25話 ドキッ!極道だらけの海旅行
第25話 ドキッ!極道だらけの海旅行
7月も半ばを過ぎたその朝、マンションにある冬枝の部屋はてんやわんやになっていた。
「さやかーっ、起きろーっ!もう8時だぞ!」
弟分たちと共に出発の準備に追われながら、冬枝はさやかの部屋めがけて怒鳴った。
「………」
さやかからの返事はない。冬枝には、寝こけてシーツと一体化しているさやかの姿が目に浮かぶようだった。
「しょうがないですよ、兄貴。ゆうべは夜遅くなりましたから」
トランクに着替えを詰め込みながら、高根が眠そうな目を瞬かせた。
「さやかさん、ゆうべも強かったっスねー。社長さんもおめめ真ん丸にしてましたよ」
指の輪で自身のサングラスを囲んでから、土井は「あ、電話鳴ってら」と言って、受話器を取りに走った。
冬枝は嘆息した。
「まさか、旅行の前日に麻雀勝負が入るなんてな…」
世間は夏休みを迎え、この彩北市にも堅気・極道問わず、大勢の帰省客が押し寄せた。白虎組なじみの企業の社長や顔役も挨拶に訪れ、せっかくだから麻雀でも、と賭場が開かれたのが昨夜だった。
『麻雀小町』さやかは大勝をおさめたものの、その結果、ネボスケが誕生したわけである。
「さやかさーん、お電話ですよー。起きてくださーい」
土井が、慌ててさやかの部屋をノックしている。
「なんだ。さやかの親か」
盆も近いこの時期、東京にいるさやかの親は娘の顔が見たくなる頃だろう。さやかに帰省の意志があるのかどうかは分からないが、冬枝は里帰りの許可ぐらい出してやるつもりである。
ところが、土井が口にしたのは意外な名前だった。
「いや、それが…朽木さんでして」
「あぁ?朽木?」
冬枝は鼻白んだ。
何故、朽木がこんな朝っぱらからさやかに電話をかけてくるのか。
――そういや今回の旅行、朽木は留守番だったはずだよな。
組長・若頭・補佐の白虎組トップ3が街を不在にするうえで、朽木は街のお守りとして留守番を命じられた。
あいつに留守番なんか務まるのかい、と冬枝は片腹痛かったが、今回の旅行にあの疫病神がいないのはラッキーだとも思っていた。
しばらくして、さやかが「んにゅ…」と目をこすりながら姿を現した。
「おはようございます、さやかさん。朽木さんからお電話っスよ」
「しゅみましぇん。今でましゅ」
さやかはパジャマ姿でふらふらと移動すると、受話器を取った。
「さやかでしゅ。おはようございましゅ。…はひ。さやかでしゅ」
さやかの寝癖がついた後ろ髪を見ながら、冬枝は苦笑した。
――あんな赤ちゃんモードで、会話になるのかよ。
朽木が何の用か知らないが、赤ちゃんさやかとコミュニケーションができるのは冬枝ぐらいだ。諦めてとっとと電話を切れ、と冬枝は念じた。
ところが、電話の途中でさやかの目つきがにわかにはっきりした。
「…えっ?……分かりました。はい…はい」
何やら深刻そうな会話の後、さやかは最後にこんな言葉で締めくくった。
「朽木さん、また今度お家にお邪魔させてください。その…例の件で」
――何だよ、例の件って。
しかも、さやかが自分から朽木の家に遊びに行く、と言ったのが冬枝の胸をざわつかせた。さやかと朽木が親密なのは、やはり事実らしい。
受話器を置いたさやかは、ふわぁ、とあくびをした。
「おはようございます、冬枝さん」
「ああ、おはよう…。お前、朽木と何の話してたんだ?」
「えーっと」
さやかは少し言いよどんだ後、上目遣いに笑った。
「朽木さんはお留守番だから、僕たちがうらやましいって言ってました。あと、組長たちの前で粗相しないように、ですって」
身支度をしに自分の部屋に戻るさやかの背中を見ながら、冬枝は眉をひそめた。
――まるで、離れ離れになる恋人同士じゃねえか。
朽木は明らかに、さやかが出発する直前というタイミングで電話をかけてきた。まさか電話口で、会えないなんて寂しい、とか言い合っていたわけではないだろうが、朽木のほうもさやかのことを気にかけているようだ。冬枝としては、実にいけ好かない。
――さやかが好きなのは俺だぞ!
