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26話 渚のストレイ・マーメイド

第26話 渚のストレイ・マーメイド


 ――別に、期待してたわけじゃないし。

 海水浴客を右に左に掻き分けながら、さやかはずんずんと歩を進めた。

 冬枝が「ペッタンコ」だの「胸だか背中だか分からない」だのと言っていた言葉が、小石のように胸の奥に沈んでいく。

 ――ちょっとぐらい、褒めてもらえるんじゃないかとか、期待してたわけじゃないし。

 無意識に、両の拳を握り締めていた。そうしないと、手が震えてしまいそうだった。

 ――早く、戻らなきゃ。

 さやかは、そうも思った。土地勘がないし、いきなりはぐれたりしたら、冬枝たちを困らせてしまう。

 こんな大げさな反応をするようなことじゃない。冬枝からも、変に思われただろう。早く戻らないと―—。

 理性とは裏腹に、さやかの足は逃げるように、砂浜の奥へ奥へと向かっていった。

 人を避けているうちに、さやかは防潮林に足を踏み入れていた。

 ――ここ、入っていいところかな。

 心配にはなったものの、人でごった返していた海水浴場と違い、静かな松林にさやかは心惹かれた。

「わあ……」

 誰もいない海が、こちらを包み込むように広がっている。

 音もなく伸びる松の木々、澄み切った青い空。さやかは、波立っていた心が鎮まるのを感じた。

 ――少しだけ、一人になりたいな。

 砂浜に腰を下ろし、さやかは一息ついた。

 ぼんやりと波の音を聞きながら、さやかは物思いに耽った。

 ――鈴子さん、素敵だったな。

 鈴子の水着姿は、溌溂としていた。水着から零れるんじゃないかと心配になるような胸元に、さやかでさえ目を釘付けにされた。

 それに引き換え、とさやかは自分ののっぺりとした身体を見下ろす。

 ――ちょっと、背伸びしちゃったかな。

 美輪子のような美人とも付き合ってきた冬枝には、2回りも年下のさやかなど、ものの数にも入るまい。浮かれていたさやかは、現実を突きつけられた気がした。

 ――冬枝さんに会ったら、麻雀牌ですって言おう。

 ちょうど、白い水着だし。麻雀牌の白ですって言って、笑って誤魔化そう。

 などと考えていたら、背後から枝を踏みしめる足音が聞こえた。

「あれー?お嬢ちゃんじゃない」

「…組長」

 さやかは慌てて立ち上がると、「お疲れ様です」と言って頭を下げた。

 組長は、鷹揚に手を振った。

「どうしたの、こんなところで。迷子?」

「はい…」

 自分から飛び出したとは言えず、さやかは曖昧に頷いた。

「組長は、お散歩ですか?」

「ん、そう。稲玉組の連中が宝探しだなんだって盛り上がっちゃってさ、うるさくって」

 逃げて来ちゃった、と言って組長は舌を出した。

「先代の隠し財産って、本当にあるんですか?」

 さやかが聞くと、組長の瞳がキラリと光った。

「気になる?お嬢ちゃん」

「え?ええ、まあ」

 組長は、聞こえよがしな大声で言った。

「実はねー、隠し財産はあるんだよ。それも、すぐそこに」

「そう…なんですか?」

「今から行かない?」

 組長に誘われ、さやかは答えに詰まった。

「えっと、でも…冬枝さんを待たせているので…」

「いいじゃない、待たせておけば。少しぐらい心配させたほうが、あの一匹狼にはいい薬でしょ」

 そう言って、組長はさやかの手を取った。

「ほら、見える?古い海小屋なんだけどさ。あそこにあるんだよ、先代の闇金」

「あれ…ですか」

 確かに、松林の向こうにボロボロの小屋らしきものが見える。近付くにつれて、周囲に網や小舟と思しきものもあるのが分かった。

「これ、漁師小屋でしょうか」

 小屋の周辺は、海の漂着物の吹き溜まりのようになっている。茶色く汚れた小屋は、長年、潮風に晒されるうちにゴミと一体化してしまったかのようだった。

 組長は「俺、元は漁師だったんだよね」と言った。

「えっ…そうなんですか」

「うん。こんなちっちゃい舟じゃなくて、ちゃんとした船でね。ハタハタとか獲ってた」

 言われてみれば、組長は今も精悍な体つきをしている。日に焼けた肌は、漁師時代の名残だろうか。

「ヤクザにならなきゃ、今でも漁師やってたかもね」

 稲玉組の大半は、自分のような漁師上がりのヤクザだ、と組長は語った。

「俺が若い頃は、ヤクザも漁師も区別ないようなもんでね。夜は漁師がみんな集まって、バクチしてたもんだった。お嬢ちゃんなんか入れないぐらい、殺伐とした賭場だったよ」

 組長の瞳がこちらを射るように思えて、さやかは思わず目を逸らした。

「漁師やってて面白いことなんてバクチぐらいだったけど、嫁さんに会うのは楽しみだったかな」

「組長、ご結婚なさってたんですか」

 霜田が結婚していたことも今日初めて知ったが、組長が妻帯していたこともさやかは初耳だった。

 組長は「まあね」と、虚ろな笑みを浮かべた。

「美人で器量よしだったんだけど、俺が漁に行ってる間に、陸の男と浮気してた」

「そう…ですか」

「酷い話でしょ?だからね、2人まとめて殺しちゃった」

 さやかは、背筋を冷たいものが駆け抜けていくのを感じた。

 松林を渡る風の音が、急に空々しく聞こえる。

 ヤクザになったのはその頃かな、と、組長は淡々と続けた。

「懲役帰りだったから、ハクもついたしね。俺についてくる連中は結構いたの。それで、稲玉組を興したってわけ」

 さやかが黙っていると、組長はパンと手を叩いた。

「そうだ、闇金だったっけ。お嬢ちゃんに見せてあげなくっちゃね」

「いえ、僕は……」

 さやかは、不穏な気配を感じていた。このままここにいては危ない、と心が警告を発している。

 だが、組長に手首を握られて、身動きもままならない。

 組長が押すと、ギイ、と軋みながら海小屋の扉が開いた。

「あはは、すごい臭い。なんか懐かしいなあ」

「はあ」

 確かに、海小屋の中は昼間だというのに暗く、生臭い。組長の妻の話を連想して、さやかは気分が悪くなった。

 組長は、漁師小屋にあるガラクタの中から、真っ黒になった箱を持ち上げた。

「これ、何かわかる?」

「もしかして、金庫でしょうか」

「正解。察しがいいねえ」

 組長は金庫を上下に振ったりくるくる回したりしてから、朽ち果てたダイヤル部分を指さした。

「今はもう読めなくなっちゃったけどさ、イロハを3文字組み合わせると開くようになってるんだよ。大したもんでしょ?」

「凄いですね」

「ここならサツも見つけないだろうと思って、安心したんだろうね。先代はさ、金庫の暗号を冬枝に考えて、って丸投げしたんだよ」

「えっ…冬枝さんが?」

 冬枝はどんな暗号にしたのだろう、とさやかはちょっと気になった。

 組長はさやかに顔を近づけると、耳元で「エミコ」と囁いた。

「エミコ…?」

「冬枝が付き合ってた女の名前」

「……そうですか」

 悄然とするさやかに、組長の乾いた笑いが被さった。

「ハハハ、冬枝たちの熱愛っぷりは皆が知ってたからさ。冬枝は、半ば言わされたようなもん。若いのからかうのって楽しいよね」

「………」

 過去の話とはいえ、当事者の口から語られると生々しい。さやかは、俯いた顔を上げられなくなった。

 と、そこで、さやかはぐいっと組長の腕に引き寄せられた。

「く、組長…?」

「ねえ、お嬢ちゃん。見える?」

 組長が指差す先には、壁がボロボロに腐食し、細長い穴が開いている。

「……?」

 目を凝らすと、外の松林の向こうに、若い男たちが数人、こちらを窺っているのが分かった。

 ――『アクア・ドラゴン』!

