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28話 フィフティー・フィフティー

第28話 フィフティー・フィフティー


 ――まさか、またブルマーを穿くことになるなんて。

 高校卒業と共に、二度と身に着けることはないだろうと思っていた。それが、異郷の地で穿くことになろうとは。

 ――僕、ブルマーって苦手なんだけどな。

 パンティーがはみ出しているんじゃないかと心配で、落ち着かない。さやかがブルマーを気にしていると、お尻をいきなりパーンと叩かれた。

「きゃっ!」

「大丈夫だって、さやか!はみ出すほどでけえケツじゃねえから!」

 嵐は「ダンディ冬枝も、きっとそう思ってる!」と言って笑った。

「…余計なお世話だ」

 ピンクのポロシャツ姿の嵐を恨めしげに見上げながら、さやかは溜息を吐いた。

 ――なんで、僕が街のバレーボール大会なんかに出なきゃいけないんだ。

 ここは市立体育館。今日は社会人向けのバレーボール大会が開かれていて、スポーツマンやママさんバレーのチームまで、多くの大人で賑わっている。

 異邦人であるさやかがこんな地元のスポーツ大会に参加することになったのは、隣でガハハと笑っている男、春野嵐のせいである。

 昨日、雀荘『こまち』でまたもさやかは嵐に敗北を喫した。

「ロンロンローン!ロンなもんだーい!ハッハッハー!」

「…1回言えば分かります」

 上機嫌に牌を倒す嵐に、さやかはむすっと言った。

 冬枝の代打ちとして、裏社会の手練れたちとの麻雀で何度も勝利を重ねているさやかだが、何故かこの春野嵐にだけは勝てない。

 嵐の闘牌は、いつもさやかの予想を大幅に超えてくる。それでいて、その大胆な打ち回しには、人を惹き付けるものがある。お陰で、何度負けてもさやかは嵐との勝負をやめられなかった。

 ――嵐さんに負けると、絶対に変な罰ゲームをやらされるんだけど。

 先日、勝った嵐はさやかの髪の毛をくれと言い出した。今回は一体、何をやらされるのやら。

 嵐が出してきた条件は「一緒にバレーボール大会に出てくれ」というものだった。

「バレーボール大会、ですか。どうして僕に?」

「ホントは鈴子と一緒に出るつもりだったんだけどさあ、あいつ最近、腰が痛いらしくって。代打で出てけれ」

「別にいいですけど…鈴子さんは大丈夫なんですか?」

 嵐は憎たらしいことこの上ないが、その妻である鈴子は、何かとさやかに優しくしてくれる。さやかは、鈴子のことを姉のように慕っていた。

 嵐はムフフと下卑た笑みを浮かべた。

「心配ご無用。ちょっとベッドで頑張り過ぎただけだからさ」

 嵐は「嵐クン、夜は働き者だから」と言って、腰をクネクネと振った。

「……鈴子さんに、お大事にって伝えてください」

 さやかが赤面してそっぽを向くと、嵐は「なら、直接鈴子に会ってくれよ」と言った。

「何せ、さやかは鈴子の代打だからな。大事なものを渡さなきゃいけねえ」

「大事なもの…?」

 と言ってさやかが渡されたのが、このブルマーだったわけである。

「ごめんね、さやちゃん。これ、完全に嵐のシュミなんだけど」

 そう言いつつ、ブルマーを試着したさやかを見た鈴子は「きゃっ、カワイイ」と言ってはしゃいでいた。

「やっぱり、こないだまで高校生だった子が着ると似合うわね。私が着ると、完全にエッチなお店になっちゃうもの」

「そこがいいんじゃねえか、鈴子は。さやかなんか、まーんま、運動会の女子高生だぜ。いや、このペタンコ具合は女子中学生と言ってもいい」

 嵐が「小学生かな」とまで言ったので、さやかは横目で睨み付けた。

「鈴子さん、腰の具合はどうですか」

「たいしたことないのよ。さかりのついた旦那の相手をしたせいだから」

「………」

 赤面するさやかなどお構いなしに「私のほうが年上だから、先にガタがきちゃうのよね」と鈴子は肩をすくめた。

「そういえば、嵐さんっていくつなんですか」

「32歳。ダンディ冬枝より、よっぽどお前の旦那さんにふさわしい年だぞっ」

「それ、奥さんの前で言いますか」

 ということは、鈴子は32歳よりは上なのだろう。もっとも、本人に直接年齢を聞くほどさやかは無神経ではないし、鈴子はとても若く見える。年齢を聞いても無意味な気がした。

「さやちゃん、私、大会には出られないけど、応援に行くからね。お弁当持って行ってあげる」

「ありがとうございます。鈴子さんのお弁当、楽しみだなぁ」

「麻雀小町のブルマー姿なんて、ダンディ冬枝には目の毒かもしれねえな。そのブルマー、エッチなことに使っちゃダメだぞ!」

 ぬけぬけと下品なことをほざく嵐に、さやかは眉根を寄せた。

「…冬枝さんなら、今はいませんよ」

「えっ。ダンディ冬枝、どさ行ったの?」

「玉榧です」

 彩北市への進出を狙う青龍会への対応を巡り、組長たちと親しい組で会合が開かれるのだという。冬枝は、用心棒として連れて行かれたようだ。

「じゃあさやちゃん、今はお家に一人なの?」

「ええ。でも冬枝さん、あさっての朝に帰ってくる予定ですから」

「さやちゃん一人なんて、心配だわ。うちに泊まって行ったらどう?」

 冬枝からも同じような心配をされたな、とさやかは苦笑した。

「高根と土井も連れて行かなきゃならねえし、3日もさやか一人か…」

 出発する前、冬枝は思案顔で腕を組んだ。

「大丈夫ですよ、冬枝さん。ちゃんと留守番してますから」

「いっそ、源さんに来てもらうか…いやダメだ、あの人とさやかを2人っきりにするほうがよっぽど危ねえ。うーん」

 うんうんと唸っている冬枝には悪いが、心配されてさやかはちょっと嬉しかった。

 そんなことを思い出しつつ、さやかは、よしよしと頭を撫でる鈴子にこう言った。

「ありがとうございます、鈴子さん。でも僕は、冬枝さんのお家でお留守番してなきゃいけませんから」

 それに、家にいれば冬枝から電話がかかってくるかもしれない。さやかは、遠い冬枝に思いを馳せた。

 ――冬枝さん、まさか僕がバレーボール大会に出てるなんて、思ってもいないだろうな。

 健全な市民でごった返す体育館は、ヤクザ社会とは程遠い。体育館の片隅で、さやかはせっせとストレッチに励んだ。

 嵐は準備運動と称して、知り合いとボールのやり取りをしている。笑い声を上げながら遊んでいるさまは、まるで放課後の男子高校生だ。

 ――あれじゃ、試合の前に疲れちゃうんじゃないかな。

 さやかが呆れていると、後ろから声をかけられた。

「…あれ?嬢ちゃんじゃねえか」

「榊原さん!」

 そこにいたのは白虎組若頭・榊原だった。傍らには、妻の淑恵も連れている。

 さやかのブルマー姿を見て、「嬢ちゃんも試合に出るのか」と榊原が言った。

「はい。知り合いに誘われまして…」

「そうか。今日はな、俺も出るんだ」

「えっ。榊原さんもですか」

 榊原は若い頃からスポーツが得意だった、と組弁護士の十河が言っていたのをさやかは思い出した。

「まだまだ若い者には負けてられねえからな。嬢ちゃんも、怪我しない程度に頑張れよ」

「はい」

 榊原の隣にいた淑恵が「頑張ってね」と穏やかに微笑んだ。さやかと既に会っていることは榊原には秘密のため、互いにそれ以上は何も言わなかった。

 仲睦まじそうに去っていく榊原と淑恵の背中を見送って、さやかは複雑な気分になった。

 ――まるで、浮気なんてしてないみたい。

 実際、榊原は響子のことを「娘のように」扱っているらしいので、世間的には浮気のうちに入らないのかもしれない。だとしても、響子の葛藤も、淑恵の苦悩も、ないことにはならないとさやかは思う。

