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24話 待ちきれないサマー・ホワイト

第24話 待ちきれないサマー・ホワイト


「今度、親分の別荘に行くことになった」

 7月も半ばを過ぎた頃、昼食の席で冬枝はそう告げた。

 なじみの店『天麩羅しみず』で並んで座る弟分2人が、色めき立った。

「組長の別荘ですか!?すごいですね、兄貴」

「海は?海はありますか?オレ、水着のおねーちゃんとお近付きになりたいんスけど」

 高根と土井が口々に言うのを見て、冬枝は呆れたように目を細めた。

「お前ら、よくそんなにはしゃげるな。俺は行きたくねえよ」

「えっ、なんでですか」

「組長の別荘に招待してもらえるなんて、出世じゃないですか」

 冬枝は大葉の天ぷらをバリバリと嚙みながら「つったってよ」と言った。

「榊原さんと霜田さんも一緒なんだぞ。それでも嬉しいのかよ、お前ら」

「えっ。若頭と補佐もご一緒ってことは、つまり……」

「ゴルフ場の悪夢、再び」

 土井の軽口に、高根が「悪夢は言い過ぎだろ」と苦笑した。

 つまり、今回の避暑の旅も、冬枝たちが幹部連中の荷物持ちとしてこき使われるのではないか、ということだ。

 ――雑用がなくたって、わざわざ親分たちと旅行なんか行きたくねえよ。

 腹の底が読めない組長、いがみ合っている榊原と霜田。この剣呑な組み合わせでは、海があろうと山があろうと同じことだ、と冬枝は思った。

「さやか。お前も一緒だからな」

「僕もですか?」

 確かに、組長からはよく「別荘においで」と誘われていた。さやかは社交辞令だと思っていたが、本気だったらしい。

 ――ただの楽しい旅行になればいいけど。

 組長が、朱雀組組長殺害事件への関与について、さやかに対する疑いを捨てたとは思えない。また、橋の上から飛べと迫られた時のように試されるのかもしれない。

「兄貴、それで、親分の別荘に海はあるんですか?」

 土井のしつこい問いに、冬枝は「ある」と答えた。

「別荘があるのは、親分のお膝元である港町だからな。海水浴場のすぐそばだってよ」

「よっしゃー!高根、一緒に女の子ナンパしまくろうぜ。あ、水着買わないと!」

「おい、土井。旅行と言っても、仕事なんだぞ」

 高根はしかつめらしく答えたが、冬枝は「好きにしろ」と言ってやった。

「用がない時は遊んでていいぞ。お前らだって、息抜きぐらいしてえだろ」

「さっすが兄貴、わかってるー!大好き!」

「兄貴、ありがとうございます」

 浮かれる弟分2人に対し、さやかの表情は硬い。冬枝は気持ちを察した。

 ――そりゃそうだよな。

 先日、橋の上から飛べ、と組長に無茶なことを命じられたばかりなのだ。そんな組長の別荘に誘われたって、さやかは楽しみどころか不安に違いない。

 冬枝の心配をよそに、さやかの不安はまったく別のところにあった。

 ――水着、どうしよう。



 土井たちではないが、冬枝が海で女に目移りしないとも限らない。その時、流行りのマリンワンピースでは、水着のギャルたちに太刀打ちできない。それが、さやかの出した解だった。

