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29話 ほほえみの訪問者

第29話 ほほえみの訪問者


 彩北にある、市内随一の大病院。

 院内でもトップクラスの広さを誇る特別個室に、3人の男が顔を揃えていた。

「結局、出席なさらなかったのですね」

 口を開いたのは、ベッドの上から半身を起こした、眼鏡をかけた痩身の男だった。

 男はまだ40代と思しいが、肩で結われた髪は、老人のそれのように銀色に染まっている。

 ベッドの傍には、眼光の鋭い50代の男が貫禄たっぷりに足を組んでいる。その佇まいには、一分の隙もない。

「何だ」

「白虎組と玉榧の親分衆との会合です。あれほど、出席してくださいと申し上げたのに」

 眼鏡の男は、「可愛い弟のお願いくらい、聞いてくれたっていいじゃありませんか」と、小首を傾げた。

 50代の男は、厳しい表情のまま「聞いた」と素っ気なく答えた。

「聞くだけではなく、行って頂かないと困りますよ。玉榧の皆さんに、秋津一家は出不精だと思われるじゃないですか」

「構わない。馴れ合いのためにわざわざ出張る必要はない」

「貴方が馴れ合いと呼ぶものこそ、存外、この世界では大事だったりするものですよ。任侠という字を書いてご覧なさい。どちらも『人』という字が入っているでしょう?」

 眼鏡の男がくるくると空中に指で字を書いたが、50代の男は一瞥もしなかった。

「この世には、人の心を持たない輩が大勢いる。朱雀組、青龍会、白虎組」

 朱雀組は秋津一家にとって親にも等しい後ろ盾であるはずだが、50代の男からは朱雀組に対する嫌悪感が色濃く滲んでいた。

 腹の底から響くようなその声に、ベッドの脇にいた若い男が、一瞬、ぴくりと身をすくませる。

 眼鏡の男は、兄から発せられる憤怒の気配を柔らかくいなした。

「そんなに強情を張らなくたっていいじゃないですか。貴方がちょっと顔を見せるだけで、我々と白虎組との間の緊張は和らぎます。地元同士で食い合っていたって、青龍会を喜ばせるだけですよ」

「シマが近いだけで、同志とは思っていない。白虎組は信用できない」

 50代の男は「現に、白虎組は夏目さやかを人質にしている」と続けた。

「夏目さやかさん…ですか」

 眼鏡の男は「確かに、感心はしませんね」と穏和そうな瞳をわずかに曇らせた。

「白虎組は夏目さやかを捕え、組員の家に軟禁している。その組員は、『人斬り部隊』で第一線を闘っていた男だ」

「冬枝誠二君、でしたね」

 病院にいながら、眼鏡の男は外の事情に精通していた。側近である傍らの若い男が、手足となって情報収集をしているためだ。

「『人斬り部隊』の生き残りを使ってまで、白虎組は夏目さやかを監視している。都合が悪くなったら即、始末するつもりだろう」

 たかが女一人にそこまでする白虎組の厭らしさが、気に入らない。50代の男は、そう言いたいらしかった。

 眼鏡の男は、ふーむと腕を組んだ。

「そうですねえ。確かにその通りなんですが、別の可能性も考えられますよ」

「何だ」

「写真を見たところ、冬枝君は結構男前のようですね。夏目さやかさんも、たいそう可憐な美少女です。これはひょっとすると、冬枝君と夏目さやかさんは、年の離れたラブロマンスを繰り広げているのではありませんか?」

 眼鏡の男は、ニコニコと微笑んだ。

 実際、大方の予想に反して、夏目さやかは自らの意志で白虎組に――冬枝誠二の元に身を寄せているらしい、と男は突き止めていた。

 50代の男は、表情を一切変えない。弟の妄言に、全く興味がないようだった。

「とにかく、これは俺たちの問題だ。白虎組やその他に了解を得る必要はない」

 そう言うと、50代の男はさっさと立ち上がった。

 ――やはり、総長のお考えは変わりませんか。

 眼鏡の男は、内心で嘆息した。実の兄とはいえ、この頑固一徹っぷりには手を焼かされる。

 ――やれやれ。僕が早々に復帰しないと、総長が白虎組とケンカを始めかねませんね。

 50代の男はそのまま帰るのかと思いきや、病室の扉の前で立ち止まった。

「ミノル」

「はい」

「早く体を治せ。カエデとモミジも、お前のことを心配している」

 眼鏡の男――ミノルは、相好を崩した。カエデとモミジは、この厳格な兄には全く似ていない、素直で愛らしい孫娘たちだ。

「一日も早く復帰し、総長の右腕として働く所存です」

 ミノルがそう言うと、50代の男は黙って病室を後にした。

 ――夏目さやかさんとも、いずれお会いしたいものですね。

 カエデたちに限らず、可愛い女の子はミノルの活力源だ。青空が広がる窓の向こうには、きっと夏目さやかがいる。

 秋津一家総長・秋津タケル、そして、その弟であり朱雀組と秋津一家の最高顧問・秋津ミノル。

 組のトップ同士の面会でありながら、余計な仰々しさや飾りのない、静かな会話がこの兄弟の常であった。



 8月に入ったその日、冬枝とさやかは家電量販店を訪れていた。

「冬枝さん。いい加減、『こまち』の新しいテレビを買いに行きましょう」

 緑色の竿燈中継では、『こまち』の客たちをがっかりさせてしまう。さやかはそう言って、渋る冬枝を引っ張り出したのだった。

「いいじゃねぇか、テレビぐらい。映ることは映るんだし」

「ダメです。だいたい冬枝さん、そんなこと言って家の家電も買い替えないじゃないですか」

「風呂場の電球なら、こないだ新しくしただろ」

「電球だけじゃありません」

「なんか買い替えるようなものあったか?」

 蛍光灯が白く眩しい店内で、冬枝は値札に並んだ0の行列に顔をしかめた。

 さやかは「あります」と言ってビシッと指を突きつけた。

「まず、トースター。今のトースターはパンに焦げ目をつけることすらできない、ただの食パン温め機じゃないですか。しかもぬるい」

「ベーコンエッグ乗せりゃ、それなりにあったかいだろ」

「あと、コーヒーメーカー。5回に1回しか電源が入らなくて、冬枝さん、毎朝イライラしながら電源ボタンを連打してるでしょう。もう寿命です」

「あれ、気に入ってんだけどなぁ」

「こないだ舌打ちしながら『粗大ゴミに捨てるぞ、この野郎』って言ってたじゃないですか」

「そうだっけ?」

 さやかは溜息を吐くと、ピカピカの炊飯器が並ぶコーナーを手で示した。

「極めつけは、炊飯器です。時間になってもちっともご飯が炊けてなくて、夕ご飯のたびに高根さんが苦労しています。高根さんのためにも、新しいのを買いましょう」

「いいじゃねえか。あいつ、最近じゃコツを掴んで、あらかじめ二度炊くようになったぞ」

「冬枝さんだってこの間、夜食にチャーハン食べようとして、ほとんど生米の状態のご飯を前にうなだれてたじゃないですか」

「あれは、夜中にチャーハンなんか食うな、っていう仏様のありがたいお告げだ」

「何がお告げですか。僕だってチャーハン食べたかったのに」

 冬枝のつまみは半分、さやかの腹に収められる運命にある。チャーハンは結局、夜食を諦めきれなかった冬枝によって雑炊に変更された。勿論、さやかも食べた。

「『こまち』のテレビに、家のトースターに、炊飯器……いくらかかるんだ…」

 店内はキンキンに冷房が効いているのに、冬枝は眩暈がしそうだった。

 そこで、さやかがすかさず「安心してください、冬枝さん」と胸を叩いた。

「あらかじめ、この辺りのお店でそれぞれ最安値を調べておきました。値引き交渉の準備はばっちりです」

「お前、いつの間にそんなことしてたんだ」

 冬枝はてっきり、さやかの外出先といえば雀荘一択だと思っていた。まさか、この暑い中、電気店巡りをしていたとは。

 さやかは、不満げに口を尖らせた。

「冬枝さんが、いつまで経っても『こまち』のテレビを買い替えようとしないからじゃないですか」

「そうだな、『こまち』のテレビを誰よりも見てるのはお前だもんな」

 夏といえば、受験生にとっては模試を控えた大事な時期である。ところがこの不良浪人生は、昼間から代打ちの仕事がある夜まで、ずっと雀荘に入り浸っている。家のテレビより、『こまち』でテレビを見ている時間のほうが長いかもしれない。