「目敏いよねえ、あいつら。俺とお嬢ちゃんを追っかけてきたんだよ」

 組長はそう嘯いたが、さやかは信じられなかった。

 ――組長は、わざと『アクア・ドラゴン』をおびき出したんじゃないだろうか。

 護衛もつれずに一人で歩き、これみよがしな大声で金のありかまで匂わせた。まるで、『アクア・ドラゴン』に襲ってくださいと言わんばかりだ。

「5人はいるかな。流石に、俺とお嬢ちゃんじゃ太刀打ちできないねえ」

 漁師だったというだけあって、組長は目がいい。壁のほんの細い隙間から、的確に敵の人数まで読み取っていた。

「外にあった舟、覚えてる?あれで逃げようよ」

「えっ…あれですか」

 さやかは視界の端でとらえただけだったが、あれは舟というより、木の残骸とでもいうべき代物だった気がする。

「舟が壊れたって、泳げばいいでしょ。人魚姫みたいにさ」

 組長の言が本気かどうかを見極めているうちに、さやかは組長に引きずられるようにして、海小屋を出ていた。

「おーい、青龍会の坊ちゃんたち。お探しのものはここだよ」

 組長が声を上げると、松林に身を潜めていた『アクア・ドラゴン』がじわりじわりと距離を縮めてきた。

 男たちの中には、手にナイフを光らせている者までいる。さやかの身に、緊張が走った。

 ――これは本当に、舟でも使わないと逃げられないかもしれない。

 さやかとは対照的に、組長は悠然として小舟を持ち上げ、波打ち際へと運んでいる。まるで、『アクア・ドラゴン』などそこにいないかのようだ。

「おい、オッサン。まさか、その舟で逃げるつもりじゃねえだろうな」

 組長の真意を測りかねたのだろう。リーダー格と思しき男が声を上げた。

 組長は、打ち寄せる波間から顔を上げた。

「坊やさあ、何しに来たの?海水浴?」

「金があるんだろ。先代の隠し金があるって、地元の奴らが騒いでたぜ」

 稲玉組の騒ぎは、『アクア・ドラゴン』の耳にまで入っていたらしい。別荘周辺を見張っていたのかもしれない、とさやかは思った。

 組長は、海小屋を顎で示した。

「闇金ならそこにあるから、勝手に持って行ってよ」

「金だけじゃねえ。てめえには俺たちと一緒に来てもらうぜ、白虎組の親分さんよ」

「はあ?嫌だよ」

 ハハハ、と組長が笑うと、男がナイフを突き付けた。

「大人しくしてりゃ、ケガはしないぜ。5人まとめて相手する気か、オッサン」

「おうおう、そんなもの振り回さないでよ。危ないじゃない」

 組長は小舟を水面に浮かべると、「分かった分かった、降参」と言った。

 そして、傍らにいたさやかを抱き寄せて、ぴたりと密着した。

「このお嬢ちゃん、ズタズタにしてもいいかな?」

「えっ?」

 見れば、さやかの頬のすぐ横に、錆びてなお鋭い、鉈の刃があった。

 恐らく、小舟の中に隠されていたのだろう。どす黒く変色した鉈は、死神の鎌のように不吉に見える。さやかは息を飲んだ。

 思いもよらない組長の行動に、『アクア・ドラゴン』たちが顔色を変えた。

「ほらほら。そんなに近くに来られたら、ビビって手先狂っちゃうよ。お嬢ちゃんの顔がなくなっちゃうかも」

 組長は、さやかの鼻先で鉈を揺らした。もはや、脅されているのが『アクア・ドラゴン』なのか、さやかなのか分からない。

 男たちは困惑し、動きあぐねている。そこに、組長が畳みかけた。

「お嬢ちゃんが死んじゃったら、ダメだよねえ。困るよねえ?青龍会のお目当ては、俺じゃなくてこの娘だもんねえ」

 ハハハ、と哄笑する組長の声が、さやかの耳元で戦慄と共に広がった。

 組長はさやかを連れて、海へと後退った。

「いいねえ、若い娘と海なんて。楽しすぎてハメ外しそう」

 さやかには、足元を濡らす海が真冬のように冷たく感じられた。

 ――冬枝さん!

 さやかの恐怖が極限に達するのと同時に、組長がさやかを小舟へと突き飛ばした。

 小舟が大きく揺れ、隙間から海水がびしゃりと入ってくる。

「ほら、この娘がお前らの探してる夏目さやかだろ?取れるものなら取ってごらんよ」

 組長はそう言うと、さやかを乗せた小舟を思い切り蹴り飛ばした。