「おお。今のが絶賛不倫中の若頭かぁ」

 いつの間にか隣に嵐が現れ、さやかはハッとした。

「…嵐さん。軽々しくそういうことを言わないでください」

「白虎組若頭、榊原忍50歳。大卒のエリートヤクザで、今じゃ街のでかい仕事には必ずと言っていいほど名前が出てくるお偉いさん。俺じゃなくても知ってるぜ」

 だとしても、どうして嵐が響子のことを知っているのか。本当に得体の知れない男だ、とさやかは舌を巻く思いだった。

「今まで奥さん一筋で有名だったのに、権力ってのは人を変えるのかねぇ」

「他人のプライベートに口を出すなんて、悪趣味ですよ」

「お前はダンディ冬枝か。他人の不倫なんてな、噂話のネタにして、お茶と一緒に飲んじまえばいいんだよ。いたいけな乙女がしかめっ面するようなことじゃねえ」

 ポンと軽く肩を叩かれ、さやかの身体からふっと力が抜けた。

「…気にしないようにしてるつもりなんですけどね。未熟者です」

「それともお前、ああいうのがタイプ?やめとけって。あんなべっぴんなかみさんと比べられたら、お前が平安美人だってのがバレちまう」

「………」

 朽木にも同じことを言われたのを思い出し、さやかは二重に腹が立った。



 駅にほど近いホテルの宴会場で、強面の男たちが一堂に会した。

 集まったのは白虎組組長・熊谷雷蔵をはじめ、地元の暴力団の組長たちだ。縄張りは違えど、それぞれ友好関係を結んでいる。

「『アクア・ドラゴン』が暴れていると聞いて、こっちの警察も警戒心を強めている」

「白虎組は、青龍会と抗争を始めるつもりなのか」

 地元の団体からは、面倒に巻き込まれたくないという気持ちが露骨に透けて見えた。それも無理はない、と冬枝は思う。

 ――所詮、青龍会と朱雀組の争いなんて、俺たち田舎者には他人事だよな。

 青龍会と朱雀組は長年の宿敵同士だ。朱雀組の組長が殺された件では世間を大いに騒がせたものの、東京から遠い東北の地にあっては、ブラウン管で見るだけの話に過ぎない。

 それがいきなり、白虎組が青龍会のターゲットにされたのだ。隣県である玉榧では、いつ火の粉が降りかかってくるかと神経を尖らせているに違いない。

 緊張した席上で、呑気にタバコをふかしている組長の代わりにマイクを握ったのは、若頭補佐・霜田だった。

「我々白虎組は、『アクア・ドラゴン』と事を起こす気はありません。地元警察と協力し、市民と一丸となってよそ者を締め出していく、というのが、我々の方針です」

 青龍会を巡る霜田と榊原の対立も、最近では鳴りを潜めている。組の代打ちであるさやかが朱雀組組長殺害事件に関わっていると判明し、それどころではなくなったらしい。

 ――この先、親分はさやかをどうするつもりなんだか。

 港町で『アクア・ドラゴン』に狙われたさやかのことを、ボロ舟に乗せて海に流したぐらいだ。組長は、さやかの命など屁とも思っていない。

 おまけに、もっと厄介な問題がある。地元の団体から、こんな声が上がった。

「白虎組にその気がなくても、秋津一家は青龍会を許さないだろう。秋津一家が青龍会と闘うつもりなら、白虎組はどうするのか」

 秋津一家。白虎組の北方に位置する大羽を拠点とする、朱雀組傘下の組である。

 その名の通り、秋津家の四兄弟が興した秋津一家は、長男の秋津イサオが初代総長を務めた。男気があり、人望の厚いイサオの下、秋津一家は勢力を伸ばし、全国有数のヤクザである朱雀組の傘下に入った。そして、東北では異例なことに、イサオは朱雀組組長の座にまで上り詰めた。

 そのイサオを殺害され、今、秋津一家は復讐に燃えている。事件に関与したさやかのことまで、苅屋という刑事を使って捕まえようとした。

 ――『アクア・ドラゴン』より、秋津一家のほうが危険かもしれねえ。

 今日の会合に、秋津一家は不参加を表明した。現在の総長である秋津タケルは四兄弟の三男で、曲がったことが嫌いな気難しい男ともっぱらの評判だ。事件の関係者であるさやかを抱えながら日和見を決め込む白虎組やその他の団体となど、話し合う気もないということだろう。

 その後もごちゃごちゃとした話し合いが行われたが、結局、「白虎組が全部何とかしてくれ」というのが結論――と、冬枝は解釈した。

 ――ま、ケンカを売られたのはうちだからな。

 今日の会合は、白虎組には青龍会に立ち向かう意思があるのかどうか、それを見極めるために開かれたといってもいい。組長たちもそれと知りつつ、うまくかわして決定的な言質を与えなかった。口八丁にかけては、組長も霜田も一級品である。