 雑誌『JJ』の水着特集ページを睨んでいたさやかは、顔を上げた。

「冬枝さんって、どんな水着が好みだと思いますか?」

 我ながらくだらない質問だと分かってはいたが、さやかは藁にもすがる思いだった。

 場所はバー『せせらぎ』。冬枝の兄貴分だった男――源清司が営む店である。

「………」

 カウンターからじっと見つめてきた源に、さやかは慌てて両手を振った。

「あっ、すみません、いきなり変なことを聞いて…。こんなこと聞かれても、源さんだって困っちゃいますよね」

「確かに、困りものだな。お前が水着姿を見せたい相手が、俺じゃないってのは」

 源は、真顔でぬけぬけと言った。

 元は『人斬り部隊』と呼ばれた親衛隊の隊長であり、冬枝を凌ぐ凄腕の極道だったという男なのに、さやかには気さくに接してくれる。

 さやかは、源のブラウンのベストに青いネクタイを締めた服装をふと見上げた。

「源さん、女装はもうやめたんですか?」

 東京で命を狙われた源は、素性を隠し、かりそめの姿で彩北に戻ってきた。その美貌から、さやかは当初、源のことを絶世の美女だと信じて疑わなかったほどだ。

「極道にも色々信条はあるが」

 と、源は唐突なことを口にした。

「視界に入る女を泣かせない、ってのが俺の信条だ。俺が女の格好をしていたせいで、さやかを泣かせちまった。だから、女装はもうしない」

「み、見てたんですか」

 源のことを女性だと勘違いしていた頃、さやかは冬枝と源の親密さに嫉妬し、『せせらぎ』の隅でこっそり泣いたことがあった。まさか、源本人に見られていたなんて。

「僕のことなら、気にしないでください。源さんなら、女の人の格好をしてても絶対バレないと思いますよ」

 すると、源は微かに笑みを浮かべた。

「さやかがまた見たいって言うなら、いつでも着てやるさ。2人っきりの時にでも」

 何回聞いても、源の口説き文句にはドキドキしてしまう。さやかは、ちょっと赤くなった頬を隠すように顔を背けた。

「源さんは、その…独身っておっしゃってましたけど、いい人はいないんですか?」

「お前にその気がないなら、今はいないってことになる」

「源さん、モテそうなのに」

 さやかが言うと、源は臆面もなく「ああ。俺はモテる」と答えた。

「俺が彩北に戻ったことで、どこからどんな反応があるか分からねえ。女をゴタゴタに巻き込みたくないから、しばらくは一人だ」

 源は「榊原と霜田が揉めてるんだろ」と続けた。

「よくご存知ですね」

「隠居の身でも、色々と知らせてくれる奴らがいるんでな。…お神酒徳利とまで言われた榊原と霜田が仲違いしてるようじゃ、白虎組も危ういな」

 グラスを拭いていた源の目つきが、ふと鋭くなった。

「源さんがいた頃から、榊原さんと霜田さんは仲が良かったんですね」

「大学の先輩と後輩なんだとよ。気前が良くて人望のある榊原を、霜田が支えてた」

 源は「榊原より、俺のほうがモテたが」と付け加えた。

 さやかは、先日の鴉組との勝負を思い出した。

「…霜田さんは、白虎組のことを…榊原さんのことを、真剣に心配してるんだと思います。榊原さんは、組長の言いなりだから…」

 と言ってから、さやかは自分の口を押さえた。源の前だと、冬枝には言わないようなことまで喋ってしまう。

「すみません、差し出がましいことを言いました。代打ちの僕が、こんなこと…」

「構わない。俺はもう組とは何の関係もねえし、俺の前ではお前はただのいい女だ」

 源は「冬枝の女の好みが知りたいんだったな」と話を戻した。

「源さんって、冬枝さんとはいつから…?」

「俺が26、冬枝が18の時だ。『こまち』で打ってたら、あいつがケンカ売ってきたんだ」

 当時、冬枝は高校を中退し、あてもなく家を飛び出したばかりの不良だった。

 とにかく目つきの悪いガキで、目に入った相手を殴っては、金品をかっぱらうような生活をしていたらしい。源のことも、顔が二枚目だからケンカが弱そうに見えたのだろう。よく美形をひがまれる、と源は真顔で言った。

