27話 人を呪わばアラ二つ
第27話 人を呪わばアラ二つ
港町からの帰り、嵐と鈴子は道路沿いのラブホテルに入った。
「さやちゃん、今頃どうしてるかしらね」
ピンク色のベッドに並んで横になりながら、鈴子がしみじみと言った。
「水着も可愛かったし、もしかして、冬枝さんとよろしくやってたりして」
「ね!」
嵐は、鋭く否定の意を表した。
「ダンディ冬枝だって言ってただろ、さやかの水着姿はペッタンコで色気がねえって」
「いいじゃない、ちっちゃくたって。嵐、知ってる?さやちゃんはね、おっぱいもお尻も手のひらにすっぽり収まって、すごくカワイイのよ。守ってあげたくなっちゃう」
「お前、いつの間にさやかとそんな関係に…!?」
鈴子とさやかの肌色ピンク絵巻が脳内に展開し、嵐は嫉妬と興奮の入り混じった複雑な気持ちになった。
――いや、この際、さやかが鈴子とイチャつく分にはいい。
「ダンディ冬枝とよろしくなったって、弄ばれて捨てられるのがオチだ。俺は断固反対!」
「あんた、さやちゃんの何なのよ。さやちゃんが冬枝さんとどうなろうと、さやちゃんの人生でしょ。口出ししないの」
さやちゃんに嫌われちゃうわよ、と言って、鈴子は嵐を抱き寄せた。
鈴子の弾力のあるバストに包まれながらも、嵐の懸念は収まらない。
「さやかは絶対、男に夢見てる。でなきゃ、ヤクザのオッサンになんか惚れねえ」
鳴子だってそうだった。評判の悪い不良だろうと、女癖の悪いヤクザだろうと、鳴子の目には王子様に映ってしまう。そのせいで自分が傷つこうが、お構いなしだ。
「そうかもしれないわね。さやちゃん、純粋だから」
「夢が裏切られた時、あいつが落ちるのは絶望のズンドコだ」
ドン底ね、と鈴子が訂正した。
「そうなる前に、とっとと目を覚ましてやるべきなんだ。ダンディ冬枝は素敵な王子様じゃなくて、ただのスケベなオジサマなんだって」
朽木と駆け落ちした鳴子も、今では後悔しているのではないだろうか、と嵐は思う。大好きな姉と離れ、さやかを殴るようなヤクザと一緒になったところで、鳴子が幸せになれるはずがない。
「そんなこと言ったって、恋してる女の子に外野の声なんか耳に入らないわよ。冬枝さんよりカッコいい人が現れれば別だけど」
「ううむ。ワイルド嵐くんの魅力が、白板小町には分からないのかなっ!?」
「あんた、そのネタはもうさやちゃんの前で言っちゃダメよ」
「とにかく、俺はさやかを鳴子みたいにしたくねえ」
嵐が鏡張りの天井を睨むと、鈴子の表情が少し翳った。
「言ったでしょ、鳴子は鳴子の道を選んだんだって。さやちゃんも同じよ」
だが、そう言いながら鈴子は寂しそうだ。惚れっぽくて手のかかる妹を、鈴子がどれだけ大切にしていたか、嵐はよく知っている。
――鳴子の奴、朽木なんかとさっさと別れりゃいいのに。
それで、また家に帰ってくればいい。嵐と鈴子と鳴子と3人、きっと楽しいだろう。
「嵐ったら、素っ裸でなに難しい顔してるのよ。そんな顔は、おっぱいに挟んじゃうから」
鈴子の豊かな胸の谷間にぐりぐりと頭を押し付けられ、嵐は気持ちが高揚してきた。
「そうだ!いっそ、さやかが麻雀に興味を失くせば、ヤクザの代打ちなんか辞めるよな。代打ちを辞めりゃ、ダンディ冬枝にかかっていた王子様の魔法も解ける」
つまり、さやかが普通の女の子になればいい。裏社会という危ない世界から抜け出し、普通の世界に戻れば、さやかは冬枝なんてヤクザに見向きもしなくなるだろう。
「さやちゃんが麻雀大好きなの、あんたも知ってるでしょ?無理よ、そんなの」
おっぱい吸わせてあげるから、もう寝なさい、と鈴子は言った。
だが、嵐にはこの「さやか、普通の女の子に戻ります作戦」は悪くないように思えた。
なにせ、さやかは浪人生だ。高校という鳥籠から解き放たれ、親元からも離れ、人生で一番自由な時期といってもいい。少し背中を押してやれば、簡単に麻雀から目移りするだろう。
――そうだ。さやかも、鳴子みたいにおしとやかな女になりゃいいんだ。
黙ってれば可愛いんだし、タバコ臭いおじさんばっかの雀荘を卒業すれば、王子様のほうから寄って来るだろう。
よし、と作戦を頭の隅に叩き込んでから、嵐は鈴子の胸を楽しむことに専念した。
――やっぱ、我が家はいいな。
たった2日、組長の別荘にいただけだったが、帰ってきた自宅がありがたく感じる。冬枝は、しみじみとコーヒーの香りを嗅いだ。
「やっぱりお家はいいですね、冬枝さん」
さやかがちょうど同じことを言ったので、冬枝はおっと思った。
「お前もそう思うか」
「はい。組長の別荘もすごく豪華で、僕にはもったいないぐらいでしたけど…」
さやかはコーヒーを一口啜って、「ここのほうが落ち着きます」と言って笑った。
2日ぶりのいつもの朝食だからか、なんてことない会話ですら、妙に気分が浮き立つ。さやかの笑みが、ヒマワリみたいに咲き綻んで見える。
――まるで、付き合いたてのガキ同士みたいだな。
だが、悪い気はしない。冬枝は、ニヤつきそうになるのを新聞で隠した。
さやかが、コーヒーカップをしげしげと見下ろした。
「なんか、今日のコーヒー美味しいですね。もしかして、ゴールドブレンドですか?」
「おう。こないだ買ったやつ、開けたんだ」
「いいんですか?高いから、今飲んでる普通のやつがなくなったら開ける、って言ってたのに」
代打ちとして一夜に100万稼ぐことも珍しくないさやかだが、金銭感覚は至って庶民的だ。或いは自分の貧乏性がうつったせいかもしれない、と冬枝は苦笑した。
「いいんだよ。親分たちにたっぷりサービスしてやったんだから、このぐらいのご褒美は当然だ」
初日は昼間に肉を焼かされたし、2日目は浜辺でスイカ割りをやらされるだの、夜の花火の支度をさせられるだの、冬枝は働かされっぱなしだった。
「冬枝さんのおかげで、僕も楽しかったです。冬枝さんったら、目隠ししてるのに一発でスイカを真っ二つにしちゃったから、みんなびっくりしてましたね」
「普通だろ、あれぐらい。見えなくたって何となくわかる」
「冬枝さんが凄いんだと思いますけど。盲牌みたいなものですか?」
別荘にいようと家にいようと、さやかの頭の中は麻雀一色だ。冬枝は、組長の別荘での麻雀を思い出した。
「お前、夜に麻雀してる時が一番楽しそうだったよな」
「ええ。だって、白虎組の幹部の皆さんと一緒に打てる機会なんて、滅多にありませんから」
勿論、さやかに組長たちへの遠慮などない。組長や榊原はやり甲斐があっていいと言ってくれたが、終始ウマだった霜田はむくれていた。
「榊原さんたちはともかく、親分とは打ちたくなかっただろ」
さやかは初日の昼間、組長のせいで海で遭難しかけた。冬枝が助けられなかったら、さやかは溺れていたかもしれないのだ。思い出すにつけ、冬枝は組長に腹が立つ。
だが、さやかは舌を出して笑った。
「組長も、雀卓ではただの人ですよ。僕は牌を持ってる時だけは、怖いもの知らずになれるんです」
「…お前らしいな」
強がりかもしれないが、さやかにだってプライドがあるのだろう。組長に怯えたままでは終わらない、というさやかの気概が、冬枝には眩しかった。
「霜田さんは一生懸命打ってていいなって思いました。僕が先生になって教えてあげたいぐらいです」