 さやかとテレビ、で冬枝は思い出した。

「そうだ。俺、お前にテレビ買ってやろうと思ってたんだ」

「えっ?僕にですか」

「ああ。お前の部屋、テレビねえだろ」

 自宅は、リビングにしかテレビがない。さやかだって若い女だし、自分の部屋にテレビがあったほうがいいだろう、とつねづね冬枝は思っていた。

「夜、明かりもつけずにこっそりビデオを見るなんて、まるでスケベ親父がアダルトビデオでも見てるみたいだからな」

 目に悪いぞ、と冬枝がニヤニヤすると、さやかがむっとした。

「冬枝さんが隣にいると、ごちゃごちゃうるさくって気が散るんです」

「なんだよ。キャー、晃司さんカッコイイー、って一緒にノってやってるんじゃねえか」

「それが余計だって言ってるんです!」

 実際、冬枝は一緒にノっているのではなく、冷やかしのヤジを飛ばしているに過ぎない。さやかがAVを見るがごとく、夜中に一人で『晃司さん』にうっとりしているのも、本当は気に入らない。

 ――だが、たまにはご褒美をやらねえとな。

 さやかが冬枝の代打ちになって、4ヶ月が経とうとしている。東京から来て、ひたむきに頑張っているさやかをねぎらってやりたい。そのためなら、『晃司さん』専用テレビを買ってやってもいい、と冬枝は考えたのだ。

「僕のテレビなんか…いいですよ、別に。冬枝さん、お金ないんだし、無理しないでください」

「無理してねえよ。『こまち』のテレビと、家のトースターとコーヒーメーカーと炊飯器を買うのに比べりゃ、安い買い物だ」

「そっちのほうが大事ですけど」

 遠慮というより、照れ隠しなのだろう。ぷらぷらと靴先を遊ばせるさやかは、満更でもなさそうだった。

 さやかはふと、だだっ広い店内を見回した。

「お店、すいてますね。夏休み中なのに」

「そりゃそうだろ。もうすぐ、竿燈だからな」

 毎年8月、4日間かけて行われる竿燈は、彩北市の一大行事だ。夜、光を灯した提灯が巨大な稲穂のように夜空を彩るさまは、多くの観客を魅了する。

 ――おかげで、賭場も開かれねえ。

 夏休みとあって、竿燈目当てに多くのよそ者が彩北市に押し寄せる。『アクア・ドラゴン』の脅威も健在で、警察が神経を尖らせている中、賭場の開帳はトラブルの元になりかねない。白虎組では、今年の竿燈期間中は賭場を控えることになっていた。

 ――ま、さやかに夏休みをやれるのはいいか。

 麻雀となれば、さやかはヤクザ相手だろうと徹夜だろうと全身全霊を傾ける。本人は好きでやっているのだろうが、あの調子では身体を壊しかねない、と冬枝は心配でもあった。

「……」

 竿燈、と聞いて、さやかがきゅっと唇を引き締めた。

 さやかが足を止めたので、冬枝が「ん?」と振り返る。

 さやかは、上ずった声で言った。

「冬枝さんって、お付き合いしてる人はいるんですか」

 店内に流れる間の抜けたBGMとは不釣り合いな、それは初々しさの詰まったセリフだった。

 ――これじゃ、まんま告白じゃねぇか。

 冬枝があと10年若いか、さやかがあと10歳上だったら、その言葉尻を手に取って、持ち上げて、口説き文句のフルコースにして、いい雰囲気になだれ込んでいたところだ。

 悲しいかな、現実世界の冬枝は43歳で、対するさやかは18歳。なんなら昨夜、徹夜の麻雀で、トイレを4時間我慢し、目をバッキバキに血走らせながら「ロン」と笑ったさやかのキョンシーのような青ざめた顔が、冬枝の中から色気の虫を退治する。

 だが、目の前のさやかはとても真剣だ。うるうるとした瞳も、上気した頬も、冬枝だけに向けられている。

 ――付き合ってる女、つったって。

「今、目の前にいる女」

「……真面目に答えてください」

 源からも同じようなことを言われた、とさやかは額に手を当てた。冬枝の言動は、多分に源の影響を受けているようだ。

 冬枝はタバコをくわえ直した。

「いねえよ、女なんか。いたら、とっくにお前を追い出してるっつの」

「そう…ですか」

 さやかが釈然としないのも、無理はない。スナック『やちよ』の直美とか、バー『リラ』の順子とか、冬枝にはあちこちの飲み屋に馴染みの女がいる。同じ屋根の下で暮らすさやかに、脂粉の匂いを誤魔化すのは難しい。

「なんで、今更そんなこと聞くんだよ。オッサンの独り身をからかってんのか」

「…いえ。そうじゃないんです」

 さやかはもじもじしてから、意を決したように両拳を握り締めた。

「ふ、冬枝さん!」

「おう」

「竿燈、一緒に見に行きませんかっ…?」

 さやかの顔が、今にも爆発しそうなぐらい赤い。力み過ぎて、両目をぎゅっと閉じてしまっている。

 ――やっぱ、告白じゃねぇか。

 冬枝には(建前上は)付き合っている女はいない、目の前の女以外。つまり、さやかの誘いに「イエス」以外の返事はなかった。



「なんだ、そんなに竿燈楽しみにしてたのかよ。俺なんか、家のすぐそばでやるもんだからすっかり見飽きちまったぜ。そうだ、せっかくだから浴衣でも買ってやるよ。俺が着せてやろうか?ハハハ」

 やけに饒舌になった冬枝の返事は、要するにOKだった。

「……!」

 デートの誘いを受けてもらえたこと、しかも予想以上の好反応に、さやかは天にも昇る心地だった。

 ――冬枝さんと一緒に、竿燈を見に行けるなんて…!

 さやかの心象風景では、数多もの花火が打ち上がり、夜空に燦然と国士無双が輝いた。

 お陰で、その後はすっかり上の空だった。値引き交渉はほとんど冬枝が店員を脅すようにしていた気がするし、冬枝が安さを優先して聞いたこともないメーカーの炊飯器を買おうとするのも、さやかは止められなかった。

 家電の開封は後日、弟分たちとやることにして、冬枝は荷物を置いて外に出ていった。

 一人になると、さやかは早速、部屋にこもって机に向かった。

 竿燈デート対策本部、設立である。

 机上に広げたのは『JJ』ほかハイティーン向けの雑誌、浴衣のカタログ、地元の観光雑誌など。冬枝との竿燈デートを完璧に仕上げるため、事前に集めておいたものだ。

 ――こっそり隠してる雑誌、結構な量になってきたな。

 さやかは、あくまで代打ちとして冬枝の元にいる。冬枝からも『麻雀バカ』と呼ばれて久しい。そのせいか、女子っぽい一面を冬枝に知られるのが恥ずかしくて、これらの雑誌は普段は麻雀雑誌の影に隠していた。

 ――東京にいる頃だって、こういう雑誌はそんなに読まなかったのに。

 女の子向けのファッション誌は、友達との会話についていくために時々買う程度だった。それが今は、受験生が赤本をめくるかのように必死でかじりついている。

 ――海では冬枝さんと盛り上がるどころじゃなかったし、今度こそは成功させるぞ。

 白のハイレグ水着で冬枝を惹き付けるはずが、さやかが遭難したり、とんでもない下ネタ発言をしてしまったりで、海デートは完全に空回りだった。別荘では色々と思い出を作れたものの、さやかは冬枝と過ごす夏をまだ終わらせるつもりはない。

 ――キラキラ光る竿燈と、清楚な浴衣。これが、冬枝さんをオトすための完璧な解だ!