「でも、なんで若頭は呼ばれなかったんでしょうね」

 場が解散になったところで、居眠りから目を覚ました土井がそんなことを言った。

 高根がペシッと土井の背中を叩いた。

「バカ、土井。そんなこと、下っ端の自分たちが考えるようなことじゃない」

「だってさ、若頭は顔も広いし、ああいううるさいおっさんたちを黙らせるのが得意そうじゃん。若頭の言うことなら、みんな何となく頷いちゃうっていうか」

 そこで、土井のサングラスがひょいっと上から取り上げられた。

「だからだよ。榊原を連れてこなかったのは」

「…親分」

 冬枝が「お疲れ様です」と頭を下げると、組長は「ん」と短く笑った。

「榊原はさ、誰もが認めるうちの大黒柱でしょ。榊原を殺っちゃえば、うちはガタガタになる。隣県への移動なんて、狙ってくれって言ってるようなもんだよ」

 夏休みで人出の多いこの時期、暗殺者が帰省客に紛れ込むぐらい、わけもない。鉄砲玉には困らない青龍会なら、やりかねないだろう。

「榊原は、うちの大事なプリンスってわけ。将来の親分かもしれないから、覚えておくんだよ、坊主」

 組長はくるくるとサングラスを手の内で回してから、土井の頭にポンと乗せた。

「………」

 組長から直々に声をかけられ、土井は真っ青になって立ち尽くした。

「冬枝」

 ホテルのロビーで組長が他の親分衆と話しているのを待っていると、霜田が声をかけてきた。

「今晩、組長はこちらの親分衆と飲みに行かれます。お前も同行しますね」

「ええ、まあ。警護役ですから」

 尤も、警護を仰せつかった以上、冬枝は宴会のお相伴にはあずかれない。弟分たち共々、酒も飲まずに2時間立ちん坊かと思うと、冬枝は今から気が重かった。

 冬枝の仕事は事前に決まっていることで、今更確認するまでもない。意を測りかねる冬枝に、霜田は意外なことを口にした。

「宴会が終わったら、私と少し飲みませんか」

「霜田さんとですか。はあ…」

 思いもよらない誘いに、冬枝は面食らった。

 何せ、相手は腐っても若頭補佐、組織のナンバー3だ。年季はあってもヒラに過ぎない冬枝とは、立場が違う。

 榊原が何かと冬枝のことを気にかける反動か、日頃、霜田からの風当たりは強かった。さやかを代打ちに迎えるにあたっても、真っ先に反対したのは霜田だ。

 ――俺とサシでなんか飲んで、何の話するつもりだよ。

「何です、その顔は。補佐たる私から飲みに誘われたんですから、少しは嬉しそうにしたらどうです」

「すみません。生まれた時からこういう顔なもんで」

「朽木だったら、小躍りして喜んでみせるところですよ。まあ、あれのおべんちゃらにも時々胸焼けがしますが」

 霜田は「朽木と言えば」と、思い出したように言った。

「あれから、麻雀小町は落ち着きましたか。先日は随分、面妖なことを言っていましたが」

「ああ……」

 朽木と結婚する、というさやかの妄言は、霜田から見ても「面妖」だったらしい。どこかのバカがさやかにおかしな呪いをかけたせいだが、今ではすっかり元通りだ。

「あの時は、お騒がせしました。さやかはもう大丈夫です」

「なら、いいのですが。麻雀小町より、お前のほうがお騒がせでしたよ。冬枝」

「そうでしたっけ?」

 組事務所でドンパチした罰として霜田から命じられたトイレ掃除は、朽木と仲良く1週間やり遂げた。もうチャラだろ、と冬枝はしらばっくれた。

「あの時の兄貴、だいぶパニクってたよなあ。さやかさんのこと、『俺の女』って言ってたし…」

「バカ土井、いいじゃないか、別に。さやかさんの面倒は兄貴がみてるんだし、兄貴の女も同然だ」

 後ろでぼそぼそと言い合う弟分たちを、冬枝は振り向きざまに睨み付けた。

「若頭は今日、バレーボールの市民大会に参加なさるそうですよ。お前たちも、たまには健康的に汗を流したほうがいいんじゃないですか」

「バレーですか。榊原さんらしいですね」

 自分もさやかも市民大会なんかに出るようなタイプではないな、と冬枝は思った。さやかは運動神経は良さそうだが、屋内で麻雀を打っているほうが絶対に楽しいだろう。

 宿泊するホテルのバーで落ち合うことを約束して、霜田は組長の元に戻っていった。

 ――さやかの奴、今頃どうしてるかな。

 この時間なら、『こまち』で常連客と打っている頃か。また嵐に負けて、反省ノートにイライラとボールペンを走らせているかもしれない。

 夜になったら電話でもしてやるかな、とホテルの窓を見上げる冬枝には、さやかがブルマー姿でバレーボールに励んでいるなどとは、想像もつかなかった。



 嵐の強烈なスパイクが、音を立てて相手コートを抉った。

「おっしゃー!勝ったー!」

 嵐は雄叫びと共に拳を上げると、観客席の鈴子に向かって投げキッスを連発した。

「勝ったぞー、鈴子ー!キスしてー!」

「さやちゃーん、お弁当食べましょー」

「はい!」

「俺は無視かいっ!」

 未練がましくチュッチュと唇を手のひらに当てる嵐に、さやかは苦笑した。

「嵐さん、凄かったですね。相手を全然寄せ付けなかった」

「ワイルド嵐、ここにあり。どお?惚れた?」

「次は、僕にも出番をくださいね」

 嵐は縦横無尽にコートを駆け回り、ゲームのいいところを完全に独占した。バレーボールってチームプレイじゃなかったっけ、とさやかは呆れたぐらいだ。

「おっ。あっちじゃ、不倫若頭もハッスルしてるねえ」

「だから、そういうことを軽々しく言わないでくださいって」

 嵐の視線の先では、スポーツウェアに身を包んだ榊原が、颯爽とトスを上げている。精悍な身体つきといい、娘2人を持つ父親とは思えないほど若々しい。

 榊原のチームメンバーを何気なく見まわしたさやかは、「あっ」と声を上げた。

 ――なんで、朽木さんがこんなところに?

 いつもの悪人面に、明らかにブランド物と分かるポロシャツ、スポーツ中でも外さない金ピカのロレックス。コートに馴染んでいる榊原とは対照的に、一人だけ悪目立ちしていた。

 さやかが呆然と朽木たちのコートを見ていたせいか、嵐が勘違いした。

「何だよ、お前ホントに不倫若頭に気があんのか?ダンディ冬枝に言い付けちゃうぞ」

「あ、いえ…。そういうわけじゃ」

 どうやら、嵐は本当に朽木と面識がないらしい。目の前に仇敵がいる、と教えるべきか否か、さやかは迷った。

 ――こんなのどかなバレーボール大会で言うことでもないか。

 嵐と朽木はいずれ対決するのかもしれないが、何も今、わざわざ2人を焚き付ける必要はない。さやかは、朽木が何故ここにいるのかだけ確かめたかった。

「…僕は、榊原さんの試合を見てから行きます。先にご飯食べててください」

「お前、マジでおじさん好きだよなぁ。鈴子の悪影響だべか」

「鈴子さんに影響されるなら、僕は今頃、嵐さんのことを好きになっていますよ」

「んもう、めんけこと言うじゃん!さやかのぶんのからあげ、残しといてやるからな!」

 感激した嵐がさやかの頬にブチュッと唇を押し付けたので、さやかは肘鉄で追い払った。

「榊原さんも凄いな…」

 嵐ほどの独壇場ではないが、榊原はコートの中で際立っていた。大学時代はスポーツマンだった、という組弁護士の十河の話は、偽りではないらしい。

 それだけに、爽やかスポーツマン榊原のチームメイトに、ブランド物で身を固めた朽木がいるのが何ともちぐはぐだ。この2人が並んで汗を流しているなんて、悪い冗談みたいだ。

 ――冬枝さんだったら、これ見てなんて言うだろうな。

 などと考えて一人くすっと笑ったさやかは、コートの向かい側にある人を見つけて驚愕した。

「…響子さん!?」

 家族や友人にエールを送る観客たちの中に、一人、悄然と佇む響子の姿があった。

「………」

 響子は、物憂げな眼差しで榊原を見つめている。その近くの席では、同じく榊原を見守る淑恵もいた。

 愛人と正妻が、至近距離に並んでしまった。他人事ながら、さやかは緊張した。

 ――いや、もう他人事じゃない。

 さやかを自宅に招いてアップルパイを作ってくれた淑恵も、さやかに胸の内を打ち明けてくれた響子も、さやかにとって他人とは言えない。冬枝や嵐に忠告されても、淑恵と響子のどちらにも傷付いて欲しくない、というのがさやかの本心だ。

 やがて、榊原の華麗なスパイクで点数が決まり、試合が終わった。

 榊原はチームメイトたちと軽くハイタッチすると、真っ直ぐに淑恵の元へと向かっていった。どうやら、響子がいることには気付いていないらしい。

 榊原は淑恵に汗を拭いてもらいながら、笑顔で何か話している。いい夫婦のお手本のような、美しい光景だ。

 ――淑恵さん、榊原さんが浮気してるって分かってても、普通に接してあげてるんだな。

 一方で、響子はどんな気持ちで2人を見ているのだろう。さやかが客席の中に響子の姿を探していると、背中を叩かれた。

「よう、麻雀小町」

「…朽木さん」

 間近に来た朽木からは、香水の匂いがプンプンした。髪もかなり念入りに固めたのか、試合が終わったばかりだというのに一筋も乱れていない。

 ――朽木さん、ずいぶん気合入ってるな。

 デリヘルで稼いだ金でジャガーを乗り回す朽木は、市民大会で健全な汗を流すイメージとは程遠い。さやかは、単刀直入に疑問を口にした。

「朽木さんがこんなところにいるなんて、どういう風の吹き回しですか」

「てめえこそ、今日はどうした?麻雀以外で外に出ることなんざない女だと思ってたが」

「知人に誘われたんです」

 さやかが素っ気なく答えると、朽木も「俺も同じだよ」と言った。

「若頭から誘われたんだ。メンツ足りねえから来い、って」

「なんか、朽木さんと榊原さんって、不思議な仲ですね」

 普段、朽木は霜田とつるんでいる。響子を通じて榊原とも繋がりはあるようだが、紳士的な榊原と、目の前の俗っぽいチンピラの組み合わせが、いまいちピンとこない。

「不思議なもんかよ。元々俺様をこの道に引き入れたのは、若頭だぞ」

「えっ。榊原さんが?」

 ――榊原さん、見る目がないな。

 趣味が悪いな、とか、こんなチンピラをヤクザにするなんて何を考えてるんだ、とか、色々なことをさやかの頭を巡ったが、経緯を聞いて納得した。

「もう20年ぐらい前か。店で女を侍らせてたら、若頭から声をかけられたんだよ。女にモテるし、ケンカも強いみたいだから、うちに来ねえか、って」

 なるほど、とさやかは頷いた。

 ――つまり、女の人に無理矢理迫り、好き放題暴れ回っていた朽木さんを、榊原さんが自分の子分にして押さえつけた、ってことか。

 雀荘でしょっちゅうおじさんのホラ話を聞かされてきたさやかは、おじさんが話を誇張するパターンを把握していた。

「ま、若頭とはウマが合わなかったから、すぐに霜田さん付きに回されたが」

「ああ…」

 聖天高校屈指のお嬢様だった淑恵を射止めた若き日の榊原が、女をとっかえひっかえするような朽木と気が合うわけがない。榊原のフォローを好む霜田なら、榊原の代わりに朽木の面倒を見るのも頷ける。