 たったそれだけなのに、小舟は見えない磁石に吸い寄せられるかのように、すうっと浜辺を離れていった。

 組長たちが、ぐんと遠ざかる。『アクア・ドラゴン』は、組長の言葉に絡め取られたかのように、呆然と立ち尽くしている。

「秋津一家と、青龍会。夏目さやかは、両方が狙う賞金首ってわけだ」

 組長は、涼しい顔でタバコに火をつけた。その姿も、小舟に揺られるさやかには遠く見えなくなっていく。

「お嬢ちゃん、冬枝と仲良くね」

 笑みを含んだその声だけは、潮風に乗ってはっきりと届いた。



 カラフルな水着と日焼けした肌が押し合いへし合う砂浜を3周しても、冬枝はさやかを見つけられずにいた。

 ――どこ行っちまったんだ、あいつ。

 まさか、さやかは『アクア・ドラゴン』に攫われたのでは――不安に駆られれば、カップルが身を寄せ合うパラソルの下を覗き込む冬枝の目つきは鋭くなった。

「何うろうろしてるの、冬枝」

 車道を見に行った冬枝は、愛犬・トラを連れて散歩している組長に出くわした。

「親分…、散歩中ですか」

「うん。今度は、本物の散歩」

「…?」

 首を傾げつつ、冬枝は「親分。さやかを見ませんでしたか」と尋ねた。

 組長はわざとらしく額の上に手をかざし、海の向こうを見据えるようなポーズをした。

「ああ、お嬢ちゃんね。そうだな、この潮の流れだと……そろそろ、沖に出ちゃった頃じゃない?」

「は?」

「はっはっは」

 組長は高らかに笑うと、麻の背広からタバコを取り出した。

「青龍会の坊主共が、あの娘を狙ってるみたいだったからさ。舟に乗せて、海に流しちゃった」

「…冗談言ってるんですか」

 表情が険しくなる冬枝とは対照的に、組長の足元では、トラが機嫌良さそうに飼い主を見上げている。

「これが、ビックリするようなホントの話でさ。あの娘が朱雀組の事件に関わってるのはマジみたいだね」

『アクア・ドラゴン』は、さやかを追ってここまで来たというのか。看過できない事実だが、今の冬枝にはどうでもよかった。

「親分。さやかを舟に乗せたってのは、いつの話ですか」

「んー…そうだな。トラを迎えにうち帰って、そこでお茶飲んでからここに来たから…30分ぐらい前かな」

 そんなに心配しなくていいよ、と組長はタバコの煙を青空に吐きだした。

「何せ、長年放置されてたボロ舟だからさ。沖に着く前に、沈んじゃうでしょ」

 お嬢ちゃんは泳げる?と笑みを向けられ、冬枝は頭に血が上った。

「あんたは…!さやかに恨みでもあるんですか」

「ないない。あんな可愛い女の子に、恨みなんかあるわけないじゃない」

 組長は、サングラスの奥の瞳を酷薄そうに細めた。

「恨みがあるとしたら、誰かさんのほうじゃないかな。胸に手を当てて、よーっく考えてみたら?」

「………」

 細く伸びるタバコの煙を挟んで、冬枝と組長の間に見えない火花が散る。

 ふっ、と組長は目から力を抜いた。

「お前の本性を知っても、あの娘は今みたいに懐いてくれるかな。せいぜい猫被ってなよ、冬枝」

 ワン、とトラが一声鳴いた。

 それが合図だったかのように、組長はトラを連れて去っていった。

 ――タヌキ親父の悪ふざけか。

 組長が、冬枝をからかうために悪質な嘘をついたのならいい。さやかが無事なら、性悪親父に騙されるぐらい、どうということはない。

 眼下に広がる海は、果てしなく広い。そこにさやかのちっぽけな身体が漂っている様を想像すれば、冬枝はいても立ってもいられなくなった。



 さやかは、ぬるくなった缶コーラをちびちびと口にした。

 ――せめて、飲み物があって良かった。

 組長の気迫に押されるがまま、さやかは小舟の乗客になっていた。5人もの『アクア・ドラゴン』がいる砂浜に戻るのも躊躇われ、成す術もなく流されてしまった。

 ――まさか、こんなあっという間に流されちゃうなんて。

 組長の狂気的な振る舞いや、青龍会が自分を狙っているという事実にしばらく茫然としていたが、これはちょっとした遭難だ。

 さやかとて、ぼんやりと舟に揺られていたわけではない。泳ぐことも考えたが、さやかには潮流が読めない。下手に自力で浜辺を目指せば、思わぬ方向に流されてしまう恐れがあった。