と、心の中で言うのも恥ずかしいが、これまで何人もの女を落としてきた冬枝には確信があった。
勿論、さやかの純粋な好意につけ込むつもりはない。自分を慕ってくれる可愛いさやかを守ってやりたい、というのが冬枝の本心だ。
――多分。
「兄貴、そろそろ朝飯食わないと、間に合いませんよ」
高根に声をかけられ、冬枝はハッと我に返った。
午後には、組長の別荘に着く予定だ。港町にある組長の別荘には車で1時間ほどだが、夏休み中の道路は混雑しているだろう。
「ああ、分かった。俺が適当に作ってやるから、お前らは荷物を車に積んでおいてくれ」
「はい」
以前だったら、組長たちとの旅行なんて断っていただろう。幹部相手に角が立とうが、気にする冬枝ではなかった。
それがこんな、遊園地に行く前の大家族みたいにバタバタしているのは――さやかの水着姿がちらつくせいだとは、心の中で言うのも恥ずかしいが。
――やっぱ、来なきゃ良かった。
別荘の庭で肉を焼きながら、冬枝はタオルで汗を拭った。
「やっぱ、外で食う肉は美味いねえ。ね、榊原」
「ええ」
組長と榊原は、呑気に縁側でビールなど酌み交わしている。その様を横目で見るにつけ、汗だくで肉を焼いている冬枝は、舌打ちでもしたくなってくる。
――人に飯作らせといて、優雅なこって。
帰省客でごった返す渋滞を耐え抜き、冬枝たちが組長の別荘に着いたのは昼前だった。
「すごい。お城みたいですね」
さやかも弟分たちも、緑の中に聳え立つ別荘の威容に圧倒されていた。
今年の春に新築したばかりだという別荘は、瓦屋根が眩しい本館の他に、離れや茶室まで設けられた、広大なものだった。
――こんなばかでかい別荘建てて、引退したら旅館でも開くつもりかよ。
白虎組の、ひいては組長・熊谷雷蔵の権力を誇示するかのような厳めしい屋敷に、冬枝は呆れた。
「よっ、冬枝。待ってたよ」
到着早々、冬枝は組長から、牛肉の塊を託された。
「お中元代わりにさ、知り合いからもらったの。お昼にみんなで食うから、焼いておいて」
「えっ。俺がですか」
「冬枝、料理はお得意でしょ。若いの使っていいから、適当にやってよ」
――それこそ、俺じゃなくて若い奴にでもやらせろよ!
とはいえ確かに、組長に贈られただけあって、綺麗にサシの入った良い肉だ。こんな高級品を、包丁の握り方も怪しいような若い連中に任せる気にはなれない。組長の言う通り、冬枝は料理なら昔、源からひととおり教わったため、得意ではあった。
「わあ、大きなお肉ですね。これ全部、食べられるんですか?」
牛肉を興味津々に眺めているさやかを見ていたら、冬枝はまあいいかという気になってきた。
――俺がやりゃ、いいとこは俺とさやかでガメられるしな。
というわけで、冬枝は荷解きをする暇もなく、牛肉の調理に追われていたのだった。
冬枝は、庭の片隅でひとり焼肉をぱくついているさやかを見やった。
焼肉に勤しんでいるのは、冬枝だけではない。地元であり、組長の出身でもある稲玉組の面々が遊びに来ており、そいつら相手の肉や野菜を高根たちが焼いていた。
おっさんから若者まで、蝉時雨にも負けない野太い声の大合唱は、冬枝ですらうんざりした。
――こんなに男ばっかぞろぞろいたんじゃ、さやかの奴、居心地が悪いだろうな。
酒も飲めないさやかには、窮屈な旅行だったかもしれない。そう思えば、冬枝は紙皿に大量の肉を乗せてやらずにはいられなかった。
「さやか。ほれ」
「冬枝さん。ありがとうございます」
「カルビだからな。こっそり食えよ」
また肉を焼きに戻ろうとした冬枝を、さやかが「あの」と呼び止めた。
「僕、何かお手伝いできることはありませんか?」
「気にすんなって。こんないい肉食える機会、滅多にねえんだから、たらふく食うんだぞ」
「はい」
冬枝の貧乏性に苦笑しつつ、さやかは背後からあるものを取り出した。
「これ、こっそり飲んでください」
さやかが差し出したのは、冷たいビールが注がれた紙コップだった。麦茶の入った冷水筒の影に隠していたらしい。
「さやか…。サンキュー」
「お水も、ちゃんと飲んでくださいね。日射病になっちゃいますから」
さやかに渡されたおしぼりで、冬枝は顔を拭いた。日差しとコンロの熱気で蒸し暑い中、清潔なおしぼりがこの上なく気持ちいい。
――あー、さやかはめんけえなあ。
こんなむさ苦しい男所帯じゃなく、さやかと2人きりだったら、どんなに楽しかっただろう。白いマリンワンピース姿のさやかは、そこだけ空気が澄んでいるように見えた。
「冬枝、肉ちょうだい」
組長から声をかけられ、冬枝は「今焼きますよ!」と答え、ビール片手に戻っていった。
――冬枝さん、大変そうだな。
昼食を食べている暇はあるのだろうか、とさやかは心配しつつ、まくられた袖から覗く冬枝の腕の太さとか、汗が光るこめかみとか、ついそんなところに目がいってしまう。
さやかがぽーっと冬枝に見惚れていたところに、頭上から声がかかった。
「麻雀小町」
「うわっ!」