 さやかは、若い冬枝が非行に走った理由が気になった。

「冬枝さんのお家って…」

 と聞こうとして、さやかはやめた。

 ――今度、別荘に行った時、冬枝さんから直接聞こう。

 冬枝の口から、冬枝の意志で、さやかに教えて欲しかった。心の奥にある、過去のことを。

 源の回想は続いた。

 源は表でやろう、と言って、冬枝を連れて『こまち』を出た。冬枝のことは、一発でノックアウトしたらしい。

 誇張ではないだろう、とさやかは思った。チャイナドレスを着ていても、暗闇の中でも、源は強かった。ヤクザになる前の若き冬枝では、相手にならなかっただろう。

 源は、気を失った冬枝を自宅に連れて行き、弟分として面倒を見てやることにしたという。

 冬枝の名を聞いた源は、一人頷いた。

「お前が本物の『セイジ』か」

 冬枝は「は?」と首を傾げた。

「俺は源清司。『キヨシ』だが、よく『セイジ』と間違えられる」

「……?」

「運命なのかもしれないな」

 源は、冬枝の顔をしげしげと見つめた。

「お前は顔は悪くないが、性根が不細工だ。お前みたいなのを野に放っても、世間の迷惑になるだけだ」

「ケンカ売ってんのか、あんた」

 と語気は荒いが、冬枝は逆らおうとはしなかった。この会話に至るまでの間に、源から既に何発も食らっていたため、学習したらしい。

「俺の弟にしてやる。今日から、俺の手足となって働け」

 源の慈悲深い申し出に対し、冬枝は露骨に顔をゆがめた。

「断る。誰がてめえみたいな女狂いに」

 冬枝の視線の先では、さっきまで源と一緒にいた女がベッドで寝ていた。

 何度目かの鉄拳指導をする前に、源は冬枝を諭すことにした。

「俺は女を幸せにする。女からも、数えきれないほどの幸せをもらってきた。お前はどうだ。女を幸せにした覚えがあるか。女がお前にくれた幸せを、ちゃんと覚えているか」

「何言ってんだよ、おっさん」

 源だ、と冬枝の腹に一発入れてから、源は冬枝の顔を指さした。

「お前みたいなろくでなしが、親からもらったそのツラを生かさなかったわけがねえだろ。食う飲む寝る、女に頼ってきたんじゃねえのか」

「………」

 冬枝はしばらく腹を押さえていたが、呻き混じりに「それの何か悪ぃのか」と言った。

「悪くはない。ただ、お前と付き合った女は、みんな不細工になっちまったんじゃねえか」

「ああ?」

「誰彼構わずケンカを売って、ヤクザにまで噛み付いた。怖いもの知らずなんじゃなくて、ヤケになってるだけだ。自分を大事にできねえ奴が、女を大事になんてできねえ」

 実際、冬枝は源の舎弟になってからも、しばらくはそんな感じだった。酷薄で、他人にも自分にも興味がなく、常に何かにイライラしている。

 腕は強いし、要領もいいから、しばらくは生き延びるだろうが、いずれ破滅する。源は言った。

「俺の弟になれば、綺麗な女と一生添い遂げさせてやる。喜べ」

 冬枝は「余計なお世話だ」と心底嫌そうに吐き捨てた。だが、以後、2人の関係は20年以上続くことになる。

 そこまで回想してから、現在の源は溜息を吐いた。

「まさか、冬枝がこんなにいい女と巡り会うとは思わなかった。予言なんてするものじゃないな」

 思わせぶりに流し目をされて、さやかはうろたえた。

「やめてください、源さん。そこまで言われると、恥ずかしいです」

「世辞じゃない。冬枝は果報者だ」

「もう……」

 冬枝と源のなれそめは分かったが、結局、冬枝の女の好みの話はどこへ行ったのだろう。

 さやかの疑問に答えるように、源が口を開いた。

「ハッキリ言えば、冬枝の好みは、あいつに都合のいい女だ。美人で、世話焼きで、住む場所と飯の面倒を見てくれる女」

「そんな、身もふたもない…」

 それに、その条件だと、さやかは全く当てはまらない。むしろ、冬枝のマンションに居候させてもらっているし、食事も冬枝や高根に作ってもらっている。まるで真逆だ。

 さやかがそう言うと、源は「そこだ」と長い指を突き付けた。

「さやかは、冬枝がこれまで付き合ってきた女たちとは違う。そこにいるだけで、冬枝を惹き付けることができる女だ」

「そう…ですか?」

「ああ。だから、いたずらに冬枝に媚びる必要はない。むしろ、冬枝に合わせようとすれば、お前も冬枝もダメになる」

「うーん…」

 さやかには少し難しいが、源の言わんとすることは分からなくもなかった。

「確かに、自分を見失っちゃったら、麻雀も勝てませんもんね」

「…さやかは、本当に麻雀が好きなんだな」

「はい。源さんともまた、ぜひ」

 さやかがにっこり笑うと、源は「次はお前が勝つだろうな」と微笑んだ。

「あ、もうこんな時間。僕、そろそろおいとましますね」

「用事か」

「はい。これから、水着を買いに行こうと思って」

 すると、源が「俺も行く」と言った。

「えっ?」

 あまりにも迷いのない言い方だったので、さやかはてっきり冗談かと思ったが――源清司は、にこりともしない真顔のままだった。



 駅前にあるデパートの水着売り場で、さやかは鈴子と待ち合わせをしていた。

 鈴子も嵐と海に行くそうで、一緒に水着を買いに行くことになったのだ。

「源さんです。冬枝さんの昔の上司さんです」

 さやかが源を紹介すると、鈴子はまじまじと源を見上げた。

「まあ、すっごくカッコいいわね。うちの旦那と顔だけ取り替えて欲しいわ」

 源は、真顔で鈴子をじっと見つめた。

「顔だけじゃなく、旦那の椅子ごともらっても構わない」