 ――でも、やっぱり泳いでみたほうがいいかもしれない。

 小舟の隙間からジャブジャブと海水が入ってきて、今にも沈みそうだ。それに、どんどん浜から遠ざかっている。冬枝は、さやかがこんな状況だなんて知らないだろうから、助けが来るのは期待できない。

 夜になって暗くなれば、陸に戻るのはますます困難になる。さやかは、意を決して舟から降りることにした。

 さやかの胸に浮かぶ冬枝の顔が、どうしようもなくさやかを衝き動かす。

 ――冬枝さんに会いたい…!

 冬枝に会いたい、冬枝の顔が見たい。その一心で、さやかは海に飛び込んだ。

 幸いにも、水泳はさやかの得意科目だ。高校の水泳大会でも、水泳部のエースたちと比肩する成績を残している。

 ――浜までの距離が分からない。なるべく、体力を温存させないと……。

 泳いでいると、波の音と、さやかの息遣いだけが、耳に届くすべてになった。

 海水浴場にはあんなに人がいたのに、さやかがいるここは人の声も聞こえない。世界に自分一人しかいないような静けさは、さやかを不安にさせた。

 ――もしかして、思っていた以上に遠くに流されたんだろうか。

 だとすれば、やはり小舟から降りたのは間違いだったのか。いや、あのボロボロの小舟は、遅かれ早かれ沈んでいただろう。日が沈んでから慌てて陸を目指すよりは、今動いたほうがきっといい。

 雑然とした思考がぐるぐると回り出し、さやかは息が乱れてきた。

 ――頭がおかしくなりそう……。

 泳ぎは得意なはずなのに、足がもつれる。いつから泳いでいたのか、浜までどのくらいなのか、分からなくなっていく。

 ――ああ、もうダメだ…。

 思考回路がパンクするのと同時に、さやかの右足に強烈な痛みが走った。

「!?いっ……」

 足がつったのだ、と自覚したのも束の間、さやかは水中でバランスを崩してしまった。

 ――右足が言うことを聞かない…!

 或いは、既にパニック状態に陥っていたのかもしれない。体勢を立て直そうともがくほど、見えない何かに足を取られていくようだった。

「誰か…」

 助けて、という言葉よりも、その名が勝手に口をついていた。

「冬枝さん…!」

 ざぶん、と波が顔に押し寄せ、さやかは水中に沈んだ。

 ――苦しい…!

 このまま、誰にも気付かれないうちに溺れ死んでしまうのだろうか。さやかは、絶望感に襲われた。

 ――まだ、冬枝さんの昔の話も聞いてないのに。

 冬枝がどんな家庭で育ったのか、源とどんな極道生活を送っていたのか。さやかは、冬枝に聞きたいことがたくさんあった。

 それだけではない。さやかは、冬枝に隠していることが山ほどある。

 ――こんなことなら、冬枝さんに全て打ち明けてしまえばよかった。

 話せる時が来たら、正直に話すつもりでいた。さやかを阻む様々な事情さえなければ、冬枝に隠し事なんてしたくなかったのに。

 ――冬枝さん…!