「嫌がるだろうなあ、霜田さん」
冬枝が言い、2人で顔を見合わせて笑った。
幹部たちとのつまらない慰安旅行も、さやかとこうして語っていると、それなりに楽しかった気がしてくる。
「お前、今日は家にいるのか」
「いえ。『こまち』で打ってきます」
「帰って来た途端、麻雀かよ」
「はい」
さやかはえへへ、と笑った。
「だって、今夜は賭場でしょう?腕ならししておかないと」
「さやかなら負けねえよ」
冬枝にさらっと言われ、さやかはふふっ、と笑った。
「その前に、朽木さんのお宅にも行くんですけど」
「ああ?朽木?」
途端、冬枝の表情が険しくなった。
「やめろよ、朽木んちなんか。何されるかわかんねえぞ」
「朽木さんだって、朝から変なことしませんよ。健全な用事ですから、大丈夫です」
「何だよ、健全な用事って」
冬枝が前のめりになって迫ってくるので、さやかはちょっとたじろいだ。
「その……旅行のご報告とか」
「お前がそんなことする義理ねえだろ。朽木がそうしろって言ったのか」
「いやあ……」
真夏だというのに、冬枝の瞳の奥には冷たい吹雪が吹き抜けている。さやかは、どう誤魔化そうか考えた。
――響子さんのこととか鳴子さんのこととか、冬枝さんに話すわけにはいかないもんなぁ。
響子が実は朽木と霜田の差し向けた愛人であることが、万が一にも冬枝の口から榊原に伝わったらまずい。冬枝に嘘はつきたくないが、響子の立場は守りたい。
鳴子の件も、朽木・春野両家の家庭の事情という点で、これまた当事者ではない冬枝に話すのは憚られる。さやかは、答えに詰まった。
「朽木がお前に面倒かけてるって言うなら、俺が黙らせてやってもいいんだぞ」
もはや、冬枝の口調は脅迫だ。殺気が無数の氷柱となって突き刺さるようで、さやかは怖くなってきた。
「あの……そ、そろそろ時間なので、僕、支度しなくっちゃ」
「おい、さやか」
さやかは、逃げるように自室に引っ込んだ。
「…………」
その後、冬枝は、窓からさりげなくマンションを出て行くさやかの姿を追った。
「!あっ…」
なんと、さやかはマンションの前に停まった見慣れたジャガーに乗り込んだではないか。
さやかを乗せたジャガーは、エンブレムを自慢げにピカピカ光らせて走り去っていった。
――まるで、付き合いたてのガキ同士じゃねえか……。
冬枝の手の中で、握り締められたカーテンがみしみしと音を立てる。雑用に来た高根と土井は、冬枝の殺気にすくみ上がった。
「さやかちゃん、おはよう。今朝は何食べた?」
とろりと甘い蜂蜜のような声は、電話越しでもさやかをクラクラさせる。電話でこれなら、実際に会ったら腰砕けになるのではないだろうか。
朽木のマンションで、さやかは何度目かの鳴子との通話をしていた。
「おはようございます、鳴子さん。僕は、トーストとベーコンエッグを食べました」
「わあ、美味しそう。メイコはね、フレンチトーストを食べたの」
「いいですね」
この部屋の主である朽木は、テーブルに頬杖をついてこちらを見張っている。さやかが鳴子相手に嵐や鈴子の話をしないよう監視しているのだろうが、ヤクザの視線つきのガールズトークは居心地悪いことこの上ない。
「ところで、鳴子さんは響子さんと同じお店にいたと聞いたんですが」
朽木がわずかに片眉を上げたが、邪魔しようとはしなかった。
「うん。メイコと響子ちゃんはね、一緒に美佐緒ママのところでお仕事してたの。『パオラ』ってお店」
美佐緒、というのが霜田の別れた妻なのだろう。さやかは続けた。
「実は、響子さんが最近お悩みのようで…」
「あら、そうなの?」
「こういう時、励ましてあげたほうがいいんでしょうか。それとも、そっとしておいてあげたほうがいいんでしょうか」
響子は、榊原との関係を終わりにしたいと言っていた。娘のようにしか接してもらえない苦しみを吐露しつつも、榊原への恋心は残っているようにさやかには見えた。
「そうだなぁ…」
鳴子は少し考えてから「響子ちゃんはしっかりしてるから、きっと、響子ちゃん本人に任せたほうがうまくいくわ」と答えた。
「そうですよね…。僕、響子さんから相談されたのに、ありきたりなことしか言ってあげられなくて。まだまだ子供です」
響子のような大人の女性に、恋愛経験もほぼ皆無のさやかがアドバイスなどできるはずがない。分かってはいても、さやかは自分の幼さがもどかしかった。
すると、鳴子はこんなことを言った。
「子供のころにしか見えないものもあるわ」
「えっ?」
「メイコね、子供の頃からずーっと、いつか王子様がメイコを迎えに来てくれるって思ってたの。みんなはそんなことないって言うけど、メイコは信じ続けたの。そうしたら、本物の王子様と巡り会えたの」
鳴子はうっとりと「貴彦さん」と口にした。
「メイコね、一目見て貴彦さんがメイコの王子様だって分かったの。貴彦さんも、メイコのことがお姫様に見えたって言ってくれたわ」
「そうですか…」
「だからね、さやかちゃんはそのままでいいんだよ。響子ちゃんも、今のさやかちゃんだから悩みを打ち明けたんじゃないかしら」
「鳴子さん…」
女癖が悪く、人相も悪く、ファッションの趣味も悪い朽木が王子様に見えるというのは理解できないが、鳴子の言葉はまた、さやかの内面を優しく照らしてくれた。
鳴子は、笑みの滲んだ声で回想した。
「嵐ちゃんはね、ちっちゃい頃からお姉ちゃんと結婚するって言ってたんだよ」
「え…そうなんですか」
「それで、本当に結婚しちゃったものね。きっと、嵐ちゃんとお姉ちゃんは赤い糸で結ばれてたんだわ」
メイコと貴彦さんも赤い糸で結ばれてるの、うふふ、と鳴子は笑った。
話の内容はさておき、さやかは鳴子が自ら嵐たちの話をするのを初めて聞いた。
――やっぱり、今でも嵐さんたちのことが嫌いになったわけじゃないんだ。
むしろ好きだからこそ、嵐たちに迷惑をかけまいと距離をおいているのだろう。さやかは、鳴子の優しさが切なくなった。
「僕、鳴子さんに会ってみたいな」
さやかが切り出すと、テーブルで頬杖をついていた朽木がピクッと反応した。
「僕、日頃、朽木さんにとーっても、お世話になっているんです。ですからぜひ、鳴子さんにもお礼が言いたくて」
さやかは、敢えて挑発するような言い方をした。鳴子がさやかと朽木の仲を邪推し、こちらに出向いてくれればしめたものだ。
「わあ。メイコも、さやかちゃんに会いたいな。一緒にアイス食べましょ」
もっとも、この無邪気な女性に、さやかの小細工が通じたかどうか。ほどなくして、受話器を朽木に分捕られた。
「麻雀小町。てめえ、何のつもりだ」
鳴子との長い通話を終えた後、朽木が怖い顔でさやかに迫った。
「さあ。僕はただ、朽木さんの可愛い奥さんにお会いしてみたいだけですよ」
「メイちゃんを春野嵐と会わせよう、なんて企んでるわけじゃねえだろうな」
流石に朽木は察しがいいというか、猜疑心が強いというか。さやかは肩をすくめた。
「朽木さんこそ、この2日間は組のお留守番で、鳴子さんに会いに行くこともできなかったでしょう?たまには、奥さんをこちらに呼び寄せてもいいんじゃありませんか」
「メイちゃんとちょっと口利かせてやったからって、調子に乗るんじゃねえぞ」