「アハハ、源さんって面白いわね。私、年上の男に弱いから、本気にしちゃうかも」

「本気にしてくれ。俺は、笑顔が綺麗な女に弱いんだ」

 さやかは思わず、ノンストップで鈴子を口説く源の袖をくいくいと引いた。

「あの、源さん。鈴子さんはこれでも、結婚してるので…」

「すまねえ。妬かせたか」

「いえ、僕の問題ではなく」

 さやかは、冬枝が源に手を焼く理由が分かったような気がした。源はいい人だが、とことんマイペースだ。

 さやかと鈴子は、カラフルな水着が並ぶ棚を物色した。

「さやちゃん、どんな水着買うの?」

 シーズンが到来したこともあって、水着売り場は若い女性で賑わっている。学校帰りの女子高生たちの夏服姿も多い。

「僕は…今年はちょっと、大胆なものを着たいと思ってます」

 さやかは、躊躇いがちにそう言った。

 麻雀ひとすじ、ボーイフレンドなどいたことがないさやかにとって、水着は学校で着るスクール水着か、友達や家族との旅行で着るものだけだった。

 おしゃれなものがいいけど、目立ちすぎるのはイヤ。友達と一緒にいても浮かない程度の水着がいい――というのは、去年までの話だ。

 ――今年は、冬枝さんと一緒だもん。

 冬枝から、少しでも可愛いと思われたい。自信をもって、冬枝の隣で海を満喫したい。さやかは、今から青い海に闘志を燃やした。

 鈴子は「きゃっ、いいわね」とはしゃいだ。

「さやちゃんなら、ハイレグもいいんじゃない?脚がすらっとしてるもの」

 鈴子がそう言って手に取った明るいオレンジ色の水着は、股の切れ込みがとんでもなく深かった。何だか、あらぬところまで見えてしまいそうだ。

「でも、こういうのが流行りなんですよね…」

 気後れしていては始まらない。さやかは自分を鼓舞すると、あれこれと試着用にカゴに入れた。

「あ、このビキニ可愛いわね。私、これにしちゃおうかな」

 派手なピンク色のビキニは、確かに鈴子に似合いそうだ。ブラウスから覗くはちきれそうなバストは、どんな水着も映えるだろう。

「鈴子さんなら、こっちも似合いそうですよ。僕、鈴子さんの色んな水着姿が見たいな」

「もう、さやちゃんったらホントに可愛いんだから。じゃ、ぜーんぶ試着しましょ」

 当然ながら、試着室も女性たちで込み合っている。鈴子の提案で、さやかと鈴子は2人一緒に試着室に入ることにした。

「あら、さやちゃんったらそんな隅っこに行かなくてもいいのよ。そうだわ、着替えるの手伝ってあげる」

「えっ、鈴子さん。悪いですよ」

 というより恥ずかしいのだが、鈴子は手際よくさやかの服を脱がせていく。さやかは、呆気なく素肌をあらわにされてしまった。

「きゃーっ、カワイイ」

「恥ずかしいです……」

 デパートは冷房がキンキンに効いているのに、何だか身体が火照ってくる。

 さやかの恥じらいをよそに、鈴子は自身も躊躇いなく服を脱いでいった。

「ねえ、さやちゃんって冬枝さんと一緒に暮らしてるんだったら、お風呂はどうしてるの?着替えとか、うっかり見られちゃったりして」

「そんなことないですよ。冬枝さんは帰ってくるのが夜遅いから、僕とはお風呂に入るタイミングがバラバラなんです」

「へーえ」

 狭い試着室で、さやかの目の前に鈴子の大きな胸が揺れる。母性すら漂う曲線に、思わず、ぺたりと触れてしまった。

「あん。さやちゃんったら、エッチ」

「あっ、す、すみません。つい…」

「フフフ、冗談よ。そういえば、最近ちょっとご無沙汰だったものね。えーいっ」

 そう言って、鈴子はさやかの顔を胸で挟んだ。

 ぱふっと柔らかな胸に包まれ、さやかはうっとりした。

「気持ちいいでしゅ…」

「うふふ、なんだかずっとこうしていたくなるわね」

 鈴子の滑らかな素肌は、どこもかしこも触りたくなるぐらい触り心地がいい。鈴子と触れ合っていると、時間を忘れてしまいそうだ。

「ねえ、さやちゃん」

 さやかの髪を撫でながら、鈴子がそっと囁く。

「この間、さやちゃんが私みたいになりたいって言ってくれたことがあったでしょ」

「はい」

 さやかが苅屋という刑事に捕まり、あわやのところを鈴子に助けられた時のことだ。

 老獪かつ横暴な苅屋に対し、笑顔と機転で乗り切った鈴子は、とても格好良かった。こんな人になりたい、とさやかは心から思った。

「前も話したけど、私、昔は不倫ばっかりしてたのよね。そのせいで友達も失くしたし、自分でも自分のこと、ダメな女だなーってずっと思ってたの」

 だからね、と鈴子は優しい声で言った。

「さやちゃんが私みたいになりたいって言ってくれた時、本当にびっくりしたの。もう、声も出ないくらい」

「鈴子さん…」

「だって私、妹にも見限られたのよ?それがショックで、家から出られなくなっちゃって、外のことはみんな嵐任せにしてたし。嵐が元気づけようとして、旅行に連れ出してくれても、私はちっとも嵐の気持ちに応えてあげられなかった。ダメダメだったのよ」

「そんなことないです」

 さやかは、思わず声を上げていた。

「鈴子さんは、僕のことを助けに来てくれたじゃないですか」

「フフ、そうね。あの時は…牧柴君からさやちゃんがピンチだって聞いて、もう、居ても立ってもいられなくなっちゃったの。ここで黙ってたら、本当に終わりだわって思って」

 鈴子は、さやかをぎゅっと抱き締めた。

「さやちゃんの言葉、すっごく嬉しかったわ。さやちゃんのお陰で、鳴子の気持ちも分かったし。今こうして一緒に水着を買いに来られたのも、さやちゃんのおかげよ。ありがとう、さやちゃん。大好き」