思わず声を上げてしまったさやかに、後ろに立っていた霜田が「何をそんなに驚いているのです」と顔をしかめた。
「ご飯のおかわりは要りますか」
霜田は右手にしゃもじ、左手に炊飯ジャーを抱えている。さやかは、目を丸くした。
「霜田さんがご飯やってるんですか?」
「これも、補佐たる私の務めですから」
霜田はさやかの手から茶碗を取ると、勝手にご飯をよそった。
「何ですか、あまり箸が進んでいませんね。組長の別荘にお招き頂いた緊張で、喉を通りませんか」
「いえ…そういうわけでは」
実を言うと、冬枝が大量に肉を焼いてくれるお陰で、さやかは既に腹八分目だった。お腹が出てるんじゃないか、とワンピースのウエスト周りをちらちら見てしまう。
霜田はふん、と鼻で笑った。
「下手な謙遜はするものじゃありませんよ、小娘。代打ち風情が組長の別荘に招かれるなど、前代未聞。普通はせいぜい麻雀の時に呼ばれるぐらいで、別荘に泊めて頂くなんて、まずあり得ません。今頃、他の代打ちたちはお前に嫉妬しているでしょう」
「はあ」
霜田は炊飯ジャーを脇に置くと、さやかの隣に腰を下ろした。
「まあ、嫉妬なら若頭のほうが凄かったですが」
「榊原さん…ですか?」
「若頭は、若い時分から組長に可愛がられていましてね。若頭は優秀で仕事ができるものですから、それはもう、古参の組員たちから生意気だなんだとやっかまれたものですよ」
「へえ」
話の内容よりも、さやかは霜田が榊原について、こんなに晴れ晴れと話しているのが珍しかった。
――霜田さん、本当に榊原さんのことが好きなんだな。
ひょっとすると、霜田と榊原の関係は軟化しているのかもしれない。さやかにとってもめでたいことだが、気がかりもあった。
――でも、今朝の朽木さんからの電話だと……。
「おまけに、若頭は背が高くて男前ですから、チビの年寄りたちには余計に目障りだったんでしょう。そういう奴らのひがみを耳にするたびに、私は内心、爽快だったものですが」
滔々と昔話を続ける霜田の肩が、ポンと叩かれた。
「さやか相手に何喋ってるんだ、霜田」
「あっ、若頭」
「陰口ならともかく、自慢話はやめてくれ。さやかが困ってるだろ」
榊原から苦笑気味に言われ、霜田が顔を赤らめた。
今日の榊原と霜田は、いつになく和やかだ。大学の先輩後輩だった、というのも頷ける。
「霜田、親分が飯のおかわりが欲しいそうだ」
「分かりました、今行きます」
霜田は重たそうに腰を上げると、炊飯ジャーを抱えて縁側を歩いていった。
「嬢ちゃん。ちょっといいか」
「はい」
榊原に促され、さやかは縁側を離れて、台所に連れ出された。
皆が庭に集まっているため、台所は人気がない。風に揺れる風鈴の音以外、しんと静まり返っている。
組長に言いつけられたのか、榊原は冷蔵庫から冷えたビールを2本、取り出した。
「実は、響子がこっちに来ているんだ」
「えっ…響子さんが?」
響子は榊原の愛人で、さやかもよく一緒に麻雀を打っている相手だ。
榊原の命令ではあったが、根っからの麻雀好きである響子と打つのは純粋に楽しかった。榊原の妻である淑恵のことを思うと複雑な気持ちになるが、榊原にもさやかにも礼儀正しい響子のことを、嫌いにはなれなかった。
最近では、榊原と響子が親しげに話しているところを見ても、さやかは気にならなくなっていた。2人の関係を応援する気にはなれないが、慣れてしまったのかもしれない。
「あいつだけ、向こうに一人ぼっちってのも気の毒でな。今日、1時間だけ会う約束なんだ」
「それって…」
「勿論、親分たちには秘密だ。嬢ちゃんも、他言無用で頼む」
榊原は「まあ、冬枝になら言ってもいいが」と表情を和らげた。
「もし響子と顔を合わせたら、声かけてやってくれ。何だかあいつ、最近寂しそうなんだ」
「……分かりました」
朽木からの電話を思い出し、さやかの表情は暗くなった。
榊原が縁側に戻ると、組長と霜田と3人で、酒を囲む形になった。
「この間の選挙、灘先生も親分のお力添えに感謝していました」
灘議員は、榊原の義父にあたる。今回は、灘議員と息子の双方で出馬していた。
組長は、手にした扇子で首を仰いだ。
「めでたいねえ、当選して。こっちも金かけた甲斐があったってもんよ」
「東京では、青龍会が大きな顔をしているそうですから…。奴らとの均衡を保つためにも、今後ますます、親分のお力が必要になってくるかと」
裏社会のみならず、政治の世界においても、青龍会は強大な影響力を誇っていた。青龍会とつかず離れずの関係を保ちつつ、己の意を通すには、白虎組のバックは必須だった。
「そりゃ勿論、灘先生のことは守らなきゃいけないわな。俺らにとっても大事な後ろ盾だもの」
組長が意識しているのは、秋津一家だった。この県で唯一白虎組に靡かず、青龍会と比肩する広域暴力団・朱雀組の傘下として独立を守っている。秋津一家の背景にいる朱雀組に対抗するためにも、灘議員という守り神は重要だった。
「これからも、灘先生とは仲良くしなきゃね。どんなところから関係にヒビが入るか、わかったもんじゃねえ」