 綿密に練り上げたデート計画がぎっしり詰まったノートを、さやかは頭上に掲げた。

 広げたページを見上げるうちに、さやかの顔がみるみる朱に染まる。

 ――妄想だけど……!

 熱のままに書き進めていたら、計画というより願望の列挙になってしまった。『冬枝さんと○○』がずらりと並んだページは、我ながら直視できない。

 ――こんなの、冬枝さんに見られたら死んじゃう…!

 さやかは、ノートで顔を覆った。恥ずかしくてたまらないのに、期待と妄想が膨らんで止まらない。

 冬枝からは、どう思われただろう。もしかしたらデートの誘いだなんて思われなくて、高根と土井も一緒についてくるかもしれない。

 ――そうなったら、一生立ち直れない。

 ちゃんと「2人っきりで」って言えばよかった、とさやかは自分の臆病さを悔やんだ。

 ピンポーン……。

 さやかが部屋で頭を抱えていると、玄関のチャイムが鳴った。

「はい」

 こんな日中に来客なんて、珍しい。それでなくても、プライベートを重視する冬枝は、めったに他人を自宅に入れないのに。

「こんにちは」

 覗き窓に映っていたのは、柔らかい笑みを浮かべた30代くらいの女性だった。

 ――訪問販売かな。

 長い髪をシニヨンにまとめた女性は、小ざっぱりとしている。美人だが、冬枝の元恋人の美輪子のように夜の商売といった雰囲気ではない。

 女性は「嘉納です」と名乗った。どうやら、冬枝の知り合いらしい。

 ――マンションのご近所さんだっけ。

 さやかは、とりあえずドアを開けることにした。

「どうも」

「こんにちは。冬枝さんのお宅ですよね」

 冬枝の部屋から若い女が出てきたというのに、シニヨンの女性は笑みを崩さない。ということは、冬枝の元恋人、とかではあるまい。

「はい。冬枝さんは留守ですけど、どういったご用件でしょう」

「あら。じゃあ、冬さんが帰ってくるまで、ここで待たせてもらおうかしら」

「…はあ」

 目の前の女性からは、邪気は感じられない。さやかは仕方なく、彼女をリビングに招いた。

 さやかが麦茶を入れたグラスを出すと、女性はのんびりと「ありがとう」と言った。

「東京よりは涼しいかと思ったけど、こっちも暑いですね」

「東京からいらしたんですか」

「ええ。生まれはこっちなんですけど、就職のために上京して、向こうで結婚したんです」

「そうなんですか」

 結婚している、という事実にさやかは一瞬ホッとしたが、女性の手には指輪がはめられていない。

 さやかの視線を察したのか、女性はしんみりと笑った。

「去年、夫が亡くなったんです。ようやく諸々の片付けが終わったので、こちらに里帰りしたところです」

「そうでしたか…」

 にわかに、きな臭い話になってきた。目の前にいる美女は、現在フリーというわけだ。

 ――まさか、独り身になったからって、冬枝さんとよりを戻そうってつもりじゃ…。

 真剣に考えかけて、さやかは首を横に振った。こんな邪推は、夫を亡くしたばかりの人に対して失礼だ。

「お嬢さんも、東京の方ですか?」

 にこやかに問われ、さやかは正直に「はい」と答えた。訛りのなさから、こちらではすぐに東京人だとバレる。

「夏目さやかといいます。受験勉強のために、冬枝さんのお宅に居候させてもらっています」

「あら、ご丁寧に。さやかさんは、もしかして冬さんのガールフレンドですか?」

「えっ?!」

 赤面しそうになったさやかに、女性の「はははっ」という軽やかな笑みが重なった。

「冗談です。ヤクザと付き合うような不良さんには見えないので、安心してください」

「は、はあ…」

 ――それはそれで、子供扱いされてるみたいなんだけど。

 女性が悪人ではないというのは分かるのだが、冬枝の元恋人かもしれない、という疑いがちらつくせいで、どうも落ち着かない。

 かといって、正面切って「冬枝さんとはどういうご関係ですか」なんて聞くわけにもいかない。ただの居候に過ぎないさやかに、そこまで突っ込んだことを尋ねる権利はない。

 女性は、広いリビングを見回した。

「変わらないですね、このお部屋。源さんが住んでた頃とおんなじ」

「えっ。源さんともお知り合いなんですか」

「ええ…。源さんには、本当によくお世話になりました」

 源のことを語る時だけ、女性の表情に翳りが差した。

 ――もしかして、冬枝さんじゃなくて、源さんの元恋人なのかな。

 などというさやかの想像は、続く女性の言葉によって見事に打ち砕かれた。

「申し遅れました。私、嘉納笑美子といいます。笑みが美しい子と書いて、エミコです」

 冬さんと昔お付き合いしてました、と言われ、さやかは凍り付いた。

 ――『エミコ』……!

 港町にある漁師小屋で、組長が語った昔話がさやかの脳裏に蘇る。

 先代組長から裏金庫の暗号を決めるよう命じられ、若き冬枝はとっさに、当時の恋人の名前をつけたという。それが『エミコ』だ。

「ハハハ、冬枝たちの熱愛っぷりは皆が知ってたからさ。冬枝は、半ば言わされたようなもん。若いのからかうのって楽しいよね」

 その冬枝の『熱愛』の相手が、今、さやかの目の前にいる。

 ――まさか、本人が冬枝さんに会いに来るなんて……。

 さっきまで部屋で妄想していた竿燈デート計画が、がらがらと崩れていく。

 大昔ですけどね、というエミコの補足が、くらくらするさやかの脳内に反響した。



 駅前にあるデパートビルで、冬枝は広瀬と共に浴衣コーナーを物色していた。

「冬枝ちゃんったら、久しぶりに来たと思ったら浴衣を一緒に探してくれーなんて、カワイイこと言うんだから。面白そうだから、仕事中だってのに抜けてきちゃったわ」

「すみませんね、お忙しいのに」

 広瀬はこのビルの3階に入っているブティック『H/S』を経営している。夏休み真っ盛りの今、若者向けのカジュアルファッションを扱う広瀬の店は書き入れ時のはずだ。

 広瀬は「いいのよ」と言って、白虎組の代打ちであることなど感じさせない屈託のない笑みを浮かべた。

「さやかちゃんに可愛い浴衣を選んであげるお手伝いをするのも、デザイナーとしての立派な使命。僕にお声がけいただいて、光栄だわ」

「はは…。俺が選ぶと、あいつに似合わないかもしれないんで」

「と言うと?」

 冬枝の脳裏には、若い頃に源から言われたことが引っかかっていた。

「南の国の珍しい鳥」

 冬枝のファッションに対して、兄貴分が突き付けた評価がそれだった。当時の冬枝は真っ赤なシャツか真っ青なシャツ、といった具合でとにかく目立つ色を好んでいた。

 そのため、弟分のド派手なファッションに辟易した源から、屈辱的な形容をされるに至ったわけである。

 ――あの頃は、原色が流行ってたんだよ!