 そう言って、鈴子はさやかの額にキスをした。

「僕も、鈴子さんのことが大好きです」

 さやかがぎゅうっと抱き返すと、「私たち、両想いね」と鈴子が言い、2人で笑い合った。

「あら、さやちゃんとイチャイチャしてたら、源さんのこと忘れてたわ。お待ちかねかしら」

「俺のことは気にしなくていい」

 と、試着室の外から源の淀みない声が返って来た。

「源さん。すみません、待ってるだけじゃお暇ですよね」

「ちっとも。幸せを噛み締めていたところだ」

 待たされていることに対する皮肉だろうか、とさやかは心配になったが、鈴子はフフフと忍び笑いした。

「源さんって、めちゃくちゃ美形だけど、言ってることは嵐と大差ないわね」

「はあ」

 それから、さやかと鈴子は色々な水着を試着しては、互いに見せ合った。

「鈴子さんって、お尻もすっごく綺麗ですよね。いいなあ」

「あら、さやちゃんだってお尻がちっちゃくて、可愛いじゃない。こう、両手でキュッと持ち上げたくなっちゃう」

「やっ。もう、鈴子さんったら」

 鈴子とじゃれ合いながら、「源さんは、どれがいいと思います?」とさやかは尋ねた。

 源は壁にもたれたポーズのまま、真剣な表情で答えた。

「今、水着の良し悪しを冷静に判断できる状態じゃない」

「源さん、気分が悪いんですか?暑気あたりかも…」

「いや、気分はすこぶるいい。良すぎるぐらいだ」

 最終的に、鈴子は大人っぽい黒のビキニ、さやかは白いワンピース型を購入した。

「今日はありがとうございます。お店の中、女の子ばっかりだから、源さんは居づらかったですよね。長々と付き合わせてしまって、すみません」

 しかも、源は2人分の水着代を払ってくれた。東京から引っ越してきたばかりの源に奢らせてしまって、さやかは心苦しかった。

 源は涼しい顔をしていた。

「礼を言うのは、俺のほうだ。上の店で、冷たいものでも食わねえか。さやか、鈴子」

「えっ、いいんですか」

「わーい、やったぁ。一緒にフラッペでも食べましょ、さやちゃん」

 夕暮れを映すフロアの窓辺では、グラジオラスが瑞々しい香りを放って揺れていた。



 白虎組事務所の組長室に、3人の男が集まっていた。

 組長・熊谷雷蔵。若頭・榊原。そして若頭補佐・霜田だ。

 窓から差す夕陽も既に傾き、室内は薄暗い。明かりをつけないのは、これが秘密の会合であるためだった。

 霜田が、重々しく口を開いた。

「申し訳ありません。私がついていながら、浦和をまんまと『アクア・ドラゴン』に連れ去られました」

 白虎組の後援者だった不動産業者・平磯を殺した犯人・浦和の身柄を巡って、白虎組と鴉組との間で麻雀対決が行われた。

 しかし、この対決自体が、浦和をおびき出すために『アクア・ドラゴン』が仕組んだ罠だった。麻雀中のところを襲撃され、浦和は拉致されてしまった。

『アクア・ドラゴン』の狙いは恐らく、白虎組の金だろう。強大な広域暴力団・青龍会を後ろ盾にする『アクア・ドラゴン』の要求をはねのけることは容易ではない。

 組長は、退屈そうに「んー」と唸った。

「ま、霜田の失態だよねぇ。どう責任をとらせよっか」

 視線を向けられた榊原は、「は」と頷いた。

「『アクア・ドラゴン』の襲撃を予測するのは難しかったでしょう。霜田の責任を問うより、我々に盾突いた鴉組への制裁を検討したほうがよろしいかと」

「ん。じゃあ、鴉組のことは霜田がやっといて」

「はい」

 霜田は「組長の寛大さに感謝します」と言って、頭を下げた。

「ラッキーだったねぇ、霜田。鴉組との勝負がお流れになって」

「は……」

「万が一にもお嬢ちゃんが負けてたら、ウチは大損こくところだったよ。霜田も、意外とバクチするねぇ」

 それが自分の軽挙に対する痛烈な皮肉であることを、霜田はすぐに察した。

「今後は、自重します」

「それがいいでしょ」

 組長のサングラスのレンズが、黄昏の虚ろな色を反射させた。

「ま、負けたら負けたで、あのお嬢ちゃんが保険になったかもね」

「は?」

「秋津一家にあの娘を引き渡せば、1億ぐらい出してくれたかもよ。何せ、大黒柱を殺した事件の重要参考人なんだから」

 組長の冷たい笑みに、榊原も霜田も何も返せなかった。

 車に乗り込んだ組長を見送ると、暗くなった事務所には榊原と霜田が残された。

 殺人犯である浦和を巡る攻防は、警察や新聞社には極秘の案件だ。ゆえに、今日の事務所は若い衆すら遠ざけられていた。

 2人きりの沈黙を、霜田が破った。

「若頭。何故、私を助けるようなことを仰ったんですか」

 霜田の問いに、榊原は苦笑した。

「何故って、当たり前のことを言っただけだろう。浦和を取られて一番悔しかったのは、お前だったはずだ」

「……ええ」

 組長の叱責を待つまでもなく、霜田にとっても一生の不覚だった。鴉組の背後に『アクア・ドラゴン』がいることに、もっと早く気付くべきだったのだ。

 榊原は、窓の向こうを真っ直ぐに見つめた。

「俺は鴉組との勝負、バクチだったとは思わねえ。平磯には組ぐるみで世話になった。その仇を取るのは、男として当然だ」

「なんですか、若頭。そんなに弁護されると、気持ち悪いですよ」

 榊原と霜田は最近、青龍会への対応を巡って角を突き合わせるばかりだった。口を開けば互いに相手と反対のことを言うような有り様だっただけに、こんな風に優しくされると、かえって落ち着かない。