 冬枝に会いたい。海から出たい。少しでいい、浮かび上がる力が欲しい。

 光を求めて伸びる朝顔のように、さやかの腕は水面からほんの少し顔を出し――。

 頼りないその手首は、信じられないほど強い力で握られた。

「さやか!」

 冬枝に引き上げられた時、さやかの目から涙が溢れた。

「…冬枝さん!」

 緊張の糸が切れたのか、奇跡のような再会が嬉しかったのか。どうしようもなく心が震えて、とめどなく涙が零れた。

「もう大丈夫だからな、さやか」

 冬枝はよしよしとさやかの髪を撫でると、さやかを連れて陸へと向かった。

 どうやら、さやかは浜の近くまで来ていたらしい。冬枝と合流してから砂浜に辿り着くまで、それほど時間はかからなかった。

「さやちゃん!大丈夫?」

「鈴子さん…。僕なら、大丈夫です」

 鈴子や嵐と会う頃には、さやかも少し落ち着いていた。つった足はまだ痛かったが、歩けないほどではない。

「…冬枝さん」

「ん?」

「すみません。勝手にはぐれたりして…」

 冬枝は何か言いたそうな顔をしたが、口をつぐんだ。

 冬枝はさやかを浜辺に座らせると、自動販売機でジュースを買って来た。

「ほれ。車に戻る前に、休んでけ」

「ありがとうございます…」

 冬枝もさやかの隣に腰を下ろし、並んで缶ジュースを口にした。

 さやかが遭難していたのは、どれくらいの時間だったのだろう。さやかのピンチなど誰も知らない海水浴場は、平和な笑い声で満ちている。

「………」

 ちらっと盗み見た冬枝の横顔は、疲れのためか険しい。さやかは、空気を和ませたくなった。

「あの、冬枝さん」

「ん?」

「僕の水着なんですけど」

「ああ…」

 さやかは白い水着を手で示し「白です!」と言った。

 冬枝は首を傾げた。

「気持ち悪いのか?」

「いや、その『吐く』ではなく…」

 心配そうにこちらを見つめる冬枝に、自分はもう元気だとアピールしたい。そうだ、中国風に言おう、とさやかは思った。

「僕、白板です!」

「!?」

 直後、冬枝が盛大にコーラを噴き出した。

「白板ですよ、冬枝さん!どうですか?」

「おまっ、何言って…」

「綺麗な白板です!」

 冬枝は「バカ!」と言ってさやかの口を塞いだ。

「若い娘が、んなことでけえ声で言うんじゃねえ!」

「…?冬枝さん、白板嫌いですか?」

「いや…」

 冬枝は目を泳がせると「嫌いじゃないっていうか…こだわらないっていうか…」とごにょごにょ呟いた。

「さやか、やっぱお前疲れてんだろ。とっとと帰ろう」

「…はい」

 どうも、白い水着を麻雀牌の白に見立てた、というさやかの冗談は通じなかったらしい。嵐が背後で大笑いしているのが目の端に映ったが、理由を聞く前にさやかは冬枝に引きずられるようにして車へと連れて行かれた。



 ――そういや、台所にあった出刃包丁、いい切れ味だったな。

 自室である和室の隅で、冬枝がそんなことを思ったのは料理のためではない。

 溺れてわんわん泣いていたさやかのことを思い出すにつけ、さやかを殺しかけた組長への殺意が湧き上がってくるのである。

 さやかがあんな風に泣くところは、初めて見た。普段、極道相手にも怯まないさやかが、それだけ恐怖を覚えたということだろう。

 実際、冬枝がさやかを見つけられなかったら、今頃どうなっていたことか。考えれば考えるほど、冬枝は台所にある包丁が魅力的に思えてくるのだった。

 ――サクッと寝首を掻いちまえば、さやかがあのタヌキ親父に泣かされることもなくなる……。

「冬枝さん」

 襖の向こうからさやかの声がして、冬枝は顔を上げた。

 さやかの部屋はこの本館ではなく、離れを丸ごと与えられている。当初、離れは榊原が使う予定だったのだが、男所帯にさやかが混ざって泊まることに、組きっての紳士が難色を示したのだ。