 当時の冬枝は聞く耳を持たなかったが、今、振り返ると若気の至りとしか思えないのも事実だ。昔の冬枝はとにかく厳しい源の下で、ケンカに金の取り立てに、女に酒にギャンブルに、と不良三昧だったため、性格も服の好みも尖っていたのだろう。

 ――あんなに竿燈を楽しみにしているさやかに、変な浴衣を着せたら可哀想だからな。

 というか、さやかが楽しみにしているのは、竿燈というより冬枝とのデートだろう。冬枝がデートを承諾した途端、はにかむように笑っていたさやかを思い出すと、冬枝は顔が溶けて流れそうになる。

「冬枝ちゃん、これなんかどう?」

 広瀬の声で、冬枝は我に返った。

 広瀬が手に取ったのは、白に朝顔の模様が入った浴衣だった。青や紫の朝顔が爽やかで、さやかに似合いそうだ。

「いいですね。それにしましょう」

「ちょっと、即決?浴衣はまだあるんだから、もうちょっと候補を選びましょ」

「いや、あんまり色んなの見てると決められなくなりそうなんで、それでいいです」

 多分、どの浴衣を見ても、さやかに着せてみたくなってしまうだろう。自分でも小っ恥ずかしいが、さやかだったらどんな浴衣だって似合う、なんて思っている。

 ――これも、親バカってやつかね。

 長い人生、数多の女と夏祭りを楽しんできたが、女に浴衣を選んでやるなんて初めてだ。親心と男心が半々の心境は、どうにもむず痒い。

「じゃ、下駄はこれで、髪留めはこれね。手提げはこれなんかぴったりよ」

 プロだけあって、広瀬は良さそうなものを手早く選んでいく。広瀬に頼んで良かった、と冬枝は心から思った。

「どうせだから、冬枝ちゃんも自分の浴衣買ったら?」

「えっ。俺ですか」

 浴衣なんて、若い頃でも着たことがない。何せ真っ赤なシャツと真っ青なシャツが一張羅だったので、男物の地味な浴衣なんて、年寄りの着るものだと思って見向きもしなかった。

 広瀬が、むふふとほくそ笑んだ。

「冬枝ちゃんが浴衣着たら、さやかちゃんきっと大喜びするわよ。名うての麻雀小町も、渋い大人の魅力でイチコロね」

「大げさですよ、広瀬さんは」

 カッコつけて苦笑なんかしてみせたのは、「それもアリだな」と心が動いた証拠である。冬枝をデートに誘うだけで真っ赤になっていたさやかを、もっと追い詰めてやろうか、と冬枝の中の悪いおじさんがむくむくと頭をもたげ出す。

 ――しかし、さやかとお揃いで浴衣なんか着てたら、傍からは父娘にしか見えねえだろうな。

 まあ、祭りの間は警官の目も光っているため、『ヤクザがいたいけな乙女を連れ回している』と思われないほうがいいかもしれない。冬枝は、さやかの時以上に真剣に、自分の新しい『一張羅』を広瀬と共に物色した。

 結局、昼間に買った家電に浴衣も加えると、結構な出費になってしまった。たまにはいいか、と思えるのは、さやかの笑みが目に浮かぶからだ。

 ――さやかの奴、気に入ってくれるかな。

 さやかの喜ぶ顔を想像すると、うだるような暑さも気にならなくなる。

 弟分たちをさっさと帰らせ、意気揚々と帰宅した冬枝を待っていたのは、リビングに鎮座する2人の女だった。

「エミコ……!?」

「冬さん、お久しぶりです」

 エミコはソファから立ち上がり、ぺこりと一礼した。

 さらりと揺れる髪も、黒瑪瑙のような瞳も、こちらを全て包み込むような笑みも――18年前となんら変わらない、冬枝の知る嘉納笑美子そのものだった。

 ――いや、エミコは確か、結婚したはず……。

 呆気に取られる冬枝に、エミコはにっこりと微笑んだ。

「いきなりお邪魔して、ごめんなさい。冬さんの電話番号、知らなかったから」

「ああ…いや、別にいいけどよ」

 エミコは昔と変わらずのほほんとしているが、これはかなりのおおごとだ。

 ――余程のことがなけりゃ、エミコが俺に会いに来るわけがねえ。

 ちらりと冬枝が視線をやると、さやかは硬い表情でソファに座っていた。電気店での浮かれた雰囲気は、もはや微塵もない。

 ――この様子じゃ、エミコが俺の昔の女だってバレてるな…。

 仏頂面で黙り込むさやかと、にこやかなエミコ。エミコが後光を帯びて優雅に雲海に乗っている仏様なら、さやかは吹雪の中で笠をもらうのをまんじりと待つお地蔵さんといったところだ。

 昔の女と今の女が鉢合わせすると、こんなに気まずいものなのか。先日、バレーボール大会で榊原の正妻・淑恵と愛人・響子が遭遇した、とさやかから聞いていたが、冬枝は榊原の気持ちを身をもって知った。