 榊原は、横顔に深い影を乗せた。

「……お前ひとりに、平磯の死を背負わせちまったな。悪かったと思ってる」

「…若頭」

「『アクア・ドラゴン』が浦和の身代金を要求してきたら、どうするつもりだ」

 霜田は、首を横に振った。

「何を言ってこようと、相手にするつもりはありません。敵が鴉組ならともかく、青龍会では、何かあったら火傷では済まないでしょう」

「それでいいのか。お前は」

 麻雀小町――さやかからも同じ質問をされたことが、霜田の脳裏をよぎった。

 さやかの青臭い眼差しは、霜田の良心を問うているかのようだった。

 ――女の癖に、昔の若頭みたいな目をして。

 あの時と同じように、霜田は苦い笑みを浮かべた。

「…いいえ。平磯の仇を討てないのは、私とて無念です。ですが、もう平磯の家族とも話は済ませました。これ以上、騒ぎを大きくしないほうがよろしいでしょう」

「そうか…」

「若頭は、どうなさりたいのですか」

 霜田は、久しぶりに榊原の本心が聞きたくなった。

 今の榊原は、組長におもねっているわけでも、金と権力に目がくらんでいるわけでもない。

 大学時代のように、ただの真っ直ぐな男に戻った榊原がそこにいる。そんな気がした。

「お前の言う通り、平磯の件はもう、俺たちにできることはねえだろう。ただ、さやかのことが気がかりだ」

「麻雀小町ですか」

「なんだよ、その呼び方」

 榊原に苦笑されて、霜田は「朽木がそう呼んでるんです」とちょっと顔を赤らめた。

「…確かに、あの小娘のことは心配ではあります。まさか、組長が秋津一家との取り引きにあの娘を使おうなどと考えていたなんて」

 組長は、白虎組の恩人である平磯の仇討ちよりも、秋津一家との利権争いを考えていたのだ。組長のどす黒い心底に、霜田は悪寒がする思いだった。

「秋津一家は、立ち上げからすぐに朱雀組の傘下に入った。つまり、俺たち白虎組には絶対に従わない、と真っ先に意志表明した奴らだ。親分は、それが気に入らねえんだろう」

 県内のほぼ全域が白虎組の影響下にある中で、秋津一家だけは朱雀組の後ろ盾のもと、確固たる独立勢力を保持していた。本拠地が白虎組からは遠いこともあって、直接衝突はないものの、県内最大勢力である白虎組としては、秋津一家は目の上の瘤だった。

 さやかの存在は、秋津一家との駆け引きを有利に運ぶ材料になるかもしれない。しかし、殺された朱雀組組長・秋津イサオの仇討ちで血気にはやっている秋津一家にさやかを渡せば、命の保証はないも同然だった。

 榊原が、そこでちょっと口元をほころばせた。

「意外だな。霜田は、さやかのことが嫌いなんじゃなかったのか」

「あんな小娘、助けてやる義理なんかありませんよ。我が白虎組が、東京から来た若い娘を売るような、卑しい組だと思われるのが嫌なんです」

「そうだな」

 ――霜田と今、話してなかったら、俺はさやかのことを見捨てていたかもしれない。

 組長の望みなら、それが白虎組のためならと、榊原は良心を売り渡していただろう。

 霜田と話していると、榊原の中にあった虚飾が剥がれていくような気がした。

 金のため、勢力拡大のため、将来のため――それらの御託で、薄汚い賄賂や脅迫を何度、美化してきただろう。

 いつからか、手段が目的に取って代わっていた。今や街の大物と口が利けるどころか、榊原自身が街の顔役と言っていい立場に登り詰めた。だが、榊原は自分が、金を集めるだけの機械のように思えてならなかった。

 今まで仕事を誇らしくすら思っていたのに、こんな気持ちになったのは――昔のように、霜田と腹を割って話したせいかもしれない。

「冬枝がいれば、麻雀小町はとりあえず安全でしょう。あの娘、冬枝にずいぶん入れ込んでいるようですから」

 あのやさぐれた中年のどこがいいのやら、と霜田は眉をひそめた。

 冬枝とさやか、で榊原が思い出したのは、妻――淑恵のことだった。

 淑恵にはよく、さやかのことを話していた。生臭い仕事の話は聞かせる気にならなかったが、東京から来た若い娘の話なら、淑恵も面白いだろうと思ったのだ。

「麻雀のお嬢さんはお元気?」

 最近、淑恵からそんなことを聞かれた。

 話題に上りこそすれ、さやかと会ったこともない淑恵のほうから尋ねてくるのは意外だったが、淑恵は母校のお茶会で女子高生たちとも交流している。若い身空で裏社会で働くさやかのことを、淑恵なりに気遣っているのだろう。

「さやかに何かあったら、淑恵が心配するからな。冬枝にはしっかりしてもらわねえと」

 ――また、淑恵にさやかのことでも話してやるかな。

 響子を愛人にして以来、淑恵と顔を合わせるのが気まずくなっていた。淑恵には何の不満もないし、今でも大切な存在だ。それだけに、妻を裏切っている後ろめたさで目も合わせられなかった。