 さやかが朽木と榊原の不思議な距離感に納得したところで、朽木が渋い顔をして腕を組んだ。

「若頭、かみさんと別れる気配が全然ねえな」

「…朽木さん、そんなこと企んでたんですか?」

 どうやら、榊原に響子を差し向けたのは、榊原の懐柔だけが目的ではなかったらしい。

 朽木は声をひそめた。

「俺は若頭が離婚しようがしまいがどうでもいいが、霜田さんがな」

「でも、どうして?灘議員の後援があったほうが、組にとってもプラスじゃないですか」

 淑恵の父は、大物議員の灘氏だ。その義息となったことで、榊原は政財界にもパイプを通し、彩北市の顔役に登り詰めた。

「さあな。霜田さんはバツイチだから、若頭の夫婦円満が許せないんじゃねえか」

 と冗談めかして言ってから、「こっから先は、ここじゃ言えねえ」と朽木は真剣な顔になった。

「てめえも、若頭には気に入られてんだろ?」

「…ええ、まあ」

「だったら、てめえが若頭をオトせや。ついでに冬枝の出世をねだれるんだから、悪い話じゃねえだろ?」

「鳴子さんに同じことが言えますか」

 さやかが真顔で返すと、朽木がしかめっ面になった。

「麻雀小町は胸も頭も石みてえだな。そんなんだから、冬枝から女扱いされねえんだ」

「大きなお世話です」

「可愛げがねえことで。こないだは、俺様と結婚したいって言ってたじゃねえか」

「何の話ですか」

 朽木が「だから…」と言って、さやかの肩を引き寄せた時だった。

「アターック!」

 威勢のいい掛け声とともに、バレーボールが朽木の喉元に激突した。

「ぐふっ!ごほっ、げえっ!」

 咳き込む朽木の前に、嵐が仁王立ちになって指を突きつけた。

「出たな、ショネワリヤクザ!麻雀小町へのチカン行為は、このワイルド嵐が許さねえ!」

 ――嵐さんが言っても、説得力がないけど。

 試合前に嵐にお尻を叩かれたことを思い出し、さやかは顔をしかめた。

 朽木が、首をさすりながら苦しげに嵐を睨んだ。

「な、なんだてめえは。俺が誰だか分かってケンカ売ってんのか」

「元刑事の記憶力を舐めてもらっちゃ困るぜ。お前、中森山遊園地のお化け屋敷にいた、アルマーニおじさんだろ」

「……てめえ、そんな前から俺を張ってたのか。何のつもりだ」

 嵐はにっこりと笑うと、さやかの肩を自慢げに抱き寄せた。

「ダンディ冬枝が不在の間は、俺が麻雀小町の旦那ですから。可愛い2号を守るのは、夫として当然の務め」

「誰が誰の旦那ですか」

 大の男2人が剣呑な空気になったものだから、周囲の視線が集まってしまっている。警察を呼ばれては、面倒なことになってしまう。

 見かねたさやかは、2人の間にずいっと割って入った。

「嵐さんも朽木さんも、こんなところでケンカしないでください」

「ああ!?」

 その瞬間、2人が目を見開いて顔を見合わせた。

「春野嵐……?」

「朽木貴彦……?」

 互いの名を呼び、しばし見つめ合う。

 そして――嵐と朽木は、同時に罵声を発した。

「なんだこいつ、思ってたのと全然違うじゃねーか!男のくせにピンクなんか着やがって、恥ずかしくねえのか、てめえ!」

「嘘だろ、鳴子の男の中で歴代ナンバーワンの悪人面じゃねえか!指名手配犯の顔を何人か合成したら、お前の顔作れちまうぞ!」

 さやかの忠告も虚しく、嵐と朽木はやいのやいのと言い始めた。さやかは頭を抱えた。

 ――2人の名前は伏せるべきだった。

「さーやちゃん」

「あ、鈴子さん」

 鈴子は風呂敷包みを片手に掲げて、「あいつらはほっといて、ご飯にしましょ」と言った。

「鈴子さん。あの、朽木さんが…」

「嵐の声が大きすぎて、私にも聞こえたわ。貴彦さんもここにいたのね」

 鈴子も朽木のことは初めて見るはずだが、嵐と掴み合いをしている姿を一瞥しただけで苦笑いした。

「鳴子の趣味の悪さに例外なし、ね。お金はありそうだけど」

 鈴子は朽木を上から下まで見下ろして「スニーカーまでブランド物ね」と嘆息した。

「………」

 さやかはある確信を得ると、思い切って嵐と朽木の間に割って入った。

「朽木さん」

「ああ?なんだ、麻雀小町。てめえには言いたいことが山ほどあるぞ」

 嵐にポロシャツの胸倉をつかみ上げられ、自身は嵐の髪を引っ掴みながら、朽木がさやかめがけて怒鳴った。

「そんなことより、朽木さん。今日は、鳴子さんがこちらに来ているんじゃありませんか」

「えっ、鳴子が?」

 と言ったのは、嵐である。驚きのあまり、朽木の胸倉を掴んでいた手が離れた。

「……何故そう思う」

 忌々しげに問う朽木を、さやかは真っ直ぐ見上げた。

「朽木さんの格好です。自分の意志で参加した大会じゃないのに、髪も服も靴も、全て本気のコーディネート。朽木さんは、たかが市民バレー大会のためにそこまで気合を入れるタイプじゃない。カッコいい姿を見せたい相手がいる、と考えるのが自然でしょう」

「おい、マジかよ朽木。こっちに鳴子が来てんのか」

 嵐が肩を揺さぶると、「馴れ馴れしく名前を呼ぶんじゃねえ」と朽木が振り払った。

「メイちゃんがこっちに来てるとしたら、なんだ。てめえにメイちゃんに会う権利はねえ」

「んなこと、なんでお前が決めるんだよ」

「春野嵐。てめえ、メイちゃんを邪魔者呼ばわりしたじゃねえか」

 朽木に言われて、嵐の顔が引きつった。どうやら、嵐が鈴子と結婚する際に鳴子を「邪魔」と言った、という話は事実らしい。

 嵐の髪を掴む朽木の手が、ぎゅうっと音を立てた。

「てめえのその言葉で、メイちゃんがどれだけ傷付いたと思ってる。俺のことが嫌いになったわけじゃねえのに、メイちゃんはお姉ちゃんたちのために俺と別れる、とまで言ったんだぞ」

 メイちゃんをそこまで追い詰めたのはてめえだ、と言われ、嵐は言葉を失った。

「嵐さん……」

 せっかく鳴子と再会できるチャンスだというのに、場の雰囲気は最悪だ。助け舟を出してやろうにも、さやかには何も言えなかった。

「はーい、そ・こ・ま・で」

 そこで嵐と朽木にタオルを投げたのは、鈴子だった。

 嵐が顔を上げ、朽木もハッとしたように「春野鈴子…」と呟いた。

「嵐も貴彦さんも、いっぱい動いてお腹減ったでしょ?だからそんなにイライラするのよ。まずは、ご飯にしましょ」

「……そうだな」

 嵐が力なく頷き、朽木が「ちっ」と舌打ちした。

「メイちゃんを待たせてる。てめえとの決着は後だ、春野嵐」

「………」

 朽木の背中は、他の参加者たちに紛れて見えなくなっていった。

 朽木がいなくなった途端、鈴子が「あっはは!」と笑いだした。

「鈴子さん?」

「はははっ、だっておかしいんだもの。電話口でも言ってたけど、貴彦さんってホントに鳴子のこと『メイちゃん』って呼んでるのね」

 強面とのギャップがすごいわ、と言って、鈴子は大笑いした。

「まあ、正直俺も噴き出しそうになったけど」

 おずおずと手を上げる嵐の顔には、わずかに笑みが戻っていた。

「貴彦さんがいい人かは分からないけど、少なくとも鳴子にぞっこんなのは確かみたいね」

 そうまとめると、鈴子は「さやちゃんもお腹すいたでしょ?おにぎりいっぱい作ってきたから食べて」と言って、風呂敷包みを広げ始めた。

 鈴子と並んでレジャーシートに腰かけながら、さやかは密かに感動していた。

 ――鈴子さんって、やっぱりすごい。

 鈴子の笑い声は、嵐と朽木の間にあった険悪な空気を一瞬で吹き飛ばしてしまった。朽木にあそこまで言われて、鈴子だって平気ではないはずなのに、弾けるような笑顔だ。

 さやかは鈴子にそっと寄り添うと、「僕、たらこおにぎりが食べたいです」と言った。



 律義というか何と言うか、嵐と朽木は本当に、再度対決した。

 ――てっきり、ただの捨てゼリフだと思ってたのに。

 嵐は鳴子に会うためだろうが、ひょっとすると朽木も、鳴子から何か言われたのかもしれない。考えるさやかをよそに、嵐と朽木は空いているコートで向かい合った。

「俺様が勝ったら、メイちゃんと会うのは諦めてもらう」

「俺が勝ったら、鳴子に会わせてもらうからな」

 互いに自分の要求だけを言うと、返事もせずにボールを打ち合い始めた。

「くたばれ、ピンク野郎!」

「怪獣クチッキーめ、クチッキー星に帰れ!」

 罵詈雑言と共に、いくつものボールが乱れ飛ぶ。

 さやかは眉間を寄せた。

「…これ、バレーじゃないと思うんですけど」

「そうね。ただのボールのぶつけ合いね」

 鈴子は水筒から麦茶を注ぐと、「はい、さやちゃん」と言って渡した。男たちのくだらないケンカになど、興味がないようだ。

「いってえ!」

「うぐっ!」

 雪合戦の雪玉よろしくバレーボールを投げ合うものだから、当然、時々身体に当たる。当たった痛さは雪玉の比ではないはずだが、嵐も朽木もめげない。足元に転がった球を拾っては、また相手めがけて投げ始める。