 ――ああ、よいでね。

 さやかには悪いが、袋の中の浴衣はまだお披露目できそうにない。一刻も早く、エミコの話を聞く必要があった。

「エミコ。ここじゃなんだし、外、出ねえか」

「はい。そうだ、『異邦人』なんてどうです?あそこ、まだありますよね」

「ああ」

 冬枝はさやかに「じゃあ」とだけ言うと、エミコを外に連れ出した。

「………」

 さやかは終始無言で、ソファの上から微動だにしなかった。



 喫茶店『異邦人』で、冬枝は改めてエミコと向き合った。

「老けましたね、冬さん」

「……会って、いきなりそれかよ」

 冬枝が苦笑するぐらい、エミコは昔と同じく無邪気だった。

「だって、冬さんって私の5歳上でしょう?ということは、今年で43歳ですか。お互い、おばさんとおじさんになりましたねえ」

「そりゃそうだろ。あれから18年経ったんだから」

 冬枝が最後に会った時、エミコはまだ20歳だった。今のさやかとほとんど変わらない年で、市内の大学に通っていた。

 対する冬枝は25歳で、それから数年の獄中暮らしに入った。刑務所を出たのも、もうかなり前の話だ。そりゃ老けるわけだ、と冬枝は時の流れをしみじみ感じた。

「あれから、私は大学を辞めて、彩北からも離れて、上京したんですよね」

「ああ。そうだったな」

「今は、結婚式場で働いてます。人の新しい門出を祝うお手伝いを出来るのが、本当に楽しいです」

「そうか」

 エミコとは最後に別れてきり、手紙のやり取りすらなかった。こうして、本人から直接、近況を聞くのはそれこそ18年ぶりだ。

 冬枝は「今日は、どうしたんだ」と用件を尋ねた。

「去年、旦那が亡くなったんです」

「えっ…そりゃ、大変だったな」

「ははっ。まあ、保険も入ってたし、私も仕事してますから、それほどでもないです。家は手放しましたけどね。子供と私だけなら、アパートでも十分なので」

 辛いことがあっても、エミコは決して弱音を吐かない。夫を亡くして平気なはずがないのに、こうして微笑んでみせる。

 出会った頃はどんくさい女だと思っていたが、それがエミコの強さなのだと、いつしか冬枝は知った。

「子供って、今いくつだ?」

「小学生です。手のかかるさかりですよ。今日は、お父さんのところに預けてます」

「……笑太郎さん、元気か」

 冬枝の控えめな質問に、エミコは軽快な笑みで答えた。

「ははは、もう、元気があり余ってるくらいですよ。スナックのママと再婚するんだ、なんて張り切ってますから」

「…変わらねえな、あの人も」

 エミコも笑太郎も冬枝も、同じ空の下を生きている。こんなに平和な今があると、どうして18年前、冬枝とエミコが別れなければいけなかったのか、心底不思議になってくる。

 ――だが、もうあの頃には戻れねえ。

 エミコが、コーヒーカップに目を落とした。

「……源さん、こちらに戻ってるって聞いたんですけど、お元気ですか」

「ああ。それこそ、元気すぎるぐらい元気だよ、あの人は」

「ホントに?良かった……」

 安堵のため息を吐くエミコが、冬枝には痛々しく見えた。

「お前が気にすることじゃねえだろ。あの人は自分の仕事をしただけだ」

「いいえ。だって、源さんは死ぬところだったんですよ?お父さんのせいで…」

 と言ってから、エミコは自分の声音の深刻さにハッとして、手を口元に当てた。

 それから、エミコは気を取り直したように、いたずらっぽく笑った。

「……ねえ、冬さん」

「ん?」

「亡くなった夫はね、冬さんと違って一途で、マジメな働き者でしたよ」

「嫌味か」

 エミコと付き合っている間も、冬枝はあちこちの飲み屋の女とよろしくやっていた。勿論、エミコにはバレていた。

 エミコは、窓の外に広がる遠い青空に目をやった。

「夫の欠点と言えば、こんなに早く死んじゃったことぐらい。私はともかく、まだ小さいのに父親をなくした子供が可哀想です」

 エミコの言葉の節々に、夫をどれだけ愛していたかが伝わってくる。冬枝は、子供と共に取り残されたエミコが哀れでならなかった。

 ――なんで、エミコばっかり辛い目に遭うんだろうな。

 幼い頃に母を亡くしたエミコは、父である笑太郎と、父がとっかえひっかえする夜の女たちを母親代わりに育った。そんな生い立ちにも関わらず、エミコはすれたところがない。

 冬枝より年下なのに、母親のように包み込んでくれる女だった。冬枝は、エミコが泣くところも怒るところも見たことがない。

 冬枝が同情しているのが伝わったのか、エミコが気丈に笑った。

「落ち込んでる暇ないですよ。働く母親は忙しいんです」

「…ああ、そうだろうな」

「冬さんは今、どう生きてますか?」

 真っ直ぐな瞳で問われ、冬枝は一瞬、答えに詰まった。

「どうって――」

 何故か、真っ先に浮かんだのはさやかの顔だった。

 さやかとの関係は、エミコに胸を張って語れるようなものではない。東京から来た18歳の小娘を、代打ちにしてこき使っているのだ。しかも、同居までしている。

 だが、今の冬枝の生活の真ん中にいるのは、確実にさやかだ。家電量販店で交わした、たわいのない会話までが、キラキラ輝いて思えるほどに。

 ――俺が望んでいいものじゃねえ。

 太陽のように眩しいさやかの残像を、冬枝は胸の奥に押し戻した。

 冬枝は、エミコの人生を狂わせた。たとえ刑期を終え、表向きの償いを果たしたところで、過去は消えない。

 という、冬枝のシリアスをも、エミコは笑い飛ばした。

「なーんだ、冬さんったら、あんな若い女の子とデキちゃったんだ」

「ブフッ!」

 冬枝がコーヒーを噴き出すと、エミコは「隅に置けないねえ、色男」とからかうような笑みを浮かべた。

「お前な。どういう神経してんだ」

「厚かましいのが取り柄です。おうちで私とさやかちゃんが並んでるのを見て、あんなにタジタジになってたら、誰にだって分かりますよ」

「タジタジ…」

 この女には、冬枝のポーカーフェイスも通用しない。つくづく敵わない、と思わされる。

「そういや、家にいた時から気になってたんだが、その荷物…」

 エミコの傍らには、大きな旅行カバンが2つも並んでいる。着替えや身の回りの品なら、子供と一緒に実家に預けてきたはずだろう。

 エミコはカバンをちらっと見ると、居住まいを正した。

「冬さん。今日は、お金の話をしに来ました」

 さっきまでとは打って変わって、急に真剣になったエミコの眼差しに――冬枝は少しだけ、「タジタジ」になった。



「さやちゃ~~~ん!」

 さやかが春野家を訪れると、玄関口からいきなり鈴子に抱き締められた。

「わっぷ」

「抱っこさせて!すりすりさせて!あーんもう、可愛いっ」

 鈴子の柔らかい胸にぷよぷよと挟まれ、さやかは「んみゅ」と胸の谷間から顔を出した。

「どうしたんですか、鈴子さん」

「だぁってぇ!せっかく姉妹感動の再会をしたっていうのに、鳴子ったら貴彦さんにベッタリで、全然こっちに来ないのよ!?欲求不満だわ~~!」

 鈴子はぎゅうっとさやかを抱き締めると、頬に強めのキスをした。

「良かったですね、鈴子さん。鳴子さんと会えて」

 先日、さやかや朽木たちが参加したバレーボール大会に、鳴子も東京から応援に訪れていた。朽木は鳴子を鈴子たちに会わせることを渋っていたが、さやかの交渉により、鈴子と鳴子の姉妹再会が実現したのだった。

「本っ当に、さやちゃんのおかげよ。あの娘、なんだかんだでさやちゃんと貴彦さんの仲を気にしてたみたいだから」

「そうだったんですか」

「うまいこと鳴子を焚き付けたわね、さやちゃん」

 さやかは「鳴子さんが、朽木さんのことを好きすぎるんだと思いますけど」と苦笑した。

 きっと、鳴子自身も寂しい一人暮らしで、朽木に会いたい気持ちが募っていたのだろう。あの悪趣味男にそこまで恋焦がれるのは理解しがたいが、さやかの挑発は鳴子がこちらに来るきっかけになれたのかもしれない。

「俺は、朽木とさやかの仲も気になるけどな」

 嵐が「ほらよ」と言って、さやかの頬に凍らせたりんごジュースのパウチを当てた。

「なんかさー、こないだのデートでも結構意気投合してたじゃん、お前ら」

「あら、そうなの?」

「名誉毀損で訴えますよ、嵐さん」

 さやかはシャーベット状になったりんごジュースを一口かじって「美味しい」と呟いた。

「…何の根拠があって、僕と朽木さんが意気投合してる、なんて言うんですか」

「朽木の奴、やたらとお前に『オラこんな街嫌だ』『一緒に東京に行こうぜ』『東京でお前をビッグにしてやるぜ』とか言ってたじゃねぇか。お前もお前で、はっきり断らねえし。ダンディ冬枝にチクろうかと思ってたとこ」

「………」

 冬枝の名前が出ると、さやかは複雑な気分になった。

 ――冬枝さん、今頃エミコさんとどうしてるんだろう……。

 嵐は、ズズーッと音を立てて、凍ったりんごジュースを啜った。

「さやかがまた『朽木と結婚したい』なんて言い出したら、俺はもう罪悪感で凍え死んでしまいます。おー、さびぃ」

「あんたが寒いのは、アイスの食べすぎでしょ」

 鈴子は、県産りんごジュースがたくさん冷凍してある冷蔵庫を指差した。

 さやかは、りんごシャーベットをもぐもぐと頬張った。

「朽木さんと結婚したい、なんて言った覚えはありません。朽木さんにはちょっと、引っかかっているところがあるので…」

 朽木は、未だに東京進出という野心を捨てていない。そのために響子を使って榊原を操ろうとしているが、響子はもう限界ではないか、とさやかは案じていた。

 ――響子さんには、お金のために自分を裏切ることなんてできない。

 朽木らの策で榊原の愛人でいることも、榊原に愛されないまま父娘のような関係を続けるのも、響子には苦痛でしかないだろう。このままでは、響子も榊原も破滅してしまう。

 さやかが言い淀むのを見て、嵐がしつこく追及してきた。

「なんだよ、あの成金怪獣がそんなに好きかぁ?ダンディ冬枝だって、おねだりすればブランド物のひとつやふたつぐらい買ってくれるべ!どうせ代打ちなんて、金の関係なんだからさ!金目当て上等!」