朽木はさやかに凄んでみせると、鋭い視線を窓の向こうに向けた。
「春野嵐はメイちゃんを傷付けた張本人だ。メイちゃんが遠い東京に行っちまって焦ってるんだろうが、それこそ偽善じゃねえか」
「それは…そうかもしれませんけど」
「奴はな、善人ぶりたいだけだ。自分がメイちゃんを東京に追い払ったってのを認めたくねえんだよ。もしくは、嫁にいい格好したいだけだろ」
「…朽木さん、嵐さんに会ったことないんですよね」
なのに、よくそこまで悪く言えるな、とさやかは純粋に不思議になった。
「会ったことはねえが、話を聞いてりゃおおよその人となりは想像がつく。メイちゃんが似顔絵もくれたしな」
「えっ…嵐さんの似顔絵ですか」
おう、と言って、朽木は手帳からノートの切れ端を取り出した。
「これは……」
あらしちゃん、と丸文字で書き添えられていなければ、それが嵐の似顔絵だとは分からなかっただろう。
清々しい目元、刺さりそうなほど高い鼻梁、白い歯を見せた爽やかな笑み。テニスコートにいたらさぞかし似合いそうな、脚の長い貴公子が描かれていた。
――多分、これが鳴子さんの画風なんだろうな。
無精ヒゲも生やしていない色白の美青年は、現実の嵐とはかけ離れている。朽木は、このイラストで嵐のことをイメージしているのだろうか。
「どうだ。春野嵐ってのは、そういう男なのか」
「………鳴子さんにこう見えているなら、そうなんでしょう」
さやかは投げやりに答えたが、朽木は「うむ。メイちゃんは絵がうまいからな」と、したり顔で頷いた。
――朽木さんが自分で描いたほうが、そっくりな似顔絵が出来そうだけど。
サキタバンドシティフェスタでのことを思い出したさやかだったが、すぐに首を横に振った。
――嵐さんと朽木さんが遭遇しちゃったら、きっとろくなことにならないな。
そんなさやかの考えなどつゆ知らず、朽木はロレックスの腕時計に目を落とした。
「っと、もうこんな時間か。麻雀小町、俺様はこれから事務所に行くから、帰りは歩けよ」
「はい」
朽木は、今日は組当番があるのだという。それで、さやかはこんな朝早くから呼び出されたのだ。
「親分の別荘に呼んでもらうなんて、いいご身分になったもんだな。てめえ、そのうち親分の愛人にされるんじゃねえか?」
朽木にニヤニヤとからかわれたが、さやかは受け流した。
「さあ。組長には、そんなつもりはないでしょう」
――組長の狙いは、もっと深いところにある。
朱雀組組長殺害事件への関与を巡り、さやかは青龍会と秋津一家の双方に狙われている。あの老獪な組長なら、さやかを駆け引きの道具に利用することぐらい考えているだろう。
「麻雀小町は、麻雀しか能がねえからな。愛人ってガラじゃねえか」
朽木にそう言われ、さやかは怒りが湧いてくるよりも、何か気持ちがスッキリした。
――そうだ。僕はただ、自分の信じる道を行けばいい。
さやかが事件に関わっていると知っても、冬枝はさやかを責めなかった。冬枝のためにも、さやかは出来る限り、偽りのない自分でいたい。
――つまり、今日は麻雀を打ちに行く。
さやかは、朽木のマンションを出たその足で『こまち』へと向かった。
雀荘『こまち』で、嵐は自らさやかに勝負を申し込んだ。
「俺が負けたら、さやかに対する今までの無礼の数々を詫びます。土下座して、さやかに頭を踏んでもらっている姿を、入江に撮ってもらって現像して、額縁に入れて『こまち』の店内に飾ってもらいます」
入江は嵐の中学の後輩で、地元の新聞社で記者をやっている。仕事用の立派な一眼レフを持っているので、高画質の写真が撮れるだろう。
さやかは、半ば迷惑そうな顔をした。
「…何が狙いですか、嵐さん」
「狙いなんてなんもねえよ。麻雀小町と、正々堂々勝負がしたいだけ」
猫撫で声ですり寄る嵐を、さやかは鼻で笑った。
「嘘ですね。悪だくみをするなら、もう少し上手に隠したほうがいいと思いますよ。嵐さん」
「可愛くねえなあ、お前は」
冬枝の前ではもじもじしている癖に、嵐の前だと生意気盛りの小娘だ。呆れた豹変ぶりだが、これが恋する女というものだと知っているからこそ、余計に嵐はさやかを冬枝から遠ざけたいのだ。
「で?そこまで言うからには、僕が負けたら相当、屈辱的なことをさせるつもりなんでしょう?何ですか、嵐さんのお望みは」
いつにもましてさやかの口ぶりが高慢なのは、嵐が別荘で散々「白板小町」とからかったことを根に持っているのかもしれない。
或いは、冬枝との仲がいい感じに盛り上がっているから、テンションが高いのだろうか。胸中の暗い心配は押し隠し、嵐はにっこりと笑みを浮かべた。
「髪の毛くれ!」
「は?」
「髪だよ、髪。俺が勝ったら、さやかの髪の毛をちょーだい」
さやかは、困惑したように眉を八の字に下げた。
「……丸坊主にしろってことですか?」
「違ぇよ!ワイルド嵐クンはそんな鬼じゃねえよ。毛先ちょっとだけ、数ミリくれりゃいいから」
「そんなもの、何に使うんですか」
さやかが気味悪がるのも無理はない。嵐はちゃんと、言い訳を用意していた。
「鈴子にやるんだよ」
「鈴子さんに…?」
「そ。可愛いさやちゃんの髪をこう、キュートな小袋にでも入れて、お守り代わりにいつもそばに持ち歩くんだよ。あいつ、結構寂しがり屋だからさ」
「………」
さやかは半信半疑といった顔つきだったが、「まあ、いいですけど」と言った。
「僕が勝ったら土下座の写真というのは、やめてくださいね。土下座だけで結構です」
「土下座はさせるのね…」
いい性格してるよな、と毒づきつつ、嵐は内心でしめしめと笑った。
――これで、『虫封じ』ができる。
その日の午後、嵐は市内にある寺を訪れた。
嵐が「おーい」と訪いを入れると、若い僧侶が小走りにやって来た。
「嵐さん。まさか、ホントに髪の毛持ってきたんですか」
「おうよ」
嵐が自慢げに戦利品――さやかが渋々、ハサミで切って寄越した髪の毛を入れた封筒を掲げると、僧侶は苦笑した。
「一体、なんて言ってもらって来たんですか?それ」
「正当な勝負の報酬です」
実際、嵐は一切イカサマをしていない。清老頭なんて大技で和了れたのは、ひとえに天が正義の味方である嵐を後押ししてくれたものだろう。
「俺、チンのつく役が大好きなんだよねー!男の子だからっ!」
高笑いする嵐に、さやかは苦々しそうに卓を叩いた。
「どうして、こんな人に勝てないんだ…!」
「さあさあ、お約束のものをちょーだい」
嵐がこれ見よがしに手を突き出すと、さやかは不機嫌そうにハサミを手にした。
「どのくらい切ればいいんですか」
「あ、そんなに切らなくてもいいぞ。ちょっとでいいからな」
すると、冬枝の弟分である高根と土井がバタバタと『こまち』に駆け付けた。
「何やってるんですか、さやかさん」
「高根さん…。すみません。嵐さんに負けたので、今から髪を切るところです」
さやかがハサミを髪にかざすと、高根が顔色を変え、土井がサングラス越しに口笛を吹いた。
「女の髪切らせるなんて、嵐の旦那、思いのほか鬼畜っスね。兄貴に言いつけちゃお」
「さやかさん、そんなことする必要ないですよ。兄貴を呼んできます」
憤慨する高根に、さやかは首を横に振った。
「負けたのは僕ですから。嵐さんはほんの少しでいいって言ってるし、どうってことないです」