「嬢ちゃん。俺と部屋、交換しないか」

「えっ、でも…いいんですか」

「ああ。俺一人にあそこは広過ぎると思ってたんだ」

 俺は霜田の部屋で寝るよ、と笑う榊原に、霜田が「ご冗談を」と苦笑した。

 そうして、離れ住まいとなったさやかが、わざわざ冬枝の部屋を訪ねてきたのだ。

 冬枝は、襖を開けた。

「さやか。どうだ、調子は」

「はい。もう大丈夫です」

 さやかは笑みを浮かべているが、どこかぎこちない。カラ元気じゃないか、と冬枝は心配になった。

「この部屋、涼しいですね」

「そうか?」

「あの…」

 さやかは少し言い淀むと、「冬枝さん」と上目遣いで言った。

「僕の部屋に、来てくれませんか…?」

 開けた襖から、湿気を孕んだ夕風が吹き抜ける。

 さやかはきっと、溺れそうになったせいで心細いのだ。そばにいて励ましてやることこそ、冬枝の役目だ。これを断ったら男じゃない。

 さやかの水着姿や白板発言が頭をよぎる中、冬枝は己をそう正当化して「ああ」と首を縦に振った。

 石灯籠がぼんやりと照らす庭を通り抜け、冬枝はさやかと離れに向かった。

「さっき、嵐さんたちがお見舞いに来てくれたんですよ」

「あいつら、よくここの場所がわかったな」

「地元じゃ有名みたいです。白虎組のお城だって」

 その時に嵐たちと交わした会話を思い出し、さやかの表情が翳った。

「鈴子さん。あの……」

 嵐に爆笑される以前に、さやかは「白板」発言に対する冬枝のリアクションに、何か微妙な含みを感じていた。鈴子にその理由を教えられ、さやかは顔から火が出そうになった。

「そんな……そんな意味があったなんて……」

「私、むしろ麻雀牌由来だってことを知らなかったわ。さやちゃんは物知りね」

「うう……」

 命の恩人である冬枝に、とんでもない失言をかましてしまった。恥ずかしくて、冬枝に会うのが怖い。

「白板!白板!白板小町!」

 あっはっはと嵐に笑われ、さやかは「うわーん!」と鈴子の膝に泣き付いた。

「ちょっと嵐、酷いじゃない。さやちゃんは海ですっごく怖い思いをしたのよ。意地悪しないの」

 鈴子はさやかの髪をそっと撫でると、優しく胸元に抱き寄せた。

「大丈夫よ、さやちゃん。心配しないで」

「鈴子さん…」

「よく考えて。冬枝さんは真面目な人じゃない。『白板』がそんな意味だなんて知ってると思う?」

「あ……」

「ね?きっと、冬枝さんは麻雀牌の白を白板って呼ぶのを知らなくて、さやちゃんが言ってることがピンとこなかったのよ。ただそれだけよ」

 さやかは「そ…そうですよね!」と顔を上げた。

 後ろで嵐がぼそっと「それはどうかね」と呟いたが、さやかは聞こえないふりをした。

 ――冬枝さん、ホントはどう思ってるのかな。

 とはいえ、あの話を蒸し返せば藪蛇になりかねない。さやかは、素知らぬ顔で笑った。

「嵐さんたちが、スイカ買って来てくれたんです。鈴子さんが切ってくれたので、冬枝さんも一緒に食べませんか?」

「ああ」

 離れは広く、小さな台所と冷蔵庫までついていた。普段はあまり使われないのか、玄関前にはバケツやハシゴなど、庭仕事の道具が出しっぱなしになっている。

 スイカと麦茶を囲んで、さやかと冬枝は畳に座った。

「広い離れですよね。僕がもらってほんとに良かったのかな」

「榊原さんがああ言ってくれたんだし、気にすんな。いいじゃねえか、悠々自適で」

「ええ…」

 さやかは、ぱたぱたとうちわで顔を扇いだ。

「僕、ここに来たら冬枝さんといっぱいお話したいなって思ってたんです」

「話?」

「はい。普段は、ゆっくり話せないじゃないですか」

 さやかと冬枝は同居してはいるものの、顔を合わせるのは朝と晩酌、代打ちの仕事の時ぐらいだ。昼食を共にすることもあるが、毎日ではない。

 冬枝は、扇風機を近くに引き寄せた。

「そうだな。仕事の打ち合わせとか、世間話とか、そんなんばっかりだったな」

「はい。僕、源さんと会って、冬枝さんの昔のこと、もっと知りたくなったんです」

「………」

 冬枝は「それはともかく…」と言って、部屋の天井を睨んだ。

「暑い!なんだよこの部屋、エアコン壊れてんじゃねーか」

「そうなんですよね…」

 さやかが離れに入ってすぐ、エアコンが故障していることが判明した。平屋というのもあり、離れの中は陽が落ちた今も蒸し暑い。

 まさか、それで榊原がさやかに離れを押し付けた、というわけではあるまい。部屋割を決めたのは、一同が荷解きをする前のことだった。

 冬枝は、シャツの襟元をぱたぱたと扇いだ。

「のぎくて、話なんかしてられねえよ。屋根上るぞ、さやか」

「えっ?屋根ですか」

 冬枝はさっさと立ち上がると、玄関にあったハシゴを外壁にかけた。

「ほれ、さやか。ハシゴ支えててやるから、先に登れ」

「あの、冬枝さん…ホントに屋根に登るんですか?」

 未だに信じられずにいるさやかに、冬枝は片目をつぶった。

「こんだけ暗けりゃ、お前のスカートの中なんか見えやしねえよ。とっとと登れ」

「……!ハシゴ、ちゃんと押さえててくださいねっ」

 さやかは恐る恐るハシゴに足をかけ、瓦屋根へと登った。

「うわ……」

 眼下に、港町のこまごまとした街並みが広がる。道路に連なる車のライトが、明かりの乏しい田舎の夜景に彩りを添える。

 平屋のため、高さは3メートル程度だろうか。それでも、地上とは全く異なる眺めに、さやかは心奪われた。

 ――立ち上がったら、海が見えそう。

 そうっと背伸びしたさやかに、遅れて登ってきた冬枝が「こら」と言った。

「滑りやすいから、立つんじゃねえぞ。お前なんか、すぐ転がり落ちちまいそうだ」

「…はーい」

 確かに、さやかの履いているサンダルは、つるつるした瓦屋根とは相性が悪そうだ。

 さやかと冬枝は、屋根の上に並んで腰を下ろした。

「ふう。こっちのほうがなんぼか涼しいな」

「はい」

 さやかは、冬枝の横顔に険がないのを見て、密かにホッとした。

 ――なんだか冬枝さん、ちょっと怖い顔してたから。

 さやかが部屋を訪れた時、冬枝の表情に殺気が漂っている気がした。さやかは内心ビクついたが、殺気はすぐに冬枝から消えた。

 さやかは、背を反らして空を見上げた。

「わあ。冬枝さん、星が出てますよ」

「おう。よく見えるな」

 別荘は緑に囲まれているせいか、夜空が濃くくっきりと見える。宝石のような星ひとつひとつが、さやかの目に飛び込んでくるようだった。

「…そういえば、例の宝探しってどうなったんでしょうね」

 組長が言っていた、先代組長の隠し金だ。稲玉組の若い衆が探しに行ったようだが、あれからどうなったのだろうか。

 冬枝が「あれか」と答えた。

「お宝は見つからなかったようだが、稲玉組の奴らと『アクア・ドラゴン』が街中で鉢合わせして、ちょっとしたケンカになったってよ」

「えっ…そんなことになってたんですか」

「ちょうど、俺たちが海にいた頃だな」

 さやかは、先代の隠し金に冬枝も関わっているらしいというのを思い出した。

「先代の隠し財産って、本当にあるんですか?」

「あんな金、とっくに先代が使っちまっただろ。金遣いの派手な人だったからな」

「そうですか…」

 金の有無はさておき、恐らく組長が隠し財産の話をわざわざしたのは『アクア・ドラゴン』をおびき出すための撒き餌だったのだろう。宝探しの言い出しっぺである稲玉組の若頭は、組長の息がかかった人間だ。

 さやかが冬枝とはぐれることを事前に知っていたとは思えないが、組長がさやかと『アクア・ドラゴン』の繋がりを確かめることに成功したのは事実だ。どこまでが偶然で、どこからが策略だったのか――考えるほどに、さやかは組長が恐ろしくなった。