組長のサングラスの奥の瞳がこちらを見据えている気がして、榊原は寒気がした。
――響子のことは、淑恵にも親分にもバレていないはずだ。
淑恵はともかく、組長に露見したところで、極道が愛人を囲うことは珍しくもない。灘議員との友好関係さえ守れば、特に問題はないはずだ。
だが、組長の冷たい眼は、榊原のささやかな裏切りすら許さないという鋭さを放っている気がして――榊原は直視できなかった。
「今や、灘議員は我々なくしてやっていけないでしょう。心配はご無用かと思いますよ」
霜田の言葉は、榊原の不安を汲み取ったかのようだった。
――霜田。
長い付き合いの後輩に救われた気がする榊原とは裏腹に、霜田は別の懸念を抱えていた。
――組長は、我々がしていることに気付いているのかもしれない……。
そこで、庭から「先代のお宝!?」という歓声が上がった。
面々が顔を上げると、稲玉組の連中が、酒を飲みながら話しているところだった。
「おうよ。白虎組の先代がサツに嗅ぎ回られたことがあって、慌ててこの辺りに金を隠したらしいんだ。俺はその時、先代に道案内をしたから、よく覚えてる」
そう語るのは、稲玉組の若頭だ。
「ああ、そんなこともあったねえ。懐かしい」
組長が、扇子片手に目を細めた。この港町に金を隠すよう先代に勧めたのは、当時若頭だった熊谷だった。
「その金って、まだ残ってるんですか」
稲玉組の組員が興奮気味に聞くと、稲玉組の若頭は「そこまでは知らねえなあ」と後ろ頭を掻いた。
若い衆が前のめりになっている様に苦笑しつつ、榊原が尋ねた。
「どうなんです、親分。その金、回収したんですか」
「んー…どうだったかなぁ。昔のことだから、忘れちゃった」
組長は「冬枝は覚えてるー?」と、コンロの影でしゃがんでいた冬枝に声をかけた。
いきなり声をかけられて驚いたのか、冬枝が軽くむせながら立ち上がった。
「げほっ、げほ…何の話ですか」
「金だよ、先代がこの辺に隠した闇金。冬枝も一緒にいたから、覚えてるでしょ」
「そんなこともありましたっけ…」
冬枝は、紙コップの中のビールの残りをこっそり飲み干した。
先代の親衛隊にいた冬枝は、源と共に先代に同行することもしばしばだった。それこそ闇金や裏取引といった極秘の現場には、必ずといっていいほど付き従った。
「あんなタヌキのお膝元より、タンスの中にでも隠しといたほうが安全だと思いますが」
源が、冷ややかに先代に忠告していた声が脳裏に蘇る。
――ああ、あの時か。
「隠したのは覚えてますけど、あの金をどうしたかまでは、俺はさっぱり」
冬枝が肩をすくめると、稲玉組の連中が一斉に駆け寄ってきた。
「どこですか、隠し場所は」
「現金ですか?いくらぐらい!?」
「知らねえよ、昔の話だろ」
冬枝は、鼻息荒く迫ってくる稲玉組の顔面を手で払った。
いつの間にか、先代の隠し財産が取り放題みたいな話になっている。稲玉組にとっては地元である上、自分たちの身内である熊谷が白虎組を襲封した以上、先代の財産は自分たちのものも同然、という意識があるのかもしれない。
――というか、ただ単に夏で浮かれてるだけか。
極道に夏休みなんて関係ないとはいえ、堅気連中の行楽気分は確実に伝染する。田舎で退屈している若い衆が宝探しなんて与太話に目を輝かせるのも、無理はなかった。
やがて各々が昼食を終え、後片付けが始まると、冬枝は縁側にいるさやかに声をかけた。
「さやか。飯食ったか」
「はい。もうお腹いっぱいです」
そう言うさやかの膝の上には、冬枝宅でもよく読んでいる麻雀雑誌が広げられていた。
「お前、それ持って来たのかよ」
「はい。時間潰しにちょうどいいので」
今日ぐらい麻雀のことは忘れろよ、と言おうとしたが、さやかの頭から麻雀が消える瞬間なんてないことは、冬枝が一番よく知っていた。
「高根たちもそろそろ片付け終わるから、一緒に海行って来い。水着持ってきたんだろ」
「冬枝さんは?」
そわそわするさやかに対し、冬枝はわざと素っ気なく答えた。
「俺はいい。疲れたし、部屋で酒でも飲んでる」
「そ…うですか…」
さやかがあからさまに肩を落としたので、冬枝は噴き出した。
「ハハハ、冗談だって。俺も片付け終わったら行くから、先行って待ってろ」
「…!はい!」
さやかは「冬枝さん、早く来てくださいね」と言って、パタパタと廊下を走っていった。
その跳ねるような足取りを見るにつけ、冬枝は脳みそがグニャグニャと軟らかくなっていくような感覚に襲われた。
――ああ~~、さやかめんけえ~~。
さやかが冬枝の言葉でいちいち表情を変えるのが、健気でしょうがない。自分のことをここまで気にする女がいるというだけで、汗と煙にまみれた身体がどうでもよくなってくる。
しかも、頑張ったご褒美とばかりにさやかが水着で待っているのだ。さやかのほっそりとした肢体を想像しかけて、冬枝は我に返った。
――いや、違うんですよ、これは。スケベとかじゃなくて、親心ですよ、源さん。