そう言って、さやかはチョンと毛先をハサミで切った。
「はい。これでいいですか、嵐さん」
「十分、十分。悪いな、さやか」
嵐がありがたそうにさやかの髪をもらうのを見て、弟分コンビは目を三角にした。
「このこと、きっちり兄貴に報告しますからね。首を洗って待っていてくださいよ、嵐さん」
「嵐の旦那、女の髪の毛集めるのが趣味だったんだ。やべえ…」
鼻息荒く去っていった2人を見て、嵐が苦笑した。
「おい、中尾。あいつら呼んだの、お前だろ」
「………」
「お前、どっちの味方なんだよ」
マスターの中尾は、嵐の声など聞こえないとばかりにふいと顔を背けた。嵐と懇意にしつつ、オーナーである冬枝に雇われている中尾の立場は複雑らしい。
嵐がさやかの髪の毛を切らせた、などと聞いたら、冬枝はきっとさぞかし怒るだろう。
しかし、嵐に言わせれば、冬枝のほうがよほど悪いことをしている。さやかの麻雀を愛する気持ちにつけ込み、自身の金儲けに利用しているのだから。
そういうわけで、これから行なうのは、いたいけな乙女を救うための正義の儀式である。床に広げられた長い長い巻物に、人の形に切られた白い紙、そしてさやかの髪の毛、が並んだ様子は何やらおどろおどろしいが、決して邪悪なものではない。
「嵐さん、ホントに『虫封じ』やるつもりですか?」
「おうよ。さる可憐な乙女に、わるーい麻雀狂いの虫が取り憑いてるんでな」
「麻雀狂いの虫なら、俺や嵐さんにも取り憑いてると思いますけど」
そう苦笑する僧侶は、この寺の見習い住職だ。修行を積むかたわら、趣味の麻雀を通じて嵐と知り合った。
「俺も、ちゃんとしたやり方は知らないんですよ。先輩がこれやって、檀家さんの酒癖の悪さが治ったって言ってただけで」
本来は『癇の虫』など、手のつけられない癇癪や大暴れをする者を鎮めるための護符らしい。
僧侶は白い型紙に、筆で「夏目さやか」と名前を書いた。
「えーと、生年月日はいつでしたっけ」
「ちゃーんと調べてあるぞ。夏目さやか、昭和42年9月18日、未年生まれの乙女座」
さやかと相性占いがしたい、と言って、半ば無理矢理聞き出したものである。
僧侶は人型にさやかの生年月日をしたためると「あとはお経ですね」と言って、長い巻紙を憂鬱そうに見下ろした。
「これ、全部書いてたら2時間はかかりますよ。いやだなあ」
「そう言うなって、これも人助けだと思って。お布施は弾むからさ」
嵐が指で輪っかの形を作ると、僧侶は苦笑した。
「なんか、嵐さんにハメられた気がするなあ。今後は麻雀控えようっと」
「そう言ってホントに麻雀を控えた奴を、俺は見たことがありません」
まあ、さやかはこれで本当に麻雀を控えるかもしれない。麻雀小町は普通の女の子になり、おじさんヤクザとの不健全な関係から足を洗うのだ。
さやかの髪の毛が入れられた人型が、嵐にはさやかの守り神のように見えた。
夕方、雀荘『こまち』で常連と打っていた嵐の元に、冬枝たちがやって来た。
「おい、嵐」
冬枝の声を聞いて、早速来たか――と嵐は不揃いの手牌たちから顔を上げた。
忠臣面した弟分2人のご注進を受けて、プッツンヤクザは真っ赤になって激怒していることだろう。さあからかってやろう、と振り返った嵐が見たものは、青くしなびたナスのような冬枝の顔だった。
「てめえ、さやかに何しやがった…」
という声もか細い。両脇に控える弟分2人も、沈痛な面持ちをしている。
――もしかして、早速さやかにフラれたのかしらん。
だとしたら、嵐としては拍手喝采である。ドスケベヤクザの失恋を指差して手を叩いて笑ってやろうと思ったが、冬枝の表情があまりにも深刻なのを見て、流石に変だと気付いた。
「ダンディ冬枝、さやかがどうかしたんスか?」
「朽木と結婚するって言ってる…」
「え?」
「さやかが、朽木と結婚したいって言ってんだよ!」
なんでだ、と冬枝は嵐の胸倉をつかんで揺さぶった。
なんでと言われても、嵐も完全に面食らっていた。
――なんで、さやかがそんなことに?
横から高根が「それが…」と説明した。
「お昼からずっと、さやかさんの様子がおかしいんです。朽木さんからもらったフリフリのワンピース着て、朽木さんと結婚したい、朽木さんのお嫁さんになりたい、ってそればっかり言ってるんです」
「どうしちゃったんだろうね。さやかさん、親分の別荘ではあんなに兄貴とアツアツだったのに」
「おい、土井。余計なこと言うなよ」
土井のせいではないだろうが、冬枝は「さやかああ…」と悲痛な声を上げた。
「さやかが朽木なんかに惚れるわけねえ。嵐、てめえ何か知ってるんだろ」
「さあ、何のことやら」
「とぼけるんじゃねえ!てめえがさやかの髪の毛もらったって、こいつらから聞いたんだぞ」
思わぬ成り行きに嵐は内心、冷や汗をかいていたが、それでもしらばっくれた。
「だから何だって言うんですか、ダンディ冬枝。俺がさやかの髪の毛もらって、呪いでもかけたって言うんですか?この現代に呪いなんて、あるわけないじゃないっスか」
嵐は半ば、自身に言い聞かせるように言った。
――そんなまさか、『虫封じ』のせいでさやかがおかしくなったなんてこと……。
「とりあえず、さやかと会わせてくださいよ。さやかがそんな風になっちまったなんて、話だけじゃ信じられねえ」
「いいだろう。さやかの奴、朽木に会いたいってうるせえから、部屋に閉じ込めてある」
嵐は中尾に「ツケにしといてちょ」と言って、牌を置いて冬枝のマンションへと向かった。
「くすん…くすん…」
一行が冬枝の部屋に着くと、薄暗いリビングでさやかがすすり泣いていた。
「どうした、さやか。何かあったのか」
冬枝が、過保護パパ丸出しでさやかの元にダッシュした。引っ繰り返った革靴を、高根が律義に揃える。
さやかは「朽木さんが…」と、いつもの10分の1の声量で言った。
「さやかね、朽木さんに会いたいから、迎えに来てってお電話したの。そしたら朽木さん、今日は組当番だからダメだって。さやか、寂しい…くすん…」
白いレースのワンピース姿のさやかは、小指の端で涙をぬぐった。
さやかのしおらしい様子に、嵐は開いた口がふさがらなかった。
――誰だ、あいつ。
話し方から内容から、いつものさやかとはまるで別人だ。嵐は、冬枝を押しのけてさやかに迫った。
「おい、さやか。俺が誰か分かるか?」
「嵐さん」
「頭は正常みたいだな…」
冬枝が横から「そうでもねえぞ」とかすれた声で言った。
「さやか、麻雀なんかしねえって言うんだ」
「えっ」
「うん。さやか、麻雀って難しいからできないの」
日中、俺と麻雀したばっかじゃねえか、と嵐は呆気にとられた。
小首を傾げるさやかに、冬枝が泣きそうな顔で縋り付いた。
「しっかりしてくれよ、さやか。お前、三度の飯より麻雀が好きだったじゃねえか」
「そんなことより、さやか、朽木さんのお嫁さんになりたい」
「さやかぁ~~~」
冬枝が慟哭し、さやかは夢見るような眼差しで虚空を見上げた。
嵐は確信した。
――やっぱり、これって『虫封じ』のせいなのか。
確かに、麻雀狂いの虫はさやかから退治できたらしい。だが、どうして朽木の嫁になりたい、などと言い出したのか。
――麻雀の虫を封じると、朽木好きの虫が騒ぎ出すのか?