 榊原が久しぶりに淑恵と会うのを楽しみにしている隣で、霜田が横顔を強張らせる。

 組事務所の上に、夜が重たく暗闇のベールを降ろしていた。



 雀荘『こまち』の窓から洩れる光が、夜空をほのかに照らしている。

 路上でそれを見上げながら、さやかは『せせらぎ』で源と交わした会話を思い出していた。

「『こまち』って、源さんたちがお若い頃からあったんですね」

 冬枝と源が『こまち』で出会ったと聞いて、さやかはそう言った。

 すると、源は「『こまち』は元々俺の店だ」と答えた。

「そうだったんですか」

「ああ。引退するにあたって、冬枝に譲ったんだ。『こまち』さえありゃ、あのろくでなしでも食っていけるだろ?」

 言葉こそ悪いが、源からは冬枝に対するいたわりを感じた。

 ――本当に、いいお兄さんだな、源さんって。

『こまち』は、冬枝と源の歴史の延長線上にある店なのだ。そうと分かると、さやかにとっても改めて、大切な場所だと思えた。

 源は「ついでに言うと、お前と冬枝が暮らしているマンションも、俺が譲ったものだ」と付け加えた。

「えっ。あそこも、源さんのお宅だったんですか」

「そうだ。俺のコネで、冬枝には相場の半分以下の家賃で住ませてやってる」

 言われてみれば、さやかは腑に落ちるところがあった。駅からも近く、都会的なあのマンションは、冬枝の趣味にしてはいささかブルジョワな気がしていたのだ。朽木からの強請りでピーピーしていた冬枝がマンションの家賃は払えたのも、源のお陰だったのだ。

「源さん、冬枝さんにずいぶん良くしてくれたんですね」

 いくら冬枝が弟分とはいえ、住まいと収入の面倒を丸ごと見てあげるなんて、さやかにはちょっと驚きだった。

 源は、どこか遠くを見つめるような瞳をした。

「俺があいつにしてやれることなんて、このぐらいだ。冬枝には住む場所が必要だったし、俺は俺で、彩北から離れようと思ってたところだったからな……」

 源自身は語らなかったが、さやかは、源の引退は冬枝の刑務所行きと同時期なのではないか、と今の言葉で察した。

 ――冬枝さんと源さんに、何があったんだろう。

 それを、昼下がりのバーで聞くのは躊躇われた。鬼神の如き強さを誇る源が一線から身を引き、冬枝が塀の向こうに送られた事件となれば、一大事だ。その頃にはまだ生まれてもいなかったさやかが、軽々しく尋ねるわけにはいかない。

 ――やっぱり、冬枝さんの口から直接、聞こう。

 今年の夏は、さやかにとって勝負の夏だ。模試よりも、麻雀よりも、真剣な。

「さやか。そんなとこで何してんだ」

 様々な思いを胸に『こまち』を見上げていたさやかは、冬枝に声をかけられた。

「冬枝さん。お仕事はもう終わりですか」

「ああ。お前こそ、んなとこで突っ立って何やってんだよ。暑いだろ」

 さやかはふふっと笑って、「ねえ、冬枝さん」と言った。

「『こまち』の新しいテレビ、買いに行きませんか」

「あ?何だよ、藪から棒に」

「夏休みになったら、お客さんも増えるでしょう?それなのに、テレビが緑色のままっていうのは、どうかと思いますよ」

 故障なのか、電波が悪いのか、『こまち』のテレビ画面は全面、緑色に映る。色がおかしいだけで見るのには問題ないからと冬枝は放置しているようだが、常連客の嵐をはじめ、朽木までもが、あの緑色のテレビに苦言を呈していた。