源の蒼く冷たいガラスのような眼差しは、中年になってなお冬枝をただの弟分にしてしまう。だいたい正しいことしか言わない兄貴分に、心の中でつい言い訳をしてしまう。
――浮かれちまってるのは、俺のほうかもしれねえな。
或いは、さやかが常ならぬくらい浮かれているせいかもしれない。さやかの弾けるような笑顔は、冬枝を夏の別世界へ連れて行ってしまうかのようだった。
さやかは、腕時計を気にしながら部屋を出た。
――高根さんたち、待たせちゃったかな。
日焼け止めを塗り、入念に鏡をチェックしていたら、時間がかかってしまった。高根たちはもう、後片付けを終えて車に乗り込んだ頃だろうか。
御殿のように広い組長の別荘は、至るところから森が見える。特に、渡り廊下は風通しが良く、森から吹く冷たい風が気持ち良かった。
「私、もうやめたいんです」
風に乗って、女性の声がさやかの耳に届いた。
――響子さん?
そういえば、響子もこの港町に来ているはずだ。まさか、組長のいる別荘とこんな至近距離で、榊原と修羅場になっているのだろうか。
さやかの前では常に端然として落ち着いている響子の、乱れた声音も気になった。さやかは、声がするほうへと歩を進めた。
やがて、生い茂る木立の切れ間に、響子と霜田が向かい合っている姿が見えた。
「今更、何を言っているのです。若頭が嫌になったのですか」
霜田はいつもの権高な態度ながら、どこか気遣うような口調だった。
さやかの推測では、響子は霜田と朽木が共謀して榊原に差し向けた愛人だ。響子に愛人をやめたいと言われてしまえば、榊原を懐柔するという2人の策は水泡に帰すだろう。
だが、今の霜田にはそういう心配のほかに、個人的な困惑も滲んでいる気がする。
――まるで、娘にワガママを言われた父親みたいな…。
すると、響子が切りつけるように言い放った。
「パパには、私の気持ちなんて分からないわ」
――パパ!?
どういう意味合いの「パパ」だろう。父娘には見えないし、まさか、霜田と響子はパトロンと愛人の関係なのだろうか。
さやかは、息を詰めて霜田と響子を見守った。
「若頭が、何かお前が嫌がるようなことをしたのですか」
やはり、響子に対する霜田の声はどこか優しい。だが、愛人に接するようないやらしさとは何かが違う。
「いいえ。若頭はいい人です。私なんかにとてもよくしてくれます」
だから辛いの、と言って、響子は声を詰まらせた。
「お願い、パパ。もうこんなこと終わりにして。パパだって本当は、こんな形で若頭を騙したくなんてないでしょう?」
そう言って顔を覆った響子の声は、悲痛だった。
「………」
霜田は苦り切った表情で俯いていたが、首を横に振った。
「若頭のことを思うなら、猶更、やめてもらっては困ります。お前はこのままずっと、若頭と一緒にいればいいんです」
「無理です。私にそんな力はありません。だってあの人は……」
もうこれ以上話しても無駄だとばかりに、霜田は足早にその場を去った。
「………」
響子は霜田を追うことはせず、黙ってその場に立ち尽くした。
やがて、鳥のさえずりだけが響く森に、響子の「夏目さん」という声が静かに落ちた。
「そこにいらっしゃるんでしょう?少し、お話しませんか」
「……はい」
さやかは、少しバツの悪い気持ちで立ち上がった。
「すみません。盗み聞きのような真似をして」
「いいんです。夏目さんにも関係のある話ですから」
響子は、年下であるさやかにも、丁寧に接してくれる。やはり、この人を嫌いにはなれない、とさやかは思った。
さやかは今朝、朽木から連絡を受けたことを響子に明かした。
「響子さんが、榊原さんとの関係を終わらせたがっている、と」
響子と榊原が口喧嘩しているところすら見たことがないさやかには、意外な報せだった。霜田と朽木の陰謀だと知った後でも、榊原に対する響子の態度は嘘偽りには見えなかったのだ。
響子は、力なく頷いた。
「ええ。朽木さんに言った通りです」
何故、と霜田と同じ質問を繰り返すのも憚られ、さやかは別のことを聞いた。
「榊原さんと別れて、どうするつもりですか」
「どう…って?」
「お家とか、お勤め先とか…色々、先のことを考えないといけないんじゃないですか」
すると、響子は切れ長の瞳をぱちぱちと瞬かせた。
「驚いた。夏目さんは、私よりずっと大人ね。私、別れた後のことなんて考えてなかったわ」
「…僕は、ずっとそのことを考えてました」
朽木の電話を受け、別荘に向かう車中、さやかは響子の将来を案じていた。
榊原はいい。可愛がっていた愛人に振られ、傷心するだろうが、立場に何の変わりもない。
だが、響子は違う。住んでいるマンションは榊原が与えたものだし、霜田と朽木に雇われている身の上だ。榊原の愛人をやめてしまえば、生活の全てを失ってしまうだろう。
響子に、不幸になって欲しくない。麻雀仲間として、それがさやかの出した解だった。
さやかの真っ直ぐな眼差しと相対しているうちに、響子の瞳にも冷静さが戻ってきた。
「…夏目さんに、信じてもらえるか分からないけれど」
「はい」