「僕はお金目当てじゃありません」

 と言ってから、さやかはエミコが未亡人であることを思い出した。

 ――旦那さんを亡くしたなら、きっと、今後の暮らしに不安があるはず……。

 まさか、エミコは金の無心をするために、冬枝の元を訪れたのではないか。そんな風に考えかけて、さやかは自己嫌悪に陥った。

 ――最低だな、僕って……。

 エミコにそんな下心がないことぐらい、初対面のさやかにも分かった。昔の恋人を相手にあんなに晴れ晴れとした笑みでいられる人が、後ろ暗い理由でやって来たとは思えない。

 気が付けば、エミコの粗探しをしてしまう。そんなことをしたって、自分の値打ちが上がるわけではないと、わかっているのに。

 さやかは、次から次へとこみ上げてくる嫉妬に目を背けたくなった。

 ――僕だって、冬枝さんの傍にいたかったのに。

 お昼に買った家電の話をして、さりげなく竿燈の話もして、冬枝と一緒に盛り上がりたかった。竿燈デート計画だって、妄想の羅列になったとはいえ、本気だった。

「貴彦さんとの仲がどうあれ、さやちゃんのおかげで鳴子に会えて、私は嬉しかったわ。さやちゃん様様よ」

 鈴子の胸に優しく抱き寄せられて、さやかは何だか泣きそうになった。

 ――僕は、そんなにいい人じゃない……。



 今夜の料亭『金なべ』は、盛夏だというのに静まり返っている。

 何故なら、白虎組組長・熊谷雷蔵、若頭・榊原、若頭補佐・霜田の3人が、一堂に会し極秘の会合を開いているからだ。

 青龍会を後ろ盾にする『アクア・ドラゴン』が未だ彩北市で暴れているため、今夜の会合にも厳重な警戒が敷かれている。料亭内に精鋭の護衛たちが控えているのは勿論、半径300メートルに及ぶ広大な警護網が広げられていた。

 話題はもっぱら、組長と霜田が行った玉榧の親分衆との会合についてだった。

「秋津一家も見栄っ張りだよねえ。うちとの同席すら突っぱねるなんて」

 組長は、ふーっとタバコの煙を吐き出した。

「秋津一家は設立から30年間、我々白虎組に屈しなかった連中です。朱雀組の後ろ盾がある以上、我々としても見て見ぬふりをせざるを得ません」

 霜田が、渋面で酒の入った盃を口にした。県内をほぼ制している白虎組にとって、小規模ながら独立を守る秋津一家は長年、目の上の瘤だった。

 組長は、呑気にのどぐろの刺身をぱくぱくと食べた。

「ま、愚連隊上がりが総長じゃ仕方ないか。2代目総長の秋津タケルって、若い頃は地元で負け知らずの不良だったっていうじゃない?空手がめちゃくちゃ強いらしいけど、なーんか、源みたいだよね」

 源の名前が出ると、榊原も霜田も顔を強張らせた。

「あれ?覚えてる?源清司」

「…覚えています。忘れようがありません。あんな男は、2人といませんから」

 榊原の脳裏に、若き日の颯爽とした源の姿が鮮やかに思い出される。

 先代組長の親衛隊長だった源は、鬼も避けて通るような超人だった。

 だが、18年前の凄惨な事件が、榊原と霜田の表情を重くする。

 血塗れになって倒れ伏す源。そして、そんな源を見て、躊躇うことなく日本刀を振りかざした冬枝。

 白虎組の歴史上、最大の悪夢だった。その日を最後に、源清司は裏社会から退いた。

 いわば、源の名は一種の禁句だった。組長はそれに頓着することもなく、話題を変えた。

「エミコちゃんがさ、こっちに帰って来たでしょ?もしかしたら、冬枝とも会ってるかな」

「…そうかもしれませんね」

 彩北市に帰ってきたエミコは、真っ先に組長と榊原の元に挨拶に訪れた。笑太郎と親しかった2人にとって、エミコは娘も同然だからだ。

 18年前も、組長と榊原が、まだ大学生だったエミコの面倒を見た。事件が有名になり、大学にいづらくなったエミコのために、東京に就職先の世話をしてやった。

 勿論、霜田もそんなエミコの苦労を知っている。だからこそ、苦々しげに言った。

「冬枝は、エミコにとっては父の仇でしょう。いくら元恋人と言ったって、顔も見たくないんじゃありませんか」

「おい、霜田」

 榊原が軽くたしなめると、霜田は口をつぐんだ。

「………」

 組長のサングラスの奥の瞳が、すうっと細くなる。

 冷ややかな静寂が、しばし3人の間に落ちた。

 やがて、組長は話を戻した。

「秋津一家だけどさ。どう思う?榊原」

「はっ」

 榊原は「秋津一家と協力して『アクア・ドラゴン』にあたれれば、一番良いかと」と答えた。

 朱雀組先代組長であり、秋津一家初代総長だった秋津イサオは、青龍会によって殺害されたと言われている。白虎組と秋津一家にとって、青龍会は共通の敵だ。

 県内最大勢力である白虎組と、秋津兄弟の下で強く団結している秋津一家。地元同士で手を組めば、よそ者の『アクア・ドラゴン』を締め出せる。それが、榊原の考えだった。

 組長はうんうんと頷いてから、霜田に水を向けた。

「霜田はどうなの?」

「私も、若頭と同じ意見です」

 実のところ、霜田は青龍会に降伏するという道を捨てたわけではない。青龍会と抗争になれば、真っ先に火の粉が飛ぶのは若頭である榊原だからだ。

 ――ですが、今は秋津一家に意を合わせざるを得ません。

 組長が言っていた通り、愚連隊上がりの秋津タケルは非常に潔癖で、組員の裏切りにも厳しいという。白虎組がこれ以上、青龍会に対して日和見を決め込めば、秋津一家の怒りの矛先は白虎組に向かいかねない。

 先日の玉榧の会合を欠席したことからも、秋津一家の白虎組に対する不信感は明らかだ。東京から来たガキ共ならまだしも、復讐に燃え、統率の取れた秋津一家を敵に回すのはリスクが大きい。霜田はそう考えていた。

 組長は「なるほどねぇ」と腕を組んだ。

「お前らの言う通り、秋津一家とは仲良くしたほうがいいわな。ただ、俺たちから協力を申し出る必要はないよ」

「は…」

「青龍会とのことは、元はと言えばあっちのケンカ。秋津一家のほうが、俺らに力を貸してくださいって頭下げるのが筋でしょ」

 下手に白虎組のほうから秋津一家を誘えば、それこそ青龍会を刺激しかねない。『アクア・ドラゴン』に、本格的な侵攻をする大義名分を与えるようなものだ。

 それに、と言って、組長は開いた障子から見える月を見上げた。

「ほっとけば、秋津一家のほうから接触してくるよ。そろそろ秋津の『魔法使い』が復活する頃でしょ?」

 秋津の魔法使い――その名に、榊原と霜田がハッと目を見開く。

 極道らしからぬ異名は、その響きゆえに底知れぬ畏怖を伴って極道に知れ渡っている。

「うちには『夏目さやか』がいるんだから、秋津一家がこのまま黙ってるわけがねえ。魔法使いのご登場まで、今は高みの見物と行こうじゃないの」

 組長がほれ、と言って徳利から酒を注ぐと、榊原が慌てて盃に受けた。



「エミコさん、何の用だったんですか」

 さやかがそう尋ねたのは、夜も深まった晩酌の時である。

 エミコと外に出て行ってから、冬枝はいつも通りの時間に高根たちと共に帰ってきた。弟分たちの手前、夕飯時にもエミコの話は一切しなかったが、さやかは冬枝の表情が硬い気がした。

 弟分たちが帰り、それぞれシャワーを済ませて、ようやくエミコのことを聞ける空気になったのが今だった。

「別に。お前に関係ねえだろ」

 冬枝はにべもない。それ以上は聞くなとばかりに、とんぶりの長芋和えを口にした。

「そりゃ、そうですけど…」

 さやかだって、冬枝とエミコの関係をどうこう言える立場でないことは分かっている。それでも、どうしようもなく胸がざわつくのだ。

 ――エミコさんは、冬枝さんが付き合ってきた他の女の人とは違う気がする。

 飾り気がなく、おっとりとした人柄だけではない。源のことを知っていたあたり、エミコと冬枝が付き合っていたのは相当昔――冬枝が刑務所に入る前、源がまだ現役だった時代のことだろう。