「2人、どうやって勝敗を決めるんでしょう」

「そうねえ。根比べかしら」

 段々、さやかもバカらしくなってきて、鈴子と一緒におにぎりの残りをもぐもぐと頬張った。

 ――前から思ってたけど、嵐さんと朽木さんって、似た者同士なんじゃないかな。

 勿論、正義感の強さは嵐と朽木では全然違うが、気性が似ている気がする。嵐も朽木も破天荒で、傍若無人で、どこか不器用だ。

 小学生のようなボール遊びを展開する男2人を眺めながら、さやかは鈴子の肩にもたれた。

「…僕、ちょっと嵐さんが羨ましくなっちゃったな」

「あら、どうして?あのヒゲ面より、さやちゃんのほうが何倍も可愛いわよ」

 さやかは、甘えるように鈴子の胸元に頬を寄せた。

「だって、鈴子さんは人の心を軽くする天才だもん。朽木さんに責められて蒼白になってた嵐さんが、鈴子さんの声で救われたみたいな顔してました」

 鈴子は、強いようで弱い嵐の心の機微をよく理解している。身も心も鈴子に包まれ守られているかのような嵐が、さやかは羨ましかった。

 鈴子は、さやかを胸の谷間に抱き寄せた。

「さやちゃんったら、ホントに私のことが大好きなんだから。今すぐ家に持ち帰って、おにぎりと一緒に食べちゃいたくなるわ」

「鈴子さんにだったら、お持ち帰りされてもいいかな」

「うふふ、じゃ、冬枝さんが留守の間に遊びましょうか」

 でもね、と鈴子は言った。

「救われてるのはお互い様よ、私も嵐も。私は多分、守ってあげる相手がいなきゃダメなの」

「そう…ですか?」

「私みたいに美貌と巨乳を兼ね備えてる女はね、道を踏み外すのが簡単なの。もし、嵐も鳴子もいなかったら、私は今頃どこかのおじさんと不倫して、奥さんに刺されてたでしょうね」

 不倫と聞いて、さやかの脳裏に響子のことがよぎった。

 ――響子さん、どうしてここに来たんだろう。

 榊原が呼び寄せたわけではないようだから、響子の独断で来たのだろう。ひょっとして、榊原の妻である淑恵の姿を見たかったのだろうか。

 いや、あるいは――最悪の解を導き出しかけたさやかの頬に、そっと鈴子の手が触れた。

「嵐や鳴子、さやちゃんと一緒にいる間は、まともな鈴子でいられるの。私は私一人で出来てない、ってことかしらね」

「私は私一人で出来てない……」

 さやかは、その言葉が自分にも当てはまると思った。

 ――今日の僕は、何だか半分みたいだから。

 冬枝のいないマンションで、一人で寝惚けて冬枝のシェービングクリームで歯を磨こうとして、一人でうぇっと呻いて――そんな朝から晩を過ごしていると、さやかは自分が透明になってしまったような気になる。

 ――僕は確かに僕なのに、何かが抜けている感じがして。

 いつまで経っても少牌に気付いていないかのようなもどかしさは、冬枝がいないからだ。冬枝がいなくなると、さやかの一部まで一緒に連れて行かれてしまう。

 ――こんな気持ちになるのは、僕だけなんだろうけど。

 この恥ずかしいブルマー姿さえ、冬枝に見せたかったような気がする。何を見ても、ここにいない冬枝に届けたくなる自分がいた。

 ――冬枝さんなら、今の嵐さんたちを見て、どう思うかな。

 そう考えて、さやかはすっくと立ち上がった。

「さやちゃん?」

「鈴子さん。僕、嵐さんに加勢します」

 同じ場所にいるなら、鈴子に鳴子と会わせてあげたい。さやかは床に転がるボールを拾うと、ずんずんとコートへと向かった。

「やめといたほうがいいわよ、さやちゃん。危ないわ」

「平気です。僕、運動は得意なので」

 先ほどから密かに分析するところ、嵐も朽木も闇雲にボールを投げているため、狙いはメチャクチャだ。しかも頭に血が上っているため、周りが全然見えていない。

 ――つまり、今の朽木さんを倒すのは容易い。

 さやかは嵐の背後に隠れるようにしてコートに入ると、朽木に狙いを定めた。

「よし……」

 ボールを構えたさやかの鼻先を、どこからか漂うミュゲの香りがかすめた。

 ――淑恵さん?

 ハッとして香りのしたほうを振り返ると、淑恵と響子がコートの横で向かい合っているのが見えた。

 ――嘘でしょ!?

 まずい、とさやかは直感した。榊原と別れるべきかと悩んでいる響子と、先ほどの朽木の話がさやかの脳内で交錯する。

 ――霜田さんと朽木さんの狙いは、最初から淑恵さんだったんだ。

 夫の不倫に胸を痛めた淑恵自身によって、榊原と離婚させる。霜田たちが何故そこまでして榊原たちを別れさせたいのかは謎だが、今、一番現実に近い解はこれしかない。

 思い詰めた響子は悪意ではなく、良心から自身の不貞を淑恵に告白する。だが、その告白は淑恵を深く傷付けるだろう。

 ――止めなくちゃ!