「私と若頭は、愛人なんて関係じゃないんです。あの人は私の部屋でお酒を飲んだり、麻雀を打ったり、それだけです。他には何もありません」
「……そうだったんですか」
信じられないような話だが、思い当たる節がなくもなかった。
最初こそ、榊原と響子が談笑しているだけで、淑恵のことを思い出してさやかは許せない気持ちになった。だが、慣れていくうちに、あまり気にならなくなっていた。
榊原と響子の間にあるのは穏やかな親愛でしかないことに、無意識のうちに気付いたのかもしれない。
――それでも、不倫は不倫だと思うけど。
そんな冷たいツッコミも、今の消沈した響子に言う気にはなれない。
「幼い頃に父が出ていって、家はとても貧しいんです。学校にも行けなかった。その話を若頭にしたら、とても同情してくれました」
響子は、自嘲気味に語った。
「パパと朽木さんに言われて、若頭の気を引くために敢えて身の上話をしたんだけど、それがそもそもの間違いだったんでしょうね。あの人は、優しすぎるから」
そこでさやかは、響子が霜田のことを「パパ」と呼ぶことについて尋ねた。
響子は、小さく苦笑した。
「ああ、霜田さんのこと…。ふふっ、昔からパパって呼んでるから、もうすっかり定着してしまいました」
響子は、勤めている店のママが霜田の奥さんなのだ、と説明した。
「霜田さん、結婚なさってるんですか」
「元、ね。色々あって、今は離婚してしまったけれど。ご夫婦だった頃に散々ママ、パパって呼んでたから、今でもそう呼んでしまうんです」
夫婦ぐるみで面倒を見ていた響子は、霜田にとっても娘のようなものなのだろう。響子に対する霜田の態度は、そういうことだったのだ。
「…家が貧乏で、学校にも行けなくて、ずっと水商売で男の人の相手ばかりして…。だから、お金のためなら何でもやるつもりだったんです。たとえ、人の家庭を不幸にすることであっても」
響子の青ざめた頬に、黒髪が一筋、細く垂れ下がる。
「でも、こんな惨めな想いをするぐらいなら、引き受けなければよかった。私が初めて好きになった男の人は、私のことを娘の代わりとしか見てくれないんですもの…」
目に涙を浮かべる響子に、さやかは何も言えなかった。
ここで「じゃあ愛人なんてやめればいい」と言うのは簡単だ。だが、そんな言葉で、目の前の女性の悲しみを切り捨てたくなかった。
さやかは、響子の細い肩を見つめた。
「…響子さんは、聡明な人です。時が来れば、きっと解が見えてきます」
「解…?」
「ええ。ですから、じっくり考えるべきだと思います。今出した答えが、響子さんの未来に繋がるんですから」
配牌だけで決めつけてはいけない。2巡目、4巡目、どんな手牌になっているかは、引いてみなければ分からない。
苦しい時ほど、楽になろうとして悪手に走る。大事なのは、冷静に、諦めずに手牌を作り続けることだ。粘り強い打ち回しをする響子なら、きっと納得のいく解を出せる。さやかはそう思った。
「月並みなことしか言えなくて、すみません」
「いいんです。夏目さんとお話したら、気が晴れました」
孔雀色のワンピースの裾を翻し、すっくと立った響子は、さやかの目から見ても美しい。響子だけを愛してくれる人が、絶対にこの世界にいるはずだ、とさやかは思った。
響子は、腰を深く折った。
「夏目さん。話を聞いてくれて、ありがとうございました」
響子は一体、どんな解を出すのだろう。それが、響子が幸せになれる結論であることを、さやかは祈るしかなかった。
真夏の青空は、人の悲しみなど知らないかのように濃く青い。
砂浜では、家族連れからカップルまで、楽しそうに戯れている。高根と土井も、海に飛び込んですっかりはしゃいでいた。
「………」
海水浴場に着いても、響子のことが頭から離れず、さやかはぼんやりしていた。
――響子さん、大丈夫かな。
白々しくても、もっと励ましの言葉をかけてやればよかったかもしれない。いっそ、榊原との別れを後押ししてやったほうが、響子を苦しみから解放できたのではないか。
――そんなことしたら、朽木さんからは怒られるだろうけど。
今朝の電話でも、朽木は「あの女を説得しろ。冬枝はオトせねえてめえでも、女同士なら話せるだろ」と、結構必死な様子だった。
――朽木さんは、響子さんの気持ちなんか考えてないだろうな。
よくよく考えれば、霜田と朽木とて一枚岩ではない。青龍会と闘いたくない霜田に対し、朽木の目的は青龍会を通じて東京に進出することだ。東京にいる愛妻・鳴子との再会を夢見る朽木には、白虎組を守るなんて大義は二の次だろう。
榊原、霜田、朽木、響子、組長……。絡み合い、すれ違う人々の思惑は、どこへ向かっていくのだろう。
真剣に考えかけて、さやかはふうと息を吐いた。
――僕がなんとかできるのは、自分の手牌だけだ。
冬枝にも言われた通り、さやかが案じたところでどうにもできないことばかりだ。太陽の下で俯いていたって始まらない、とさやかは気持ちを切り替えた。
――せっかく、源さんに水着を買ってもらったんだもん。楽しまなくっちゃ!