まさか、さやかの本命は冬枝ではなく、朽木だったのか。冬枝から王子様の魔法が消えた結果、さやかは朽木に対する秘めた恋心を自覚してしまったというのか。
――そっちのほうがまずい!
嵐にしてみれば朽木も冬枝も十把一絡げ、札付きのワルであることに変わりはないが、冬枝はこの通り、表面上はさやかにベタ惚れだ。変わり果てたさやかを抱いておーいおいと泣いているおじさんと違って、さやかを殴った怪獣クチッキーに、ここまでさやかへの愛情があるとは思えない。
嵐はあくまで、さやかに堅気の男と幸せになって欲しいと思っただけだ。朽木に惚れる呪いなんて、冗談じゃない。
「さやか、今夜は賭場があるんだぞ。どうするんだ」
冬枝が泣き付くと、さやかは人形のような虚ろな笑みを浮かべた。
「麻雀したら、さやかを朽木さんのお嫁さんにしてくれる?」
さやかのこの発言で、過保護おじさんがついに限界を迎えたようだった。
冬枝は目を見開き、瞑目し、そして笑いだした。
「くっくっく…」
「あ、兄貴?」
怯える弟分たちに、冬枝は「行くぞ、てめえら!」と威勢よく号令をかけた。
「朽木は事務所だったな。よし、ぶっ殺してやる」
「兄貴、事務所でやらかすのはまずいですよ。どこか別の場所で…」
「うるせえ!モタモタしてたら朽木に逃げられちまうだろうが」
もはや嵐の存在など目に入っていないようで、冬枝は弟分たちを連れてドカドカと出て行ってしまった。その勢いたるや、忠臣蔵から44人引いたバージョンと言ってもいいほどだ。
「プッツン冬枝、プッツンの世界記録更新ねー…」
冬枝のことはともかく、今のさやかを一人にしておくのは心配だ。嵐は、我が物顔で冬枝家のソファに腰かけた。
さやかは、ぼんやりと夕暮れの窓辺を眺めている。何だか、お人形のようだ。
「なあ、さやか。朽木じゃなくて、ワイルド嵐クンって選択肢はねえか?」
それなら、さやかを嵐の嫁さん2号にすることで、円満解決だ。冬枝はプッツンするかもしれないが、その時は110番に通報すればいい。
さやかは首を横に振った。
「ううん。嵐さんは、鈴子さんのお婿さんだもの。さやかは、朽木さんがいい」
さやかのどこか舌足らずな「嵐さん」が「嵐ちゃん」に聞こえて、嵐は眉根を寄せた。
――今のさやかは、まるで……。
「…なんで、朽木がいいんだ?お前、朽木にいい思い出なんかねえだろ」
嵐の不安を裏打ちするかのように、さやかは淡い笑みで答えた。
「さやかね、朽木さんのお嫁さんになるの。そうすれば、鳴子さんは嵐さんと鈴子さんのところに帰ってくるでしょう?」
嵐は、言葉を失った。
オレンジ色に染まる白虎組事務所では、朽木と霜田が顔を突き合わせていた。
「どうやら、麻雀小町が朱雀組の事件に関わっているのは事実のようです」
先日の別荘行きで、霜田は組長からそう明かされていた。
「青龍会の狙いは、あのお嬢ちゃんだよ。俺たちは言うなれば、おまけ」
最初、その場にいた霜田も榊原も、組長の言がにわかには信じられなかった。
「ご冗談を。日本一ともいわれる青龍会が、たかが小娘一匹のためにこんな田舎まで出張るなんて、ありえません」
尤も、さやかが朱雀組の事件に関わっているらしい、というのは橋から飛べ、と組長に迫られた時の反応で霜田も薄々分かってはいた。だとしても、事件の当事者でもない青龍会が、さやかを捕まえようとするのは解せない。
そこで榊原が「まさか…」と言った。
「青龍会が、朱雀組との取り引きにさやかを利用するというんですか」
「そういうこと。青龍会にとっては、宿敵を叩く絶好のチャンスだからね。朱雀組が喉から手が出るほど欲しがってるあの娘を横取りして、自分たちに有利に話を進めようって腹でしょ」
「親分は、さやかをどうするおつもりですか」
榊原の声音には、さやかを心配する気持ちが多分に滲んでいた。
組長は、ふーとタバコの煙を吐いた。
「青龍会に売るか、秋津一家に売るか。いずれにせよ、あの娘を捕まえた冬枝に感謝しなくっちゃね」
組長の乾いた笑いを思い出し、霜田は溜息を吐いた。
「あの娘は爆弾です。我々の手には負えません」
もはや、さやかを使って冬枝を説得し、冬枝を通じて榊原に青龍会との闘いを諦めさせる、などという次元の話ではなくなってしまった。さやか自身が、青龍会と朱雀組の双方に狙われている火種なのだ。
朽木は「ですが、霜田さん」と言ってソファから身を乗り出した。
「親分の言う通り、これはチャンスですよ。麻雀小町を青龍会に差し出せば、スムーズに青龍会の傘下に迎えてもらえます。駆け引き次第では、待遇だって望み通りだ」
「ですが、それをやれば朱雀組が黙ってはいないでしょう。長男を殺された秋津一家もそうです。白虎組と秋津一家の全面衝突は避けられなくなります」
かつては青龍会入りに乗り気だった霜田だが、今は打って変わって消極的だ。榊原との関係が軟化したせいもあるのだろう。霜田はあくまで、榊原を守りたいだけだからだ。
朽木は、内心で舌打ちした。
――どいつもこいつも、勝手なこと言いやがって。
榊原を翻意させるために差し向けた響子も、榊原の愛人をやめたいなどと泣き言を言いだした。さやかの説得で少しは落ち着いたらしいが、何にせよ、白虎組を青龍会入りさせる、という当初の狙いは瓦解しつつある。
――こうなりゃ、霜田さんじゃなくて親分を直接丸め込んだ方が早いか。
とはいえ、組長の胸中は朽木にも読めない。組長は飄々としていても、こちらをぞっとさせるような腹黒さを隠し持っている。下手をすれば、朽木が怪我をしかねなかった。
――いっそ、冬枝を抱き込んで……。
朽木がそこまで考えた時、外からバタバタと荒々しい足音が聞こえてきた。
「おい、朽木!いるんだろ、出て来やがれ!」
冬枝の叫ぶ声が聞こえ、朽木と霜田は顔を見合わせた。
「朽木。今、何か聞こえませんでしたか」
「どっかの野良犬が、腹を空かせて喚いているんでしょう」
などと軽口を叩いたのも束の間、直後にはバンと扉を蹴破られた。
「朽木!」
冬枝は地を蹴ると、テーブルの上に飛び乗った。コーヒーカップや灰皿が、音を立てて床に落ちる。その勢いたるや、まるで、時代劇の合戦シーンだ。
「何の騒ぎです、冬枝」
呆気に取られる霜田をよそに、冬枝は手にした鉄パイプを朽木に突き付けた。
「念仏を唱えな。今日がてめえの命日だ」
「血迷ったか、ヒラ中年が」
冬枝は「とぼけるんじゃねえ」と怒声を上げた。
「このスケベ野郎、よくも人の女に手ェ出しやがったな」
「何の話だ」
女絡みでトラブルになるのが朽木の常ではあったものの、昼に鳴子とアツアツの電話をしたばかりで、今は他に思い浮かぶ女がいない。
と、そこで、鳴子と少しばかり口を利かせてやった女のことを思い出した。