「お嬢ちゃん、冬枝と仲良くね」

 組長の言葉が、さやかの背中を冷たくさせる。

 ――僕と一緒にいれば、冬枝さんも危ない。

 さやかは、意を決して「冬枝さん」と言った。

 冬枝の瞳が、真っ直ぐにこちらを見る。

 言ってしまえば、全てが壊れてしまうかもしれない。それでも、さやかは目の前の人に、真実を告げなければならなかった。

「僕は、朱雀組の組長が殺された事件に関わっています」

「…そうか」

 冬枝は、静かに目を伏せた。

 さやかは、冬枝に頭を下げた。

「今まで黙っていて、すみません」

「いや、いい。お前も辛かったんだろ」

 冬枝から思わぬ言葉をかけられ、さやかはハッとした。

「お前が、こんな大事なことを好きこのんで俺に隠してたとは思えねえ。言えねえわけがあるんだろ」

「……はい」

 さやかは、震える声で頷いた。

「…詳しいことは、まだ言えないんです。青龍会と朱雀組の目的がはっきりしない以上、下手に動けば、両者の抗争を刺激しかねないので…」

 命を助けてくれた冬枝に、さやかはまだ言い訳を重ねている。言えば言うほど自分が姑息になっていくようで、さやかは声が詰まった。

「…ごめんなさい。冬枝さんを巻き込みたくないんです。ごめんなさい…」

「謝るな」

 冬枝の声は、どこまでも優しい。それでも、さやかは嗚咽を押さえられなかった。

「僕と一緒にいたら、冬枝さんまで危険な目に遭わせてしまうかもしれない…。僕はもう、冬枝さんのそばにはいられません」

 冬枝に、青龍会と闘って欲しくない。そう言いながら、冬枝を一番危険に晒していたのは、さやか自身だった。

 さやかの手の甲に、ポタポタと涙が零れ落ちる。心が、真っ二つに引き裂かれてしまいそうだった。

 その手に、冬枝の手が重なった。

「俺は、お前を手放す気はねえ」

「…冬枝さん」

 冬枝の手が、さやかの手を握り締める。大きな手から、確かな温もりが伝わってくる。

「もう離れるなよ。お前の水着だって、別に、嫌いじゃねえんだから…」

 語尾をごにょごにょと誤魔化しながら、冬枝はそっぽを向いた。

「冬枝さん…」

 冬枝なりに、浜辺でのことをフォローしているのかもしれない。涙で濡れたさやかの頬に、少しだけ笑みが浮かんだ。

「冬枝さん。僕の水着、似合ってましたか?」

「知らねえよ」

「鈴子さんみたいに、ビキニのほうが良かったかな」

「あれはやめとけ。お前みてえなずんどうには似合わねえ」

 さやかはむっとして、冬枝の手に爪を立てた。

「いって」

「冬枝さん。昔のこと、教えてくれませんか」

「ああ?」

「冬枝さんのご家族のこととか、どうして今の道に進んだのかとか…。僕、知りたいんです」

 さやかの真っ直ぐな瞳に、冬枝はふっ、と溜息を吐いた。

「たいした経歴じゃねえよ。俺の身の上なんか、ヤクザにゃよくあるパターンだ」

 自嘲するように天を仰ぎつつ、冬枝は語った。

「実の親とは、ガキの頃に死に別れた。母親は俺を産んですぐ、親父は空襲で。それで、母方の養子になったが、義理の親とは反りが合わなかった」

 戦後の貧しさもあり、養子である冬枝は厄介者扱いだった。冬枝は早く家から出たくて、勉強やアルバイトに励んだという。

「小銭なんか貯めてな。昔は勉強できたほうだったから、大学に行こうと思ってた」

「そうだったんですか」

「でも、結局ダメだったな」

 必死で貯めた金は、義父が勝手に使い込んでいた。義父をぶん殴り、家を出たのが冬枝18歳の時だった。

「ちょうど、今のお前と同じぐらいの歳だな。地元を出て、あてもなく街に来た」

 冬枝はさやかを指差して笑ったが、さやかは冬枝の過去が自分のことのように辛かった。

 帰る家があって、守ってくれる家族がいて、進学できる自由がある。さやかが当たり前のように与えられていたものを、冬枝は持っていなかった。

 ――それなのに、この人はこんなに優しいんだ。

 さやかは、冬枝の手をぎゅっと握り締めた。

「街に出てからは、ケンカとかっぱらいばっかしてた。源さんと会ったのも、その頃だ」

「ああ…」

 冬枝が『こまち』で源にケンカを売り、一発でノックアウトされた、という話は、さやかも源から聞いていた。

「あの人に拾ってもらわなかったら、俺は今頃ここにいなかっただろうな。源さんが言ってた通り、俺はどうしようもねえクズだった」

「そんな…」

「極道としても、人間としても、生きていく上での全てを源さんに教わった。俺に家族がいるとしたら、源さんぐらいだな」

 兄貴なんて呼んだことはねえけどな、と言って冬枝は笑った。

 冬枝の穏やかな眼差しを見ていたら、さやかはむくむくと嫉妬心が頭をもたげてきた。

「…やっぱり、恋敵じゃん」

「ん?」

「いえ、こっちの話です」

 さやかは「じゃあ、ご家族とは今は…」と控えめに聞いた。

 冬枝は首を横に振った。

「それっきり、絶縁状態だな。この道に入った時に、里親の苗字は捨てた」

 冬枝、というのは生家の苗字らしい。冬枝と名乗ってはいるものの、幼くして母方の養子になったこともあって、父方である冬枝家とは連絡を取ったことすらないという。

 さやかは、ぺこりと頭を下げた。

「お話してくれて、ありがとうございます。立ち入ったことを聞いてしまって、すみませんでした」

「んなことねえよ。ヤクザなんて、だいたいみんなこんな感じだ」