 さやかは反射的に「響子さん!」と叫んでいた。

 淑恵に何か言おうとしていた響子が、さやかを見つけて目を見開く。

「夏目さん、危な……」

「食らえ、ピンク野郎!」

 その直後、朽木の放った全力のボールが、さやかの頭に見事に命中した。

 さやかは鉄砲で撃ち落とされた鳥のように、コートに倒れた。

「さやちゃん!」

 鈴子が悲鳴を上げたが、さやかが死角になっている嵐は気付かない。

「怪獣クチッキーめ、今度こそやっつけてやる!」

 嵐が投げた渾身のボールを、朽木がひらりとかわす。

「ふん、そんなボール、いくら投げたって当たらねえよ!」

 朽木に避けられたボールは、虚しく床に落ちる寸前で、大きな手に受け止められた。

「お前ら、何やってんだ!」

「げっ。若頭……」

 榊原はボールを足元に置くと、顔色を失う朽木と嵐の双方を睨んだ。

「さやかにケガさせてんじゃねえか。いい加減にしろ」

「えっ、さやか?」

 言われて後ろを振り返った嵐が、鈴子に介抱されているさやかの姿を見てぎょっとした。

「うわっ、いつの間にいたんだ。ちっちぇから気付かなかった…」

「さやちゃん、さやちゃん。しっかりして」

 鈴子が呼びかけるが、さやかは返事をしない。

 榊原が長身を屈めて、鈴子の腕の中のさやかを覗き込んだ。

「脳震盪かもしれないな。救護室に連れて行こう」

「お願いします」

 榊原はさやかを抱きかかえると、朽木に険しい目つきを向けた。

「朽木!お前はそこの片付けしてから来い」

「……はい」

 苦々しそうに睨んでくる朽木に、「分かったよ、俺も手伝うよ」と嵐が小声で答えた。

「………」

 淑恵と響子は、榊原に抱えられたさやかを心配そうに見送っていた。



「うーん……」

 冷房の効いたベッドの上で、さやかは軽く身じろぎをした。

 額にかかった髪を、誰かの手がそっと直してくれる。優しくいたわるような手つきは、まるで母がすぐそばにいるかのようだった。

「…母…さん……」

「良かった、気が付いたのね」

 ふわりと漂うミュゲの香りに、さやかはようやく意識を取り戻した。

「あ…淑恵さん…」

「まだ寝ていたほうがいいわ。頭を打ったんですから」

 淑恵の指先が、包み込むようにさやかの髪を撫でる。柔らかなその手は、東京にいるさやかの母にそっくりだった。

 ――そういえば、響子さんは……。

 ぼんやりとベッドの周囲を見回したさやかは、そこに居並ぶ顔ぶれを見てぎょっとした。

「………」

 淑恵、響子、榊原が、揃ってさやかを見下ろしている。

 ――どういう状況なんだ、これは。

 さやかが気を失っている間に、修羅場となってしまったのだろうか。心なしか、榊原の顔は青ざめている。

 沈黙が気まずいが、下手なことを喋れば藪蛇になりかねない。さやかは言葉を探した。

「えっと……」

「夏目さん」

 そこで、響子が控えめに口を開いた。

「さっきは、ごめんなさい。私がいたから、驚かせてしまったんですね」

「いや…」

「今日は、夏目さんを応援するために来たのだけれど…、事前にお伝えしておくべきでしたね」

 どうやら、響子は「さやかの友人として来た」というていらしい。さやかのことを心配そうに見つめる響子には、もう淑恵に自分の正体を明かす気はなさそうだった。

「夏目さん、気を付けてお帰りになってね。私は、これで失礼します」

 榊原と淑恵に一礼すると、響子はそそくさと救護室を去っていった。

 響子は、わざわざさやかが目覚めるのを待っていたようだ。さやかが響子に気を取られてボールにぶつかったことに、責任を感じたのだろう。

 ――響子さん、大丈夫かな…。

 別荘でさやかに思いの丈を吐露したのに続いて、今回はふらりと榊原の妻の前に姿をさらしてしまった。表面上は冷静に振る舞っていても、響子の振る舞いには危うさを感じた。

 響子が去ったのを確認すると、榊原は「嬢ちゃん」とさやかの顔を覗き込んだ。

「医者が大したことはないって言ってたが、今日はもう帰ったほうがいい」

「はい…。ありがとうございます」

 榊原は、扉の外に声をかけた。

「朽木。入って来い」

「はい」

 ガラガラと扉を開けて、朽木、そして嵐が救護室に入ってきた。

「私、外でお飲み物を買ってきますね」

「ああ。頼む」

 気を使ったのだろう、淑恵がさやかに一礼して、さっと救護室を出て行った。

 榊原は、厳しい目を朽木に向けた。

「朽木。お前、さやかに言うことがあるんじゃねえのか」

「………」

 しかし、朽木はぶすっと口をへの字に結んだまま、さやかのほうを見ようともしない。榊原が鋭い声を上げた。

「朽木!」

「いいんですよ、榊原さん」

 さやかは、ベッドの上で手をひらひらと振った。

「仕方がありません。朽木さんに謝罪や反省なんて、できっこないですから」

 さやかがふんとせせら笑うと、朽木がこれ以上ないほど眉を吊り上げた。

 朽木は椅子から身を乗り出し、これみよがしにさやかの耳元で唸った。

「す・い・ま・せ・ん・で・し・た」

「はい、どうも」

 朽木の香水臭い顔を、さやかはしっしっと手で払った。

 榊原は、嵐のことも横目で促した。

「…お前も、さやかに謝らねえか」

「ごめんな、さやか。ボールが頭じゃなくておっぱいに当たってれば、その平地胸が寒風山ぐらいのサイズになっただろうに…」

 さも、すまなそうな顔でくだらないことをほざく嵐を、さやかは咳払いで遮った。

「榊原さん、お騒がせしてすみません。僕はもう大丈夫です」

「そうか?無理するなよ」

 榊原は財布を開けると、「これで、タクシー呼んでくれ」と言って1万円札を渡した。

「…………」

 別れ際、一瞬だけ、さやかと榊原の間に微妙な沈黙があった。

 はからずも響子と淑恵が鉢合わせしてしまったこと、その場にさやかも居合わせたこと――それらもろもろを、互いに言葉に出せずに口をつぐむ。

 代わりに、榊原は朽木と嵐を見下ろした。

「お前らも、そろそろ帰るぞ」

「あ…。いいんです、2人は。ちょっと話があるので」

 さやかがそう言うと、榊原は怪訝そうな顔をした。若い女子と、いかつい三十路の男2人を残していくのが心配らしい。

 嵐が無駄に明るい笑顔を振りまいた。

「大丈夫ですって。このワイルド嵐がいる限り、さやかに変なことはさせません。安心してください、武田信玄さん」

「?」

「風林火山ならぬ、不」

「嵐さんはこの通り、ちょっと頭がおかしいので。僕にどうこうする知能なんて1ミリもありませんから」

 さやかは嵐を睨み付けると、榊原に「お疲れ様です」と言って会話を終了させた。

 榊原がいなくなると、嵐が「ブハッ!」と下品に噴き出した。

「見たか?あの顔。不倫若頭、嫁と2号の鉢合わせに顔面蒼白、汗ダラダラ!鈴子にも見せたかった~!」

 腹を抱えて笑う嵐に、さやかは顔をひきつらせた。

「最低」

「なんだよ。さやかだって、エッチすること火の如し!な不倫若頭にむかついてたんじゃねえの?」

「おい、春野嵐」

 そこで、ずっと黙っていた朽木が口を挟んだ。

「てめえ、どうして若頭の浮気を知ってる。組の中でも若頭に近い人間しか知らねえことだぞ」

「さあ、なんでだべか。壁に耳あり障子に目あり、夜のお店に嵐ありってところかしらん」

「ああ?」

 嵐と朽木がまた言い合いを始めそうな気配を感じて、さやかは「朽木さん」と言った。

「嵐さんはともかく、鈴子さんだけでも鳴子さんと会わせてあげられませんか」

「しつけえな、てめえは。てめえに関係ねえだろうが」

「関係あります」

 さやかは、ビシッと朽木の顔を指さした。

「麻雀で僕に負けた人。で、こっちは僕に勝った人」

 嵐の顔を指さしてから、さやかは「僕たちは、麻雀一家です。関係ないことはありません」と強引にまとめた。

「なんで、冬枝はこんな女がいいんだ……」

 朽木はこめかみを押さえつつ、ふと閃いたように笑みを浮かべた。

「分かった。春野鈴子をメイちゃんと会わせてやる」

「本当か!?」

「本当ですか!?」

 嵐とさやかが揃って声を上げたが、「ただし」と朽木が人差し指を上げた。

「メイちゃんが春野鈴子と会ってる間、俺様とデートしてもらうぜ」

「えーっ、嫌だよ、お前とデートなんて。嵐クン、香水臭いヤクザきらーい」

「誰がてめえなんか誘うか!麻雀小町だよ、麻雀小町!」

 嵐をどかっと蹴飛ばす朽木に、さやかは渋い顔で尋ねた。

「……鳴子さんがいらしてるのに、僕とデートなんかしていいんですか」

「姉妹水入らずのほうがいいだろ。メイちゃんは竿燈が終わるまでこっちにいるから、1日ぐらい実の姉に譲ってやるよ」

「1日と言わず、永遠に手放す気はねえか?クチッキー」

「誰がクチッキーだ!」

 嵐は「姉妹水入らずって言うなら、俺もお邪魔虫だな」と言った。

「喜べ!さやか。ワイルド嵐と怪獣クチッキー、両手にハンサム引っ提げてデートできるぞっ!」

「……鏡見てから言ったらどうですか」

 ぶつけた頭はもう平気そうだし、鈴子と鳴子の再会が叶うなら、さやかに断る理由はない。

 ――なんだか、変な成り行きになっちゃいましたよ、冬枝さん。



 コートの片付けを終え、着替えた榊原は、淑恵と共に駐車場に向かった。

「あのお嬢さんも、そろそろお帰りになる頃かしら」

 淑恵は、心配そうに救護室の方を見つめている。榊原は言った。

「淑恵は、さやかと会うのは初めてだったな」

「…ええ。お話には聞いていたけれど、本当に普通のお嬢さんなのね」

「あれで、かなり強いんだぞ。麻雀もそうだが、根性がある」

 普通の若い娘だったら、強面のヤクザたちとの勝負なんて出来ないだろう。誰が相手でも常に冷静沈着なさやかは、頼もしい代打ちだ。

「きっと、人一倍努力してらっしゃるのね。あんなお嬢さんがこの世界でお仕事をしているなんて、並大抵のことではないでしょう」

「ああ」

「お友達がいらしたから、びっくりしたそうだけど…お嬢さん、元気になるといいわね」

「そうだな…。響子も気にしていたし、さやかには、また後で連絡するか」

 と言ってから、榊原は己の失言に気が付いた。

「そう…」

 淑恵は「あの方は、響子さんとおっしゃるの」と静かな声で言った。

「………」

「夏目さんには良いお友達がいらっしゃるのね」

 凍り付く榊原とは対照的に、淑恵の笑みはただただ穏やかだった。



 冬枝と霜田がホテルのバーに着いたのは、日付がすっかり変わった頃だった。

 ――親分のせいで、さやかに電話してる暇もなかった。

 田舎の親分衆同士の飲み会とはいえ、どの組も大なり小なり揉め事を抱えている。何が抗争の火種になるか分からない以上、冬枝たちは酔っ払い一人一人に目を光らせなければならず、宴会がお開きになる頃には高根と土井もクタクタになっていた。