「ああ、なんだ、麻雀小町か。ちょっと家に呼んだぐらいで騒ぐなよ」
「ざけんじゃねえ。てめえのせいで、さやかは、さやかは……」
鉄パイプを持つ冬枝の手が、わなわなと震えている。何やら様子がおかしい。
「兄貴!」
遅れて、冬枝の弟分たちが駆けつけてきた。冬枝に持たされたのか、こちらもぎこちなく鉄パイプを手にしている。
冬枝は「あーっ!」と雄叫びを上げた。
「朽木、全部てめえのせいだ。二度とさやかに近付けないよう、ボコボコにしてやる」
「上等だ。やれるもんならやってみやがれ」
いきなり年増の親父にケンカを売られて、すごすご引き下がってはいられない。朽木はソファから立ち上がりざま、冬枝が乗っているテーブルを蹴り倒した。
冬枝はすかさずテーブルから飛び退り、霜田が座っていたソファを後ろ足で蹴飛ばした。
「ぐわっ!」
霜田がソファから転がり落ちたが、もはや朽木も冬枝も視界に入ってはいなかった。
「逃げるんじゃねえぞ、朽木!」
「誰が逃げるか!足腰弱った中年の分際で、粋がるんじゃねえ!」
それぞれの弟分たちも加わり、執務室は突然の合戦図と相成った。
その頃、嵐はさやかを連れて、虫封じを行なった寺を訪れていた。
「なあ、『虫封じ』って、どうすれば解除できるんだ?」
線香の香りが漂う本堂で嵐が尋ねると、若い僧侶は困り果てた。
「そんなの、俺にも分かりませんよ。そもそも解除するようなものじゃないですから」
「じゃあ、あの人型寄越せよ」
「それなら、ここに」
僧侶は、仏壇の陰に立てかけておいたさやかの人型を取り出した。
嵐は人型を受け取ると、ぎゅっと握り締めた。
「燃やしちまおう、こんなもん。そうすりゃ、さやかはきっと元に戻るはず」
「燃やすのはいいですけど、外でやってくださいよ。火事になったら大変ですから」
「分かってるって」
さやかの名前と生年月日、お経がしたためられた人型は、改めて見てもまがまがしい。これじゃ本当に呪いだ、と嵐は反省した。
――俺が、鳴子みたいになって欲しいなんて思ったせいだ。
さやかは、鳴子ではない。分かってはいても、ヤクザに恋するさやかについ、鳴子の面影を重ねてしまった。
さやかに、鳴子のようにヤクザと駆け落ちして欲しくない、という気持ちは変わらない。だが、それはこんな呪いではなく、別の手段で叶えたほうがいい。
嵐が人型片手に境内に出ると、さやかがふらふらと寺の外へ出ようとしていた。
「あっ、さやか。どこ行くんだ」
「組事務所に行くわ。朽木さんに会いに行くの」
「ちょっと待てって!」
恐らく、今頃事務所はプッツン冬枝の討ち入りによって、大わらわになっているはずだ。そんなところにさやかが行ったら、ますますややこしいことになってしまう。
行動は鳴子のようにふわふわとしていても、さやかの足は速い。嵐が慌てて追いかけたところで、突風が吹き上げた。
「あっ!」
風にさらわれて、さやかの人型が天高く舞い上がる。手を伸ばす暇もなく、人型は空の向こうに吸い込まれていってしまった。
「そんな……」
これでは、さやかの虫封じを解くことができない。途方に暮れかけた嵐は、ハッと我に返ってさやかを追いかけた。
冬枝の振り下ろした鉄パイプを、朽木の銃床が受け止める。
「ちっ。しぶとい野郎だな」
「てめえこそ、そろそろ息が上がってきたんじゃねえのか、オッサン」
冬枝は「ほざけ」と言って、背後に飛びのいた。
倒れたソファに、レールから外れたブラインドがだらりと垂れ下がる。冬枝と朽木のチャンバラによって、執務室はすっかり荒れ果てていた。
「てめえを殺すまでは帰らねえからな」
「そんなに麻雀小町が恋しいか?あの女は金になるぜ。とっとと青龍会に売り渡しちまえ」
朽木がせせら笑うと、冬枝は「うるせえ」と遮った。
「俺の女をどうしようが、俺の勝手だろうが。それを汚え手でちょっかいかけやがって、頭カチ割ってやる」
「金勘定もできねえか、貧乏人が。まあいい、ガンコ親父には大人しくなってもらうぜ」
冬枝と朽木が再びやり合い始めたところで、霜田の金切り声が場を切り裂いた。
「いい加減にしなさい、お前たちーっ!!!」
キーンと耳をつんざくような甲高い叫びは、ある意味、この場に交錯する野太い罵声とは対極だった。
お陰で、冬枝も朽木も、一瞬で頭の中が真っ白になった。
騒ぎに巻き込まれたせいか、霜田のオールバックの髪は乱れ、スーツの袖はほつれていた。ずれた眼鏡を指で押し上げ、霜田は眦をキッと決した。
「こんな騒ぎが組長や若頭に知られたら、タダじゃ済みませんよ!分かっているのですか、朽木、冬枝ーっ!」
「は、はい」
小柄な総身を震わせて叫ぶ霜田に、冬枝も朽木もすっかり圧倒されてしまった。
「罰として、お前たちにはトイレ掃除を命じます!今すぐやって来なさい!」
「えっ、俺もですか」
朽木は「冬枝の野郎が、勝手に俺に襲い掛かってきたんですよ」と言ったが、霜田は取り合わない。
「朽木。お前だって、冬枝の恨みを買うような覚えがあるんじゃありませんか」
「麻雀小町のことですか?ハハ、あんなガキに何もしやしませんよ。ちょっとヤボ用で家に呼んだだけです」
しかし、霜田は首を横に振った。
「長年、お前の面倒を見て来ましたが、お前の女に関する言い分だけは信用できません」
「そんな!」
「とにかく、2人で反省してきなさい。隅々まで掃除したかどうか、後でチェックしますからね」
霜田は部屋に残っていた若い衆たちに「お前たちはここを片付けなさい!」と命じて、冬枝と朽木を追い払った。
組事務所のトイレは、わざわざ2人がかりで掃除するほど広くはない。冬枝と朽木は肩を押し合うようにして、それぞれ道具を手に持った。
「俺は便器磨くから、てめえは洗面台と床拭け」
「俺様に指図するんじゃねえ。…と言いたいところだが、そいつはナイスアイディアだ。たまには年長者に従っておいてやるよ」
高根や土井のように「いや、自分が便器をやる」などと言う謙虚さが、朽木にあろうはずもない。そもそも年下らしい可愛げもない朽木に、冬枝は期待していないが。
「人のことを年長者って言うが、てめえ、いくつなんだよ」
「36」
「俺より7つも下じゃねえか。老けてんな、お前」
冬枝が思わず本音を口にすると「オッサンに言われたくねえよ」と憎まれ口で返された。
「そういや、霜田さんから聞いたぜ。冬枝、てめえ、親分の別荘でやらかしたらしいじゃねえか」
「何だよ、やらかしたって」
「麻雀小町を自分の部屋に引っ張り込んで、朝までしけ込んでたんだろ。霜田さん、カンカンだったぜ」
朽木から雑巾片手に嘲笑われ、冬枝は顔をしかめた。
――さやかをミイラにするわけにいかねえんだから、しょうがねえだろ!