「ああ?朽木の野郎、『こまち』に来てんのかよ。何しに来るんだ、あいつ」

 うちはキャバレーじゃねえぞ、と毒づいてから、冬枝はハッとした。

 ――朽木の奴、わざわざ『こまち』まで、さやかに会いに来てんのか。

 先日、鴉組との闘いで着ていた水色のワンピースも、朽木からもらったものだとさやかは言っていた。さやかと朽木は、着実に仲を深めているのではないか、と冬枝は疑った。

 ――あの野郎、コソコソ人の目を盗んで逢い引きみたいな真似しやがって。今度会ったら、とっちめてやる。

 拳をブンブン振り回す冬枝に首を傾げながら、さやかは「だって、『こまち』は源さんから譲ってもらったお店なんでしょう?」と言った。

「源さん、そんなことまでお前に話したのか」

「僕、なんだか嬉しいです。冬枝さんが昔から知っているお店で、冬枝さんと会うことができて」

「何だそりゃ」

 さやかは、冬枝の歴史の一端に触れられただけでもこんなに嬉しい。照れ臭そうに笑う冬枝に、さやかの気持ちは伝わるだろうか。

「源さんのためにも、『こまち』は大事にしなきゃいけません。お金なら僕が出しますから、新しくテレビを買いましょう」

「よせよ。お前に金なんか出させたら、また源さんにどやされる」

 冬枝はふと、さやかが手にしている買い物袋に目を留めた。駅前のデパートビルのロゴが入っている。

「なんか買ったのか」

「ああ、これ……」

 さやかは袋を持ち上げると、はにかむように顔を隠した。

「水着です。今度、海に行ったら着ようと思って」



 その晩、冬枝はバー『せせらぎ』に寄った。

「さやかの奴、どんな水着買ったと思います?」

 何杯目かのウィスキーグラスを傾けながら、冬枝は上機嫌を隠そうともしなかった。

 ――あいつ、今からあんなに海行くの楽しみにしやがって。

 水着の入った袋を持ってもじもじしていたさやかは、明らかに冬枝を意識していた。さやかの前では「気が早い奴だな」なんてクールぶってみたが、内心、冬枝は有頂天だった。

 ――親分たちとのつまんねえ旅行にも、いっこだけ楽しみができたな。

 さやかは、どんな水着を買ったかまでは教えてくれなかった。海に行ってのお楽しみ、ということだろう。

 カウンターに立つ源は、すっかり浮かれ切った弟分をひたと見据えた。

「当ててみろ」

「ん?なんか、さやかがどんな水着か知ってるみたいな口ぶりですね」

「知ってるも何も、俺が買ってやった」

 途端、冬枝のたるんだ表情筋がピキッと引きつった。

「な……なんですって?」

「さやかが水着買いに行くって言うから、ついて行ったんだ。お陰で、極楽気分だった」

 しまった、と冬枝は唇を噛んだ。

 朽木などよりも、源に警戒すべきだった。女への手の速さでは、この兄貴分に勝る者はいないのだ。

「あんた、覗いたんじゃないでしょうね」

「まさか。ただ、いいものを見せてもらった」

 水着代とカフェ代じゃ足りないぐらいだった、と源は感嘆した。

「あんたね、勘違いしないでくださいよ。さやかは男慣れしてないからすぐポーッとなるだけで、あんたみたいなオジサン、本当は相手になんかしないんですからね」

「ひがむなよ。先を越されたからって」

「ひがみなんかしませんよ。あんな、どっちが胸でどっちが背中だか分からねえような女の水着なんか、どーだっていいですから、俺は」

「その言葉、さやかが聞いたら心底傷付くだろうな」

 この通り、20年も冬枝の兄貴だった男は、拳だけでなく口で冬枝を黙らせるのもお手の物だった。

 冬枝は、沈黙のつなぎにタバコに火をつけた。

「…なんなんですか、さやかにちょっかいかけたりして。女に困ってないでしょう、源さんなら」

「お前こそ、さやかをどうするつもりだ」

「どうって?」

「俺が譲ってやったマンションで、一緒に暮らしてるんだろ?」

「そうですけど」

 寝室は別々ですよ、と冬枝は補足した。

 源は、真顔できっぱりと断言した。

「さやかはお前に惚れている」

「ブフッ!」

 話の唐突な成り行きに、冬枝はウィスキーを噴き出した。

「な、何言ってんですか、あんたは」

「とぼけるな。さやかからあれだけ露骨にキラキラした目を向けられて、知らないとは言わせねえぞ。人生の大半を、女をたぶらかすことに費やしてきた癖に」

「あんたに言われたくないですよ」

 冬枝は一拍置いてから「…まぁ、知らねえとは言いませんけど」とぼそっと呟いた。

 さやかの一途な瞳に、ひたむきな姿勢に――自分への好意が溢れんばかりに滲んでいるのを、見抜けないほど冬枝は初心ではなかった。

「だったら、なんでとっとと抱いてやらねえんだ」

「あんたと一緒にしないでください!さやかはまだ18なんですよ?二回りも年下の女と、どうしろって言うんですか」

 さやかは女というより娘みたいなものだ、と冬枝は力説した。

「娘、ねえ」

「そうです。さやかだって、俺のことはその…親父みたいな感じで慕ってくれてるだけですよ」

 そもそもあの麻雀バカに、恋と思慕の区別がついているのかも疑わしい。だからこそ、冬枝だって親心で、さやかに朽木だの源だの、悪い虫が寄り付くのを許せないのだ。

 半ば自分に言い聞かせているような冬枝を、源はじっと見つめた。

「じゃあ、さやかが俺の女になっても構わないな」

「自分の歳、忘れたんですか?俺がさやかの親父なら、あんたはおじいちゃんですよ」

「それは言い過ぎだ」

 源は、手にしていたアイスピックの柄で冬枝の頭をコンと小突いた。

「いってえ!」

「せっかく海に行くんだったら、水着だけじゃなくて中身も堪能してやれ」

 源は「でないと、さやかを鈴子に取られるぞ」と言った。

「誰ですか、鈴子って」

 そういや、嵐のかみさんがそんな名前だったような…と、冬枝の脳裏にぼんやりと記憶が明滅した。

「それとも、さやかが自分から誘ってくるまで焦らしてるのか。変態だな」

「だから、俺をあんたと同じにしないでくださいって!俺とさやかは至って健全ですから。色気のいの字もありゃしません」

「ふーん」

 源は本気にしていないようだったが、冬枝は無視してウィスキーを呷った。

 ――さやかの奴、まだ起きてっかな。

 きっと、こんなところで自分が噂されているなんて知らないだろう。麻雀ノートにびっしり今日の対局について書き込みながら、くしゃみでもしているかもしれない。

 熱気を孕んだ夜の空気は、少しずつ、確実に季節を真夏へと押し進めていた。

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