 冬枝は素っ気ない言い方をしたが、誰にでも話せるような過去ではなかっただろう。それを打ち明けてくれたのは、冬枝の破格の誠意だと、さやかには分かった。

 組長から聞いた『エミコ』のことや、冬枝が刑務所に行くことになった経緯など、聞きたいことはまだ山ほどあったが、今はこれで十分だと思った。

「…冬枝さん。僕の家族の話をしてもいいですか?」

「ん?ああ」

「言ってませんでしたけど、実は僕、兄がいるんです」

「えっ」

 初耳だ、と目を丸くする冬枝に、さやかは「すみません」と謝った。

「兄は、冬枝さんと違って線が細くて、ケンカなんて絶対にできないタイプなので…。万が一のことを考えて、黙っていました」

「お前、ホントに隠し事が多いな」

 わざわざ冬枝に教えるほどの兄でもない、とさやかは苦笑いした。

「兄は小さい頃から手先が器用で、ラジコンとかプラモデルを作るのがすごく上手でした。消しゴムで麻雀牌まで作ってくれたんですよ」

「麻雀牌って…。136枚作ったのか」

「はい。器用っていうか、オタクっていうか」

 その消しゴムの牌が、さやかが最初に触れた麻雀牌だった。

「幼かった僕は、兄と一緒に消しゴムの麻雀牌で遊ぶのが大好きでした。小学生ぐらいまでは、ずっと兄と麻雀してたかな」

 しかし、中学生になり、さやかと兄は徐々に距離ができていった。

「兄は麻雀よりも、工学に夢中になっていって…。僕がまた麻雀が打ちたいって言っても、麻雀なんてくだらないって断られちゃいました」

 兄よりさやかのほうが強かったのも、兄のプライドを傷つけたのかもしれない、とさやかは語った。

「それで、高校生の頃から一人でこっそり雀荘に通うようになったんですけど…。勿論、最初は怖かったですよ。いかつい顔のおじさんばかりで、牌の切り方も乱暴で。マナーなんて全然ないし」

 それでも、さやかは自分の麻雀好きが本物だと、兄に証明したかったのだという。

「兄は、今も大学で工学の研究をしています。兄が本気で工学に打ち込んでるのを見ていたからこそ、僕も負けたくなかったのかもしれません」

 冬枝が出会った時、さやかは威圧的かつ卑怯な男3人を相手に回しても、少しも怯まなかった。高校生の時に、強くなると決めていたからだろう。

 冬枝はふと、腑に落ちた気がした。

 古参の代打ち連中に反対された時、さやかは寂しそうにこう洩らしていた。

「ダメなんですよ、僕じゃ」

「麻雀。打てば打つほど、周りから浮いちゃうんです。僕はちょっとおかしいって、みんなから言われます」

 恐らく、あの時さやかの脳裏をよぎっていたのは、兄の存在だったのだろう。

「さやかは、兄貴がいたから強くなったんだな」

「そんなことないですよ。たっくんは勉強はできるけど、威張りんぼだし、口うるさいし、変なとこデリケートで扱いづらいんです」

「たっくん?」

 さやかは、しまったという風に口を押さえた。

「…兄のことです。家ではそう呼んでいたので」

「やっぱ、仲いいんじゃねえか」

「全然。顔を合わせればケンカばっかりです」

 だが、さやかが兄の存在を隠していたのは、ヤクザである冬枝から兄を守ろうとしたのだろう。冬枝は、ちょっと妬ける気がした。

「…さやかの兄貴なら、きっと女にモテるだろうな」

「まさか。勉強ばっかりで根暗だから、男の友達だって少ないぐらいです。冬枝さんのほうがかっこいいです」

 重ねられたさやかの指が、冬枝の指をすりすりと撫でた。

「………」

「………」

 満天の星空が、無言で二人に降り注ぐ。冬枝もさやかも、握った手を離そうとはしなかった。

 辺りは真っ暗なのに、今なら互いの瞳の奥まで見えそうな気がする。さやかは、ドキドキと高鳴る胸を押さえた。

 ――これは、絶好のチャンスかもしれない。

 他には誰もいない屋根の上は、うってつけのロケーションだった。告白するなら今だ、と頭上の星屑たちがさやかを後押しするようにキラキラと瞬いている。

「冬枝さん、あの…」

 と言いかけたさやかは、自分の手元や足元に、黒光りするものがたくさんいることに気が付いた。

「…冬枝さん」

「ん?」

「虫がいっぱいいるんですけど」

「夜だからな。ここ、森が近いし、寄って来るんだろ」

 冬枝は呑気に「お、コガネムシ」と言って、足元の虫をつまんだ。

 さやかは悲鳴を上げた。

「いやーっ!降ります!」

「なんだよ。もうちょっと星見てこうぜ」

「いやです、無理ですーっ!降ろしてーっ!」

 さやかはぶんぶんと冬枝の手を振り回したが、冬枝の指はがっちりとさやかの手に絡んで離れない。

「だから、星見てろって。ほれ、流れ星だぞ」

「いやーっ!背中になんかくっついてるー!取ってーっ!」

 パニック状態になってしがみつくさやかを、冬枝はよしよしと撫でた。

 結構でかい虫だったとは言わずに、そっと取ってやる。

 ――手放す気になんかなれねえよ。

 さやかが朱雀組組長の事件に関わっていると知っても、冬枝の気持ちは変わらない。ガラにもなく、流れ星に願いをかけたくなるぐらい、さやかと一緒にいたい。

 さやかがぎゃーぎゃー喚いていることを除けば、これ以上なくロマンティックな夜だった。

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