「俺は霜田さんに呼ばれてるから、お前らは先に部屋行って寝てていいぞ」

「兄貴…。すみません。お先に失礼します」

「次は店、貸し切りにしてやって欲しいよなぁ」

 土井の軽口にも、高根はいつものようにたしなめることなく「そうだな…」と弱々しい返事だった。

 バーラウンジの片隅で、冬枝と霜田は並んでカウンター席に腰かけた。

「最近の若い者ときたら、だらしない。兄貴分の前であんな疲れた顔をするものですか」

 神経質というか、霜田は細かいところまでよく見ている。2時間超の飲み会の後でも、いきなり嫌味から始まる辺り、まだまだ元気なようだ。

「すみません。あいつら、親分たちに気圧されたみたいで」

 各地の組のお偉方が揃っていたのだから、若い弟分たちは気疲れしたのだろう。冬枝も、そして宴席にいた霜田も、場慣れしている分、その辺りはマシだった。

 霜田はバーボンの水割りを一口飲んだ。

「骨折り損のくたびれもうけ、とはこのことですね。親分がお前たちをこき使うのは、ただの嫌がらせです。お前も気付いているでしょう、冬枝」

「さあ。このぐらいで嫌がらせだなんて言ってたら、極道なんかやってられませんよ」

 冬枝が若い頃は、素手でトイレ掃除をさせられたり、真夜中に叩き起こされたりなんてのは日常茶飯事だった。

 まして冬枝は肩書きのないヒラ組員である以上、雑用を任されるのは当然だと思っている。

 ――まあ、あのタヌキ親父の陰険さは、骨身にしみてるけどよ。

 こんな雑用ならまだしも、さやかを橋から飛び降りさせようとしたり、ボロ舟に乗せて溺れさせようとしたりするのは、冬枝に対する含みもあっただろう。さやかに何かされるのに比べたら、この程度の仕事は喜んで引き受ける。

 という冬枝の内心を見透かしたかのように、霜田がこんなことを言った。

「冬枝。お前も、そろそろ組長の振る舞いに嫌気が差しているでしょう」

「と、言いますと」

「麻雀小町のことです。可愛がっている女にあれだけ好き勝手されたら、組長の寝首を掻きたくなったんじゃありませんか」

 ――霜田さん、俺の心が読めるのか!?

 さやかが溺れかけた件で頭にきた冬枝は、別荘で組長を殺してやろうかと企んだことがあった。実行には至らなかったものの、サクッと寝首を掻けたらどんなに気分爽快か、と思わずにはいられなかった。

 まじまじと見つめる冬枝に、霜田は「まあ、組長の別荘でしけ込むのは感心しませんが」と付け加えた。

「いや、霜田さん、あれは…」

「組長は、麻雀小町を秋津一家や青龍会との取り引きに使うつもりです」

「……さやかを?」

 霜田は「麻雀小町が朱雀組組長の件に関わっていること、お前も承知していますね」と鋭い目つきをした。

「よくもまあ、とんでもない爆弾を我が組に引き入れてくれたものです」

「…知らなかったんですよ。あの雀キチが、そんなおおごとに関わってたなんて」

「そうでしょうね。いくらお前でも、そうと知っていればそんな面倒な女に手を出さなかったでしょう」

 ――手は出してねえっつの。

 細かいツッコミはさておき、冬枝は組長の魂胆を悟った。

「親分は、青龍会と朱雀組のどっちが有利かギリギリまで見極めてから、強い方にさやかを売ろうって腹ですか」

「その通りです。玉榧の連中もそうですが、所詮、我々のような地方の人間にとって、東京での争いなんて他人事に過ぎません。組長には、大黒柱を殺された秋津一家の憤怒もどうでもいいのでしょう。まして、東京から来た小娘の命など、虫けら程にも思っていませんよ、あの方は」

「………」

 霜田の横顔を見つめながら、冬枝はふと気になったことを口にした。

「…どうして、霜田さんは俺にそんな話を?」

「察しが悪いですね。ここは自分から、麻雀小町を守るために補佐の力を貸してください、と頭を下げるところですよ」

「………はあ」

 つまり、霜田は自分につけ、と冬枝に言っているのか。霜田と榊原の関係も軟化した今、どちらの派閥というのもないだろう、という気がするのだが。

 冬枝が空返事なので、霜田が「まだ分かりませんか」と眼鏡の奥の瞳を吊り上げた。

「組長を降ろします。お前も手を貸しなさい、冬枝」

「……霜田さん、それマジで言ってるんですか」

「マジです」

 霜田は、真顔で頷いた。落ち着き払った態度は、酔った勢いの暴言、という風ではない。

 冬枝は、沈黙のつなぎに箱からタバコを取り出した。

「親分降ろして、どうするんですか。霜田さんが親分になるんですか?」

「いいえ。私ではなく、若頭に跡目を継いでもらいます」

 若い頃から、霜田は榊原第一だった。青龍会への対応を巡って榊原と揉めたのも、榊原を強大な青龍会と闘わせたくない、という一心からだったのだろう。

 ――仲がいいよな、お神酒徳利っていうだけあって。

 しかし、そんな霜田の忠誠心も虚しく、榊原は組長第一だ。組長に反乱を起こすと言っても、霜田の一人相撲に終わるのではないか、と冬枝は思った。

「若頭だって、最近の組長の態度には疑問を抱いていますよ。麻雀小町は、若頭の娘たちと似たような年頃。そんな女が組長に虐められているのを、快く思ってはいません」

「つったって、榊原さんは親分に頭が上がらないでしょう。淑恵さんのこともありますし」

 大物議員の娘である淑恵との結婚は、組長が榊原の後ろ盾になったからこそ実現した。今の榊原の立場は、すべて組長の寵愛によって成り立っていると言っていい。

 霜田は「そこですよ」と言って、グラスを揺らした。

「若頭はもう、十分に顔と名前を売りました。今や、組長や灘議員という背景ではなく、若頭の人柄を見込んで仕事を持ち込む輩が大半です。今となっては、恩人面する年寄りたちは邪魔といってもいい」

「まさか、榊原さんと淑恵さんを別れさせるっていうんですか」

「ええ。既に手は打ってあります」

 お前も会ったことがあるでしょう、と霜田に言われ、冬枝はピンときた。

 ――あの響子って女か。

 愛妻家に似合わぬ榊原の不倫は、霜田によって仕組まれたものだったのだ。納得すると同時に、冬枝は霜田のやり口に強引さを感じた。

「親分を降ろすためとはいえ、榊原さんの家庭をメチャクチャにするのはやり過ぎじゃないですか。それこそ榊原さん本人に知られたら、ただじゃ済みませんよ」

「私一人が泥を被ればいい話です。補佐たる私には、若頭以外失うものはありませんから」

「……なんで、そこまで」

 お神酒徳利と呼ばれる霜田と榊原の美談に、感動できるような神経を冬枝は持ち合わせていない。冬枝は、霜田の意を測りかねた。

「秋津一家です」

 霜田の答えは、こうだった。

「青龍会を目の前にしながら手をこまねいている我々白虎組に、秋津一家が業を煮やしているのは明らかです」

 当代の秋津一家総長・秋津タケルは組きっての武闘派で、かなり気難しい人物として知られる。今日の会合を平然と突っぱねたことからも、その気性の猛々しさは知れた。

「『アクア・ドラゴン』なんて小童を寄越す青龍会ならまだしも、秋津一家は我々の目と鼻の先に軍隊を構えています。抗争になるとしたら、秋津一家とのほうが先でしょう」

 だが、組長は秋津一家を軽く見ている。どころか、青龍会と朱雀組の強いほうにつこうなどと、両天秤にかけているのだ。

「青龍会も秋津一家も、そこまで甘い相手ではありません。ですが、組長には身内を殺された秋津一家の悲憤など、到底理解できないでしょう」

 このままだと、白虎組は青龍会と秋津一家の双方を敵に回すことになる。そうならないために、組長を引きずり下ろし、榊原を新しい組長に据える、というのが霜田の計画だった。

「私は、白虎組は青龍会の傘下に入るべきだと考えています。青龍会という後ろ盾があれば、秋津一家もむやみに我々と争おうとはしないでしょう。麻雀小町のことだって守れる」

 霜田が、窺うように冬枝の瞳を覗き込む。さやかを守りたければ自分につけ、とその目が訴えている。

 そこで、冬枝はふわあと大きなあくびをした。

「すみません。眠くなってきたんで、部屋帰っていいですか」

「お前、大事な話の最中ですよ。ちゃんと聞いていましたか」

「そんなに大事な話でしたら、また今度、シャキっと目が覚めてる時に聞きますんで。じゃ、失礼します」

「冬枝!」

 霜田が声を荒げたが、冬枝は振り向かずにバーを後にした。

 ――聞くんじゃなかった、こんな話。

 秋津一家に対する霜田の危機感はもっともだが、一体どうやって組長を降ろすつもりなのか。あの腹黒い組長相手に事がそこまでうまくいくとは思えないし、榊原と淑恵を別れさせるなんて話に至っては、霜田の暴走としか言いようがない。全体、無謀な計画だ。

