」と目を剥く冬枝を見て、さやかは嘆息した。

 ――だから、ちゃんとしたメーカーのを買ってって言ったのに。

「さやか、お前、中国語読めるか!?」

「…読めますけど、日常会話程度しか分かりませんよ」

 床に説明書を広げてうんうん唸る男たちの輪に、さやかも加わりに向かった。

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