レジャーシートから腰を浮かせかけたさやかの視界が、急に暗くなった。
「…っ?」
「だーれだ」
聞き覚えのある男の声に、さやかは眉根を寄せた。
「どちらさまでしょう」
わざと他人のふりをすると、男はふふっと気取った笑い声を洩らした。
「お前の未来の旦那さまだよ」
「お断りします、嵐さん」
さやかが振り返ると、そこにはヒゲ面の男――春野嵐が、白い歯を見せて笑っていた。傍らには、ビキニ姿の鈴子もいる。
「鈴子さん!」
「さやちゃーん!」
鈴子の顔を見たら、さやかの中のモヤモヤが消し飛んだ。思わず、2人で手を取り合った。
「きゃーっ、さやちゃんカワイイ。その水着、似合ってるわ」
「鈴子さんこそ、すっごく似合ってますよ。髪結んでるのも素敵です」
鈴子は、長い髪を黒いリボンでポニーテールにしていた。剥き出しになった首のラインが、すごく色っぽい。
「僕も、髪結んでくれば良かったな」
髪型を変えただけで、鈴子の水着姿は何倍にも新鮮に見える。さやかだって結べない長さではないのだが、未練がましく毛先をいじくるしかない。
鈴子が「そう言うと思って」と言って、バッグから白いリボンを取り出した。
「じゃーん!さやちゃんポニーテール計画!」
「わあっ。いいんですか?」
「いいも何も、嫌とは言わせないわよ。さやちゃんは私とお揃いにするって、水着買った時に決めてたんだから」
そう言うと、鈴子は手早くさやかの髪を白いリボンで結い上げた。
鈴子のコンパクトミラーが、さやかのポニーテール姿を映し出す。
「どうです?変じゃないですか?」
「とーってもカワイイわ、さやちゃん!もう、食べたくなっちゃう」
鈴子に頬擦りされ、さやかはえへへ、とはにかみながら笑った。
「あのー、お二人さん。ワイルド嵐くんをお忘れじゃないかね」
嵐が憮然として口を挟んだが、鈴子の反応は冷たかった。
「あんたにはさっき、日焼け止め塗らせてあげたでしょ?今日はもう店じまいよ」
「ひどいッ!ていうか、なんで俺抜きで水着買いに行ったんですかッ!旦那の意見を真っ先に聞くべきじゃないんですかッ!?」
鈴子はさやかを胸元に抱き寄せながら「嵐は雀荘に行ってたじゃない」と言った。
「しょうがねえだろ、情報取集してたんだから。ていうか、鈴子とさやかだけで水着買いに行ったんだったら、俺だって文句言わねえよ。おてもとだか手羽元だかいうオッサンが、一緒だったって言うじゃねえか」
「源さんね」
「そう、それ!なんでですかッ!なんで俺じゃなくて、知らないオッサンが両手に花の極楽気分を味わってるんですかッ!なんで俺はその場にいないんですかッ!」
「だから、嵐は雀荘に行ってたでしょ」
嵐は、鈴子の胸に挟まれてうっとりしているさやかに顔を近づけた。
「なあさやか、源ってどんな奴?ハンサム?」
「んー……」
さやかは「めちゃくちゃカッコイイです」と正直に答えた。
「畜生、さやかがこう答えるってことは、相当じゃねえか!じゃあさ、ダンディ冬枝と源と、どっちがカッコイイ?」
「やだ」
さやかは答えたくなくて、甘えるように鈴子の胸に顔を埋めた。
「ほら、さやちゃんが嫌がってるじゃない」
「家庭の問題なんだぞ!鈴子はな、年上のオジサンにめっぽう弱いの。嵐クンピンチなの。助けてー、麻雀小町ー」
嵐から二の腕をツンツンとつつかれ、さやかは仕方なく、柔らかくて気持ちのいい鈴子の胸から顔を上げた。
「嵐さんは、鈴子さん一筋じゃないですか。誠実なのって、一番大事なことだと思います」
「さやか…!」
嵐はわざとらしく瞳を潤ませると、さやかをがばっと抱き締めた。
「ありがとう!嵐クンは、嫁2号のことも大事にするからな!」
「誰が嫁2号ですか、離してくださいっ!」
嵐の汗臭い胸板に密着され、さやかはもがいた。
「フフフ。鈴子のおっぱいを満喫した代金として、お前のミニサイズの乳を楽しませてもらおうか」
嵐の手があらぬところに伸びてきて、さやかは「ぎゃっ!」と悲鳴を上げた。
厚かましい指先は、さやかの胸を触る寸前で、ぎりっと手首から捻り上げられた。