 ――さやかのことは、俺の都合で守らせろ。

 青龍会も秋津一家も、榊原も霜田も、冬枝はどうでもよかった。冬枝は、ロビーの時計を見上げた。

 ――いつもなら、さやかと晩酌してる時間だな。

 冬枝が箸でつまみを分けてやることにすっかり慣れたのか、最近では、ミックスナッツのような手で食べられるものでさえ、さやかは冬枝の手から食べたがった。

「自分で取ると、つい食べすぎちゃうんです。だから、冬枝さんが取ってください」

「お前な。赤ちゃんじゃねえんだから、自分で食えよ」

 というか、手ずから食べさせるなんて、恋人同士のすることだ。そうは思いつつ、冬枝は満更でもなかった。

「おい、俺の指まで食うなよ」

「えへへ。ごめんなさい」

 晩酌の時のさやかはいつも、今にも冬枝の膝に乗っかりそうな雰囲気だった。甘えん坊の野良猫とも、今夜は会えない。

 ――さやかの奴、俺がいねえからって、こんな時間まで夜遊びしてねえだろうな。

 さやかの麻雀狂いっぷりは、常軌を逸している。うるさい冬枝がいないのをいいことに、徹夜で打っていてもおかしくはない。

 冬枝は、ロビーの公衆電話から自宅のマンションに電話をかけた。

「はい。冬枝です」

「さやか。俺だ」

「冬枝さん!」

 さやかの声に、電話越しでも分かるぐらい嬉しさが滲む。それを聞いたら、先ほどの霜田の話が、冬枝の中から遠く霞んでいった。

「お疲れ様です。お仕事、もう終わったんですか」

「ああ。これからシャワー浴びて寝るとこだ」

 お前はどうしてる?と冬枝が聞くと、さやかは「僕もです」と笑った。

「今日はちょっと、色々あって疲れちゃいました」

「お前もか。なんだ、麻雀で何かあったのか」

「そんなところです」

 さやかに何があったのか気になるが、使い古しのテレホンカードの残り度数があとわずかしかない。深追いはしなかった。

「じゃ、夜更かししないでとっとと寝るんだぞ」

「はい。…冬枝さん、明日帰って来るんですよね」

「ああ。朝9時にはそっちに着く」

 この分だと、睡眠時間はさほど取れそうにない。さやかもこんな時間まで起きていては、出迎えは期待できそうにないな、と冬枝は苦笑した。

 さやかは、小さな声でそっと言った。

「冬枝さんがいないと、寂しいです。帰って来るの、待ってます」

 冬枝が返事をする前に、さやかは「おやすみなさい」と照れ臭そうに電話を切った。

「………」

 ――俺だって、とじぇねぇよ。

 さやかがいないと、身体の片っぽがすーすーする。冬枝は絶対に口には出せないから、さやかに寂しいと言われて頷く側がいい。

 電話ボックスの扉をガシャンと閉める音が、人気のないロビーに響き渡る。静けさに追い立てられるようにして、冬枝は自室へと向かった。



 ――冬枝さん、そろそろ帰ってくるかな。

 朝のニュースを見ながら、テーブルの下でさやかの足がそわそわと揺れる。テレビ画面の時刻表示を何度も見ては、早く9時になればいいのにともどかしくなる。

 ――昨日は、嵐さんと朽木さんに挟まれて、散々だったな。

 もはや、あれは『デート』というより、珍獣を2匹連れ回しているのに近かった。嵐も朽木も、左右から好き勝手なことを喋るものだから、さやかは頭が痛くなりそうだった。

「知ってるか?麻雀小町。この春野嵐って野郎はな、善人面してるがとんでもねえスケベ野郎なんだぞ」

「なんだよ!女喰らいの怪獣クチッキーに言われたくねえよ!」

「メイちゃんから聞いてんだぞ!警察官時代からあっちの女にこっちの女って、とっかえひっかえしてたって言うじゃねえか」

「鳴子の奴、よりによって朽木にチクるかね」

 どうやら、嵐は昔から鈴子一筋だったわけではなかったらしい。さやかの冷ややかな視線に気付いたのか、嵐が「違うぞ、さやか!」と弁明した。

「昔はさ、鈴子も色んなおじさんと不倫してたから、俺なんて眼中にも入れてくれなかったの。嵐クン寂しくて、つい、カワイイ女の子に目移りしちゃったの。アンダスタン?」

「アイキャントアンダスタン」

「つれないなー!そんなにダンディ冬枝がいいかよ」

「今、冬枝さんは関係ないでしょう」

 話が冬枝のことに及ぶと、そこだけ嵐と朽木の声が揃った。

「冬枝はやめとけ」

「…理由を聞いてもいいですか」

 朽木が訳知り顔で身を乗り出した。

「あいつはな、『人斬り部隊』って言われてた先代の親衛隊のナンバー2だったんだぞ。毎晩、よその組とケンカしては、人をバッタバッタ斬ってたような野郎だ」

「知ってます」

 その話なら、組弁護士の十河から聞かされている。冬枝、そして親衛隊の隊長だった源が、現在でも鬼神のような強さを誇ることからも、当時の活躍ぶりがうかがえる。

 嵐も、朽木に追随した。

「そうだぞ、さやか。冬枝さんはな、人斬ってムショに入ってんだ。お前の前じゃ猫被ってるだけで、裏社会の暗部で飯食ってるような極悪人なんだぞ。とてもじゃねえが、お前が幸せになれる相手じゃねえ」

 さやかは、これみよがしな溜息を吐いた。

「女性をとっかえひっかえしてた人と、僕にボールをぶつけた人に言われても、全然心に響かないんですけど」

「俺らなんか、冬枝に比べりゃカワイイもんだ。あいつはマジで住む世界が違うんだからな」

「んだんだ。俺らとくっついても浮気されるだけだが、冬枝さんは血を見るぞ」

 変なところで意気投合する嵐と朽木が、鬱陶しいことこの上ない。これ以上、冬枝反対演説を聞かされてはたまらないので、さやかは、「そうだ」と言って指を鳴らした。

「せっかく三人揃ったんですし、三麻しましょうよ。勝敗次第によっては、お二人の話を聞いてあげてもいいですよ」

「やんた」

「断る」

 さやかは結構本気で誘ったのだが、嵐と朽木の双方から断られた。

 ――ホント、つまんないデートだった。

 鈴子と鳴子の再会に、あの2人を同席させなかったのは正解だった。嵐も朽木も自分勝手なものだから、2人揃うと非常にうるさい。

 冬枝の過去がどうであれ、大事なのは今じゃないか、とさやかは思う。過去なんて変えられないものを槍玉に上げたところで、何の意味があるのだろう。

 ――早く、冬枝さんに会いたいな。

 3日も冬枝がいないと、このままもう会えないのではないか、なんて不安に襲われそうになる。玉榧なんて汽車に乗ればすぐの距離だし、いっそ会いに行ってしまおうか、とさえ考えたぐらいだ。

「あっ」

 外から、足音が聞こえた。さやかは椅子から飛び上がり、玄関までタタッと走った。

 さやかがガチャッとドアを開けると、ちょうど鍵を片手にドアを開けようとしていた冬枝が、驚いたように目を丸くした。

「おう。起きてたのか、お前」

「起きてますよ。冬枝さんが帰ってくるの、ずーっと待ってたんですから」

「お土産あるぞ」

 と冬枝が言い終わらないうちに、さやかはぎゅうっと抱き付いていた。

「おかえりなさい。冬枝さん」

 冬枝の温もりが、さやかの全身に伝わる。ここに冬枝がいる嬉しさが、溢れて止まらない。

 ――ずーっと、冬枝さんに会いたかった。

「さやか……」

 冬枝は軽くさやかを抱き返すと、ぽんぽんと背中を叩いた。

「あのな、そういうことは後ろの連中が帰ってからにしような」

「えっ?」

「兄貴、オレらのことは無視してどうぞ、どうぞ」

「バカ土井、喋るなって」

 冬枝の背後には、荷物を持った高根と土井もくっついていた。さやかは、赤面して冬枝から身を離した。

「おっ、おかえりなさい、高根さん、土井さん。お疲れ様です」

「いやー、お邪魔してすみません。荷物置いたら、すーぐ帰りますんで」

「バカ野郎、帰るんなら部屋の掃除してからにしろ」

 冬枝にどやされ、土井が「へーい」と首をすくめる。

「のぎな。エアコンの温度下げていいか、さやか」

「…ええ」

 すっかり、いつもの朝の風景だ。ぱたぱたとシャツの襟元を広げる冬枝に、わらわらと荷物を広げる高根と土井。

 そんな3人を見ながら、さやかの中で、何かが静かに満たされていった。

 ――やっと、僕が100%になったみたい。

「冬枝さん。僕、冬枝さんに話したいことがいっぱいあるんです」

 冷たい麦茶をグラスに注ぎながら、さやかは笑みを浮かべた。

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