さやかが割り当てられた別荘の離れは、エアコンが故障していて蒸し暑かった。そのため、冬枝は夜、クーラーの効いた自室にさやかをこっそり呼び寄せた。
「俺の部屋、布団が2つあるんだ。ちょうどいいから、ここで寝てけ」
「はい…」
さやかがもじもじしているのを見て、冬枝は「なんもしねえよ」と言って笑った。
――そんな満更でもなさそうな顔されると、こっちが落ち着かねえじゃねえか。
とはいえ、流石に組長や榊原たちと同じ屋根の下で、さやかとどうこうする気にはなれない。邪心が頭をもたげそうになるのを理性で押さえつけ、冬枝は隣の布団のさやかに背を向けて寝た。
「ん?」
翌朝、冬枝が目を覚ますと、腕の中でさやかが寝ていた。
「すぅ…すぅ…」
以前、旅館で泊まった時もこうだった。朝が弱いさやかは、寝惚けて冬枝の布団に入ってきたのだ。
前回は尻を叩いて起こしたが、この日の冬枝はそんな気になれなかった。何せさやかは海で溺れたばかりだったし、昨夜は屋根の上で、2人で星空を見上げたりもした。寝ている時すら冬枝を一途に慕うさやかが、可愛くて仕方なかった。
――めんけぇ奴だな。
よしよし、と冬枝が布団の中でさやかを抱き返したところで、霜田がカンカンカンとフライパンをおたまで叩きながら部屋に入ってきたのだ。
「朝ですよ、お前たち!とっとと起きなさ……」
と言った霜田の目が、同じ布団で寝ている冬枝とさやかの姿を見た瞬間、大きく見開かれた。
「あっ…」
霜田さん、これは違うんです、と冬枝が弁解する暇もなかった。
「冬枝ーッ!何をやっているのですか、この恥知らず!」
屋敷中に響き渡る霜田の金切り声によって、組長たちにまでさやかを部屋に連れ込んだことがバレたのだった。
霜田からはガミガミ叱られるし、榊原からは気まずそうな視線を向けられたし、組長からはニヤニヤされるわで、散々だった。
組長の別荘で女とイチャつくようなハレンチ漢だと思われたのは、不本意極まりない。以前の冬枝だったら切れていたところだが、今はもう開き直っていた。
「さやかは俺の女だ。どこでイチャつこうが、誰に文句言われる筋合いもねえ」
「おうおう、お熱いこって」
肩をすくめる朽木に、冬枝は鋭い目を向けた。
「ほざきやがって。てめえ、今朝もさやかを呼び出したじゃねえか。何のつもりだ」
「何って、麻雀小町のほうから俺様に会いに来るんだよ。大方、年寄りの相手に飽き飽きしてんじゃねえのか」
「やんのか、てめえ」
再び、冬枝と朽木との間に火花が散った。
が、お互いの手に握られているのが不潔な雑巾とブラシだというのを思い出せば、すぐに闘志は萎んだ。
冬枝は、便器を磨く手を再び動かし始めた。
「…さやか、お前んとこで何してるんだ。雀卓でもあんのか」
「冬枝、春野嵐って野郎を知ってるか」
朽木の口から意外な名前が出てきて、冬枝は目を丸くした。
「知ってるも何も、『こまち』の常連だが」
「そうか」
朽木は「春野嵐ってのは、たいそう清廉潔白で、品行方正を絵に描いたような優男なんだろうな」と嘆息した。
冬枝は首を傾げた。
「……てめえ、誰の話してるんだ?」
冬枝が知っている春野嵐からは程遠い形容が連発した気がするが、朽木が言っているのは、本当にあのピンクの革ジャンを着た破天荒なヒゲ男のことだろうか。
朽木はゴム手袋を外すと、手帳から紙切れを取り出した。
「人相書きだ。春野嵐ってのは、本当にこういう男なのか」
朽木が掲げたイラストを覗き込んで、冬枝は絶句した。
キラキラ輝く大きな瞳。少女のように小ぶりの顔。ガリガリで痩せすぎの身体――。
「………同姓同名の別人だ」
何やら、悪い幻覚を見せられたような気分だ。おかしな似顔絵の残像を追い払うように、冬枝は首を左右に振った。
「さやかがてめえんちに行くのと、嵐がなんか関係あんのか」
「大アリだ。ま、詳しいことは愛しの麻雀小町に聞くんだな」
朽木が意味ありげに笑ったところで、廊下から「朽木ーッ!」という霜田の金切り声が響いてきた。
何事かと2人揃って振り返ると、霜田は背後にさやかを連れていた。
「お前、やっぱり麻雀小町に手を出したんでしょう!この娘、お前と結婚するとほざいていますよ」
「はあ?」
「さやか!」
冬枝は便所ブラシを放り投げ、慌ててさやかの元に駆け寄った。
「お前、部屋にいろって言ったじゃねえか。嵐はどうしたんだ」
「さやかね、朽木さんのお嫁さんになりたいの」
さやかは、冬枝の背中越しに朽木の姿をぼうっと見つめている。
冬枝は、後ろで呆気に取られている朽木めがけて叫んだ。
「朽木!てめえ、透明になってろ!」
「どうやって!?」
「いいから便器にでも潜ってろ!さやかの視界に入るんじゃねえ!」
「朽木、これはどういうことなのか、説明してもらいましょうか」
冬枝と霜田の双方に迫られ、朽木は泡を食った。
「俺は何もしてませんって!朝会った時は普通に……」
と、そこに、ようやく嵐がバタバタと駆けつけた。
「さやかー!俺が悪かった、戻ってきてくれー!」
嵐はさやかの腰にしがみつき、「お前はこんなとこにいちゃいけねえ!」と言った。
「野に咲く可憐な花も、悪い水を吸うとたちどころに枯れちまうんだ。こっちは都会より綺麗な水が流れてるはずだってのに、なんてこった!ヨヨヨ!」
いきなり現れてまくしたてる嵐に、朽木が顔をひきつらせた。
「なんだ、このピンク野郎は…」
「こんなことになったのは、全部俺のせいだ。なあダンディ冬枝、超常現象に対処できる人知りませんか!?」
「んなこと言われたって…」
と言いつつ、冬枝の脳裏にあの人の顔が点滅していた。
「まあ、一人だけ心当たりはある」
「マジっすか!じゃ、早速行きましょう!」
「そうだな、もうあの人を頼るしかねえ」
冬枝は「じゃ、失礼します」と言って、嵐と共にさやかを連れて男子トイレを後にした。
「おい、待て冬枝!てめえ、まだ便所掃除が…」
追いかけようとした朽木の肩を、霜田がガシッと掴む。
「朽木。仲間の女に手を出すのも大概にしろと、あれほど言ったじゃありませんか」
「だから、誤解ですって!」
男子トイレに「覚えてろよ、冬枝!」という朽木の叫びが虚しくこだました。
バー『せせらぎ』で、嵐と源は初対面を果たした。
「源さんだ。俺の昔の兄貴分だ」
冬枝が紹介した男――源を、嵐はしげしげと見上げた。
源は、確かに噂通りの美形中年だ。冬枝の兄貴分というが、オールバックにした艶やかな黒髪といい、曇りのない切れ長の瞳といい、年齢を感じさせない。嵐は、ふーむと源を値踏みした。
「ダンディ冬枝と、さしずめ、セクシー源」
「殴っていいか?」
「こういう奴なんです。我慢してください」
真顔で拳を握り締める源を、冬枝が宥めた。
「先日は、うちの嫁が世話になったそうで」
嵐は、鈴子が自分以外の男と水着を買いに行ったことを未だに根に持っている。しかも、その相手が美貌の独身おじさんとあっては猶更、警戒心を刺激される。