 ――冬枝さんと源さんの間に起こった『何か』に、エミコさんも関わっていたんじゃないだろうか。

 そんな重要な相手が、ただの顔見せに来るわけがない。冬枝の硬い顔つきからも、エミコから何か重大な話をされたのだと窺えた。

 ――冬枝さんを、一人で苦しませたくない。

 冬枝の性格上、女性、しかも元恋人から頼まれたら、断れないに決まっている。さやかとしては面白くないが、少しでも冬枝の力になれるなら、助けてあげたい。

 ――お金のことなら、僕でもなんとかできる。

「エミコさん、お金の話をしに来たんじゃありませんか」

 さやかがそう切り出すと、冬枝が眉を吊り上げた。

「ああ?」

「エミコさんは旦那さんを亡くされたばかりで、色々と大変なんでしょう。そんな時にわざわざ冬枝さんに会いに来るなんて、お金の話としか思えません」

 せん、も言い終わらないうちに、さやかは引っぱたかれていた。

 パン、という乾いた音が、衝撃と共にさやかの頬に響く。

「ふざけたこと言ってんじゃねえ。てめえにエミコの何がわかる」

 と怒鳴ってから、冬枝は自分が口だけじゃなく、手も出ていたことに気が付いた。

「あっ」

「………」

 いきなり叩かれ、さやかは呆然と目を見開いている。

 やがて、さやかからフッと表情が消えたのを見て、冬枝は焦った。

「いや、その、なんだ」

「………」

 さやかの瞳から、電磁波でも出ているみたいに視線が痛い。

 それでも、冬枝はエミコを金目当て呼ばわりされるのは許せなかった。

「さやか…」

「…すみません。ちょっと頭冷やしてきます」

 さやかはくるっと回れ右すると、すたすたと玄関から出て行った。

 バタン、とドアを閉める音だけが、静寂に響いた。

「…ちっ」

 冬枝は舌打ちを一つすると、ソファに腰を下ろしてタバコに火をつけた。

 さやかを叩いた手が、やけに痺れる。一人だと、タバコも酒もとんぶりも全部不味かった。



 ――こういうこともある。

 さやかは一人、街灯がまばらな夜道をとぼとぼと歩いた。

 ――冬枝さんは見栄っ張りで、瘦せ我慢で、優しいから。大事な人をお金目当てなんて言われたら、怒るに決まってる。

 さやかの言い方が良くなかった。冬枝を心配しているようなふりをしたが、結局、エミコに対する嫉妬が言葉に出てしまったのだ。

 ――ちょっと、反省会をしよう。

 というより、ふて腐れる時間が欲しかった。帰ったらちゃんと冬枝に謝るから、今はいじけさせて欲しい。

 さやかは自販機を見つけると、缶ビールを1本買った。

 ――警察に見つかったら、即アウトだけど。

 幸い、夜の早いこの田舎町では、通りには警察どころか通行人の姿もない。自販機の横に腰かけると、さやかは空を見上げた。

「月がきれいだなー……」

 我ながら気のないセリフで、本当は顔を上げていないと、涙がこぼれそうだった。

 ビールを一口飲んでみたが、さやかはそもそも酒を飲まない。苦いだけで、あまり美味しくなかった。

 ――月が、遠いな。

 今の月は、綺麗とも思えないぐらいに離れて見える。竿燈もデート計画も、全て月の彼方にあるかのようだった。

 ――冬枝さん…。

 さやかは、うじうじした思いをビールで飲み下した。1本をあっという間に空にしたら、頭がくらくらした。

 ――帰ろう。

 家の近くとはいえ、こんな深夜に一人でうろつくのは危険だ。さやかは立ち上がると、スカートのすそをぱっぱと払った。

 そこで、車のクラクションが鳴った。

 さやかが顔を上げると、路肩に停められた車から、ひょいと男が身を乗り出した。

「お嬢ちゃん。こんなトコで晩酌?」

「…組長!」

 組長においでおいでと手招きされ、さやかはトコトコと車に近付いた。

「組長。それに、榊原さんも。お疲れ様です」

 助手席の榊原が、無言で軽く微笑んだ。

「ま、立ち話もなんだから、お嬢ちゃんも乗って」

「…はい」

 組長に促されるまま、さやかは後部座席の組長の隣に座った。

 組長は、まるで茶飲み話でもするみたいに話し始めた。

「エミコちゃんがさ、こっちに帰ってきてるんだ。お嬢ちゃんも会った?」

「…はい」

 組長がエミコの帰郷を知っていることが、さやかは意外だった。エミコは『冬枝の元恋人』というだけではないのだろうか。

「俺、子供いないからさ。強いて言えば、榊原が息子みたいなもん」

「恐れ入ります」

 榊原が控えめに答えた。

「エミコちゃんも、俺にとっては娘も同じかな。エミコちゃんの親父はさ、笑太郎って言うんだけど、俺の親友だったから」

「…そうだったんですか」

「うん。俺がまだ稲玉組の親分やってた頃、白虎組の若頭だった笑太郎に誘われてね。あんまりしつこいから、こっちが根負けしたの」

 なんと、エミコはかつての白虎組若頭の娘だったのだ。あの穏やかな女性からは想像もつかない生い立ちに、さやかは驚いた。

「昔の白虎組は、今みたいなでかい組じゃなくてね。あの頃は、躑躅会や鴉組のほうが勢いがあった」

「そうなんですか」

「笑太郎も若頭なんて名乗ってたけど、先代の腰巾着だったってだけで、全然力なんてなかったよ。とにかくバカで女好きで、口八丁だけでヤクザの中を渡り歩いてきたような男だった」

 でも、なんだか笑太郎にはほだされちゃうんだよね、と組長は笑った。

 組長の口ぶりからは、エミコの父――笑太郎への好意が感じられた。普段、飄々としているだけに、こんな風に組長が誰かへの親愛を見せるところをさやかは初めて見た。

 組長は、横からじっとさやかを見つめた。

「エミコちゃんはさ、笑太郎の宝物なんだ。だからさ、お嬢ちゃん。冬枝が今更、変な気を起こさないように、お嬢ちゃんが冬枝を繋ぎ止めてくれない?」

「…無理です」

 さやかは、とっさにそう答えていた。

 助手席の榊原が、心配そうにこちらを見ている。それでも、さやかは止められなかった。

「僕には無理です。僕は、ただの代打ちでしかないですから」

 冬枝に叩かれた頬が、じんと熱を帯びる。頬を打った強さは、冬枝のエミコに対する想いの強さの表れだった。

「そう…」

 組長の低い返事が聞こえた、と思った次の瞬間、さやかは首を絞められていた。

「…!?」

 組長の指が、さやかの喉元に食い込む。シートの上に覆い被さられ、さやかは身動きも取れなかった。

「お嬢ちゃんだって、冬枝を取られたくないでしょ?頑張ってよ」

「……っ」

「俺はさ、冬枝のことが大嫌いなんだ。なんでか分かる?」

 柔和な笑みとは裏腹に、組長の両手は少しも緩まない。さやかは、喉が潰れてしまいそうだった。

「冬枝はね、笑太郎を斬ったんだよ。自分の恋人の父親を、刀でバッサリ斬っちまったわけ。ねえ?酷いでしょ?」

「………!」

 ――冬枝さんが、エミコさんのお父さんを……?

 さやかは、組長の袖を掴んだ。どうして、とか、本当なのか、とか、とにかく真相を知りたかった。

 くらっ、と視界が暗くなる。苦しい、とさやかが声にならない声で喘いだ時だった。

「親分。それぐらいにしておいてもらえませんか」

 助手席から、榊原が蒼白な顔で組長の肩を掴んだ。

 組長はさやかの首に手をかけたまま、ゆっくりと振り返る。

「ん?」

「もう十分でしょう。それ以上やったら、さやかが死んじまいます」

「そうだねえ」

「親分!」

 榊原が、必死に組長の肩を揺さぶる。それすら、さやかは夢の中の出来事のように遠くなってきた。

 ――苦……しい……。

 恋人同士だった冬枝とエミコ。それなのに、冬枝はエミコの父を斬った。

 2人の間に、何があったのか。そんな事件があったのに、エミコはどうしてあんなに明るい微笑みで、冬枝の前に再び姿を現したのか。

 知りたい。この苦しい嫉妬と不安の中から、確かな解を導き出したい。

 想いとは裏腹に、組長の袖を掴んでいたさやかの手から、ふっと力が抜けた。

 さやかが限界を迎えようとした、まさにその時だった。

 バン!