「どこのスケベ野郎かと思ったら、てめえか」
「ハロー、ダンディ冬枝」
「…冬枝さん!」
さやかは、慌てて嵐から身を離した。
「お疲れ様です。お片付け、終わったんですか」
「ああ。細かいのは若い衆に任せてきた」
高根たちは…と聞きかけて、冬枝は波間で歓声を上げる弟分2人を見つけて顔をしかめた。
「あいつら、お前放っといて何やってんだよ」
「いいんです。高根さんたちを見てるだけで、僕も楽しいですから」
冬枝と話していたら、ポニーテールにした首筋が急にむずむずしてきた。落ち着かなくて、さやかは動き出していた。
「の、飲み物、買ってきますね。冬枝さん、何にしますか」
「適当でいい」
分かりました、と上ずった声で返すと、さやかは自動販売機へと駆けていった。
「………」
さやかの背中をじっと見ていた冬枝に、嵐が耳元で「ドスケベ音頭…」と囁いた。
「っせえな、何だよ、ドスケベ音頭って」
「ペチャパイ音頭のB面ですかね」
「ああ?」
冬枝は「なんでてめえがこんなところにいるんだよ」と尋ねた。
この港町よりも近場の海水浴場は、他にもある。嵐が自分たちと同じ海を選んだのが、偶然とは思えなかった。
嵐は、不意に目つきを鋭くした。
「『アクア・ドラゴン』が、こっちに来るって情報を掴みましてね」
「なんだって?」
嵐は、不敵な笑みを浮かべた。
「油断している虎さん一行を襲うつもりか、はたまた、他に目的があんのか。どう思います?」
嵐に目線を送られ、冬枝は腕を組んだ。
「…まあ、親分たちを襲撃するってのが、一番妥当な見立てだろうな」
組長・榊原・霜田のうち、誰か一人でも討ち取られれば、白虎組の屋台骨は揺らぐ。
しかし、幹部を襲ってしまえば、白虎組と青龍会との間に友好はあり得なくなる。田舎の組に過ぎない白虎組相手に、青龍会がわざわざ面倒を冒すとは思えなかった。
――なんにせよ、さやかのことは俺が守ってやらねえと。
「ところでダンディ冬枝、どう思います?」
「そりゃ、親分たちだって護衛ぐらいつけてるし、稲玉組だっているしな」
「違いますよ。さやかの水着です」
嵐は「まあ、うちの嫁には敵いませんけど」と言って、パラソルの下でジュースを飲んでいる鈴子を指さした。
「こんにちは、冬枝さん」
「ああ…」
鈴子の明るい笑顔の下には、スイカかメロンかと見紛うばかりの膨らみが並んでいる。
嵐が、横から忍び笑いを洩らした。
「おっぱい不作地帯のドスケベ冬枝には、目の毒だったかな?」
「おい、変な言い方するんじゃねえ。さやかはな、あれでいいんだよ」
さやかのしなやかなボディラインを思い出し、冬枝は力説した。
「見ただろ、あのペッタンコ。どっちが胸で、どっちが背中だかわかりゃしねえ」
「ふむ」
「尻もペッタンコだし、男を寄せ付ける凹凸がまるで無しだ。あれなら、男は見向きもしねえ。安心ってもんだ」
「だってよ、さやか」
という嵐の声で、冬枝の顔から血の気が引いた。
いつの間にか、冬枝の背後にさやかが立っていた。
「………」
さやかは、無言で缶ジュースを足元に置いた。
「あ、ああ、飲み物買ってきてくれたんだな。サンキュー」
「………」
さやかは冬枝と目も合わせず、くるっと後ろを向いた。
そして、猛然と走り出した。
「おい、さやか!?」
まるで徒競走のような勢いで、さやかは海水浴客の中へと消えていった。
ポニーテールに揺れていた、白いリボンの残像だけが、やけに鮮やかだった。
「…………」
冬枝は「嵐っ!!!」と声を上げた。
「てめえのせいで、さやかがどっかいっちまったじゃねえか!責任取れ!」
「俺じゃなくて、ダンディ冬枝のせいでしょ。なー、鈴子」
「そうね、今のは冬枝さんの失点ね」
鈴子は「さやちゃん、可哀想」と言って、頬杖をついた。
「その言葉、さやかが聞いたら心底傷付くだろうな」
源の声が、冬枝の脳裏でこだまする。
――なんでこうなっちまうんだ、畜生!
冬枝はさやかが買ってきた缶ジュースを握り締めると、さやかの後を追った。