源は、無表情で嵐を見下ろした。
「運のいいガキだ。鈴子みたいないい女、そうそういねえ」
「源…さんって、年いくつなんスか?」
「冬枝の8歳上」
嵐は、指折り数えて愕然とした。
「ってことは…60だ!うわあ、見た目そこそこなのに、中身はジジイじゃないッスか!妖怪!」
「バカ野郎、俺はまだ43だ!算数もできねえのか、てめえは!」
冬枝が嵐の頭をバシッと叩いた。
「セクシー源、さやかを助けてもらえませんか」
嵐から諸々の事情を聞かされた源は、さやかの顎を持ち上げてじっと見つめた。
「………」
「どうです、源さん。さやかの様子は」
「確かに、重症だな」
源は「俺を見てもポーッとしない」と真顔で言った。
嵐は、小声で冬枝に耳打ちした。
「冬枝さん、この人ホントに大丈夫っスか?」
「うるせえ。昔っからこういう人なんだ」
「ナルシー源…」
嵐の呟きに反応したわけでもないだろうが、しばらくさやかの様子を観察していた源がこちらに向き直った。
「虫封じだか何だか知らねえが、女に呪いかけるってどういう了見してんだ。恥ずかしくねえのか、ガキ」
「おっしゃるとーり。申し開きもできましぇん」
その辺については、嵐も反省している。さやかを冬枝から遠ざけたくてかけた虫封じが、さやかをおかしくしてしまった。これでは、呪いと言われても反論できない。
「源さん、さやかの呪いは解けますか」
縋るような冬枝に対し、源はきっぱりと「解ける」と答えた。
「一晩、さやかを俺に預けてくれればいい」
「んなことできますか!それなら、このまま呪いが解けねえほうがマシだっ」
2人のやりとりを見ながら、嵐はぼそっと「ドスケベ源…」と呟いた。
「今のさやかは、呪いで寝惚けてるだけだ。さやかが本当に好きな奴のことを思い出せば、目は覚める」
恋してる女の気持ちは呪いなんかより強い、と源は言った。
それを聞いて、嵐の中で閃くものがあった。
「それってつまり、王子様のキスか!」
「はあ?」
「鳴子が言ってたんですよ!王子様のキスで本当の自分になれた、って」
尤も、鳴子の言う『王子様』は朽木だったため、嵐はその話を苦々しく聞いたものだった。
――そういや、組事務所に朽木はいたのかね。
嵐はさやかを連れ戻すのに必死だったため、周りがよく見えていなかった。冬枝の他にも2人ぐらい、背広を着たオッサンがいた気がするが、あまり覚えていない。
源が「誰だ、鳴子って」と尋ねた。
「鈴子の妹っスよ。鈴子にそっくりで、胸がでかい」
「紹介してくれ」
「食いつきいいなあ、セクシー源!でもダメですよ、鳴子はヤクザの嫁にはやりません」
「俺はもう堅気だ。何の問題もない」
「セクシー源、51でしたっけ?鳴子と20近く、年が離れてるんですけど」
嵐と源が言い合っている横で、冬枝はさやかと向き合っていた。
「さやか…」
さやかは、感情のない眼差しで遠くを見つめている。
今のさやかは、まるで抜け殻だ。この小さな身体には、麻雀に対する情熱や真っ直ぐさ、勝負の時に見せる生意気さ、年相応の可愛げなんかが、溢れんばかりに詰まっていたのに。
今朝、コーヒーを飲みながら、どうでもいい会話で見せたさやかの笑みが、今は無性に恋しい。
――これ以上、こんなお前を見てられねえよ。
「セクシー源、そのツラで今の今まで独身ってことは、なんかとんでもない欠点があるんでしょ。浮気癖ですか?それとも、マザコン?」
「お前、ガキの癖してなかなか鋭いな」
「否定しないんだ。いくら美形でも、どっちも女からみりゃ致命傷っスよ、源さん」
などと嵐と源が言っているうちに、さやかが「…あれ?」と声を上げた。
「僕、いつの間に『せせらぎ』に…?」
「さやか!元に戻ったのか」
「あれ、嵐さんまで。何の集まりですか?」
さやかは「僕、お家でお昼ご飯を食べた後、どうやってここまで来たんだっけ…」と首をかしげている。
嵐が「ばんざーい!ペタンコ小町の復活だー!」と両手を上げた。
「誰がペタンコ小町だ!清老頭で和了ったぐらいでいい気にならないでくださいっ!」
「なあさやか、お前、朽木と結婚したいか?」
「は?」
嵐の唐突な問いに、さやかは鼻白んだ。
「朽木さんと結婚するぐらいなら、嵐さんの2号になるほうがマシです」
「だよなー!!よし、今日から俺んちに来い!春野さやかになれ!」
「なりません。今のはものの例えです」
さやかは今更のように自分のワンピース姿に気付いて「あれっ。僕、いつ着替えたんだろう」と一人で目を丸くしている。
「良かったですね、ダンディ冬枝!さやかが元に戻って!」
「…ああ」
さやかは、何事もなかったかのようにけろりとしている。あっさり呪いが解けたことに、冬枝は喜ぶ反面、ちょっと拍子抜けしていた。
嵐は、偉そうに鼻の頭をこすった。
「まあ、ダンディ冬枝がさやかの王子様って認めたわけじゃありませんけどね。今回は、俺の負けってことにしといてあげます」
「何言ってんだ、てめえは」
嵐と源は顔を見合わせ、意味ありげに笑っている。2人はやいのやいの言いながらも、ばっちり冬枝の犯行の一部始終を目撃していたようだ。
――デバガメみたいな真似しやがって、油断も隙もあったもんじゃねえ。
冬枝は、嵐たちのにやにや笑いにそっぽを向けた。
視線の先では、さやかが呑気に「なんか、喉乾いちゃった」なんて言っている。
――あの通り、当のさやかは分かってねえみたいだしな。
それが惜しいような、ホッとするような。源が入れたレモネードを美味そうに飲むさやかを見つめながら、冬枝はむず痒いような気持ちに浸った。
その夜の麻雀は、さやかの勝利で終わった。
打ち回しといい、対局への集中っぷりといい、すっかりいつも通りのさやかだ。その姿に、冬枝は一人ホッとしていた。
――どうやら、呪いは本当に解けたみたいだな。
「あの、冬枝さん」
自宅へ帰る車中、後部座席に並んで座るさやかがぽつりと言った。
「ん?」
「あの…『せせらぎ』にいた時なんですけど、僕に何かしましたか?」
さりげない口ぶりだが、さやかの目つきは真剣だ。
冬枝は、さやかが『せせらぎ』でわざとらしく「喉が渇いた」なんて言っていたことを思い出した。
――ははぁーん。
内心でほくそ笑みつつ、冬枝は至って関心なさそうにタバコを取り出した。
「別に。なんもしてねえよ」
「…そうですか」
さやかがちょっと残念そうに車窓に目を向けるのを、冬枝はこっそり横目で眺めた。
――この分なら、もう朽木と結婚する、なんて言いそうにねえな。
「あ、そういえば兄貴」
助手席に座る土井が、くるりとこちらを振り返った。
「事務所のトイレ掃除、今後1週間やれ、って補佐が言ってました」
「…………」
呪いは解けたが、落とし前は高くつきそうだ。土井が「あんな大騒ぎしたのにトイレ掃除で勘弁してくれるなんて、補佐って寛大だよなぁ」とほざいたので、冬枝は助手席のシートを軽く蹴飛ばしてやった。