 辺り一帯に響くような音を立てて、車の窓ガラスが割れた。

 続けて、割れた窓からぬっと伸びた腕が、組長の肩を勢い良く引き寄せた。

「手、離してもらえませんか。親分」

「冬枝」

 ぎりぎりと音を立てて背広の肩を掴まれているというのに、組長は表情一つ変えない。友人にでも会ったみたいに、サングラスの奥の瞳を細めた。

「…っは!げほっ、げほっ…」

 窓ガラスが割れたのと同時に、組長の手がさやかから離れた。急に呼吸が自由になって、さやかは激しく咳き込んだ。

 冬枝は組長から手を離すと、助手席の榊原に声をかけた。

「榊原さん。ドア、開けてください」

「あ、ああ」

 窓が割れたのと逆側のドアを開けると、冬枝はすぐにさやかを車内から引きずり出した。

「さやか」

「げほっ、げほっ…」

 さやかの首元を見て、組長がおどけるように笑った。

「あらら、痕ついちゃったね。人の首絞めるのなんて久しぶりだから、力加減間違えちゃった。ごめんね、お嬢ちゃん」

 サングラスの奥の瞳は、酷薄な色でさやかと冬枝を見据えている。

 冬枝はさやかを抱き寄せたまま、無言で組長を睨み返した。氷のような眼差しから、殺気が爛々と燃え上がっている。

 一触即発の睨み合いは、しかし、ほんの数秒のことだった。

「窓ガラス、あとで弁償してね。帰ろっか、榊原」

「…はい」

 組長に言われるまま、榊原は運転手に命じて車を発進させた。

「………」

 ようやく息が整ってきたさやかは、自分の肩を掴んでいる冬枝の手が血だらけなことに気が付いた。

「…冬枝さん。手、血が…」

「………」

 どうやら、冬枝は拳で窓ガラスを割ったらしい。もし冬枝が助けてくれなかったらどうなっていたか、と想像してさやかはぞっとした。

 ――組長は、冬枝さんを憎んでる。

 多くは語らなかったが、組長にとって笑太郎は大切な存在だったのだろう。だからこそ、その笑太郎を斬った冬枝を許せないのだ。

 さやか自体は、組長にとってさしたる価値もあるまい。さやかの首を絞めたのは、冬枝への憎悪ゆえだ。

 ――冬枝さんとエミコさん、そして笑太郎さんの間に、とんでもない何かが起こったんだ。

 冬枝の代打ちとして、過去に何があったのか、さやかは知らなければならない。たとえどんなに辛い過去であったとしても知るべきだと、さやかは覚悟を決めた。

 組長に首を絞められたことで、却って腹が据わった。冬枝と共に歩むなら、きっと避けては通れないのだと。

 ただ今は、組長の車が去った方向を睨んだまま動かない冬枝が、とても怖い。それこそ目と目が合ったら死にそうなぐらい殺気がみなぎっていて、さやかは冬枝の顔も見られなかった。



 キャバレー『ザナドゥー』の一隅で、朽木と霜田はしかめっ面を突き合わせていた。

「結局、組長の考えは変わりませんよ。秋津一家に関しては、一貫して様子見です」

 あの血気盛んな秋津タケル相手に悠長すぎる、と霜田はヒステリックにグラスをテーブルに叩きつけた。

「このままでは、我が白虎組は秋津一家と『アクア・ドラゴン』に挟み撃ちにされてしまいます。ああっ、組長さえいなくなれば、全てがうまくいくのに…!」

「そうですね」

 一方、申し訳程度にバーボンを口にしながら、朽木は上の空だった。

 ――あーあ、早くメイちゃんとこに帰りてえ。

 東京にいた鳴子が、今は朽木のマンションに帰ってきている。鳴子自身は帰ってきた理由を語らなかったが、恐らく、麻雀小町――さやかが唆したせいだろう。

 ――あのガキ、余計なことしやがる。

 という心の声も、鳴子が傍にいてくれる幸せの前では、文句ではなく褒め言葉になってしまう。さやかや春野嵐、春野鈴子の思惑はさておき、鳴子との再会は純粋に嬉しかった。

 だからこそ、普段はうんうんと深く頷き、心から同情して聞いてやる霜田の愚痴も、今日はビデオを早送りするように飛ばしてしまいたい。田舎のヤクザ同士のケンカなど、朽木にとってはどうでもいいことだ。

 ――いつまで経ってもオッサン一匹オトせない麻雀小町と違って、俺のメイちゃんは何をやっても三国一だからな。

 鳴子は東京でホステスをしながら、朽木のために青龍会や朱雀組の情報を仕入れてくれていた。たわいない噂話やガセネタがほとんどだが、その中にはとんでもないお宝情報が混ざっていることもある。

 ――メイちゃんが東京に帰ったら、また麻雀小町に近付いてみるか。

 霜田の話によれば、秋津一家はそろそろ『魔法使い』が退院し、本格的に秋津イサオの復讐に向けて動き出すとみられている。秋津イサオ殺しに関わっているさやかは、真っ先に標的にされるだろう。

 恐らく、さやか自身も危機感を抱いているはずだ。そこにつけ込めば、さやかは朽木にとって有利な手土産になる。

「冬枝も、戦力になりそうにありませんよ。肝心な話を始めた途端、尻尾を巻いて逃げ出しましたから」

 霜田は、玉榧での件を朽木に愚痴った。

 組長・熊谷雷蔵を降ろし、榊原を新たな組長に据える。霜田はこの作戦に冬枝も誘ったのだが、冬枝は「そんなに大事な話でしたら、また今度、シャキっと目が覚めてる時に聞きますんで」と言って、露骨に逃げた。

「あの一匹狼気取りのオッサンに、助太刀なんて無理でしょう」

「ええ、冬枝を当てにした私がバカでした。冬枝は若い頃から、あっちにフラフラ、こっちにフラフラ、女とみればすぐにもたれかかる、朽木みたいな男でしたからね」

「霜田さん、ちょっと飲み過ぎじゃないですか」

 いい年をして二枚目ヅラしている冬枝と一緒にされては敵わない。朽木はたしなめたが、霜田のボヤキは止まらない。

「麻雀小町のことだって、所詮は遊びなんでしょう。エミコと付き合っていた頃だって、気が付けば飲み屋で別の女と踊ってましたからね」

「誰ですか、エミコって」

 霜田が答えようとした時、店の電話が鳴った。

 霜田はソファから立ち上がると、すぐに受話器を取った。

「はい、『ザナドゥー』霜田です」

 かつて、霜田は妻だった美佐緒と共に、キャバレー『パオラ』を経営していた。几帳面な性格の霜田は、電話番から客の送迎まで率先してやっていたが、今でもその時の癖が抜けないらしい。

 電話の向こうからは、びっくりするほど低い声が聞こえてきた。

「冬枝です」

 冬枝は「補佐の力を貸してください」と言った。

「例の件、用がありゃ何でも言ってください。失礼します」

 ドスの利いた声音のまま、冬枝は一方的に電話を切った。

 霜田は受話器を見つめたまま、パチパチと目を瞬かせた。

「どうしたんですか、霜田さん」

 朽木が問うと、霜田はゆっくりと振り返った。

「…どうやら、冬枝はようやく目が覚めたようです」

 それぞれの思いが熱を孕み、まだ見ぬ波乱の予感を抱えた夏の夜――ゆっくりと傾く月すらも、熱気に光を潤ませていた。

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